早稲田界隈-その1
2018年1月14日(日)、東京・早稲田界隈の名所・旧跡をめぐる新春ウォーク。
この日は、日本付近が高気圧に覆われ、東京は晴れ。最高気温は7℃ほどと寒さが厳しいが、風もなくウォーキング日和。
9:50、JR目白駅を出発。
学習院大学目白キャンパスの塀を左手に見ながら、坂道を500mほど下ると、学習院下とういう信号のあるT字路。ここを右手に折れ250mほど進む。
●新宿区立「おとめ山公園」 10:05 新宿区下落合二丁目
園内は起伏に富み、ナラ、シイ、クヌギなどの落葉樹が生い茂り、かつての武蔵野の景観を残す、自然豊かな風致公園。
中央部の谷間には湧水によってできた池がいくつかあり、池の源流にはサワガニやヌマエビなどを見ることができるそうだ。当時、このあたりが蛍の名所であったことから、湧水を利用した蛍の飼育所があって、地域の方々によってボタルの環境造りや鑑賞会がおこなわれているという。
東屋(あずまや)のある標高35m の高台は、東京十名山の一つ「おとめ山(御留山)」と呼ばれる。
公園は、目白台地から神田川を臨む南傾斜地にあり、落合崖線に残された斜面緑地。江戸時代、「おとめ山公園」の敷地周辺は将軍家の鷹狩や猪狩などの狩猟場で、一帯を立ち入り禁止として「おとめ山(御留山、御禁止山)」と呼ばれ、現在の公園の名称の由来となっている。
明治時代には、この徳川家の土地を近衛家と相馬家が所有。大正期に入り、相馬家が広大な庭園をもつ相馬子爵邸を造成したがのちに売却。第二次世界大戦後は国有地として荒れ果て、森林の喪失を憂えた地元の人たちが「落合の秘境」を保存する運動を起こし、(1969年(昭和44年)にその一部が公園として開園した。
新宿区立、落合中学校・小学校を右に見て相馬坂を下ると、新目白通りに出る。新目白通りを1Kmほど歩くと神田川に架かる「高田橋」、高戸橋交差点を右に折れ明治通りを南下。
途中、馬場口交差点のビルの谷間に「有限会社三ツ矢堂製麺」の看板があるちょっとギクッとするレトロな建物。
あとで調べると、チェーン展開しているラーメン屋「三ツ矢堂製麺」の高田馬場店。有限会社とあるが、「三ツ矢堂製麺」は屋号で、本社はこの隣のビルにあって社名は「株式会社 インタ-ナショナル ダイニング コ-ポレ-ション」。この外観のレトロさは店内も同じで、演出のようだ。
諏訪町交差点を左折して、諏訪通りを東に向かうと学習院女子大、学習院女子中・高等科が右手にある。
学習院女子大を過ぎたところのの三叉路から箱根通りを南下して、戸山公園に向かう。
●都立「戸山公園」 11:05 新宿区戸山二丁目
新宿区にある都立公園で、敷地は明治通りを挟んで、西側の大久保地区(大久保三丁目)と東側の箱根山地区(戸山二丁目・三丁目)に分かれている。
子供たちが興じる野球やサッカーの運動公園を右手に見ながら、箱根山に向かう。
園内の「箱根山」は、東京十名山の一つで最も高い標高44.6m。山手線内では、一番高い人造の山(築山)である(写真下)。昔は見晴らしが良かっただろうが、ビルに囲まれていて、目についたのは新宿のNTTドコモビルくらいか。
一帯は、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷で「戸山荘」と呼ばれた。回遊式庭園のほか、箱根山に見立てた築山、東海道の小田原宿を模した建物など二十五景がしつらえられた大名庭園だったという。
明治維新後、跡地には1873年(明治6年)に陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用された。戦後は、1949年(昭和24年)に戸山ハイツの建設が開始され、1954年(昭和29年)には敷地の一部を公園として整備し、「戸山公園」として開園した。
諏訪通りに戻り、馬場下町交差点を経て、近くの早稲田大学に行って見る。
●早稲田大学 11:40 新宿区戸塚町一丁目
早稲田大学は、2017年で創立135年を迎えた。
6学部がある早稲田キャンパスに、大学のシンボル大隈講堂。
開設者の大隈重信を顕彰して造られた大隈銅像。
大学構内を出て、馬場下町交差点近く、早稲田通りへ。
中華食堂の「日高屋」で昼食(12:05~12:20)。レバニラ炒め定食620円。
●穴八幡宮 12:20 新宿区西早稲田二丁目
「穴八幡宮(あなはちまんぐう)」の御利益は、虫封じのほか、金銀融通、商売繁盛や出世、開運。旧称は「高田八幡宮」。
赤い鳥居をくぐり階段を上がると、参道の両側には縁起物や食べ物などを売る出店がぎっしり並ぶ。縁起物は金色の物が多く、特に幸福の打出の小槌は有名だそうだ。
参道の左手の境内にはロープが張られ、それに沿って大勢の参拝客が大行列を作って並んでいる。本拝殿の左側に、お守りが頂ける社務所がある。
お守りをあきらめ、本拝殿の前の列に並んで参拝。
社伝では、創建は1062年(康平5年)。奥州からの凱旋途中の源義家(八幡太郎義家)が、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったという。1636年(寛永13年)ここに的場(弓の練習場)が造られ、射芸の守護神とした。641年(寛永18年)、南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の阿弥陀如来像が現れ、以来「穴八幡宮」と称するようになったそうだ。
「穴八幡宮」を出て早稲田通りを北に向かうと、西早稲田交差点の西北一帯は旗本の馬術の練習場「高田馬場跡」。交差点の角に説明板があった。この辺りの旧高田馬場は、現在の住居表示は新宿区西早稲田、新宿区高田馬場とは異なる。
●早稲田水稲荷神社 12:45 新宿区西早稲田三丁目
早稲田大学の裏手に当たる通りの左手の階段を上ると、「早稲田水稲荷(わせだ・みずいなり)神社」の参道。
参道の入口に、「堀部安兵衛之碑」が建つ。
赤穂浪士四十七士の一人、堀部武庸(たけつね)は高田馬場の決闘で名を馳せた剣客。旧姓は中山、通称は安兵衛。堀部家の婿養子となり赤穂藩・浅野家の家臣となる。吉良邸討ち入りでは、江戸急進派としてのリーダーだった。
1910年(明治43年)、安兵衛の石碑が高田馬場の一隅に建立された。この当時は日露戦争が終わってナショナリズムが高揚していた頃で、忠君の「忠臣蔵」が再評価された時代であった。その後、1971年(昭和46年)に現在の水稲荷神社の場所に移された。
水稲荷神社や甘泉園公園の辺りは「山吹の里」といわれ、太田道灌にまつわる「山吹伝説」は、よく知られている。水稲荷神社の境内には「駒繋松」があり、道灌がよく鷹狩に通った路には、馬を繋いだという松の木(この木は、三代目)がある。
早稲田水稲荷神社は、『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』に描かれた当時は「高田稲荷」(または「冨塚稲荷」)と呼ばれていたが、1702年(元禄15年)に霊水が湧き出したので、現社名の「水稲荷神社」と改名された。眼病のほか水商売および消防の神様として有名。
社殿の右上の小高い丘は、元々早稲田大学9号館裏にあった江戸で最古の富士塚とされる「冨塚古墳」。1963年(昭和38年)に早稲田大学拡張工事の際に土地交換で、水稲荷神社(旧高田稲荷、または旧冨塚稲荷)とともに西早稲田3丁目のこの地に移転した。早稲田大合格祈願の神社として、受験生の参拝が多い。
「冨塚」は、「戸塚」の町名の起源ともいわれている。戸塚町は、現在の西早稲田や高田馬場を含んでいた。「富塚古墳」は、「冨塚富士」、「戸塚富士」、あるいは「高田富士」とも呼ばれたようだ。
●新宿区立「甘泉園公園」 13:00 新宿区西早稲田三丁目
「甘泉園」は、清水家の下屋敷、大名庭園があった。「甘泉」の名は、ここから湧く泉の水がお茶に適していたところからと言われている。池と森の回遊式庭園。
この地は、宝永年間(1704-1711年)に尾張徳川家の拝領地となり、その後1774年(安永3年)に徳川御三卿の一つ、清水家の下屋敷が置かれていた。
明治以降は子爵相馬邸の庭園として整備され、1938年(昭和13年)に近隣の早稲田大学が付属施設として譲り受けた。1961年(昭和36年)前述の様に、早稲田大学の拡張工事のため、旧水稲荷神社だった境内敷地を購入する代わりに当地「甘泉園」を東京都に売却、都立公園となった。旧水稲荷神社は、現在の場所に移転した。1969年(昭和44年)新宿区立公園となって現在に至る。
春夏秋は、ツツジ、アジサイ、新緑や紅葉、冬になると雪吊りを見ることが出来る。
池の一部が氷結していて、家族連れが遊んでいた。
なお水稲荷神社の境内も、甘泉園住宅(現在は公務員住宅)も、元々「甘泉園」の敷地であった。
13:20「甘泉園公園」を出て、新目白通りを横断して、高田一丁目へ向かう。
この後は、「早稲田界隈-その2」に続く。
★ ★ ★
【穴八幡宮】
三代将軍家光は、横穴(古墳だったのだろうか?)から阿弥陀如来像が現れたという話を聞いて、「穴八幡宮」を幕府の祈願所、城北の総鎮護とした。歴代将軍がたびたび参拝し、八代将軍吉宗は世嗣の疱瘡平癒の祈願のため、流鏑馬(やぶさめ)を奉納したという。流鏑馬は、その後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納された。江戸の庶民からも信仰を集め、特に虫封じの祈祷は有名だった。
虫封じとは、乳幼児の夜泣き、グズリ、かんしゃく、ひきつけなどの「疳(かん)の虫」を防ぐこと。昔は人は、寄生虫を見る機会が多かったので、子供に虫が着いたと思ったのだろう。
「穴八幡宮」は、冬至の「一陽来復(いちようらいふく、冬至の意)」という金運がアップするお守り(お札)が有名。お守は二種類あって、壁に貼るもの(800円)と、財布などに入れる携帯型(300円)があるそうだ。毎年冬至の日(2017年は12月22日)から翌年節分の日(2018年は2月3日)までが、お守りを受け取れる期間。冬至の日は特別に、午前5時から受け取る事ができ、徹夜組が列をなすそうだ。
【堀部安兵衛】
1694年(元禄7年)旧暦2月11日のこと、安兵衛は叔父の果し合いの助太刀を買って出て、途中馬場下の酒屋「小倉屋」(現在は「リカーショップ小倉屋」)で気合を入れるために枡酒をあおって、高田馬場に駆け付けたと伝えられている。果し合いでは、相手方三人を切り倒したという。
この決闘で、安兵衛の活躍が「18人斬り」と江戸中の評判になった。この高田馬場の決闘については、後に多くの講談、芝居、落語となったが、酒は決闘後に飲んだという説もあり、真偽のほどは明らかでない。果し合いの場所は、現在の早稲田通りの「西北診療所」の辺りとされている。
この安兵衛の評判を聞きつけた赤穂浅野家臣・堀田金丸は、主君・浅野長矩(内匠頭)の許可を得て婿養子にした。
元禄15年12月(1703年1月)、大石良雄(蔵之介)、堀部武庸(安兵衛)ら赤穂浪士四十七士は本所松阪の吉良義央(上野介)の屋敷へ討ち入り、本懐を遂げた。元禄16年2月(1703年3月)、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、お預けになっていた伊予松山藩の江戸屋敷にて切腹した。享年34歳。主君と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られている。
【富士塚】
富士信仰の富士塚の造営は、基本的には築山(つきやま)という人工の山であるが、すでに存在する丘や古墳を転用したり、あるいは富士山の溶岩を積み上げだりして、富士山に見立てたもの。富士塚の名称としては、「○○富士」のように呼ばれることが多い。「冨塚富士」は、「冨塚古墳」とも呼ばれているので、古墳を転用してその上に富士塚を造成したのであろうか。
江戸では最古の富士塚は、1780年(安永9年)に「高田稲荷(冨塚稲荷)」の境内に築かれた「冨塚富士」だとされた。この富士塚は、富士講や富士信仰を知る上で重要な文化財であったが、1964年(昭和39年)に早稲田大学のキャンパス拡張の際に破壊され、近隣の「甘泉園」に「水稲荷神社」と共に移築された。現在の富士塚は、富士講が行なわれる日にのみに、入山することができるそうだ。
江戸後期、天保年間に7巻20冊が刊行された『江戸名所図会』の一部。(出典:ウィキメディア・コモンズ)
右上に富士山の形をした「冨塚富士」、中央の小高い丘に「高田稲荷」がある。(写真をクリックすると拡大表示。)
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