東京都美術館「ゴッホ展」
2017年11月9日(木)、上野の東京都美術館で開催中の「ゴッホ展-巡りゆく日本の夢」を観賞。
ゴッホは、600枚に及ぶ浮世絵を集めて模写するなど、日本にあこがれ、日本美術に強い関心を持ち影響を受けていた。
「札幌展(北海道立近代美術館)が、10月15日(日)までで終了し、現在東京都美術館で、2017年10月24日(火)~2018年1月8日(月・祝)の会期で開催されている。次は京都国立近代美術館が、2018年1月20日(土)~3月4日(日)の会期で京都展が開催される。
一方上野の国立西洋美術館では、ちょうど「北斎とジャポニズム」展が10月21日(土)~2018年1月28日(日)の会期で開催中。モネ、ドガ、セザンヌ、ゴーガン… 等の西洋の芸術家たちが、浮世絵師・葛飾北斎の作品から衝撃を受けた。北斎と西洋の芸術家たちの作品が集結した展覧会。両美術館とも、テーマが似通っているが、今回は時間もないので、ゴッホの方を観賞することにする。
去る11月3日(金)午前10時05分~50分、NHK特集番組「ゴッホは日本の夢を見た」が放映された。
日本のどこにひかれたのか?、女優・吉岡里帆がフランス、オランダを旅し、残された遺品や貴重な証言を手がかりに、傑作誕生の物語から意外なゴッホ人物像に迫るという内容だった。この放映を事前に視聴していたので、「ゴッホ展」を観賞してより理解が深まった。
JR上野駅から上野恩賜公園へ。東京国立博物館前に行くと、大噴水の水が抜かれてその中で工事していた。かつて公園は上野・寛永寺の境内だった歴史を踏まえ、浮世絵にある山門を、角材4800本で模した楼閣だそうだ。
この構造物は、10月10日~19日に開催されるアートイベント「TOKYO数寄フェス2017」の出品作。夜にはライトアップされ、噴水池に姿を映し出すそうだ。現代美術家で東京芸術大の大巻伸嗣教授の作品。
14:30、東京都美術館の入口に着く。
「ゴッホ展」のポスターに使われている絵は、ゴッホの「花魁(おいらん)」。
作品はすべて「撮影禁止」だったため、以下に掲載する作品の写真はすべてウィキベディアコモンズから転載。
【第1部 ファン・ゴッホのジャポニスム】
国内外のコレクションからゴッホ作品約40点と、同時代の西洋画家の作品や浮世絵など50点余りを比較して展示されている。
ゴッホは33歳の時にパリに来てから浮世絵に出会い、浮世絵や日本の資料を集め、模写しそのデザインや画法を自分の作品に取り入れていく。
渓斎英泉「雲龍打掛(うんりゅううちかけ)の花魁(おいらん)」を掲載した「パリ・イリュストレ」誌1886年5月号。
ゴッホの模写「花魁」。花魁の他にも、別の浮世絵から蓮、鶴、カエルなどが描かれている。1887年製作。
「カフェ・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ」 彼女は、パリで「カフェ・タンブラン」を経営していた。ゴッホは、1887年に彼女の店で浮世絵展を開いた。右側の壁に浮世絵の女性像が見える。1887年製作。
背景に浮世絵をちりばめた「タンギー爺じいさんの肖像」。1887年。
自らを日本の僧侶の姿にして描いた「坊主としての自画像」。1888年製作。(展示なし?)
歌川広重の「亀戸梅屋敷」とミレーの「種まく人」の模写。1888年製作。
上の絵のもとになったと思われる歌川広重の「亀戸梅屋敷」の模写「梅の開花」(1887)と ゴッホのミレー「種まく人」の模写(1888年)。(これらの作品は、図録リストにはない)
晩年、南フランスのアルルに向かったのも、「日本のように陽光に満ちた地」を目指したからだとされる。
「寝室」= アルルで暮らした2階の部屋。ドアの隣には画家・ゴーギャンが住んでいた。「日本人はとても簡素な部屋で生活した。そしてその国には何と偉大な画家たちが生きていたことか。この作品の陰影は消し去ったり、浮世絵のように平坦で、すっきりした色で彩色した」。1888年製作。
アルルの風景「オリーブ園」。黄色がゴッホの作品の特徴。1889年製作。
フランス女性を日本人に見立てた「ムスメの肖像」。日本人少女をイメージして、この作品を「ムスメ」と呼んだ。1988年製作。
「花咲くアーモンドの木の枝」= ゴッホが南フランスの精神病院で療養していた時、パリに住んでいた弟テオに子が生まれたのを祝って製作したという。花の輪郭や枝ぶりは、浮世絵の影響が見られる。1890年製作。
下の絵も同名の作品。1888年製作。
【第2部 日本人のファン・ゴッホ巡礼】
1890年(明治23年)にゴッホが亡くなった後、主治医だったガシェ医師に晩年の作品が多く残された。およそ20年を経て、武者小路実篤や岸田劉生らがこの天才画家を日本に紹介し始める。
日本を夢見たゴッホの死後、大正から昭和初期にかけて今度は日本人画家ら多くのファンたちがゴッホの墓参をし、ガシェ家を訪れた。第2部ではこの「ゴッホ巡礼」で、ガシェ家に残る芳名録に基づいた約90点の資料が展示されている。
16:00、退館。
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フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月オランダ南部のズンデルトで、牧師の家に生まれた。1869年画商グーピル商会に勤め始め、ハーグ・ロンドン・パリで働くが勤務態度が悪く、1876年商会を解雇された。その後イギリスで教師として働いたり、オランダの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、1877年アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるが挫折。
1878年末からベルギーで伝道活動を行うが、常軌を逸した活動で資格停止。画家を目指すことを決意して美術学校に入学。以降オランダ、ベルギーの各地を転々としながら、4歳下の弟テオの援助を受け、製作を続けた。この時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、「ジャガイモを食べる人々」はこの時代の代表作品。
1886年2月弟を頼ってパリに移り、印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。この時期の作品としては、「タンギー爺さん」などが知られる。日本の浮世絵に関心を持ち、収集や模写を行っている。1888年2月、南フランスのアルルに移り「ひまわり」や「夜のカフェテラス」などの名作を次々に生み出した。
日本では浮世絵画家たちが、共同生活を送っていると思い込む。南フランスで画家の協同組合を築くことを夢見て、1888年10月末から画家ゴーギャンとの共同生活が始まった。しかし次第に二人の関係は行き詰まり、また住民とトラブルを起こす。同年12月末、ゴーギャンと口論の末、自ら「耳切り事件」を起こし共同生活は破綻した。
以後、発作に苦しみながらアルルの病院へ入退院を繰り返した。1889年からはアルル近郊の精神病院に入院。発作の合間にも、「星月夜」など多くの風景画や人物画を描き続けた。1890年5月精神病院を退院して、パリ近郊のオーヴェールに移り製作を続けたが、同年7月自らを銃で撃ち、2日後に死亡。37歳だった。発作等の原因は、研究者によって統合失調症やてんかんなど様々な説が発表されている。
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今回の「ゴッホ展」会場には展示されてなかったが、以下にゴッホの代表的な作品4点を掲載する。
「ジャガイモを食べる人々」= 1885年にオランダのニューネン在住時に描かれた。ゴッホの初期の頃の作品で「暗黒の時代」とか「薄闇の時代」と呼ばれ、その時代の代表作品。
「夜のカフェテラス」= 1888年にアルルの星空の下、人でにぎわうカフェテラスが描かれている。この夜の絵には、青、すみれ色、緑と黄色を用いて、黒は使われていない。
「星月夜」= 1889年6月、アルル近郊の精神病院で療養中に描かれた。月と星でいっぱいの夜空が画面の4分3を覆って、大きな渦巻きが特徴。
「ひまわり」= 1888年8月から1890年1月にかけて、花瓶に活けられたひまわりをモチーフに、同名の絵画が複数存在する。ゴッホにとってのひまわりは、明るい南フランスの太陽、ユートピアの象徴であったという。
ゴッホがどのような人物だったか、よく分かった。彼の代表的な明るい色彩の作品は、パリ時代からだと4年間、特に精神を病んでからたった2年足らずの間に多く描かれている。何度も挫折を繰り返したゴッホは、あまり幸せな人生ではなかっただろう。画家になってからは、弟テイの援助で生活し、精神的な支えにもなっていた。もっと長生きしていれば、画家としての評価も受けて、絵もたくさん売れただろうにと思う。ゴッホの死後4半世紀が経って、多くの日本人画家たちが天才画家ゴッホに憧れ、はるばるゴッホの終焉地を訪ねたのは、まさしく「ゴッホ展」の副題である「巡りゆく日本の夢」、ゴッホの夢は日本人の夢に変わったのだ。
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