駒込・巣鴨界隈
2018年1月17日(水)、駒込・巣鴨界隈をめぐる。
当日は、低気圧が本州付近を通過する。関東甲信は雲が多く、昼頃から雨の予報。
10時、JR駒込駅の南口を出発。本郷通りを南へ550m先の「六義園」へ歩いて向かう。
●六義園 文京区本駒込六丁目
六義園・旧古河庭園の園結びチケットは一般400円、65歳以上は200円。10:15入場。
「六義園」のパンフレット。
ひと気のない六義園、曇り空だが比較的暖かい。下の写真は、冬の景色を演出する「雪吊り」と「霜よけ」。
樹木の枝が雪の重みで折れないように施す「雪吊り」の代表的な手法に「りんご吊り」がある。金沢の「兼六園」で見られるように樹木の幹付近に柱を立て、柱の先端から各枝へと放射状に縄を張る。雪の少ない東京の庭園では、冬の演出だそうだ。
またソテツなど寒さの弱い植物に施される藁細工の「霜よけ」も、冬の演出。「六義園」にはソテツは無いので、木と竹の骨組みにソテツの霜よけの装飾を行っているそうだ。
「六義園」は、1695年(元禄8年)五代将軍徳川綱吉の側用人だった川越藩主・柳沢吉保が、綱吉から賜った土地に土を盛って丘を築き、水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を造成した。
1702年(元禄15年)庭園と下屋敷が一通り完成すると、以後将軍綱吉のお成り(訪問)が頻繁に行われたという。
明治になって三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の別邸となり、1938年(昭和13年)に東京市に寄贈された。1953年(昭和28年)、特別名勝に指定。
松の木に菰(こも)巻き。縄の結び目が、美的。
菰巻きは、江戸時代から大名庭園などで行われてきた伝統的な害虫駆除法。松の木の枝につく害虫(マツカレハの幼虫)が、暖かいところを好む習性を利用して、幹に巻いた菰(藁)で越冬させ、春先に外して害虫ごと焼却する。
最近の研究では、害虫駆除の効果はほとんど無くむしろ逆効果であるとされ、菰巻きを中止している庭園もあるという。
万両、千両と呼ばれる赤い実のなる常緑低木は、お正月の縁起物。これに百両、一両を加え「御利益花壇」と名付けた当園のお正月飾りだそうだ。六義園の入口付近にあった。
この時期ひっそりとした「六義園」は、春には枝垂れ桜、初夏のツツジ、秋には紅葉で賑やいを見せる。
11時「六義園」を後にし、駒込駅に戻る。駅から本郷通りを北に700m先の「旧古河庭園」へ。
●旧古河庭園 北区西ヶ原一丁目
11時半「旧古河庭園」に入場。
「旧古河庭園」は大正初期の代表的庭園で、1917年(大正6年)古河財閥の古河虎之助男爵の邸宅として竣工した。現在は国有財産で、東京都が借り受けて都立庭園として一般公開している。
建物と西洋庭園の設計者は、「旧岩崎庭園」や「ニコライ堂」、「鹿鳴館」を設計したことで有名なイギリス人建築家のジョサイア・コンドル。国の名勝に指定。バラの名所として都民に親しまれている。
受付で聞くと、洋館内部の見学は往復葉書による事前に申込みが原則だとのこと。ガイドによる解説付の1時間の洋館見学ツアーが、1日3回行なわれているそうだ。しかし見学者が少ない冬の時期のガイドは、中止しているという。
この洋館(旧古河邸)は、ホテルニューオータニで有名な大谷財閥の「大谷美術館」が管理している。美術館といっても絵画のような美術品があるわけでなく、この洋館全体を美術品としているそうだ。石造りの洋館にバラは、とても絵になる。
「旧古河庭園」のパンフレット。
斜面の西洋庭園(バラ園)を降りて行くと、斜面の底部に日本庭園がある。
雪囲いの冬牡丹がきれい。
「六義園」で見たソテツの霜よけと同じものがあった。ここの日本庭園には、本物のソテツがある。
日本庭園は、斜面の一番底部に位置する池泉回遊式庭園。京都の造園家・七代目小川治兵衛の作。洋館や西洋庭園の後、1919年(大正8年)に完成。
12時頃、退場。駒込駅に戻り、12:20山の手線の次の駅の巣鴨駅に着く。
●巣鴨地蔵通り商店街と高岩寺 豊島区巣鴨三丁目、四丁目
巣鴨駅正面口から200mくらい白山通りを歩くと、「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる「地蔵通り商店街」の入口。
780mも続く「地蔵通り商店街」は、煎餅や大福などの和菓子の老舗、年配向けの衣料品店など、約220店舗があるという。昨年5月に来た時はもっと混み合っていたが、寒いせいか人通りは少ない。
赤パンツの元祖「巣鴨のマルジ」(上の写真、右手の看板)はこの通りに4店舗もあるらしい。店に入ると、元気と幸福をもたらす「赤の力」のパンツやインナー、腹巻、靴下、タオルハンカチなど、赤づくめの衣料品が並ぶ。パンツは、婦人向けだけでなく紳士用や子供用もある。
「巣鴨のマルジ」の説明書を読むと、へその下3~4cmの所にある丹田(たんでん)というツボがある。東洋医学では、このツボは「気」の発信地とされる。赤いパンツを履くことにより、大事なツボを刺激し身体を温める効果があり、アドレナリンの分泌を促し、精神の集中力、自然治癒力を高めるという。更に、赤い色の布を身に付けると体を温め、エネルギーを補う効果もあるそうだ。
昼食は、前もってガイドブックで調べた割烹「加瀬政」に入る(12:40~14:00)。
ちょっと贅沢な鴨の肉と卵の親子丼(1,550円)を注文。LLサイズの鴨の卵2個を用いて、うち1個の黄身だけを丼の中央に落としてある。12時半過ぎに入店したが、鴨の卵が残り少ないと入口に書いてあって、店員に聞くとあと3人前しかなかった。
鴨の親子丼は、初めて。卵は濃厚だが鶏卵と変わらず、肉はミンチ状にしてあって、あまり鴨肉を食べてるという印象は無かった。全体的に味付けは上品で濃くない。
「加瀬政」は、創業大正11年の老舗割烹店。入口には、ここに訪れてたタレントや有名人の写真が飾ってある。
食事の後は、商店街を散策しながら、「とげぬき地蔵尊」で有名な「高岩寺」(写真右手)へ。
「高岩寺」の山門、参道を進めば香炉があり、山門からほんの20mくらいで本堂が建つ。
本尊の「地蔵菩薩像(延命地蔵)」は、秘仏につき非公開だそうだ。
縦4cm横1.5cmの和紙に本尊の姿を刷った「御影(おみかげ)」のお札が、本堂で5枚セット100円で授与される。お札は祈願したり、喉に骨が刺さったときや病気平癒にその札を水などと共に飲む、痛いところに貼るなどすると治るといわれる。
本堂のそばにある「洗い観音」は、写真を撮れないほど参拝者が列を成して混み合っていた。
江戸時代1657年の「明暦の大火」で妻をなくした檀徒の一人が、供養のため「聖観世音菩薩」を高岩寺に寄進した。この観音様に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰がいつしかうまれたというのが由来。
しかし長年に渡ってタワシで洗っていた観音様の顔もしだいに擦り減ってきたので、1992年(平成4年)新しい「聖観世音菩薩」の開眼供養を行った。同時にタワシを廃止し、布で洗うことにしたそうだ。布(タオル)は、100円で販売されている。写真は、2017/5/30撮影。
14時半、「高岩寺」を後にする。
地蔵通りの 「元祖 塩大福みずの」で、巣鴨名物の塩大福5個入り650円(写真右手)、それと豆大福(粒あん)5個入り(写真左手)650円を購入。
この店は、塩大福の発祥の店だそうで、多くの観光客が買い求めていた。塩大福は、長細くて大きく、もっちりして甘さ抑えめ。豆大福は、甘め。出来立て美味しいが、翌日に少し固くなる。
14時半、巣鴨地蔵通り商店街を出て巣鴨駅へ。
巣鴨から上野へ電車で移動、やがて久しぶりに本降りの雨。15:30~国立西洋美術館の「北斎とジャポニスム展」を観賞。
本ブログ記事、「西洋美術館「北斎とジャポニスム展」」につづく。
とげぬき地蔵尊や高岩寺の由来、地蔵通り商店街については、
本ブログ記事 「都内をめぐる日帰り研修旅行」 2017年6月3日投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-bf6d.html
にも記載しているので、ぜひ一読されたい。
★ ★ ★
「六義園」の名称は、中国古代の詩集『詩経』にある詩の分類法ならって、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の分類の六体(そえ歌、かぞえ歌、なぞらえ歌、たとえ歌、ただごと歌、いわい歌)に由来する。
柳沢吉保自筆の『六義園記』の本文に、
「ああ、浦は、すなわち大和歌なり。ここに遊べる者は、この道に遊べるなり。園はこれ、六種(むくさ)なり、ここに悟れる人は、この理(ことわり)を悟れるなり。」
- ああ、この六義園にうつされた和歌の浦は、実は、「和歌」そのもののシンボルなのである。この館(六義園)に遊ぶ人は、和歌の道に遊ぶのと同じであり、この庭園で悟る人は、和歌の道理を悟るのである。 -
と書かれている。
和歌に造詣が深かった吉保は、和歌の心を造園することを意図したもので、この和歌の六体を表現するために、紀州(和歌山)の「和歌の浦」を中心とした美しい歌枕(和歌の中に古来多く詠みこまれた名所のこと)の風景をこの地に写して、庭園を造ろうと思い立った。そして、『万葉集』『古今和歌集』などにもとづいた「六義園 八十八境」と呼ばれる88ヶ所の名所を模して造り出した。その設計と指揮は、吉保本人によるものと伝えられている。
正門を入り受付すぐ先に、和歌山市パネル展がある。最初のパネルは、「六義園は、今の和歌山市がモデルって本当!?」
下の写真は、パネルの一部で「日本三景之内和歌之浦之勝景」の錦絵。
展示パネルは、このほか和歌山市の名所紹介まで数枚あった。
入園者は、吉保が創造した理想の和歌の庭園、和歌のテーマパーク「六義園」を通して、和歌山市の「和歌の浦」を目にしているのだという。
柳沢吉保については功罪相半ばする評価がなされてはいるが、将軍綱吉の寵愛を受け、側用人として権勢を欲しいままにした人物である。
吉保は、もともとは譜代に属する家柄であって、政治中枢の要職につける身分ではなかった。しかし、後に将軍となる上州(群馬県)館林藩主・徳川綱吉に仕えた父の関係で、16歳で綱吉の小姓、以後小納戸役、若年寄上座、側用人と昇進し、7万2千石の川越藩主となったのは、1694年(元禄7年)30歳代の半ばであった。10年後には15万石の甲府城主となる。その間、老中格、大老格に昇格している。
なぜ綱吉が吉保を寵愛したのか。両者は学問好きな点で共通しており、かねて老中政治に不満をいだいていた綱吉が、側用人政治をすすめるうえで、吉保ほど重宝な存在はなかったのだそうだ。綱吉と生母・桂昌院の気まぐれ、我がままや贅沢を聞き届け、お犬様に代表される「生類憐みの令」に迎合し、赤穂浪士の切腹を主張するなど、旧来の幕閣や大名から庶民に至るまで嫌われた。側用人のマイナスイメージが強い。
時代劇では、悪巧みや悪事のシーンがよく描かれている。付け届け(賄賂)の横行を助長、自分の保身と栄達の為に権謀術策を尽くしたとされた。一方で無欲で潔い人間だったとも言われており、その人物像についてはよく分からないところが多いという。
綱吉は学問を好むなど聡明な点もあるのだが、精神的な問題もあってか突飛な言動など、やりたい放題だったとされる。吉保は、常に綱吉のご機嫌取り、行動をコントロールし、被害が出れば尻拭いに身を粉にして働いた。綱吉や桂昌院に迎合し、追従しているだけのイエスマンだけでなく、想像以上の苦労があったのだろう。
そういう吉保が、加賀藩前田家の旧邸宅であった駒込の広大な地を綱吉から拝領して「六義園」を造った。和歌の造詣が深く、六義園の由来、和歌の心と和歌の浦を模した事など、初めて知る。忙しい政務の合間に、和歌の理想郷を設計し造園の指揮をとった吉保に、これまでのマイナスイメージから意外な一面に感動すら覚える。
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今もまだなお深々とものすごい雪が降っており雪国育ちのRWも目がテン!関東でこんな雪景色は何ぶりでしょう!明日の通勤はどうなっちゃうのか心配ですね~!
投稿: ローリングウエスト | 2018年1月22日 (月) 20時21分