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2017年7月22日 (土)

中山道の碓氷峠越え-その1

 2017年7月16日(日)、中山道の三大難所の一つ「碓氷峠」越えのハイキング。
 
 

 江戸時代に整備された五街道の一つ「中山道(なかせんどう)」。軽井沢駅(長野県軽井沢町)から「碓氷峠」(標高1,200m)を越え、横川駅(群馬県安中市)までのおよそ19Kmの山道を歩く。 

 中でも碓氷峠は中山道の三大難所の一つで、上州と信州の国境でもあった。現在でも群馬県と長野県の県境にあたる。江戸時代には、横川に関所も設けられていた。
 

 6:35、乗用車2台に6人が分乗して出発。関越道、上信越道を走り、松井田インターで降りる。

 7:50、JR横川駅の駐車場(無料)に到着。横川駅はJR信越本線の終点。

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 8:10発のJRバスで横川駅前出発。バスは、観光客や学生で満員。このバス路線は、1997年(平成9年)信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間の廃止に伴う代替輸送機関として運行している。運賃は510円。

 国道18号の碓氷バイパスを走り、30分ちょっとでJR北陸新幹線と「しなの鉄道」の軽井沢駅前に到着。8:45、軽井沢駅前からハイキング開始。

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 軽井沢駅から20分ほど歩いたところの旧軽井沢のメインストリート「軽井沢銀座商店街」(県道133号線)。この辺りが中山道の宿場だった。この先右手に、現在は軽井沢町観光会館になっている脇本陣「江戸屋」跡がある。

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 10分ほど歩くと、商店街も途絶え、木立に囲まれた道となり、9:20「つるや旅館」。

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 「つるや旅館」は、江戸時代初期に中山道街道筋の宿場町・軽井沢宿の休泊茶屋「旅籠鶴屋」として開業。明治以降は、数多くの文化人が宿泊した旅館として知られる。

 「つるや旅館」から100mあまり先の右手に、「芭蕉の句碑」がある。

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 1843(天保14年)に地元の門下生小林玉蓬が松尾芭蕉の150年忌に建立した。

 「馬をさへ なかむる雪の あした哉」

 雪が降り積もった白銀の朝、往来を眺めると様々な格好の旅人や馬さえも通って行く。

 芭蕉句碑の向かい側に、日本聖公会中部教区に属する軽井沢の教会「軽井沢ショー記念礼拝堂」が、木立の中に佇んでいる。

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  1886年(明治19年)、カナダ出身の宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーは、家族と訪れた軽井沢に魅了されてここを避暑地にし、また教会を設立する。これ以降、軽井沢が外国人の間で知られるようになり、その後別荘地として発展する。現在の礼拝堂は1895(明治28)年、軽井沢最初の教会建造物として建立。その後、修復を重ねながら今日に至る。

 信濃川水系の矢ケ崎川に架かる「二手橋(ふたてばし)」を渡り、その先で車道(県道133号線)と分かれて、9:38「碓氷峠遊覧歩道」に入る。碓氷峠見晴らし台へ向かう。

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 所々に別荘が点在する遊覧歩道の前半部は緩やかなハイキングコース。

 「野生動物(クマ)生息地域 熊は音に敏感で臆病です携帯ラジオ・鈴・仲間等の会話などで音をたてながら歩きましょう」

 の看板がある。 この看板はハイキングの途中、散見する。

 見晴らし台が近づくにつれて、道幅が狭くなり、つり橋や沢など自然豊かな道となる。9:52、吊り橋 を渡る。

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 やがて碓氷峠遊覧歩道は石畳の坂と丁字路となり、右折して上りつめると出発から2時間ほどの10:45、視界が開けた広場の「碓氷峠見晴台」に到着。 

 見晴らし台の入口に万葉歌碑があり、2首が刻まれている。

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 「日の暮(ぐ)れに 碓氷(うすひ)の山を 越ゆる日は 夫(せ)なのが袖も さやに振らしつ」 (巻14・3402 読人しらず、上野国の相聞往来の歌)

 (意味)碓氷峠を越える日は、夫が袖を目につくほどハッキリと振ってくれた。 「日の暮れに」は、碓井(うすひ)に掛かる枕詞。

 「ひなくもり 碓氷(うすひ)の坂(さか)を 越えしだに 妹(いも)が恋(こひ)しく 忘らえぬかも」 (巻20・4407 他田部子磐前、上野国の防人)

 (意味)碓氷の坂を越えるときに、国に置いてきた妻が恋しくて忘れられない。 「ひなくもり」は、日が曇った薄い日差し、薄い(碓氷)に掛かる枕詞。
 

 広々とした「見晴らし台」にある長野県と群馬県の県境、昔の信州と上州の国境。

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 見晴台から望む南西方向は奇岩の山「妙義山」(標高1103m)。北東に活火山の「浅間山」(2568m)が迫る。

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 天気が良ければ、八ヶ岳や北アルプスなども一望できるそうだ。

 「見晴らし台」にある「詩聖タゴールの碑」。アジアで初めてノーベル賞(文学賞)を受賞(1912年)したインドの詩聖タゴールの生誕120年を記念して建立された。

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 1916年(大正5年)に軽井沢を訪れた。日本には3度来日、日本の自然美を愛し、第1次世界大戦や日本の軍国主義を批判、平和主義を説いた。1941年(昭和16年)、80歳で逝去。

 

 石畳の坂を下ると、車道(県道133号線)と合流。車が通る道路沿いには、名物の「峠の力餅」を売る茶屋が数件ある。店の外にあるメニューを見ると、ひと口サイズの餅を餡子、黄な粉、大根おろし、ごま、くるみ等で包んであって、一皿に10個ほどで500円くらい。

 9:12、車道の左手にある「熊野神社」に到着。本宮が群馬と長野にまたがる珍しい神社。かつて多くの旅人達が、ここで旅の安全を祈った。 参道入口には大きな「安政遠足(とおあし)決勝点」の看板が立つ。※「安政遠足」については、後述。

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 参道石段の中心に県境があり、一つのお宮ではあるが、2つの宗教法人の神社となっている。

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 県境の左側が長野県で「熊野皇大神社」、右側が群馬県で「熊野神社」。それぞれの宮司、役員、氏子代表で維持されているという。拝殿の賽銭箱も、県境を挟んで2つある。

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 「熊野皇大神社」境内に、県天然記念物樹齢800年の御神木シナノキがある。

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 陶器製のヤタガラス(八咫烏)に入ったおみくじ(500円)を引くと、”大吉”。

 ヤタガラスは、日本神話で神武天皇を紀州熊野から大和橿原まで導いたという三本足の烏(カラス)。ここ熊野神社では、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の折り、碓氷峠で濃霧にまかれたときヤタガラスが峰へ導いたことから、熊野大神を祀ったのが由緒。

 11:20~境内で、コンビニおにぎりの昼食。11:45、熊野神社を出る。

 左右に茶屋を見ながら車道を100mほど進むと、狭い山道の下り坂 。

 

 この先、碓氷峠から横川駅までは、

 本ブログ記事「中山道の碓氷峠越え-その2」につづく。

 

 ★ ★ ★

 「中山道」は、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道。草津宿で東海道と合流する。本州の東海岸沿いの南回りの「東海道」に対し、北回り中央部山脈の間を貫通する。67箇所の宿場が置かれ、距離は135里(約530km)である。

 距離にして東海道よりも約40kmほど長く、宿場も16宿多い。宿場数が多かったのは、険しい山道が多いうえ、冬場は寒さも厳しく、降雪時に通行が困難であったため。東海道は大井川などの川留めや箱根峠などの難所が多いうえ、幕府による「入鉄砲出女」の取り締まりが厳しかったので、遠回りルートであった中山道を歩く旅人も多かったそうだ。

 

 「安政遠足(あんせいとおあし)」は、1855年(安政2年)安中藩主・板倉勝明が藩士の心身鍛錬の目的のため、藩士96人に安中城門から碓氷峠の「熊野権現」(熊野神社)まで7里余りの中山道を走らせた徒歩競走。総走行距離は30Km程度ながら、最終的にスタートとゴールの標高差は1000m以上ある。

 その記録が1955年(昭和30年)、碓氷峠の茶屋から発見された。これは走者に意義を持たせることが目的で、順位やタイムは重要視されていなかったという。ゴールした者には力餅などがふるまわれたそうだ。

 安政遠足は、日本におけるマラソンの発祥といわれ、安中城址には「安中藩安政遠足の碑」と「日本マラソン発祥の地」の石碑が建てられている。「日本最古のマラソン」として藩主の偉業を後世に伝えるため「安政遠足保存会」を組織、1975年(昭和50年)からは「安政遠足 侍マラソン」が毎年5月第2日曜日に開催されている。仮装をしながら走れることが特徴。

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