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2017年11月の9件の投稿

2017年11月30日 (木)

紅葉の志賀高原-その2

 2017年10月13日(金、上信国境の渋峠を経て、草津白根山と志賀高原の紅葉を観に行く。

 本ブログ記事「紅葉の志賀高原-その1」の続き。

 

 7:00、最寄りの駅前からマイクロバスで出発。参加者14名。あいにく朝から雨だが、昼頃には止むとの予報。

 8:07、関越道の渋川伊香保ICを出て、国道353号を走る。中之条町から利根川支流の吾妻川に沿った国道145号線を西に進み、「道の駅 八ッ場(やんば)ふるさと館」で休憩。

 写真は、「道の駅 八ッ場ふるさと館」。ウィキメディアコモンより転載。

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 道の駅は、渋川伊香保ICからおよそ1時間、長野原町の国道145号線八ッ場バイパスと県道375号線の「不動大橋」(湖面2号橋)との林交差点に位置し、JR川原湯温泉駅から西へ3Kmのところにある。2013年4月に開館した。

 レストランには「八ッ場ダムカレー」というメニューがあった。ダムの形を模したカレーは、どこかにもあった。しかし館内のヤマザキショップ(コンビニ)には、「八ッ場ダムカレーパン」(180円)という珍しいパンがあって、一番人気だそうだ。カレーとホワイトソースをチーズ(ダム)で仕切ってある。

 長野原から国道292号で草津に向かい、10:10草津白根山レストハウス駐車場に着く。

 
●草津白根山 10:10~11:10

 山頂付近には「湯釜」、「水釜」、「涸釜」と呼ばれている複数の火口湖がある。そのうち「湯釜(ゆがま」)が一番大きく直径約300m、水深約30m、水温約18℃の火口湖である。写真は、ウィキメディアコモンより転載。

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 登山道入口付近(写真右手)からは、湯釜や展望台らしきものは見えない。昔、駐車場から10~15分くらいかけて火口の縁まで登って、エメラルドグリーンの湯釜を見たことがあったが、現在は500m圏内の立ち入り規制により登山を禁止されている。

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 駐車場の西側に遊歩道(写真左手)があり、「湯釜西側展望台」までは距離が長くなっているが、徒歩で15~20分で登れるそうだ。見上げると、湯釜見学に登る人たちが写真左手に小さく見える。

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 湯釜の見学をあきらめ、雨の中をカッパを着て国道の南麓にある「弓池園地」をめぐる。

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 この弓池も(明治35)の噴火で出来た火口湖だそうだ。今では、池と平らな湿原になっている。

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●平床(ひらとこ) 10:40~12:00

 志賀高原の平床に着く頃には、雨が止む。

 山にかかる霧も次第に晴れてくる。晴れの日と違って、白樺の紅葉もしっとり。

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●木戸池 12:05~12:15 

 木戸池は、白樺やダケカンバに囲まれた池。また雨がシトシト降り出す。

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●蓮池 12:35~13:15

 雨は完全に止む。蓮池の前にある建物は、「志賀レークホテル」。池には、ヒツジクサ(羊草、スイレン科)が浮かぶ。昨年見た時よりも、水が少なくなっている。

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 ホテルの対岸に、総合会館98バス停のある「志賀高原 山の駅」がある。Img_7830

 この山の駅は、2011年に廃線となった「志賀高原ロープウェイ」の発着場「蓮池駅」だった。ロープウェイ搬器が今でも施設内に展示されている。休憩、食事、おみやげ、スキーやトレッキングウェアのレンタルなどの複合施設となっている。昭和のなつかしい紙芝居も展示してあった。

 施設内の「山の食堂1959」で昼食。志賀高原では、良質な根曲り竹が自生するという。根曲り竹定食(1,150円)を注文。タケノコとはまた違う食感を味わう。

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 (写真は、志賀高原リゾート開発株式会社のHPから転載)

 レストランの窓や駐車場から北東の方向、霧がかかる東館山(ひがしたてやま、左手、1994m)と寺子屋峰(右手、2125m)の中腹の紅葉を見る。この辺りは発哺(ほっぽ)温泉のホテルやスキー場があり、かつてはここ蓮池駅からのロープウェイの発哺温泉駅があった。中央の山は、岩菅山(いわすげやま、2295m)か。

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●一沼 13:20~14:15 

 「丸池」の近くにある大駐車場に車を停め、ヒツジグサのが浮かぶ「一沼」へ。

 雨は止んでいるが、沼には霧がただよう。

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 大駐車場の周囲の紅葉も素晴らしい。

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●澗満滝(かんまんたき) 14:20~14:40

 澗満滝展望台に行ってみると濃い霧で、遠望できた滝は全く見えずがっかり。

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 展望台への紅葉の林の中に、炭焼き小屋がある。木炭と木酢酢も販売されてた。

 「財団法人和合会」による説明板が立っていた。志賀高原一帯は、昔から沓野(くつの)地区(山ノ内町)の入会地で、白箸、木炭、竹細工に用いる根曲り竹、用材、薪(たきぎ)、干し草などが生産されていた。特に木炭の生産は盛んだったが、終戦後に林業から観光業に移行した。現在忘れられようとしている炭焼き小屋と炭焼きガマを、区民の手によって復元した・・・とある。和合会は、志賀高原の大部分の土地の所有者だそうだ。
 

 

●小野りんご園 15:00~15:15 

 国道292号線沿いの、中野市のりんご園に寄るころには、青空が出て来た。

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 上信越道の信州中野ICから帰路へ、途中の横川サービスエリアに寄って「峠の釜めし」(1000円)を買って帰る。

 18:05、最寄駅前に到着。18:45、自宅着。

 

 ★ ★ ★

 気象庁は過去に何度か、活火山である草津白根山の噴火警報・予報を発表し、その都度地元の自治体はそれに対応した規制を行ってきた。

 2014年6月気象庁は、火山性地震などの火山活動の活発化の兆候が現れたため、噴火警戒レベルを火口周辺規制の「レベル2」に引き上げた。これを受け、群馬県は付近の国道292号8.5Kmを通行止めにし、草津町と嬬恋村は登山道の一部を立ち入り禁止とした。

 その後2014年6月に規制が緩和され、日中に限り国道292号の通行は可能になったが、途中山頂の半径1キロ以内を走る2.5Kmの区間は駐停車禁止、草津白根山レストハウスや駐車場は閉鎖された。

 2017年6月には火山活動の低下により、活火山であることに留意する「レベル1」に引き下げられ、立ち入り規制が湯釜火口の1キロ圏内から500m圏内に緩和された。これを受け国道292号の規制が解除され、駐車場とレストハウスの営業も再開された。

 

 ★ ★ ★

 八ッ場(やんば)ダムは、利根川の主要支流である吾妻川の中流域、群馬県吾妻郡長野原町に建設が進められている多目的ダム。現在の完成予定は、2020年(平成32年)。

 吾妻川流域の多目的ダム建設計画は、建設省によって東京及び利根川流域の水害を守るため、1952年(昭和27年)に発表された。その後、吾妻川の酸性問題で一時立ち消えになったが、1964年(昭和39年)に水質改善が可能となりダム問題が再燃。この間首都圏の水需要に対応するため計画規模を拡大、利根川水系最大規模の矢木沢ダム、下久保ダムに次ぐ1億トン級規模のダムとして、1967年(昭和42年)現在の地点に建設を決定した。

 だが計画発表以降、水没地域である長野原町において反対運動が起きた。地元の人々は長い間ダム反対の姿勢を崩さなかったが、日々続く抗議運動は精神的・肉体的にも大変な苦しみであった。やがて高額な補償金を示され、疲れ果てた人々はダム建設を容認せざるをえなくなったり、地元を離れる人も相次いだ。

 1986年(昭和61年)、「八ッ場ダムの建設に関する基本計画」が2000年(平成12年)の事業工期として策定。その後2008年(平成20年)までの3回の計画変更で、建設目的や工期変更で、最終的には工期が2010年(平成22年)まで延長、総事業費が2,110億円から4,600億円に増額された。

 1994年(平成6年)、建設省は付帯工事に着手した。国道145号線が水没して集落がダム湖で分断されるため、湖岸となる地区に国道145号八ッ場バイパスを建設、県道の3線とJR吾妻線の付替線が建設され、2014年(平成26年)10月までにほぼ完成した。両岸を結ぶ橋として、八ッ場大橋(湖面1号橋)が2014年(平成26年)10月開通、不動大橋(湖面2号橋)が2011年(平成23年)4月に開通した。

 写真は、建設中の八ッ場ダム湖面2号橋(不動大橋、2009年9月撮影)。ウィキベディアコモンズより転載。

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 民主党政権下で八ツ場ダム建設中止の発表で、建設中の八ツ場ダム湖面2号橋は頻繁にテレビに登場し、すっかり有名になった。

 2011年4月に開通した不動大橋(2012年12月撮影)。ウィキベディアコモンズより転載。

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  衆議院選で民主党が圧勝し、2009年(平成21年)9月の政権交代による影響を受け、ダム本体工事の入札が延期された。民主党はマニフェストで、「川辺川ダム、八ツ場ダムは中止。時代に合わない国の大型直轄事業は全面的に見直す。」としたことを受け、鳩山内閣の前原国土交通大臣は、八ッ場ダムの事業中止を表明した。

 国の突然の方向転換に対し、長年にわたり国との対立の末に苦渋の決断を下して、代替地転居と事業完成を待っていた地元の人々は、大きく反発した。事業資金の一部を負担した東京、群馬、埼玉、千葉、茨城、栃木の各都県知事からも、建設中止に対する批判や負担金返還の声が上がった。

 2011年(平成23年)9月野田内閣が発足、新入閣の前田国交大臣(建設省河川局OB)は、八ツ場ダムの建設再開を表明、建設予定地の長野原でこれまでの混乱を謝罪した。また当面凍結されていた高速道路の一部区間や整備新幹線などの大型公共事業の再開も次々と決定した。

 2012年(平成24年)12月、自民党政権の第2次安倍内閣が発足する。国土交通省は2014年(平成26年)8月、本体工事を清水建設など3社のジョイントベンチャー(JV)が一般競争入札で落札したと発表。2019年度(平成31年度)の完成を目指し、本体工事を2015年(平成27年)1月に開始した。

 建設中の八ッ場ダム(2017年5月撮影)。ウィキベディアコモンズより転載。

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 一時は公共事業を再評価し、いくつかの無駄なダム計画が中止された。しかし政府や関係自治体は、八ッ場ダムは利水の面で開発単価が安い、利根川全体の治水対策の中で吾妻川流域の豪雨への備え、水資源の需要はまだ十分ではないとして、ダム推進の立場をとっている。それに対して首都圏の水需要の減少予測、洪水対策は堤防の強化で十分なこと、建設による自然破壊などを理由に、八ッ場ダム建設に批判的な意見はいまだに少なくはない。

 一方公共事業では、国交省からの公益法人と企業への天下り、競走入札を行わない不明朗な随意契約、不適正な予算規模、政治家・官僚・業者の癒着などの問題も指摘されている。

 何十年も論争が続き、完成した今でも国や賛成派と反対派が裁判で争っている長崎県の「諫早湾干拓事業」は、失敗した大型公共事業の事例であろう。国の大型事業は、いったん計画が走り始めたら、高度経済成長が終わっても、時代が変わっても、取り巻く条件が変わっても、止まらない。八ッ場ダムは、いったい何だったのだろうか。

 政・官・業の癒着やしがらみ、国民の税金の無駄遣いに対して、民主党の公共事業を見直すマニュフェストに期待をした。しかし、政権交代すると、その政策が迷走してしまったのは残念だった。原子力発電も巨大なダム建設もしかり、公共事業の失敗事例は、子供や孫の世代の未来に負の遺産を残す。

 

2017年11月29日 (水)

紅葉の志賀高原-その1

 2017年10月11日(水)、上信国境の渋峠、志賀高原、カヤの平高原の紅葉を観に行く。

 

 深夜、車で出発。3:15関越道渋川伊香保ICを出て、国道17号から国道353号線を走る。群馬県北西部の吾妻郡中之条町からは国道145号線、吾妻郡長野原町からは国道292号線へ。

 4:30草津温泉(群馬県吾妻郡草津町)を通過し、未明の5:00渋峠に到着。

 

●渋峠の日の出(5:00~6:10)

 「渋峠」は、群馬県吾妻郡中之条町と長野県下高井郡山ノ内町の間にあり、横手山(標高2305m)と草津白根山(2171m)の間を通過する峠。志賀草津道路が有料道路として1965年に開通したが、1992年に無料になって国道292号に組み込まれた。峠の標高は2172mで、日本全国の国道最高地点。

 「渋峠」から、日の出を見る。日の出時刻は5:50頃。気温は10℃以下だろうか、寒い。

 手前は湿地帯の「芳ヶ平(よしがだいら)」、街灯りは草津温泉。中景は、高間山(1342m)などの山並みか。遠景に赤城山(標高1827m)や榛名山(1449m)の峰々が雲海に浮かぶ。

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 朝日が昇る。

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 陽が昇ると、眼下の「芳ヶ平(よしがだいら)」が明るく見えて来た。

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 雲海が赤く染まり、やがて青空が広がる。

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 6:10「渋峠」を後にして、志賀高原へ向かう。

 6:20志賀高原へ下り始める途中、西の方角に雲海と北アルプスを望む。

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 国道292号線沿いの横手山・渋峠スキー場、熊の湯スキー場を経て、「木戸池」へ。

 

●木戸池(6:35~7:25) 

 「木戸池」は、白樺やダケカンバの森に囲まれた池。秋は紅葉、夏にはボート遊びや、キャンプ、ハイキングなどを楽しむ人々で賑わう。冬は、近くに木戸池スキー場。

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 湖畔にある木戸池温泉ホテル。

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 木戸池から、国道292号線を戻り草津白根方面に向かう。

 

●平床(ひらとこ、7:30~7:57)

 木戸池から約1km、標高約1650mの平床は、名前の通り平でなだらか地形、白樺が多く新緑から紅葉まで楽しめる。

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 この平床付近の国道292号線沿いに、もうもうと白煙を上げる「平床大噴泉」がある。この源泉は、近くのほたる温泉(硯川温泉)に引き込まれている。写真は、Google Mapから転載。

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●朝の渋峠

 8:10、早朝に日の出を見た「渋峠」に戻る。国道沿いに「日本国道最高地点」の石碑が立つ。

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 標高2172mの「渋峠」からは、活火山の草津白根山(標高2,160m)の荒涼とした原野を見る。目の前には、緑豊かな湿地「芳ヶ平湿原」が広がる。
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 群馬県の北西部、中之条町と草津町に広がる「芳ヶ平湿原」のパノラマ。

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 「芳ヶ平湿原」などのある「「芳ヶ平湿原群」は、草津白根山の火山活動に影響を受けて造られた湿地、河川、池沼群をいう。草津白根山の「湯釜」をはじめ、標高約1800mの「芳ヶ平湿原」、「大平湿原」、「平兵衛池」、「大池」、「水池」、標高約1,200mの「チャッボミゴケ公園」の「穴地獄」の湿地群から成り立っている。

 湿地の保存に関する国際条約「ラムサール条約」に、2015年登録された。ここには、ワタスゲをはじめとする様々な高山植物や特別天然記念物であるニホンカモシカ、日本固有種のモリアオガエルの最高標高繁殖地、東アジア最大級のチャツボミゴケ群落など、世界的に重要な生態系が存在するという。

 

 草津白根山のすぐ近くにある「草津白根レストハウス」前まで行き、駐車場(500円)で持参のおにぎりの朝食(8:20~8:30)。

 再び志賀高原へ戻り、「木戸池」前を通過して「一沼」へ行く。

 

●一沼(9:00~9:45)

 国道292号線沿いから、「一沼」を見る。

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 国道292号線沿いの大駐車場に車を置いて、少し歩く。「一沼」は、大きな「琵琶沼」のそばにある小さな沼。 

 黄色くなったヒツジグサ(未草、スイレン科)が、水面に浮かぶ。

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 9:50、志賀高原中央部の「蓮池」前の「志賀高原 山の駅」で一時休憩。

 ここから、県道471号線で志賀高原の北部にある奥志賀高原、更に木島平村に向かう。

 

●奥志賀スーパー林道

 県道471号の志賀3号トンネルの手前、「発哺(ほっぽ)温泉」入口付近(蓮池から約3Km地点)から見る紅葉。赤く紅葉するのは、カエデ、ウルシ、ナナカマドなどか。

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 一ノ瀬スキー場を経て、奥志賀スーパー林道(県道502号線)沿道の紅葉を見ながら、長野県下高井郡木島平村へ。

 やがて「蓮池」湖畔の分岐から約25Kmほどの地点にY字路がある。野沢温泉と中野・飯山の分岐。林道(県道502号線)を直進(北上)すると野沢温泉、野沢温泉から東に向かうと、新潟県津南町や中津川渓谷(秋山郷)へつながる。Y字路の左側へ細い道を西に行くと、木島村のカヤの平高原、その先は飯山市、中野市に至る。

 

 進路を左に走ると、道の右手が「カヤの平高原牧場」。ここには、伊藤忠建材(株)の「地球樹の森」の看板が立ってる。

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 伊藤忠建材は、2013年より木島平村と森林(もり)の里親契約を締結、同村の「カヤの平高原牧場」内に「地球樹の森」を設立し、未利用の牧草地を元々あったブナの森に還す活動を展開しているという。

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●カヤの平ブナ原生林(11:00~12:35) 

 Y字路からおよそ1kmほどで、木島平村の「カヤの平高原総合案内所」前で車を駐める。

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 カヤの平の「信州大学ブナ原生林教育園」へ入り、紅葉したブナ林の自然観察路を歩く。教育園は1周700m、ここは日本有数のブナ原生林。

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 「カヤの平高原ロッジ」で昼食(12:05~12:35)。山菜そば700円を注文。

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 「信州大学ブナ原生林教育園」は、「カヤの平自然休養林」の一部。自然休養林は傾斜の緩やかな高原の広大な国有林。標高は1500m、面積1450ha。ブナ原生林やシラカバ群生林は、林齢約250年で「日本一美しい」とされている。

 高地独特の植物やカモシカなどの動物の姿も見られる。春は雪解けとともに緑が芽吹き、夏は牛の放牧、秋にはブナ林が美しく紅葉。5月下旬「南ドブ湿原」にはミズバショウの群落を、北ドブ湿原には7月下旬から8月上旬にかけ湿原を覆いつくすニッコウキスゲを楽しむことができるそうだ。ロッジやキャンプ場、遊歩道などが充実しており、子供から大人まで、家族連れまで、幅広く楽しむことができるという。

 

●丸沼(13:20~13:35)

 カヤの平から志賀高原中央部「蓮池」の分岐まで往路を戻り、国道292号を西へ800mほど行くと「丸池」。

 ナナカマド、ダケカンバ、カエデなどの広葉樹の紅葉に囲まれている。すぐそばには丸池スキー場と志賀高原サンバレースキー場があり、ホテルも点在する。

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●澗満(かんまん)滝(13:40~14:00) 

 「丸池」から、国道292号線を2kmほど西に走ると、「澗満滝展望台」の駐車場。ここから林の中を徒歩1分で、滝の絶景ポイント。

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 志賀高原最大の落差107m(幅20m)の滝を遠望。後で地図で測ると、滝は7~800mほど先にある。紅葉の頃が見頃だそうだが、まだ早い。

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 ここからは、「沓打(くつうち)名水公園」に続く遊歩道も整備され、森林浴が楽しめるという。 滝の周りは断崖で、滝の近くまでは行けない。

 
 

 国道292号線を西へ進み、長野県中野市方面へ向かう。途中、国道沿いの道の駅「北信州やまのうち」、信州中野の「小野りんご園」(シナノスイート購入)に寄る。

 14:45志賀中野有料道路(100円)、14:50上信越道中野ICから帰路へ。18:00、帰宅。

 

 ★ ★ ★

 「澗満滝」の展望台には、歌人・若山牧水の碑が立つ。旅好きで知られ、日本各地に歌碑が作られている。ここにある石碑は、「澗満瀧」と題して1920年(大正9)年5月21日の牧水の感動が書かれている。碑の最後に、「若山牧水全集第六巻 静かなる旅を行きつつ『草津より渋へ』より」とあり、牧水の紀行文を抜粋してあるそうだ。

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 「草津」は、群馬県の草津温泉。「渋」は、長野県下高井郡山ノ内町にある渋温泉(渋峠ではない)のこと。「湯田中渋温泉郷」と呼ばれる一帯の温泉郷の中にある。当然、草津温泉から渋温泉まで、自らの足で歩いたのだろう。牧水の写真や銅像を見ると、きっと頭は山高帽をかぶり、着物の裾をからげ、マントを羽織り、足にはゲートルを巻いて、手にはコウモリ傘の旅姿を想像する。

 草津温泉から草津白根山や渋峠を越え、志賀高原を経て渋温泉へのルートは、昔からあったようだ。もちろん舗装された志賀草津道路(国道292号線)ようなものでなくて、岩ゴロゴロの狭い山道だったに違いない。地図で見ると、その距離は40数Kmもある。

 江戸時代、成人男子は1日平均10里(40Km)、女子は8里(32Km)くらいは歩いたという。そうすると牧水は、草津温泉の宿から渋温泉の宿まで、標高2000m以上もある峠を越えて山道を1日で行ったのか。今のようにその途中にも、温泉宿はあったのだろうか。昔の人は、現代人より想像以上に健脚だったと改めて思う。

 そして旅の途中で、牧水は展望台に立って「澗満滝」を眺め、旅の疲れを癒したのだろう。今から97年もの前の事であった。

 

 本ブログ記事「紅葉の志賀高原-その2」に続く。

 
 関連ブログ記事

  「志賀高原の池めぐり」 2016年10月26日投稿 
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-ad52.html

2017年11月27日 (月)

東京都美術館「ゴッホ展」

 2017年11月9日(木)、上野の東京都美術館で開催中の「ゴッホ展-巡りゆく日本の夢」を観賞。

 

 ゴッホは、600枚に及ぶ浮世絵を集めて模写するなど、日本にあこがれ、日本美術に強い関心を持ち影響を受けていた。

 「札幌展(北海道立近代美術館)が、10月15日(日)までで終了し、現在東京都美術館で、2017年10月24日(火)~2018年1月8日(月・祝)の会期で開催されている。次は京都国立近代美術館が、2018年1月20日(土)~3月4日(日)の会期で京都展が開催される。

 一方上野の国立西洋美術館では、ちょうど「北斎とジャポニズム」展が10月21日(土)~2018年1月28日(日)の会期で開催中。モネ、ドガ、セザンヌ、ゴーガン… 等の西洋の芸術家たちが、浮世絵師・葛飾北斎の作品から衝撃を受けた。北斎と西洋の芸術家たちの作品が集結した展覧会。両美術館とも、テーマが似通っているが、今回は時間もないので、ゴッホの方を観賞することにする。

 去る11月3日(金)午前10時05分~50分、NHK特集番組「ゴッホは日本の夢を見た」が放映された。

 日本のどこにひかれたのか?、女優・吉岡里帆がフランス、オランダを旅し、残された遺品や貴重な証言を手がかりに、傑作誕生の物語から意外なゴッホ人物像に迫るという内容だった。この放映を事前に視聴していたので、「ゴッホ展」を観賞してより理解が深まった。

 

 JR上野駅から上野恩賜公園へ。東京国立博物館前に行くと、大噴水の水が抜かれてその中で工事していた。かつて公園は上野・寛永寺の境内だった歴史を踏まえ、浮世絵にある山門を、角材4800本で模した楼閣だそうだ。

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 この構造物は、10月10日~19日に開催されるアートイベント「TOKYO数寄フェス2017」の出品作。夜にはライトアップされ、噴水池に姿を映し出すそうだ。現代美術家で東京芸術大の大巻伸嗣教授の作品。

 

 14:30、東京都美術館の入口に着く。

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 「ゴッホ展」のポスターに使われている絵は、ゴッホの「花魁(おいらん)」。

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 東京都美術館のロビーと受付。

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 作品はすべて「撮影禁止」だったため、以下に掲載する作品の写真はすべてウィキベディアコモンズから転載。

 

 【第1部 ファン・ゴッホのジャポニスム】

 国内外のコレクションからゴッホ作品約40点と、同時代の西洋画家の作品や浮世絵など50点余りを比較して展示されている。

 ゴッホは33歳の時にパリに来てから浮世絵に出会い、浮世絵や日本の資料を集め、模写しそのデザインや画法を自分の作品に取り入れていく。

 渓斎英泉「雲龍打掛(うんりゅううちかけ)の花魁(おいらん)」を掲載した「パリ・イリュストレ」誌1886年5月号。

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 ゴッホの模写「花魁」。花魁の他にも、別の浮世絵から蓮、鶴、カエルなどが描かれている。1887年製作。

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 「カフェ・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ」 彼女は、パリで「カフェ・タンブラン」を経営していた。ゴッホは、1887年に彼女の店で浮世絵展を開いた。右側の壁に浮世絵の女性像が見える。1887年製作。

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 背景に浮世絵をちりばめた「タンギー爺じいさんの肖像」。1887年。

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 自らを日本の僧侶の姿にして描いた「坊主としての自画像」。1888年製作。(展示なし?)

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 歌川広重の「亀戸梅屋敷」とミレーの「種まく人」の模写。1888年製作。

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 上の絵のもとになったと思われる歌川広重の「亀戸梅屋敷」の模写「梅の開花」(1887)と ゴッホのミレー「種まく人」の模写(1888年)。(これらの作品は、図録リストにはない)

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 晩年、南フランスのアルルに向かったのも、「日本のように陽光に満ちた地」を目指したからだとされる。

 「寝室」= アルルで暮らした2階の部屋。ドアの隣には画家・ゴーギャンが住んでいた。「日本人はとても簡素な部屋で生活した。そしてその国には何と偉大な画家たちが生きていたことか。この作品の陰影は消し去ったり、浮世絵のように平坦で、すっきりした色で彩色した」。1888年製作。

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 アルルの風景「オリーブ園」。黄色がゴッホの作品の特徴。1889年製作。

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 フランス女性を日本人に見立てた「ムスメの肖像」。日本人少女をイメージして、この作品を「ムスメ」と呼んだ。1988年製作。

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 「花咲くアーモンドの木の枝」= ゴッホが南フランスの精神病院で療養していた時、パリに住んでいた弟テオに子が生まれたのを祝って製作したという。花の輪郭や枝ぶりは、浮世絵の影響が見られる。1890年製作。

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 下の絵も同名の作品。1888年製作。

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 【第2部 日本人のファン・ゴッホ巡礼】
 
 1890年(明治23年)にゴッホが亡くなった後、主治医だったガシェ医師に晩年の作品が多く残された。およそ20年を経て、武者小路実篤や岸田劉生らがこの天才画家を日本に紹介し始める。

 日本を夢見たゴッホの死後、大正から昭和初期にかけて今度は日本人画家ら多くのファンたちがゴッホの墓参をし、ガシェ家を訪れた。第2部ではこの「ゴッホ巡礼」で、ガシェ家に残る芳名録に基づいた約90点の資料が展示されている。

 16:00、退館。

 

 ★ ★ ★

 フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月オランダ南部のズンデルトで、牧師の家に生まれた。1869年画商グーピル商会に勤め始め、ハーグ・ロンドン・パリで働くが勤務態度が悪く、1876年商会を解雇された。その後イギリスで教師として働いたり、オランダの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、1877年アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるが挫折。

 1878年末からベルギーで伝道活動を行うが、常軌を逸した活動で資格停止。画家を目指すことを決意して美術学校に入学。以降オランダ、ベルギーの各地を転々としながら、4歳下の弟テオの援助を受け、製作を続けた。この時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、「ジャガイモを食べる人々」はこの時代の代表作品。

 1886年2月弟を頼ってパリに移り、印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。この時期の作品としては、「タンギー爺さん」などが知られる。日本の浮世絵に関心を持ち、収集や模写を行っている。1888年2月、南フランスのアルルに移り「ひまわり」や「夜のカフェテラス」などの名作を次々に生み出した。

 日本では浮世絵画家たちが、共同生活を送っていると思い込む。南フランスで画家の協同組合を築くことを夢見て、1888年10月末から画家ゴーギャンとの共同生活が始まった。しかし次第に二人の関係は行き詰まり、また住民とトラブルを起こす。同年12月末、ゴーギャンと口論の末、自ら「耳切り事件」を起こし共同生活は破綻した。

 以後、発作に苦しみながらアルルの病院へ入退院を繰り返した。1889年からはアルル近郊の精神病院に入院。発作の合間にも、「星月夜」など多くの風景画や人物画を描き続けた。1890年5月精神病院を退院して、パリ近郊のオーヴェールに移り製作を続けたが、同年7月自らを銃で撃ち、2日後に死亡。37歳だった。発作等の原因は、研究者によって統合失調症やてんかんなど様々な説が発表されている。 

 

 ★ ★ ★

 今回の「ゴッホ展」会場には展示されてなかったが、以下にゴッホの代表的な作品4点を掲載する。

 「ジャガイモを食べる人々」= 1885年にオランダのニューネン在住時に描かれた。ゴッホの初期の頃の作品で「暗黒の時代」とか「薄闇の時代」と呼ばれ、その時代の代表作品。

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 「夜のカフェテラス」= 1888年にアルルの星空の下、人でにぎわうカフェテラスが描かれている。この夜の絵には、青、すみれ色、緑と黄色を用いて、黒は使われていない。

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 「星月夜」= 1889年6月、アルル近郊の精神病院で療養中に描かれた。月と星でいっぱいの夜空が画面の4分3を覆って、大きな渦巻きが特徴。

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 「ひまわり」= 1888年8月から1890年1月にかけて、花瓶に活けられたひまわりをモチーフに、同名の絵画が複数存在する。ゴッホにとってのひまわりは、明るい南フランスの太陽、ユートピアの象徴であったという。

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 ゴッホがどのような人物だったか、よく分かった。彼の代表的な明るい色彩の作品は、パリ時代からだと4年間、特に精神を病んでからたった2年足らずの間に多く描かれている。何度も挫折を繰り返したゴッホは、あまり幸せな人生ではなかっただろう。画家になってからは、弟テイの援助で生活し、精神的な支えにもなっていた。もっと長生きしていれば、画家としての評価も受けて、絵もたくさん売れただろうにと思う。ゴッホの死後4半世紀が経って、多くの日本人画家たちが天才画家ゴッホに憧れ、はるばるゴッホの終焉地を訪ねたのは、まさしく「ゴッホ展」の副題である「巡りゆく日本の夢」、ゴッホの夢は日本人の夢に変わったのだ。

2017年11月25日 (土)

宮崎タウン散策

 2017年10月24(火)~25日(水)、宮崎市に滞在。
 

 本ブログ記事「宮崎県高千穂町」(2017/11/22投稿)の続き。
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-f8af.html
 

 10月24(火)14:40延岡市街を出発、JR宮崎駅東口の「リッチモンドホテル」に17:30チェックイン。

 ホテルから宮崎駅の西口前を経て、繁華街「一番街」へ歩いて行く。

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 18:35~21:40中めがねビル3Fの居酒屋「ばる人」に友人らと食事。

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 10月25日(水)、遅めの朝食の後、9:45ホテルをチェックアウト。

 徒歩で、再び宮崎市のメインストリート「橘通り」へ。

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●みやざきアートセンター 10:10~

 橘通西3丁目の「みやざきアートセンター」で、ファッションデザイナー鳥丸軍雪(とりまるぐんゆき)氏の「鳥丸軍雪展」が開催されていると聞き、行って見る。

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 鳥丸氏は宮崎県小林市出身で、英国留学後ピエール・カルダンのアシスタントを務めた。ダイアナ元英国皇太子妃やサッチャー元英国首相、黒柳徹子など、国内外の著名人を顧客に持つオートクチュールデザイナー。
 
 「鳥丸軍雪展」では、初期から近年に至るドレス、デザイン画、写真などを多数展示し、鳥丸デザインの魅力を紹介。行って見ると残念ながら、会期は2017年9月16日(土)~10月22日(日)、3日前で終了していた。 

 「みやざきアートセンター」は、橘通に面したアートセンタービル3Fにあり、展示スペースや小規模ホールなどを備える。6年前に開館、宮崎市が運営。市民が気軽に利用できる「まちなか」の活動拠点として、さまざまなイベント、展示、コンサートなどが行われている。

 アートセンターのエントランス、1階太陽の広場に青く塗られた「ストリートピアノ」があった。

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 このピアノは、NHKのテレビ番組「ドキュメント72時間」の舞台になり、1月27日(金)午後10:50~放送されていたのをたまたま視聴した。

 「ストリートピアノ」は、廃棄されていたピアノをよみがえらせ、誰でもいつでも自由に演奏できるように街角に設置されたもの。宮崎の中心市街地を行き交う人々が集え、音楽に満ちあふれる新たなスポットにしようと、商店街や有識者らのプロジェクトが発足、2013年(平成25年)9月に県内で初めてこの場所に置かれた。

 欧米でよく見られる「ストリートピアノ」は、古いピアノにペインティングを施すことによって命を吹き込み、街中の人と人を繋ぐという。街角に置かれたピアノを誰かが弾き、その旋律に魅かれて人々が集まり、新たな出会いや賑わいが生まれる。日本では、鹿児島を中心に南九州にいくつか見られるそうで、これから全国に広がるのではないだろうか。

 

●宮崎ムサビ展

 「第43回宮崎ムサビ展」が、市内で昨日24日(火)から29日(日)まで開催されているという。アートセンターのスタッフが紹介してくれた。会場は、広島通りのカフェ&ギャラリー「Art Space 色空」の2Fギャラリー。

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 「ムサビ展」は、武蔵野美大校友会宮崎支部会員の展示会だそうだ。油絵から工芸品、彫刻などが展示、会員は学校の先生が多いように思えた。

 1Fのカフェでも、アマチュアカメラマンの個展を観賞。

●宮崎神宮 12:05~

 宮崎駅から北へ車で10分ほど、久しぶりに「宮崎神宮」を散策する。

 初代天皇とされる神武天皇を祀る「宮崎神宮」の神宮の森の中、長い参道を進む。

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 祓所の対面にある手水舎。

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 御神門

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 拝殿の前にある拝所。扁額は中央に「宮崎神宮」、右に「神武天皇」、左に「鵜葺草葺不合尊 玉依姫命」とある。

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 立派な社殿は1907年(明治40)年竣工、2010年(平成22年)に国登録有形文化財に指定された。

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 社殿(拝殿)の内部。

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 社務所の対面にある参拝者休憩所に、神話の一場面を描いた平沢定治画伯の3枚の油絵が奉納されてあった。絵には照明が反射していて見にくいが、写真を掲載する。

 画題「逢初川(あいそめかわ)」= 天孫降臨された瓊々杵尊(ににぎのみこと)が、水面に映る麗しい木花開耶姫(このはなさくやひめ)を見初められ、妃に迎えられた。逢初川は、宮崎県西都市や高千穂町にあるそうだ。
 
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 画題「海幸山幸」= 兄の海幸彦の大切な釣り針を海で失くした山幸彦は、綿津見神(海神、わたつみのかみ)の国の宮殿へ探しに行く話。日南海岸の青島が舞台。海幸彦と山幸彦の兄弟は、瓊々杵尊と木花開耶姫の間に出来た子。

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 画題「鵜戸の宮居」= 山幸彦は、海神の宮殿で綿津見神の娘・豊玉姫(とよたまひめ)と結ばれ、釣り針も見つけて陸に上がる。豊玉姫は、海辺の洞窟(日南市の鵜戸)で出産するが、生まれたばかりの子・鵜茅不合葺命(うがやふきあえず)を残して海神の海に帰ってしまう。鵜茅不合葺命は、豊玉姫の妹・玉依姫(たまよりひめ)に養育される。

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 鵜茅不合葺命は、後に玉依姫を妻とし4人の子をもうけるが、その末弟が神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと、後に神武天皇)。

 これら絵のほかに、社務所玄関に平沢定治(雅号は定人)画伯の絵「宮崎の宮」が掲げられているという。神倭伊波禮毘古命(=神武天皇)が、東征に向けた軍議を練っている様子が描かれている。これらの絵が書かれたのは1943年(昭和18)、太平洋戦争の真っ只中だったらしい。
 

 
●県総合文化公園

 宮崎神宮」の南西に隣あう「宮崎県総合文化公園」を散策。

 この地に宮崎高等農林学校(1924年設立)があったが、後継となる宮崎大学農学部が1949年に設立された。その後大学は、1984年から1988年にかけて宮崎学園都市(宮崎市木花地区)へ統合・移転した。

 宮崎県は、1983年(昭和58)に「置県100年事業」として大学跡地に文化施設の中核となる総合文化公園の整備計画を発表。1988年(昭和63)「県立図書館」、1993年(平成5)「県立芸術劇場」、1995年(平成7)「県立美術館」が完成した。

 芝生が広がる県民広場には、大学農学部60年の歴史と伝統の面影を残した樹木が活用されているという。

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 「県立美術館」に県民広場の西側出入口から入館、ロビーに入る。

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 内部は、休館日ではないが大きな催しがない日、人出は少なかった。

 特別展「あそぶ浮世絵にゃんとも猫だらけ」が、会期:10月28日(土)~12月3日(日)で開催予定で、大小のポスターがあちこちに掲示されてあった。

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 歌川国芳などの浮世絵には、猫が登場している場面があるという。日本有数の浮世絵コレクションで知られる平木浮世絵財団の所蔵品の中から、猫を描いたの浮世絵145点を紹介。今も変わらぬ江戸の人々と猫との愉快な暮らしぶり楽しめるとある。

 「県立美術館」の東側出入り口から抜ける。

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 美術館から石畳の上を進むと、左手に「県立図書館」。

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 右手には「県立芸術劇場」。2008年4月から命名権導入により、「メディキット県民文化ホール」と呼ぶらしい。

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 公園内には、郷土の先覚者として高木兼寛、安井息軒、石井十次、若山牧水、小村寿太郎、川越進の6体の銅像が設置されている。

・高木兼寛(たかきかねひろ)像

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 高木兼寛(1849-1920)は、高岡(現・宮崎市)で薩摩郷士の子として生まれる。海軍軍医総監(少将相当)。医学博士。男爵。貴族院議員。東京慈恵会医科大学や帝国生命保険会社の創設者。脚気の研究・撲滅に尽力、後にビタミンの発見の糸口となり「ビタミンの父」とも呼ばれる。カレーを脚気の予防として、海軍カレーを食事に取り入れた。

・安井息軒(やすいそっけん)像

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 安井息軒(1799-1876)は、清武(現・宮崎市)で子弟に学問を教えていた飫肥藩士の次男として生まれた。清武では「明教堂」、飫肥城下では「振徳堂」で子弟の教育に励み、江戸に出て私塾「三計塾」を開塾。門下からは谷干城や陸奥宗光、渡辺昇など延べ2千名に上る多くの逸材を輩出した。自らも「幕府儒官」という学者の最高位の職を拝命。その業績は、江戸期儒学の集大成と評価されている。

 この他は撮影出来なかったので、引用可能な県総合文化公園の銅像写真を転載する。

・石井十次(いしいじゅうじ)像(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 石井十次(1865-1914)は、高鍋藩(高鍋町)下級藩士の長男として生まれる。6歳で藩校「明倫堂」に学び、その儒教的で徳を重んじる気風は十次の人格形成に大きく影響した。海軍士官を志すが脚気で断念、教師や巡査を経験した後、キリスト教に入信。医学を学ぶため岡山に移住。しかし1人の貧しい巡礼者の子を預かったことをきっかけに、医学の道を捨て児童救済事業を開始。資金を集め、教育を施して手に職を付けさせ、子どもたちを自立へと導いた。その数は2千数百人。児童福祉制度などなかった明治時代、児童救済に力を尽くした石井は「児童福祉の父」と呼ばれている。

・若山牧水(わかやまぼくすい)像(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 若山牧水(1885-1928)は、東郷(現・日向市)の開業医の長男として生まれる。県立延岡中学校に入学、短歌と俳句を始める。わずか43年の短い生涯の中で、実に9,000首もの歌を残した。短歌の他に随筆・童話・紀行文や歌壇の選者としても活躍。明治中期以降、浪漫主義の与謝野晶子などの歌人達が人気となる一方、自然主義文学と呼ばれる牧水の歌は広く庶民の心に浸透した。旅を愛して各地で歌を詠み、全国に歌碑が300基以上あるそうだ。大の酒好きで、一日一升程の酒を呑んでいたようで、肝硬変が死因とされる。

・小村寿太郎(こむらじゅたろう)像(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)

 県総合文化公園の銅像写真が無かったので、肖像画を転載。

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 小村寿太郎(1855-1911))は、飫肥藩(日南市)下級藩士の長男として生まれる。大学南校(東京大学の前身)からハーバード大学へ進学。外務大臣、貴族院議員などを務めた。侯爵。1905年(明治38年)、日露戦争終結後のポーツマス会議日本全権としてロシア側と交渉し、条約調印。また幕末以来の不平等条約を解消するための交渉、条約改正を行い日本の地位確立を果たす。日露協約締結や韓国併合にも関わり、大陸政策を進めた。

・川越進(かわごえすすむ)像

 全国的には知られてない川越進は、筆者も今回初めて知る。引用できるような写真は入手できなかった。

 川越進(1848-1914)は、清武(現・宮崎市)で飫肥藩の勘定方の子として生まれ、藩の郷校「明教堂」で学ぶ。明治初期に宮崎県が誕生するが、その後鹿児島県に吸収合併された。宮崎県民(日向国人)としてのアイデンティティを取り戻すため、川越が中心になって多くの有志が立ち上がった。日向国選出の鹿児島県会議員として初めて、県会議長に就任、宮崎県の分県を実現した。その後も宮崎県会議長や衆議院議員として宮崎県の発展に尽くした。

 15:30宮崎市街を出て、16:05宮崎空港着。

 宮崎空港16:55発のソラシドエア060便は10分遅れで出発。

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 18:45羽田空港着。21:45自宅着。

 

 ★ ★ ★

 「宮崎神宮」は、神日本磐余彦尊(神倭伊波禮毘古命、かむやまといわれひこのみこと、後の神武天皇)を主祭神とし、父・鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)と母・神玉依姫命(たまよりひめのみこと)の2柱を祀る。

 神話の世界では、神武天皇は初代天皇に即位するまでは、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)、幼名は狭野命(さののみこと)。天照大御神から5代目の孫にあたる。鵜葺草葺不合尊(鵜戸神宮の祭神)の第4皇子で、母は玉依姫命。生まれは宮崎県西諸県郡高原町大字狭野とされ、この地には狭野神社が鎮座している。

 天皇は聡明で武術に秀でおり、15歳の時皇太子になり宮崎で政治(まつりごと)を行う。45歳の時に全国を統一して都を中央に遷(うつ)すべく決意し、宮崎を出発。陸路を北へ進み美々津(日向市美々津町)の港から船出した。各地で戦いながら、筑紫、阿波、吉備、浪速、紀伊、熊野を経て16年間の苦難の旅の後、大和を征服。52歳の時、「橿原宮」で即位した。これを「神武東征(東遷)」という。
 
 

 「宮崎神宮」の社伝によれば、神武天皇が東征以前に宮を営んだ宮崎の地に、後に九州に下向してきた神武天皇の孫・建磐龍命(たけいわたつのみこと、阿蘇神社の祭神)が、その縁に因んで創建したとされる。

 「宮崎神宮」が古くからこの地に鎮座していたのは確からしいが、古代における由来は不明である。文献上の初見は、鎌倉時代初めまで下るという。神武天皇に対する崇敬から、歴代の伊藤、島津、有馬、内藤氏などの領主・藩主から、深く崇敬や保護を受けたようだ。もっとも江戸時代までは、「神武天皇宮(社)」や「神武天皇御廟」などと称され、神武天皇を祀るとはいえ単なる地方の一古社に過ぎなかった。

 全国的に知られるようになったのは、明治維新の王政復古により「神武創業の始め」に復することが唱えられ、国家神道の中核としての当宮が脚光を浴びるようになってから。1873年(明治6年)に「宮崎神社」と改称。神武天皇の最初の宮地であるとの伝承から特別の待遇を受け、神社の格も累進した。1878年(明治11年)「宮崎宮」と改称、1899年(明治32年)には「神武天皇御降誕大祭会」が組織され、全国から寄付金を集めて境内整備を行い、1907年(明治40年)にほぼ現在の姿となった。1913年(大正2年)に神宮号が許可され現社名「宮崎神宮」となった。更に1940年(昭和15)年、国家的行事・紀元2600年を記念した大規模な拡大整備事業で、現在の境内が完成した。
 
 

 古代史研究家の中には、神武天皇を実在とする説もある。しかし現代の歴史学界では、神武天皇の存在は否定されている。神武天皇は、弥生末期から古墳時代にかけてのいろいろな出来事や伝承を元に、複数の実在した人物の経歴、業績や人格などを重ねあわせ、記紀(古事記・日本書紀)編纂時に創作された偶像であるというのが、最も納得できる。神武天皇の「モデル」とされた人物として、実在の可能性が高い崇神天皇、応神天皇、継体天皇、そして記紀編纂時の天武天皇などが挙げられている。

 国家神道は明治新政府が、神社神道と皇室神道を結びつけて創り出した特異な宗教だった。政府が軍国主義、国家主義的な立場で、神道を神道を国民精神のよりどころとし、国家がその保護・監督を行い、国民に天皇崇拝と神社信仰を義務づけた。

 ここういった神話が底流にあって、それを政治に利用する人々が、例えば教育勅語、日本軍創設、核兵器保有などを唱える立場に立っている。近年、国家主義や復古主義など戦前の体制に回帰させ、基本的人権、平和憲法や立憲主義をないがしろにする現政権の右傾化政策を支持しているような背景は、神話の世界と区別して科学的な歴史や史実を正しく理解すべきだと指摘しておかねばならない。

 

 

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  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-c2e0.html

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  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-36e7.html

 「宮崎市と神話のふるさと」 2014/11/01投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-cca2.html

2017年11月22日 (水)

宮崎県高千穂町

 2017年11月24日(火)、神話と伝説の町・宮崎県西臼杵郡高千穂町へ行く。
 
 

 本ブログ記事「延岡市北浦町と北川町」(2017/11/16投稿)の続き。
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-6a14.html

 11月23日(月)、「ホテルメリュージュ延岡」(延岡市紺屋町)に宿泊。翌日24日(火)8:00、貸切バスは参加者20名を乗せホテルを出発。延岡市北方町、西臼杵郡日之影町の国道218号線を走り、高千穂町に向かう。

 

●天岩戸神社 9:00~9:25

 8:55、バスは「天岩戸神社」(西本宮)前の駐車場に到着。

 「天岩戸神社」は、古事記・日本書紀に書かれている天照御大神(あまてらすおおみかみ)の天岩戸伝説の舞台となった場所。岩戸川を挟んで西本宮と東本宮が鎮座し、両社とも天照大御神を祭神とする。川上には、八百萬(やおよろず)の神々が集まり相談したという「天安河原(あまのやすがわら)」がある。

 天岩戸神社の入口、「ひむか神話街道」の案内板の横に、現代的な顔をした「アマテラスオオミカミ(天照御大神)」の像があった。銘板には、提供:米良電気産業株式会社とある。

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 天岩戸神社西本宮の入口。(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 鳥居をくぐってすぐ参道右手に、何故か松尾芭蕉の句碑がある。「梅が香に のっと日の出る 山路哉  はせを」 

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 苔むした古い碑だが、芭蕉がここに来たはずはない。説明板には、「俳聖松尾芭蕉の句集『炭俵』の中になじみ深い句で、まさに高千穂地方早春の光景そのものです」とある。「はせを」は芭蕉の古い表記で、現代では「ばしょう」と読む。

 建立されたのは安政2年(1855年)。大勢の門人達がここで句会を開き、その記念にこの地にふさわしそうな芭蕉の句を選んで建立したという。しかしこの名句は、高千穂でなくてもどこの場所にも当てはまるような気がするが。

 参道にある案内板を見るとわかるように、岩戸川を挟んで東本宮と西本宮がある。西本宮のちょうど対岸に「天岩戸」、上流に「天安原宮」がある。(クリックすると拡大表示します。)

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 神職の案内で参道を進む。

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 御神木の「おがたま(招霊)の木」。モクレン科で常緑樹。

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 「おがたまの木」は、その枝を手に天鈿女命(あまのうずめのみこと)が岩戸の前で踊ったとされ、その時の踊り(舞)が現在の神楽、枝が神楽鈴(巫女が持つ鈴)の原点ともされる。4月頃白い花が開花、秋に房状の実を結ぶ。花は、常陸宮家の御紋章。

 右手の神門をくぐり、拝殿に向かう。

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 拝殿に参拝。この拝殿のちょうど背後に当たる場所に、「天岩戸」洞窟の遥拝所がある。

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 参拝後、拝殿前で神職の方にお祓いをしてもらう。拝殿の右手にある扉の先は、聖域になっていて残念ながら写真撮影禁止。

 神職が扉を開き、後に付いて通路を歩くと、遥拝所がある。川の対岸に樹木に覆われて見えないが、天照大御神がお隠れになったという「天岩戸」の洞窟がある。洞窟には誰も立ち入ったことが無く、入口は崖崩れで埋まっているとのこと。御神体の岩戸に向かって手を合わせる。

 今回は行けなかったが、西本宮から岩戸川に沿って徒歩約10分(約500m)で「天安河原」と呼ばれる河原に着く。その中心にある洞窟に「天安河原宮」がある。(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 天照大御神が「天岩戸」にお隠れになったので、八百萬の神々は「天安河原」に集まって相談した末、この洞窟の前で宴会を開くことになる。河原には、ケルンのように積み重ねられた石が多数ある。近年、石を積み重ねて祈願すると、願い事が叶うとされるようになったという。

 「天岩戸神社」入り口まで戻って、駐車場に 「天岩戸」をこじ開けた手力男命(たぢからおのみこと)の像があった。天岩戸神楽30番で、手力男命が岩の戸を取り払う舞だそうだ。

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●高千穂あまてらす鉄道 9:55~10:35

 かつて宮崎県北部で旧国鉄高千穂線を継承して運営していた第三セクターの「高千穂鉄道株式会社」の高千穂線は、2005年(平成17年)の台風により甚大な被害を受け、復旧することなく全線廃線となった。

 「高千穂あまてらす鉄道株式会社」は、同線を引き継いで運営する計画で設立された会社。現在その線路の一部を活用して、スーパーカートによる高千穂駅~高千穂橋梁の往復5.1Km、30分の観光トロッコ列車を運行している。

 高千穂あまてらす鉄道のチラシ。田園風景や絶景スポットを楽しめる、高千穂観光の最近の目玉となっているそうだ。(写真のダブルクリックで拡大表示します。)

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 高千穂町の中心街にほど近い場所にある旧高千穂駅。

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 乗車券大人1人1,300円は、維持管理費と書いてある。

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 ホームの左手のブルーシートの下に、白とピンク色のグランド・スーパーカートが停車。

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 グランド・スーパーカートは、2017年(平成29年)3月から運行開始した。2500㏄のディーゼルエンジンを搭載が動力車2台が、30人乗りの客車(トロッコ列車)を牽引する。

 午前10:00から40分おきに10便が往復運行。毎週木曜と悪天候の場合は運休となる。

 発車してしばらく走ると、トンネル。天井のイルミネーションに歓声が上がる。

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 二つ目のトンネルを抜け、国道218号線を横切った後の進行方向右側の風景。田園風景と県道7号線のカーブ。写真左手に、岩戸川に架かる国道218号の「雲海橋」。

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 木々のトンネルを走る。

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 天岩戸駅を通過する。

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 天岩戸駅を過ぎると、列車は岩戸川の渓谷に架かる高千穂橋梁の前で停止。運転手は風の状態を確認し、長さ525.5mの橋梁を渡り始める。

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 客車の床の中心部には強化ガラスの床が設置、走り過ぎる線路の様子や高千穂橋梁の最高地点(105m)での直下で停止して眺めを楽しむ。

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 水面からの高さ105mは、鉄道橋梁としては日本一の高さを誇る。完成は1972年(昭和47年)。真下を流れる岩戸川を、おそるおそる覗き込む。

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 岩戸川の下流に架かる1975年(昭和50年)竣工の「雲海橋」。橋のたもとに道の駅がある。

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 岩戸川の上流に架かる県道237号線(旧国道218号線)の「鹿狩戸橋(かがりどばし)」。

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 橋梁を先に進むとフェンスで覆われたトンネルがある。このトンネルの全長は3kmもあり、今のところ通行が許可されていない。ここが折り返し点。

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 運転手は旧高千穂鉄道に勤務されていたのだろうか、車内から絶景ポイントや高千穂鉄道の歴史などを案内してくれる。鉄橋の上でしばらく停車して、周囲に広がる絶景やガラス床から直下の眺め楽しませ、シャボン玉を飛ばすなど、お客さんを喜ばそうと努力されている。

 当初は軽トラックを改造したスーパーカートで、トロッコをけん引していたそうだ。最大で18人乗り、現在も不定期で運行しているという。SL型のほか、新幹線型などがある。

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 旧高千穂鉄道で使用していたディゼルカー TR-202の運転体験が、元鉄道運転手の指導のもとでできるそうだ。料金は、1人30分で10,000円。

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 旧高千穂鉄道の廃線を受けて、駅舎や線路を活用して未来にその鉄道遺産を伝え、地域の文化や経済活性化のための「まちおこし」に取り組む「高千穂あまてらす鉄道」の努力に敬意を表したい。
 


●高千穂峡 10:45~11:50

 高千穂峡(五ヶ瀬川峡谷)は、延岡市に注ぐ五ヶ瀬川の上流にある。日本の滝百選で有名な「真名井の滝」付近の峡谷。台風21号の影響で増水のためか、貸しボートの利用は中止されていた。

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 阿蘇の火山活動によって、約12万年前と約9万年前の2回に噴出した火砕流が、五ヶ瀬川の峡谷沿いに流れ下った。この火砕流の堆積物が冷却・固結し柱状節理となった岩層を、五ヶ瀬川の侵食によって長い年月をかけて谷底深く削り、再びV字峡谷となった。高さ80~100mにも達する断崖が、7kmにわたり続く。

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  1934年(昭和9年)に国の名勝、天然記念物に指定され、日本を代表する景勝地の一つとして知られるようになった。1965年(昭和40年)には「祖母傾国定公園」に指定。

 峡谷に沿って遊歩道が整備されており、上流に向かって進むと荒々しい柱状節理をはっきりと見ることができる。写真の右上には、変形した柱状節理も見られる。

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 更に遊歩道を進み「槍飛橋(やりとびばし)」を渡る。高千穂峡を跨ぐ平成・昭和・大正の「三代橋」と呼ばれる橋が並ぶ。上から国道218号バイパスが通る鋼鉄造りの「神都高千穂大橋」(平成15年完成)、コンクリート造りの「高千穂大橋」(昭和30年完成)、大正時代の石橋の「神橋(しんばし)」。

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 「神橋」から上流側の「神都高千穂大橋」を望む。

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 「神橋」の東たもとから更に上流へ遊歩道を通って「高千穂神社」へ行けるが、下流に向かう遊歩道を歩き、元の真名井の滝付近の「御橋(みはし)」に戻る。

 なお「高千穂神社」は、日本神話のニニギノミコト以下の日向三代皇祖神を祀り、源頼朝が天下泰平祈願のために畠山重忠を代参に派遣して多くの神宝を奉納したと伝えられている。

 「御橋」付近に戻り、釣り堀もあるおみやげ屋で休憩。

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 ここには、若山牧水の歌碑がある。「幾山河 越えさりゆかば寂しさの はてなむ国ぞけふも旅行く」

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 説明板によると、「牧水は明治18年宮崎県東郷町に生まれ、延岡中学を経て早稲田大学に入学した。この歌は牧水が22歳上京以来三度目の帰省の途中、帰路中国地方を回って帰郷した時の歌で、処女歌集「海の声」に掲載されている。北原白秋とは早稲田大学時代、級友として親交がある。昭和38年4月建立。 」

 すぐ近くに1941年(昭和16年)3月に来町してこの地で詠んだ北原白秋の歌碑(1949年(昭和24年)11月建立)もある。

11:50、高千穂峡を後にして、延岡へ。

 

●道の駅「北方よっちみろ屋」 12:35~12:45

 延岡市北方町、国道218号の道の駅。九州中央道の出入り口と国道218号線との交差点に隣接している。「よっちみろ屋に寄っちみろや」というネーミングがおもしろい。

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 延岡市街地に入り、昼食に名物の鮎料理を食べに行く。
 
 

●鮎の炭火塩焼き 13:05~14:00

 延岡市の大瀬川(一級河川の五ヶ瀬川水系)に架かる大瀬大橋の付近、300年の伝統があるという「延岡水郷鮎やな」。向うに見える山は、愛宕山。

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 一昨日、日向灘を通過した台風21号の影響か、鮎やなは河原に撤去してあった。

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 鮎やな近くの堤防にある「あゆ処 国技館」(延岡市大貫町)に入店。

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 昼セットA(鮎の塩焼き2尾、鮎飯、赤だし、なます、お新香など)は、1,900円。

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 骨の抜き方を教わって、焼きたての鮎を始めて食べる。旅館で塩焼きの鮎を食べたことはあったが、炭火で焼きたての鮎は初めてで、ホクホクしたでとても美味しい。
 

 14:10「ホテルメリュージュ延岡」に戻り、14:40ホテルを出発、宮崎へ。

 

 ★ ★ ★

 高千穂を舞台にした天岩戸伝説のあらましは、次のようである。

 天照大御神は、弟の須佐之男命(すさのおのみこと)が大変な乱暴者で、あまりにひどいいたずらにお怒りになり、天岩戸と呼ばれる洞窟にお隠れになった。太陽の神が隠れると天地は真っ暗になり、さまざまな禍(わざわい)が起こり始めた。

 八百萬の神々は「天安河原」に集まって相談した末、岩屋の前で宴会を開くことにした。芸達者の天鈿女命(あめのうずめのみこと)が賑やかに舞い踊り、そのおかしな踊りに皆笑い転げる。その騒ぎに何事かと、天照大御神が天岩戸の扉を少し開いたところ、手力雄命(たじからのみこと)が岩戸を開いて扉を投げ飛ばし、天照大御神は天岩戸から出ていただいた。天地は再び明るくなり、平和が戻った。

 須佐之男命はその後反省して出雲国に行き、八俣大蛇(やまたのおろち)を退治された。岩戸神楽の中では、この話の神楽歌が歌われている。また、手力男命が放り投げた岩戸の扉は、宙を舞い信州の戸隠山(とがくしやま)へ落ちたと伝えられる。
 

 天孫降臨伝説もそうだが、天岩戸伝説は天上界の出来事であって、地上のことではない。しかし「ここが天岩戸である」とする場所や神社は、全国に何十ヶ所もある。高千穂はその中でも、日本神話に出てくる伝説や地名が多くあることで知られる。

 「天岩戸神社」の東本宮と西本宮は、元来は独立した別の社であった。西本宮は「天磐戸」と呼ばれ、古来からご神体の天岩戸の洞窟を拝む遥拝所だったようだ。東本宮は、「岩社 岩神」または「氏社」であって、天岩戸からお出ましになった天照大御神を祀っていた。皇祖神をを祀るとはいえ、朝廷の国家的な祭祀ではなく、地元を治める氏族や住民の信仰であった。1871年(明治4年)、それぞれは「天磐戸神社」と「氏神社」と改称、その後1970年(昭和45年)に両社が合併、現在の「天岩戸神社」の東西本宮を称するようになった。

 現在、一般的に「天岩戸神社」と呼ばれ参拝客が多く訪れるのは西本宮で、社務所は西本宮に置かれている。しかし西本宮は本殿が無く、歴史的には遥拝所だった。信仰の中心は、むしろ天照大御神を祀って来た東本宮であったと考えられている。

2017年11月19日 (日)

東京臨海部と南房総の旅

 2017年11月14日(火)~15日(水)、東京臨海部と南房総への2泊3日の旅。

 
 

 この日は朝から曇り空、関東ではところどころで雨の予報。貸切バスは駅前を7:35に出発、参加者26名を乗せて関越道・首都高へ。

 今回の旅行のメインは、14日の東京港の遊覧と15日の館山の自衛隊リコプター部隊の見学。いつも通り、車中はお茶やビール、お菓子が配られ賑やかに、やがてカラオケも始まる。ところが首都高に入ると、事故の影響で大渋滞。

 東京都港湾局の視察船「新東京丸」の竹芝を10:00出発に間に合わなくなった。やむなく乗船をあきらめ、東京臨海部広報展示室「ミナトリエ」の見学に予定変更。

 今話題の臨海副都心の豊洲市場の前を通って、10:30青海フロンティアビル(江東区青海)に到着。20階にある「ミナトリエ」へ。

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 江戸時代からの東京港や臨海副都心の歴史、その現在の姿、未来のまちづくりを紹介する展示を1時間ほど見学。

 江戸の河岸の様子を再現したジオラマ。

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 江戸時代の千石船。

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 床に東京臨海部の航空写真。

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 地上100mの展示室のガラス越に東京港の眺望。眼下に大江戸温泉物語と青海ふ頭、対岸は大井ふ頭。

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 21階から乗船できなかった帰港途中の「新東京丸」 を見る。

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 中央は「青海中央ふ頭公園」。左手に「パレットタウン」の大観覧車。その右手に門の形をした「東京ベイコート倶楽部」。

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 テレコムセンターとその先に船の形をした「船の科学館」。

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 11:40、「ミナトリエ」を出る。
 

 東京湾アクアライン通り、「海ほたる」で12:15~12:25小休止。

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 13:00~13:50、千葉県富津市の金谷港のマーケットプレイス「ザ・フィッシュ」のレストランで昼食。ひじきのり550円購入。

 14:25、鴨川市釜沼の「大山千枚田」に着く。霧雨が降って来たが、傘なしでもOK。

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 面積ヘクタールの傾斜地に大小375枚の田んぼが階段状に連なる。

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 15:00~15:20、、試飲と買い物で房総の地酒「亀田酒造株式会社」(鴨川市仲)の売店に20分ほど寄る。

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 銘柄は「寿萬亀(じゅまんかめ)」。

 毎年、明治神宮新嘗祭の御神酒として奉納しているという。

 15:50、鴨川市の小湊温泉、「ホテル三日月」に到着。

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 大浴場には、1億5千万円相当の18金で作られた1人用の黄金浴槽があって、初めて入るが何とも良い気分。ここで2007年に盗難に遭う事件があったが、2か月後に新しい浴槽が設置されたという。

 18:00~20:30、大広間で懇親会。

 風呂も夕食や朝食も満足。しかしホテル売店で、500mlのPETボトルのお茶が260円(自販機も同じ)でびっくり。どうして高いのか店員に聞いたが、答えは聞けなかった。

 

 

★ ★ ★

 翌日15日(火)は晴れ、8:50ホテルを出発。

 9:00~9:35、鴨川市内の国道128号線沿いの海産物「道の港まるたけ」。品定め最中に大型観光バスが次々に到着、すごい混雑で買い物せずに出る。

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 鴨川から和田を経て館山へ。

 10:40、海上自衛隊館山基地(第21航空群)に到着。自衛館の案内で史料館を見学。

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 次に屋外に出て、パイロットから救難ヘリコプターの性能や災害時の救難活動の説明を聞く。興味深い話に、参加者から次々質問が飛び出す。 

 救難ヘリコプター UH-60J。米シコルスキー・エアクラフトが開発、三菱重工のライセンス生産。

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 格納庫の哨戒ヘリコプター SH60K。SH-60Jを基にして、三菱重工業と防衛庁で独自に改造開発。

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 自衛隊グッズの買い物の後、12:20館山基地を後にする。

 12:30~13:20、館山下真倉の410号線沿い「漁師料理たてやま」のレストランで昼食。 隣接の「おみやげ市場」で、アジのひらき4枚セット648円購入。

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 アクアラインを通って帰路へ。16:30、駅前に到着。

 天気も何とかもって、今回も研修と親睦を深めることができた旅行だった。

 
 

 ★ ★ ★

 鴨川の「大山千枚田」は、房総半島南部の嶺岡(みねおか)山地のふもと、面積約4ヘクタールの傾斜地に 階段のように連なる大小375枚の田んぼ。千葉県の指定名勝で、東京から一番近い棚田として知られている。畔(あぜ)に設置されているLEDは、1万本あるだそうだ。

 大山千枚田は、山間部で水源の確保が出来ないために、日本で唯一雨水のみに依存する天水田だそうだ。貴重な動植物も多く生息し、生態系や環境の保全にもなっている。

 農林水産省の「日本の棚田百選」に1999年(平成11年)に認定。文化庁の文化的景観の保存・活用事業の対象地域にもなっている。

 2010年(平成22年)9月、天皇皇后夫妻が国体で千葉県を訪問された際に視察された。その風景に感動して詠まれた短歌を刻んだ石碑がある。
 
 「刈り終へし 棚田に稲葉 青く茂り あぜのなだりに 彼岸花咲く」

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 「大山千枚田保存会」のホームページによると、次のようである。

 この千枚田は、作業参加・交流型のオーナー制度で運営されている。「棚田オーナー」は、農家の方の細かい指導で、すべて手作業の田植え・草刈り・稲刈り・脱穀・収穫祭など年7回程度の作業に参加。収穫した米はすべて持ち帰りも出来る。

 会費は、作業参加・交流型で1区画(約100㎡)で年間3万円。農作業体験・飯米確保型は1口(100㎡)で年間4万円。また、初めて参加する人に年度ごとに更新する「棚田トラスト」という制度もある。

 

 減反政策、過疎化、農家の高齢化などによる棚田の耕作放棄は、1970年頃から始まったという。棚田は、平地の田んぼに比べ労力は2倍、収穫は半分と言われ、生産性が低い。

 棚田の自然・文化を後世に残すため、普及・啓発・支援活動を行う全国組織「棚田ネットワーク」というNPO法人がある。そのホームページに、全国棚田保存会一覧というのが載っており、保存会、保全組合・・・などの団体を数えてみるとざっと80以上あった。

 棚田をふるさと景観、観光資源として行政が耕作の補助金を出したり、棚田オーナー制度で都市住民と農家との交流で地域を活性化したり、様々な活動が行われているようだ。今回大山千枚田を見る機会に、棚田のさまざまな保存活動を知って、有意義だった。

 

 本ブログの関連記事。

 「東京・お台場」 2017/06/10投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/69-ecb7.html

 「宮崎県日南市」 2014/11/02 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-c216.html

 「十日町と周辺の風景」 2014/08/06 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-2d97.html

 

2017年11月16日 (木)

延岡市北浦町と北川町

 2017年10月23日(月)、宮崎県延岡市に行く。
 

 前日22日(日)は宮崎への移動日、台風21号が接近している。

 九州への上陸はなさそうだが、沖縄・九州の東岸沖を通過するため、羽田空港発の宮崎空港行は始発便から午前中の便は欠航となった。

 搭乗予定だった羽田空港12:00発宮崎空港行きのソラシドエア057便も欠航。空席のあった17:05発の同061便を仮予約して、出発ロビーで待機する。

 16時頃になって061便は、羽田に引き返すまたは福岡空港着陸の条件付きで運行することになり、20分遅れの19:05、無事宮崎空港に到着。この日、延岡市内で宿泊の予定を変更して、宮崎市内のホテル「東横イン」に宿泊。

 台風21号は去ったが、23日(月)の午前中に延岡北浦町で予定していた「宮野浦八十八ヶ所巡り」(詳細は後述)のハイキングは中止となった。

 午前9時頃宮崎を出発、11:35延岡市内の「ホテルメリュージュ延岡」前で友人らと合流。

 延岡市の北部・北浦町の「道の駅北浦」に一緒に行く。

 

●道の駅北浦(12:05~13:25) 

 国道388号線を車で北上、約30分で到着。

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 「道の駅北浦」(延岡市北浦町古江)は、日豊海岸国定公園内の国道388号沿い、「下阿蘇ビーチリゾート浜木綿村」の中にある。キャンプ場、常設テントやケビンと呼ぶ宿泊施設、オートキャンプ場、河川プール、アウトドアやマリンスポーツなどのレジャー・スポーツ施設がある。

 道の駅の手前に下阿蘇ビーチが広がり、砂浜の向うは日向灘、島浦島(しまうらとう、または島野浦島)が浮かぶ。

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 正面が、約4Km沖にある島浦島。有人島で、町名は延岡市島浦町。

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 左手に総合案内所パノラマ館。手前の小屋は、製塩所。

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 昔、この地域で塩づくり(揚浜式塩田)が行われていて、塩田と製塩所には「塩の資料館」が併設されているそうだ。北浦の名産品として、「月の塩」が販売されている。

 道の駅の「海のレストラン海鮮館」で昼食。北浦で水揚げされるという旬の活魚「刺身定食」1,680円と地元特産の「あげみ」を単品で頂く。

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 漁師たちが定置網漁や底引き網漁で水揚げした大物や状態の良い魚種は市場へと流れ、「あげみ」は残った雑魚をムダにすることなく、家庭で魚のすりみを揚げたもの。

 鹿児島の「さつまあげ」、宮崎では県南・飫肥の「おび天」、県北は「あげみ」。前者は砂糖や黒砂糖を使っているのに対して、延岡の「あげみ」は、砂糖を使わずに塩味に仕上げているそうだ。ふわふわの食感で、風味もいいし美味しい。刺身もコリコリとした食感で新鮮。

 

●西郷隆盛宿陣跡資料館(13:50~14:20)

 東九州自動車道(無料区間)の北川ICから車で5分、延岡市北川町の「西郷隆盛宿陣跡資料館」(延岡市北川町長井俵野)を見学。

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 西南戦争で、北川町の俵野で薩軍最後の宿陣となった旧児玉熊四郎邸は、1933年(昭和8年)に史跡として県指定を受ける。現在は、「西郷隆盛宿陣跡資料館」として資料館として整備され、西郷隆盛ゆかりの遺品や戦争資料が展示されている。入場料:無料。

 当時の軍議の模様を忠実に再現した人形。中央が西郷隆盛。

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 西郷が、重要書類と共にここで焼いたとされる日本で一着しかなかった陸軍大将の軍服(複製)。

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 来年2018年のNHK大河ドラマは、「西郷どん」が放送予定。

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 資料館の内部の様子。

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 可愛岳(えのだけ)のふもとに位置しているこの地は、神話・天孫降臨のニニギノミコト(瓊瓊杵尊、天照大御神の孫、神武天皇の曽祖父)が葬られた地として古くから伝えられ、宮内庁の「御陵墓参考地」として治定されている。写真中央に鳥居があり、その先に陵墓があるそうだ。
 
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 資料館には、ニニギノミコト御陵墓の写真があった。

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 西郷隆盛が西南戦争においてこの地に宿陣した最大の理由は、この裏手に陵墓があるので、天皇の祖が眠る地に官軍が鉄砲や大砲を打つことが出来ないと考えたとされる。可愛岳(えのだけ)は、天孫ニニギノミコトと西郷が時空を超えた出会いによって、鹿児島まで帰ることが成功した「出会いの聖地」とされている。

 なお、ニニギノミコトの埋葬地「可愛山稜(えのさんりょう)」は、ここ宮崎県延岡市北川町、鹿児島県薩摩川内市の新田神社、宮崎県西都原市古墳群のほか、南九州の各地にに言い伝えがあるという。

 
 14:40、今晩宿泊する予定の「ホテルメリュージュ延岡」に到着、チェックイン。

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 17:25頃、ホテルの前の五ヶ瀬橋から五ヶ瀬川の夕日を眺める。

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 18:00~20:30、「ホテルメリュージュ延岡」のパーティルームで、懇親会(参加者20名)。

 翌日は、高千穂観光の予定。

 ★★★

■北浦町と北川町 

 北浦町は宮崎県の最北東部に位置し、東臼杵郡におかれていた町。日向灘に面した東側には、リアス式海岸が形成されていて「日向松島」と呼ばれている。2006年2月に延岡市へ編入された。

 北川町は、宮崎県の最北部に位置し、東臼杵郡におかれていた町。2007年3月、延岡市に編入された。両町は、大分県と接する。


■台風21号

 10月16日に西太平洋のカロリン諸島で発生した台風21号は、発達しながら日本列島に向かって北上。20日(金)、2015年(平成27年)の台風第23号以来となる半径800Km以上の強風域を持つ「超大型」台風となった。さらに21日(土)午前7時時点では、中心付近の最大風速が44 m/s以上の「超大型で非常に強い勢力」の台風に成長した。

 沖縄・九州、四国、近畿や東海地方を暴風域に巻き込みながら、速度を上げて東海沖に進んだ。その後も勢力を維持したまま北上を続け、23日(月)午前3時頃には静岡県御前崎市付近に上陸。上陸時の中心気圧は950hPa、最大風速は40m/s。本州の広い範囲を暴風域とし、神奈川県、東京都、関東地方を通過した。

 23日(月)8時頃には茨城県日立市沖に抜け、15時頃は北海道の東の海上で温帯低気圧となった。台風は北から寒気を引き込んだため、23日は北海道で広く雪が降った。なお、「超大型」での上陸は、1991年(平成3年)以降初めてのことだそうだ。

 台風の影響で各地で暴風、また前線の活動が活発化して大雨が各地で長時間続いた。飛行機の欠航や列車の運転見合わせが相次ぎ、交通機関は大きく混乱。22日(日)は、衆院選投票日だったが、投票率にも影響を与えたようだ。離島などの一部地域においては、繰り上げ投票が実施。また、京都で毎年10月22日に行われている「時代祭」は29年ぶりに中止されたほか、各地で祭りやイベントが中止または延期された。
 

■宮野浦八十八ヶ所巡り

 宮野浦は、延岡市の海岸沿いの北端にある半島、北浦町古江のそばの漁港である。現在では、延岡市街から車で30分。

 江戸時代後期、宮野浦地区で疫病や火災が頻繁に起こったことから、当時京阪地方との交易で莫大な富を得た宮野浦の中野忠之丞の発願で、「四国霊場八十八ヶ所」の勧請が行われた。1819年(文政 2年)に、四国八十八ヶ所の土と、延岡で刻んだ八十八体の石仏を船で搬入したと伝えられている。

 一方、延岡藩内藤家文書によると、石仏の設置については、忠之丞ではなく中野忠五郎という人物で、設置した年は1826年(文政9年)とされている。

 「宮野浦八十八ヶ所大師祭り」が、毎年旧暦の3月21日に開催されるという。この「お大師さん」の日には、地区をあげて子どもから大人まで幅広い年齢層が参加し、巡拝する。一番札所から八十八番札所までは、約12km。参拝路は、地元の人たちの手で整備されていて歩きやすく、道のりは約4時間程度。途中6~7カ所で、赤飯やお茶・菓子などがふるまわれるそうだ。

  俗に「お大師さま」というときは、弘法大師(空海)を指す。そういえば全国各地の「大師祭」は、弘法大師の命日である旧暦3月21日に開催されるというのに気づいた。

 「延岡大師祭(今山大師祭)」も、弘法大師の命日に五穀豊穣、家内安全を願った春祭りが始まりでありとされるそうだ。現在は九州三大春祭りのひとつといわれ、地元では「おだいっさん」と呼ばれて、4月中旬の金~日曜の3日間、延岡市街を中心に開催されている。
  

■西南戦争

 1877年(明治10年)、征韓論に敗れて鹿児島に帰った西郷隆盛を盟主に、士族による武力反乱「西南戦争」が勃発。薩軍は、熊本城を包囲したが落とせず、北上。熊本城への幹線道だった「田原坂」(熊本県植木町)で官軍(政府軍)と激突、死闘が繰り広げられた。物量で劣る薩軍は耐えられず、総退却。人吉、都城、宮崎、延岡へと敗走した。

 旧児玉熊四郎邸は、延岡の「和田越の決戦」に大敗北を喫した西郷軍が、北川に逃れた際に立ち寄ったゆかりの家。北川町の俵野に宿陣をはった西郷は、ついに薩軍解散の命を出し、明治天皇から拝領した陸軍大将の軍服を裏庭で焼いたとされる。

 その後、可愛岳(えのだけ)突破を敢行して南進。鹿児島に辿り着いた西郷は城山に籠城するが、官軍の総攻撃で西郷も被弾し、切腹して果てた。

 明治維新後、特権身分を廃されて生活に困窮した士族は、各地で反乱を起こした。西南戦争は、一連の反乱の中でも最大で最後の内乱で、およそ7ヶ月に渡り鹿児島、熊本、大分、宮崎の各県を戦場として、官軍6万人、薩軍3万人が動員され、両軍合わせて1万4千人の命が失われた。

2017年11月13日 (月)

東京スカイツリーと浅草寺

 2017年11月6日(月)、羽田空港に行った帰り、久しぶりに東京スカイツリーと浅草寺に行く。
 
 

 トランプ大統領が2017年11月5日(日)~7日(火)に来日。テロ対策の一環で、都心のJR、地下鉄などの主要駅でコインロッカーやゴミ箱の使用ができなくなるという。この期間にかかる旅行者や観光客にとっては、何とも不便なことだ。

 羽田空港第2ターミナルのレストランで昼食後、羽田空港国内線ターミナル駅を12:22発の京急空港線エアポート快特・成田空港行に乗車。この列車は、品川駅の次の泉岳寺駅で地下鉄都営浅草線に、押上駅から京成押上線に乗り入れ、成田空港まで直通運転をしている。

 

 都営浅草線の東銀座、日本橋、浅草駅などを経て、13:01押上駅で下車。「押上駅」は、東武伊勢崎線、地下鉄半蔵門線、京成押上線に接続し、東京スカイツリータウン開業に合わせて2012年(平成24年)5月から、副駅名として括弧で(スカイツリー前)と表示されている。

 押上駅は、「東京スカイツリータウン」のビルにつながっている。「東京スカイツリータウン」は、電波塔・展望施設の「東京スカイツリー」を中心に、商業施設「東京ソラマチ」、プラネタリウム「天空」、「すみだ水族館」のほかオフィス、教育関連施設などから構成される複合施設で、押上駅はその東端にある。

 300店以上の多彩なショップが並び、新しい下町とされる「東京ソラマチ」を通り抜け、スカイツリータウン4階のチケットカウンターに向かう。

 4階のスカイアリーナから見上げる高さ634mの東京スカイツリー。展望デッキから上の方は見えない。

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 チケットカウンターで入場券2,060円を購入、13:20「展望シャトル」と呼ばれるエレベータに乗り、50秒で地上350mの展望デッキへ。

 展望シャトル内は、夏の隅田川の花火をイメージした装飾。

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 展望デッキ(フロア350)から展望は、あいにく遠くが霞んでいて、しかも逆光で遠方のビル群がシルエット。前回来た時見えた富士山も、残念ながら見えない。

 西の方角。中央にアサヒビール本社ビルと隅田川。右端の橋は「言問橋(ことといばし)」後方左手は、新宿方面。後方中央に池袋方面、その手前の森は上野公園、更にその手前に浅草寺が見える。隅田川の手前の森は、隅田公園。

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 西の方角のズームアップ。右上の白い屋根の東京ドーム。遠景は新宿方面で、エンパイアステートビルのデザインのNTTドコモビル、ツインタワーの東京都庁舎を確認できる。

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 南西の方角。中央のビルの左右に、江戸東京博物館、両国国技館。右手に隅田川。後方は、中央に東京タワー、左手方向に東京駅、六本木、渋谷方面。

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 南の方角。後方右手から左手方向に、品川、晴海、豊洲方面と東京湾が広がるが、確認できない。左下の森は大横川親水公園。

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 北東の方角。スカイツリーの影。荒川が左手から右手の東京湾に注ぐ、右下から左上に向かう京成押上線、中央のビル(マンション群とイトーヨーカドー)の左手に東武伊勢崎線は走る。

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 前回上った地上450mの展望回廊(フロア450、入場料1,030円)には行かず、展望デッキ(フロア350)を下りる。

 展望デッキからエスカレータで2階分を下りたフロア340には、強化ガラスを4枚重ねた床ガラスがある。真下に広がる鉄骨と地上の景色は迫力があって、近寄るのも怖い。

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 ガラス床のある340フロアから、展望シャトル(エレベータ)で5階の出口りフロアへ下りる。

 再び東京ソラマチを通り抜けて、今度は東京スカイツリータウンの西端にある東武伊勢崎線(愛称スカイツリーライン)の「とうきょうスカイツリー駅」へ。

 

 

 とうきょうスカイツリー駅の次の駅・浅草駅まで3分。

 15:10、雷門の前では記念写真を撮る観光客で混雑。

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 1960年(昭和35年)、松下電器の創始者・松下幸之助が門と大提灯を寄進した。10年ごとに新調されていて、現在のものは5基目、2013年(平成25年)に取り付けられた。銘板は現在の社名「パナソニック」ではなく、昔のままの「松下電器」となっている。

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 仲見世通りは相変わらず混み合っていて、外人観光客も多い。

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 最近の仲見世では、日本語のほか英語・中国語・韓国語で書いてある「食べ歩き禁止」の看板を見かける。時々4ヶ国語で放送で注意していたが、歩きながら食べている若い女性や外国人を散見する。アイスクリームや団子の餡がついた手で商品を触ったり、 他の人の服につけてしまったりとトラブルがあるらしい。

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 トランプ大統領来日の影響でコインロッカーが使えないためか、雑踏の中で大きなキャスター付きのスーツケースを引っ張っている旅行者もみかけた。

 仲見世通りの右手に見る東京スカイツリー。

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 宝蔵門を抜け、浅草寺本堂に参拝。

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 浅草寺の境内には、江戸時代から現在までに奉納された仏像や石碑などがたくさん建っていて、それらを見て回るだけでも面白い。(写真は省略)

 浅草駅を16:20発の銀座線に乗り、上野駅を経由して19:20帰宅。

 

 ★ ★ ★

 そう言えば、東京スカイツリーや東京スカイツリータウンが開業したのは、2012(平成24年)年5月、もう5周年だ。

 浅草通り(墨田区業平1丁目~吾妻橋3丁目を結ぶ)にある業平橋に隣接する東武鉄道の駅「とうきょうスカイツリー駅」は、スカイツリー開業前は「業平橋(なりひらばし)駅」と呼んでいたのを思い出す。とうきょうスカイツリーという駅名は、観光客には分かり易いが、在原業平の伝説にちなんだ駅名が無くなったのは寂しい。

 墨田区のこの辺りには、『古今和歌集』や『伊勢物語』で知られる平安時代の貴族・在原業平にちなんだ言い伝えや地名が多い。かつては墨田区に江戸時代初期に開かれた「業平天神社」という神社があったそうだ。「業平天神社」は、在原業平が亡くなったとされる業平塚(なりひらづか)に由来するが、諸説の言い伝えがあり、明らかではない。

 埼玉県新座市野火止にある「平林寺」の境内にも、業平が京より東国へ東下りの折、武蔵野が原に駒を止めて休んで和歌を詠んだという伝えがある業平塚もある。

 本ブログ記事「紅葉の平林寺」 (2014/11/28投稿)を参照。
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-55bd.html

 業平橋は、運河だった大横川に1662年(寛文2年)に架けられたという伝えがあり、業平天神の近くにあったためその名の由来となった。

 業平をモデルとされる人物は、さまざまな物語や文献に登場している。業平に関連した伝説は、各地に伝わっている。「業平橋」という橋は、墨田区、埼玉県春日部市、兵庫県芦屋市と斑鳩町にもあるそうだ。

 墨田区には、これも『伊勢物語』で業平の詠んだ歌に「いざこと問はむ」という言葉が入っている事にちなむ「言問橋(ことといばし)」という橋もある。

 

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   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-4f97.html

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   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-2c3c.html
   

 

2017年11月12日 (日)

日本スリーデーマーチ2017

 日本最大の歩く祭典「日本スリーデーマーチ」に11月4日(土)、5日(日)の2日間参加。
 
 

 11月3日(金)から3日間、埼玉県東松山市とその周辺市町で開催される「日本スリーデーマーチ」は、今回は第40回の記念大会。

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●11月4日(土)、武蔵嵐山ルート20Kmコースに参加。

  この日は曇、時々晴れ間が出るが、夕方にわか雨。最高気温は22℃だが、北風が冷たかった。

 9:00、東松山駅前に参加者6人集合、出発。

 9:15、中央会場(東松山市松葉町)を通って、しばらく住宅街を歩く。

 10:00~10:10、森林公園駅前(比企郡滑川町)で小休止。ここからは10kmコースと別れる。

 滑川町の市野川(荒川の支流)に沿って歩く。妙に歩いている人数が少ない。

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 11:20~11:35、比企郡嵐山町(らんざんまち)の「鬼鎮(きじん)神社」で休憩。ここは、全国に4社しかない鬼を祀る神社の一つ。

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 鬼鎮神社の創建は、1182年(寿永元年)。平安末期から鎌倉時代初期の武将・畠山重忠公が造営した「菅谷(すがや)城」の鬼門除けの守護神として、鎌倉街道に沿って建立された。

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 鬼が神様として祀られているため、この神社の最大の祭りである節分祭では、「福は内、鬼は内、悪魔外」と連呼する。ご利益は、悪魔祓い、家内安全、商売繁盛など。最近では試験・受験などの神様として、参拝者が後を絶たないという。

 20Km、30Kmコースの出発は、中央会場を7:30~8:30。周りにウォーカーがいないと思ったら、出発が1時間遅れていた。この神社で休んでいたら、大会スタッフから急ぐように注意される。

 12:07、祭神として畠山重忠が祀られている「菅谷神社」の前を通過。

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 12:20~12:50、「埼玉県立嵐山史跡の博物館」前に芝生で昼食、休憩。ここでも20Kmコースのウォーカーは、わずかしかいない。

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 菅谷館(すがや・やかた)は、比企郡嵐山町にあった中世の城で、菅谷城とも呼ばれる。1973年(昭和48年)に国の史跡に指定。菅谷館跡には、「埼玉県立嵐山史跡の博物館」が設置されている。

 嵐山は鎌倉街道・上道(かみつみち)の交通の要衝だった。この道は比企郡内を縦貫していて、南下すれば武蔵国の国府(東京都府中市)から鎌倉へ、北上すれば上州から信州へ、または越後へ達する。また嵐山は、源義仲(木曽義仲)と畠山重忠という歴史上の人物を同時期に2名も輩出していることで知られる。

 12:55、「国立女性教育会館」の前を通過。

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 広大な敷地にある「国立女性教育会館」は、文部科学省所管の独立行政法人。英語名称「National Women's Education Center」の頭文字NWECから、愛称は「ヌエック」。

 女性教育指導者その他の女性教育関係者に対する研修、女性教育に関する専門的な調査及び研究等を行うことにより、女性教育の振興を図り、もって男女共同参画社会の形成の促進に資することを目的としている。

 1977年(昭和52年)文部省の附属機関として「国立婦人教育会館」が設置され、2001年(平成13)年名称を「国立女性教育会館」に変更、独立行政法人となった。

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 13:40~13:55、「丸木美術館」で近く流れる都幾川(荒川の支流)を眺めながら休憩。

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 「丸木美術館」は、東松山市下唐子にある美術館。丸木位里(いり、1901-1995)と妻の俊(とし、1912-2000)の共作による原爆の惨状を描いた「原爆の図」は有名。位里は、広島出身。原爆投下後、疎開先の埼玉県浦和市から夫婦で広島の救援活動に従事した。1966年(昭和41年)東松山市に移住し、翌年美術館を開館した。

 14:10~14:15、市内下唐子にある「唐子中央公園」で小休止。

 15:25、箭弓神社(市内箭弓町)着。小雨が降り出したので、東松山駅で雨宿り。

 16:00~18:15、そのまま駅近くのやきとり屋で、お疲れさま会。

 

 初日の3日(金)は31,875人、この日の4日(土)は30,082人が参加したそうだ。

 

●11月5日(日)、唐子中央公園ルートの10Kmコースと市内パレードに参加。

 9:15、スタート地点の中央会場(東松山市松葉町)。ステージでは今年も、歌手「Tomo_Yo(知世)」さんが歌でウォーカーを見送る。

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 9:30、中央会場近くに参加者31名集合。黄色い旗を持った幹事を先頭に、9:40ウォーキングを開始。

 商店街や住宅街を抜け、やがて栗林を左に見ながら小道を歩く。

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 スタートから約6Kmの中間地点・第1休憩所の唐子中央公園(市内下唐子)に11:00頃到着。ここでは唐子地区商工祭が開かれていて賑わっていた。

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 祭りの中を通り抜け、園内にある子供広場の芝生に集まり、12:00頃まで昼食・休憩。

 しばらくのどかな田園風景の中を歩く。

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 関越自動車道の下のトンネルをくぐると、次の第2休憩所はノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章先生の母校・南中学校(市内石橋)。写真は、2016/11/6に撮影したもの。

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 中学校を出て、再び田園の農道を歩く。

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 パレードに参加するため、氷川神社(市内上野本)から10Kmコースを外れ、パレードの集合場所へ。

 集合場所に13:25到着。出発式の後、14:00から市内バレードに出発。1Kmほどのメインストリートを横断幕を先頭に、のぼりや提灯を掲げて行進。沿道では、市民の歓迎の拍手、和太鼓チームの演奏、山車の上から祭り囃子、比企消防本部の音楽隊や松山高校吹奏楽部の歓迎演奏が流れる。

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 14:30、パレードの終点、中央会場に到着。

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 ステージ前では、東松山観光大使(お立ち台中央)のピオニメイツが迎えてくれた。

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 会場は、パレードや各コースのゴールしたウォーカーで大混雑。

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 ビールとやきとりを買おうとするが、長い行列が出来ていて、テーブルも空いてない。

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 東松山市のゆるキャラ「まっくん」(右)と「あゆみん」は子供たちに人気。

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 帰りに中央会場近くの東松山市総合会館に寄ってみた。大会40年の歩みを振り返る写真や歴代ポスターの展示のほか、ヒマラヤトレッキングの様子を撮影した写真展示やビデオ映像を流していた。

 東松山市在住の登山家の大山光一氏は、本大会に先立って10月に「エベレスト展望トレッキング隊2017」の隊長を務め、第40回大会記念事業として「ウォーキングのまちからヒマラヤへ」を合言葉に、4,000m級の山々のトレッキングを行ったという。

 この日の最高気温は18℃。冬型の天気配置は緩んで高気圧に覆われて、気持ちの良いウォーキング日和。今年もスリーデーマーチに参加して、歩きの楽しさを共感しながら、2日間とも完歩した。

 例年「日本スリーデーマーチ」では、有名人がウォークに参加したり、トークショーなどのイベントも催されている。今年は、元NHKアナウンサーでフリーキャスターの押尾正明氏(さいたま市出身)がスペシャルゲスト。参加しなかったが、初日3日(金)の中央会場で14:00から、氏のトークショーが行われた。母親の介護の話題から健康について体力つくりの大切さを語ったそうだ。

 「観歩ガイドウオーク」の観光ガイド、各コースでの交通誘導、休憩所での湯茶接待などの大勢のボランティア、大会スタッフが、この大会を大いに盛り上げている。
 

 最終日の5日(日)は39,041人、3日間で延べ約10万1千人が参加したそうだ。

 

 

 「ものみ・ゆさん」の日本スリーデーマーチ関連のブログ記事 

  「日本スリーデーマーチ2016」 2016/11/11投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-89c3.html

  「日本スリーデーマーチ2015」 2015/11/12投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/2015-3fcc.html

  「日本スリーデーマーチ2014」 2014/11/10 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-ba9a.html

  「日本スリーデーマーチ」 2012/11/17 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-ba9a.html
 

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