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2018年6月の10件の投稿

2018年6月28日 (木)

映画「空飛ぶタイヤ」

 2018年6月20日(金)、映画『空飛ぶタイヤ』を観る。
 

 『空飛ぶタイヤ』は、三菱自動車の「リコール(欠陥製品の回収・無償修理)隠し」事件をモデルとした池井戸潤のベストセラー小説。

 TOKIOの長瀬智也の主演で、12年前の小説を映画化。2018年6月15日に公開。池井戸にとっては、初の映画化作品。

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 小説は、『月刊J-novel』(実業之日本社)に2005年4月号から2006年9月号まで連載。実業之日本社より2006年9月に単行本、2008年8月に新書版が刊行された。第28回吉川英治文学新人賞、第136回直木賞候補作。

 2009年9月に講談社文庫版(上下巻、写真下)、2016年1月実業之日本社の文庫版が刊行。累計発行部数は、180万部。

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 2009年には、WOWOWの『ドラマW』でTVドラマ化されたという。

 なお池井戸潤は、2011年に『下町ロケット』で第145回直木賞を受賞している。

 配役は、「赤松運送」の社長・赤松:長瀬智也、専務:笹野高史、赤松の妻:深田恭子。「ホープ自動車」の狩野常務:岸田一徳、販売部の沢田課長:ディーン・フジオカ。「ホープ銀行」本店営業本部の井崎融資担当:高橋一生。週刊誌の榎本記者:小池栄子。神奈川県警の高幡刑事:寺脇康文、ほか豪華キャストが多数。

 

 ある日、トラックの事故により1人の主婦が亡くなった。事故を起こした運送会社の二代目社長・赤松徳郎(長瀬智也)が警察から聞かされたのは、走行中のトラックが緩いカーブにさしかかった時、突然タイヤが脱落して空を飛んで歩行者を直撃、即死させたという信じられない事実だった。事故原因を一方的に整備不良にされ、「容疑者」と決め付けられた赤松は、警察から執拗な追及を受ける。さらには会社も信用を失い、倒産寸前の状態に追い込まれてしまう。

 世間のバッシングを受け、次々と退職者が出る中、赤松はトラック製造元である「ホープ自動車」に再調査の要求を続ける。しかし、のらりくらりとした対応に苛立った赤松は、自ら調査を開始する。

 顧客の再調査要求を拒み続けていた「ホープ自動車」販売部顧客窓口の沢田課長(ディーン・フジオカ)は、社内の秘密会議の存在を知り、動き出す。またグループ会社「ホープ銀行」の井崎融資担当(高橋一生)は、グループ内でも信用できない会社には融資できないとし、旧知の週刊誌記者(小池栄子)からトラック事故の情報を得る。

 そして赤松は、その週刊誌記者の協力もあって、事故原因は整備不良ではなく事故を起こした車両の構造自体に欠陥があったのではないかと気づく。

 中小企業の運送会社が、泣き寝入りをせずに、正義の旗を掲げて戦う社長は、小説だけどすごい。一方、「ホープ自動車」や「ホープ銀行」の大企業内部にも、小さな正義を社内で伝え広げて行く姿に、観客の心は救われる。

 無実を信じる赤松は、家族や社員たち、被害者の家族のために、トラックの製造元である巨大企業に潜む闇に戦いを挑む。そこで赤松は、大企業による「リコール隠し」という社会に対する重大な罪を知ることとなる。

 赤松運送の倒産ギリギリで、ホープ自動車に警察の家宅捜査が入る最後のシーンは、痛快であり感動する。

 監督は、『超高速!参勤交代』シリーズの本木克英。

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  「信州・佐久と軽井沢の旅」 2018年6月24日投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-f7cd.html

 

 ★ ★ ★

 

 実際のタイヤ脱落母子死傷事故は、2002年1月、横浜市瀬谷区で三菱製大型トラックの140kgものタイヤが脱落、ベビーカーを押して歩道を歩いていた母親と子どもを直撃。母親(当時29歳)が死亡するという痛ましい事故だった。ベビーカーにいた二男(1歳)と手を引いていた長男(4歳)は軽傷だった。

 三菱自動車はタイヤが外れた原因を整備不良と主張、運送会社は「人殺し」の中傷ビラを家の壁に貼られ、無言電話の嫌がらせなど、犯罪者の汚名を着せられた。最後は経営が立ち行かなくなり、小説・映画の「赤松運送」とは異なり、廃業に追い込まれたと聞く。

 また2002年10月にも山口県でクラッチ系統の破損でブレーキが利かなくなった冷蔵車が暴走し大破、運転手が死亡する事故があった。これも三菱側は、トラック運転手側の整備不良だと主張した。

 同社は、重大欠陥を隠ぺいするという不祥事を2000年にも起こしている。社員の内部告発によって、リコールにつながるような不具合を20年にわたって隠し続けていたことが明らかになったのだ。本社や岡崎工場などに、運輸省立ち入り検査や警察の家宅捜査が行われた。最終的には、宇佐美元副社長らと法人としての三菱自動車は、道路運送車両法違反の罪で略式起訴されている。河添社長は、引責辞任した。

 同社は再発防止策を発表、これ以上の不祥事には終止符が打たれるかに思えた。しかしこの時の調査対象を過去2年間としたため、それ以前の欠陥問題に手が付けられることは無かった。そして、この事件で三菱の販売台数が激減、経営不振に陥るが三菱グループ会社各社により救済された。2003年1月、三菱自動車工業(株)は分社して、大型車(トラックとバス)部門を三菱ふそうトラック・バス(株)に事業を移管している。

 2003年10月、母子死傷事故で神奈川県警が、業務上過失致死傷容疑で三菱自動車本社などを家宅捜査。2004年1月にも再捜査が行われた。2004年3月、2000年のリコール発表を上回る「リコール隠し」が発覚したのだった。横浜でタイヤが外れた原因を、一転して設計上のミスによる強度不足を認め、国土交通省にリコールを届け出た。母子死傷事故以前にも39件もの同じ原因の事故があったという。

 同年4月、筆頭株主のダイムラー・クライスラーが財政支援の打ち切りを発表。5月、横浜区検と横浜地検は、三菱ふそうの宇佐美前会長ら幹部5人と法人としての三菱自動車を起訴した。前会長らを被告とする道路運送車両法違反(虚偽報告)、業務上過失致死傷事件の刑事裁判が始まったが、遺族へ謝罪しつつ裁判では「無罪」を主張。遺族の怒りはおさまらない。

 また山口県でクラッチ系統の欠陥によって運転手の死亡事故について、2004年7月河添元社長は元役員3人とともに業務上過失致死罪で逮捕・起訴された。

 

 濡れ衣は晴れたものの、実際の運送会社社長と従業員、その家族が過ごした2年間の苦しみは、いかばかりだったのであろうか。そして、最終的には三菱が罪を問われたものの、被害者の遺族にとっては死亡事故の割には「罪が軽すぎる」(執行猶予付きの禁固刑)と無念の思いだったそうだ。主婦の母親が、同社と国を相手に損害賠償訴訟を起こしたが、2007年9月同社に550万円の支払いを命じる判決が最高裁で確定している。

 現実の事件では、罪を押し付けられた会社や大切な家族を失った遺族にとっては、いたたまれない、悲しい結末であったことを、決して忘れてはならない。

 2016年4月、軽自動車の共同開発先の日産自動車の指摘により、三菱自動車は燃費データを改ざんしていた事実が明らかになった。こういった同社の懲りない体質は、古くからの根深い組織的問題だと筆者も感じていたが、これから誠実な会社に変われるのであろうか。

2018年6月24日 (日)

信州・佐久と軽井沢の旅

 2018年6月20日(水)~21日(木)、信州の佐久と軽井沢をめぐる一泊旅行。

 6月20日(水) 朝から終日雨。9:30、駅前を出発。車2台に参加者9人が分乗。

 関越道、上信越道を走り、佐久平インターで降りる。 
 

●信州蕎麦の「佐久の草笛」(佐久市佐久平駅東) 11:50~12:50

 平日だが昼時は混み合っていて、席が空くまでしばらく待たされる。

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 野菜天ぷらざる蕎麦(並400g 1,100円)を注文。
 
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 隣の席の客で、中盛り(700g、400円増)を注文した人がいたので写真を撮らせてもらう。

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 大盛りは、1.2Kg、610円増。この日、この店で大盛を注文した客は、1人だけだという。 信州の蕎麦屋は、並でも関東の大盛くらいのボリュウムがある所が多い。ちなみに、小盛は80円引き。

 

●総合アミューズメント施設「アム・アム・ビレッジ」(佐久市長土呂) 13:10~16:00

 施設内には映画館(8スクリーン1037席)をはじめ、ゲームセンター、カラオケボックス、パチンコ・スロット、レストランなどがある。

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 13:50~16:00、施設内の「佐久アムシネマ」で上映中の『空飛ぶタイヤ』を観賞。池井戸潤の三菱自動車のリコール隠しを題材とした小説の映画化。TOKIOの長瀬智也が主演。

 後日、この映画についてのブログ記事を公開する。 

 県道44号を西へ、百沢東交差点から国道142号を900mほど走り、右折して県道151号、望月トンネルを抜けてひたすら南下。 
 

●春日温泉「かすがの森」(佐久市春日) 16:45着。

 春日温泉は、蓼科山(標高2531m)の北麓に位置する。自然の中で体育館、温泉プール、バーベキューハウス、テニスコート、ゲートボール場などが併設されていて、スポーツ合宿や研修会などにも利用されている宿泊施設。
 
 春日温泉は、開湯三百年以上の歴史を誇る源泉掛け流しの天然温泉。他県ではあまり知られていない温泉だが、古くから湯治湯として親しまれてきたそうだ。アルカリ性単純温泉で、無色無臭で少しヌルヌルした感じ。特に肌荒れの防止や改善に効果があり「美肌の湯」として好評だという。

 写真は、「かすがの森」のホームページから引用。

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 入浴後、18:30~20:00夕食(宴会場)。

 疲れのせいか22:00頃には就寝。参加者の大多数は、TVでワールドカップ(ボルトガル×モロッコ)を23:30くらいまで見ていたらしい。

 6月21日(木) 曇り。7:00頃起床、7:30頃~朝食。8:50、宿を出発。

 県道151号線を戻り、国道142号線を南東へ。跡部交差点で左折し国道141号、石上南で右折し県道139号線へ。やがて県道139号線沿いの左手に「旧中込学校」。
 

●旧中込学校(佐久市中込) 9:30~10:20

 1875年(明治8年)建築の校舎。国内の学校建築のうち、現存する最古級の擬洋風建築物。1969年(昭和44年)に国の重要文化財と国史跡に指定された。入場料:大人250円。

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 明治期、初等教育に力を注いだ長野県は、「教育県」と言われていた。その中で最初に建てられた本格的校舎が「中込学校」だった。建築設計したのは、地元出身でアメリカに渡り建築学を学んだ市川代治郎。建築費用のほとんどは、村内篤志の寄附によって賄われたもので、地元の人々の教育に対する情熱がうかがえる。

 中央の八角塔には、天井から太鼓を吊られ、時を告げていたので村人たちはいつしか「太鼓楼」と呼ぶようになった。また窓に当時は珍しいステンドグラスを使用していたことから、「ギヤマン学校」とも言われていたそうだ。

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 大正になってこの学校も手狭になり、大正8年に新校舎が建築、その後中込町役場、中込町公民館、中込支館、佐久市役所分室、佐久市開発公社と再利用されてきた。

 当時の資料が展示され、当時の子どもたちの勉強風景が想い浮かぶ。

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 今でも演奏できるオルガン。

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 理科の教科書。漢字が多くて、こんな難しいものをよく勉強していたものだ。

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 理科の掛図にカイコが取り上げているのは、当時の時代らしい。

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 同じ敷地にある併設の「旧中込学校資料館」に入館。教育関係の資料や歴代校長の肖像画が並ぶ。

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 全国の洋風学校のパネル写真などを展示。

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 何故か祭りの屋台も展示。

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 屋外には、小海線を走っていた蒸気機関車C56。後ろは、旧佐久鉄道(小海線の小海~小諸間)のガソリンカー・キホニハ56が展示。

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 10:20頃、「旧中込学校」を出発。県道139号線から国道141号線を北上する。長土呂東交差点をを左折して北上し、小諸市に入り国道141号と合流。更に国道18号と合流しながら、北西に進み東御市に入る。 
 

●海野宿(東御市本海野) 11:00~12:00

 海野宿入口交差点を左折、海野宿第一駐車場に車を駐める。

 「海野(うんの)宿」は、長野県東部の上田盆地南東部に位置する。南に千曲川が流れ、北東には浅間連峰、千曲川を挟んだ南西には八重原台地がある。

 このあたりは、平安・鎌倉時代には豪族・海野氏の領地として栄えた。江戸時代になって北国街道の宿場町として開かれた。

 駐車場の入口付近に、「海野氏発祥之郷」の石碑がある。

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 海野氏の氏神だった「白鳥神社」が、「海野宿」の東端にある。本殿の前のケヤキは、樹齢700年以上の御神木。

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 平家と戦う木曽義仲は、挙兵する際にこの白鳥神社前の白鳥河原(千曲川の川原)に兵を集結させたという。海野氏は、挙兵に際しその中核を担ったとされる。

 「海野宿」は、幅10m、長さ650mの旧北国街道(ほっこくかいどう)の両側に、現在も約100棟の歴史的な町並みを構成している。旅籠屋造り、蚕室造り、茅葺屋根など、当時使用された昔懐かしい建物が残る。街道の中央には、旅行者が足を洗ったり、馬に水を飲ませたりする用水が流れている。

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 1986年(昭和61年)、「北国街道 - 歴史かおる街・海野宿」として、「日本の道100選」 に選ばれた。

 「海野宿歴史民俗資料館」は、江戸時代は旅篭屋、明治になって養蚕農家として利用された。入館せず(入館料200円)。

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 旅籠屋には、1階より2階を広くするため梁が張り出している出梁(だしばり)造りが多い。また格子のある家が目立つが、左手2階(上の写真)のように長短2本ずつ交互に組み込まれた「海野格子」の模様は美しい。

 下の写真の手前の建物も、出梁(だしばり)造り。その先に、1階の屋根に隣家との防火壁「卯建(うだつ)」が並ぶ。

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 北国街道は、現国道18号旧道。信濃の追分(軽井沢)で中仙道と別れ、善光寺(長野)、越後を結ぶ。

 もと来た国道18号線を戻り、小諸市からそのまま18号を東進し、軽井沢へ。
 

●信州牛のステーキ「古民家 盛盛亭」(軽井沢町追分) 12:40~13:45
 
 昼食のため、国道18号線沿いのA5ランクのステーキ・ハンバーグ専門店に入店。

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 メニューには、ステーキ定食「シンタマ」 140g 2,980円、170g 3,500円、200g 3,980円。本日のA5サービス「ヒウチ」 140g 3,980円、170g 4,580円、200g 4,980円。

 いずれも、サラダ、御飯、味噌汁、御新香付き。箸で食べる高級な和風ステーキ。

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 「シンタマ」は赤身が多く、「ヒウチ」が霜降りが多いそうだ。たまには贅沢に「シンタマ」170gを食する。肉は柔らかくて、脂身が少なくて美味しい。

 

●追分宿(軽井沢町追分) 13:50~14:15

 腹ごなしに、「盛盛亭」駐車場から歩いて中山道の「追分宿」(軽井沢町追分)を散策。

 「盛盛亭」からおよそ360mほど国道18号を西に行くと、中山道と北国街道の分岐点・追分の「分去れ(わかれされ)」の道標(みちしるべ)」。

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 一番手前に小さな道祖神(写真なし)。次の石塔には、正面に「東 二世安楽 追分町」の文字。右側面は見えないが「従是北国街道」、左側面には「従是中山道」。江戸から来た場合、左は京都や近畿へ向かう中山道、右は越後方面の北国街道。二世(にせ)安楽は、仏の慈悲によって二世にわたって安楽を得るという意味。東の方向には、追分宿がある。

 石塔の後ろは「森羅亭万象の歌碑」。「世の中は ありのままにぞ霰(あられ)ふるかしましとだに 心とめぬれば」と刻まれている(写真下)。森羅亭万象は、江戸時代中期の平賀源内の門人だそうだ。歌の意味は、不明。

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 その隣に手水鉢のような形の道標石(写真なし)がある。正面には「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿」という風流な道案内の歌が刻まれている。他の三面にはここから、各地への里程が示されている。

 歌は、江戸から来て右へ行けば、「田毎の月」で知られた更科(姥捨山)へ。左に進めば、木曽路から東海道を通り、桜(花)の名所・吉野(=御吉野、奈良の吉野)へと道が続いているという意味。
 
 その後ろには、大きな石灯籠(常夜灯)が立っている。寛政元年(1789)に建立、台石には「町内安全」、「是より左伊勢」など。

 そのほか、「分去れ」のエリアにはいくつかの石仏が建つ。

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 更に100mほど先に進むと、「追分宿」(出典:ウィキメディア・コモンズ)。

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 200mほど宿場を歩くと、曹洞宗 浅間山「泉洞寺」の入口。

 「泉洞寺」本堂裏の墓地に回ると、地元の人に「歯痛地蔵」と呼ばれる石仏がある。

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 この地蔵は、作家・堀辰雄の小説『樹下』の一節に描かれ、氏が愛した石仏ということで有名だそうだ。 堀辰雄を慕って追分を訪れた文人も多い。その中の詩人・立原道造の詩集『田舎歌』の「村ぐらし」の一節にもこの地蔵が詠まれているという。

 立て膝に頬づえして思索にふける姿が、歯痛をこらえる姿に見える。この石仏を拝むと、歯痛が治るらしい。こういう姿をした仏像は半跏思惟像(はんかしゆいぞう)と言って、全国には他にもいくつもあるようだ。

 堀辰雄(1904-1953)は、小説家。肺結核を病み、軽井沢で療養、執筆することもあり、そこを舞台にした作品を多く残した。後に軽井沢追分に移り住む。戦争末期からは症状が悪化、闘病生活を送ったが48歳で死去した。代表作『風立ちぬ』は、宮崎駿のアニメ映画の着想元となったことでも有名。

 「泉洞寺」の立派な本堂。

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 本堂の前には、現代風の地蔵がたくさん立っている。

 左は、ストーンに乗ってブラシを持つカーリング地蔵。右は、ラケットを持った卓球地蔵。

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 そのほか、アニメ顔の珍しい地蔵が並ぶ。

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 なんのために、こんな面白い地蔵が置いてあるのか分からない。
 
 「泉洞寺」を出て、街道を挟んだ向かい側に「追分公民館」がある。塀に埋め込まれている立原道造の詩碑がある。

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 立原道造(1914-1939)は、昭和初期に活動し24歳で結核のため急逝した詩人、建築家。1934年(昭和9年)東京帝大入学の年、初めて軽井沢を訪れ、堀辰雄と会っている。

 詩碑は、「 夏の旅  村はづれの歌

  咲いてゐるのは みやこぐさ と
  指に摘んで 光にすかして教へてくれた ──
  右は越後へ行く北の道
  左は木曾へ行く中仙道
  私たちはきれいな雨あがりの夕方に ぼんやり空を眺めて佇んでゐた
  さうして 夕やけを脊にしてまっすぐと行けば 私のみすぼらしい故里の町
  馬頭観世音の叢に 私たちは生れてはじめて言葉をなくして立ってゐた 」

 すぐ近くの追分「分去れ」を詠んでいる。右は越後への北国街道、左は木曽への中山道。夕やけを背に中山道を真っ直ぐ東へ行けば、みすぼらしい故里の町(東京)へ向かうことになる。馬頭観音は現在、近くの「追分宿郷土館」の前に移されているという。

 この先に「堀辰雄文学記念館」があるが、来た道を引き返し「盛盛亭」の駐車場に戻る。

 14:30、駐車場を出発。国道18号を東進。

 

●スーパーマーケット「ツルヤ軽井沢店」(軽井沢町長倉) 14:40~15:10

 「ツルヤ」は、長野県一帯に展開する食品スーパーマーケット。ツルヤ軽井沢店は中軽井沢の辺り、国道18号線沿いにある。
 
 ミカド珈琲のモカソフトクリーム(350円)、高原花豆大粒甘納豆(1,370円)、信州ふじりんごゼリー(323円)の買い物。

 

 南軽井沢交差点を右折、碓氷軽井沢インターから上信越道を東京方面、帰路へ。

 16:05~16:35、上里SAで休憩。渋滞に遭うこともなく、17:30自宅着。

 

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 「海野宿」は、6町(約 650 m)にわたり町並みが続き、本陣1軒と脇本陣2軒が設置されていた。佐渡の金の江戸への輸送、北陸諸大名の参勤交代、長野・善光寺への参拝客なども多く、賑わいがあった。明治・大正時代には鉄道の発達により、宿場町の利用客が減ったため、養蚕の町として発展したという。

 「日本の道100選」と「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されたことを切っ掛けに、1989年(平成元年)から道路の整備、用水路の改修、植栽の整備、電柱の撤去など景観造りの事業が取り組まれた。

 江戸時代に「海野宿」として栄えたこの地は、戦国時代には真田氏の発祥地だともされている。もともと真田氏は、この地を治めていた海野氏の出身。真田昌幸の父で、武田信玄に使えた真田幸隆は、海野氏の子供とされている。

 海野氏は ここ旧東部町(現・東御市)を中心とした海野郷を本拠地とした豪族。禰津(ねず=根津)氏と望月氏と共に、東信濃に基盤を築いた。平安中期に海野・禰津・望月の三氏は、国司として下向してきた中央の名門・滋野(しげの)氏と関係を結び、滋野三家として海野氏はその中心的存在であった。
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 平安末期1156年(保元元年)の政変「保元の乱」には源義朝の下で活躍、1181年(治承5年)木曽義仲の挙兵に際してはその中心となって奮闘。また政権が鎌倉に移ると、源頼朝や北條氏に仕えて重用され、時代を荒波を乗り切り、安泰を保った。
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 鎌倉幕府が滅亡した1331年(元弘元年)の「元弘の乱」以後の混乱の中、一族と共に北條氏の再興を図ったり、守護に反抗したり、ひたすら地盤を守る戦いをしたが、足利幕府が確立されるとその努力は報われず、苦難の道を歩む。
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 戦国時代には、信濃国内でも守護・小笠原氏が弱体化し、豪族間の争いが激化してきたた。1541年(天文10年)信濃侵略を企てた甲斐の武田氏は、村上氏と諏訪氏と連合して海野氏を攻撃した。「海野平の合戦」と呼ばれるこの戦いで、一族は降伏・敗走・戦死などが相次ぐ。信州屈指の勢力を誇った海野氏は、ここに滅亡した。なお一族の真田幸隆も上野国(群馬県)に敗走したが、後に武田氏に仕えその傘下として信濃攻略で活躍、真田氏発展の基礎を築いた。

 1583年(天正11年)には、真田氏は上田城の城下町造りのために海野から上田に人を呼び寄せたため集落が縮小され、その後江戸幕府により1625年(寛永2年)宿場町が開設された。
 

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 「真田の郷」 2017年9月17日 投稿
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 「紅葉の信濃路の旅」 2016年11月30日 投稿
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 ステーキ肉を、赤身か霜降り、値段の高い安いで選んだが、「シンタマ」とか「ヒウチ」とかは何のことか分からなかったので、後で調べてみた。

 「シンタマ」は、牛肉の部位の一つ外モモの隣り、内モモの下にある丸モモのこと。内モモ肉と似て赤身が多く、きめが細かく、柔らかでたんぱく質を多く含んでいる。他の部位に比べると脂肪が少ない。

 「ヒウチ」は、モモ肉の「シンタマ」の一部で、牛1頭から約2kgほどしかとれない大変貴重な部位。モモの部位としては最も霜降りのサシが入り、味わい深く、やわらかいそうだ。

 牛肉の格付けの「A5」とはどのようなものか。牛肉の格付けには、A、B、Cの歩留等級と、5~1までの肉質等級がある。

 牛肉の歩留等級は、牛1頭から取れる肉の割合を表す格付けで、A:部分肉歩留が標準より良い、B:部分肉歩留の標準、C:部分肉歩留が標準より劣るとしている。つまり牛の体重に比べて、肉となる部分の重いほど高い等級になる。

 次にもう一つの格付けは肉質。BMS(牛脂肪交雑基準)と呼ばれる指標で、赤身の肉にどれだけサシ(霜降り)が入っているかを、No.1(最低)~No.12(最高)の12段階に分類。それを、肉質等級1=BMSがNo.1、肉質等級2=BMS No.2、肉質等級3=BMS No.3~4、肉質等級4=BMS No.5~7、肉質等級5=BMS No.8~12というように、5段階に分類される。

 つまり、歩留等級(肉がたくさん取れるか)がAで、BMS(霜降り度合い)が最高レベルのNo.8~12であれば、A5ランクの牛肉ということになる。

 A5であれば、脂がのった霜降り肉であることは明らかだが、次の点に注意すべきという。

  ・A5ランクであっても、BMS(霜降りの度合い)の段階がNo.8~12まで5段階の幅がある。
  ・産地の指定はないので、ブランド牛とは関係ない。
  ・肉質等級は、人目で見た霜降り度合いなので、肉の味わいや柔らかさとは必ずしも一致しない。また赤みを好み、霜降りを嫌う人もいる。

2018年6月22日 (金)

吉見朝観音2018

 2018年6月18日(木)、今年も埼玉県吉見町の「吉見朝観音詣り」の早朝ウォーキングの会に参加。
 

 九州の南にあった台風6号は低気圧となって本州の南を進んでいて、曇っているが昼頃から雨の予報。

 古くから「吉見観音」として親しまれている坂東11番札所「安楽寺」(埼玉県比企郡吉見町)では、毎年この日に朝早くお詣りするとご利益があるという「厄除け朝観音」のご開帳。今年もこの御開帳に合わせ、恒例の早朝5時から往復8Kmのウォーキング。

 早朝5時、集合場所を出発。出発。朝もやの清々しい空気を吸いながら、「吉見百穴」(よしみひゃくあな)の前や田園の中を意気揚々と歩く。

 「吉見百穴」(よしみひゃくあな)は、古墳時代後期(6世紀-7世紀頃)の横穴墓群、国の史跡に指定されている。現在219基の横穴があるという。

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 朝もやの田園の中を歩く。

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 6時の打ち上げ花火の音が鳴ると同時に、「吉見観音」に到着。

 仁王門の石段を登る。

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 境内には名物の厄除け団子を売るテントの前に買い求める参拝客の行列が出来ている。参道には、大判焼き、焼きそば、お好み焼きなどの屋台も並ぶ。

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 本堂への石段を登る。

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 吉見朝観音に参拝。

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 本堂から境内と仁王門を見下ろす。テントの下では、厄除け団子が売られている。

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 もっともまだ暗い未明から参拝者で賑わっており、だいぶ日が昇ったこの時刻の頃はピークを過ぎているらしい。

 車で駆け付けた者を含めて今回、会の参加者は25人。参拝後、近くの空き地に集まり、朝食の弁当とお茶、お土産の厄除け団子が幹事から配られる。ブルーシートに座って朝食後の7時頃、参加者はまた来た道を歩いて帰る。

 行きは曇り空だったが、だんだん青空も出て来て、帰るころには日も射して来た。

 8時過ぎ家に帰ると、大阪北部で大地震のニュース。震度6弱で都市交通機能は終日大混乱。死者4人、負傷者数百人。ガス停止や断水は、どの程度復旧しているのだろうか、余震と大雨の不安は?・・・。
 

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2018年6月19日 (火)

橿原神宮と飛鳥の里

 2018/5/26(土)~28(月)、2泊3日の奈良・大和路探訪の旅。

 《大和は国のまほろば、史跡が点在する奈良大和路をめぐり、古代の歴史・文化を学ぶ》

 

 3日目の28日(月)は、伝説上の神武天皇を祀る「橿原神宮」(橿原市)と7世紀日本の中心だった「飛鳥の里」(明日香村)を回る。本ブロク記事「山の辺の道」のつづき。

 5月27日(日)、ダイワロイヤルホテル「THE KASHIWARA」(橿原市)に宿泊。28日(月)、6:30起床。7:00~8:10、朝食前に「橿原神宮」を散策。
 

●橿原神宮 (橿原市久米町)

 ホテルから地下道をくぐって近鉄橿原線を渡ると、徒歩1分ほどで橿原神宮前駅。

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 駅前のロータリーから真っ直ぐ「橿原神宮」へ大通りが伸びる。徒歩10分くらいでで第一鳥居。ここから広い参道を進み第二鳥居をくぐって、右へ折れると「南神門」。

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 『古事記』『日本書紀』において初代天皇とされている神武天皇と皇后を祀るため、神武天皇が即位した「橿原宮」があったとされる畝傍(うねび)山の東南麓、約50万㎡もの広大な神域に、1890年(明治23年)「橿原神宮」が建てられた。

 第一鳥居から5分で外拝殿。後方は畝傍山。

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 外拝殿から見る内拝殿。内拝殿の奥には、幣殿と本殿がある。外拝殿で参拝。

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 本殿は、1855年(安政2年)建立の京都御所賢所(かしこどころ、内侍所ともいう)を移設したもので、重要文化財だそうだ。

 ともかくこの神宮は、外拝殿前の広場や参道が広いのに驚く。左手は、外拝殿前から見る南神門。

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 奈良時代に造成された「深田池」。

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 8:15~朝食。この日は朝ゆっくりしたあと、9:15レンタカーでホテルを出発。

 「飛鳥の里」(現・明日香村)は7世紀、日本の政治・文化の中心だった「飛鳥京」があったところ。今は、のどかな農村。車で行けない道や駐車場のない所があって、サイクリングで回るのが定番のようだ。飛鳥駅前に「明日香レンタサイクル」(1日900円)がある。6年前はレンタサイクルでめぐったが、今回はレンタカー。

 国道169号線を南下。近鉄吉野線飛鳥駅前(ホテルから2.4Km)を通過し、10分ほどで高松塚古墳の南側すぐの所、細い道を進んで田園の中の小さな駐車場に車を駐める。

 

●高松塚古墳(明日香村)

 壁画で有名な「高松塚古墳」は、広大な「国営飛鳥歴史公園」の中にある。

 写真は、高松塚古墳の2012/11/1撮影のもの。

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 こじんまりした「高松塚壁画館」に、9:30入館。ここの入館料は250円だが、「高松塚壁画館」、「石舞台古墳」、「亀形石造物」の3箇所の特別共通券600円を購入する。

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 常駐のボランティアガイドの解説を聞く。館内は、銅鏡などの副葬品のレプリカ、模写された壁画、実寸大の石室の模型が展示してある。

 「高松塚古墳」の発掘調査は、1972年(昭和47年)3月から開始、やがて石室に鮮やかに彩色された壁画が発見され、「戦後最大の考古学的大発見」と大いに国民の関心を引くこととなった。古墳は1973年特別史跡、また極彩色壁画は1974年に国宝に指定された。 

 藤原京期(694年~710年)に築造された終末期の古墳で、下段の直径23m、上段の直径18m、高さ5mの二段式の円墳。石室は幅1.0m、高さ1.1m、奥行き2.7mと、2人がしゃがんでやっと入れる程度。被葬者は、諸説あって不明。

 写真は、順に「高松塚古墳」石室の西壁の「女子群像}、西壁の「白虎」、北壁の「玄武」(蛇と亀の霊獣)。出典はいずれもウィキメディア・コモンズ。

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 2004年にカビの大発生によっては壁画の劣化が発覚、大騒ぎになった。墳丘の発掘調査と石室の解体修理が、2006年10月から開始された。2007年3月には「国営飛鳥歴史公園」内に修理施設が完成。石室は解体された後、この修理施設へ移され、修復が行われている。

 最近では、「高松塚古墳」の壁画修理作業室の一般公開が毎年行われており、ガラス越しに修復作業の現場を観ることができるという。

 当初予定してなかったがボランティアガイドの勧めで、公開中の「キトラ古墳壁画」を次に見に行くことにする。

 

●キトラ古墳(明日香村)

 「高松塚古墳」から車で南へ5分弱、10:35に石室内の壁画が公開されている「キトラ古墳」に着く。

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 「キトラ古墳」の墳丘は、小高い阿部山の南斜面にある。上段が直径9.4m、高さ2.4m、下段が直径13.8m、高さ90cm二段式の円墳。

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 名称の「キトラ」は、この地域の字名「北浦(きたうら)」がなまったという説、盗掘者から中を覗くと亀と虎の壁画が見えたというのを聞いたという説などがあるそうだ。

 1983年(昭和58年)、石室内の彩色壁画に「玄武」が発見された。高松塚古墳に次いで2例目となる大陸風の壁画古墳として注目を集めている。

 1998年(平成10年)の探査で「青龍」、「白虎」、「天文図」が、2001年(平成12)には「朱雀」(すざく、しゅじゃく=赤い霊鳥)と「十二支像」が確認された。発掘後に湿気のため石室内にカビが発生したため、壁画ははぎとられて保存されている。2000年(平成12)、国の特別史跡に指定。なお、被葬者は諸説あるが、不明。

 円墳であり、「四神」(ししん)を描いた壁画があるなど、「高松塚古墳」と似ている。しかし、壁画などに唐の影響が「高松塚古墳」ほどにはないことから、遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作られた古墳と見られている。なお「四神」とは、中国の神話、天の四方の方角を司る霊獣で、東の「青龍」、南の「朱雀」、西の「白虎」、北の「玄武」のこと。

 2016(平成28)年9月、「キトラ古墳」周辺地区を「国営飛鳥歴史公園」の一部として整備し、「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」が開館した。

 「四神の館」に入館(無料)。入口は、地下1階にある。

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 ちょうどこの日は運よく壁画が期間限定で公開中。受付で予約して、11時からの見学時間が来るまで地階の展示室を回る。展示室には、映像や原寸大石室模型の展示を通じて、キトラ古墳と古代飛鳥を知ることができる。室内は説明員もいて、写真撮影も可。

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 「キトラ古墳」の原寸大の石室模型。幅1.0m、高さ1.2m、奥行き2.4m。

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 地上1階に上がると、そこは「キトラ古墳壁画保存管理施設」。保存のために石室から取り出された「キトラ古墳」壁画(東壁の「青龍」と「十二支の寅」)の実物をガラス越しに鑑賞する。肉眼で擬人化した寅(高さ16cm、)をかろうじて認識できたが、「青龍」(高さ20cm)は龍の赤い舌が右側にかすかに見える程度だった。

 「十二支の寅」の写真は、「平成30年度キトラ古墳壁画 第7回公開」のパンフ(文化庁・奈良文化財研究所)より転載。

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 「青龍」の写真は、「特別史跡キトラ古墳」バンフ(文化庁・奈良文化財研究所)より転載。 

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 今回公開の対象ではなかったが、比較的鮮明な北壁の「玄武」(蛇と亀の霊獣)を掲載する。写真は、「特別史跡キトラ古墳」バンフ(文化庁・奈良文化財研究所)より転載。

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●国営飛鳥歴史公園館(明日香村)

 11:45、「高松塚古墳」のあった「国営飛鳥歴史公園」に戻り、「石舞台古墳」、「甘樫丘」(あまかしのおか)、「キトラ古墳」などの拠点施設である「国営飛鳥歴史公園館」に入館(無料)。展示のジオラマ(立体模型)で、これから行く飛鳥史跡の位置を確認する。

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●亀石(明日香村)

 12:00、昔から「亀石」として親しまれている亀そっくりの形をした石造物。飛鳥時代ものらしい。駐車場はないが、150mほど離れた所に中央公民館の駐車場を利用させてもらう。

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 「橘寺」か「川原寺」に関係のある飾り石、何かの境界を示す標石、土俗信仰を現わすもの、とかの推測がされているという。

 伝説によれば、昔々奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻(たいま)の蛇と川原の鯰(なまず)が争い、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは干上がって湖の亀はみんな死んでしまった。亀を哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って供養をした。亀石は、以前は北を、次に東を向いたという。そして今は南西を向いているが、西を向き当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化すと伝えられている。

 

●橘寺(明日香村)

 12:10、聖徳太子ゆかりの風情ある古刹「橘寺」。聖徳太子生誕の地とされている。創建年代は不明。聖徳太子が建立したといわれる七大寺(聖徳太子建立七大寺)の一つ。

 山門前の駐車場(10台)(写真手前)は無料だが、寺の前の道は狭い。拝観料350円。

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 本堂右手の馬は、聖徳太子の愛馬「黒の駒」像だそうだ。本堂(太子堂)内に入り拝観。堂内は撮影禁止。

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 室町時代に作られた聖徳太子座像(本尊)は、重要文化財。残念ながら写真は資料やネットで入手できなかった。堂内に聖徳太子像がいくつかあって、どれが重要文化財だったか記憶にない。

 また観音堂には、如意輪観音坐像(重要文化財)が安置されているそうだが、拝観せず。

 境内に不思議な石造仏「二面石」がある。高さ約1mほどの石造物で、左右に善相と悪相が彫られており、人の心の二面性を表現しているという。

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 この寺の前から見た三輪山の眺めが良いそうだ。三輪山が頭部に、右の巻向山、左の龍王山を両翼に、さながら大鳥が飛んでいるように見え、「飛鳥」の由来ともいう。

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●石舞台古墳 (明日香村)

 巨石を積んだ横穴式の日本最大級の石室を擁する古墳。蘇我馬子の墓とされる。国の特別史跡。入場料250円だが、特別共通券(600円)で入場。

 有料駐車場(500円、200台)があるが、「国営飛鳥歴史公園」石舞台地区の無料駐車場(14台)が運よく空いていた。

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 元は土を盛りあげた墳丘で覆われていたが、その土が失われて、巨大な石を用いた横穴式の石室が露出している。発掘調査により、前方後円墳でなく一辺が50mほどの方墳であったとされる。周囲には濠と堤がめぐらされていた。土が持ち去られ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰だとされている。石室内に、人が10人以上は入ることが出来る。

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 昼食は、「石舞台古墳」の西隣にある特産品販売所「明日香の夢市」の2階、農村レストラン「夢市茶屋」で。古代米御膳1,080円、古代米カレーセット860円がお薦め。

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 ●亀形石造物と酒船石 (明日香村)

 「亀形石造物」、「酒船石」の両方とも駐車場はない。すぐ近くの「奈良県立万葉文化館」(月曜休館)の無料駐車場(110台)は閉鎖されていたので、その入口に駐める。

 「亀形石造物」は7世紀半ば、斉明天皇の祭祀に使われたとされている。入場料(文化財保存協力金)300円だが、特別共通券(600円)で入場。

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 亀形石造物は全長約2.4m、幅約2mで、頭や尻尾、足もある。亀形の右手にある小判形の石造物は、長さ1.65m、幅1m、排水口は亀の頭に繋がっている。小判形の石造物の右手は湧水設備。全体を石敷と石垣が囲む。

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 ここから丘陵を上り、竹林の中を少し歩くと「酒船石(さかふねいし)」がある。長さ55m、幅2.3m。遺跡の右側が、江戸時代に切り取られ、欠損している。酒、あるいは薬を造るための道具などの諸説がある。ここは入場料なし。

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 以前から「酒船石」は知られていたが、「亀形石造物」と周辺の遺構が2000年(平成12年)に発掘されたが、それも含めて「酒船石遺跡」とも呼ばれることもあるが、二つは別物という説もある。
 

●飛鳥寺 (明日香村)

 寺の前の駐車場(無料、20台)に駐める。「飛鳥寺」は、当時絶大な権力を持つ蘇我馬子が、6世紀末(596年)に創建。本格的な伽藍配置の日本で最初の仏教寺院。

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 本堂内は撮影可。拝観料350円。「研修生」の名札を付けた人(僧侶?)から解説がある。

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 本尊は「飛鳥大仏」と呼ばれる日本最古(7世紀初期609年)の仏像(釈迦如来像、銅像)が鎮座する。像高は、275cm。落雷、火災などで損傷が激しく、大幅に補修されているが、重要文化財。飛鳥寺跡は、国の史跡に指定。

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 当初は法隆寺の釈迦三尊像と同じような三尊形式だったが、両脇侍像は失われている。釈迦像も鎌倉時代の落雷火災で甚大な損害を受けている。後世に大幅な修理を受けているが、当初の顔、耳や指の一部分が健在だという。

 「飛鳥大仏」(釈迦如来像)の左手に安置されているのが、聖徳太子孝養像(木造、室町時代)。太子が16歳時に父親(用明天皇)の病気回復を祈願している姿。右手には、阿弥陀如来坐像(木造、藤原時代)を安置。

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 創建時の飛鳥寺の伽藍は、五重塔を中心としその北に中金堂、塔の東西に東金堂と西金堂が建ち、その外側に回廊をめぐらし、更に講堂を含む壮大なものであった。寺域は東西約200m,南北約300m。

 百済から多くの先端技術者たちが日本に呼ばれ、瓦の製作をはじめ、仏堂や塔の建設に関わった。これらの技術を身につけた人たちやその弟子たちが、全国各地の寺院造営に関わるようになったのだそうだ。

 飛鳥寺(法興寺)復元図の出典:ウィキメディア・コモンズ。

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 平安時代887年と鎌倉時代1196年の2回、火災により伽藍を焼失後は寺勢は衰え、室町時代以降は荒廃した。本尊は長い間、屋根もない露坐、あるいは簡単な仮堂の屋根の下だった。現・本堂は江戸末期に再建されたものだが、往時の壮大な伽藍の面影はない。

 しかし発掘調査の結果、現在の飛鳥寺本堂の建つ場所は、まさしく馬子の建てた飛鳥寺中金堂の跡地であり、本尊の釈迦如来像は補修が甚だしいとはいえ。飛鳥時代と同じ場所に安置されているという。

 本堂から狭い廊下を順路に沿って進むと展示室がある。第一展示室では当時の土器など発掘調査での出土物、第2展示室では発掘調査のパネル写真や仏像が展示されていた。

 14:05、飛鳥寺を出発

 14:25、近鉄大和八木駅の北側のオリックスレンタカー店(橿原市内膳町)でレンタカーを返却。

 近鉄大和八木駅そばの「かしはらナビプラザ」1階の観光センターで休憩。観光センターと「平宗」八木店で、奈良の特産品を購入。

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 大和八木駅15:10発の京都行き近鉄特急に乗車。京都駅で新幹線「のぞみ176号」に乗り換え、19:03東京駅着。

 

 関連ブログ記事

  「飛鳥路」2012年11月17日 投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-f6a4.html

 

 ★ ★ ★

 今回予定していたが、時間がなくて行けなかった史跡や博物館などを列記しておく。 

・猿石(さるいし) (明日香村): 欽明(きんめい)天皇陵と隣接する吉備姫王(きびひめのみこ)墓内にある4体の奇石。吉備姫王は、欽明天皇の孫で皇極(こうぎょく)天皇、孝徳天皇の母、天智・天武天皇の祖母。駐車場所なし。

・鬼の雪隠と俎板 (明日香村): 昔、鬼が俎板(まないた)で旅人を調理して食べ、雪隠(せっちん)で用を足したと伝説がある。実際は古墳の石室が分離したものとされている。付近の道路も狭く、車の駐車場が無いので注意。

・明日香村埋蔵文化財展示室(明日香村): 明日香村が発掘した文化財の展示室。旧飛鳥小学校の学舎だった。入館無料。「飛鳥寺」の北西400mにある。

・飛鳥宮跡: 「石舞台古墳」の近くの田園の中にある。駐車場なし。ここで大化の改新の幕が明けたという。宮は、藤原宮以降には固定化したが、天皇が代々飛鳥内で遷都したという。下の写真の出典は、ウィキメディア・コモンズ「飛鳥宮跡 石敷井戸」 。

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 以下は、月曜日休館で、残念ながら計画に入れなかったところ。

・飛鳥資料館(明日香村): 奈良文化財研究所の博物館。高松塚古墳の出土品や飛鳥の復元模型など。「飛鳥寺」の北西400mにある。

・奈良県立万葉文化館(明日香村): 『万葉集』を中心として奈良の古代文化を学べる。「亀形石造物と酒船石」の入口そば。

・奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市畝傍町): 橿原考古学研究所が発掘した県内各地の出土品。藤の木古墳の出土品や円筒埴輪など。古代日本の歴史を目でたどることが出来る。

・橿原市藤原京資料室(橿原市縄手町): 694年に遷都された藤原京の宮跡西側にある資料室は、1/1000復元模型や出土した柱や瓦などが展示。

 

 なお、藤原宮跡の東側(橿原市木之本町)には、奈良文化財研究所の資料室があるが年中無休。下の写真は、「藤原宮跡 資料室案内」(奈良文化財研究所)から転載。

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2018年6月15日 (金)

山の辺の道

 2018/5/26(土)~28(月)、2泊3日の奈良・大和路探訪の旅。

 《大和は国のまほろば、史跡が点在する奈良大和路をめぐり、古代の歴史・文化を学ぶ》

 

 2日目の27日(日)は、「平城宮跡」(奈良市)、「法隆寺」(斑鳩町)、「山の辺の道」(桜井市)を回る。本ブロク記事「法隆寺」のつづき。

 「山の辺の道」は、桜井市から天理市の山裾沿いに、南北に続く古代の道。『古事記』や『日本書紀』にも登場する「日本最古の道」と言われている。のどかな山里の道に沿って、周辺には古社寺や古墳などが多く点在する。
 

 14:00、「法隆寺」の観光自動車駐車場を出発。県道4号線、磯城郡田原本町を経由して14:45桜井市三輪の「大神神社」の参道沿いの駐車場(無料)に到着。

 この日は、何かの祭事があったのだろうか、日曜日だからいつもそうなのか、参拝客で混み合っていた。4つある駐車場も神社に近い場所は満車で、遠くの駐車場に駐める。
 

 「三輪山」(みわやま、467m)の西麓に立つ「大神(おおみわ)神社」は、日本で最も古い神社の一つ。本殿はなく、国のまほろばと称えられる秀麗な山「三輪山」を御神体とする。別名「三輪明神」。

 三輪山(神体山)と大鳥居。出典:ウィキベディアコモンズ。

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 まずは、15:00「大神神社」を参拝する。

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 「大神神社」の前を「山の辺の道」が通っている。ここから北へ、崇神(すじん)天皇陵までの4.6Kmの「山の辺の道」を散策、そこからJR柳本駅までの合計6.1Kmのハイキングを計画していたが、すでにこの時点で予定スケジュールより30分以上遅れている。

 「大神神社」より250m離れて、当社の摂社である「狭井神社」(桜井市三輪)に参拝。

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 境内には、古代祭祀の霊地、神が鎮座するという「三輪山」(標高467m)の登拝口がある。6年前の2012年10月には、ここからお祓いをしてもらって登拝した。

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 少し薄暗い谷間に下りて行くが 小さな川は万葉集でも詠まれた「狭井川」なのだろうか。のどかな風景の中を歩く。6年前に来た時はもっと未舗装の道だった気がするが、だいぶ石畳などで舗装し、整備されている。

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 この付近で柿の木が多く見られるが、奈良は柿の産地なのだ。

 のんびり歩きながら「狭井神社」より15分ほど、15:35「玄賓庵(げんぴあん)」。

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 ここは、9世紀ごろに桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら、俗事を嫌い三輪山麓に隠棲した玄賓僧都(そうず)の庵。僧都は、僧正に次ぐ僧の地位。

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 ひっそりとし た小さな寺だが、世阿弥の作と伝わる謡曲「三輪」の題材となった由緒ある古刹。「木造不動明王坐像」(重文)と大日如来の二像が安置されているが、撮影禁止。

 玄賓が隠棲した庵は、山岳仏教の寺院として三輪山の檜原谷にあったが、明治時代の神仏分離により現在地へ移されたという。ここでしばし休憩。

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 古道らしいひっそりとした「山の辺の道」。途中何組もの夫婦連れや家族連れのハイカーに会う。

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 山の辺の道を進んで、谷合いから明るい尾根筋に向かう。15:55、開けた境内の「檜原(ひばら)神社」(桜井市三輪)の到着。

 「檜原神社」も「大神神社」の摂社、天照大神を祀る。万葉集などに「三輪の檜原」と数多くの歌が詠まれた台地の上にある。「三輪山」をご神体とするため本殿、拝殿はない。

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 「檜原神社」から真西の方向、「金剛山」(標高1125m)の北に位置する「二上山」(雄岳517mと雌岳474m)を望む。手前は桜井や橿原の市街か。

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 境内には以下のような、「二上山」の案内板が設置されている。

 「正面のラクダのコブのような形をしたトロイデ式火山が二上山です。右側の雄岳の山上には大津皇子のお墓があります。大津皇子は天武天皇の皇子でしたが、あまりにもすぐれておられたので謀反の罪を着せられ二十四歳で死を賜りました。皇子の死を悼んで、お姉さまの大伯皇女がうたった「現身の人なる吾や明日よりは二上山を弟背と吾が見む」という有名な歌が万葉集にのこっています。」

 ここ檜原台地は、大和国中を一望する絶好の地。春分・秋分の日の頃には、三輪山から昇った朝日が夕方には「二上山」の雄岳と雌岳の間に沈む様子は、神々しくて幻想的だそうだ。

 

 時間がだいぶ押して来ていている。この先の「山の辺の道」のコースを省略して、16:00頃今来た道を引き返す。

 狭井神社の手前で計画に無いスポットであるが、「久延彦(くえひこ)神社」(大神神社の末社)の近くにある小山「大美和の杜展望台」に登る(16:30)。

 ここから東には、ご神体「三輪山」の秀麗な姿。

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 西の方向は、奈良盆地が一望できる絶景の場所。春には桜の咲きほこる。

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 遠望では、「金剛山」(標高1125m)、「葛城山」(959m)、「二上山」(517m)、更に写真にはないが右手遠くに「生駒山」(642m)まで広く望むことができる。中景は、万葉集にも歌われた「大和三山」。近くには「大神神社」の大鳥居や桜井市内の町並み。まるで、古代人が見た風景を目の前りにする。(写真をクリックすると拡大)

 なお「大和三山」は、「天香久山」(あまのかぐやま、152m)、「畝傍山」(うねびやま、199m)、「耳成山」(みみなしやま、140m)の3つの山々の総称。藤原京跡(橿原市)を囲む一辺3Kmの三角形の頂点に位置する。各山とも歴史的風土特別保存地区、国の名勝に指定されている。
 

 16:50、「大神神社」駐車場に到着。本日宿泊先の橿原市内のホテルに向かう。

 17:30、ダイワロイヤルホテル「THE KASHIHARA」(旧「橿原ロイヤルホテル」)に到着、ホテルの地下駐車場にレンタカーを入れる。このホテルは、橿原神宮前駅東口より徒歩約1分(橿原市久米町)、「橿原原神宮」へは徒歩10分の位置にある。 

 入浴後、ホテル近くの居酒屋「まる」で夕食。この店は、6年前に入った居酒屋「四万十」の隣の店だった。

 10:15頃、就寝。旅の3日目の28日(月)は、橿原神宮と飛鳥の里を回る予定。
 

 次は、本ブログ記事「橿原神宮と飛鳥の里」につづく。

 

 関連ブログ記事

  「三輪山と山の辺の道」 2012年11月16日 投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-89a1.html

 

 ★ ★ ★

 午前中のスケジュールがきつくて、「山の辺の道」では時間が足りなかった。もっともガイドブックでは、桜井市のJR三輪駅から「大神神社」、天理市の「石上神宮」を経て近鉄天理駅までは、全コースは約14Km、歩行時間約3時間45分、所要時間約7時間とある。

 6年前の前回(三輪山登拝も含む)も今回も、計画したコース通り行けなかった。やはり、1日たっぷり時間を見る必要がある。
 

 今回計画して行けなかったスポットは、以下の通り。

・相撲神社(桜井市穴師): 穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社の摂社。野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)が初めて天覧相撲を行ったという所。

・景行(けいこう)天皇陵(天理市渋谷町):  渋谷向山(しぶたにむこうやま)古墳は、日本武尊の父である12代目の景行(けいこう)天皇の御陵とされている。龍王山の麓の丘陵を利用した全長300mの前方後円墳。途中に田舎家の休憩処「卑弥呼庵」がある。時間があれば、立ち寄って和風コーヒー(400円)、抹茶(600円)など。

・崇神(すじん)天皇陵 (天理市柳本町):  濠をめぐらした全長242mの前方後円の行燈(あんどん)山古墳。大和政権の実質的な初代大王、第10代崇神(すじん)天皇の御陵とされている。この先に空海創建の古寺「長岳寺」(重文宝・阿弥陀三尊像、拝観料350円)が建つ。時間があれば立ち寄ってみたいところ。

 ここから「山の辺の道」を外れ、JR柳本駅へ約1Km。途中「黒塚古墳」前を通過する。

・柳本駅(天理市柳本町): ここから、JR桜井線・王寺行、2駅目で、17:36三輪駅(桜井市大字三輪)。三輪駅から5分ほどの大神神社の駐車場へ戻る。  

2018年6月14日 (木)

法隆寺

 2018/5/26(土)~28(月)、2泊3日の奈良・大和路探訪の旅。

 《大和は国のまほろば、史跡が点在する奈良大和路をめぐり、古代の歴史・文化を学ぶ》

 

 2日目の27日(日)は、平城宮跡(奈良市)、法隆寺(斑鳩町)、山の辺の道(桜井市)を回る。本ブロク記事「平城宮跡」のつづき。

 

 10:10、「平城宮跡」をレンタカーで出発、県道9号線を南西方向へ進む。大和郡山市の「郡山城址」を左手に見ながら、やがて生駒郡斑鳩(いかるが)町へ。

 「平城宮跡」から車で30分ほど、10:40「法隆寺」観光自動車駐車場(500円)に到着。予約していた「斑鳩の里観光ボランティアの会」のIさんが、観光案内所(法隆寺iセンター)で待機している。ガイド料は無料。

 10:45、ガイド開始。国道25号線の交差点から南大門に向かう松並木。幅2mほどの参道が、真っ直ぐに350mほど続く。

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 この参道は、鎌倉時代1261年に後嵯峨上皇が行幸された時に整備されたといわれている。起点は反対方向50m先にあったが、国道25号線で分断された。

 参道の両側には車道と舗装された歩道があり、食事処やおみやげ屋が並ぶ。

 「法隆寺」全体の玄関となる「南大門」(国宝)。室町時代の1435年焼失、1438年に再建。

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 「法隆寺」は、7世紀に創建。古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設で、聖徳太子ゆかりの寺院。現在、18万7千㎡に及ぶ「法隆寺」の境内は、「五重塔」と「金堂(こんどう)」を中心とする「西院伽藍(せいいんがらん)」と「夢殿」を中心とする「東院伽藍(とういんがらん)」に分かれ、その間に寺宝を公開する「大宝蔵院(だいほうぞういん)」がある。

 約190件の国宝・重要文化財、点数にして3,000点を所蔵する「法隆寺」は、1993年日本の中で一番最初の世界文化遺産として、「姫路城」と共に登録された。

 「南大門」を抜けると、石畳の長い参道に先には、修理中の「中門(ちゅうもん)」。後方に「五重塔」の相輪(そうりん=屋根から突き出た金属製の部分)が見える。

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 参道左右の土塀「築垣(ついがき)」も重要文化財。土塀に囲まれた中は、寺務所など寺関連の施設があり小さな門がいくつかあるが、立ち入り禁止。

 「南大門」の方向を振り返る。左の大きな建物は、護摩堂。

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●西院伽藍

 西院伽藍の入口の「中門」(飛鳥時代、国宝)は修理中。

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 「中門」の左右には、我が国最古の塑像の仁王像「金剛力士像」(奈良時代、重要文化財)が立っているそうだ。

 西伽藍は、凸形の「回廊」(飛鳥時代、国宝)に囲まれている。「中門」から入れないので、左の回廊から入る。

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 西院伽藍、大宝蔵院、東院伽藍の三つのエリアを回る共通拝観券1,500円。

 「法隆寺」では、屋外から建物の撮影はOKだが、内部はすべて撮影禁止。

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 「五重塔」は、「金堂(こんどう)」と並んで世界最古の木造建築で、「法隆寺」を代表する建築。もちろん「五重塔」と「金堂(こんどう)」は、国宝。

 基壇からの高さは32.5m。初重から五重までの屋根の大きさの減少する割合が高いことが特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。このことが、塔の安定感と美しさとなっているそうだ。

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 「五重塔」の堂内東西南北面には、塑造(粘土作り)の小像群(塔本塑像、奈良時代711年、国宝)が設置されている。

 下の4枚の写真は、『週刊 日本の仏像』№3法隆寺釈迦三尊と金堂、五重塔(講談社)から転載。

・涅槃像土(ねはんぞうど、北面): 中央の釈迦の涅槃(ねはん)を表わしている。釈迦の足元に阿修羅がいる。涅槃とは、全ての煩悩が消滅、安らぎの境地、心の迷いがなくなった状態のことで、死を意味する。

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・維摩詰像土(ゆいまきつぞうど、東面): 維摩詰居士(ゆいまきつこじ=インドの裕福な在家弟子、中央左)が知恵のある文殊菩薩(右)と問答をする場面。

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・分舎利仏土(ぶんしゃりぶつど、西面): 北面の涅槃に続く仏身の荼毘(だび=火葬)と仏舎利(ぶっしゃり=仏の遺骨)の供養の様子。最上段中央に棺を置き、その下部に舎利塔が安置されている。

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・弥勒仏像土(みろくぶつぞうど、南面): 弥勒は釈迦の次に仏となることが約束された菩薩(修行者)で、釈迦の涅槃後の56億7千万年後にこの世に現われて悟りを開き、多くの人々を救済するという未来図。

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 五重塔の相輪の根元には、理由は不明だが鎌が4本掛けられている。雷除けともいわれているそうだ。

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 法隆寺の本尊を安置する「金堂」が、「五重塔」の隣にある。

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 薄暗い金堂内には、釈迦三尊像、薬師如来坐像、阿弥陀三尊像、四天王立像、毘沙門天・吉祥天立像の傑作が並んで安置され、古代に引き込まれるような荘厳な雰囲気だ。

 金堂の内部。右から釈迦三尊像、吉祥天立像、四天王立像(増長天)。「法隆寺畧縁起」パンフレットから転載。

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聖徳太子のために造られたという釈迦三尊像(飛鳥時代、国宝)。金堂の中央に配置。

 

 以下の7枚の写真は、『週刊 日本の仏像』№3法隆寺釈迦三尊と金堂、五重塔(講談社)から転載。

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・太子の父・用明天皇にために造られたという薬師如来坐像(飛鳥時代、国宝)。釈迦三尊像の右手に安置。

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・母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后のために造られた阿弥陀如来坐像(鎌倉時代、重文)。釈迦三尊像の左手に安置。

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・四天王立像(4体のうちの増長天と持国天、白鳳時代、国宝)。釈迦、薬師、阿弥陀を守護するため、邪鬼(じゃき)の上に立っている。

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・後方に立つ吉祥天立像(左)と毘沙門天立像(右)(いずれも平安時代、国宝)。

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 法隆寺の仏像や工芸品のほかに、金堂の壁画は日本の仏教絵画の代表作として国際的にも芸術的価値の高いものであった。しかし1949年(昭和24年)壁画模写の作業中、不審火によって焼損した。1967年(昭和42年)に再現壁画が製作され、現在金堂内の壁にはめ込まれているのを見ることが出来た。なお黒こげになった旧壁画(重文)と柱は、収蔵庫
に保管されていて非公開だそうだ。

 

 「大講堂」(国宝)は、平安時代の925年に焼失後、990年に再建した。仏教の学問研鑚や法要を行う場所である。

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 「大講堂」には、薬師三尊像(平安時代、国宝)と四天王像(重文)が安置されている。

 下の写真は、『週刊 日本の仏像』№3法隆寺釈迦三尊と金堂、五重塔(講談社)から転載。

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 「大講堂」の右手、中央の「鐘楼」は平安時代(国宝)だが、梵鐘は飛鳥時代で今でも当時の音色を響かせているという。写真に写っていないが、大講堂の左手には奈良時代の「経蔵」(きょうぞう=経典を納める施設、国宝)が、「鐘楼」と対称な位置に建っている。

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 「大講堂」の前に設置されている葵の紋のある灯籠。元禄時代、伽藍修理に五代将軍綱吉の母・桂昌院 が多額の寄付をしたという。

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 「西伽藍」を出たところの「鏡池」の傍に、正岡子規の句碑が建っている。

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 子規の作品のうち、最も有名な句の一つ。

   法隆寺の茶店に憩ひて

       柿くへば 鐘が鳴るなり法隆寺

                         子規

 「法隆寺に立ち寄って茶店で一服し、柿を食べていると法隆寺の鐘が鳴り、その響きに秋の訪れを感じた。」

 句碑は子規の自筆の書からとったそうで、「法隆寺の茶店に憩ひて」は前書き。今はもうないが、当時はこの場所に茶店があったそうだ。柿が季語で、奈良名産の「御所柿」と考えられているという。

 

 子規の句碑から北へ「大宝蔵院」へ向かうコースの途中に、「聖霊院」、「東室」、「妻室」、「食堂」などの建物がある。

 「聖霊院(しょうりょういん)」(鎌倉時代、国宝)は、聖徳太子を祀るために聖徳太子坐像(拝観せず)が安置されているという。元々は「東室」(僧坊)だったものが、平安末期の1121年に再建された時に南側の一部を「聖霊院」 とした。

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 「聖霊院」 奥(北側)の「東室(ひがしむろ)」(奈良時代、国宝)は、上位の僧侶が生活していた長屋のような住居(僧坊)。

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 「東室」と向かい合う「妻室(つまむろ)」(平安時代、重文)も、同じく僧侶が生活していた住居(僧坊)。下位の僧侶が住まいらしい。

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 僧侶が食事をする「食堂(じきどう)」(奈良時代、国宝)を右手に見て、「大宝蔵院」へ。

 

●大宝蔵院(だいほうぞういん)

 百済観音像をはじめとする貴重な寺の宝物を公開している。西宝殿、百済観音堂、東宝殿の3つの建物がつながっている。1998年(平成10年)に落成。木造建築のように見えるが、コンクリート造り。

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 大宝蔵院の門を入ると、中庭があって正面は百済観音堂。

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・夢違(ゆめちがい)観音像(飛鳥時代後期(白鳳期)、国宝)は、悪夢を良夢に替えてくれるという伝説からこの名がある。

 写真の出典:『週刊 日本の仏像』№3法隆寺釈迦三尊と金堂、五重塔(講談社)。

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・推古天皇ご所持の仏殿と伝えられる玉虫厨子(飛鳥時代、国宝)。透かし彫りの飾金具の下に本物の玉虫の羽を敷き詰めて装飾した。教科書で見た事があった。煤けていて当時のようなきらびやかさはない。写真は、「法隆寺畧縁起」パンフレットから転載。

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橘夫人厨子(国宝)の厨子内の本尊・阿弥陀三尊像は、飛鳥時代後期(白鳳期)の金銅仏の代表作で、蓮池から生じた3つの蓮華の上に三尊像が坐する。

 以下4枚の写真の出典は、ウィキメディア・コモンズ。

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・九面観音像(国宝)は唐から渡来の像。香木を用い、白木で仕上げた白檀造りの像。細かい装身具、体部から遊離している耳飾や天衣まで完全に一木で彫り上げた像。

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地蔵菩薩立像(平安時代、国宝)は木造。桜井市の「大神神社(おおみわじんじゃ)」の神宮寺である「大御輪寺(だいごりんじ)」にあったが、明治の神仏分離で「法隆寺」へ移動したという。

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・金堂小壁画(重文)。1949年の金堂の火災の際、取り外されていたため難をまぬがれた、小壁の天人の壁画20面のうち一部が展示されている。

 写真は、天女(天人?)が描かれた飛天図(小壁20面のうち14号)。

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・百済観音像(飛鳥時代、国宝)は、細身で九頭身の像。多くの文芸作品の中で絶賛されてきた有名な像であるが、その伝来などはほとんど不明だという。写真は、「法隆寺畧縁起」パンフレットから転載。

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●東院伽藍

 「東院伽藍」は、聖徳太子一族の住居であった「斑鳩宮」の跡に建立された。739年(天平11年)、荒廃している「斑鳩宮」を嘆いた僧・行信の創建とされる。回廊で囲まれた中に八角円堂の「夢殿」が建ち、回廊南面には「礼堂」、北面には「舎利殿・絵殿」、その北に接して「伝法堂」が建つ。

 八角円堂の「夢殿」(奈良時代、国宝)は、堂内に聖徳太子の肖像と伝わる等身像の救世観音像を安置する。飛鳥時代の仏像の特徴を備え、顔の表情は神秘的だ。

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・観音菩薩立像(救世観音)・・・出典:『週刊 日本の仏像』創刊号特別付録(講談社)。

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・行信僧都坐像(国宝)は、奈良時代の乾漆像。行信は、東院伽藍を創建した僧。写真の出典:ウィキメディア・コモンズ。

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 「舎利殿・絵殿」は、石段部分より東側(右側)が舎利殿、西側が絵殿。

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 舎利殿には聖徳太子が2才の時、合掌した手の中から出て来たという舎利(仏の遺骨)を安置する建物。絵殿には聖徳太子一代の事跡を描いた障子絵が納められているそうだ。入堂せず。

 「伝法堂」(奈良時代、国宝)は、時間の関係で見学せず。聖武天皇夫人の橘古奈可智(たちばなのこなかち)の住居を移転して仏堂に改めたものとされる。堂内には奈良・平安時代の多数の仏像を安置するが、公開していない。

 13:00、ガイド終了。

 

 参道沿いの駐車場まで歩いて戻る。

 13:20~13:55食事処「平宗(ひらそう)法隆寺店」で昼食。奈良ランチ(奈良名産の柿の葉寿司と二輪そうめんのセット)1,150円。

 次は、本ブロク記事「山の辺の道」につづく。

 

 

 ★ ★ ★

 生駒山地の南端近くに位置する「法隆寺」のあるこの斑鳩の地は、大和川が流れていて大和(奈良)と河内(大阪)とを結ぶ交通の要衝だったそうだ。

 『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(うまやどのおうじ)は601年、飛鳥からこの地に移るため「斑鳩宮」の建造に着手し、605年に移り住んだという。付近には、藤ノ木古墳を始めとする多くの古墳や遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたそうだ。現在の法隆寺東院伽藍が、「斑鳩宮」のあったところ。この宮に接して建立されたのが「斑鳩寺」(法隆寺)であった。

 聖徳太子は、この地から政治の中心・飛鳥京(現・明日香村)まで馬で通ったというが、直線でも17Kmもある。現代の車だと走行距離20km余り、所要時間は40分前後は掛かる。ここが交通の要衝で、内外の情報がいち早く入手できたというが、ちょっと信じ難い。

 聖徳太子は用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみ)ことされる。内外の学問に通じ、叔母の推古天皇を助け、蘇我馬子と共同して政治を行い、遣隋使を派遣するなどして中国の文化・制度を学び、冠位十二階や十七条憲法などを制定。天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。大陸から仏教を導入し、神道と共に熱く信仰し、仏教興隆につとめたともされている。

 用明天皇は、自らの病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを発願したが、実現しないまま崩御された。遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が、607年に「斑鳩寺」(法隆寺)と本尊・薬師如来像を造ったという。

 聖徳太子は、少なくとも「法隆寺」と難波にある「四天王寺」を建てのは間違いないらしい。日本各地には仏教の普及のため、聖徳太子が建てたとされる寺院が数多くある。しかしその中には太子の名を借りただけで、実は関わっていない寺院も数多くあるそうだ。

 『日本書紀』には、670年に法隆寺が全焼したとの記事がある。この記事をめぐり、現存する法隆寺(西院伽藍)は聖徳太子の時代のものか、670年以降の再建かについて長い論争があった。しかし発掘調査の結果により、聖徳太子時代の伽藍は一度焼失し、現存の「西院伽藍」は7世紀末頃の再建であることが定説となった。「夢殿」を中心とする「東院伽藍」は、「斑鳩宮」のあった場所に建てられている。「法隆寺」は焼失の後ほどなく再建され、その後運よく大きな災害に遭わなかったため、飛鳥時代をはじめ各時代の仏教美術の傑作が残っているのだ。

 聖徳太子あるいは厩戸皇子と呼ばれる人物は、飛鳥時代の皇族・政治家とされた人物である。「聖徳太子」は、その時代に用いられた名前ではなく、あくまで後世につけられた諡(おくりな)、つまり死後その功績を讃えて送られた称号である。後世、観音の化身とされて信仰の対象となったり、また理想化した大政治家、時代のヒーローとして、10人の話を一度に聞き分けた等々・・・、ほかにも多くの伝説が生まれた。

 「厩戸皇子」は、最近では「厩戸王」というらしい。飛鳥時代にはまだ「天皇」はおらず、倭国の君主は「大王」だった。「天皇」が無いから、「皇子」という称号も無いので、「皇子」ではない皇族を指す「王」の称号を採用したという。

 今や記述される名称が変遷しているそうだ。「聖徳太子」  → 「聖徳太子(厩戸王)」 → 「厩戸王(聖徳太子)」 → 「厩戸王」となって、「聖徳太子」の名は消えつつある。

 教科書の指導要領で、「聖徳太子」の表記を「聖徳太子(厩戸王)」や「厩戸王(聖徳太子)」に変えようとしたが、日本人が馴染んだ「聖徳太子」を無くすことに反対する声も多くて、ひっこめてしまった。

 

 また「聖徳太子はいなかった」という聖徳太子虚構説も強い。これは『日本書紀』が、聖徳太子が亡くなって1世紀以上も経って書かれおり、太子の業績は脚色や創作されたもので、学問的には疑問視する学者も多い。教科書に「聖徳太子(厩戸王)」そのもののを記述してない教科書も優勢になっているという。

 『古事記』、『日本書紀』の神話の話ももちろん、初代天皇の神武天皇の存在も、現在の学説でも否定されている。聖徳太子は、神武天皇と同じような古代の出来過ぎたヒーローであり、後世の天皇制の中て作られた人物だったのではないだろうかと思う。

2018年6月10日 (日)

映画「家族はつらいよⅢ」

  2018年6月1日(金)、映画『妻よ薔薇のように 家族はつらいよⅢ』を観る。

 

 山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズから20年の時を経て、『家族はつらいよ』シリーズの三作目。一作目は「熟年離婚」、二作目は「無縁社会」に続き、今回のテーマは「主婦への讃歌」。

 両親と同居する長男の妻は、家事に疲れた上に、亭主関白の夫になじられて溜まっていた不満が爆発、家出したことから平田一家に思わぬ騒動が起こる。平田家の人びとが直面する大騒動をユーモアにたっぷりに描いた喜劇映画。2018年5月25日公開。

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 橋爪功、吉行和子、西村まさ彦、夏川結衣、中嶋朋子、林家正蔵、妻夫木聡、蒼井優といった、『東京家族』(2013年)と『家族はつらいよ』前2作とおなじみのキャストが顔を揃える。

 平田家の長男の妻・史枝(夏川結衣)は、育ち盛りの2人の子供や舅姑の面倒、忙しい家事の毎日。家計をやりくりしコツコツ貯めていたへそくりが、ある日の昼下がり、盗まれてしまった。史枝が家事の合間につい居眠りをしてしまい、泥棒に入られたのだ。

 史枝が落胆する一方で、妻の身を案じるわけでもなく「俺の稼いだ金でへそくりをしていたのか!」と心ない言葉をあびせた商社マンの夫・幸之助(西村まさ彦)。史枝は我慢の限界に達し、ついに家を飛び出す。

 掃除、洗濯、朝昼晩の食事の準備など、これまで主婦として史枝がこなしてきた家事をやる人がいなくなり、平田家は大混乱におちいる。運悪く腰痛で寝込んだ母親・富子(吉行和子)に代わって、父親・周造(橋爪功)が慣れない家事をやる羽目になるが、四苦八苦するばかりでうまくいかない。

 家族は、実家に帰ってしまった史枝のありがたみを実感するが、平田家に戻ってくる気配はない。家族崩壊の危機に面して、家族会議を召集する。父親似の頑固な幸之助は、史江を迎えに行くのか、迎えに行っても史江は戻って来るのか・・・。

 映画の1シーン。『妻よ薔薇のように 家族はつらいよⅢ』のパンフから転載。

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 平田家には他に、長女で税理士・金井成子(中嶋朋子)、成子の夫で妻の事務所の雑務担当の泰蔵(林家正蔵)。次男で ピアノ調律師・平田庄太(妻夫木聡)、その妻で看護師の憲子(蒼井優)。 

 

 ★ ★ ★

 どこにもある家族の問題、亭主関白の夫は働き盛りで忙しくて、家庭のことは妻に任せきり。妻は家事を一手に引き受け、子供や義父母の世話もある。それに給料の管理は夫がやって、その中から必要なお金だけ妻に渡している(こういう例は少ないと思うが・・・)から、妻はお金を自由に使えない。

 憲子が、「お義姉さんを見てるとはいつも感心するの。片時もじっといていたことがないでしょ」と言って尊敬する。史枝のように甲斐甲斐しく働く姿は、性格にもよるかもしれないが、主婦によく見られる自然な風景なのだ。

 史枝には、やりたいことがあった。自分も働いてみたい。習い事をしたい。しかし自由に使えるお金や時間がない。若い時にやっていたフラメンコ教室に行ってみたい。激しい踊りは、主婦のストレスを晴らすには、ちょうど良さそうだ。夢の中で史枝が踊るシーンを夏川結衣が演じる。強烈な色彩の光と切れの良いギターの音色の中で、真っ赤な衣装をまとって激しく踊る。相当練習したのだろう、セクシーでとても素晴らしかった。

 夫の幸之助は仕事中心で、妻の史枝の家庭での仕事や気持ちに思いやり、理解を示さない。「俺の稼いだ金でへそくりをしていたのか!」という罵声は、寅さん的には「それを言っちゃー、お終えよ(おしめえよ)!」ということだ。夫婦の間で、言ってはならぬ限度がある。

 子供が父親のせいで母親が家出したことを察し、もし両親が離婚したらと心配する。「離婚したらお母さんの方に行く。」という孫の言葉に、祖母の富子は心が痛む。富子は、嫁の史枝の家出に女として同情しながらも、息子の幸之助が「可愛そう」と涙ぐむのだ。これが実の母親の本音なのだろう。

 映画の1シーン。『妻よ薔薇のように 家族はつらいよⅢ』のパンフから転載。

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 山田監督が尊敬する小津安次郎監督の映画『東京物語』(1953年)では、笠智衆と東山千栄子が夫婦役だった。黒柳徹子が今回の映画に寄せて、「笠さんは40代後半、東山さんが60代前半で、それで着物姿でお座りになっているだけで、”おじいさん”と”おばあさん”という雰囲気がありました。今の映画の橋爪さんや吉行さんよりも、ずーっと歳下だったのですよ。」と語っている。実際に、橋爪は1941年生まれの70代後半、吉行は1935年生まれの80代前半。65年前にくらべて今の時代の”おじいさん”と”おばあさん”というのは、20歳以上若くなっているということか。現在の高齢者は、ひと昔よりも元気なのだ。

 山田監督の作品は、真面目な社会問題を取上げている。今回も、夫婦の問題、認知症や介護、有料老人ホーム、子供の教育費、非正規社員やフリーター、空き家問題、夫婦別墓、相続の争い・・・・。こういう問題をコメディにしているが、考えさせられる。そして、映画を観終わっていつも温かい気持ちにさせてくれる。

 映画の終盤で、次男の庄太(妻夫木聡)は、妻・憲子(蒼井優)から嬉しい知らせを聞く。この話はきっと次回へにつながるのだろうか。どんなテーマになるのだろうか、四作目も楽しみになって来る。
 

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  映画「家族はつらいよ」 2016年4月 7日 投稿
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  映画「東京家族」 2013年2月 9日 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-1fb5.html

2018年6月 9日 (土)

草木ダムと日光東照宮

 2018年6月5日(火)、「草木ダム」(群馬県みどり市)と「日光東照宮」(栃木県日光市)見学の日帰りバス旅行。
 

 この日は午前中は晴れ、梅雨前線がゆっくり北上しており午後から曇り。

 バスは午前7時半出発。参加者23名を乗せて関越道・北関東道へ。伊勢崎インターで降りて大間々を経て国道122号線を北上、9時45分「草木ダム管理所」に到着。

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 草木ダム管理所は、独立行政法人「水資源機構」の事業所の一つ。

 まず職員から15分ほど、プロジェクタを使って「草木ダム」の概要説明を受ける。

 「草木ダム」は、利根川水系の渡良瀬川をせき止めた多目的ダムで、東京都を始めとする首都圏への利水と渡良瀬川・利根川の治水、そして水力発電を目的としている。堰堤(えんてい)の長さ405m、高さ140m、コンクリートの重さで支える重力式ダム。利根川水系では、「奈良俣ダム」(楢俣川)の158mに次ぎ、「川治ダム」(鬼怒川)と並んで高い。1965(昭和40年)年着工、1976年(昭和51年)竣工。

 人造湖の草木湖(6千万立米)は、25mプールの水12万杯分を貯めることが出来ると聞くが、ピンと来ない。

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 この辺りは日光方面への中継拠点として、草木湖畔には展望台、「富弘美術館」や道の駅などもある。また近くには、足尾銅山跡、わたらせ渓谷鉄道がある。

 ダムの堤頂部からダムの下を見下ろす。

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 次はダム本体内部へと案内される。ダムは普段外からしか見ることが無い。10数人乗りのエレベータで、参加者を2回に分け、堤頂部から100m下の地下へ下る。

 地上では24℃の気温が、エレベータでダム内部では13℃、ひんやりする。しばらく内部のトンネルを歩くと、ダム最下部の外に出る。

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 左手は、発電所。右下には発電に使った水が川に排水されている。

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 下から見上げると、ダムの大きさを実感。右側のパイプが発電所に水を送る水圧管路。

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 11時10分「草木ダム」を出て国道122号線を更に北上、日光に向かう。昼近くになると、雨雲が多くなって来た。12時5分、日光東照宮門前の富士屋観光センターに到着。昼食後、「輪王寺」へ。

 「輪王寺」は、天台宗の門跡寺院。明治初年の神仏分離令以後、「東照宮」、「二荒山(ふたらさん)神社」とあわせて「二社一寺」と称される。近世まではこれらを総称して「日光山」と呼ばれていたそうだ。現在「日光山」は「輪王寺」の山号で、「日光山輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称である。

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 「輪王寺」は、山岳信仰に始まり、創建は奈良時代。近世に入って、天台宗の高僧・天海が貫主(住職)となり、徳川家の庇護を受けて繁栄する。三代将軍・徳川家光を祀った「大猷院廟(だいゆういんびょう)」や本堂である「三仏堂」などの古建築も多く、国宝や重要文化財など多数の文化財を所有。

 「輪王寺」は「東照宮」、「二荒山神社」とともに、「日光山内」として国の史跡に指定され、「日光の社寺」として1999年(平成11年)世界遺産に登録されている。

 本堂「三仏堂」は2007年から大修理中で、建物は巨大な囲いで覆われ、実物大の絵が描かれている。

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 千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音の3体の本尊は、最近修理が終えて京都から戻り、今年3月から5年ぶりに拝観ができるようになった。堂内は撮影禁止。

 堂内「修行の谷間」巡りのチラシ。「日光山輪王寺」のホームページから転載。(写真をクリックすると拡大表示)

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 輪王寺「三仏堂」を出て、脇の日光東照宮の参道の坂道を上る。

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 石段を上がり「一之鳥居」を抜けると、左に五重塔。拝観券を購入し、更に石段を上がって左に折れると、右手に「三神庫(さんじんこ)」と呼ばれる校倉造りの3棟がある。渡御祭(とぎょさい)の祭器具や装束が収められている。

 そのうち「上神庫(かみじんこ)」と呼ばれる建物には、白と灰色の想像上の2頭の象が面白い。

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 その向かい側には、有名な三猿の彫刻がある「神厩舎(しんきゅうしゃ)」(神馬の馬屋)。

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 正面には豪華な彫刻の水盤社(すいばんしゃ=手水舎)を見て、右に折れると「二之鳥居」、この正面に「陽明門」がある。

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 「陽明門」の前の階段から振り返り、「二之鳥居」や「神厩舎」を見下ろす。

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 昨春に修理が終わった「陽明門」はピカピカ。

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 陽明門の正面左右の随身(ずいしん)。

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 陽明門の背面(随身の裏)東側の獅子。

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 陽明門の装飾彫刻に、正面・背面・両側面で22組の中国の人物がある。

 そのうち背面東端にある「鉄拐(てっかい)仙人」を撮影。中国の代表的な仙人の一人で、口から魂(黒いもの)を吐き出している。もう一人は、鉄拐の弟子か?

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 陽明門の西側面の龍の群れ。

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 陽明門を抜けて右手に折れると、「坂下門」に彫られた有名な「眠り猫」。家康の墓がある「奥社」の参道入口にある。

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 「陽明門」の正面には、拝殿、本殿に続く「唐門」。

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 彫刻のある回廊。「陽明門」の両側にある。

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 回廊と「本地堂(薬師堂)」。

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 「本地堂(薬師堂)」には、天井画の「鳴き龍」や非公開の本尊・薬師如来像がある。内部は撮影禁止。

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 薄暗い堂中に入ると、説明役の僧侶が天井に描かれた龍の顔の下で拍子を打って「鳴き龍」を観賞させてくれる。拍子木がカーンと音が鳴ったあと、音が床との間で反響し、鈴を転がしているような龍の鳴き声に聞こえる。昔は観光客が勝手に手を叩いて、「鳴き龍」を聞いていたような気がする。こんなに観光客が多いと、音が混じってちゃんと聞こえないだろう。

 

 この日は平日だが、日光は一般客、外人観光客や修学旅行生などで混み合っていて、まるで浅草にでも来たようなにぎやかさだった。

 14時40分「日光東照宮」を出て、たまり漬け(ろばたづけ)の土産屋に寄って買い物。

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 日光宇都宮道路から帰路、東北道・圏央道へ。夕方6時頃出発地に無事到着。暑くもなく、梅雨入り前で天気もまずまずで、楽しい旅行だった。

 

 関連ブログ記事

 「日光東照宮」2011年11月18日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-adaa.html

 「鬼怒川温泉」2012年11月18日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-6aa9.html

 

 ★ ★ ★

 草木ダムも、日光東照宮もは過去何度も来た。しかし「草木ダム」の内部に入ったのは、今回が初めて。団体で予約しないと見れないそうだ。

 「草木ダム」のダムカード

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 日照東照宮は、今回ゆっくり見学できなかったが、修理が終わった「陽明門」をはじめ鮮やかになった彫刻を見ることが出来てた。次に行く機会があれば、「輪王寺」や「二荒山神社」のほうもゆっくり回ってみたい。

2018年6月 6日 (水)

平城宮跡

 2018/5/26(土)~28(月)、2泊3日の奈良・大和路探訪の旅。

 《大和は国のまほろば、史跡が点在する奈良大和路をめぐり、古代の歴史・文化を学ぶ》

 

 2日目の27日(日)は、平城宮跡(奈良市)、法隆寺(斑鳩町)、山の辺の道(桜井市)を回る。本ブロク記事「春日大社と興福寺」のつづき。

 

 5:30起床、朝の散歩は奈良公園、興福寺。7:00~朝食。 この日のスケジュールがタイトなので、チェックアウトを早めに済ませて7:50出発。「奈良白鹿荘」からオリックスレンタカー近鉄駅前店(奈良市高天町)まで約500m、徒歩で10分ほど。8:20レンタカー店を日産シルフィ―を借りて出発。

 8:35、「平城宮跡資料館」の駐車場(無料)着。NPO法人「なら・観光ボランティアガイドの会」で前日もお世話になった観光ガイドのTさんと待ち合わせ。
 

 「平城宮跡」は710年、藤原京(現在の橿原市)より奈良盆地の北端に遷都された平城京(奈良市)の宮跡。唐の長安をモデルに南北5Km、東西約6Kmの都が建設された。1998年(平成10年)、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産に登録された。

 下のマップは、奈良文化財研究所のパンフ「平城宮跡ガイド」から転載。(クリックすると拡大表示します。)

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 平城京の北端中央に、政治の中心となる「平城宮」が造られた。政治・儀式の場である「大極殿(だいごくでん)」と「朝堂院(ちょうどういん)」、天皇の住まいである「内裏(だいり)」、宴会を行う庭園、都を治める役所が並んでいた。

 「平城宮」は、約1 km四方の大きさで、周りには大垣がめぐらされ、朱雀門をはじめ12の門が置かれた。中に入ることができたのは、皇族・貴族、役人や使用人など、ごく限られた人々だった。

 「平城宮跡」は、文化庁所管の独立行政法人・国立文化財保護機構の「奈良文化財研究所」が1959年(昭和34年)から発掘調査を続けている。その成果を分かり易く解説する施設として、2010年(平成22年)に「平城宮跡資料館」がリニューアルオープンした。


 9:00、「平城宮跡資料館」開館に合わせて入館(無料)。

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 官衙(かんが=役所のこと)復元展示コーナーにある大極殿(奥の建物)と周囲を回廊で囲まれた「大極殿院」。

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 平城宮で働く人々、役人と武士についてのパネルと展示物。

 手前は役人のベルトと金具、役所名の入った土器。中央に、右から硯(すずり)と水差し、木簡。左端は、鍵(海老錠)。

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 左端は、武士の盾と矢。

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 宮殿復元展示コーナーでは、天皇や皇族が暮らしていた宮殿の内部を再現。

 寝室のベッド(中央)。

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 書斎(左)と居間(右、囲碁が置いてある)。

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 食卓。古代の貴族が食べてた食材は、現代人も食べているようなもの。

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 遺物展示コーナーでは、発掘調査の出土品を展示。

 出土した土器など。

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 瓦などの出土品。

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 「平城宮跡資料館」を出て、東に400mほど先にある「第一次大極殿」に歩いて向かう。
 
 

 平城京遷都1,300年の年の2010年(平成22年)、「第一次大極殿」が復原された。入館無料。

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 1階の大きなガラス部分は、当時では吹き抜けになっていたらしい。間口44m、奥行20m、屋根の高さ27mで、平城宮で最大の建物だったそうだ。

 奈良時代75年の間で、聖武天皇は740年から745年までに、恭仁(くに)京、難波(なにわ)京などへ都を移した。その前後で平城京の宮殿や役所は大きく造りかえられたという。

 復元された「第一次大極殿」は、奈良時代前半のもので、聖武天皇は745年に都を再び平城京に戻し、東の内裏の南側に新しい大極殿を造った。これを「第二次大極殿」と呼ぶそうだ。「第二次大極殿」の建物は復元されていないが、基壇や礎石が復元されているそうだ。

 大極殿の内部に展示されていた屋根の「鴟尾(しび)」の模型。

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 鴟尾は、瓦葺屋根の大棟の両端につけられる飾り。東大寺大仏殿にもあって、寺院・仏殿などによく用いられる。鯱(しゃちほこ)とは異なる。

 天皇が着座する玉座(ぎょくざ)の「高御座(たかみくら)」。

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 文献・史料を参考にして製作されたという。天皇の即位の儀式や元日の朝賀に使われたそうだ。

 2階に上がる。木材の加工・組み立てについての展示。古代の方式で加工・組み立てられた。

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 天井の装飾。

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 飾り金具の加工プロセスの展示。古代の方式で金属加工がされた。

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 大極殿の2階から、平城宮跡全体の見晴らしが良い。

 大極殿から、遠くに東大寺大仏殿、興福寺五重塔、若草山、春日山、奈良の大文字焼きが行われる高円山(たかやどやま)を展望。(写真では、霞んでいてうまく撮れず。)

 右下の「東大寺大仏殿」の屋根と後ろの芝生の山は「若草山」。

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 中央に「興福寺五重塔」。

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 「第一次大極殿」の南側は、儀式の時に貴族が整列した広場。「朱雀門」は、ここから800m先に真南にあり、歩いて行く時間もないので「大極殿」から見るだけにする。

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 「朱雀門」のズームアップ。1998年(平成10年)に復元された。

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 当時は、「朱雀門」からは平城京の入口となる「羅生門」まで、「朱雀大路」と呼ばれる幅74mのメインストリートが3.7Kmも真っ直ぐに続いていた。

 

 平城宮跡にはそのほかに、「東院庭園」が1998年(平成10年)の復元された。ここは、皇太子の宮殿があった「東院」(=東宮)に造られた庭園。皇族の儀式や宴会が行われた。

 また、多数の出土品や発掘した遺構を公開している「遺構展示館」がある。いずれも入場無料だが、時間の都合で見学は割愛。 

 10:10、「平城宮跡」を出発。次は斑鳩町の「法隆寺」に車で向かう。

 次は、本ブロク記事「法隆寺」につづく。

 

 

 ★ ★ ★

●朱雀門ひろば

 特別史跡「平城宮跡」の国有地は、一部周辺区域を含めて「国営平城宮跡歴史公園」として平成20年度(2008年度)に事業化され、2018年3月には公園正面に観光拠点ゾーンとして「朱雀門ひろば」がオープンした。

 国土交通省国営飛鳥歴史公園事務所「平城宮跡歴史公園」のホームページから転載。

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 「朱雀門ひろば」には、交通ターミナル、レストランやショップ、サイクリングなどのレジャー施設、イベント会場、平城宮跡の紹介や県内の物産・観光情報の施設などがあるそうだ。今後は、平城宮跡全体を国営公園として公園基本計画に基づき保存・整備していくという。管轄は国道交通省。

 近鉄奈良駅方面から「平城宮跡資料館」に向かう阪奈道路(大宮通り、国道369号線)から、池に浮かんだ遣唐使船(復元)が目に留まったが、これが「朱雀門ひろば」だった。
 
 

●棚田嘉十郎(たなだ かじゅうろう)

 明治・大正の時代、私財を投げ打って平城宮跡の保存活動を行った「棚田嘉十郎像」が「朱雀門ひろば」の「天平いざない館」の前に立っているそうだ。右手は大極殿に向かって指さし、左手に出土した瓦を持っているという。

 江戸時代後期、幕府の役人・北浦定政の調査で研究が始まった平城宮は、1897年(明治30年)奈良県技官で東京大学名誉教授・関野貞、同じく奈良県技官の塚本慶爾らによって発見された。しかし平城宮跡は長年放置されていたため荒れ果てたり、田畑が広がったりしていて、かつての首都は見る影もなかった。

 棚田嘉十郎(1860−1921)は、大和奈良町の植木職人で、奈良公園の植栽を手がけていた。しばしば観光客に「平城宮跡」の場所を尋ねられたが、棚田は場所を知らず答えることができなかった。これを奈良人として恥と思った棚田は、1900年(明治33年)宮跡の土地を農民から買い取るなどして、保存運動を始める。自宅を売却し貧窮の中、様々な人達の協力を得ながら、資金集めに東西奔走する。宮跡の保存と顕彰に一生をかける。

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 写真の出典:ウィメディアコモンズ(1936年9月17日読売新聞朝刊)

 そして1912年(明治45年)国鉄奈良駅前に道程を示す大石標を建てる。1913年(大正2年)発起人として「平城宮大極殿跡保存会」を発足させた。1921年(大正10年)、トラブルに巻き込まれ死去、62歳だった。信頼していた仲間に裏切られ、責任を負って割腹自殺をしたとされる。

 棚田嘉十郎のことは、「平城宮跡資料館」のパネルで紹介されていた。あとで詳しく調べてみると、宮跡の裏にはこういう立派な先覚者がいたことを知って感銘を受け、改めて敬意を重ねた。

 棚田が死後、彼の仲間たちによって運動は続けられ、平城宮跡地は国に献上され、1922年(大正11年)に内務省によって第二次大極殿・朝堂院が史跡に指定された。

 

●整備計画
 
  もう40年以上前のことだったが、近鉄奈良線の車窓から「平城宮跡」を眺めた時、単なるだだっ広い草原だったようだった。ピクニックなどに利用されていたと聞く。

 文化庁による「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想」に基づき、遺跡の整備・建造物の復元が進められている。費用は全額国費で行われている。既に「第一次大極殿」、「朱雀門」、宮内省地区、「東院庭園」地区などの復元が完了している。

 また、国営公園化が決定しており国土交通省主管で、敷地内を横切る近鉄奈良線と県道104号谷田奈良線(一条大路)の移設や住民の立ち退きが検討されている。整備計画区域内の「朱雀門」南西側には、かつて積水化学の奈良工場があった。2014年(平成26年)中に工場は大和郡山市へ移転し、跡地は交通ターミナルになっている。文化庁の発掘作業もまだ全体の3、4割程度だそうだ。国土交通省は、この宮跡を国営公園として数十年をかけて整備していくという。

 しかしこの歴史的文化財を保護・保全していくために、何故国土交通省なのだろうか。文化庁を中心として、発掘作業や調査研究ををさらに進め、平城宮の全体像を明らかにすることが先決ではないだろうか。当時設計図もない時代の建物を、推定や想像で復元していくことは、歴史をゆがめるというリスクもある。遺跡をテーマパークや観光施設のようにして良いのだろうか。疑問がいくつか湧いてくる。

2018年6月 2日 (土)

春日大社と興福寺

 2018/5/26(土)~28(月)、2泊3日の奈良・大和路探訪の旅。

 《大和は国のまほろば、史跡が点在する奈良大和路をめぐり、古代の歴史・文化を学ぶ》

 1日目の26日(土)午後から、奈良公園の東大寺、春日大社、興福寺を回る。本ブロク記事「奈良・東大寺」のつづき。

 

 「東大寺」の見学を終え、「若草山」(標高342m)を左に見ながら、若草山南ゲート前を通り過ぎる。

 春日山遊歩道を横断、水谷(みずや)茶屋の前を通って「水谷川」を渡ると、15:25「春日大社」の境内に入る。

 「春日大社」は、全国に約3000社ある春日神社の総本社。中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された。社殿は、春日山(御蓋山=みかさやま、標高294m)の麓にあり、広大な神域手つかずの「春日山原始林」が残されている。

 境内には、春日大社の多数の摂社・末社(摂末社=神社本社管理する小規模な神社)がある。うち代表的な摂社2社を記載する。

 摂社「水谷(みずや)神社」は、「若草山」と「春日山」の間を流れる「水谷川」のほとりにあり、うっそうとした森に覆われた摂社。

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 「水谷神社」の敷地・規模は、春日大社の摂末社の中では大きなもの。素盞鳴命(すさのおのみこと)、大巳貴命(おおなむちのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)の3柱が御祭神。平安時代から幕末までの神仏習合時代は、祇園精舎の守護神で医薬の神として尊崇されていた。古くより霊験あらたかな神様として名高く、病気平癒や子授けを祈る人が多い。鳥居の正面、神社に向かい合う位置に、有名な「子授石」が祀られていた。

 摂社「一言主(ひとことぬし)神社」は、水谷神社の南側にある。

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 祭神は、一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)。平安時代初期に興福寺境内に創建されたものを遷す。「一言(一件)を真心こめて祈願すれば、必ず叶えて下さる神様としてお参りが多い。」という。

 「一言主神社」をさらに南に進むと、摂社「総宮(そうぐう)神社」があり、そこで左(東側)に折れると本殿の参道。

 参道の脇に、阿倍仲麻呂(「あべのなかまろ)の歌碑があった。

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 3年ほど前に奈良市民から、仲麻呂の冥福を祈って、春日大社に奉納された。

 歌碑には、

 遣唐留学生 阿倍仲麻呂公

    喜びも やがて悲しき望郷の歌 

 「天の原 ふりさけ見れば 春日なる  

    御蓋山(みかさのやま)の山に いでし月かも

                   古今和歌集 巻第九

 と、刻まれている。

 参道には石灯籠が並ぶ。境内には大小の石灯籠が、全部で2,000基もあるそうだ。

 正面は、西回廊の「内侍門(ないしもん)」。

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 「内侍門(ないしもん)」から西回廊を通って「慶賀門」を抜け、参拝所のある「幣殿・舞殿(へいでん・ぶでん)」へ。参拝所の左手の屋根に大杉が見える。

 15:40、二礼二拍手一礼で参拝。右手に「特別参拝受付」があり、500円で回廊内を進み「中門」前で本殿のそばで参拝できるそうだが、割愛する。

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 参拝所の右端から、朱に塗られた「中門・御廊(おろう)」(重要文化財)を覗く。「中門」は高さ10m。ここから見えないが、その奥に本殿がある。

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 写真は、春日大社の本殿(出典:ウィキメディア・コモンズ)。本殿は国宝で、主祭神4柱の春日造り4棟が並ぶそうだ。

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 主祭神は、以下の4柱。

  ・武甕槌命(たけみかづちのみこと)  - 藤原氏守護神(常陸国鹿島の神)

  ・経津主命(ふつぬしのみこと)     - 同上(下総国香取の神)

  ・天児屋根命(あめのこやねのみこと)- 藤原氏の祖神(河内国平岡の神)

  ・比女神(ひめがみ)            - 天児屋根命の妻(同上)

 総称して春日神と呼ばれ、藤原氏の氏神である。

 1998年(平成10年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)に「古都奈良の文化財」の一つとして登録された。

 

 一之鳥居に向かって長い参道を進むと、右手に歴史的な建物がある。

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 ここは、仏教美術資料とその関連資料の調査研究と保管・公開を目的として設置された「仏教美術資料研究センター」。「奈良国立博物館」管理の施設(重要文化財)だそうだ。建築史学者・関野貞の設計により、1902年(明治35年)に竣工した旧「奈良県物産陳列所」だった。

 さらに進むと、ムクロジの大木。幹が空洞になって、そこから竹が数本伸びている。

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 秋に実るムクロジの果実は、黄褐色で半透明。中に真っ黒い堅い種子が入っている。 この種子は、羽根突きの球や数珠に用いられ、また果被には石鹸の成分サポニンが含まれていて代用品ともなったという。

 

 

  一之鳥居から国道169号線を横断、16:15「興福寺」に到着。

 「興福寺」は、藤原氏の祖・藤原鎌足の子息・藤原不比等(ふひと)が、710年(和銅3年)に創建した寺院。藤原氏の氏寺で、名門・藤原氏とともに古代から中世にかけて大いに栄えた名刹。1998年に「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録された。

 「国宝館」に入館(拝観料700円)。国宝館・東金堂共通券が900円だが、いずれも閉館は17:00、16:45迄に入館しなくてはならないため、「東金堂」への入館はあきらめる。

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 「興福寺」の国宝仏像の件数は全国トップの17件で、全体の13%を所蔵しているというから驚く。今年(2018年)1月にリニューアル・オープンした。ガラスケースを外した露出展示、照明や空調が充実しているらしい。

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 有名な「阿修羅像」を含む「八部衆」や釈迦の「十大弟子像」、筋骨隆々の「金剛力士像」、ユーモラスな「天燈鬼・龍燈鬼」などは必見。

 

 館内はやはり撮影禁止、以下に主な展示物を記載する。

 ・乾漆「八部衆立像」(国宝)

 - 奈良時代の作。もと「西金堂(せいこんどう)」の本尊・釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の一つ。体の一部が欠損しているものもあるが、八部衆8体が揃って現存。

 八部衆の中でも、三面六臂(さんめんろっぴ、顔が3つで手が6本)の「阿修羅像」は著名。写真は、拝観券から転載。

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 下の写真は、『週刊 日本の仏像』№1興福寺①(講談社)から転載。

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 第一手は胸前で合掌、第二手は日輪と月輪を、第三手はに弓と矢を掲げていたといわれている。少年のようなリアルな顔、像長は156cmの人間の身長に近いので、親しみを感じる。下の写真の出典:ウィキメディア・コモンズ。

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 他の八部衆は順に、畢婆迦羅(ひばから)、五部浄(ごぶじょう)、沙羯羅(さから)、乾闥婆(けんだつば)、鳩槃荼(くはんだ)、緊那羅(けんなら)、迦楼羅(かるら)。五部浄だけは胸から下が無い。写真の出典:『週刊 日本の仏像』№1興福寺①(講談社)。

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 像長は、阿修羅と同じくらいの149cm~160cm。

 
 ・乾漆「十大弟子立像」6体(国宝)

 -奈良時代の作。「八部衆像」とともに、「西金堂(さいこんどう)」本尊・釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の一つ。十大弟子は釈迦の弟子の中でも優れた10人のことで、当初は10体の群像であったが、4体は明治時代に寺外へ流出した。写真は、10体のうちの一つ、釈迦の実子・羅睺羅(らごら)と伝えられている。写真の出典:『週刊 日本の仏像』№1興福寺①(講談社)。

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 ・銅造「旧山田寺仏頭」(国宝)

 - 白鳳文化を代表する作品。飛鳥の「山田寺」(桜井市)講堂の本尊だった。後に「東金堂」の本尊となったが、室町時代の落雷火災で頭部だけがかろうじて焼け残った。写真の出典:ウィキメディアコモンズ。

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 ・木造「金剛力士立像」 (国宝)

 -鎌倉時代の作。吽形(うんぎょう、左)と阿形(あぎょう、右)。寺門に立ち伽藍(がらん)を守護するのが役目だが、ここでは「西金堂」の本尊の左右前方に安置されていたという。写真の出典:ウィキメディアコモンズ。

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 ・木造「天燈鬼・龍燈鬼立像」(国宝)

 -鎌倉期彫刻の傑作。 大きな燈篭を、天燈鬼は肩にかつぎ、龍燈鬼は頭上で支える。像高は、いずれも77cmで、他の仏像に比べ子供くらいの大きさ。写真の出典:ウィキメディアコモンズ。

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 ・木造「千手観音立像」(国宝)

 - 鎌倉時代の1229年頃に完成。もとは興福寺「食堂(じきどう)」(僧が食事するお堂)の本尊。現在は、食堂の跡地に建つ「国宝館」の中央に安置される。高さ520cm、見上げるような巨像。記録によると、制作途中で仏師(運慶の父の兄弟子)が亡くなり放置されたりしたため、完成まで4半世紀の歳月を要したという。写真の出典:『週刊 日本の仏像』№1興福寺①(講談社)。

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 16:45、「国宝殿」を退館。

 

 国宝「五重塔」は高さ50m、奈良のシンボルで夜はライトアップされる。左は、国宝「東金堂(とうこんどう)」。

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 興福寺の五重塔は、現存する古塔では、京都「東寺」に次ぐ高さ。奈良時代に光明皇后(藤原不比等の娘)が730年(天平3年)に創建。以後、5回の焼失と再建を繰り返し、現在の建物は室町時代の6代目。(下の写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 「東金堂」は、興福寺に3つある金堂の一つ。時間がなくて入館(拝観料300円)せず。(下の写真の出典:ウィキメディア・コモンズ。)

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 「東金堂」の主な仏像は、以下の通り。(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ。)

 ・銅造「薬師三尊像」(重要文化財)

 -本尊の「薬師如来坐像」は、1411年(応永18年)の火災後の再興像で室町時代の作。脇侍の「日光・月光菩薩立像」は応永火災の際に救出されたもので、飛鳥時代後期の作。

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 ほかにも、「東金堂」には、18体の国宝仏が安置されているそうだ。

 

 興福寺の中心となる巨大なお堂「中金堂」は、江戸時代中期に焼失して以来、約300年ぶりに再建中。今年(2018年)10月に、落慶法要と公開が予定されている。下の写真は、翌朝に撮影した。

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 「南円堂」(重要文化財)は、江戸時代に再建された日本最大の六角円堂。(写真は、翌朝撮影)

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 南円堂は、「西国三十三ヶ所観音霊場」の第9番札所で、参拝者が絶えないそうだ。本尊は木造の「不空羂索(ふくうけんさく)観音坐像」で、高さ336cmの巨像。木造「法相六祖坐像」は、6名の高僧の肖像彫刻。いずれも国宝で、毎年10月17日の開扉日のみの公開されるそうだ。

 国宝「北円堂」には、国宝の仏像などを安置。春と秋に特別開扉される。柵に囲まれて、うまく写真が撮れなかった。下の写真の出典:ウィキメディア・コモンズ。

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 境内の隅の目立たない場所に、国宝「三重塔」(写真は、翌朝撮影)もあった。

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 17:00興福寺の境内を出ると、すぐに「ひがしむき商店街」。商店街を北へ。

 「ひがしむき商店街」、近鉄奈良駅前で観光ガイドのTさんと別れ、「花芝商店街」へ。17:10頃宿泊先の「奈良白鹿荘」着。

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 「奈良白鹿荘」は、近鉄奈良駅(東)1番出入口を北へ徒歩2分のところ、奈良市花芝町にある。樹齢2千年以上という古代檜の大浴場は珍しい。夕食は、部屋食で18:30~。22:00頃就寝。

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 次は、本ブロク記事「平城宮跡」につづく。
 

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 「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 御蓋山(みかさのやま)の山に いでし月かも

 阿部仲麻呂(あべのなかまろ)は高貴な身分で、容姿端麗、しかも飛び抜けた秀才であった。17歳(数え歳)で吉備真備(きびのまきび)らと一緒に遣唐使として唐に渡った。日本人として初めて科挙に合格し、乞われて仲麻呂だけが唐の朝廷に入って、皇帝に仕えた。

 33歳の時に帰国を申し出るが玄宗皇帝の許しを得られず、53歳の時にやっと30年数年ぶりに一時帰国を許された。

 日本へ出航する日に送別会が開かれ、停泊中の船の中で海から上った満月を見ながらこの歌を詠んだ。

 この海を天の原(広々とした大空)に例え、「天の原をはるかに見渡したときに見える月、この月は私の故郷の春日大社にある御蓋の山(春日山のこと)の上に出る月と同じなんだよなぁ」

 末尾の「かも」に込められた想いがある。百人一首にも選ばれている。

 仲麻呂の乗った帰国の船は難破し、ベトナムに漂着する。やっとの思いで唐の都・長安へ戻ったものの、日本へ帰国の夢はついに叶わず、70歳でこの世を去った。
 

 ★ ★ ★

 「八部衆」は、「天龍八部衆」とも呼ばれ、仏法を守護する8神。仏教が流布する以前の古代インドの鬼神、戦闘神、音楽神、動物神・・・だったが、釈迦の教えを受け仏教に帰依、仏法と仏教徒を守護する「天部(てんぶ)」。「十大弟子」と共に釈迦如来の使者を務める。

 「天部」は、仏教において天界に住む者の総称で、「天部神」ともいう。インドの古来の神が仏教に取り入れられて守護神となったもの。梵天、帝釈天、吉祥天、弁才天、伎芸天、鬼子母神、大黒天、四天王、竜王、夜叉、聖天、金剛力士、韋駄天、天龍八部衆、十二神将、二十八部衆・・・などの種々の「天部」が存在する。仏像においては、「如来」、「菩薩」、「明王」、「天部」という序列において、「天部」はトップから4番目にあたる。


 「アスラ(阿修羅)」は、インドにおける悪魔・鬼神で、戦闘を好み、インドラ(帝釈天)と争う。仏教に取入れられたアスラは、生き物が輪廻転生する6種の生存状態「六道」の一つ。また仏教を守護する8種の神格的生物の一種「八部衆」の一つとされた。

 「六道」とは、天道(てんどう)、人間道、修羅道(阿修羅道とも)、畜生道(ちくしょうどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道をいう。修羅道は、阿修羅が住む世界。修羅は終始戦い、争うとされる。苦しみや怒りが絶えないが、地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界という。「修羅場」という言葉は、ここから来ている。

 興福寺の正面の少年のような阿修羅像は、帝釈天を向こうに廻して荒々しい合戦を繰り返し、醜怪な鬼神からはとてもイメージできない。この神が釈迦の教えによって、仏法の守護神となった姿だという。

 しかし、やや眉間を寄せ悲しげにも見える表情の奥に、何か激しいもや迷いなどが秘められているように思える。そして正面と左右の顔は、微妙に違っていて、この神秘的な表情は、荒々しい心が仏の教化によって目ざめ、安らかな顔つきになるプロセスを表わしている。恐ろしい顔から清々しい顔へと移り行く過渡期の表情を、見事に表現している。

 阿修羅像は少年のような顔つきだが、大人から逆に無垢な子供のような清純な優しい顔になっていく途中(少年)を表現したのではないだろうか。

 

 関連ブログ記事

  「奈良公園(春日大社)」 2012年11月11日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-c8a1.html

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