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2017年10月15日 (日)

越谷まちめぐり

 2017年10月3日(火)、埼玉県春日部市と越谷市をめぐる埼玉再発見ウォーク。

 本ブログ記事「地底探検ミュージアム「龍Q館」」の続き。春日部市の「龍Q館」を見学の後、水郷と歴史のまち・越谷市を散策する。

 

 春日部駅13:08発の東武スカイツリーライン(東武伊勢崎線)急行・中央林間行きに乗車、13:18 越谷駅下車。越谷観光ガイドのTさんと合流し、13:25ガイド開始。

 写真は、越谷駅東口前。

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 越谷駅から300mほど東へ行くと左手の平和堂ビルで、日光街道(県道52号線)と交差する。交差点を左に折れ、日光街道を北に向かう。
 

●植木屋人形店

 平和堂ビルの斜め向かいに、越谷びなの元祖「植木屋人形店」がある。江戸時代の安永年間(1772年~1780年)に、越谷で雛人形の製作と販売を始め、現在に至っている。軒先テントに、ひな人形、よろい・かぶとなどのほかに、フランス人形とあるのが面白い。(写真をダブルクリックすると拡大表示します)

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 街道の商店街を北へ向かって歩くと、歴史的な建築物を散見する。
 

●行徳屋建築

 いつの頃か、千葉県の行徳から越谷に来て薪や炭を販売、後に建築屋を始めたという。2階には菱形模様の銅板の戸袋が特徴的。数年前の写真では、この建物の左手隣に古い「白屋旅館」があったようだが、新しい住宅に変わっている。

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●田中米穀店

 昭和以前から店を始め、近くの農家の方が精米に来られていたという。建物は、昭和初期に建築。ここの2階も菱形模様の銅板の戸袋。

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●横田診療所

 西洋風のレトロな雰囲気の木造二階建ての建物。看板には、内科・小児科・婦人科・外科の診療科目がある現役の診療所。

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 1935年(昭和10年)に建てられ、1960年(昭和35年)までは郵便局として使われていたという。
  
 
●油長内蔵(あぶらちょううちくら)。

 「油長(あぶらちょう)」という屋号で油屋を営んでいた旧家・山崎家の蔵。江戸時代末期に建てられた。老朽化により解体される予定だったが、存続を希望する声に押され、地元の住宅関連企業・(株)中央住宅が買い取り、曳家(ひきや)工法で現在の場所に移動させ、2015年(平成27年)に外壁を塗り替えるなど改築、越谷市に寄贈した。

 イベントなどで活用されている。越ヶ谷宿の雛めぐり期間中は、1階部分は「まち蔵カフェ」としてカフェスペース、2階では雛人形や吊し雛が展示されている。

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 この後、野崎ビルのある交差点で左折し、日光街道を外れた100m先の浅間神社へ向かう。


●浅間神社(せんげんじんじゃ)

 市指定文化財のケヤキは、幹回り7m、樹高23m。幹は6本に分岐し、さらに上方で多数の枝を広げ、樹勢はきわめて旺盛。ケヤキは越谷市と埼玉県の木、市内では一番大きなケヤキで、樹齢約600年と推定されているそうだ。

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 ガイドの説明によると、神社には丸い木型に富士山と大日如来をかたどった銅板を張った「懸仏(かけぼとけ)」が伝わっている。裏面に応永32年(1425)の銘があることから、室町時代の創建とされる。

 懸仏は、「御正体 (みしょうたい)」 ともいい、円形板に浮彫の仏像を取付けて、壁面に吊下げて安置した。こうした懸仏は、市内には他に例がなく、市の有形文化財に指定されている。

 浅間神社から、日光街道へ戻る。
  
 
●木下半助商店

 日光街道沿いの「木下半助商店」は、創業が江戸後期の商家。1899年(明治32年)の越谷大火後に再建された。

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 明治前半から金物商を営業、現在も大工道具や建築金物、家庭用金物を扱っている。畳の帳場の上や壁の棚には、いろいろな商品であふれていた。

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 写真を撮れなかったが、この店舗の奥の細長い短冊状の敷地には、母屋と外壁が黒漆喰塗と銅板の土蔵、房州石を積んだ石蔵の蔵が3つ、自前の稲荷神社があり、明治時代のの越谷の商家の面影をよく伝えているそうだ。2015年(平成27年)に、越谷市では初の国の登録有形文化財(建造物)に登録された。
 

●小泉家住宅

 木下半助商店の向かいにある店舗(母屋)と土蔵が並ぶ建物で、1875年(明治8年)築。土蔵は当時のもので、1899年(明治32年)の越谷大火で類焼を免れた。焼失した母屋は同年に再建。左手に赤レンガの防火壁、銅板張り土戸(つちど)など明治時代の防火対策を施した建築が見られる。

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●鍛冶忠商店

 小泉家住宅の1軒挟んだ左隣、明治33年(1900年)に建てられた蔵造りの建物。日用雑貨・荒物などを扱っている。もともとは鍜冶屋だったそうで、屋号はそれにちなんでいる。

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 日光街道沿いには、「会田金物店」や秤屋の「旧大野邸」、街道から離れた大間野町には市の保存民家として名主を勤めた「旧中村家住宅」などなど、商家、蔵、古民家がまだまだあるそうだ。

 野崎ビル前の交差点へ戻り、日光街道を外れて新しい道路「青葉通り」を東に500mほど歩くと、元荒川に架かる「新宮前橋」(写真なし)というのがある。
 

●久伊豆(ひさいず)神社

 その「新宮前橋」に左手に並んで架かる「宮前橋」(下の写真)を渡ると、その先に「久伊豆神社」の森が見えた。

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 14:30、久伊豆神社の第一鳥居をくぐる。木々に囲まれ、まっすぐで長い石畳の参道は  500mほどもある。

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 参道の左手に隣接して「アリタキ植物園」がある。植物学者の有瀧龍雄氏が収集した私有の植物園で、死後越谷市に寄贈された。

 境内の藤の幹は7本に分かれ、株廻り7.3m、枝張は東西20m・南北30mほどあり樹齢200余年の古木。県指定の天然記念物。

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 5月上旬が藤の花の見ごろ、例年藤まつりが行われ多くの人で賑わうという。1837年(天保8年)越ヶ谷町の住民で久伊豆神社内に出店を開いていた人が、下総国流山から樹齢50余年の藤を舟で運んで植樹したと言われている。

 手水舎は、1675年(延宝3年)建造。彫り物の「登龍門」は有名。

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 拝殿は、1964年(昭和39年)に建造された。

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 拝殿にある左右一対の狛犬(下の写真の丸い囲み)は、足に麻を結ばれている。家出や悪所通い、多忙な仕事などで家庭を顧みない家族との絆をしっかり結びなおしたいという願いを込めて、古くから「足止めの狛犬」と呼ばれている。

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 「久伊豆神社」は、古来から「久伊豆大明神」と崇められ、国造りの大神・縁結びの神・福の神として知られる大国主命(おおくにぬしのみこと)を主祭神とし、越谷の総鎮守とされている。

 創建の年代は不詳だが、平安時代中期以降には武士団・武蔵七党の一つの私市党(きさいとう、騎西党)の崇敬も篤く、除災招福の神として武士や庶民の信仰を集めてきたという。応仁年間(1467-1469年)には伊豆国宇佐美の領主である宇佐美三八郎重之が埼玉郡騎西の地を領するところとなり、当神社に古刀を奉献し、篤く尊崇したそうだ。

 近世に入ると、徳川将軍家も篤く崇敬し、二代将軍秀忠、三代将軍家光も鷹狩りに際して参拝、休憩したと伝えられている。

 

 14:55、神社を退出。市立中央中学校のそばを通って青葉通りへ。青葉通りをおよそ1kmほど歩くと「花田苑」の入口。
 

●日本庭園「花田苑」

 「花田苑」は、久伊豆神社から歩いて20分ほど、15:15着。市の中央、花田六丁目にある約2.1haの日本庭園。越谷市が運営し、入園料100円。江戸時代の名主・宇田家(越谷市大成町)の長屋門を原寸で復元したという風格のある門をくぐって、日本庭園へ。

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 当苑は、造園家・中島健氏の設計による。氏は、国内では吉田茂や田中角栄、政財界の要人の邸宅、国内外で数多くの庭園を設計・施工した。施行期間は、1988年(昭和63年)度から1990年(平成2年)度。

 苑内には14,000本の樹木が植えられ、四季折々の風情を楽しむことができる。中央に約4,000平方メートルの池、周囲には170mのせせらぎがある廻遊式庭園。

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 池を中心に、木橋、滝、飛石、浜、小高い築山、松をはじめ数々の植樹など、平成の時代に出来た新しい豪華な庭園である。上の写真の右手に見える数奇屋造りの茶室では、年間20回以上(月1~2回)茶会が開かれているそうだ。 

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 池のむこうにある建物は、苑内にある日本文化伝承の館「こしがや能楽堂」。

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 竹林の歩道を通って「能楽堂」へ。

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●日本文化伝承の館「こしがや能楽堂」

 能楽堂は、檜を使って日本建築の粋を集めた建物。「花田苑」の中にある。能楽だけでなく邦楽・日本舞踊・詩吟・茶道・華道等の伝統芸術の拠点として、また地域コミュニティを促進する場として市民文化の向上に寄与していくことを目的とする施設。1993年(平成5年)5月に開館。越谷市が運営。

 通りから見る「こしがや能楽堂」の門。

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 能楽堂は、花田苑の中にあるので、苑内から入館する。

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 入館すると廊下があって、左手に展示室(写真中央)、右手(写真の反対側)は和室や大広間がある。

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 「展示室」では、能楽に関する道具・舞台の素材などをショーケースに展示する。能の書籍の閲覧、ビデオが視聴できる。

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 展示室に入って右手に舞台に通じる「鏡の間」や「楽屋が数部屋並ぶ。

 総檜(ひのき)造りの「能舞台」を「大広間」から見る。

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 この舞台は、埼玉県内唯一の屋外の能舞台。 檜の能舞台では、足袋を履かなくてはならないとかで、舞台には入れなかった。

 「大広間」の写真は撮らなかったが、舞台を持備えた48畳の和室で、能公演時には観客席として使用出来るそうだ。そのほか、いくつかの多目的の和室もあり、茶会にも利用出来つという。

 能舞台の周りの「中庭見所」は、500㎡余りの石床の見所。公演時には折りたたみ椅子を並べ、観客席として使用される。

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 この能楽堂のホームページの催物情報を見ると、市民の能楽の会、こども能楽教室のほか伝統芸能のイベントやコンサートなどにも利用されている。ほかにも落語、和太鼓、盆栽、将棋・囲碁、マンドリンなどなど、・・・足袋を履いてモダンダンスの演舞というのもあるようだ。

 16:10、退場。花田小学校前バス停から16:18発の路線バス(朝日バス)で移動、16:32 越谷駅前に到着。

 越谷駅から市街地を5kmほど散策したが、秋晴れのこの日は暑くて、けっこう汗だくだった。

 越谷駅16:45発の電車、17:24  大宮駅着。 

 日頃から埼玉県内の縁のなかった春日部と越谷が、どんなところかを知った。この日のウォーキング(自宅まで)は、歩数計では2万5千歩、距離にして15Kmほどだった。
 

 ★ ★ ★

 「越谷市」は、埼玉県の南東部に位置し、東京都心から約25Km。人口約34万人は、さいたま市、川口市、川越市、所沢市に次いで県内第5位。
 
 鉄道は、浅草に通じる東武スカイツリーライン(伊勢崎線)が南北に、横浜・鶴見と千葉・船橋を結ぶJR東日本武蔵野線が東西に横断している。地下鉄日比谷線・半蔵門線、および半蔵門線を経由して東急田園都市線との相互直通運転を行っている。東京のベッドタウン。

 元荒川、中川、綾瀬川、古利根川、新方川(千間堀)、逆川など、多くの河川が流れていることから、「水郷こしがや」と呼ばれる。ほとんどが平地であり、山林、原野はほとんどない。さいたま市、春日部市、川口市、草加市などに接する。

 「越谷」の地名は、1954(昭和29年)年に南埼玉郡の近隣町村との合併により、新しい町が成立した際に、合併前の「越ヶ谷町」と区別するために「ヶ」を取って「越谷町」とした。したがって、旧越ヶ谷町にあたる越谷市の中央部は、現在「越谷市越ヶ谷」である。
 

 「越ヶ谷宿」は、江戸時代に整備された奥州街道および日光街道の宿場町の一つ。江戸・日本橋から数えて3番目の日光街道および奥州街道の宿場町であり、日本橋からの距離は6里8町。草加宿から1里28町、次の粕壁(かすかべ)宿へ2里30町あり、奥州道(後の日光街道)の整備に伴い成立された。

 宿場の範囲は現在の越谷市越ヶ谷から元荒川を渡り、同市大沢に至る範囲。古くから栄えていた越ヶ谷側は旅籠よりも商家の比率が高いのに対し、大沢側は純粋な宿場の形態を持っており、本陣・脇本陣も大沢側に置かれていた。

 また徳川家康が鷹狩のために建てたという「越ケ谷御殿跡」、幕府を開く前の家康が宿泊し夜具が残されていると伝わる「大聖寺」などがあり、徳川家ともかかわりが深い。
 

 ひな人形は、宝暦年間(1751年~1761年)に江戸に伝えられ、たちまち江戸で大流行した。江戸では、京風とは異なる独自の優美さを持つひな人形として発達してきた。最初のひな市は、江戸の十軒店(じっけんだな、今の日本橋室町)を中心として、江戸各地で開かれていた。

 「越谷ひな人形」の起源は、今から200年以上も遡る安永年間(1772年~81年)に、越ヶ谷新町の会田佐右衛門がその十軒店で製法を学び、越谷の地で製作を始めた。その後、越谷ではひな人形づくりが盛んになり、ひな人形を扱う店が多数軒を並べるようになった。「越谷段雛」など越谷特有の人形が生産され、将軍家にも納入されたと伝えられている。

 その隆盛は明治時代になっても続き、年間2万個以上のひな人形が関東一円に出荷されたそうだ。十軒店、鴻巣、越谷で開かれるひな市は「関東三大ひな市」と呼ばれるまでになり、越谷はひな人形生産の一大中心地となった。越谷ひな人形は、1983年(昭和58年)に埼玉県の伝統的手工芸品として指定された。

 県内でも岩槻(さいたま市岩槻区)の人形は、伝統産業として有名であるが、その発祥については諸説あり定かではないという。江戸時代の人形の主要生産地であった鴻巣宿や越ヶ谷宿より、かなり遅れて創業されたようだ。

 関東大震災や太平洋戦争などで、東京の人形業者が岩槻に疎開したり、被災により再建が難しい状況となったりした。東京から岩槻へ注文が相次ぎ、次第に販路を全国に拡大させたそうだ。昭和60年代には、埼玉県の人形製品出荷額は国内の4割を占め、このうち県内出荷額の7割を岩槻が占めるに至ったという。
 
  

 「久伊豆神社」の社務所の脇に、越谷市の文化財(歴史資料)に指定されている「三ノ宮卯之助(さんのみやうのすけ)銘の力石(ちからいし)」がある。力石というのは、人力が重要だった昔の時代、力比べや力自慢に使われた大石のこと。久伊豆神社の力石の重さは50貫目(約190キロ)あるが、これを三ノ宮卯之助が持ち上げて奉納したと言われている。

 三ノ宮卯之助は、現在の越谷市三野宮(さんのみや)の出身で、江戸時代後期に日本一の力持ちと言われ、力石や米俵を持ちあげて全国各地を興業した。越谷市には、久伊豆神社を含めて、三ノ宮卯之助の名が彫られた力石が、現在6つ確認されているという。

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コメント

「地底探検ミュージアム「龍Q館」は3年ほど前に行きました。地下のパルテノン神殿ですよね。越谷の街めぐりいいですね~!阿波踊りもいつか見てみたいです。昨日は本当に冬の様な寒さでしたが、インフルなどもはやり始めており風邪にはご注意!1週間以上は行楽に向かない日々となるようですがまた再び天高い青空を長く楽しめる日々を心待ちにしたいと願っています。

素敵なショットと解説から、様子、雰囲気、伝わってきました。

いろいろ見て、楽しめました。
眺めて、ほっとし心安らぎました。

ご紹介、ありがとうございました。

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