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2017年9月17日 (日)

真田の郷

 2017年8月27日(日)、長野県上田市の「真田の郷(さなだのさと)」をめぐる。 

 

 前日の26日(土)、上信国境の百名山「四阿山(あずまやさん)」に登り、下山後上田市菅平のペンションに宿泊。27日(日)、上田市真田町の「真田の郷」を観光ガイドと共にめぐる。

 写真は、前日の四阿山登山の途中、山間の「真田の郷」を見下ろす。左手は上田平。

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 真田町は、長野県東部の小県郡にあった町。2006年(平成18年)3月に上田市、小県郡丸子町、武石村と合併し、上田市の一部となった。真田氏発祥の地と知られる。戦国の表舞台に現れ、天下にその名を轟かした真田三代は、強きをくじくヒーローとして、また悲劇の武将として庶民に広く愛されている。
 

 6:00、宿泊先のペンション「プチホテル りすの森」で起床。

 7:00~朝食。8:05、車で上田市真田町へ向け出発。

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 8:30、「御屋敷公園」の駐車場に到着。観光ガイドのMさんと合流。

 真田の郷めぐりでは、真田氏の系図を事前によく頭に入れておかないと、説明が混乱してなかなか理解しがたい。本文末尾に真田氏の系図と主な人物のヒストリーを記載する。
 

●御座敷公園(真田氏居館跡)と真田氏歴史館(8:45~10:00)

 真田氏の上田城築城以前の居館跡は、現在でも「御座敷」と呼んで親しまれているそうだ。「御屋敷公園」は、その居館跡を公園として整備されていて、現在はツツジの名所として知られる。長野県指定史跡。

 (写真は、ダブルクリックで拡大表示されます)

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 当時の遺構として、居館跡の四方をめぐらす土塁、大手門や枡形、搦手門のほか東門。また内部は二段に分かれて、上段が東曲輪(くるわ)と下段が西曲輪、厩(うまや)と言われる四角い土塁が残っている。

 当時の石垣が残る南側の大手門。ここは標高763mの標識がある。

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 東曲輪には、天照大神を祀る「皇大神社」が居館跡に建つ。真田昌幸が、上田城に移るときに荒廃することを恐れ、伊勢より勧請したと伝えられる。

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 北側の搦手門(からめてもん)から外へ出る。土塁の外は天然の堀跡。今は大沢川という小川が流れている。

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 館の周囲には武士や商人を住まわせ、城下町を形成していたそうだ。

 御屋敷公園に隣接して、真田三代ゆかりの歴史資料が展示された「真田氏歴史館」がある。入館料250円。

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 戦国の激動を生き抜いた真田三代の足跡を、武具甲冑や書状などの資料が展示・解説されていた。

 

●真田氏本城跡(10:05~10:35)

 1583年(天正11年)に真田昌幸が上田城を築城して居城を移すまで、水利や他の城址に比べて規模の大きさから真田氏の本城跡とされる山城。別名、「松尾城」。真田の郷の中央部の丘陵に位置する。

 現在は公園として整備されており、「真田氏本城跡」と書かれた看板のすぐ近くまで車で登ることができる。

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 平時は麓にある真田氏居館に居住して政務を司り、ここは戦時用の城であった。
 
 前日に登った「四阿山」(右)と左手に「根子岳」を望む。右手前のピークは、「松尾古城」。

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 東太郎山の尾根の一つに築かれ、村上、武田、真田、徳川の攻防の場となった山城「砥石(といし)城」(右手前の山)を望む。その左手に向うに上田市街が広がる。

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 敵の侵入を防ぐ土塁跡。

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 土塁の北側に本郭(ほんくるわ)があり、ここから眼下の「真田の郷」を見下ろす。右手の小山のすそ野には、「根子屋城」、「尾引城」、「信綱寺」、「打越城」などがある。

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 本郭の北側、段差2m下に二の郭、その下に三の郭が続く。

●長谷寺(ちょうこくじ、10:50~11:20)

 1547年(天文16年)真田幸隆が「長谷寺」を創建、かつての菩提寺とした。昌幸の代を経て、1622年(元和8年)信之(信幸)が松代へ移封となり、同地へ「長国寺(ちょうこくじ)」を建立したので、その末寺となり現在に至っている。

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 樹齢150年のシダレザクラが数本植栽されていて、春には桜の名所としても有名。

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 全国でもめずらしいアーチ型の石門。写真では分かりにくいが、六文銭が刻まれている。

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 本殿前には「大わら馬」が奉納されていて、何故か絵馬がたくさん結び付けられていた。

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 境内の裏手に、真田幸隆と昌幸親子の墓がある。

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 中央の石塔が幸隆、左は幸隆の正室、右が昌幸。

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 お賽銭のつもりだろか、1円、5円や10円の小銭を6つ並べた六文銭があちこちに置いてある。

 写真を撮らなかったが、幸隆・昌幸親子の左手に真新しい信繁(幸村)の供養塔が建っている。2013年(平成25年)5月に建てられたそうだが、無理やり「真田三代」のつもりだろうが、せっかくの史跡を見る中で違和感をおぼえる。


●山家神社(やまがじんじゃ、11:25~12:10)

 「山家神社」は、927年にまとめられた『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』に名を連ねる、格式の高い神社。山家郷(やまがごう=真田郷)の産土神(うぶすながみ=その土地を守る神)として、大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀っている。

 養老年間(717年~724年)には、加賀の国の白山神社を迎えて合祀したので、白山様とも呼ばれる。

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 真田一族や歴代上田城主にあつく崇拝された。 

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 前日登った「四阿山(あずまやさん)」の山頂に奥宮があった。修験者が集まる山岳崇拝の聖地、あるいは四阿山を源とする神川(かんがわ)流域に住む人々の水分の神(みくまりのかみ=水の分配を司る神)である。

 山家神社の境内に「真田神社」がある。

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 ここの「真田神社」は、上田城本丸内にある「真田神社」と由来はまったく違う。山家神社の境内には、かつて「白山寺」という神宮寺があった。明治の神仏分離令で廃寺となったため、その跡地にこの「真田神社」が建立されたそうだ。祭神は真田幸隆、昌幸、信幸(信之)、信繁(幸村)。戦後、西南・日清・日露・・・太平洋戦争の真田長村(さなだおさむら)内の戦没者の英霊149柱も合祀。

 観光ガイドの案内で、山家神社の境内を出て周辺の住宅地を歩くと、幸隆のころ「御座敷」の居館を建てる前に一族が住んでいたと推定される場所に「山家の真田氏館跡」の説明板がある。(写真は、ダブルクリックで拡大表示されます)

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 跡地は、傾斜地にもかかわらず石垣が積まれたりして、南北約100m、東西約60m四方の人工的な平らな土地。現在は民家が建っていているので撮影は控えたが、土塁、祠や用水路、矢竹の植え込みなどが残っていて、古銭が出土されたそうだ。

 付近には、敵が侵入しにくい「枡形道」や、身分の高い屋敷に通じる「たつ道」なども残っている。写真は、付近の道路で左手に用水路跡がある。史跡の周囲には、「信州真田」の幟が立つ。

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 山家神社境内に裏手から戻り、神社をあとにする。
 

●信綱寺(しんこうじ、12:15~12:55)

 木立に囲まれた「古城緑地広場」の駐車場に車を駐める。

 「古城緑地広場」は、「信綱寺」のすぐ前にあり、四季の花や遊具施設、遊歩道があって、バーベキューもできる市民憩いの場所。

 「信綱寺」は、室町期の創建。「横尾城」の東にあって、この地の小豪族・横尾氏の菩提寺であった。横尾氏滅亡後、真田信綱が寺を打越(おっこし)に移し、「打越寺」と名付けた。その後、長篠の合戦で討ち死にした兄・信綱のために昌幸が位牌所とし寺堂を改築、「信綱寺」と改めたという。境内には現在、信綱夫妻と昌輝の墓がある。

 この寺の南には、古城と呼ばれる尾根がある。ここは中世に真田氏が居館を構えていたと言われる由緒のある地だという。

 この寺の立派すぎる楼門がそびえる。

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 長い石段を登ると山門がある。

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 山門の手前にある「墓前の桜」。長篠の合戦で命を落とした信綱の首を、家臣(近習)の白川勘解由(かげゆ)兄弟(北沢最蔵と白川勘解由という資料もある)の手により陣羽織に包まれた鎧とともに、この地にあった打越寺まで運ばれた。手厚く葬ったのち、墓標の桜を植え、ここで自刃し殉死したと伝わる。

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 この桜は、エドヒガンザクラで樹齢400年とされる古木だが、春には花を咲かせるそうだ。首を包んだ「血染めの陣羽織」とそれを押し込んだ鎧は、信綱寺の宝物館に収蔵されているそうだ。

 信綱の首は敵から取り返したとか、愛用の太刀、旗も一緒に持ち帰った、または遺体をそのまま運んだとか・・・、戦いの混乱の中で撤退時に、そんなに持ち帰れるものだろうか、真偽のほどは定かでない。

 山門をくぐると、びっくりするほどの立派な本堂。

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 本堂の裏の細くて急な坂道を登ると墓地があり、信綱夫妻と昌輝の墓がある。

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 中央は信綱、左にその夫人、右に昌輝の石塔が並ぶ。

 信綱は幸隆の長子として生まれ、1574年(天正2年)に父が病没すると家督を継いだ。翌年、武田勝頼に従い織田信長と長篠で戦い、鉄砲の一斉射撃により弟・昌輝と共に戦死した。信綱は享年39歳、昌輝は享年33歳であった。

 信綱の弟である昌幸が、信綱の位牌所として「打越寺」を「信綱寺」と改号し、その後1717年(享保2年)の寺の移築にともない、墓所が裏山の現在の場所に移され、夫人と共に厚く弔われていた。後世になって(江戸時代)、その脇に白川勘解由兄弟の墓も建てられた。信綱夫婦の右隣の昌輝の石塔は比較的新しく、昭和60年代に建てられたという。


●そば処「佐助」(13:10~13:50)

 元祖真田流手打ちそば「佐助」(上田市真田町本原)に入店。

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 350年以上前の江戸時代に建てられたという古民家を、1969年(昭和44年)に長野県北部の飯山市からこの地に移築した。茅葺屋根、黒光りする太い柱や梁、囲炉裏のある板張りの部屋、奥座敷など趣のある部屋がある。くるみざる蕎麦800円を注文。

 13:50、観光ガイドのMさんに謝辞を述べて別れ、上田菅平インターから上信越道、関越道へ。

 17:20、自宅着。

 ★ ★ ★

 真田氏中興の祖とする幸隆以降の系図は、以下のようである。

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 東信濃・真田郷の土豪(地方の小豪族)に過ぎなかった真田氏は、幸隆の時に武田信玄の家来として頭角を現し、幸隆のみならずその子・信綱、昌輝兄弟も、信玄の武田二十四将として活躍した。数々の軍功を挙げ、信州から上州にまで勢力基盤を伸ばしていく。この頃は、真田本城が本拠地だった。

 しかし信長との「長篠の合戦」で、信綱・昌輝兄弟があいついで討死、急遽三男の昌幸が家督を継ぐ。武田氏が滅亡した後は、大大名らの草刈場となった信州で、知略に優れた昌幸は織田、北条、徳川と主君を変えるなど、巧みな外交戦術で領土の維持に奔走する。また上田城を築いて、信州の小大名として認められていく。

 真田幸隆(左)と昌幸(右)の親子の肖像画。(出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 豊臣秀吉の死後、関ケ原の戦いで昌幸と次男の信繁が豊臣側(西軍)につき、長男の信幸が徳川側(東軍)に、別れて戦う。上田城で徳川の大軍を撃退した昌幸・信繁親子は、西軍が敗退したことにより、紀州の九度山に配流される。昌幸はその地で没する。信繁は大阪の冬の陣が勃発すると、大坂城に呼ばれて秀吉の遺児・秀頼を守って戦い、大坂夏の陣では家康の本陣まで肉薄するが、力尽きて戦死する。

 関が原の戦いで東軍に属した信幸は、名を信之と改め、上田・沼田の領地を安堵され、家名を存続する。その後、信濃・松代に移封され、93歳で没した。その後真田家は、江戸幕府の治世下10代に渡って真田10万石として生き残った。

 信之(信幸、左)と信繁(幸村、右)の兄弟の肖像画。(出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 ★ ★ ★

 一般に「真田三代」と呼ぶときは、真田幸隆―昌幸―信繁(幸村)を指す。長男の信幸(信之)でなく、父の昌幸に従った次男の信繁(幸村)が入っている。反徳川家の色彩が強い講談『真田三代記』の世界では、昌幸-幸村-大助を指し、猿飛佐助や霧隠才蔵などの真田十勇士と共に大活躍している。江戸時代から、軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に文庫本などが幅広く読まれ、庶民の間でフィクションの真田三代が庶民に広く知れ渡った。なお、信繁よりも幸村の名が広く知られているが、幸村は後世になって軍記物で名付けられたものとされる。

 池波正太郎作の歴史小説『真田太平記』は、1974年(昭和49年)から1982年(昭和57年)ににかけて『週刊朝日』に連載された。1985年(昭和60年)には、NHK大型時代劇『真田太平記』としてテレビドラマ化され、主人公の真田信幸(信之)には渡瀬恒彦が起用された。あらすじは、次の通り。

 武田氏傘下の豪族だった真田家は、武田家が滅んだ後は信州の小大名としての道を歩みはじめる。信長の横死後、昌幸と長男の信幸(信之)、次男の信繁(幸村)は、真田の忍びによる情報収集と謀略によって戦国の乱世を生き抜いていく。

 秀吉が亡くなると、関が原、大坂冬の陣・夏の陣で親子兄弟が敵対するが、生き残った信幸(信之)は江戸幕府の治世下に家名を残す。しかし、真田家と真田忍びに反感を持つ幕府と甲賀衆は真田家取り潰しを策謀、信幸(信之)は真田家の存続の計略をめぐらす。

 『真田丸(さなだまる)』は、2016年の1年間放送されたNHK大河ドラマ。三谷幸喜の脚本。番組名は、大坂の陣で信繁が築いたといわれる大坂城の出城「真田丸」に由来する。主人公・真田信繁(幸村)役に堺雅人、父・昌幸を草刈正雄、兄・信幸(信之)を大泉洋の好配役で、高視聴率を得た。

 ドラマは、昌幸が長年仕えていた武田家が滅亡する直前からスタート。手段を一切選ばず、策略・謀略をめぐらす父親の昌幸を中心にドラマは進む。頑固で真面目な兄の信之と、社交的で発想豊かだが詰めが甘い信繁の性格の対比が面白い。

 秀吉に可愛がられた信繁は出世して、独立した大名のように遇され、また淀君にも好意を寄せられる。一方、信幸の才能を高く評価した家康は、重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女とし、信幸にめとらせた。関ヶ原以降兄弟同士で敵味方に別れるが、最後は主人公・信繁(幸村)の大阪冬の陣・夏の陣での活躍が、このドラマの最大の見せ場となる。

 ★ ★ ★

 今回の観光ガイドの方もよく勉強されていて、我々の要望・質問によく答えていただき、有意義な1日であった。特に、誤った歴史に対して鋭い批判や、歴史の真実を追求されている姿勢にとても共感した。

 江戸、明治・大正の軍記物、絵本の「真田三代記」、「真田十勇士」、最近では「真田太平記」、NHK大河「真田丸」まで、作られた物語・小説・ドラマと史実を混同したり、誤ったままを後世に伝えられることが多い。

 最近、鎌倉幕府の成立や聖徳太子について歴史が訂正される方向にあるが、一方で観光用に後世になって作られた墓石、天守閣(大分の杵築城も中津城天守も正しくない)も、現政権のように権力に立つ側の勝手な解釈がいかに多いか。

 史実は史実、フィクション・観光用とは明確に区別して理解するなり、未来の子供たちに伝えなければならないと思う。

 

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