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2017年11月25日 (土)

宮崎タウン散策

 2017年10月24(火)~25日(水)、宮崎市に滞在。
 

 本ブログ記事「宮崎県高千穂町」(2017/11/22投稿)の続き。
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-f8af.html
 

 10月24(火)14:40延岡市街を出発、JR宮崎駅東口の「リッチモンドホテル」に17:30チェックイン。

 ホテルから宮崎駅の西口前を経て、繁華街「一番街」へ歩いて行く。

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 18:35~21:40中めがねビル3Fの居酒屋「ばる人」に友人らと食事。

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 10月25日(水)、遅めの朝食の後、9:45ホテルをチェックアウト。

 徒歩で、再び宮崎市のメインストリート「橘通り」へ。

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●みやざきアートセンター 10:10~

 橘通西3丁目の「みやざきアートセンター」で、ファッションデザイナー鳥丸軍雪(とりまるぐんゆき)氏の「鳥丸軍雪展」が開催されていると聞き、行って見る。

Torimaruten

 鳥丸氏は宮崎県小林市出身で、英国留学後ピエール・カルダンのアシスタントを務めた。ダイアナ元英国皇太子妃やサッチャー元英国首相、黒柳徹子など、国内外の著名人を顧客に持つオートクチュールデザイナー。
 
 「鳥丸軍雪展」では、初期から近年に至るドレス、デザイン画、写真などを多数展示し、鳥丸デザインの魅力を紹介。行って見ると残念ながら、会期は2017年9月16日(土)~10月22日(日)、3日前で終了していた。 

 「みやざきアートセンター」は、橘通に面したアートセンタービル3Fにあり、展示スペースや小規模ホールなどを備える。6年前に開館、宮崎市が運営。市民が気軽に利用できる「まちなか」の活動拠点として、さまざまなイベント、展示、コンサートなどが行われている。

 アートセンターのエントランス、1階太陽の広場に青く塗られた「ストリートピアノ」があった。

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 このピアノは、NHKのテレビ番組「ドキュメント72時間」の舞台になり、1月27日(金)午後10:50~放送されていたのをたまたま視聴した。

 「ストリートピアノ」は、廃棄されていたピアノをよみがえらせ、誰でもいつでも自由に演奏できるように街角に設置されたもの。宮崎の中心市街地を行き交う人々が集え、音楽に満ちあふれる新たなスポットにしようと、商店街や有識者らのプロジェクトが発足、2013年(平成25年)9月に県内で初めてこの場所に置かれた。

 欧米でよく見られる「ストリートピアノ」は、古いピアノにペインティングを施すことによって命を吹き込み、街中の人と人を繋ぐという。街角に置かれたピアノを誰かが弾き、その旋律に魅かれて人々が集まり、新たな出会いや賑わいが生まれる。日本では、鹿児島を中心に南九州にいくつか見られるそうで、これから全国に広がるのではないだろうか。

 

●宮崎ムサビ展

 「第43回宮崎ムサビ展」が、市内で昨日24日(火)から29日(日)まで開催されているという。アートセンターのスタッフが紹介してくれた。会場は、広島通りのカフェ&ギャラリー「Art Space 色空」の2Fギャラリー。

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 「ムサビ展」は、武蔵野美大校友会宮崎支部会員の展示会だそうだ。油絵から工芸品、彫刻などが展示、会員は学校の先生が多いように思えた。

 1Fのカフェでも、アマチュアカメラマンの個展を観賞。

●宮崎神宮 12:05~

 宮崎駅から北へ車で10分ほど、久しぶりに「宮崎神宮」を散策する。

 初代天皇とされる神武天皇を祀る「宮崎神宮」の神宮の森の中、長い参道を進む。

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 祓所の対面にある手水舎。

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 御神門

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 拝殿の前にある拝所。扁額は中央に「宮崎神宮」、右に「神武天皇」、左に「鵜葺草葺不合尊 玉依姫命」とある。

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 立派な社殿は1907年(明治40)年竣工、2010年(平成22年)に国登録有形文化財に指定された。

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 社殿(拝殿)の内部。

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 社務所の対面にある参拝者休憩所に、神話の一場面を描いた平沢定治画伯の3枚の油絵が奉納されてあった。絵には照明が反射していて見にくいが、写真を掲載する。

 画題「逢初川(あいそめかわ)」= 天孫降臨された瓊々杵尊(ににぎのみこと)が、水面に映る麗しい木花開耶姫(このはなさくやひめ)を見初められ、妃に迎えられた。逢初川は、宮崎県西都市や高千穂町にあるそうだ。
 
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 画題「海幸山幸」= 兄の海幸彦の大切な釣り針を海で失くした山幸彦は、綿津見神(海神、わたつみのかみ)の国の宮殿へ探しに行く話。日南海岸の青島が舞台。海幸彦と山幸彦の兄弟は、瓊々杵尊と木花開耶姫の間に出来た子。

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 画題「鵜戸の宮居」= 山幸彦は、海神の宮殿で綿津見神の娘・豊玉姫(とよたまひめ)と結ばれ、釣り針も見つけて陸に上がる。豊玉姫は、海辺の洞窟(日南市の鵜戸)で出産するが、生まれたばかりの子・鵜茅不合葺命(うがやふきあえず)を残して海神の海に帰ってしまう。鵜茅不合葺命は、豊玉姫の妹・玉依姫(たまよりひめ)に養育される。

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 鵜茅不合葺命は、後に玉依姫を妻とし4人の子をもうけるが、その末弟が神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと、後に神武天皇)。

 これら絵のほかに、社務所玄関に平沢定治(雅号は定人)画伯の絵「宮崎の宮」が掲げられているという。神倭伊波禮毘古命(=神武天皇)が、東征に向けた軍議を練っている様子が描かれている。これらの絵が書かれたのは1943年(昭和18)、太平洋戦争の真っ只中だったらしい。
 

 
●県総合文化公園

 宮崎神宮」の南西に隣あう「宮崎県総合文化公園」を散策。

 この地に宮崎高等農林学校(1924年設立)があったが、後継となる宮崎大学農学部が1949年に設立された。その後大学は、1984年から1988年にかけて宮崎学園都市(宮崎市木花地区)へ統合・移転した。

 宮崎県は、1983年(昭和58)に「置県100年事業」として大学跡地に文化施設の中核となる総合文化公園の整備計画を発表。1988年(昭和63)「県立図書館」、1993年(平成5)「県立芸術劇場」、1995年(平成7)「県立美術館」が完成した。

 芝生が広がる県民広場には、大学農学部60年の歴史と伝統の面影を残した樹木が活用されているという。

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 「県立美術館」に県民広場の西側出入口から入館、ロビーに入る。

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 内部は、休館日ではないが大きな催しがない日、人出は少なかった。

 特別展「あそぶ浮世絵にゃんとも猫だらけ」が、会期:10月28日(土)~12月3日(日)で開催予定で、大小のポスターがあちこちに掲示されてあった。

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 歌川国芳などの浮世絵には、猫が登場している場面があるという。日本有数の浮世絵コレクションで知られる平木浮世絵財団の所蔵品の中から、猫を描いたの浮世絵145点を紹介。今も変わらぬ江戸の人々と猫との愉快な暮らしぶり楽しめるとある。

 「県立美術館」の東側出入り口から抜ける。

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 美術館から石畳の上を進むと、左手に「県立図書館」。

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 右手には「県立芸術劇場」。2008年4月から命名権導入により、「メディキット県民文化ホール」と呼ぶらしい。

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 公園内には、郷土の先覚者として高木兼寛、安井息軒、石井十次、若山牧水、小村寿太郎、川越進の6体の銅像が設置されている。

・高木兼寛(たかきかねひろ)像

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 高木兼寛(1849-1920)は、高岡(現・宮崎市)で薩摩郷士の子として生まれる。海軍軍医総監(少将相当)。医学博士。男爵。貴族院議員。東京慈恵会医科大学や帝国生命保険会社の創設者。脚気の研究・撲滅に尽力、後にビタミンの発見の糸口となり「ビタミンの父」とも呼ばれる。カレーを脚気の予防として、海軍カレーを食事に取り入れた。

・安井息軒(やすいそっけん)像

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 安井息軒(1799-1876)は、清武(現・宮崎市)で子弟に学問を教えていた飫肥藩士の次男として生まれた。清武では「明教堂」、飫肥城下では「振徳堂」で子弟の教育に励み、江戸に出て私塾「三計塾」を開塾。門下からは谷干城や陸奥宗光、渡辺昇など延べ2千名に上る多くの逸材を輩出した。自らも「幕府儒官」という学者の最高位の職を拝命。その業績は、江戸期儒学の集大成と評価されている。

 この他は撮影出来なかったので、引用可能な県総合文化公園の銅像写真を転載する。

・石井十次(いしいじゅうじ)像(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 石井十次(1865-1914)は、高鍋藩(高鍋町)下級藩士の長男として生まれる。6歳で藩校「明倫堂」に学び、その儒教的で徳を重んじる気風は十次の人格形成に大きく影響した。海軍士官を志すが脚気で断念、教師や巡査を経験した後、キリスト教に入信。医学を学ぶため岡山に移住。しかし1人の貧しい巡礼者の子を預かったことをきっかけに、医学の道を捨て児童救済事業を開始。資金を集め、教育を施して手に職を付けさせ、子どもたちを自立へと導いた。その数は2千数百人。児童福祉制度などなかった明治時代、児童救済に力を尽くした石井は「児童福祉の父」と呼ばれている。

・若山牧水(わかやまぼくすい)像(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 若山牧水(1885-1928)は、東郷(現・日向市)の開業医の長男として生まれる。県立延岡中学校に入学、短歌と俳句を始める。わずか43年の短い生涯の中で、実に9,000首もの歌を残した。短歌の他に随筆・童話・紀行文や歌壇の選者としても活躍。明治中期以降、浪漫主義の与謝野晶子などの歌人達が人気となる一方、自然主義文学と呼ばれる牧水の歌は広く庶民の心に浸透した。旅を愛して各地で歌を詠み、全国に歌碑が300基以上あるそうだ。大の酒好きで、一日一升程の酒を呑んでいたようで、肝硬変が死因とされる。

・小村寿太郎(こむらじゅたろう)像(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)

 県総合文化公園の銅像写真が無かったので、肖像画を転載。

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 小村寿太郎(1855-1911))は、飫肥藩(日南市)下級藩士の長男として生まれる。大学南校(東京大学の前身)からハーバード大学へ進学。外務大臣、貴族院議員などを務めた。侯爵。1905年(明治38年)、日露戦争終結後のポーツマス会議日本全権としてロシア側と交渉し、条約調印。また幕末以来の不平等条約を解消するための交渉、条約改正を行い日本の地位確立を果たす。日露協約締結や韓国併合にも関わり、大陸政策を進めた。

・川越進(かわごえすすむ)像

 全国的には知られてない川越進は、筆者も今回初めて知る。引用できるような写真は入手できなかった。

 川越進(1848-1914)は、清武(現・宮崎市)で飫肥藩の勘定方の子として生まれ、藩の郷校「明教堂」で学ぶ。明治初期に宮崎県が誕生するが、その後鹿児島県に吸収合併された。宮崎県民(日向国人)としてのアイデンティティを取り戻すため、川越が中心になって多くの有志が立ち上がった。日向国選出の鹿児島県会議員として初めて、県会議長に就任、宮崎県の分県を実現した。その後も宮崎県会議長や衆議院議員として宮崎県の発展に尽くした。

 15:30宮崎市街を出て、16:05宮崎空港着。

 宮崎空港16:55発のソラシドエア060便は10分遅れで出発。

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 18:45羽田空港着。21:45自宅着。

 

 ★ ★ ★

 「宮崎神宮」は、神日本磐余彦尊(神倭伊波禮毘古命、かむやまといわれひこのみこと、後の神武天皇)を主祭神とし、父・鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)と母・神玉依姫命(たまよりひめのみこと)の2柱を祀る。

 神話の世界では、神武天皇は初代天皇に即位するまでは、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)、幼名は狭野命(さののみこと)。天照大御神から5代目の孫にあたる。鵜葺草葺不合尊(鵜戸神宮の祭神)の第4皇子で、母は玉依姫命。生まれは宮崎県西諸県郡高原町大字狭野とされ、この地には狭野神社が鎮座している。

 天皇は聡明で武術に秀でおり、15歳の時皇太子になり宮崎で政治(まつりごと)を行う。45歳の時に全国を統一して都を中央に遷(うつ)すべく決意し、宮崎を出発。陸路を北へ進み美々津(日向市美々津町)の港から船出した。各地で戦いながら、筑紫、阿波、吉備、浪速、紀伊、熊野を経て16年間の苦難の旅の後、大和を征服。52歳の時、「橿原宮」で即位した。これを「神武東征(東遷)」という。
 
 

 「宮崎神宮」の社伝によれば、神武天皇が東征以前に宮を営んだ宮崎の地に、後に九州に下向してきた神武天皇の孫・建磐龍命(たけいわたつのみこと、阿蘇神社の祭神)が、その縁に因んで創建したとされる。

 「宮崎神宮」が古くからこの地に鎮座していたのは確からしいが、古代における由来は不明である。文献上の初見は、鎌倉時代初めまで下るという。神武天皇に対する崇敬から、歴代の伊藤、島津、有馬、内藤氏などの領主・藩主から、深く崇敬や保護を受けたようだ。もっとも江戸時代までは、「神武天皇宮(社)」や「神武天皇御廟」などと称され、神武天皇を祀るとはいえ単なる地方の一古社に過ぎなかった。

 全国的に知られるようになったのは、明治維新の王政復古により「神武創業の始め」に復することが唱えられ、国家神道の中核としての当宮が脚光を浴びるようになってから。1873年(明治6年)に「宮崎神社」と改称。神武天皇の最初の宮地であるとの伝承から特別の待遇を受け、神社の格も累進した。1878年(明治11年)「宮崎宮」と改称、1899年(明治32年)には「神武天皇御降誕大祭会」が組織され、全国から寄付金を集めて境内整備を行い、1907年(明治40年)にほぼ現在の姿となった。1913年(大正2年)に神宮号が許可され現社名「宮崎神宮」となった。更に1940年(昭和15)年、国家的行事・紀元2600年を記念した大規模な拡大整備事業で、現在の境内が完成した。
 
 

 古代史研究家の中には、神武天皇を実在とする説もある。しかし現代の歴史学界では、神武天皇の存在は否定されている。神武天皇は、弥生末期から古墳時代にかけてのいろいろな出来事や伝承を元に、複数の実在した人物の経歴、業績や人格などを重ねあわせ、記紀(古事記・日本書紀)編纂時に創作された偶像であるというのが、最も納得できる。神武天皇の「モデル」とされた人物として、実在の可能性が高い崇神天皇、応神天皇、継体天皇、そして記紀編纂時の天武天皇などが挙げられている。

 国家神道は明治新政府が、神社神道と皇室神道を結びつけて創り出した特異な宗教だった。政府が軍国主義、国家主義的な立場で、神道を神道を国民精神のよりどころとし、国家がその保護・監督を行い、国民に天皇崇拝と神社信仰を義務づけた。

 ここういった神話が底流にあって、それを政治に利用する人々が、例えば教育勅語、日本軍創設、核兵器保有などを唱える立場に立っている。近年、国家主義や復古主義など戦前の体制に回帰させ、基本的人権、平和憲法や立憲主義をないがしろにする現政権の右傾化政策を支持しているような背景は、神話の世界と区別して科学的な歴史や史実を正しく理解すべきだと指摘しておかねばならない。

 

 

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