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2018年6月 6日 (水)

平城宮跡

 2018/5/26(土)~28(月)、2泊3日の奈良・大和路探訪の旅。

 《大和は国のまほろば、史跡が点在する奈良大和路をめぐり、古代の歴史・文化を学ぶ》

 2日目の27日(日)は、平城宮跡(奈良市)、法隆寺(斑鳩町)、山の辺の道(桜井市)を回る。本ブロク記事「春日大社と興福寺」のつづき。

 

 5:30起床、朝の散歩は奈良公園、興福寺。7:00~朝食。 この日のスケジュールがタイトなので、チェックアウトを早めに済ませて7:50出発。「奈良白鹿荘」からオリックスレンタカー近鉄駅前店(奈良市高天町)まで約500m、徒歩で10分ほど。8:20レンタカー店を日産シルフィ―を借りて出発。

 8:35、「平城宮跡資料館」の駐車場(無料)着。NPO法人「なら・観光ボランティアガイドの会」で前日もお世話になった観光ガイドのTさんと待ち合わせ。

 「平城宮跡」は710年、藤原京(現在の橿原市)より奈良盆地の北端に遷都された平城京(奈良市)の宮跡。唐の長安をモデルに南北5Km、東西約6Kmの都が建設された。1998年(平成10年)、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産に登録された。

 下のマップは、奈良文化財研究所のパンフ「平城宮跡ガイド」から転載。(クリックすると拡大表示します。)

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 平城京の北端中央に、政治の中心となる「平城宮」が造られた。政治・儀式の場である「大極殿(だいごくでん)」と「朝堂院(ちょうどういん)」、天皇の住まいである「内裏(だいり)」、宴会を行う庭園、都を治める役所が並んでいた。

 「平城宮」は、約1 km四方の大きさで、周りには大垣がめぐらされ、朱雀門をはじめ12の門が置かれた。中に入ることができたのは、皇族・貴族、役人や使用人など、ごく限られた人々だった。

 「平城宮跡」は、文化庁所管の独立行政法人・国立文化財保護機構の「奈良文化財研究所」が1959年(昭和34年)から発掘調査を続けている。その成果を分かり易く解説する施設として、2010年(平成22年)に「平城宮跡資料館」がリニューアルオープンした。



 9:00、「平城宮跡資料館」開館に合わせて入館(無料)。

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 官衙(かんが=役所のこと)復元展示コーナーにある大極殿(奥の建物)と周囲を回廊で囲まれた「大極殿院」。

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 平城宮で働く人々、役人と武士についてのパネルと展示物。

 手前は役人のベルトと金具、役所名の入った土器。中央に、右から硯(すずり)と水差し、木簡。左端は、鍵(海老錠)。

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 左端は、武士の盾と矢。

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 宮殿復元展示コーナーでは、天皇や皇族が暮らしていた宮殿の内部を再現。

 寝室のベッド(中央)。

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 書斎(左)と居間(右、囲碁が置いてある)。

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 食卓。古代の貴族が食べてた食材は、現代人も食べているようなもの。

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 遺物展示コーナーでは、発掘調査の出土品を展示。

 出土した土器など。

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 瓦などの出土品。

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 「平城宮跡資料館」を出て、東に400mほど先にある「第一次大極殿」に歩いて向かう。

 平城京遷都1,300年の年の2010年(平成22年)、「第一次大極殿」が復原された。入館無料。

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 1階の大きなガラス部分は、当時では吹き抜けになっていたらしい。間口44m、奥行20m、屋根の高さ27mで、平城宮で最大の建物だったそうだ。

 奈良時代75年の間で、聖武天皇は740年から745年までに、恭仁(くに)京、難波(なにわ)京などへ都を移した。その前後で平城京の宮殿や役所は大きく造りかえられたという。

 復元された「第一次大極殿」は、奈良時代前半のもので、聖武天皇は745年に都を再び平城京に戻し、東の内裏の南側に新しい大極殿を造った。これを「第二次大極殿」と呼ぶそうだ。「第二次大極殿」の建物は復元されていないが、基壇や礎石が復元されているそうだ。

 大極殿の内部に展示されていた屋根の「鴟尾(しび)」の模型。

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 鴟尾は、瓦葺屋根の大棟の両端につけられる飾り。東大寺大仏殿にもあって、寺院・仏殿などによく用いられる。鯱(しゃちほこ)とは異なる。

 天皇が着座する玉座(ぎょくざ)の「高御座(たかみくら)」。

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 文献・史料を参考にして製作されたという。天皇の即位の儀式や元日の朝賀に使われたそうだ。

 2階に上がる。木材の加工・組み立てについての展示。古代の方式で加工・組み立てられた。

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 天井の装飾。

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 飾り金具の加工プロセスの展示。古代の方式で金属加工がされた。

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 大極殿の2階から、平城宮跡全体の見晴らしが良い。

 大極殿から、遠くに東大寺大仏殿、興福寺五重塔、若草山、春日山、奈良の大文字焼きが行われる高円山(たかやどやま)を展望。(写真では、霞んでいてうまく撮れず。)

 右下の「東大寺大仏殿」の屋根と後ろの芝生の山は「若草山」。

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 中央に「興福寺五重塔」。

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 「第一次大極殿」の南側は、儀式の時に貴族が整列した広場。「朱雀門」は、ここから800m先に真南にあり、歩いて行く時間もないので「大極殿」から見るだけにする。

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 「朱雀門」のズームアップ。1998年(平成10年)に復元された。

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 当時は、「朱雀門」からは平城京の入口となる「羅生門」まで、「朱雀大路」と呼ばれる幅74mのメインストリートが3.7Kmも真っ直ぐに続いていた。

 平城宮跡にはそのほかに、「東院庭園」が1998年(平成10年)の復元された。ここは、皇太子の宮殿があった「東院」(=東宮)に造られた庭園。皇族の儀式や宴会が行われた。

 また、多数の出土品や発掘した遺構を公開している「遺構展示館」がある。いずれも入場無料だが、時間の都合で見学は割愛。

 

 10:10、「平城宮跡」を出発。次は斑鳩町の「法隆寺」に車で向かう。

 次は、本ブロク記事「法隆寺」につづく。

 

 ★ ★ ★

●朱雀門ひろば

 特別史跡「平城宮跡」の国有地は、一部周辺区域を含めて「国営平城宮跡歴史公園」として平成20年度(2008年度)に事業化され、2018年3月には公園正面に観光拠点ゾーンとして「朱雀門ひろば」がオープンした。

 国土交通省国営飛鳥歴史公園事務所「平城宮跡歴史公園」のホームページから転載。

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 「朱雀門ひろば」には、交通ターミナル、レストランやショップ、サイクリングなどのレジャー施設、イベント会場、平城宮跡の紹介や県内の物産・観光情報の施設などがあるそうだ。今後は、平城宮跡全体を国営公園として公園基本計画に基づき保存・整備していくという。管轄は国道交通省。

 近鉄奈良駅方面から「平城宮跡資料館」に向かう阪奈道路(大宮通り、国道369号線)から、池に浮かんだ遣唐使船(復元)が目に留まったが、これが「朱雀門ひろば」だった。

●棚田嘉十郎(たなだ かじゅうろう)

 明治・大正の時代、私財を投げ打って平城宮跡の保存活動を行った「棚田嘉十郎像」が「朱雀門ひろば」の「天平いざない館」の前に立っているそうだ。右手は大極殿に向かって指さし、左手に出土した瓦を持っているという。

 江戸時代後期、幕府の役人・北浦定政の調査で研究が始まった平城宮は、1897年(明治30年)奈良県技官で東京大学名誉教授・関野貞、同じく奈良県技官の塚本慶爾らによって発見された。しかし平城宮跡は長年放置されていたため荒れ果てたり、田畑が広がったりしていて、かつての首都は見る影もなかった。

 棚田嘉十郎(1860−1921)は、大和奈良町の植木職人で、奈良公園の植栽を手がけていた。しばしば観光客に「平城宮跡」の場所を尋ねられたが、棚田は場所を知らず答えることができなかった。これを奈良人として恥と思った棚田は、1900年(明治33年)宮跡の土地を農民から買い取るなどして、保存運動を始める。自宅を売却し貧窮の中、様々な人達の協力を得ながら、資金集めに東西奔走する。宮跡の保存と顕彰に一生をかける。

Photo

 写真の出典:ウィメディアコモンズ(1936年9月17日読売新聞朝刊)

 そして1912年(明治45年)国鉄奈良駅前に道程を示す大石標を建てる。1913年(大正2年)発起人として「平城宮大極殿跡保存会」を発足させた。1921年(大正10年)、トラブルに巻き込まれ死去、62歳だった。信頼していた仲間に裏切られ、責任を負って割腹自殺をしたとされる。

 棚田嘉十郎のことは、「平城宮跡資料館」のパネルで紹介されていた。あとで詳しく調べてみると、宮跡の裏にはこういう立派な先覚者がいたことを知って感銘を受け、改めて敬意を重ねた。

 棚田が死後、彼の仲間たちによって運動は続けられ、平城宮跡地は国に献上され、1922年(大正11年)に内務省によって第二次大極殿・朝堂院が史跡に指定された。

●整備計画 

 もう40年以上前のことだったが、近鉄奈良線の車窓から「平城宮跡」を眺めた時、単なるだだっ広い草原だったようだった。ピクニックなどに利用されていたと聞く。

 文化庁による「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想」に基づき、遺跡の整備・建造物の復元が進められている。費用は全額国費で行われている。既に「第一次大極殿」、「朱雀門」、宮内省地区、「東院庭園」地区などの復元が完了している。

 また、国営公園化が決定しており国土交通省主管で、敷地内を横切る近鉄奈良線と県道104号谷田奈良線(一条大路)の移設や住民の立ち退きが検討されている。整備計画区域内の「朱雀門」南西側には、かつて積水化学の奈良工場があった。2014年(平成26年)中に工場は大和郡山市へ移転し、跡地は交通ターミナルになっている。文化庁の発掘作業もまだ全体の3、4割程度だそうだ。国土交通省は、この宮跡を国営公園として数十年をかけて整備していくという。

 しかしこの歴史的文化財を保護・保全していくために、何故国土交通省なのだろうか。文化庁を中心として、発掘作業や調査研究ををさらに進め、平城宮の全体像を明らかにすることが先決ではないだろうか。当時設計図もない時代の建物を、推定や想像で復元していくことは、歴史をゆがめるというリスクもある。遺跡をテーマパークや観光施設のようにして良いのだろうか。疑問がいくつか湧いてくる。

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