法隆寺
2018/5/26(土)~28(月)、2泊3日の奈良・大和路探訪の旅。
《大和は国のまほろば、史跡が点在する奈良大和路をめぐり、古代の歴史・文化を学ぶ》
2日目の27日(日)は、平城宮跡(奈良市)、法隆寺(斑鳩町)、山の辺の道(桜井市)を回る。本ブロク記事「平城宮跡」のつづき。
10:10、「平城宮跡」をレンタカーで出発、県道9号線を南西方向へ進む。大和郡山市の「郡山城址」を左手に見ながら、やがて生駒郡斑鳩(いかるが)町へ。
「平城宮跡」から車で30分ほど、10:40「法隆寺」観光自動車駐車場(500円)に到着。予約していた「斑鳩の里観光ボランティアの会」のIさんが、観光案内所(法隆寺iセンター)で待機している。ガイド料は無料。
10:45、ガイド開始。国道25号線の交差点から南大門に向かう松並木。幅2mほどの参道が、真っ直ぐに350mほど続く。
この参道は、鎌倉時代1261年に後嵯峨上皇が行幸された時に整備されたといわれている。起点は反対方向50m先にあったが、国道25号線で分断された。
参道の両側には車道と舗装された歩道があり、食事処やおみやげ屋が並ぶ。
「法隆寺」全体の玄関となる「南大門」(国宝)。室町時代の1435年焼失、1438年に再建。、
「法隆寺」は、7世紀に創建。古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設で、聖徳太子ゆかりの寺院。現在、18万7千㎡に及ぶ「法隆寺」の境内は、「五重塔」と「金堂(こんどう)」を中心とする「西院伽藍(せいいんがらん)」と「夢殿」を中心とする「東院伽藍(とういんがらん)」に分かれ、その間に寺宝を公開する「大宝蔵院(だいほうぞういん)」がある。
約190件の国宝・重要文化財、点数にして3,000点を所蔵する「法隆寺」は、1993年日本の中で一番最初の世界文化遺産として、「姫路城」と共に登録された。
「南大門」を抜けると、石畳の長い参道に先には、修理中の「中門(ちゅうもん)」。後方に「五重塔」の相輪(そうりん=屋根から突き出た金属製の部分)が見える。
参道左右の土塀「築垣(ついがき)」も重要文化財。土塀に囲まれた中は、寺務所など寺関連の施設があり小さな門がいくつかあるが、立ち入り禁止。
「南大門」の方向を振り返る。左の大きな建物は、護摩堂。
●西院伽藍
西院伽藍の入口の「中門」(飛鳥時代、国宝)は修理中。
「中門」の左右には、我が国最古の塑像の仁王像「金剛力士像」(奈良時代、重要文化財)が立っているそうだ。
西伽藍は、凸形の「回廊」(飛鳥時代、国宝)に囲まれている。「中門」から入れないので、左の回廊から入る。
西院伽藍、大宝蔵院、東院伽藍の三つのエリアを回る共通拝観券1,500円。
「法隆寺」では、屋外から建物の撮影はOKだが、内部はすべて撮影禁止。
「五重塔」は、「金堂(こんどう)」と並んで世界最古の木造建築で、「法隆寺」を代表する建築。もちろん「五重塔」と「金堂(こんどう)」は、国宝。
基壇からの高さは32.5m。初重から五重までの屋根の大きさの減少する割合が高いことが特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。このことが、塔の安定感と美しさとなっているそうだ。
「五重塔」の堂内東西南北面には、塑造(粘土作り)の小像群(塔本塑像、奈良時代711年、国宝)が設置されている。
下の4枚の写真は、『週刊 日本の仏像』№3法隆寺釈迦三尊と金堂、五重塔(講談社)から転載。
・涅槃像土(ねはんぞうど、北面): 中央の釈迦の涅槃(ねはん)を表わしている。釈迦の足元に阿修羅がいる。涅槃とは、全ての煩悩が消滅、安らぎの境地、心の迷いがなくなった状態のことで、死を意味する。
・維摩詰像土(ゆいまきつぞうど、東面): 維摩詰居士(ゆいまきつこじ=インドの裕福な在家弟子、中央左)が知恵のある文殊菩薩(右)と問答をする場面。
・分舎利仏土(ぶんしゃりぶつど、西面): 北面の涅槃に続く仏身の荼毘(だび=火葬)と仏舎利(ぶっしゃり=仏の遺骨)の供養の様子。最上段中央に棺を置き、その下部に舎利塔が安置されている。
・弥勒仏像土(みろくぶつぞうど、南面): 弥勒は釈迦の次に仏となることが約束された菩薩(修行者)で、釈迦の涅槃後の56億7千万年後にこの世に現われて悟りを開き、多くの人々を救済するという未来図。
五重塔の相輪の根元には、理由は不明だが鎌が4本掛けられている。雷除けともいわれているそうだ。
薄暗い金堂内には、釈迦三尊像、薬師如来坐像、阿弥陀三尊像、四天王立像、毘沙門天・吉祥天立像の傑作が並んで安置され、古代に引き込まれるような荘厳な雰囲気だ。
金堂の内部。右から釈迦三尊像、吉祥天立像、四天王立像(増長天)。「法隆寺畧縁起」パンフレットから転載。
・聖徳太子のために造られたという釈迦三尊像(飛鳥時代、国宝)。金堂の中央に配置。
以下の7枚の写真は、『週刊 日本の仏像』№3法隆寺釈迦三尊と金堂、五重塔(講談社)から転載。
・太子の父・用明天皇にために造られたという薬師如来坐像(飛鳥時代、国宝)。釈迦三尊像の右手に安置。
・母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后のために造られた阿弥陀如来坐像(鎌倉時代、重文)。釈迦三尊像の左手に安置。
・四天王立像(4体のうちの増長天と持国天、白鳳時代、国宝)。釈迦、薬師、阿弥陀を守護するため、邪鬼(じゃき)の上に立っている。
・後方に立つ吉祥天立像(左)と毘沙門天立像(右)(いずれも平安時代、国宝)。
法隆寺の仏像や工芸品のほかに、金堂の壁画は日本の仏教絵画の代表作として国際的にも芸術的価値の高いものであった。しかし1949年(昭和24年)壁画模写の作業中、不審火によって焼損した。1967年(昭和42年)に再現壁画が製作され、現在金堂内の壁にはめ込まれているのを見ることが出来た。なお黒こげになった旧壁画(重文)と柱は、収蔵庫に保管されていて非公開だそうだ。
「大講堂」(国宝)は、平安時代の925年に焼失後、990年に再建した。仏教の学問研鑚や法要を行う場所である。
「大講堂」には、薬師三尊像(平安時代、国宝)と四天王像(重文)が安置されている。
下の写真は、『週刊 日本の仏像』№3法隆寺釈迦三尊と金堂、五重塔(講談社)から転載。
「大講堂」の右手、中央の「鐘楼」は平安時代(国宝)だが、梵鐘は飛鳥時代で今でも当時の音色を響かせているという。写真に写っていないが、大講堂の左手には奈良時代の「経蔵」(きょうぞう=経典を納める施設、国宝)が、「鐘楼」と対称な位置に建っている。
「大講堂」の前に設置されている葵の紋のある灯籠。元禄時代、伽藍修理に五代将軍綱吉の母・桂昌院 が多額の寄付をしたという。
「西伽藍」を出たところの「鏡池」の傍に、正岡子規の句碑が建っている。
子規の作品のうち、最も有名な句の一つ。
法隆寺の茶店に憩ひて
柿くへば 鐘が鳴るなり法隆寺
子規
「法隆寺に立ち寄って茶店で一服し、柿を食べていると法隆寺の鐘が鳴り、その響きに秋の訪れを感じた。」
句碑は子規の自筆の書からとったそうで、「法隆寺の茶店に憩ひて」は前書き。今はもうないが、当時はこの場所に茶店があったそうだ。柿が季語で、奈良名産の「御所柿」と考えられているという。
子規の句碑から北へ「大宝蔵院」へ向かうコースの途中に、「聖霊院」、「東室」、「妻室」、「食堂」などの建物がある。
「聖霊院(しょうりょういん)」(鎌倉時代、国宝)は、聖徳太子を祀るために聖徳太子坐像(拝観せず)が安置されているという。元々は「東室」(僧坊)だったものが、平安末期の1121年に再建された時に南側の一部を「聖霊院」 とした。
「聖霊院」 奥(北側)の「東室(ひがしむろ)」(奈良時代、国宝)は、上位の僧侶が生活していた長屋のような住居(僧坊)。
「東室」と向かい合う「妻室(つまむろ)」(平安時代、重文)も、同じく僧侶が生活していた住居(僧坊)。下位の僧侶が住まいらしい。
僧侶が食事をする「食堂(じきどう)」(奈良時代、国宝)を右手に見て、「大宝蔵院」へ。
●大宝蔵院(だいほうぞういん)
百済観音像をはじめとする貴重な寺の宝物を公開している。西宝殿、百済観音堂、東宝殿の3つの建物がつながっている。1998年(平成10年)に落成。木造建築のように見えるが、コンクリート造り。
大宝蔵院の門を入ると、中庭があって正面は百済観音堂。
・夢違(ゆめちがい)観音像(飛鳥時代後期(白鳳期)、国宝)は、悪夢を良夢に替えてくれるという伝説からこの名がある。
写真の出典:『週刊 日本の仏像』№3法隆寺釈迦三尊と金堂、五重塔(講談社)。
・推古天皇ご所持の仏殿と伝えられる玉虫厨子(飛鳥時代、国宝)。透かし彫りの飾金具の下に本物の玉虫の羽を敷き詰めて装飾した。教科書で見た事があった。煤けていて当時のようなきらびやかさはない。写真は、「法隆寺畧縁起」パンフレットから転載。
・橘夫人厨子(国宝)の厨子内の本尊・阿弥陀三尊像は、飛鳥時代後期(白鳳期)の金銅仏の代表作で、蓮池から生じた3つの蓮華の上に三尊像が坐する。
以下4枚の写真の出典は、ウィキメディア・コモンズ。
・九面観音像(国宝)は唐から渡来の像。香木を用い、白木で仕上げた白檀造りの像。細かい装身具、体部から遊離している耳飾や天衣まで完全に一木で彫り上げた像。
・地蔵菩薩立像(平安時代、国宝)は木造。桜井市の「大神神社(おおみわじんじゃ)」の神宮寺である「大御輪寺(だいごりんじ)」にあったが、明治の神仏分離で「法隆寺」へ移動したという。
・金堂小壁画(重文)。1949年の金堂の火災の際、取り外されていたため難をまぬがれた、小壁の天人の壁画20面のうち一部が展示されている。
写真は、天女(天人?)が描かれた飛天図(小壁20面のうち14号)。
・百済観音像(飛鳥時代、国宝)は、細身で九頭身の像。多くの文芸作品の中で絶賛されてきた有名な像であるが、その伝来などはほとんど不明だという。写真は、「法隆寺畧縁起」パンフレットから転載。
●東院伽藍
「東院伽藍」は、聖徳太子一族の住居であった「斑鳩宮」の跡に建立された。739年(天平11年)、荒廃している「斑鳩宮」を嘆いた僧・行信の創建とされる。回廊で囲まれた中に八角円堂の「夢殿」が建ち、回廊南面には「礼堂」、北面には「舎利殿・絵殿」、その北に接して「伝法堂」が建つ。
八角円堂の「夢殿」(奈良時代、国宝)は、堂内に聖徳太子の肖像と伝わる等身像の救世観音像を安置する。飛鳥時代の仏像の特徴を備え、顔の表情は神秘的だ。
・観音菩薩立像(救世観音)・・・出典:『週刊 日本の仏像』創刊号特別付録(講談社)。
・行信僧都坐像(国宝)は、奈良時代の乾漆像。行信は、東院伽藍を創建した僧。写真の出典:ウィキメディア・コモンズ。
「舎利殿・絵殿」は、石段部分より東側(右側)が舎利殿、西側が絵殿。
舎利殿には聖徳太子が2才の時、合掌した手の中から出て来たという舎利(仏の遺骨)を安置する建物。絵殿には聖徳太子一代の事跡を描いた障子絵が納められているそうだ。入堂せず。
「伝法堂」(奈良時代、国宝)は、時間の関係で見学せず。聖武天皇夫人の橘古奈可智(たちばなのこなかち)の住居を移転して仏堂に改めたものとされる。堂内には奈良・平安時代の多数の仏像を安置するが、公開していない。
13:00、ガイド終了。
参道沿いの駐車場まで歩いて戻る。
13:20~13:55食事処「平宗(ひらそう)法隆寺店」で昼食。奈良ランチ(奈良名産の柿の葉寿司と二輪そうめんのセット)1,150円。
次は、本ブロク記事「山の辺の道」につづく。
★ ★ ★
生駒山地の南端近くに位置する「法隆寺」のあるこの斑鳩の地は、大和川が流れていて大和(奈良)と河内(大阪)とを結ぶ交通の要衝だったそうだ。
『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(うまやどのおうじ)は601年、飛鳥からこの地に移るため「斑鳩宮」の建造に着手し、605年に移り住んだという。付近には、藤ノ木古墳を始めとする多くの古墳や遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたそうだ。現在の法隆寺東院伽藍が、「斑鳩宮」のあったところ。この宮に接して建立されたのが「斑鳩寺」(法隆寺)であった。
聖徳太子は、この地から政治の中心・飛鳥京(現・明日香村)まで馬で通ったというが、直線でも17Kmもある。現代の車だと走行距離20km余り、所要時間は40分前後は掛かる。ここが交通の要衝で、内外の情報がいち早く入手できたというが、ちょっと信じ難い。
聖徳太子は用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみ)ことされる。内外の学問に通じ、叔母の推古天皇を助け、蘇我馬子と共同して政治を行い、遣隋使を派遣するなどして中国の文化・制度を学び、冠位十二階や十七条憲法などを制定。天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。大陸から仏教を導入し、神道と共に熱く信仰し、仏教興隆につとめたともされている。
用明天皇は、自らの病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを発願したが、実現しないまま崩御された。遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が、607年に「斑鳩寺」(法隆寺)と本尊・薬師如来像を造ったという。
聖徳太子は、少なくとも「法隆寺」と難波にある「四天王寺」を建てのは間違いないらしい。日本各地には仏教の普及のため、聖徳太子が建てたとされる寺院が数多くある。しかしその中には太子の名を借りただけで、実は関わっていない寺院も数多くあるそうだ。
『日本書紀』には、670年に法隆寺が全焼したとの記事がある。この記事をめぐり、現存する法隆寺(西院伽藍)は聖徳太子の時代のものか、670年以降の再建かについて長い論争があった。しかし発掘調査の結果により、聖徳太子時代の伽藍は一度焼失し、現存の「西院伽藍」は7世紀末頃の再建であることが定説となった。「夢殿」を中心とする「東院伽藍」は、「斑鳩宮」のあった場所に建てられている。「法隆寺」は焼失の後ほどなく再建され、その後運よく大きな災害に遭わなかったため、飛鳥時代をはじめ各時代の仏教美術の傑作が残っているのだ。
聖徳太子あるいは厩戸皇子と呼ばれる人物は、飛鳥時代の皇族・政治家とされた人物である。「聖徳太子」は、その時代に用いられた名前ではなく、あくまで後世につけられた諡(おくりな)、つまり死後その功績を讃えて送られた称号である。後世、観音の化身とされて信仰の対象となったり、また理想化した大政治家、時代のヒーローとして、10人の話を一度に聞き分けた等々・・・、ほかにも多くの伝説が生まれた。
「厩戸皇子」は、最近では「厩戸王」というらしい。飛鳥時代にはまだ「天皇」はおらず、倭国の君主は「大王」だった。「天皇」が無いから、「皇子」という称号も無いので、「皇子」ではない皇族を指す「王」の称号を採用したという。
今や記述される名称が変遷しているそうだ。「聖徳太子」 → 「聖徳太子(厩戸王)」 → 「厩戸王(聖徳太子)」 → 「厩戸王」となって、「聖徳太子」の名は消えつつある。
教科書の指導要領で、「聖徳太子」の表記を「聖徳太子(厩戸王)」や「厩戸王(聖徳太子)」に変えようとしたが、日本人が馴染んだ「聖徳太子」を無くすことに反対する声も多くて、ひっこめてしまった。
また「聖徳太子はいなかった」という聖徳太子虚構説も強い。これは『日本書紀』が、聖徳太子が亡くなって1世紀以上も経って書かれおり、太子の業績は脚色や創作されたもので、学問的には疑問視する学者も多い。教科書に「聖徳太子(厩戸王)」そのもののを記述してない教科書も優勢になっているという。
『古事記』、『日本書紀』の神話の話ももちろん、初代天皇の神武天皇の存在も、現在の学説でも否定されている。聖徳太子は、神武天皇と同じような古代の出来過ぎたヒーローであり、後世の天皇制の中て作られた人物だったのではないだろうかと思う。
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