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2017年7月24日 (月)

中山道の碓氷峠越え-その2

 2017年7月16日(日)、中山道の三大難所の一つ「碓氷峠」越えのハイキング。
 
 

 江戸時代に整備された五街道の一つ「中山道(なかせんどう)」。軽井沢駅(長野県軽井沢町)から「碓氷峠」(標高1,200m)を越え、横川駅(群馬県安中市)までのおよそ19Kmの山道を歩く。 

 本ブログ記事「中山道の碓氷峠越え-その1」のつづき。

 

 11:45熊野神社を出て、左右に茶屋を見ながら車道を100mほど進むと、狭い山道の下り坂 。

 これで碓氷峠のピークを越え、群馬県側の下り道に入る。

 11:51、分岐点。ここには、壊れかけた道標や熊に注意の看板、「思婦石」と「仁王門跡」の松井田町観光協会の案内板、いくつかの石碑や祠が並ぶ。

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 「仁王門跡」の案内板は、「もとの神宮寺の入口にあり、元禄年間再建されたが明治維新の時に廃棄された。仁王様は熊野神社の神楽殿に保存されている」とある。神宮寺とは、神仏習合で神社に付属して建てられた寺院のこと。

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 「思婦石(おもふいし)」は、群馬郡室田の国学者・関橋守(せきのはしもり)の直筆の歌碑で、安政4年(1857)の建立。
 
 歌碑には、「ありし代に かへりみしてふ碓氷山 今も恋しき 吾妻路のそら」が刻まれている。

 『日本書紀』では、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、荒れた海を鎮めるために入水した妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)を、碓氷峠で「吾妻はや(我が妻や)」と嘆いたという。東国を指して「あずま」としたのは、この故事にちなむそうだ。この歌は、尊が妻を恋い偲んで詠んだもの。

 道標は、左の道は「留夫山」(とめぶやま、1591m)から「鼻曲山」(はなまがりやま、1655m)への尾根道、中央の道は「霧積温泉」へ、右に行けば「旧中山道」。

 分岐を右にとり、旧中山道のコースへと進む。「長坂道」の案内板がある。「中山道をしのぶ古い道である」と簡単な説明。一方、江戸末期に皇女和宮が降嫁される時に拓かれた「和宮道」というのがある。比較的広く安全な道で、現在「安政遠足」のコースになっているようだ。地図で確認すると、霧積温泉の方向に15分ほど進んで分岐を右折、そこから30分ほどで旧中山道に合流する。

 かつて旅人を苦しめた難所は、最初はえぐれた急坂の山道。樹木に覆われ昼なお薄暗い。

 12:08、人馬の労をねぎらう休憩所だった「人馬施行所跡」の案内板。

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 「笹沢のほとりに、1828年(文政11年)江戸呉服屋の与兵衛が,安中藩から間口17間、奥行き20間を借りて人馬が休む家をつくった」とある。貧しい旅人の為の茶屋だったようだ。

 12:13、「化粧水跡」の案内板。「峠町を登る人々がこの水で姿・形を直した水場」。草むらの下の沢には、水がちょろちょろと流れていた。

 12:22、「陣場が原」と「子持山」の案内板。ここで、「和宮道」と合流する。

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 この辺りは、子持山(こもちやま、標高1107m)頂上付近の「陣馬ヶ原」である。「太平記に新田方と足利方の碓氷峠の合戦が記され、戦国時代には武田方と上杉方の碓氷峠合戦記がある。笹沢から子持山の間は萱野原で、ここが古戦場といわれている。」

 「子持山」に案内板には、万葉集に「兒持山 若かえるでの もみづまで 寝もと吾は思う 汝はあどか思う (巻14-3494 読人不知)」とある。

 (意味) この山のカエルデ(カエデのこと)の若葉が紅葉するまで、ずっと寝ていたいと私は思う。あなたはどう思うか。山の名前に「子持ち」をかけ、寝ることで子を持とう、つまり遠回しのプロポーズ。

 12:29、「一つ家」の案内板には、「ここには老婆がいて、旅人を苦しめたと言われている」。周囲に何も無い一軒家に住む老婆が、旅人に何をしたのだろうか、意味不明。

 12:36、「山中坂」の案内板。

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 「山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂が「山中坂」で、この坂は「飯食い坂」と呼ばれ、坂本宿から登ってきた旅人は空腹ではとても駄目なので、山中茶屋で飯を食って登った。山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。」

 12:39、「山中茶屋」と「山中学校跡」の案内板。

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 飯場のような廃屋がぽつんと建っているが、まさかこれが明治の学校ではあるまい。

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 「山中茶屋」は峠の真中(坂本宿と軽井沢宿の中間)にあった茶屋で、1662年(寛文2年)には13軒の立場茶屋(たてばちゃや)ができた。明治のころには小学校もあったという。立場茶屋とは、茶店(ちやみせ)から発展した各種の飲食遊興の店。

 付近には石垣などの屋敷跡、墓石塔、畑跡なども残っている。

 12:45、「入道くぼ」の案内板。「山中茶屋の入り口に線刻の馬頭観音がある。これから、まごめ坂といって赤土のだらだら下りの道となる。鳥が鳴き、林の美しさが感じられる。」とある。

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 線刻の馬頭観音は、石の表面が磨滅していてよく確認出来なかった。

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 山道は、再びゆるやかになる。このあたりで、左から「明治天皇御巡幸道路」が合流してくる。

 13:08、「栗が原」の案内板。「明治天皇御巡幸道路といわれた道で、国道の碓氷橋へ出る。中山道と追分の形になっていて、明治8年群馬県で最初の「見回り方屯所」があった。これが交番の始まりであるといわれる。」

 御巡幸道路は明治になって出来た新しい道だが、崩落しているのか現在は通行禁止になっているらしい。

 峠に上って来るランナーのために、「安政遠足」の看板は所々に設置してある。

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 13:30、「座頭ころがし(釜場がんば)」の案内板が立っている。「急な坂道となり、岩や小石がゴロゴロしている。それから赤土となり、湿っているので、すべりやすい所である。」

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 急な坂道には、落ち葉が腐葉土となり滑りやすいので、足元に注意しながら下る。


 道は平らになり、左手の山道に入るところに、13:36「一里塚」案内板が立っている。この山道は慶長以前の旧道の「東山道」で、途中に一里塚がつくられているという。

 13:39、「北向馬頭観音」の案内板。「馬頭観音があるところは、危険な場所である。一里塚の入口から下ると、ここに北向馬頭観世音が岩の上に建っている」。1818年(文化15年)建立。

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 13:39、「南向馬頭観音」の案内板。「この切り通しを南に出た途端に南側が絶壁となる。昔この付近は山賊が出たところと言われ、この険しい場所をすぎると、左手が岩場となり、そこにまた馬頭観世音が道端にある」。1791年(寛政3年)建立。

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 13:44、「掘り切り」の案内板。「天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めで、北陸・信州軍を,松井田城主大導寺駿河守が防戦しようとした場所。道は狭く両側が堀り切られている。」

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 13:57、「碓氷坂の関所跡」の案内板には、「昌泰2年(899)に碓氷の坂に関所を設けたといわれる場所と思われる。」とある。平安時代の話である。

 案内板の脇に休憩所(東屋)と道標(坂本宿2.5Km、熊野神社6.4Km)。ゴールは近い。

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 14:03「四軒茶屋跡」「刎石(はねいし)茶屋跡」の案内板。この付近は刎石山の頂上。 ここに四軒の茶屋があった屋敷跡、現在でも石垣や墓が残っている。今は杉林となっているが、昔は旅人たちで賑やかだったのだろう。平坦で歩きやすく、気持ちがよい道が続く。

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 14:06、「弘法の井戸」がある。「諸国をまわっていた弘法大師から、ここに井戸を掘ればよいと教えらたと伝えられている霊水である」。今でもきれいな水が出ているそうだが、トタン板で覆ってあった。

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 14:09、「風穴(ふうけつ、かざあな)」。「刎石(はねいし)溶岩のさけめから湿った水蒸気が噴き出している穴が数カ所ある。」とされるが、ちょっと手をかざしてみたが何も感じない。

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 14:10、馬頭観音の大きな石塔。案内板はなし。

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 さらに坂を下ると急に木々が途切れ、14:11眼下に坂本宿が良く見える 「覗(のぞき)」という有名な場所に着く。江戸時代から旅人の心を癒した絶景ポイント。

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 一茶はここで、「坂本や 袂の下の 夕ひばり」と詠んだ。

 この先は、石ころが混ざった急な下り坂となる。 

 14:14、「上り地蔵下り地蔵」の案内板。案内板には、 「十返舎一九が、「旅人の 身を粉(こ)に砕く(はたく) 難所道(なんじょみち) 石の碓氷の 峠なりとて」と・・・その険阻な道は刎石(はねいし)坂である。刎石坂を登りつめたところに、この板碑のような地蔵があって旅人の安全を見つめているとともに、幼児のすこやかな成長を見守っている。」とある。

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 大小の岩がたくさん転がっているが、辺りに板碑のような地蔵は見当たらない。

 14:18 、「刎石坂」の案内板。

 「刎石(はねいし)坂には多くの石造物があって、碓氷峠で一番の難所である。むかし芭蕉句碑もここにあったが、いまは坂本宿の上木戸に移されている。南無阿弥陀仏、大日尊、馬頭観世音の石碑がある。ここを下った曲がり角に刎石溶岩の節理がよくわかる場所がある。」

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 14:19、 「柱状節理」 の案内板がある場所に着く。「火成岩が冷却、固結するとき亀裂を生じ、自然に四角または六角の柱状に割れたものである。」

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 14:36、「堂峰番所跡」の案内板。「堂峰の見晴らしのよい場所(坂本宿に向かって左側)の石垣上に番所を構え、中山道をはさんで西側に定附同心の住宅が2軒あった。関門は両方の谷が迫っている場所をさらに掘り切って道幅だけとした。現在も門の土台石や石垣が残されている。」

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 横川にある「碓氷関所」の出先機関だった関所が置かれ、関所破りを見張っていたそうだ。

 急坂の山道を下りきると、14:40やっと国道18号(旧道)に出る。

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 ここはバス停「中山道口」で、東屋風の停留所になっている。入り口には「安政遠足」の標識が立っていて、峠まで行くにはこの標識に従えばよい。

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 バス停の東屋で休憩15:00まで休憩。

 

 ここから国道18号を下り、坂本の旧宿場町の面影が残る町並みを歩き、上信越自動車道をくぐってさらに歩くと、横川駅へ到着する。しかし坂本の集落までの国道は、歩道か無く、車通りも比較的多い。

 中山道口のバス停から、「アプトの道」の中間部に降りられる。

 「アプトの道」は、旧信越本線のアプト式鉄道時代の廃線跡を利用した遊歩道。横川駅~旧熊ノ平駅の間の約6Kmを遊歩道として整備された。国の重要文化財である「旧丸山変電所」をはじめ3つの橋梁と10の隧道がある。代表的な鉄道煉瓦構造物である「めがね橋」(碓氷第3橋梁)などの碓氷峠鉄道遺産に触れることができる。

 「アプトの道」を歩くとにして、15:03旧信越線のトンネルをくぐる。

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 15:07、北原白秋歌碑と「白秋の歌「碓氷の春」について」の案内板がある。

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 「うすいねの 南おもてと なりにけり  くだりつゝ思ふ 春のふかきを

 大正12年春、当時39歳だった白秋が信濃を訪れた帰り、ここ碓氷峠で「碓氷の春」と題して詠んだと言われている。」

 途中に、「峠の湯」とすぐ近くにトロッコ列車の終点「とうげのゆ」駅がある。

  碓氷峠の森公園交流館「峠の湯」から「鉄道文化むら」に続くおよそ2.6Kmの廃線道路をひたすら歩く。 かつて碓氷峠を上った機関車の面影を想い浮かべながら。

 途中、観光客を乗せたトロッコ列車が通り過ぎる。

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 廃線となった旧信越本線は複線で、アプトの道と一方はトロッコ列車の線路に利用されている。

 15:25、「旧丸山変電所」は国の重要文化財。

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 碓氷線が幹線鉄道ではじめて電化されたことに伴い、明治45年に建設された。煉瓦造り建築の最盛期のもので、純煉瓦造り。

 15:43、「鹿嶋組招魂碑」と「碓氷路交通殉難者鎮魂碑」が、碓氷関所跡の小道を挟んで南側に建つ。

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 右の「招魂碑」は、明治の困難な碓氷線建設工事で命を落とした多数の犠牲者を供養するため、1892年(明治25年)に魚住政吉が建立。
 
 左の「鎮魂碑」は、碓氷の交通機関建設工事で殉職、思わぬ災害や交通事故に遭遇した犠牲者を慰霊するため、信越本線の廃線に伴い「うすいの歴史を残す会」が1996年(平成8年)建立。

 碓氷関所跡は素通りし、15:45「碓氷峠鉄道文化むら」に並ぶ鉄道車両が見えてくる。ゴールはあとわずか。

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 15:50、ゴールとなるJR信越線横川駅の駐車場に到着。16:00、車で坂本宿のある国道18号線(旧道)を通って、3km先の日帰り温泉「峠の湯」へ。

 16:05~17:05 、碓氷峠の森公園交流館「峠の湯」(600円)で汗を流してすっきり。

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 ぬるぬるしたアルカリ性の泉質。風呂から上がった所で夕立があり、山の中で遭わずに良かった。

 横川駅で昔ホームで立ち売りし、今では横川駅近くの「おぎのや」のみやげで屋などで売っている陶器の釜を使った有名な駅弁「峠の釜めし」がある。この日帰り温泉の売店にも置いてあった。これを2個(1個1,000円)夕食用に購入。

 17:05、「峠の湯」を出発、 「おぎのや」横川店に寄ったあと往路を還る。帰りは日曜の夕方とあって高速道路が渋滞、予定より遅れる。

 19:40、自宅着。

 ★ ★ ★

 「山中坂」付近から先だったろうか、正確な場所を忘れたが、車が通れるほどの広い山道で、左側にしっかりしたコンクリートの擁壁が造られていた。こんな山道にいつどんな目的で造ったのか。疑問に思いながら歩いていると、さらに広場のような場所に朽ちたバスの廃車を発見。「見晴らし台」や「別荘分譲地」の錆付いた看板もある。乗り捨てられて乗用車や別荘と思われる廃屋が数軒現れた。この辺りで、別荘開発やリゾート開発があったのだろうか。熊野神社からこの辺りまでは、車が通れたという話もある。

 山道の谷側が一部崩落していて狭くなり、ガードローブを張ってあるような場所がいくつかあった。昔は、参勤交代の大名行列も通ったであろうから、今よりも道が整備してあって、もっと道幅が広かったのだろう。もちろん今のような杉の植林はしてなかっただろうが、昔の中山道の峠越えの風景を思い描きながら歩いた。

 歩数計を見ると3万2千歩、距離は約19Km。所要時間は休憩入れて約7時間(軽井沢駅前8:45発、横川駅前15:50着)、正味は6時間くらいだっただろうか。こんな長い距離を歩いたには久しぶり、バテもせず完歩した。その後2、3日、適度な筋肉疲労が残ったが。

 雨も降らず、木立の中と曇り空で日差しも強くなかったが、風がなかったのでもう汗がダラダラ。あとで自分の足をよく見ると、左右の足を2ヶ所づつ山ヒルに吸われていた。いずれも靴下の上からだったが。

 街道には史跡がたくさんあったが、残念ながら石碑や石仏以外は草木ばかりで、あまり絵にならない写真だった。

 

 

 ★ ★ ★

 信越本線の廃線道路「アプトの道」の途中に「碓氷線工事」と「アプト式とエントランス」の説明板があって、以下のように記載されていた。

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 「碓氷線工事」

 碓氷線の工事は1年6ケ月程で完成したといわれています。当事は一日、約1万4、5千人の人が働いていました。鹿島組の他日本で有数の大小の請負業者が何社も入っており、全国から集まった職人達が厳しいしい上下間係のもと働いていました。めがね橋周辺にも多くの飯場があり、工事は昼夜行なわれていたようです。横川駅近くの明治25年(1892年)に建てられた鹿島租の「招魂碑」には「魚住八十松他五百名」(受難者)とありますが、工事に携わった渡辺信四郎の報告書には「約二十名ニ過ギザルベシ・・・ 」とあり、犠牲者の数は今でも謎となっています。

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 (大正時代の軌道アプト改修工事風景)

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 「アプト式とエントランス」

 碓氷線の急勾配66.7‰ (パーミル、1,000mで66.7m上がる)に対処するためドイツ系スイス人、ローマンアプトの考案した方法(英語読みはアブト)。レールの間にラックレールを敷き、機関車にはピニオンギヤを設け、かみ合わせて上り下りをしました。またアプト式の入り口をエントランスといい、バネが入っていて、当初は無事かみあわせたかどうかを確認する、エントランス番がいました。アプト式は、昭和38年EF63型による粘着運転こ切り替わるまで使用されました。

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 (丸山エントランスと独製1OOOO型電気機関車)

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 明治の初めの頃、東京と京都を結ぶ幹線鉄道のルートのひとつとして、交通の要衝であった碓氷峠に鉄道を敷設する計画が検討された。しかし難工事が予想されることから断念。明治20年代に入ると再度、鉄道敷設計画が持ち上がる。

 急坂を登るのにスイッチバック式やループ線などの案も検討されたが、地形的な問題があった。ドイツのハルツ山岳鉄道を参考に、2本のレールの間に敷かれたラックレール(凹凸のついたレール)と車軸に取り付けた歯車をかみ合わせて機関車を推進するアプ方式が採用された。1891年(明治24年)に着工して、トンネル数26、レンガ造りの橋梁18を要する難工事の末、1年9ヶ月で完成。1893年(明治26年)、横川-軽井沢間の碓氷峠越えの鉄道が開通した。

 明治40年代に入ると、輸送力のアップや安全性の面から電気機関車の導入を計画。横川火力発電所を新設、碓氷線の両端にあたる丸山と矢ヶ崎の2カ所に変電所を設け、1912年(明治45年)、日本初の幹線電化区間となる。当初はドイツから輸入した電気機関車EC40型が走っていたが、やがて国産のED42型を開発、碓氷峠を49分で結んだ。

 しかしアプト式の機関車は特殊で、線路の保守の面からも不利な点が多かった。1966年(昭和41年)には碓氷線を複線化し、アプト式から一般的な車両と同じようにレールと車輪の粘着力による粘着運転方式に変わる。補助機関車を連結して粘着運転することで輸送力の改善した。補助機関車のEF63形やEF62形電気機関車により、横川-軽井沢間の所要時間は登り17分、降り24分と大幅に短縮された。

 1997年(平成9年)長野行き新幹線が開通。信越本線横川~軽井沢間が廃線になった後、「碓氷峠鉄道文化むら」が開設され、鉄道資料館などでアプト式の展示や、機関車の屋外展示を行っている。

 ★ ★ ★

 

 「峠の釜めし」は、群馬県安中市松井田町にある「株式会社荻野屋」が製造・販売する駅弁。益子焼の釜に入った薄味醤油の炊き込みご飯。具は、鶏肉、ささがき牛蒡(ごぼう)、椎茸、筍、ウズラの卵、グリーンピース、紅しょうが、栗、杏(あんず)。プラスチック容器入りの漬物(キュウリ・ごぼう・小ナス漬けなど)が付く。

 長年変わらない素朴な味で、横川や軽井沢の近くに行くと、懐かしくて食べたくなる。

 土釜に入った「峠の釜めし」。(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 荻野屋は1885年(明治18年)、横川駅の開業時に創業した老舗。初期の駅弁は、おにぎり2個にたくあんを添えたもの。戦後、国内の旅行者数が増えていく中、駅弁はどこも似たようなものだった。横川駅は碓氷峠を越えるため、ED42形電気機関車への付け替えが必要でホームに長時間停車する駅という好条件にもかかわらず、駅弁は飽きられていた。

 右が現在の荻野屋本店と左のJR横川駅。(写真の出典:Google)  

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 今から55年ほど前、荻野屋4代目社長の故・高見澤みねじは、自らホームに立ち、また停車中の列車に乗り込み、旅行者ひとりひとりの駅弁へのご意見を聞いて回った。そこで、彼女は「温かくて、家庭的な、楽しいお弁当が求められている」という結論に達した。これが新たな駅弁開発のきっかけとなり、1958年(昭和33年)益子焼の土釜に入った「峠の釜めし」が誕生した。

 当時の折り詰めという常識を破り、保温性にも優れた陶器で温かいまま食べられる画期的な駅弁は、文藝春秋に掲載されたことから徐々に人気商品となって、やがて爆発的に売れていく。1967年(昭和42年)には、フジテレビ系のドラマ『釜めし夫婦』(池内淳子主演)のモデルにもなった。

 さらにモータリゼーション進展を受け、1962年(昭和37年)国道18号沿いに「おぎのやドライブイン横川店」を開設。鉄道以外の販路へと展開していく。

 1997年(平成9年)9月30日限りで信越本線の横川 - 軽井沢間が廃止され、横川は終発着駅となる。横川駅での販売量は往時に比べて激減するが、長野行き新幹線の開通によって、高崎 - 軽井沢間にて「峠の釜めし」の車内販売を開始された。

 現在「峠の釜めし」を購入できる場所は、荻野屋の直営みやげ店や関連会社店舗、上信越道の横川サービスエリア、横川駅・軽井沢駅・安中榛名駅・長野駅・清里駅などの売店、東京駅・上野駅・大宮駅の駅弁専門店、北陸新幹線「あさま」の車内販売、碓氷峠鉄道文化むら・峠の湯のほか、百貨店などが開催する「駅弁フェア」などがある。

 関連ブログ記事「上信国境・鼻曲山」 2015/07/17投稿 
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-a08d.html

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