早稲田界隈-その2
2018年1月14日(日)、東京・早稲田界隈の名所・旧跡をめぐる新春ウォーク。
「早稲田界隈-その1」からの続き。
西早稲田三丁目の「甘泉園公園」を出た後、新目白通りとその通りを走る都電荒川線を横断。
写真は、都内で数少なくなった路面電車の一つ、都電荒川線。ちょうど面影橋停留場を出た都電が走る。
神田川に架かる「面影橋(おもかげばし)」を渡る。この辺りから江戸川橋にかけての両岸から桜の木が川を覆い、春には花見の名所になる。
「面影橋」から見る桜並木と神田川。
●山吹之里の碑 13:30 新宿区高田一丁目
「面影橋」を渡ったすぐ、右側の道端に「山吹之里」の碑。小さいので、見逃しそうだ。
この「山吹之里」の碑は1686年(貞享3年)に建てられたもので、神田川の改修工事が行われる以前は、「面影橋」のたもとにあったそうだ。そばには、2004年(平成16年)に立てられた説明板がある。
この場所から、南東1.5Km先に新宿区山吹町があり、そこからこの辺りの「面影橋」や「甘泉園」までの一帯を、通称「山吹の里」といったそうである。しかしこの太田道灌の「山吹の里」の所在については諸説ある。現在「山吹の里」の伝説(後述)に関する史跡は、都内にこの地以外にも荒川区町屋など複数あり、ほかにも横浜市金沢区六浦(むつうら)、埼玉県越生(おごせ)町などにもある。
しばらく神田川に沿っって、桜並木の小道を東(下流)に向けて歩く。
●東京染ものがたり博物館 13:40 新宿区西早稲田三丁目
神田川に沿って小道を歩き「三島橋」のたもとの先、北側にマンションや民家に挟まれて、創業140年余り(大正3年創業)の「富田染工芸」と「東京染ものがたり博物館」がある。江戸小紋や江戸更紗(さらさ)を中心とした染の現場を見学できる。江戸小紋の体験・染め道具の展示などもある。
この日は日曜。残念ながら休館日で門が閉まっており、スキップする。
神田川流域の地場産業としての染物は、もともと神田や浅草周辺の染色業者が関東大震災前後に、この辺りの清流に目をつけて工場を開いたのが始まり。1976年(昭和51年)に「江戸小紋」が通産大臣認定の伝統工芸品に選定、「江戸更紗(さらさ)」「江戸刺繍」「無地染」などは東京都の伝統工芸品に指定されている。
少し歩くと「仲之橋(なかのはし) 」。この辺りの神田川右岸は新宿区、左岸は豊島区ある。
●豊島区立「山吹の里公園」 13:55 豊島区高田一丁目
「仲之橋」のたもとから小道を離れ、住宅街を北東の方向に200mほど歩いた先(実際は、少し道を迷ってしまったが)、5階建てマンション「リレント早稲田」の隣に「山吹の里公園」があった。
豊島区立「山吹の里公園」は、豊島区、文京区、新宿区の区境付近にある児童公園で、住宅の密集する地域に、少し開けた空間のある公園。園内は、小さな広場と子ども向け遊具が配置されている。公園周辺が「山吹の里」として有力な地域とされ、「山吹の里公園」と命名されたそうだ。公園内に「山吹の里」の説明板が設置されている。
上の写真の右側の大石には、道灌の「山吹伝説」(後述)の和歌が刻まれている。
公園に立つ「山吹の里」の説明板。(写真をクリックすると、拡大表示します)
再び神田川左岸の小道に戻り、400~500m歩くと文京区に入り、「肥後細川庭園」に着く。
この辺りの区境が直線でなく凸凹しているのは、神田川が蛇行していた名残りであろう。
●文京区立「肥後細川庭園」 14:10 文京区目白台一丁目
「新江戸川公園」から改称。旧熊本藩主・細川家下屋敷の庭園跡地を、そのまま公園にした。
目白台の台地が神田川に落ち込む傾斜の自然景観を活かし、広がりのある池、背後の山や湧水などを利用した回遊式泉水庭園。ここからも「永青文庫」(後述)に行ける。
庭園入口にある2階建ての建物(写真下)は「松聲閣(しょうせいかく)」と呼ばれ、明治時代に細川家の学問所として建築、大正時代に改修された。文京区が整備工事等を行い、2016年1月にリニューアルオープン。施設は集会室、休憩室、展望所として利用されている。
公園周辺は、江戸中期以降は旗本の邸宅地だったが、江戸末期は清水家や一橋家の下屋敷だった。幕末に熊本54万石の細川家下屋敷、明治には細川家の本邸となった。その後は東京都が買収、1961年(昭和36年)に「新江戸川公園」として開園し、1975年(昭和50年)に文京区に移管された。
●関口芭蕉庵 14:25 文京区関口二丁目
「胸突坂(むなつきざか)」を上り始める右側にある。江戸時代を代表する俳人・松尾芭蕉(1644~1694)が、2度目の江戸入りの後、1677年(延宝5年)から4年間この地に住んだ。
昔仕えていた藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれに携わっていて水番屋(役人の詰め所)に住んだといわれる。後に芭蕉を慕う人々により跡地に「龍隠庵」を建てたが、いつしか人々から「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになった。敷地内は芭蕉堂や庭園、池などから成っている。芭蕉堂は、第二次世界大戦による戦災などで幾度となく焼失し、現在の建物(写真なし)は戦後に復元されたものである。
芭蕉庵の池。小さいが回遊式の庭園。
また芭蕉280回忌の際、園内に芭蕉の句碑がいくつか建立されている。
現在では「関口芭蕉庵保存会」によって維持管理されており、池や庭園などもかつての風情を留めた造りとなっているそうだ。芭蕉堂の建物には芭蕉に関する資料が展示され、また句会に利用されたりしているようだ。
「芭蕉庵」を出て「胸突坂」を上り、目白通りに向かう。
江戸時代からある「胸突坂」は、神田川から目白台の台地に上る胸が苦しくなるような急坂。現在は、中央に手すりのあるコンクリートの階段、自転車を引いて上れる斜面が両側に、途中に休憩のための椅子もある。
昔は、今のような階段は無かったろうに、雨の日や雪の日は上り・下りが出来ただろうか。
●永青文庫 14:45 文京区目白台一丁目
胸突坂が緩やかになった所で、左手に「永青文庫」がある。細川家屋敷跡にあり、日本・東洋の古美術を中心とした美術館。
1950年(昭和25年)設立、公益財団法人「永青文庫」が運営。理事長は18代当主の細川護煕氏(元総理大臣)。歴代当主の甲冑、茶道具、書画、古文書などの細川家伝来品と、第16代当主・侯爵細川護立(1883-1970)の蒐集品などを収蔵、展示、研究を行っている。
建物は旧細川家の家政所(事務所)として、昭和初期に建設されたもの。
1972年(昭和47年)から一般公開されている。入館料600円。時間の都合で、入館はスキップ。
大通りの目白通りに出て、右折するとすぐの「講談社 野間記念館」の前を通過。
講談社の初代社長・野間清治氏が収集した「野間コレクション」と称される美術品を中心に、また講談社の出版事業にかかわる出版文化遺産も展示されている。建物は、旧社長宅を改装した。
●椿山荘 15:00 文京区関口二丁目
「椿山荘(ちんざんそう)」は、文京区関口の小高い丘に建つ。結婚式や宴会施設で、広大な庭園を擁し、敷地内には「ホテル椿山荘東京」を併設。
「椿山荘」の正面入り口。
その昔は椿が自生する景勝地で、「つばきやま」と呼んだらしい。江戸時代には、上総の久留里藩(黒田豊前守) の下屋敷。1878年( 明治11年)に山形有朋公爵邸となり、「椿山荘」と命名。1918年(大正7年)が藤田観光株式会社が譲り受けた。
庭園は一般公開されており、椿や桜など植物、史跡等を無料で見学出来る。
庭園に出て散策する。庭園から見る「五丈の滝」。建物の中からも、裏見の滝も見ることができる。
園内には戦災を免れた三重の塔がある。
三重の塔「圓通閣(えんつうかく)」は、広島県の竹林寺に創建されたものが、1925年(大正14年)に移築された。室町期の作と推定される。旧寛永寺の五重塔(台東区上野)、池上本門寺の五重塔(大田区池上)とならび、東京に現存する三古塔のひとつで登録有形文化財。
「圓通閣」に奉安されている聖観世音菩薩。
古くから東京の名水に数えられた湧水が自噴する「古香井」(ここうせい)と呼ばれる正方形の井戸があり(写真なし)、秩父山系の地下水が湧き出しているそうだ。
この近くには、丸型の大水鉢(おおみずばち)もある。
「量救水(りょうぐすい)」と名づけられたこの水鉢は、元は京都の日ノ岡峠の「亀の水不動」にあったそうだ。何故この地にあるのかは、わからないという。
大津から京都への荷を運ぶためには、逢坂の峠と日ノ岡峠の二つの峠を越えなければならなかった。その難儀を極めた峠越えを見かねた修行僧・木食養阿(もくじきようあ)は、日ノ岡峠に井戸を掘り当て、水を馬や役夫に振舞った。その水をためた鉢が「量救水」だそうだ。
1925年(大正14年)に京都伏見稲荷から勧進した「白玉稲荷神社」は、「椿山荘」の守護神。
1669年(寛文9年)に作られたという庚申塔。江戸初期の寛文年間は庚申信仰が盛んで、この辺りには野道があったとされる。
そのほか園内各所に七福神の石像や、多くの羅漢石などが置かれている。
15時40分終了。椿山荘16:00発のシャトルバス(無料)で、池袋駅西口前へ。
16時半から、池袋駅東口すぐの居酒屋「酔粋」で、2時間ほど打ち上げ。
20時半頃帰宅。
寒さは厳しかったが天気は晴れ、風もなくとても良いウォーキング日和だった。
この日歩いたのは、2万4千歩、15Kmほどだった。都会の中をこれだけ歩くと、けっこう疲れる。
東京の名所・旧跡を歩いてみると、掲載した写真を見てわかるように、このような静かな景色は都会の喧騒に隣り合わせているのである。
今回も、この新春ウォーク「東京散歩」を企画し、道案内してくれたYさんに感謝。
★ ★ ★
【山吹伝説】
その昔、太田道灌が鷹狩りに出かけた際、にわか雨にあってしまう。付近のみすぼらしい農家に立ち寄って、若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された。武道一筋の道灌は、意味がわからず怒ってしまった。
後日近臣の者から、「後拾遺和歌集」で中務卿兼明親王(914~987)が詠んだ和歌、
「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき」
- 山吹はたくさん花が咲くのに、食える実がつかないのは貧しく情けない -
この「実の」と「蓑」を掛けていたのだと、教えられる。
娘は、山間(やまあい)の茅葺き(かやぶき)の家であり、貧しくて蓑ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだ。
古歌を知らなかった無学を大いに恥じた道灌は、それ以後、歌道に励んだという。
この伝説は、道灌が亡くなってなんと250年以上も経った江戸時代中期に書かれたというから驚く。岡山藩の儒学者・湯浅常山が、戦国武将の逸話470条を収録した『常山紀談』ににあるそうだ。そして、落語の演目「道灌」によって、庶民にも広く知られるようになったという。
後に江戸城(現在の千代田区)や河越城(埼玉県川越市)を造った太田道灌(1432~1486)は、室町時代後期の武蔵国の武将、扇屋上杉氏の家臣。兵法に長じ、和漢の学問や和歌に優れていたが、謀殺によってこの世を去った。
道灌は江戸を切り開き江戸城を造ったが、近世になって徳川氏により小規模だった城は何度も改修・拡張され、日本最大の城郭になった。
江戸・東京の基礎を築いた太田道灌の銅像は、丸の内の旧・東京都庁の敷地にあったものが有名だった。都庁の新宿移転に伴い、現在は「東京国際フォーラム」内に移転されている。道灌の銅像は、このほかにも東京都内、関東の各地にある。
埼玉県越生町も、「山吹の里」とされている。「越生梅林」を有する越生町は、町の木が「ウメ」、町の花が「ヤマブキの花」。約3,000株の山吹の花が咲く「山吹の里歴史公園」がある。道灌が河越(埼玉県川越市)の領主であった頃、鷹狩にこの地に来た時の話だという。川越は、太田道灌が1457年(長禄元年)に築いた河越城(初雁城)の城下町として発展してきた。川越市役所の前には、川越を開いた始祖とも仰ぐ太田道灌の立像がある。
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