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2018年2月15日 (木)

国立科学博物館「古代アンデス文明展」

 2018年2月11日(日)、国立科学博物館(東京・上野)の特別展「古代アンデス文明展」を観覧に行く。
 

 主催は、国立科学博物館、TBS、朝日新聞社。会期は、昨年10月21日(土)~2018年2月18日(日)。特別展の入場料は、1,600円。

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 アンデス文明は、南米大陸のペルーを中心とするアンデス山脈西側沿岸と中央高地の南北4,000km、標高差4,500mに及ぶ広大な地域に存在した文明。先史時代から16世紀にスペイン人がインカ帝国を滅ぼすまで、約1万5千年間の歴史を有する。

 メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国黄河文明のいわゆる世界四大文明と異なり、文字を持たなかった。ナスカ、モチェ、ティワナクなど多種多様な文化が盛衰を繰り返した。貨幣や市場もなく、車(車輪)や鉄の製造も知らず、金・銀・青銅器の製造に留まったことも特徴。道具は、農耕では土を掘る棒、武器では棍棒(こんぼう)程度で、あまり発達しなかった。

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 特別展会場MAP (写真をクリックすると拡大)

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 本特別展は、祭礼や儀礼、神殿やピラミッドを造り上げる優れた技術、厳しい自然に適応した生活など、約200点の貴重な資料が展示されている。

 午前10時に入館。10時10分から音声ガイドを借り(500円)、「特別展」の観覧を開始。音声ガイドは、タッチパネル式のスマホタイプとタブレットタイプの2種類があって、画面を見ながら操作できるので、分かり易い。 
 

●序章 アンデスへの人類到達 紀元前13000年~前3000年頃

 1万数千年前に、アジアのモンゴロイド(黄色人種)が、ベーリング海峡を渡って南下し、アンデスまで移動してきた。アンデス特有な環境の中で、やがてリャマ(ラマ)やアルパカを飼育し、アンデス原産のトマトやトウガラシ、ジャガイモ、トウモロコシなどを栽培した。これらの作物は、スペイン人の征服後ヨーロッパに持ち帰り、世界の料理を変えたと言われている。

 アンデスのジャガイモとトウモロコシ・・・出典:ウィキメディア・コモンズ

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●第1章 アンデスの神殿と宗教の始まり

 先土器時代後期(土器がまだつくられてない紀元前3000年~前1500年頃)には、アンデス高地では農業に基づき、太平洋側では農業や漁業により人々の定住が始まった。共同社会や政治は次第に複雑さを増し、他地域との交流が始まり、大規模な神殿が多数現れる。神殿は、人々を宗教的・社会的に統合する役割を持ち、この機能は何千年という後の時代まで保たれた。

・カラル文化(紀元前3000年頃~前2000年頃)

 ペルーの首都リマから北に200Kmほど離れた場所に世界遺産「カラル遺跡」がある。砂漠地帯であるカラルは、中央海岸のノルテ・チコ地方に25以上ある遺跡の一つ。住居跡や神殿と思われる円形広場、ピラミッドが並ぶ都市遺跡。人々が定住生活をし、祭祀が行われた始まりとされる。農業を基盤とせずイワシなどの海産物を食べ、漁網が作るために乾燥に強い綿を栽培したという。

 カラルの大神殿・・・出典:ウィキメディア・コモンズ

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 左から、《線刻装飾のある骨製の笛2本》、《焼かれてない粘土で出来ている男性の人形2体》・・・オフィシャル・ガイドブック「古代アンデス文明展を楽しもう」から転載。

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 ペリカンの骨で作ってある笛は、サル、トリ、ネコ科動物の絵が刻まれている。まだ土器はなかったが、神殿が存在したことが明らかになった。

●第2章 複雑な社会の始まり

・チャビン文化(紀元前1300年頃~前500年頃)

 ペルー北部のアンデス高地に栄えた「チャビン文化」では、石彫の神像や頭像などが見られる。石造りの壮大な建造物で知られる古代アンデスの石の文明や宗教、美術など、この時代から地域間の交流により、文化的、社会的統一が始まったとされる。

 「チャビン文化」の最も有名な考古遺跡は、名前の由来となったチャビン・デ・ワンタル(世界文化遺産)。紀元前900年頃に建設され、チャビン人の宗教、政治の中心であった。

 《人が神に変身するテノンヘッド》

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 チャビン・デ・ワンタル神殿の壁に差し込まれていた石の頭像。人(左)が幻覚の中でジャガー神(右)に変化していく様子を表現されているともいわれている。

 《自身の首を切る人物の形をした土器》

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 首が180度ねじれたありえない形だが、切られた自分の首を自分で持っている。こんな物を土器にするとは実用的なものでなく、生贄(いけにえ)の儀礼に関係あるのかもしれないという。
    

●第3章 さまざまな地方文化の始まり

 数百年に及んだチャビン文化は理由は明らかではないが廃れ、各地域の伝統が復活して行く。やがて同時代の異なる地域、ペルー北部海岸では独特な美的才能を見せた「モチェ文化」、南部海岸で地上絵で有名な「ナスカ文化」の華が開く。 

・モチェ文化(紀元200年頃~750/800年頃)

 大きな谷には開けた大平野があり、豊かな川が潤い、灌漑農業が経済を発展させた。洗練された写実的なユニークな土器と、華麗な黄金製品を生み出した。アンデス文明では文字がなかったため、土器のデザインで意思疎通を図ったとされる。「モチェ文化」では、土器を通して人々が神々、死者、自然、人間の4つの世界観を共有した。

 《象嵌のマスク》・・・「古代アンデス文明展」のポスターから転載。

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 牙が生えているのは、アンデス文明の神の特徴の一つ。

 《儀式用ケープをまとった人間型超自然的存在の像が付いた土器の壺》

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 《ネコ科動物の毛皮を模した儀式用ケープ》と、下 《ネコ科動物の足をかたどりメッキをほどこした爪を付けた土製品》。

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 ジャガー神のつもりだろうか、儀式の時に身に付けたと思われる。

 《二つの主神が描かれた土器》

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 土器の上の図にあるような、2人の神様の絵が描かれている。

 右から順に、《鹿を背負う死者の土器》、《この世の女性と仲良くしている死者を描いた土器》、《人間型の鹿の土器》、《裸の男性の背中にネコ科動物がおぶさった土器》。

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 《擬人化したネコ科動物》

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・ナスカ文化(紀元前200年頃~紀元650年頃)

 北部海岸と比べてナスカの農業環境は恵まれていなかった。極端に雨の恵みが少なく干ばつの影響を受けやすい。彼らは神に祈る為に、優れた芸術品を作った。巨大な地上絵もその一つ、土器や織物の見事な装飾が知られている。しかし紀元600年頃までには、急激な気候変動により社会的混乱が起こり、人口の大部分が高地に移住。「ナスカ文化」は、途絶えてしまう。 
 
 《リャマが描かれた土製の皿》・・・オフィシャル・ガイドブック「古代アンデス文明展を楽しもう」から転載。

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 適度に抽象化されているこの土器の絵は、「ナスカ文化」の比較的初期のもの。

 左手前は《8つの顔で装飾された砂時計型土器》、中央は《人間型神話的存在が描かれた双注口壺》、右は、《投槍器を持つ2人の男が描かれた背の高いコップ形土器》

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 《刺繍マント》

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 ナスカの前身のパラスカで美しい織物が作られた。そのほとんどはミイラを包んだものだったそうで、精霊を思わせる人物(鳥の翼を持った人間)が刺繍してある。 
 

●第4章 地域を超えた政治システムの始まり

  6世紀後半、干ばつ、洪水などの深刻な気候変動によって、アンデス中央の高地と海岸部で、人口集中という大きくな社会変化が起こる。

 7世紀、アンデス中央高地南部の地域では、人口が集中して新興のワリ国家となり武力で領土を拡大。都市的な建造物群が各地に造られ、「ワリ文化」が発達する。また同じ頃、現在のボリビア高原のティワナクの人々が、独自の宗教を掲げてチチカカ盆地から領土を拡張する。その後10世紀初めになると、ペルー北部海岸の地域では、高い生産力、進んだ技術と多くの人口を抱えた強力な「シカン国家」が成立し、北部海岸の広い範囲を支配する。

  「ティワナク文化」の「太陽の門」をはじめとする高度な石造の建築技術、同じ高地で共存していた「ワリ文化」の時代から築かれ始めた「インカ道」(道路網)。そして、黄金の装飾品を生み出した「シカン文化」の金属加工技術。アンデスの各地が生み出した政治、経済、文化は、後にアンデス最大にして最後の帝国となる「インカ帝国」に受け継がれていった。

・ティワナク文化(紀元500年頃~1100年頃)

 チチカカ湖の湖畔にある盆地で繁栄し、中心となったティワナク遺跡は、巨大な石造建築物や一枚岩から削り出された石彫などが有名で「石の文化」、「石の文明」と呼ばれている。7世紀頃からチチカカ盆地の外にも宗教的・経済的な影響力を持ち始め、太平洋岸にも飛び地(入植地)を築いたが、紀元1000年ごろに衰退しはじめた。

 ティワナク遺跡は、2000年に世界遺産に登録され一部復元されているが、破壊がすさまじく風化も激しいため、昔日の面影はほとんど残っていないという。

 《カラササヤで出土した金の儀式用装身具》・・・「古代アンデス文明展」のポスターから転載。

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 ペルー北部海岸は黄金製品が潤沢なことで有名だったが、山の中のティワナクにもこのような黄金製品があった。トルコ石を象嵌。黄金は腐食しないため「永遠の生命」の象徴であった。

 《動物をかたどった土器の香炉》

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 ネコ科の動物が多い。どれも表情が豊かでかわいい。

 右は《台部が人頭の鉢》、中央の3体は男性や女性をかたどった土器など。

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・ワリ文化(紀元650年頃~1000年頃)

 「ワリ帝国」は、武力で広い範囲の領土を獲得し他民族を統治し、アンデスではじめての「帝国」だと言われる。計画的に設計された都市型の飛び地を海岸部に建設し、海岸と高地の覇権を握っていたと考えられている。

 《土製のリャマ像》・・・オフィシャル・ガイドブック「古代アンデス文明展を楽しもう」から転載

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 ラクダ科のリャマ(ラマ)は運搬、織物のための採毛、食肉などの用途があり、アンデスにはか欠かせない家畜。この香炉の高さは、約70センチもある。

 《杖を持つ神が描かれた鉢と壷》

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 杖を持つ神は、「ティアナク文化」の影響を受けているそうだ。

 《人間の顔が描かれた多彩色鉢》

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 種族の違う人の顔がたくさん描かれているが、政治的に重要な立場の人だったのではと考えられているそうだ。また舌を出しているのは、ワリが征服した敵を絞殺した姿ではないかとも考えれられている。

 《チュニック(上衣)の一部》

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 説明板には、「アンデスの織物伝統の中で、数はさほど多くないが際立った存在のうちのひとつで、 階段状のユニットをかがり合わせて作られている。この布は男性のチュニックとして作られたのだろう。」とある。どこか懐かしい模様で、こんなにも色が鮮やかに残っている。

 《つづれ織のチュニック》・・・写真なし

 アンデスは文字のない文明だったため、紙の代わりに織物がイメージを伝達するメデイアとして重要な役割を果した。また、織物は身分をあらわす重要な指標でもあった。

   
・シカン文化(紀元800年頃~1375年頃)

 「シカン文化」は紀元10世紀のペルー北部海岸で急速に頭角をあらわし、最盛期である中期シカン期(900年~1100年)には独自の文化を完成させた。「モチェ文化」の存在と「シカン文化」の台頭があったため、拡大を試みた「ワリ帝国」はこの地域では確固とした覇権を確立することができなかった。「シカン文化」は、在来の「モチェ文化」と外部から導入された「ワリ文化」の特徴を併せ持つ新しい様式を作り上げたという。 

 《ロロ神殿「西の墓」の中心被葬者の仮面》・・・オフィシャル・ガイドブック「古代アンデス文明展を楽しもう」から転載

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 アンデスの多神教の風土の中で、シカンではこの仮面のような「アーモンド・アイ」をした「一神教的な」神が頻出するという。仮面は、支配者階級が神に変身するために使われたのだろう。埋葬された高い身分の遺体にかぶせられていた。表面は朱が塗られている。

 左から《金の装飾品》、《鉢形の金の器》、《金のコップ》、《金の首飾り》

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 これらは、高純度の金の薄板を打ち出し加工したもの。優れた金属精錬・加工技術を有していた。

 上の写真《金の装飾品》の拡大・・・「古代アンデス文明展」のポスターから転載。

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 《人間型の土製小像3体》

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 左から、《2種類の超自然的存在の4つの顔が付いた壺》、《リャマの頭部をかたどった黒色壷》、《生まれたての仔犬をくわえた親犬をかたどった単注口土器》

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●第 5章 最後の帝国 ― チムー王国とインカ帝国

 「ワリ帝国」や「ティワナク文化」の体制が衰退・崩壊すると、各地に多数の地域国家が成立し、対立や衝突が生じた。その間、勢力を伸ばした「チムー王国」は北部沿岸の有力勢力になって14世紀末に「シカン文化」を吸収。しかし1470年頃、「インカ帝国」が「チムー王国」を滅ぼし、アンデス文明で最大規模の領土にまで成長する。

・チムー王国(紀元1100年頃~1470年頃)

 「チムー王国」は、「シカン文化」の金属精錬技術を受け継ぎ、高い農業生産性を持つ土地と技術、優れた職人を獲得した。

 《木製の葬送行列のミニチュア模型》

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 埋葬行列の模型。2人の男性が担いでいるのは、死者を織物でくるんだ「葬送包み」というもの。周りにいる12人は、地位や役割がバラバラだそうだ。
 

・インカ帝国(紀元15世紀早期~1572年)

 「インカ帝国」は、アンデスで発達した政治システムの中で、最後にして最大、最強の国家であった。様々な技術を利用して景観を変えるほどの大規模な開発や、軍事的な大遠征を繰り返して強大な帝国を作り上げた。「インカ道」と呼ばれる交通網は、全長4万kmに及んだという。

 しかしアンデスに南北4000Kmにも及ぶ大帝国を築きながら、わずか168名のスペイン人の侵略によってあっけなく崩壊した。

 《インカの象徴的なアリバロ壷》

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 《インカ帝国のチャチャポヤス地方で使われたキープ》

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 文字のないアンデス文明では、情報の記録・伝達手段という役割を担った「キープ」と呼ばれる紐。織物や家畜の数を、紐に結び目をつけて数字を10進法で表し、色や太さも意味を持っていたと考えられている。もっと複雑な情報が隠されているという説もあるが、まだ解読途上の遺物。

 《植民地期の多色コップ》

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 インカ帝国の遺跡「マチュ・ピチュ」・・・出典:ウィキメディア・コモンズ

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 《アンデスの最後の晩餐》 次のコーナー(第6章)に向かう通路の壁に、油絵があった。 

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 有名なイタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を元に、アンデス先住民にキリスト教を布教しやすいよう、17世紀に描かれたもの。卓上には、ジャガイモなどアンデスの人達に馴染みのある新大陸特有の食べ物が置かれている。キリスト教の布教には、征服者側も現地の文化や生活スタイルを取り入れる必要があった。

 次の章の部屋の入口には、「このコーナー 『第6章 身体から見たアンデス文明』 での写真・動画撮影はご遠慮ください。」という大きな看板が立っている。この看板だけを撮影しようとしたら、係員から制止された。 
 

●第 6章 身体から見たアンデス文明

 古代アンデス文明には、旧大陸には見られないミイラの文化が育った。インカの王は死後ミイラとなり、家臣にかしずかれながら生活していたという。南米の乾燥している地域では、死んだ人間をそのまま放っておいてもミイラ化する。死んだ人も、生きていたように傍に置き、生者と一緒に生活していたのだろう。

・チリバヤ文化(紀元900年頃から1440年頃)

 《変形された頭骨》・・・写真なし

 頭を特別視していたアンデスの人々は、「変形頭蓋」と呼ばれる形状の頭骨をしていた。子供の時から頭に板を当て縄や布できつく縛り、人工的に変形した頭蓋骨が展示。部族への帰属や宗教的な意味があったそうだ。

 《開頭術の跡のある男性頭骨》・・・写真なし

 開頭術は、黒曜石などのナイフで頭骨に孔を開ける外科手術で、「パラカス文化」(2500年程前ペルー南部海岸に栄えた文化)に始まり、インカの時代まで続いた。時代と共に生存率が上昇したことも分かっているという。頭に大きな負傷を負った者に対して、頭に穴を開けて治療したらしい。脳みそは痛覚器官がないから痛みを感じないそうだが、コカイン(コカの葉から抽出)で麻酔をしたのだろうか、酒などのアルコールで雑菌消毒はしたのだろうか。

 《少女のミイラとその副葬品》・・・「古代アンデス文明展」のチラシから転載。

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 他の男児のミイラと違って、顔が覆われていないが、理由はわかっていない。髪はきれいに編まれている。ミイラが3体が展示してあった中の一つ。

 「チリバヤ文化」では、人々は死後ミイラとなり共同体の一員として受け入れられていた。多数の副葬品と共に埋葬されたり、定期的に衣服を取り替えられたミイラもあるという。古代エジプトと違い、古代アンデスでは遺体を体育座りの格好で布で包み、生者と共存していたそうだ。我々が仏壇や居間に、亡くなった人の写真を掲げるのと同じことなのだろう。しかし布を外したもう一体は、乾燥して干からびた皮膚とか髪が、リアルで不気味だ。

 本展示にはないが、インカ時代に生贄(いけにえ)に火山の山頂に埋められ、凍結しているため保存状態の良い少女のミイラ3体が、20年ほど前に発見された。着飾って安らかな顔をした少女の毛髪を分析すると、生贄として捧げられる1年程前から、贅沢な食事のほか向精神作用成分(コカインやアルコールなど)を摂取していたという。 特に数週間前くらいからの大量摂取で、意識もうろうとして死を迎えたのであろう。

 こういったアンデスの風習を知ると、現代の我々は理解できないが、人間の生死について改めて考える。

 

 観覧を終え、ミュージアム・ショップへ行く。「古代アンデス文明展」の図録は、2,500円。オフィシャルガイドブック「古代アンデス文明展を楽しもう」1,000円を購入する。

 12時頃「特別展」を退場、次に国立科学博物館の常設展を見学することに。
 

 ★ ★ ★

 特別展の「古代アンデス文明展」は、見ごたえがあった。日本の縄文・弥生の土器・埴輪・土偶などと較べても、模様のデザインが複雑で技術も高く、高度な文化に驚く。2時間かけて回ったが、日曜日で観覧者が多く、展示品や説明板を見るのに並んだり、良く見えなかったり。展示品は、ミイラのコーナーを除いて写真撮影出来たが、観覧者の体が邪魔してうまく撮れなかった。

 文字を持たなかったアンデスの人々の生き方、考え方は、長い年月をかけて発展してきた土器、装飾品、織物、土像、石像などの特有のデザインでしか知ることができない。それゆえ、ユニークな造形や図柄がとても面白く、精巧で素晴らしい。
 
 

 「インカ帝国」は、アンデス文明の系統を引く先住民が築いた最後の国家。首都はクスコ。世界遺産であるインカ帝国の遺跡「マチュ・ピチュ」から、さらに千メートル程高い3,400mの標高にある。クスコの市街地も世界遺産。

 記録がないのでインカ帝国の起源は定かではないが、1200年頃にケチュア族の中のインカ部族が、中央アンデスのクスコに地方小国家をつくったとされる。高度な農耕、金属器文化を有して、15世紀の中ごろ北方のチャンカ族と戦って勝利を収めると、インカ部族は急速に征服を開始した。

 第9代のパチャクチ皇帝は、在位33年間に帝国の版図を約1000倍に拡張、現在のペルー、エクアドル、ボリビア(チチカカ湖周辺)、チリ北部を支配し、最盛期を迎えた。「インカ帝国」は、被征服民族に比較的自由に自治を認めていたため、連邦のような国家だったという。第11代のワイナ=カパック皇帝は更に領土を100万平方Kmに拡張、南北の距離は4000Kmに及ぶ大帝国となった。ワイナ=カパックの死後、皇妃との間に生まれた皇子ワスカルと、側妻の子アタウワルパが皇位継承をめぐって争い、帝国は二分されて内戦となった。

 1533年、結局アタウワルパが勝利を収めて皇位を嗣いだが、同じころスペインのピサロが168人の部下を率いて進撃し、皇帝を欺して捕らえて処刑する。ピサロたちは、神殿や宮殿を徹底的に破壊し、金銀はすべて略奪した。金銀には、スペイン人にはお金という価値があるが、装飾品や美術品という感覚はなかったので、すべて溶かして本国に送った。

 征服戦争で華々しく戦ってきた「インカ帝国」は、なぜわずかな兵士のピサロ隊に敗れてしまったのか。インカは、高地に順応している利点はあったが、武器は投石機、吹き矢、弓矢、銅製の斧や投槍だった。一方ピサロたちは、ヨーロッパでの数々の豊富な戦術経験があり、鉄剣、鉄砲、大砲、騎馬と、インカ人が知らない武器を持っていた。

 戦いの勝負は、果たして武器の差だけだったのだろうかという疑問があった。最近の研究で、「インカ帝国」は別の理由で自滅したということを知る。スペイン人たちは、インカによる自領の統治を断ち切ろうとする何万もの先住民の味方を獲得していた。また皇位をめぐる内戦で、帝国内は弱体化していた。そして、すでにヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病が、壊滅的な打撃を与えたのが一番大きい。おそらくは「インカ道」により伝染が容易に広まったのである。チフス、天然痘、インフルエンザなど、旧大陸と交流がないため抵抗力の無かった先住民にまん延。天然痘は、わずか数年間でインカ帝国の60%以上もの人々を死に至らしめ、人口の大幅な減少を引き起こしたという。

 インカの後継者たちは、1536年には反乱を起こすが、1572年インカ最後の要塞がスペイン人に征服され、最後のインカ皇帝と称したトゥパック=アマルは捕らえられ処刑された。ここにインカ帝国のスペインによる征服への抵抗は終結。古代アンデス文明の「インカ帝国」は、完全に滅亡した。

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この展示は見てみたいものの一つです!日本jの縄文ルーツと共通なんでしょうね~!

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