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2018年1月の4件の投稿

2018年1月29日 (月)

早稲田界隈-その2

 2018年1月14日(日)、東京・早稲田界隈の名所・旧跡をめぐる新春ウォーク。

 「早稲田界隈-その1」からの続き。

 

 西早稲田三丁目の「甘泉園公園」を出た後、新目白通りとその通りを走る都電荒川線を横断。

 写真は、都内で数少なくなった路面電車の一つ、都電荒川線。ちょうど面影橋停留場を出た都電が走る。

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 神田川に架かる「面影橋(おもかげばし)」を渡る。この辺りから江戸川橋にかけての両岸から桜の木が川を覆い、春には花見の名所になる。

 「面影橋」から見る桜並木と神田川。

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山吹之里の碑 13:30 新宿区高田一丁目

 「面影橋」を渡ったすぐ、右側の道端に「山吹之里」の碑。小さいので、見逃しそうだ。

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 この「山吹之里」の碑は1686年(貞享3年)に建てられたもので、神田川の改修工事が行われる以前は、「面影橋」のたもとにあったそうだ。そばには、2004年(平成16年)に立てられた説明板がある。

 この場所から、南東1.5Km先に新宿区山吹町があり、そこからこの辺りの「面影橋」や「甘泉園」までの一帯を、通称「山吹の里」といったそうである。しかしこの太田道灌の「山吹の里」の所在については諸説ある。現在「山吹の里」の伝説(後述)に関する史跡は、都内にこの地以外にも荒川区町屋など複数あり、ほかにも横浜市金沢区六浦(むつうら)、埼玉県越生(おごせ)町などにもある。

 しばらく神田川に沿っって、桜並木の小道を東(下流)に向けて歩く。
 

●東京染ものがたり博物館 13:40 新宿区西早稲田三丁目

 神田川に沿って小道を歩き「三島橋」のたもとの先、北側にマンションや民家に挟まれて、創業140年余り(大正3年創業)の「富田染工芸」と「東京染ものがたり博物館」がある。江戸小紋や江戸更紗(さらさ)を中心とした染の現場を見学できる。江戸小紋の体験・染め道具の展示などもある。

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 この日は日曜。残念ながら休館日で門が閉まっており、スキップする。

 神田川流域の地場産業としての染物は、もともと神田や浅草周辺の染色業者が関東大震災前後に、この辺りの清流に目をつけて工場を開いたのが始まり。1976年(昭和51年)に「江戸小紋」が通産大臣認定の伝統工芸品に選定、「江戸更紗(さらさ)」「江戸刺繍」「無地染」などは東京都の伝統工芸品に指定されている。 

   少し歩くと「仲之橋(なかのはし) 」。この辺りの神田川右岸は新宿区、左岸は豊島区ある。
 

●豊島区立「山吹の里公園」 13:55 豊島区高田一丁目

 「仲之橋」のたもとから小道を離れ、住宅街を北東の方向に200mほど歩いた先(実際は、少し道を迷ってしまったが)、5階建てマンション「リレント早稲田」の隣に「山吹の里公園」があった。

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 豊島区立「山吹の里公園」は、豊島区、文京区、新宿区の区境付近にある児童公園で、住宅の密集する地域に、少し開けた空間のある公園。園内は、小さな広場と子ども向け遊具が配置されている。公園周辺が「山吹の里」として有力な地域とされ、「山吹の里公園」と命名されたそうだ。公園内に「山吹の里」の説明板が設置されている。

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 上の写真の右側の大石には、道灌の「山吹伝説」(後述)の和歌が刻まれている。

 公園に立つ「山吹の里」の説明板。(写真をクリックすると、拡大表示します)

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 再び神田川左岸の小道に戻り、400~500m歩くと文京区に入り、「肥後細川庭園」に着く。

 この辺りの区境が直線でなく凸凹しているのは、神田川が蛇行していた名残りであろう。
 

●文京区立「肥後細川庭園」 14:10 文京区目白台一丁目

 「新江戸川公園」から改称。旧熊本藩主・細川家下屋敷の庭園跡地を、そのまま公園にした。

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 目白台の台地が神田川に落ち込む傾斜の自然景観を活かし、広がりのある池、背後の山や湧水などを利用した回遊式泉水庭園。ここからも「永青文庫」(後述)に行ける。

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 庭園入口にある2階建ての建物(写真下)は「松聲閣(しょうせいかく)」と呼ばれ、明治時代に細川家の学問所として建築、大正時代に改修された。文京区が整備工事等を行い、2016年1月にリニューアルオープン。施設は集会室、休憩室、展望所として利用されている。

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 公園周辺は、江戸中期以降は旗本の邸宅地だったが、江戸末期は清水家や一橋家の下屋敷だった。幕末に熊本54万石の細川家下屋敷、明治には細川家の本邸となった。その後は東京都が買収、1961年(昭和36年)に「新江戸川公園」として開園し、1975年(昭和50年)に文京区に移管された。

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関口芭蕉庵 14:25 文京区関口二丁目

 「胸突坂(むなつきざか)」を上り始める右側にある。江戸時代を代表する俳人・松尾芭蕉(1644~1694)が、2度目の江戸入りの後、1677年(延宝5年)から4年間この地に住んだ。

 芭蕉庵の入口。

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 昔仕えていた藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれに携わっていて水番屋(役人の詰め所)に住んだといわれる。後に芭蕉を慕う人々により跡地に「龍隠庵」を建てたが、いつしか人々から「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになった。敷地内は芭蕉堂や庭園、池などから成っている。芭蕉堂は、第二次世界大戦による戦災などで幾度となく焼失し、現在の建物(写真なし)は戦後に復元されたものである。

 芭蕉庵の池。小さいが回遊式の庭園。

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 また芭蕉280回忌の際、園内に芭蕉の句碑がいくつか建立されている。

 現在では「関口芭蕉庵保存会」によって維持管理されており、池や庭園などもかつての風情を留めた造りとなっているそうだ。芭蕉堂の建物には芭蕉に関する資料が展示され、また句会に利用されたりしているようだ。 
                
 「芭蕉庵」を出て「胸突坂」を上り、目白通りに向かう。

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 江戸時代からある「胸突坂」は、神田川から目白台の台地に上る胸が苦しくなるような急坂。現在は、中央に手すりのあるコンクリートの階段、自転車を引いて上れる斜面が両側に、途中に休憩のための椅子もある。

 昔は、今のような階段は無かったろうに、雨の日や雪の日は上り・下りが出来ただろうか。
 

永青文庫 14:45 文京区目白台一丁目

 胸突坂が緩やかになった所で、左手に「永青文庫」がある。細川家屋敷跡にあり、日本・東洋の古美術を中心とした美術館。

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 1950年(昭和25年)設立、公益財団法人「永青文庫」が運営。理事長は18代当主の細川護煕氏(元総理大臣)。歴代当主の甲冑、茶道具、書画、古文書などの細川家伝来品と、第16代当主・侯爵細川護立(1883-1970)の蒐集品などを収蔵、展示、研究を行っている。

 建物は旧細川家の家政所(事務所)として、昭和初期に建設されたもの。
         
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 1972年(昭和47年)から一般公開されている。入館料600円。時間の都合で、入館はスキップ。

 大通りの目白通りに出て、右折するとすぐの「講談社 野間記念館」の前を通過。

Img_9471講談社野間記念館

 講談社の初代社長・野間清治氏が収集した「野間コレクション」と称される美術品を中心に、また講談社の出版事業にかかわる出版文化遺産も展示されている。建物は、旧社長宅を改装した。
 
 

●椿山荘 15:00 文京区関口二丁目

 「椿山荘(ちんざんそう)」は、文京区関口の小高い丘に建つ。結婚式や宴会施設で、広大な庭園を擁し、敷地内には「ホテル椿山荘東京」を併設。

 「椿山荘」の正面入り口。

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 その昔は椿が自生する景勝地で、「つばきやま」と呼んだらしい。江戸時代には、上総の久留里藩(黒田豊前守) の下屋敷。1878年( 明治11年)に山形有朋公爵邸となり、「椿山荘」と命名。1918年(大正7年)が藤田観光株式会社が譲り受けた。

 庭園は一般公開されており、椿や桜など植物、史跡等を無料で見学出来る。

 庭園に出て散策する。庭園から見る「五丈の滝」。建物の中からも、裏見の滝も見ることができる。

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 園内には戦災を免れた三重の塔がある。

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 三重の塔「圓通閣(えんつうかく)」は、広島県の竹林寺に創建されたものが、1925年(大正14年)に移築された。室町期の作と推定される。旧寛永寺の五重塔(台東区上野)、池上本門寺の五重塔(大田区池上)とならび、東京に現存する三古塔のひとつで登録有形文化財。

 「圓通閣」に奉安されている聖観世音菩薩。

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 古くから東京の名水に数えられた湧水が自噴する「古香井」(ここうせい)と呼ばれる正方形の井戸があり(写真なし)、秩父山系の地下水が湧き出しているそうだ。

 この近くには、丸型の大水鉢(おおみずばち)もある。

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 「量救水(りょうぐすい)」と名づけられたこの水鉢は、元は京都の日ノ岡峠の「亀の水不動」にあったそうだ。何故この地にあるのかは、わからないという。

 大津から京都への荷を運ぶためには、逢坂の峠と日ノ岡峠の二つの峠を越えなければならなかった。その難儀を極めた峠越えを見かねた修行僧・木食養阿(もくじきようあ)は、日ノ岡峠に井戸を掘り当て、水を馬や役夫に振舞った。その水をためた鉢が「量救水」だそうだ。

 1925年(大正14年)に京都伏見稲荷から勧進した「白玉稲荷神社」は、「椿山荘」の守護神。

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 1669年(寛文9年)に作られたという庚申塔。江戸初期の寛文年間は庚申信仰が盛んで、この辺りには野道があったとされる。

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 そのほか園内各所に七福神の石像や、多くの羅漢石などが置かれている。

 15時40分終了。椿山荘16:00発のシャトルバス(無料)で、池袋駅西口前へ。

 16時半から、池袋駅東口すぐの居酒屋「酔粋」で、2時間ほど打ち上げ。

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 20時半頃帰宅。

 寒さは厳しかったが天気は晴れ、風もなくとても良いウォーキング日和だった。

 この日歩いたのは、2万4千歩、15Kmほどだった。都会の中をこれだけ歩くと、けっこう疲れる。

 東京の名所・旧跡を歩いてみると、掲載した写真を見てわかるように、このような静かな景色は都会の喧騒に隣り合わせているのである。

 今回も、この新春ウォーク「東京散歩」を企画し、道案内してくれたYさんに感謝。      

 

 ★ ★ ★

 【山吹伝説】

 その昔、太田道灌が鷹狩りに出かけた際、にわか雨にあってしまう。付近のみすぼらしい農家に立ち寄って、若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された。武道一筋の道灌は、意味がわからず怒ってしまった。

 後日近臣の者から、「後拾遺和歌集」で中務卿兼明親王(914~987)が詠んだ和歌、

 「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき」

 - 山吹はたくさん花が咲くのに、食える実がつかないのは貧しく情けない -

 この「実の」と「蓑」を掛けていたのだと、教えられる。

 娘は、山間(やまあい)の茅葺き(かやぶき)の家であり、貧しくてひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだ。

 古歌を知らなかった無学を大いに恥じた道灌は、それ以後、歌道に励んだという。

 この伝説は、道灌が亡くなってなんと250年以上も経った江戸時代中期に書かれたというから驚く。岡山藩の儒学者・湯浅常山が、戦国武将の逸話470条を収録した『常山紀談』ににあるそうだ。そして、落語の演目「道灌」によって、庶民にも広く知られるようになったという。

 後に江戸城(現在の千代田区)や河越城(埼玉県川越市)を造った太田道灌(1432~1486)は、室町時代後期の武蔵国の武将、扇屋上杉氏の家臣。兵法に長じ、和漢の学問や和歌に優れていたが、謀殺によってこの世を去った。

 道灌は江戸を切り開き江戸城を造ったが、近世になって徳川氏により小規模だった城は何度も改修・拡張され、日本最大の城郭になった。

 江戸・東京の基礎を築いた太田道灌の銅像は、丸の内の旧・東京都庁の敷地にあったものが有名だった。都庁の新宿移転に伴い、現在は「東京国際フォーラム」内に移転されている。道灌の銅像は、このほかにも東京都内、関東の各地にある。

 埼玉県越生町も、「山吹の里」とされている。「越生梅林」を有する越生町は、町の木が「ウメ」、町の花が「ヤマブキの花」。約3,000株の山吹の花が咲く「山吹の里歴史公園」がある。道灌が河越(埼玉県川越市)の領主であった頃、鷹狩にこの地に来た時の話だという。川越は、太田道灌が1457年(長禄元年)に築いた河越城(初雁城)の城下町として発展してきた。川越市役所の前には、川越を開いた始祖とも仰ぐ太田道灌の立像がある。

 

2018年1月27日 (土)

早稲田界隈-その1

 2018年1月14日(日)、東京・早稲田界隈の名所・旧跡をめぐる新春ウォーク。

 

 この日は、日本付近が高気圧に覆われ、東京は晴れ。最高気温は7℃ほどと寒さが厳しいが、風もなくウォーキング日和。 

 9:50、JR目白駅を出発。 

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 学習院大学目白キャンパスの塀を左手に見ながら、坂道を500mほど下ると、学習院下とういう信号のあるT字路。ここを右手に折れ250mほど進む。

 

●新宿区立「おとめ山公園」 10:05 新宿区下落合二丁目

 園内は起伏に富み、ナラ、シイ、クヌギなどの落葉樹が生い茂り、かつての武蔵野の景観を残す、自然豊かな風致公園。

 中央部の谷間には湧水によってできた池がいくつかあり、池の源流にはサワガニやヌマエビなどを見ることができるそうだ。当時、このあたりが蛍の名所であったことから、湧水を利用した蛍の飼育所があって、地域の方々によってボタルの環境造りや鑑賞会がおこなわれているという。

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 東屋(あずまや)のある標高35m の高台は、東京十名山の一つ「おとめ山(御留山)」と呼ばれる。

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 公園は、目白台地から神田川を臨む南傾斜地にあり、落合崖線に残された斜面緑地。江戸時代、「おとめ山公園」の敷地周辺は将軍家の鷹狩や猪狩などの狩猟場で、一帯を立ち入り禁止として「おとめ山(御留山、御禁止山)」と呼ばれ、現在の公園の名称の由来となっている。

 明治時代には、この徳川家の土地を近衛家と相馬家が所有。大正期に入り、相馬家が広大な庭園をもつ相馬子爵邸を造成したがのちに売却。第二次世界大戦後は国有地として荒れ果て、森林の喪失を憂えた地元の人たちが「落合の秘境」を保存する運動を起こし、(1969年(昭和44年)にその一部が公園として開園した。

 新宿区立、落合中学校・小学校を右に見て相馬坂を下ると、新目白通りに出る。新目白通りを1Kmほど歩くと神田川に架かる「高田橋」、高戸橋交差点を右に折れ明治通りを南下。

 途中、馬場口交差点のビルの谷間に「有限会社三ツ矢堂製麺」の看板があるちょっとギクッとするレトロな建物。

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 あとで調べると、チェーン展開しているラーメン屋「三ツ矢堂製麺」の高田馬場店。有限会社とあるが、「三ツ矢堂製麺」は屋号で、本社はこの隣のビルにあって社名は「株式会社 インタ-ナショナル ダイニング コ-ポレ-ション」。この外観のレトロさは店内も同じで、演出のようだ。

 諏訪町交差点を左折して、諏訪通りを東に向かうと学習院女子大、学習院女子中・高等科が右手にある。

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 学習院女子大を過ぎたところのの三叉路から箱根通りを南下して、戸山公園に向かう。

 

●都立「戸山公園」 11:05 新宿区戸山二丁目

 新宿区にある都立公園で、敷地は明治通りを挟んで、西側の大久保地区(大久保三丁目)と東側の箱根山地区(戸山二丁目・三丁目)に分かれている。

 子供たちが興じる野球やサッカーの運動公園を右手に見ながら、箱根山に向かう。

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 園内の「箱根山」は、東京十名山の一つで最も高い標高44.6m。山手線内では、一番高い人造の山(築山)である(写真下)。昔は見晴らしが良かっただろうが、ビルに囲まれていて、目についたのは新宿のNTTドコモビルくらいか。

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 一帯は、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷で「戸山荘」と呼ばれた。回遊式庭園のほか、箱根山に見立てた築山、東海道の小田原宿を模した建物など二十五景がしつらえられた大名庭園だったという。

 明治維新後、跡地には1873年(明治6年)に陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用された。戦後は、1949年(昭和24年)に戸山ハイツの建設が開始され、1954年(昭和29年)には敷地の一部を公園として整備し、「戸山公園」として開園した。

 諏訪通りに戻り、馬場下町交差点を経て、近くの早稲田大学に行って見る。
 

●早稲田大学 11:40 新宿区戸塚町一丁目

 早稲田大学は、2017年で創立135年を迎えた。

 6学部がある早稲田キャンパスに、大学のシンボル大隈講堂。

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 開設者の大隈重信を顕彰して造られた大隈銅像。

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 大学構内を出て、馬場下町交差点近く、早稲田通りへ。

 中華食堂の「日高屋」で昼食(12:05~12:20)。レバニラ炒め定食620円。
 

●穴八幡宮 12:20 新宿区西早稲田二丁目

 「穴八幡宮(あなはちまんぐう)」の御利益は、虫封じのほか、金銀融通、商売繁盛や出世、開運。旧称は「高田八幡宮」。

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 赤い鳥居をくぐり階段を上がると、参道の両側には縁起物や食べ物などを売る出店がぎっしり並ぶ。縁起物は金色の物が多く、特に幸福の打出の小槌は有名だそうだ。

 参道の左手の境内にはロープが張られ、それに沿って大勢の参拝客が大行列を作って並んでいる。本拝殿の左側に、お守りが頂ける社務所がある。

 お守りをあきらめ、本拝殿の前の列に並んで参拝。

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 社伝では、創建は1062年(康平5年)。奥州からの凱旋途中の源義家(八幡太郎義家)が、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったという。1636年(寛永13年)ここに的場(弓の練習場)が造られ、射芸の守護神とした。641年(寛永18年)、南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の阿弥陀如来像が現れ、以来「穴八幡宮」と称するようになったそうだ。

 「穴八幡宮」を出て早稲田通りを北に向かうと、西早稲田交差点の西北一帯は旗本の馬術の練習場「高田馬場跡」。交差点の角に説明板があった。この辺りの旧高田馬場は、現在の住居表示は新宿区西早稲田、新宿区高田馬場とは異なる。

 

●早稲田水稲荷神社 12:45 新宿区西早稲田三丁目

  早稲田大学の裏手に当たる通りの左手の階段を上ると、「早稲田水稲荷(わせだ・みずいなり)神社」の参道。

 参道の入口に、「堀部安兵衛之碑」が建つ。

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 赤穂浪士四十七士の一人、堀部武庸(たけつね)は高田馬場の決闘で名を馳せた剣客。旧姓は中山、通称は安兵衛。堀部家の婿養子となり赤穂藩・浅野家の家臣となる。吉良邸討ち入りでは、江戸急進派としてのリーダーだった。
 
 1910年(明治43年)、安兵衛の石碑が高田馬場の一隅に建立された。この当時は日露戦争が終わってナショナリズムが高揚していた頃で、忠君の「忠臣蔵」が再評価された時代であった。その後、1971年(昭和46年)に現在の水稲荷神社の場所に移された。

 水稲荷神社や甘泉園公園の辺りは「山吹の里」といわれ、太田道灌にまつわる「山吹伝説」は、よく知られている。水稲荷神社の境内には「駒繋松」があり、道灌がよく鷹狩に通った路には、馬を繋いだという松の木(この木は、三代目)がある。

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 早稲田水稲荷神社は、『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』に描かれた当時は「高田稲荷」(または「冨塚稲荷」)と呼ばれていたが、1702年(元禄15年)に霊水が湧き出したので、現社名の「水稲荷神社」と改名された。眼病のほか水商売および消防の神様として有名。

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 社殿の右上の小高い丘は、元々早稲田大学9号館裏にあった江戸で最古の富士塚とされる「冨塚古墳」。1963年(昭和38年)に早稲田大学拡張工事の際に土地交換で、水稲荷神社(旧高田稲荷、または旧冨塚稲荷)とともに西早稲田3丁目のこの地に移転した。早稲田大合格祈願の神社として、受験生の参拝が多い。

 「冨塚」は、「戸塚」の町名の起源ともいわれている。戸塚町は、現在の西早稲田や高田馬場を含んでいた。「富塚古墳」は、「冨塚富士」、「戸塚富士」、あるいは「高田富士」とも呼ばれたようだ。
 

●新宿区立「甘泉園公園」 13:00   新宿区西早稲田三丁目   

 「甘泉園」は、清水家の下屋敷、大名庭園があった。「甘泉」の名は、ここから湧く泉の水がお茶に適していたところからと言われている。池と森の回遊式庭園。

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 この地は、宝永年間(1704-1711年)に尾張徳川家の拝領地となり、その後1774年(安永3年)に徳川御三卿の一つ、清水家の下屋敷が置かれていた。

 明治以降は子爵相馬邸の庭園として整備され、1938年(昭和13年)に近隣の早稲田大学が付属施設として譲り受けた。1961年(昭和36年)前述の様に、早稲田大学の拡張工事のため、旧水稲荷神社だった境内敷地を購入する代わりに当地「甘泉園」を東京都に売却、都立公園となった。旧水稲荷神社は、現在の場所に移転した。1969年(昭和44年)新宿区立公園となって現在に至る。

 春夏秋は、ツツジ、アジサイ、新緑や紅葉、冬になると雪吊りを見ることが出来る。

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 池の一部が氷結していて、家族連れが遊んでいた。

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 なお水稲荷神社の境内も、甘泉園住宅(現在は公務員住宅)も、元々「甘泉園」の敷地であった。

 13:20「甘泉園公園」を出て、新目白通りを横断して、高田一丁目へ向かう。
 

 この後は、「早稲田界隈-その2」に続く。
 

 ★ ★ ★

 【穴八幡宮】

 三代将軍家光は、横穴(古墳だったのだろうか?)から阿弥陀如来像が現れたという話を聞いて、「穴八幡宮」を幕府の祈願所、城北の総鎮護とした。歴代将軍がたびたび参拝し、八代将軍吉宗は世嗣の疱瘡平癒の祈願のため、流鏑馬(やぶさめ)を奉納したという。流鏑馬は、その後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納された。江戸の庶民からも信仰を集め、特に虫封じの祈祷は有名だった。

 虫封じとは、乳幼児の夜泣き、グズリ、かんしゃく、ひきつけなどの「疳(かん)の虫」を防ぐこと。昔は人は、寄生虫を見る機会が多かったので、子供に虫が着いたと思ったのだろう。

 「穴八幡宮」は、冬至の「一陽来復(いちようらいふく、冬至の意)」という金運がアップするお守り(お札)が有名。お守は二種類あって、壁に貼るもの(800円)と、財布などに入れる携帯型(300円)があるそうだ。毎年冬至の日(2017年は12月22日)から翌年節分の日(2018年は2月3日)までが、お守りを受け取れる期間。冬至の日は特別に、午前5時から受け取る事ができ、徹夜組が列をなすそうだ。
 

 【堀部安兵衛】

 1694年(元禄7年)旧暦2月11日のこと、安兵衛は叔父の果し合いの助太刀を買って出て、途中馬場下の酒屋「小倉屋」(現在は「リカーショップ小倉屋」)で気合を入れるために枡酒をあおって、高田馬場に駆け付けたと伝えられている。果し合いでは、相手方三人を切り倒したという。

 この決闘で、安兵衛の活躍が「18人斬り」と江戸中の評判になった。この高田馬場の決闘については、後に多くの講談、芝居、落語となったが、酒は決闘後に飲んだという説もあり、真偽のほどは明らかでない。果し合いの場所は、現在の早稲田通りの「西北診療所」の辺りとされている。

 この安兵衛の評判を聞きつけた赤穂浅野家臣・堀田金丸は、主君・浅野長矩(内匠頭)の許可を得て婿養子にした。

 元禄15年12月(1703年1月)、大石良雄(蔵之介)、堀部武庸(安兵衛)ら赤穂浪士四十七士は本所松阪の吉良義央(上野介)の屋敷へ討ち入り、本懐を遂げた。元禄16年2月(1703年3月)、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、お預けになっていた伊予松山藩の江戸屋敷にて切腹した。享年34歳。主君と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られている。
 

 【富士塚】

  富士信仰の富士塚の造営は、基本的には築山(つきやま)という人工の山であるが、すでに存在する丘や古墳を転用したり、あるいは富士山の溶岩を積み上げだりして、富士山に見立てたもの。富士塚の名称としては、「○○富士」のように呼ばれることが多い。「冨塚富士」は、「冨塚古墳」とも呼ばれているので、古墳を転用してその上に富士塚を造成したのであろうか。

  江戸では最古の富士塚は、1780年(安永9年)に「高田稲荷(冨塚稲荷)」の境内に築かれた「冨塚富士」だとされた。この富士塚は、富士講や富士信仰を知る上で重要な文化財であったが、1964年(昭和39年)に早稲田大学のキャンパス拡張の際に破壊され、近隣の「甘泉園」に「水稲荷神社」と共に移築された。現在の富士塚は、富士講が行なわれる日にのみに、入山することができるそうだ。

 江戸後期、天保年間に7巻20冊が刊行された『江戸名所図会』の一部。(出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 右上に富士山の形をした「冨塚富士」、中央の小高い丘に「高田稲荷」がある。(写真をクリックすると拡大表示。)

2018年1月23日 (火)

国立西洋美術館「北斎とジャポニスム」

 2018年1月17日(水)、国立西洋美術館の企画展「北斎とジャポニズム」を観賞する。

 

 午前10時から駒込・巣鴨界隈を散策、15時ころ上野駅へ。

 15:10、上野駅構内の「エキュート上野」にあるチケットショップで、国立西洋美術館「北斎とジャポニズム」の観覧券1,600円を購入。窓口には、企画展の待ち時間は、「0分」と掲示してある。


【企画展】 北斎とジャポニズム - HOUKUSAIが西洋に与えた衝撃

 15:30入館。音声ガイド550円。企画展内は、撮影禁止。

 「北斎とジャポニスム」のパンフレットの表紙。

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 江戸時代末期、今から150年ほど前に開国した日本に、西洋は急速に関心を寄せ始めた。中でも西洋の芸術家たちは、日本美術の新しさ、珍しさに魅了され、その真髄を自らの創作活動に取り入れた「ジャポニスム」という現象を生み出した。特に、天才浮世絵師・葛飾北斎が、西洋美術に与えた影響は絶大であったという。その影響は欧米の全域にわたり、絵画、版画、彫刻、ポスター、工芸など、更には音楽の分野にも及んでいる。

 国内外の美術館が所蔵するモネ、ドガ、セザンヌ、ゴーガンなどの西洋の作品約220点と、錦絵約40点と版本約70点からなる北斎作品約110点を集め、比較して展示。主催者は、「日本初、世界初。西洋と北斎の名作、夢の共演」と謳っている。

 本展の会期は、2017年10月21日(土)~2018年1月28日(日)。鑑賞した前日の1月16日(火)には、来場者数が30万人を突破したそうだ。

 

 葛飾北斎(1760~1849)は、江戸時代後期を代表する浮世絵師。狂歌本や読本挿絵、『北斎漫画』に代表される絵手本などの版本、錦絵版画、肉筆画など多彩な制作活動を行った。代表傑作の『冨嶽三十六景』は、歌川広重の『東海道五十三次』と並び、浮世絵における風景画を確立させた。森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表、14歳で絵師になってから90歳で没するまで、意欲的な製作活動を続けた。『北斎漫画』の初編を発刊したのは54歳、『冨嶽三十六景』を発表したの72歳、大器晩成型の絵師であった。

 北斎の自画像 天保10年(1839年)頃 出典:ウィキメディア・コモンズ

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 以下に各章(エリア)ごとに、代表的な作品について論じる。

 本文に掲載する作品は、クロード・モネの《陽を浴びるポプラ並木》 以外は、「北斎とジャポニスム」のパンフレットから転載。

 

第Ⅰ章 北斎の西洋による受容

 鎖国時代、シーボルトを始め出島のオランダ商館員たちが、北斎の絵本や肉筆画を西洋に持ち帰った。開国すると、来日した外国人たちは日本での紀行本や紹介本を発刊するが、日本の風景や風俗を表わすため、北斎の絵が挿絵として多数掲載されるようになった。

 明治に入って日本の美術品は大量に流出。特に北斎の作品に興味を持ち、収集する愛好家たちが数多く生まれた。更に、西洋に無い斬新な表現をする北斎に驚いた芸術家たちは、その絵を手本として模写したり、その画法を研究するようになる。

 西洋の画家が『北斎漫画』を模写した作品が、北斎の絵と並べて多数展示されている。
  

第Ⅱ章 北斎と人物

●エドガー・ドガ

 ドガは、踊り子を多く描いた。手を腰に当てたバレニーナの日常、何気ない動きをとらえたポーズは、『北斎漫画』に登場する相撲取りの姿。バレニーナの正面からの姿を描くの普通だろうが、背中を向けたポーズは、新鮮だったのだろうか。

 エドガー・ドガ 《踊り子たち、ピンクと緑》 1894年 パステル、紙

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 葛飾北斎 『北斎漫画』十一編(部分) 刊年不詳

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●メアリー・カサット

 それまで西洋では、幼い女の子でも行儀の良いポーズで描かれていたのだろう。このような退屈そうに寝そべって、足を広げた子供らしい姿は、まさに『北斎漫画』の大きな袋の上にユーモアのある太鼓腹の布袋様を意識しているのだそうだ。
 
 メアリー・カサット 《青い肘掛け椅子に座る少女》 1878年 油彩、カンヴァス

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 葛飾北斎 『北斎漫画』初編(部分) 文化11(1814)年

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第Ⅲ章 北斎と動物

●ポール・ゴーガン

 小動物、鳥、魚、爬虫類や昆虫は、モチーフとして北斎の作品に多く現われているが、西洋にはその生きた姿が作品の主役として描かれることは無かった。西洋から遠く離れた南太平洋のタヒチを本拠地としていたゴーガンも、浮世絵に興味を持っていた。北斎の丸々として愛くるしい3匹の子犬と同じく、平面的に描かれた子犬を3匹描いている。

 西洋画を見た日本人は、油絵など写実的で立体感のある絵に驚いたと思う。しかし西洋人が、簡潔で平面的ではあるが生き生きとした動作・表情の日本の絵に、新鮮さを憶えたのは皮肉なものである。

 ポール・ゴーガン 《三匹の子犬のいる静物》 1888年 油彩、板

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 葛飾北斎 『三体画譜』(部分) 文化13(1816)年 浦上蒼穹堂

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第Ⅳ章 北斎と植物

 日本では古来より、「花鳥風月」という言葉がある。花や鳥などの動植物を愛し、よく詩歌の題材になったり、絵にも描かれる。美しい自然や自然の美しい風物(風と月など)を重んじて観賞する、風雅な趣を楽しむことをいう。

●フィンセント・ファン・ゴッホ

 西洋では、宗教画が一番上で、その下に人物画、風俗画や風景画、静物画の順に位置づけられていた。しかも植物は静物画として、花瓶に活けた姿を描くのが定番だった。日本では花鳥画として、自然の中で根を張った植物が対象である。ゴッホは、野生に咲く花の姿を、しかもクローズアップして描くというのを北斎から学んだという。

 フィンセント・ファン・ゴッホ 《ばら》 1889年 油彩、カンヴァス

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 葛飾北斎 《牡丹に蝶》 天保2-4年(1831-33)頃 横大判錦絵

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第Ⅴ章 北斎と風景

●クロード・モネ

 モネは、北斎の作品をいくつも所有するほど、北斎好き。北斎は、松の並木や竹林越しに見る風景をよく書いていた。モネのポプラの木立がリズムよく並ぶ構図は、北斎の松の並木を参考にしているそうだ。

 クロード・モネ 《陽を浴びるポプラ並木》 1891年 油彩、カンヴァス (出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 葛飾北斎 《冨嶽三十六景 東海道程ヶ谷》 天保元-4年(1830-33)頃 横大判錦絵

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第Ⅵ章 波と富士山

●カミュ―ユ・クローデル

 西洋にも風景画の中に、海景画という分野があったそうだ。しかし北斎のように、波自体を主役にすることは無かった。北斎の『神奈川沖浪裏』の大波を見た西洋人は、きっとそのダイナミックさに衝撃を受けたであろう。大勢の西洋芸術家たちが、その大波(The Great Wave)にチャレンジした。

 フランスの女性彫刻家・クローデルの「波」は、「神奈川沖浪裏」をヒントに、彫刻によって大波を立体化したとされる。ただ大波の恐怖よりも、3人の女性たちを包み込むようで優しい。クローデルと親しかった作曲家・ドビュッシー(1862~1918年)も、北斎の絵から交響詩「海」を着想したとされている。(音声ガイドから、その曲を聞く。)

 左、カミュ―ユ・クローデル 《波》 1897-1903 オキニス、ブロンズ

 右、葛飾北斎 《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》 天保元-4年(1830-33)頃 横大判錦絵

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●ポール・セザンヌ

 北斎の富士山のように、セザンヌは南仏のサント=ヴィクトワール山を様々な構図で繰り返し描いたという。遠景に主役の山を置き、前景に木立を配して、中間の景色を俯瞰的に描く構図は、北斎の『冨嶽三十六景』の描き方に似ている。

 ポール・セザンヌ 《サント=ヴィクトワール山》 1886-87年 油彩

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 葛飾北斎 《冨嶽三十六景 駿州片倉茶園ノ不二》 天保元-4年(1830-33)頃

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【常設展】 松方コレクション

 企画展「北斎とジャポニズム」を観賞した後、3年前に鑑賞した事があるが、常設展(松方コレクション)を駆け足で回る。企画展のチケットで、常設展の観覧は無料。

 鑑賞途中で気がついたが、当館が所蔵する作品(常設展示作品)については、写真撮影は可能。

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 ピエール=オーギュスト・ルノワール 《横たわる浴女》 1906年 油彩、カンヴァス

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 ピエール=オーギュスト・ルノワール 《帽子の女》 1891年 油彩、カンヴァス

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 右、ジョアン・ミロ 《絵画》 1953年 油彩、カンヴァス

 中央、フェルナン・レジェ 《赤い鶏と青い空》 1953年 油彩、カンヴァス

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 17:30、退館。

 本降りの雨の中、公園口からパンダ橋を渡って上野駅ビル商店街「アトレ上野」へ。

 18:00~19:30、不忍口、山下口から徒歩1分、「アトレ上野」1Fの道路側にあるイタリアン「バルピノーロ 上野」 (BAL PINOLO)で夕食。

 

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 ★ ★ ★

 【北斎を「影」で支えた葛飾応為】

 2016年10月16日、長野県小布施町の美術館「北斎館」(一般財団法人)に行った。葛飾北斎の肉筆画が多く展示してあり、北斎の多彩な才能に感動した。

 北斎は、信州・小布施村に縁があった。小布施の豪農商・高井鴻山は、江戸での遊学の折、北斎と知り合った。数年後の1842年(天保13年)秋、83歳の北斎が小布施の鴻山屋敷を訪れた。鴻山は感激し北斎を厚遇、自邸に一間のアトリエを新築した。北斎は1年余り滞在して創作活動に励んでいる。その後も数回、鴻山邸を訪れたという。
 

 2017年9月18日(月)夜7:30~8:43、NHK総合テレビで特集ドラマ『眩(くらら)~北斎の娘~』が放送され、視聴した。1時間ちょっとの番組だったが、単発でなく連続ドラマにすべきようなとても良い内容だった。

 83歳の北斎が、江戸から信州・小布施まで旅をした。昔の人は健脚であったろうが、高齢の北斎が一人で長旅をしたのだろうか。ドラマを見ていて、やっとわかった。娘・葛飾応為(おおい)が同行したのだった。

 NHK特集ドラマ『眩(くらら)~北斎の娘~』 NHKホームページから転載。

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 ドラマのあらすじは、次のようである。

 江戸の天才絵師・葛飾北斎の三女として生まれたお栄(後に葛飾応為、宮﨑あおい主演)は、町絵師と夫婦になった。しかし針仕事も殆どせず、父譲りの画才と男勝りの性格から夫の描いた下手な絵を笑ったため、離縁されてしまう。師である北斎(長塚京三)の元に出戻った応為は、晩年の北斎と起居を共にし、絵の手伝いが始まる。そんな中で、北斎の門人である絵師・善次郎(松田龍平)にだけは悩みを話すことができ、密かな恋心もあった。

 北斎を尊敬し、影で支える絵師として働き続ける。そして北斎の代表作である「富嶽三十六景」が完成した時にも、そばには応為がいた。父が高齢となり、思うがままに筆を動かせなくなってからも、応為は父の「影」として北斎の絵を描き続ける。北斎は眩しい光、自分はその「影」でいい。

 時は経ち、心のよりどころであった善次郎が、そして北斎もこの世を去る。そして60歳を過ぎた応為は、晩年に独自の画風にたどり着く。

 「影が万事を形づけ、光がそれを浮かび上がらせる。この世は光と影でできている」と・・・。

 

 応為の生まれた年は寛政13年(1801年)前後、没年は慶応年間とされるが、はっきりしない。美人画に優れ、北斎の肉筆美人画の代作をしたともされる。北斎は、「美人画にかけては応為にはかなわない。彼女は妙々と描き、よく画法に適(かな)っている。」と語ったと伝えられている。しかし残念ながら現存する作品は、10点前後と非常に少ないそうだ。西洋画法への関心が強く、誇張した明暗法と細密描写に優れた肉筆画が残る。

 葛飾応為 《吉原格子先之図》 1818-44年(文政-天保年間)頃 紙本着色 (出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 この絵を見て、筆者は衝撃を受けた。西洋画のような光と影のある絵を書く人が、江戸時代にいたのかと。

 北斎作とされる作品、特に北斎80歳以降の作品の中には、実際は応為の代筆が相当数あると考えられている。目や耳も衰え、中気(脳卒中)で手が震えていた北斎が、90歳で没するまで描き続けたというのも、応為の支えや代筆があったと考えれば納得できる。ドラマでも、応為の名前では売れない絵に、北斎の落款(らっかん)を押すシーンが出てくる。
 

 ドラマの原作『眩』(くらら)は、直木賞の女流作家・朝井まかてによる歴史小説。『小説新潮』2014年12月号から約1年間連載され、2016年3月に新潮社より刊行された。


 墨田区亀沢にある公立の「すみだ北斎美術館」は、葛飾北斎を単独テーマとした常設美術館。2016年(平成28年)11月に開館したので、まだ新しい。北斎が本所界隈(現在の墨田区)で生まれ、生涯を送ったことから、当地に設置された。来月2月に鑑賞に行く予定で、新しい発見が楽しみ。

 

2018年1月20日 (土)

駒込・巣鴨界隈

 2018年1月17日(水)、駒込・巣鴨界隈をめぐる。
 

 当日は、低気圧が本州付近を通過する。関東甲信は雲が多く、昼頃から雨の予報。

 10時、JR駒込駅の南口を出発。本郷通りを南へ550m先の「六義園」へ歩いて向かう。
 

●六義園 文京区本駒込六丁目

 六義園・旧古河庭園の園結びチケットは一般400円、65歳以上は200円。10:15入場。

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 「六義園」のパンフレット。

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 ひと気のない六義園、曇り空だが比較的暖かい。下の写真は、冬の景色を演出する「雪吊り」と「霜よけ」。

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 樹木の枝が雪の重みで折れないように施す「雪吊り」の代表的な手法に「りんご吊り」がある。金沢の「兼六園」で見られるように樹木の幹付近に柱を立て、柱の先端から各枝へと放射状に縄を張る。雪の少ない東京の庭園では、冬の演出だそうだ。

 またソテツなど寒さの弱い植物に施される藁細工の「霜よけ」も、冬の演出。「六義園」にはソテツは無いので、木と竹の骨組みにソテツの霜よけの装飾を行っているそうだ。

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 「六義園」は、1695年(元禄8年)五代将軍徳川綱吉の側用人だった川越藩主・柳沢吉保が、綱吉から賜った土地に土を盛って丘を築き、水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を造成した。

 1702年(元禄15年)庭園と下屋敷が一通り完成すると、以後将軍綱吉のお成り(訪問)が頻繁に行われたという。

 明治になって三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の別邸となり、1938年(昭和13年)に東京市に寄贈された。1953年(昭和28年)、特別名勝に指定。

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 松の木に菰(こも)巻き。縄の結び目が、美的。

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 菰巻きは、江戸時代から大名庭園などで行われてきた伝統的な害虫駆除法。松の木の枝につく害虫(マツカレハの幼虫)が、暖かいところを好む習性を利用して、幹に巻いた菰(藁)で越冬させ、春先に外して害虫ごと焼却する。

 最近の研究では、害虫駆除の効果はほとんど無くむしろ逆効果であるとされ、菰巻きを中止している庭園もあるという。

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 万両、千両と呼ばれる赤い実のなる常緑低木は、お正月の縁起物。これに百両、一両を加え「御利益花壇」と名付けた当園のお正月飾りだそうだ。六義園の入口付近にあった。

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 この時期ひっそりとした「六義園」は、春には枝垂れ桜、初夏のツツジ、秋には紅葉で賑やいを見せる。

 11時「六義園」を後にし、駒込駅に戻る。駅から本郷通りを北に700m先の「旧古河庭園」へ。
 

●旧古河庭園 北区西ヶ原一丁目

 11時半「旧古河庭園」に入場。

 「旧古河庭園」は大正初期の代表的庭園で、1917年(大正6年)古河財閥の古河虎之助男爵の邸宅として竣工した。現在は国有財産で、東京都が借り受けて都立庭園として一般公開している。

 建物と西洋庭園の設計者は、「旧岩崎庭園」や「ニコライ堂」、「鹿鳴館」を設計したことで有名なイギリス人建築家のジョサイア・コンドル。国の名勝に指定。バラの名所として都民に親しまれている。

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 受付で聞くと、洋館内部の見学は往復葉書による事前に申込みが原則だとのこと。ガイドによる解説付の1時間の洋館見学ツアーが、1日3回行なわれているそうだ。しかし見学者が少ない冬の時期のガイドは、中止しているという。 

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 この洋館(旧古河邸)は、ホテルニューオータニで有名な大谷財閥の「大谷美術館」が管理している。美術館といっても絵画のような美術品があるわけでなく、この洋館全体を美術品としているそうだ。石造りの洋館にバラは、とても絵になる。

 「旧古河庭園」のパンフレット。

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 斜面の西洋庭園(バラ園)を降りて行くと、斜面の底部に日本庭園がある。

 雪囲いの冬牡丹がきれい。

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 「六義園」で見たソテツの霜よけと同じものがあった。ここの日本庭園には、本物のソテツがある。

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 日本庭園は、斜面の一番底部に位置する池泉回遊式庭園。京都の造園家・七代目小川治兵衛の作。洋館や西洋庭園の後、1919年(大正8年)に完成。

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 12時頃、退場。駒込駅に戻り、12:20山の手線の次の駅の巣鴨駅に着く。
 

●巣鴨地蔵通り商店街と高岩寺 豊島区巣鴨三丁目、四丁目

 巣鴨駅正面口から200mくらい白山通りを歩くと、「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる「地蔵通り商店街」の入口。

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 780mも続く「地蔵通り商店街」は、煎餅や大福などの和菓子の老舗、年配向けの衣料品店など、約220店舗があるという。昨年5月に来た時はもっと混み合っていたが、寒いせいか人通りは少ない。

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 赤パンツの元祖「巣鴨のマルジ」(上の写真、右手の看板)はこの通りに4店舗もあるらしい。店に入ると、元気と幸福をもたらす「赤の力」のパンツやインナー、腹巻、靴下、タオルハンカチなど、赤づくめの衣料品が並ぶ。パンツは、婦人向けだけでなく紳士用や子供用もある。

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 「巣鴨のマルジ」の説明書を読むと、へその下3~4cmの所にある丹田(たんでん)というツボがある。東洋医学では、このツボは「気」の発信地とされる。赤いパンツを履くことにより、大事なツボを刺激し身体を温める効果があり、アドレナリンの分泌を促し、精神の集中力、自然治癒力を高めるという。更に、赤い色の布を身に付けると体を温め、エネルギーを補う効果もあるそうだ。

 昼食は、前もってガイドブックで調べた割烹「加瀬政」に入る(12:40~14:00)。

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 ちょっと贅沢な鴨の肉と卵の親子丼(1,550円)を注文。LLサイズの鴨の卵2個を用いて、うち1個の黄身だけを丼の中央に落としてある。12時半過ぎに入店したが、鴨の卵が残り少ないと入口に書いてあって、店員に聞くとあと3人前しかなかった。

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 鴨の親子丼は、初めて。卵は濃厚だが鶏卵と変わらず、肉はミンチ状にしてあって、あまり鴨肉を食べてるという印象は無かった。全体的に味付けは上品で濃くない。

 「加瀬政」は、創業大正11年の老舗割烹店。入口には、ここに訪れてたタレントや有名人の写真が飾ってある。

 食事の後は、商店街を散策しながら、「とげぬき地蔵尊」で有名な「高岩寺」(写真右手)へ。

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 「高岩寺」の山門、参道を進めば香炉があり、山門からほんの20mくらいで本堂が建つ。

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 本堂に参拝。(写真は2017/5/30撮影)

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 本尊の「地蔵菩薩像(延命地蔵)」は、秘仏につき非公開だそうだ。

 縦4cm横1.5cmの和紙に本尊の姿を刷った「御影(おみかげ)」のお札が、本堂で5枚セット100円で授与される。お札は祈願したり、喉に骨が刺さったときや病気平癒にその札を水などと共に飲む、痛いところに貼るなどすると治るといわれる。
 

 本堂のそばにある「洗い観音」は、写真を撮れないほど参拝者が列を成して混み合っていた。

 江戸時代1657年の「明暦の大火」で妻をなくした檀徒の一人が、供養のため「聖観世音菩薩」を高岩寺に寄進した。この観音様に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰がいつしかうまれたというのが由来。

 しかし長年に渡ってタワシで洗っていた観音様の顔もしだいに擦り減ってきたので、1992年(平成4年)新しい「聖観世音菩薩」の開眼供養を行った。同時にタワシを廃止し、布で洗うことにしたそうだ。布(タオル)は、100円で販売されている。写真は、2017/5/30撮影。

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 14時半、「高岩寺」を後にする。

 地蔵通りの 「元祖 塩大福みずの」で、巣鴨名物の塩大福5個入り650円(写真右手)、それと豆大福(粒あん)5個入り(写真左手)650円を購入。

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 この店は、塩大福の発祥の店だそうで、多くの観光客が買い求めていた。塩大福は、長細くて大きく、もっちりして甘さ抑えめ。豆大福は、甘め。出来立て美味しいが、翌日に少し固くなる。

 14時半、巣鴨地蔵通り商店街を出て巣鴨駅へ。

 巣鴨から上野へ電車で移動、やがて久しぶりに本降りの雨。15:30~国立西洋美術館の「北斎とジャポニスム展」を観賞。

 本ブログ記事、「西洋美術館「北斎とジャポニスム展」」につづく。
 

 

 とげぬき地蔵尊や高岩寺の由来、地蔵通り商店街については、

 本ブログ記事 「都内をめぐる日帰り研修旅行」 2017年6月3日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-bf6d.html

 にも記載しているので、ぜひ一読されたい。

 
 

 ★ ★ ★

 「六義園」の名称は、中国古代の詩集『詩経』にある詩の分類法ならって、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の分類の六体(そえ歌、かぞえ歌、なぞらえ歌、たとえ歌、ただごと歌、いわい歌)に由来する。

 柳沢吉保自筆の『六義園記』の本文に、

 「ああ、浦は、すなわち大和歌なり。ここに遊べる者は、この道に遊べるなり。園はこれ、六種(むくさ)なり、ここに悟れる人は、この理(ことわり)を悟れるなり。」

 - ああ、この六義園にうつされた和歌の浦は、実は、「和歌」そのもののシンボルなのである。この館(六義園)に遊ぶ人は、和歌の道に遊ぶのと同じであり、この庭園で悟る人は、和歌の道理を悟るのである。 -

 と書かれている。

 和歌に造詣が深かった吉保は、和歌の心を造園することを意図したもので、この和歌の六体を表現するために、紀州(和歌山)の「和歌の浦」を中心とした美しい歌枕(和歌の中に古来多く詠みこまれた名所のこと)の風景をこの地に写して、庭園を造ろうと思い立った。そして、『万葉集』『古今和歌集』などにもとづいた「六義園 八十八境」と呼ばれる88ヶ所の名所を模して造り出した。その設計と指揮は、吉保本人によるものと伝えられている。

 正門を入り受付すぐ先に、和歌山市パネル展がある。最初のパネルは、「六義園は、今の和歌山市がモデルって本当!?」

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 下の写真は、パネルの一部で「日本三景之内和歌之浦之勝景」の錦絵。

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 展示パネルは、このほか和歌山市の名所紹介まで数枚あった。
  
 入園者は、吉保が創造した理想の和歌の庭園、和歌のテーマパーク「六義園」を通して、和歌山市の「和歌の浦」を目にしているのだという。

 

 柳沢吉保については功罪相半ばする評価がなされてはいるが、将軍綱吉の寵愛を受け、側用人として権勢を欲しいままにした人物である。

 吉保は、もともとは譜代に属する家柄であって、政治中枢の要職につける身分ではなかった。しかし、後に将軍となる上州(群馬県)館林藩主・徳川綱吉に仕えた父の関係で、16歳で綱吉の小姓、以後小納戸役、若年寄上座、側用人と昇進し、7万2千石の川越藩主となったのは、1694年(元禄7年)30歳代の半ばであった。10年後には15万石の甲府城主となる。その間、老中格、大老格に昇格している。

 なぜ綱吉が吉保を寵愛したのか。両者は学問好きな点で共通しており、かねて老中政治に不満をいだいていた綱吉が、側用人政治をすすめるうえで、吉保ほど重宝な存在はなかったのだそうだ。綱吉と生母・桂昌院の気まぐれ、我がままや贅沢を聞き届け、お犬様に代表される「生類憐みの令」に迎合し、赤穂浪士の切腹を主張するなど、旧来の幕閣や大名から庶民に至るまで嫌われた。側用人のマイナスイメージが強い。

 時代劇では、悪巧みや悪事のシーンがよく描かれている。付け届け(賄賂)の横行を助長、自分の保身と栄達の為に権謀術策を尽くしたとされた。一方で無欲で潔い人間だったとも言われており、その人物像についてはよく分からないところが多いという。

 綱吉は学問を好むなど聡明な点もあるのだが、精神的な問題もあってか突飛な言動など、やりたい放題だったとされる。吉保は、常に綱吉のご機嫌取り、行動をコントロールし、被害が出れば尻拭いに身を粉にして働いた。綱吉や桂昌院に迎合し、追従しているだけのイエスマンだけでなく、想像以上の苦労があったのだろう。

 そういう吉保が、加賀藩前田家の旧邸宅であった駒込の広大な地を綱吉から拝領して「六義園」を造った。和歌の造詣が深く、六義園の由来、和歌の心と和歌の浦を模した事など、初めて知る。忙しい政務の合間に、和歌の理想郷を設計し造園の指揮をとった吉保に、これまでのマイナスイメージから意外な一面に感動すら覚える。

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