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2017年7月の5件の投稿

2017年7月28日 (金)

熊谷うちわ祭り

 2017年7月21日(金)、関東一の祇園「熊谷うちわ祭り」(埼玉県熊谷市)に行く。
 

 夕方の4時頃、国道17号沿いの「八木橋百貨店」の前に着く。

 百貨店前の手動の大温度計。この日の14時、熊谷地方気象台発表の気温は35.9℃。

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 この大温度計は、「暑いぞ!熊谷」のシンボル。設置して10年の今年を区切りに廃止される予定だったが、市民から惜しむ声が多く寄せられ存続することになったという。

 国道17号の歩道を中心に、数百店の露店が出店しているという。

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 JR熊谷駅に行って、駅正面口(北口)の階段アート「金魚とスイカ」を見る。

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 涼しさを感じてもらおうと、7月1日から「階段アート」が登場した。他にも熊谷駅南口階段、市内のJR籠原駅の構内4カ所の階段にも別の作品が描かれているという。
 

 21日(金)は、祭りの中日(2日目)。午後から市街では交通規制が敷かれる。10台の山車や屋台が、笛や太鼓、鐘の「熊谷囃子」を鳴らして、歩行者天国となった国道17号線を東へ西へと巡行する。

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 本格的に賑わうのは夕方6時頃からで、観客も次第に多くなってきた。「熊谷うちわ祭り」は、2台以上の山車・屋台を向き合わせたり、並べたりして囃子を競い合う「叩き合い」が特特徴。夕暮れになると、12台の山車・屋台が動き始める。昼の巡行とは異なり、国道17号線の各所で、次々と「叩き合い」を繰り広げながら賑やかに巡行する。

 国道17号線での仲町区の山車と荒川区の山車の並んでの「叩き合い」。

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 第二本町区の山車(左)と荒川区(右)の山車の向かい合っての「叩き合い」。

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 イオンの前で待機していた本石区の屋台が動き出す。

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 桜町区の屋台は、八木橋百貨店から300m離れた屋台庫からやって来た。

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 「叩き合い」のたびに山車・屋台が合流し、東西からそれぞれ合流してきた12台の山車・屋台は、夜20時半頃には八木橋百貨店前で勢揃いし、扇形に並んで叩き合いを行い最高潮となるそうだ。

 3時間ほど滞在していた、混み合う前の夜7時ころ、早めに帰ることにする。

 山車や屋台を追いかけて歩きまわったので、けっこう疲れた。

 

 翌日22日(土)が最終日で、一番賑わうという。クライマックスの夜9時頃には、観客も身動きできないほど混雑するそうだ。来年また機会があれば、最終日に行きたいと思う。

 

 ★ ★ ★

 文禄年間(1593年~)、京都の「八坂神社」を勧請し、市内鎌倉町にあった愛宕神社に合祀された。「熊谷うちわ祭」は、熊谷の「八坂神社」(愛宕八坂神社)の例大祭。京都八坂神社の「祇園祭」の流れを受け、江戸中期(1750年頃)より始まったとされる。当初は神輿(みこし)中心の祭りだったが、天保年間(1830年~)に山車や屋台を購入または建造して、山車・屋台中心の祭りの形態に代わっていった。氏子たちや町を挙げての盛り上がりで年々盛大になり、3日間で延べ70万人の集客を誇る「関東一の祇園」と謳われるまでになった。

 毎年7月19日~23日に、全日程5日間にわたり執り行われるが、一般向けの行事は20日~22日の3日間である。クライマックスは、22日の夜。

 祭期間中に各商家が疫病除けの赤飯を炊いて、買い物客に振る舞ったので「熊谷の赤飯ふるまい」として名物になった。後に赤飯の代わりに、当時は生活必需品だった「うちわ」を客に出し、評判となったため「熊谷うちわ祭」と呼ばれるようになった。現在でも、店名や企業名が書かれた宣伝用のうちわが、大量に観客に配られている。

 なお「熊谷うちわ祭り」では、上部が唐破風の屋根のみを「屋台」。屋根の一部があるが、最上段に人形を飾るようになっていて、人形は上げ下げが出来る仕組みになっているのが「山車」と呼ばれているようだ。車輪は3輪あって、小さい前輪は可動式で小回りが利くようになっている。

 

2017年7月27日 (木)

古代蓮の里2017

 2017年7月14日(金)、昨年に引き続き、埼玉県行田市の「古代蓮の里」公園へ行く。

 

 8時半から10時半ころまで、古代蓮会館を含め園内を見学。蓮の花は見ごろを過ぎているが、観光客は少なくはない。駐車料金500円。

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 駐車場の係員が言うには、今年は雨が少なかったので開花が1か月早かったそうだ。

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 桜のように一斉に咲いて、散るわけではない。開花中やこれから開花する花が、まだちらほらある。

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 「古代蓮会館」に入館する。入館料は400円だが、駐車場利用券の提示で半額。

 古代蓮ふれあいシアターコーナーでは、古代蓮のロマンと美しさを120インチ3画面のスクリーンで再現。蓮の一生を、映像でよく理解できた。

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 行田の自然コーナー。行田の自然や、そこに暮らす生物の様子を紹介。

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 古代蓮観察コーナー。種から発芽、地下茎が伸び、葉がでて、芽がでて花が咲き、やがて枯れていくの蓮の一生をレプリカで観察。

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 「古代蓮会館」の高さ50mの展望室に上り、東側の田んぼで見る。

 行田市は1998年(平成20年)から「田んぼアート」に取り組んでおり、今年が10周年目。2015年には「世界最大の田んぼアート」としてギネス世界記録に認定された。

 今年のテーマは、『日本書紀』や『古事記』で、ヤマタノオロチ退治の説話で登場する「イナダヒメノミコトとスサノオノミコト」。田んぼアートはこれからが見頃。
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 今年は、公園南側の田んぼに、どこの広告だろうか、こんなアートもある。

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 『陸王(りくおう)』は池井戸潤の小説で、2017年10月にTBS系でテレビでドラマ化される予定だという。単行本の表紙デザインとドラマ主演・役所広司氏の似顔絵が描かれている。

 

 ★ ★ ★

 「イナダヒメノミコトとスサノオノミコト」の説話は、次の通りである。

 高天原(たかまがはら)を追放されたスサノオノミコト(須佐之男命)は、出雲の国(島根県)の斐伊川(ひいがわ)上流にやってきた。そこで老夫婦が泣いている。一人娘のイナダヒメノミコト(奇稲田姫命)が、8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物ヤマタノオロチ(八岐大蛇)の生贄にされそうだと。

 スサノオは、イナダヒメとの結婚を条件にヤマタノオロチ退治を約束する。老夫婦に酒を造らせて8つの酒樽を用意させ、イナダヒメの姿を櫛(くし)に変えて自分の頭に挿して、ヤマタノオロチとの戦いに向かう。酒に酔って眠り込んだヤマタノオロチを、スサノオは剣でズタズタに切り裂く。尾を割り裂いた時、中に一振りの剣があった。これが「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」で、スサノオはこの剣を天照大神(アマテラスオオミカミ)に献上する。

 イナダヒメ(稲田姫)は、別称をクシナダヒメ(奇稲田姫)と言い、一般的にはこちらの名の方が広く知られている。稲田の守護神、美田の神様として信仰されている。クシ(櫛)になったヒメから、クシナダヒメ(櫛名田比売)ともいう。
 

 

 行田市を舞台にした小説『陸王(りくおう)』は、『小説すばる』(集英社)に2013年7月号から連載、2016年7月に集英社から単行本が刊行された。2017年10月からTBS系テレビでのドラマ化を記念して、今回の「田んぼアート」が実施されたという。

 池井戸潤小説のドラマ化では、銀行を舞台にした『半沢直樹』、中小企業を舞台にした『下町ロケット』、企業野球部を描く『ルーズヴェルト・ゲーム』など、テレビで視聴した事がある。

 『陸王』のあらすじは、以下の通り。

 埼玉県行田市にある「こはぜ屋」は、創業から100年以上続く老舗の足袋(たび)製造会社。その四代目社長・宮沢紘一を、役所広司が演じる。「こはぜ屋」は足袋の需要減少で業績が低迷し、資金繰りに悩んでいた。そんな中で宮沢は、足袋製造の技術を生かし、「裸足感覚」を取り入れたランニングシューズを思いつき、社内にプロジェクトチームを立ち上げる。会社の生き残りをかけて新規事業に参入するが、資金難、人材不足、特許紛争、大手シューズメーカーの妨害、予想外の機械トラブルなどに直面しながら、頼れる協力者を得てランニングシューズの開発に邁進する。

 行田は江戸時代から足袋つくりが盛んで、古くから足袋の町として知られている。明治時代になると、ミシンによる動力化も進んで足袋の生産量は増大、行田の足袋は名実ともに日本一となったとされる。1938年(昭和13年)の事業者数200社、足袋生産量は8,400万足、これは全国生産の約8割を占めていた。「足袋蔵のまち行田」として日本遺産に認定されているほか、「行田の足袋製造用具及び製品」が国の登録有形民俗文化財となっている。
 

 

 7月17日の朝日新聞1面にあるコラム「天声人語」に、ハスについての話題が掲載されていた。コラムの後半部に、ちょうど行田のハス由来が解説してあるのでそのまま引用する。

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 行田市では1973年、ゴミ焼却場の建設地で桃色の大輪が見つかった。埼玉大の研究者らが調べ、推定1400~3千年前の地層に眠っていた種子が掘削で目を覚ましたと推定した。

 主産業の足袋作りが下り坂にあった市は1995年、ハスを核にした公園を開く。「ふるさと創生」をうたって全国の市町村に交付された1億円をいかした。街はにぎわいを取り戻す。

 ふるさと創生と聞くと金塊や純金のこけしが浮かぶ。盗まれたり売られたり、哀れな結末も見た。ばらまき政治の見本のごとく語られることが多いけれど、将来を見すえて種をまいた自治体も少なからずあったようである。

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 関連ブログ記事

  「古代蓮の里」 2016/07/16 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-52e8.html

  「栃木県北部の冬景色」 2015/02/05 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-81a2.html

2017年7月24日 (月)

中山道の碓氷峠越え-その2

 2017年7月16日(日)、中山道の三大難所の一つ「碓氷峠」越えのハイキング。
 
 

 江戸時代に整備された五街道の一つ「中山道(なかせんどう)」。軽井沢駅(長野県軽井沢町)から「碓氷峠」(標高1,200m)を越え、横川駅(群馬県安中市)までのおよそ19Kmの山道を歩く。 

 本ブログ記事「中山道の碓氷峠越え-その1」のつづき。

 

 11:45熊野神社を出て、左右に茶屋を見ながら車道を100mほど進むと、狭い山道の下り坂 。

 これで碓氷峠のピークを越え、群馬県側の下り道に入る。

 11:51、分岐点。ここには、壊れかけた道標や熊に注意の看板、「思婦石」と「仁王門跡」の松井田町観光協会の案内板、いくつかの石碑や祠が並ぶ。

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 「仁王門跡」の案内板は、「もとの神宮寺の入口にあり、元禄年間再建されたが明治維新の時に廃棄された。仁王様は熊野神社の神楽殿に保存されている」とある。神宮寺とは、神仏習合で神社に付属して建てられた寺院のこと。

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 「思婦石(おもふいし)」は、群馬郡室田の国学者・関橋守(せきのはしもり)の直筆の歌碑で、安政4年(1857)の建立。
 
 歌碑には、「ありし代に かへりみしてふ碓氷山 今も恋しき 吾妻路のそら」が刻まれている。

 『日本書紀』では、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、荒れた海を鎮めるために入水した妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)を、碓氷峠で「吾妻はや(我が妻や)」と嘆いたという。東国を指して「あずま」としたのは、この故事にちなむそうだ。この歌は、尊が妻を恋い偲んで詠んだもの。

 道標は、左の道は「留夫山」(とめぶやま、1591m)から「鼻曲山」(はなまがりやま、1655m)への尾根道、中央の道は「霧積温泉」へ、右に行けば「旧中山道」。

 分岐を右にとり、旧中山道のコースへと進む。「長坂道」の案内板がある。「中山道をしのぶ古い道である」と簡単な説明。一方、江戸末期に皇女和宮が降嫁される時に拓かれた「和宮道」というのがある。比較的広く安全な道で、現在「安政遠足」のコースになっているようだ。地図で確認すると、霧積温泉の方向に15分ほど進んで分岐を右折、そこから30分ほどで旧中山道に合流する。

 かつて旅人を苦しめた難所は、最初はえぐれた急坂の山道。樹木に覆われ昼なお薄暗い。

 12:08、人馬の労をねぎらう休憩所だった「人馬施行所跡」の案内板。

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 「笹沢のほとりに、1828年(文政11年)江戸呉服屋の与兵衛が,安中藩から間口17間、奥行き20間を借りて人馬が休む家をつくった」とある。貧しい旅人の為の茶屋だったようだ。

 12:13、「化粧水跡」の案内板。「峠町を登る人々がこの水で姿・形を直した水場」。草むらの下の沢には、水がちょろちょろと流れていた。

 12:22、「陣場が原」と「子持山」の案内板。ここで、「和宮道」と合流する。

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 この辺りは、子持山(こもちやま、標高1107m)頂上付近の「陣馬ヶ原」である。「太平記に新田方と足利方の碓氷峠の合戦が記され、戦国時代には武田方と上杉方の碓氷峠合戦記がある。笹沢から子持山の間は萱野原で、ここが古戦場といわれている。」

 「子持山」に案内板には、万葉集に「兒持山 若かえるでの もみづまで 寝もと吾は思う 汝はあどか思う (巻14-3494 読人不知)」とある。

 (意味) この山のカエルデ(カエデのこと)の若葉が紅葉するまで、ずっと寝ていたいと私は思う。あなたはどう思うか。山の名前に「子持ち」をかけ、寝ることで子を持とう、つまり遠回しのプロポーズ。

 12:29、「一つ家」の案内板には、「ここには老婆がいて、旅人を苦しめたと言われている」。周囲に何も無い一軒家に住む老婆が、旅人に何をしたのだろうか、意味不明。

 12:36、「山中坂」の案内板。

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 「山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂が「山中坂」で、この坂は「飯食い坂」と呼ばれ、坂本宿から登ってきた旅人は空腹ではとても駄目なので、山中茶屋で飯を食って登った。山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。」

 12:39、「山中茶屋」と「山中学校跡」の案内板。

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 飯場のような廃屋がぽつんと建っているが、まさかこれが明治の学校ではあるまい。

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 「山中茶屋」は峠の真中(坂本宿と軽井沢宿の中間)にあった茶屋で、1662年(寛文2年)には13軒の立場茶屋(たてばちゃや)ができた。明治のころには小学校もあったという。立場茶屋とは、茶店(ちやみせ)から発展した各種の飲食遊興の店。

 付近には石垣などの屋敷跡、墓石塔、畑跡なども残っている。

 12:45、「入道くぼ」の案内板。「山中茶屋の入り口に線刻の馬頭観音がある。これから、まごめ坂といって赤土のだらだら下りの道となる。鳥が鳴き、林の美しさが感じられる。」とある。

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 線刻の馬頭観音は、石の表面が磨滅していてよく確認出来なかった。

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 山道は、再びゆるやかになる。このあたりで、左から「明治天皇御巡幸道路」が合流してくる。

 13:08、「栗が原」の案内板。「明治天皇御巡幸道路といわれた道で、国道の碓氷橋へ出る。中山道と追分の形になっていて、明治8年群馬県で最初の「見回り方屯所」があった。これが交番の始まりであるといわれる。」

 御巡幸道路は明治になって出来た新しい道だが、崩落しているのか現在は通行禁止になっているらしい。

 峠に上って来るランナーのために、「安政遠足」の看板は所々に設置してある。

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 13:30、「座頭ころがし(釜場がんば)」の案内板が立っている。「急な坂道となり、岩や小石がゴロゴロしている。それから赤土となり、湿っているので、すべりやすい所である。」

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 急な坂道には、落ち葉が腐葉土となり滑りやすいので、足元に注意しながら下る。


 道は平らになり、左手の山道に入るところに、13:36「一里塚」案内板が立っている。この山道は慶長以前の旧道の「東山道」で、途中に一里塚がつくられているという。

 13:39、「北向馬頭観音」の案内板。「馬頭観音があるところは、危険な場所である。一里塚の入口から下ると、ここに北向馬頭観世音が岩の上に建っている」。1818年(文化15年)建立。

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 13:39、「南向馬頭観音」の案内板。「この切り通しを南に出た途端に南側が絶壁となる。昔この付近は山賊が出たところと言われ、この険しい場所をすぎると、左手が岩場となり、そこにまた馬頭観世音が道端にある」。1791年(寛政3年)建立。

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 13:44、「掘り切り」の案内板。「天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めで、北陸・信州軍を,松井田城主大導寺駿河守が防戦しようとした場所。道は狭く両側が堀り切られている。」

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 13:57、「碓氷坂の関所跡」の案内板には、「昌泰2年(899)に碓氷の坂に関所を設けたといわれる場所と思われる。」とある。平安時代の話である。

 案内板の脇に休憩所(東屋)と道標(坂本宿2.5Km、熊野神社6.4Km)。ゴールは近い。

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 14:03「四軒茶屋跡」「刎石(はねいし)茶屋跡」の案内板。この付近は刎石山の頂上。 ここに四軒の茶屋があった屋敷跡、現在でも石垣や墓が残っている。今は杉林となっているが、昔は旅人たちで賑やかだったのだろう。平坦で歩きやすく、気持ちがよい道が続く。

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 14:06、「弘法の井戸」がある。「諸国をまわっていた弘法大師から、ここに井戸を掘ればよいと教えらたと伝えられている霊水である」。今でもきれいな水が出ているそうだが、トタン板で覆ってあった。

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 14:09、「風穴(ふうけつ、かざあな)」。「刎石(はねいし)溶岩のさけめから湿った水蒸気が噴き出している穴が数カ所ある。」とされるが、ちょっと手をかざしてみたが何も感じない。

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 14:10、馬頭観音の大きな石塔。案内板はなし。

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 さらに坂を下ると急に木々が途切れ、14:11眼下に坂本宿が良く見える 「覗(のぞき)」という有名な場所に着く。江戸時代から旅人の心を癒した絶景ポイント。

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 一茶はここで、「坂本や 袂の下の 夕ひばり」と詠んだ。

 この先は、石ころが混ざった急な下り坂となる。 

 14:14、「上り地蔵下り地蔵」の案内板。案内板には、 「十返舎一九が、「旅人の 身を粉(こ)に砕く(はたく) 難所道(なんじょみち) 石の碓氷の 峠なりとて」と・・・その険阻な道は刎石(はねいし)坂である。刎石坂を登りつめたところに、この板碑のような地蔵があって旅人の安全を見つめているとともに、幼児のすこやかな成長を見守っている。」とある。

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 大小の岩がたくさん転がっているが、辺りに板碑のような地蔵は見当たらない。

 14:18 、「刎石坂」の案内板。

 「刎石(はねいし)坂には多くの石造物があって、碓氷峠で一番の難所である。むかし芭蕉句碑もここにあったが、いまは坂本宿の上木戸に移されている。南無阿弥陀仏、大日尊、馬頭観世音の石碑がある。ここを下った曲がり角に刎石溶岩の節理がよくわかる場所がある。」

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 14:19、 「柱状節理」 の案内板がある場所に着く。「火成岩が冷却、固結するとき亀裂を生じ、自然に四角または六角の柱状に割れたものである。」

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 14:36、「堂峰番所跡」の案内板。「堂峰の見晴らしのよい場所(坂本宿に向かって左側)の石垣上に番所を構え、中山道をはさんで西側に定附同心の住宅が2軒あった。関門は両方の谷が迫っている場所をさらに掘り切って道幅だけとした。現在も門の土台石や石垣が残されている。」

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 横川にある「碓氷関所」の出先機関だった関所が置かれ、関所破りを見張っていたそうだ。

 急坂の山道を下りきると、14:40やっと国道18号(旧道)に出る。

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 ここはバス停「中山道口」で、東屋風の停留所になっている。入り口には「安政遠足」の標識が立っていて、峠まで行くにはこの標識に従えばよい。

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 バス停の東屋で休憩15:00まで休憩。

 

 ここから国道18号を下り、坂本の旧宿場町の面影が残る町並みを歩き、上信越自動車道をくぐってさらに歩くと、横川駅へ到着する。しかし坂本の集落までの国道は、歩道か無く、車通りも比較的多い。

 中山道口のバス停から、「アプトの道」の中間部に降りられる。

 「アプトの道」は、旧信越本線のアプト式鉄道時代の廃線跡を利用した遊歩道。横川駅~旧熊ノ平駅の間の約6Kmを遊歩道として整備された。国の重要文化財である「旧丸山変電所」をはじめ3つの橋梁と10の隧道がある。代表的な鉄道煉瓦構造物である「めがね橋」(碓氷第3橋梁)などの碓氷峠鉄道遺産に触れることができる。

 「アプトの道」を歩くとにして、15:03旧信越線のトンネルをくぐる。

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 15:07、北原白秋歌碑と「白秋の歌「碓氷の春」について」の案内板がある。

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 「うすいねの 南おもてと なりにけり  くだりつゝ思ふ 春のふかきを

 大正12年春、当時39歳だった白秋が信濃を訪れた帰り、ここ碓氷峠で「碓氷の春」と題して詠んだと言われている。」

 途中に、「峠の湯」とすぐ近くにトロッコ列車の終点「とうげのゆ」駅がある。

  碓氷峠の森公園交流館「峠の湯」から「鉄道文化むら」に続くおよそ2.6Kmの廃線道路をひたすら歩く。 かつて碓氷峠を上った機関車の面影を想い浮かべながら。

 途中、観光客を乗せたトロッコ列車が通り過ぎる。

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 廃線となった旧信越本線は複線で、アプトの道と一方はトロッコ列車の線路に利用されている。

 15:25、「旧丸山変電所」は国の重要文化財。

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 碓氷線が幹線鉄道ではじめて電化されたことに伴い、明治45年に建設された。煉瓦造り建築の最盛期のもので、純煉瓦造り。

 15:43、「鹿嶋組招魂碑」と「碓氷路交通殉難者鎮魂碑」が、碓氷関所跡の小道を挟んで南側に建つ。

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 右の「招魂碑」は、明治の困難な碓氷線建設工事で命を落とした多数の犠牲者を供養するため、1892年(明治25年)に魚住政吉が建立。
 
 左の「鎮魂碑」は、碓氷の交通機関建設工事で殉職、思わぬ災害や交通事故に遭遇した犠牲者を慰霊するため、信越本線の廃線に伴い「うすいの歴史を残す会」が1996年(平成8年)建立。

 碓氷関所跡は素通りし、15:45「碓氷峠鉄道文化むら」に並ぶ鉄道車両が見えてくる。ゴールはあとわずか。

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 15:50、ゴールとなるJR信越線横川駅の駐車場に到着。16:00、車で坂本宿のある国道18号線(旧道)を通って、3km先の日帰り温泉「峠の湯」へ。

 16:05~17:05 、碓氷峠の森公園交流館「峠の湯」(600円)で汗を流してすっきり。

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 ぬるぬるしたアルカリ性の泉質。風呂から上がった所で夕立があり、山の中で遭わずに良かった。

 横川駅で昔ホームで立ち売りし、今では横川駅近くの「おぎのや」のみやげで屋などで売っている陶器の釜を使った有名な駅弁「峠の釜めし」がある。この日帰り温泉の売店にも置いてあった。これを2個(1個1,000円)夕食用に購入。

 17:05、「峠の湯」を出発、 「おぎのや」横川店に寄ったあと往路を還る。帰りは日曜の夕方とあって高速道路が渋滞、予定より遅れる。

 19:40、自宅着。

 ★ ★ ★

 「山中坂」付近から先だったろうか、正確な場所を忘れたが、車が通れるほどの広い山道で、左側にしっかりしたコンクリートの擁壁が造られていた。こんな山道にいつどんな目的で造ったのか。疑問に思いながら歩いていると、さらに広場のような場所に朽ちたバスの廃車を発見。「見晴らし台」や「別荘分譲地」の錆付いた看板もある。乗り捨てられて乗用車や別荘と思われる廃屋が数軒現れた。この辺りで、別荘開発やリゾート開発があったのだろうか。熊野神社からこの辺りまでは、車が通れたという話もある。

 山道の谷側が一部崩落していて狭くなり、ガードローブを張ってあるような場所がいくつかあった。昔は、参勤交代の大名行列も通ったであろうから、今よりも道が整備してあって、もっと道幅が広かったのだろう。もちろん今のような杉の植林はしてなかっただろうが、昔の中山道の峠越えの風景を思い描きながら歩いた。

 歩数計を見ると3万2千歩、距離は約19Km。所要時間は休憩入れて約7時間(軽井沢駅前8:45発、横川駅前15:50着)、正味は6時間くらいだっただろうか。こんな長い距離を歩いたには久しぶり、バテもせず完歩した。その後2、3日、適度な筋肉疲労が残ったが。

 雨も降らず、木立の中と曇り空で日差しも強くなかったが、風がなかったのでもう汗がダラダラ。あとで自分の足をよく見ると、左右の足を2ヶ所づつ山ヒルに吸われていた。いずれも靴下の上からだったが。

 街道には史跡がたくさんあったが、残念ながら石碑や石仏以外は草木ばかりで、あまり絵にならない写真だった。

 

 

 ★ ★ ★

 信越本線の廃線道路「アプトの道」の途中に「碓氷線工事」と「アプト式とエントランス」の説明板があって、以下のように記載されていた。

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 「碓氷線工事」

 碓氷線の工事は1年6ケ月程で完成したといわれています。当事は一日、約1万4、5千人の人が働いていました。鹿島組の他日本で有数の大小の請負業者が何社も入っており、全国から集まった職人達が厳しいしい上下間係のもと働いていました。めがね橋周辺にも多くの飯場があり、工事は昼夜行なわれていたようです。横川駅近くの明治25年(1892年)に建てられた鹿島租の「招魂碑」には「魚住八十松他五百名」(受難者)とありますが、工事に携わった渡辺信四郎の報告書には「約二十名ニ過ギザルベシ・・・ 」とあり、犠牲者の数は今でも謎となっています。

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 (大正時代の軌道アプト改修工事風景)

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 「アプト式とエントランス」

 碓氷線の急勾配66.7‰ (パーミル、1,000mで66.7m上がる)に対処するためドイツ系スイス人、ローマンアプトの考案した方法(英語読みはアブト)。レールの間にラックレールを敷き、機関車にはピニオンギヤを設け、かみ合わせて上り下りをしました。またアプト式の入り口をエントランスといい、バネが入っていて、当初は無事かみあわせたかどうかを確認する、エントランス番がいました。アプト式は、昭和38年EF63型による粘着運転こ切り替わるまで使用されました。

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 (丸山エントランスと独製1OOOO型電気機関車)

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 明治の初めの頃、東京と京都を結ぶ幹線鉄道のルートのひとつとして、交通の要衝であった碓氷峠に鉄道を敷設する計画が検討された。しかし難工事が予想されることから断念。明治20年代に入ると再度、鉄道敷設計画が持ち上がる。

 急坂を登るのにスイッチバック式やループ線などの案も検討されたが、地形的な問題があった。ドイツのハルツ山岳鉄道を参考に、2本のレールの間に敷かれたラックレール(凹凸のついたレール)と車軸に取り付けた歯車をかみ合わせて機関車を推進するアプ方式が採用された。1891年(明治24年)に着工して、トンネル数26、レンガ造りの橋梁18を要する難工事の末、1年9ヶ月で完成。1893年(明治26年)、横川-軽井沢間の碓氷峠越えの鉄道が開通した。

 明治40年代に入ると、輸送力のアップや安全性の面から電気機関車の導入を計画。横川火力発電所を新設、碓氷線の両端にあたる丸山と矢ヶ崎の2カ所に変電所を設け、1912年(明治45年)、日本初の幹線電化区間となる。当初はドイツから輸入した電気機関車EC40型が走っていたが、やがて国産のED42型を開発、碓氷峠を49分で結んだ。

 しかしアプト式の機関車は特殊で、線路の保守の面からも不利な点が多かった。1966年(昭和41年)には碓氷線を複線化し、アプト式から一般的な車両と同じようにレールと車輪の粘着力による粘着運転方式に変わる。補助機関車を連結して粘着運転することで輸送力の改善した。補助機関車のEF63形やEF62形電気機関車により、横川-軽井沢間の所要時間は登り17分、降り24分と大幅に短縮された。

 1997年(平成9年)長野行き新幹線が開通。信越本線横川~軽井沢間が廃線になった後、「碓氷峠鉄道文化むら」が開設され、鉄道資料館などでアプト式の展示や、機関車の屋外展示を行っている。

 ★ ★ ★

 

 「峠の釜めし」は、群馬県安中市松井田町にある「株式会社荻野屋」が製造・販売する駅弁。益子焼の釜に入った薄味醤油の炊き込みご飯。具は、鶏肉、ささがき牛蒡(ごぼう)、椎茸、筍、ウズラの卵、グリーンピース、紅しょうが、栗、杏(あんず)。プラスチック容器入りの漬物(キュウリ・ごぼう・小ナス漬けなど)が付く。

 長年変わらない素朴な味で、横川や軽井沢の近くに行くと、懐かしくて食べたくなる。

 土釜に入った「峠の釜めし」。(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 荻野屋は1885年(明治18年)、横川駅の開業時に創業した老舗。初期の駅弁は、おにぎり2個にたくあんを添えたもの。戦後、国内の旅行者数が増えていく中、駅弁はどこも似たようなものだった。横川駅は碓氷峠を越えるため、ED42形電気機関車への付け替えが必要でホームに長時間停車する駅という好条件にもかかわらず、駅弁は飽きられていた。

 右が現在の荻野屋本店と左のJR横川駅。(写真の出典:Google)  

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 今から55年ほど前、荻野屋4代目社長の故・高見澤みねじは、自らホームに立ち、また停車中の列車に乗り込み、旅行者ひとりひとりの駅弁へのご意見を聞いて回った。そこで、彼女は「温かくて、家庭的な、楽しいお弁当が求められている」という結論に達した。これが新たな駅弁開発のきっかけとなり、1958年(昭和33年)益子焼の土釜に入った「峠の釜めし」が誕生した。

 当時の折り詰めという常識を破り、保温性にも優れた陶器で温かいまま食べられる画期的な駅弁は、文藝春秋に掲載されたことから徐々に人気商品となって、やがて爆発的に売れていく。1967年(昭和42年)には、フジテレビ系のドラマ『釜めし夫婦』(池内淳子主演)のモデルにもなった。

 さらにモータリゼーション進展を受け、1962年(昭和37年)国道18号沿いに「おぎのやドライブイン横川店」を開設。鉄道以外の販路へと展開していく。

 1997年(平成9年)9月30日限りで信越本線の横川 - 軽井沢間が廃止され、横川は終発着駅となる。横川駅での販売量は往時に比べて激減するが、長野行き新幹線の開通によって、高崎 - 軽井沢間にて「峠の釜めし」の車内販売を開始された。

 現在「峠の釜めし」を購入できる場所は、荻野屋の直営みやげ店や関連会社店舗、上信越道の横川サービスエリア、横川駅・軽井沢駅・安中榛名駅・長野駅・清里駅などの売店、東京駅・上野駅・大宮駅の駅弁専門店、北陸新幹線「あさま」の車内販売、碓氷峠鉄道文化むら・峠の湯のほか、百貨店などが開催する「駅弁フェア」などがある。

 関連ブログ記事「上信国境・鼻曲山」 2015/07/17投稿 
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-a08d.html

2017年7月22日 (土)

中山道の碓氷峠越え-その1

 2017年7月16日(日)、中山道の三大難所の一つ「碓氷峠」越えのハイキング。
 
 

 江戸時代に整備された五街道の一つ「中山道(なかせんどう)」。軽井沢駅(長野県軽井沢町)から「碓氷峠」(標高1,200m)を越え、横川駅(群馬県安中市)までのおよそ19Kmの山道を歩く。 

 中でも碓氷峠は中山道の三大難所の一つで、上州と信州の国境でもあった。現在でも群馬県と長野県の県境にあたる。江戸時代には、横川に関所も設けられていた。
 

 6:35、乗用車2台に6人が分乗して出発。関越道、上信越道を走り、松井田インターで降りる。

 7:50、JR横川駅の駐車場(無料)に到着。横川駅はJR信越本線の終点。

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 8:10発のJRバスで横川駅前出発。バスは、観光客や学生で満員。このバス路線は、1997年(平成9年)信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間の廃止に伴う代替輸送機関として運行している。運賃は510円。

 国道18号の碓氷バイパスを走り、30分ちょっとでJR北陸新幹線と「しなの鉄道」の軽井沢駅前に到着。8:45、軽井沢駅前からハイキング開始。

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 軽井沢駅から20分ほど歩いたところの旧軽井沢のメインストリート「軽井沢銀座商店街」(県道133号線)。この辺りが中山道の宿場だった。この先右手に、現在は軽井沢町観光会館になっている脇本陣「江戸屋」跡がある。

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 10分ほど歩くと、商店街も途絶え、木立に囲まれた道となり、9:20「つるや旅館」。

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 「つるや旅館」は、江戸時代初期に中山道街道筋の宿場町・軽井沢宿の休泊茶屋「旅籠鶴屋」として開業。明治以降は、数多くの文化人が宿泊した旅館として知られる。

 「つるや旅館」から100mあまり先の右手に、「芭蕉の句碑」がある。

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 1843(天保14年)に地元の門下生小林玉蓬が松尾芭蕉の150年忌に建立した。

 「馬をさへ なかむる雪の あした哉」

 雪が降り積もった白銀の朝、往来を眺めると様々な格好の旅人や馬さえも通って行く。

 芭蕉句碑の向かい側に、日本聖公会中部教区に属する軽井沢の教会「軽井沢ショー記念礼拝堂」が、木立の中に佇んでいる。

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  1886年(明治19年)、カナダ出身の宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーは、家族と訪れた軽井沢に魅了されてここを避暑地にし、また教会を設立する。これ以降、軽井沢が外国人の間で知られるようになり、その後別荘地として発展する。現在の礼拝堂は1895(明治28)年、軽井沢最初の教会建造物として建立。その後、修復を重ねながら今日に至る。

 信濃川水系の矢ケ崎川に架かる「二手橋(ふたてばし)」を渡り、その先で車道(県道133号線)と分かれて、9:38「碓氷峠遊覧歩道」に入る。碓氷峠見晴らし台へ向かう。

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 所々に別荘が点在する遊覧歩道の前半部は緩やかなハイキングコース。

 「野生動物(クマ)生息地域 熊は音に敏感で臆病です携帯ラジオ・鈴・仲間等の会話などで音をたてながら歩きましょう」

 の看板がある。 この看板はハイキングの途中、散見する。

 見晴らし台が近づくにつれて、道幅が狭くなり、つり橋や沢など自然豊かな道となる。9:52、吊り橋 を渡る。

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 やがて碓氷峠遊覧歩道は石畳の坂と丁字路となり、右折して上りつめると出発から2時間ほどの10:45、視界が開けた広場の「碓氷峠見晴台」に到着。 

 見晴らし台の入口に万葉歌碑があり、2首が刻まれている。

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 「日の暮(ぐ)れに 碓氷(うすひ)の山を 越ゆる日は 夫(せ)なのが袖も さやに振らしつ」 (巻14・3402 読人しらず、上野国の相聞往来の歌)

 (意味)碓氷峠を越える日は、夫が袖を目につくほどハッキリと振ってくれた。 「日の暮れに」は、碓井(うすひ)に掛かる枕詞。

 「ひなくもり 碓氷(うすひ)の坂(さか)を 越えしだに 妹(いも)が恋(こひ)しく 忘らえぬかも」 (巻20・4407 他田部子磐前、上野国の防人)

 (意味)碓氷の坂を越えるときに、国に置いてきた妻が恋しくて忘れられない。 「ひなくもり」は、日が曇った薄い日差し、薄い(碓氷)に掛かる枕詞。
 

 広々とした「見晴らし台」にある長野県と群馬県の県境、昔の信州と上州の国境。

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 見晴台から望む南西方向は奇岩の山「妙義山」(標高1103m)。北東に活火山の「浅間山」(2568m)が迫る。

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 天気が良ければ、八ヶ岳や北アルプスなども一望できるそうだ。

 「見晴らし台」にある「詩聖タゴールの碑」。アジアで初めてノーベル賞(文学賞)を受賞(1912年)したインドの詩聖タゴールの生誕120年を記念して建立された。

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 1916年(大正5年)に軽井沢を訪れた。日本には3度来日、日本の自然美を愛し、第1次世界大戦や日本の軍国主義を批判、平和主義を説いた。1941年(昭和16年)、80歳で逝去。

 

 石畳の坂を下ると、車道(県道133号線)と合流。車が通る道路沿いには、名物の「峠の力餅」を売る茶屋が数件ある。店の外にあるメニューを見ると、ひと口サイズの餅を餡子、黄な粉、大根おろし、ごま、くるみ等で包んであって、一皿に10個ほどで500円くらい。

 9:12、車道の左手にある「熊野神社」に到着。本宮が群馬と長野にまたがる珍しい神社。かつて多くの旅人達が、ここで旅の安全を祈った。 参道入口には大きな「安政遠足(とおあし)決勝点」の看板が立つ。※「安政遠足」については、後述。

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 参道石段の中心に県境があり、一つのお宮ではあるが、2つの宗教法人の神社となっている。

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 県境の左側が長野県で「熊野皇大神社」、右側が群馬県で「熊野神社」。それぞれの宮司、役員、氏子代表で維持されているという。拝殿の賽銭箱も、県境を挟んで2つある。

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 「熊野皇大神社」境内に、県天然記念物樹齢800年の御神木シナノキがある。

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 陶器製のヤタガラス(八咫烏)に入ったおみくじ(500円)を引くと、”大吉”。

 ヤタガラスは、日本神話で神武天皇を紀州熊野から大和橿原まで導いたという三本足の烏(カラス)。ここ熊野神社では、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の折り、碓氷峠で濃霧にまかれたときヤタガラスが峰へ導いたことから、熊野大神を祀ったのが由緒。

 11:20~境内で、コンビニおにぎりの昼食。11:45、熊野神社を出る。

 左右に茶屋を見ながら車道を100mほど進むと、狭い山道の下り坂 。

 

 この先、碓氷峠から横川駅までは、

 本ブログ記事「中山道の碓氷峠越え-その2」につづく。

 

 ★ ★ ★

 「中山道」は、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道。草津宿で東海道と合流する。本州の東海岸沿いの南回りの「東海道」に対し、北回り中央部山脈の間を貫通する。67箇所の宿場が置かれ、距離は135里(約530km)である。

 距離にして東海道よりも約40kmほど長く、宿場も16宿多い。宿場数が多かったのは、険しい山道が多いうえ、冬場は寒さも厳しく、降雪時に通行が困難であったため。東海道は大井川などの川留めや箱根峠などの難所が多いうえ、幕府による「入鉄砲出女」の取り締まりが厳しかったので、遠回りルートであった中山道を歩く旅人も多かったそうだ。

 

 「安政遠足(あんせいとおあし)」は、1855年(安政2年)安中藩主・板倉勝明が藩士の心身鍛錬の目的のため、藩士96人に安中城門から碓氷峠の「熊野権現」(熊野神社)まで7里余りの中山道を走らせた徒歩競走。総走行距離は30Km程度ながら、最終的にスタートとゴールの標高差は1000m以上ある。

 その記録が1955年(昭和30年)、碓氷峠の茶屋から発見された。これは走者に意義を持たせることが目的で、順位やタイムは重要視されていなかったという。ゴールした者には力餅などがふるまわれたそうだ。

 安政遠足は、日本におけるマラソンの発祥といわれ、安中城址には「安中藩安政遠足の碑」と「日本マラソン発祥の地」の石碑が建てられている。「日本最古のマラソン」として藩主の偉業を後世に伝えるため「安政遠足保存会」を組織、1975年(昭和50年)からは「安政遠足 侍マラソン」が毎年5月第2日曜日に開催されている。仮装をしながら走れることが特徴。

2017年7月19日 (水)

小田原と熱海の旅

 2017年6月28日(水)~29日(木)、1泊2日の小田原と熱海の旅。
 
 
 【6月28日(水)】 乗用車2台に9人が分乗、最寄駅前を9:45出発。

 関越道、圏央道、東名高速を経て、小田原厚木道路の小田原西インターを出て国道1号線を走る。

 

 12:00、小田原城址公園に入場。

 小田原城は、戦国時代は北条氏(後北条氏)の拠点、江戸時代は小田原藩の藩庁。城跡は、国の史跡に指定。

 1971年(昭和46年)に再建した常盤木門(ときわぎもん)をくぐると、本丸。

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 小田原城の天守閣ちかくにそびえるクロマツの巨樹。樹高30m、 幹回り5.3m。

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 天保年間(1830~1844)に書かれた史料には「御本丸多聞櫓(たもんやぐら)の近き方に七本松という老松あり」と記されていて、この松はその1本とされる。倒木防止の鉄骨に支えられて痛々しい。

 天守閣は、1960年(昭和35年)市制20周年記念事業として総工費8千万円をかけて復興された。江戸時代に造られた模型や設計図を基づき外観を復元、内部は歴史資料の展示施設となっていて、「外観復元天守」に分類される。

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 天守閣は3重4階、付櫓(つけやぐら)を接続した複合天守。地上38.7m、鉄筋コンクリート造、延床面積1822㎡。

 天守閣に入館(入館料500円)。甲冑、刀剣、絵図、古文書など小田原の歴史や、武家文化に関する資料が展示。

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 江戸時代の小田原城ジオラマ模型と本丸の図面。

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 北条氏の領土拡大の図。緑の線は、初代の北条早雲の頃。オレンジは、5代北条氏直の時の関八州(現在の関東地方)240万石とされる最大版図。(ダブルクリックで拡大表示)

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 最上階に上がり、標高約60mから南の方角を望む。

 右手に伊豆半島、半島の先端が真鶴岬。左手に相模湾が一望。伊豆半島は霞んでいて良く見えない。

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 北の方角は、眼下の小田原駅。遠く丹沢山地も見えない。

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 13:00、小田原城址公園を出る。

 

   国道1号線(旧東海道)沿い、なんとお城のような外観の和菓子店、「ういろう」本店(小田原市本町)に立ち寄ってみる。

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 この日は水曜で、「ういろう」本店は定休日。

 「ういろう」本店のすぐ近く、国道1号線沿いの「柳屋ベーカリー」」(小田原市南町)に、13:20入店。大正10年創業というレトロな建物と店内の老舗のパン屋。

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 ショーウィンドウには、10種類の薄皮アンパンのサンプルと有名人のサイン。

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 昼食用に「大正金時」と「つぶし」の2種類の薄皮アンパン。ジャムパン、カレーパン、メロンパンなどの普通のパンもある。

 このパン屋の近くに「筋違橋町(すじかいばしちょう)」の石碑が建っていた。筋違橋町は、江戸時代は旅篭屋が並ぶ東海道筋の通り町9町の一つ。


 13:40、小田原城址公園の駐車場を出て、JR熱海駅の東北1.5Kmほどにある「伊豆山神社」(熱海市)に向かう。

 14:30、伊豆山神社の 駐車場に到着。伊豆山神社は、古くは「走湯(そうとう)大権現」、「伊豆山権現」とも呼ばれ、平治の乱によって伊豆国に配流された源頼朝と北条政子が崇敬した神社。 駐車場から、長い石段を登る。

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 本殿までの参道は、本来は伊豆山浜から837段もの石段を上るハードなものだそうだ。そのため、我々のように本殿のすぐ下の駐車場から、約170段ほどを上るのが一般的。

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   茅の輪(ちのわ)をくぐり、本殿に参拝。

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 頼朝と政子が平家打倒を祈願し、二人の逢瀬の場としても有名な神社。強運守護のほか、縁結びや恋愛成就の神様として人気があるそうだ。
 
 頼朝と政子が腰掛けたという「腰掛石」。

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 本殿の裏山、1時間の山道を登ると「本宮」(奥の院)もある。

 ※「伊豆山神社」の詳細については後述。
 

 15:20 伊豆山神社の駐車場を出て、熱海の市街地へ。予定の大正時代の建築物「起雲閣」も休館日。

 とりあえずホテルにチェックインすることに。

 

  15:50 、国道135号沿いの大江戸温泉物語「ホテル水葉亭」(熱海市伊豆山)着。

 ロビーは6階、部屋は2階~11階。レストランが1階、浴場は地下1階にある。ロビー、客室、大浴場からは、相模灘の絶景が眼下に広がるオーシャンビュー。

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 大江戸温泉物語株式会社(本社:東京都中央区)は、熱海の老舗ホテル「水葉亭」(1951年開業)を昨年2016年9月に取得、リニューアルして2か月前の2017年4月28日にオープンした。

 ホテルロビー(6階)の窓から、熱海温泉のホテル街を望む。

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 ホテルの客室に荷物を置き、16:25熱海駅前まで散策する。

 ホテルからすぐ、国道135号沿いに「秋戸郷(あきとのごう)跡」の石碑が建っている。秋戸郷は、北条政子が平氏の手より隠れ逃れた場所。

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 ※「秋戸郷」の詳細については後述。

 16:45、徒歩20分ほどでJR熱海駅前に到着。

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 駅改札の左手に「ラスカ熱海店」のおみやげ・食品売り場。 

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 駅前の正面に第一ビルのアタミックス名店街、右手にはアーケードの仲見世商店街と平和通り商店街がある。目当てのお土産、饅頭と大福は日持ちが短いので、明日買うことにする。

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 駅前の広場ににある熱海鉄道の蒸気機関車。東海道本線が開業する前、小田原と熱海の間を結んでいたレールの幅も小さい軽便な鉄道線。明治40年~大正12年まで走っていたそうだ。

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 駅前のアーケード「平和通り名店街」をぶらぶら歩く。

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 帰りはホテルの送迎バスで17:20駅前発、5分でホテルに着く。

 入浴後、18:50~20:30飲み放題のバイキング。21:55~23:50カラオケ。24:00頃就寝。

 

 

 【6月29日(木)】 5:50、起床。1階の庭に出て、離れの露天風呂に行ってみる。オープンな露天風呂から広がる相模湾の眺めは素晴らしい。

  7:40~1階レストランで朝食バイキング。

 9:00、送迎バスでホテル出発。

 前日に行ったJR熱海駅駅ビル「ラスカ熱海店」で、「石舟庵」の石舟庵饅頭(8ケ入)864円と塩豆大福(2ケ入)400円。

 

 9:55送迎バスでホテルに戻り、10:30 ホテルを車で出発。真鶴へ向かう。
 

 11:15、真鶴半島の突端「真鶴岬」(神奈川県真鶴町)に到着。

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 磯辺まで降り、名勝の「三ツ石」を見る。

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 三ツ石海岸を見ると、この真鶴半島が溶岩で出来ているのがよく分かる。真鶴海岸は、「箱根ジオパーク」の一部。明らかに、伊豆半島の地形とは異なることに気づく。

 ※「箱根ジオパーク」の詳細については後述。

  11:50、 真鶴岬を出発、 国道135号線を戻り、福浦漁港」(静岡県湯河原町)へ。12:05、海鮮食堂「みなと食堂に入店。

 福浦漁港と漁港にある「みなと食堂」。

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 しめさばの刺身680円(税抜き)。

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 金目鯛煮付定食(金目鯛煮付、サザエ刺身、地魚フライ)2,300円(税抜き)。新鮮さ、ボリューム満点。

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 13:00「みなと食堂」を出て、再び真鶴駅から真鶴岬へ向かう道沿いへ。

 創業60余年という干物の店「二藤商店」 に13:10~20。特上あじ280円×4枚購入。

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 135号線沿い西湘バイパスの手前。蒲鉾で有名な「鈴廣」の石橋店(小田原市石橋)に、13:40~50立ち寄り。

 14:00、前日は定休日だった小田原市のお城の「ういろう」本店へ入店。

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 小田原銘菓「ういろう」、1本648円。室町時代から続く米粉の蒸し菓子。

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 「ういろう」は元々、外郎(ういろう)家が作る薬のことを言っていた。その後、接客用に考案された米粉の蒸し菓子のことを「お菓子のういろう」と呼ぶようになったそうだ。

 店内に入ると、観光客が数人。和菓子を売っている横に薬局が併設されている。

 薬の「ういろう」は、別名「透頂香(とうちんこう)」という万能薬。仁丹と良く似た形状・原料で、元々は中国の王が被る冠の匂い消しに使われていたと言われ、日本に伝来した600年以上前から外郎家が代々変わらぬ製法で作られている。他の薬局や通販では販売していない。

 ※「ういろう」の詳細については後述。
 

 前日に行った近くの「柳屋ベーカリー」に寄るが、もう午後2時を過ぎている(閉店は午後4時)せいか、薄皮アンパンはだいぶ品薄、一部は売り切れで買うのをあきらめる。

  14:15、「ういろう」本店の駐車場を出て、帰路は小田原厚木道路を経て、往路を逆順。

 17:00出発地に到着、17:30自宅着。

 

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●伊豆山神社

 頼朝に始まる鎌倉将軍は、毎年正月の恒例行事として、「伊豆山権現」 (伊豆山神社 ) と「箱根権現」 (箱根神社) に参詣するという「二所詣(にしょうもうで)」を行った。

 戦国時代には小田原の後北条氏の格別の崇敬を受けたが、豊臣秀吉の小田原征伐で焼失した。江戸時代に入ると、山麓の阿多湊(熱海)が湯治場として名が知られ、焼失していた社は再建、代々の徳川将軍にも崇敬されて多くの寄進を受け興隆がはかられた。明治になって、神仏分離令によって「伊豆山神社」と改称。

 本殿の裏手にある「伊豆山郷土資料館」は、残念ながら水曜は休館日。ここ資料館には、伊豆山神社の所蔵品を中心に伊豆山地区に代々伝わる郷土資料を展示。中でも、北条政子が頼朝の一周忌の日に自らの髪の毛を除髪してこれを刺繍し、伊豆山権現の法華堂に飾ったという「頭髪梵字曼荼羅(とうはつぼんじまんだら)」(複製)が展示されているそうだ。

 伊豆山神社は、本殿からさらに山道を登り、「本宮」まで行ってこそが本当の参拝といわれている。本殿の右奥には「白山神社遥拝所」があり、山中の「白山神社」を遥拝するために設けられた場所だが、伊豆山神社の「本宮」への登り口にもなっている。
 
 「本宮社」までの所要時間は約1時間ほどで、今回はとても時間がない。途中の病気平癒、厄難消除の神様の「白山神社」までは約20分、縁結びを叶えてくれる神様「結明神本社」までは約40分ほどかかるそうだ。(写真のダブルクリックで拡大表示)

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 ●秋戸郷

 1180年(治承4年)8月、源氏再興のため挙兵をした源頼朝は、伊豆国の目代(もくだい=国司の代官役)の山木兼隆を討ち、伊豆国を制圧して相模国へと進軍するが、石橋山の戦いで敗北。数日間山中をさまよった後、真鶴から船出して安房(現、南房総)へと脱出した。

 その間、北条政子と娘大姫は走湯山(伊豆山)に隠れ住んで頼朝の安否を気づかっていた。9月になって、伊豆山権現の別当(寺務を司る僧職)の文陽房覚淵(もんようぼうかくえん)の計らいによって、平氏の手から逃れるため政子らは密かに秋戸郷に移動した。

 秋戸郷は走湯山の神域の東南隅に位置し、浜の方からしか入れないうえ船着場も近い。神域に護られ、平氏方の追っ手をくらませることが出来た。それから1ヶ月後、多くの関東武士の支持を得た頼朝は鎌倉に入り、秋戸郷を発った政子は頼朝と再会を喜び合った。

 

●箱根ジオパーク

 「箱根ジオパーク」は、2012年(平成24年)9月に日本ジオパークに認定。神奈川県西部の小田原市、南足柄市、箱根町、真鶴町、湯河原町の2市3町が位置する箱根火山周辺地域である。この地域は、フィリピン海プレート、ユーラシアプレート、北米プレートの3つのプレートが重なり合う位置にあり、火山から噴出した溶岩流や火山灰などは多様な火山地形を造り出している。

 山間部には箱根に固有の動植物が生息し、豊かな自然環境に恵まれ、この地域に散在する温泉の恵みは、古くから人々に享受されている。 また、温暖な相模湾に面して、魚種も豊富で古くから漁業が盛んである。

 

●ういろう

 14世紀の中国で、元が明に滅ぼされたとき、筑前博多に亡命した陳延祐(宗敬)は、陳外郎と名乗り、医術や占いに従事していた。外郎(ういろう)は、中国での官職名・礼部員外郎(れいぶいんがいろう)から取った。その子、外郎宗奇が足利義満の招きで朝廷に仕えて家伝の外郎(ういろう)薬を献上、また外国使節の接待に菓子「ういろう」を自ら考案した。

 小田原外郎家は、京都の外郎家の分家として、1504年(永正元年)には北条早雲の招きで小田原に移住した。家祖は外郎宇野藤右衛門定治(定春、ういろう・うのとうえもん・さだはる)で、本家4代目の外郎祖田の子とされる。

 以後小田原外郎家は、京都の本家とともに外郎薬の製造を代々行ってきたが、後北条家滅亡後は、豊臣家や江戸幕府においても保護がなされ、後に本家が衰亡した後は、独占的に外郎薬を製造するようになり、現在に至っている。

 現在、全国にある菓子「ういろう」の中では、名古屋ういろうの知名度が高い。江戸時代から日本各地にういろうの製法が広まり、製造販売が行われるようになっていて、現在でも各地の名物となっている。ういろうの発祥にはそれそれの伝承が存在し、原材料や製法は地域や製品によって、見た目や味、食感は様々である。

 小田原外郎家のパンフレットによると、今日全国に展開する菓子「ういろう」は、この京都外郎家に仕えた職人が拡げたものが、その起源だと主張している。小田原外郎家はういろうの元祖との自負から、「ういろう」の商標登録について特許庁を相手に裁判を起こしたが敗訴した。

 小田原以外の菓子「ういろう」は、全国各地に次のようなものがある。

 名古屋は、うるち米からできる米粉を主原料とする。老舗「青柳総本家」は、1879年(明治12年)創業。「青柳」の屋号は旧尾張藩主・徳川慶勝から贈られたという。1964年(昭和39年)に東海道新幹線が開通した後は、「青柳ういろう」は車内販売によって全国的に知られるようになり、日本一の販売量を誇る。

 また1659年(万治2年)創業、名古屋の「餅文総本店」は、尾張藩第2代藩主の徳川光友に仕えた陳元贇(ちんげんひん)から製法が伝えられたとの伝承があり、名古屋ういろうの元祖だとし、「献上ういろ」などを製造販売している。「大須ういろ」は1949年(昭和24年)の創業、「ういろ」や「ないろ」等の名称で製造販売している。

 三重県の伊勢ういろうは小麦粉素材、黒砂糖を用いたういろう。伊勢神宮前の「虎屋ういろ」、「柳家ういろう」、多度大社前の「丸繁」などがある。伊賀ういろうは、米粉に餅粉が含まれ、江戸中期創業の「かぎや餅店」と明治末期創業の「いせや」。

 京都では、1855年(安政2年)創業の「五建外良屋(ごけんういろや)」が「五建ういろ」を製造販売。また一般的に、茶席などで提供されるういろう皮で餡を包んだ上生菓子、ういろうに大納言小豆を載せた「水無月(みなづき)」、ういろうを使った「ちまき」などが作られている。

 神戸の歴史ある長田神社商店街にある「長田のういろや」は、1877年(明治10年)から「ういろ」を作り続けている老舗。米粉と砂糖と葛粉を使用。

 山口のういろうは、ワラビの粉に砂糖を加え、蒸して作られる。室町時代に秋津治郎作が製法を考えたとする説があるが、明らかではない。県下では山口市や岩国市のほか多くの地域で作られており、ういろうが名物の県として知られる。

 徳島では、「阿波ういろ」と総称される。寛政年間(1789年~1800年)にサトウキビ栽培が伝わり、それをもとに作られた砂糖の一種「阿波和三盆糖」が出来た祝いとして、徳島藩主や領民たちが旧暦3月3日の節句のときに食したのが始まりとされる。

 宮崎では、1877年(明治10年)頃から旅館を営んでいた鈴木サトが売り始め、やがて観光地・青島の名物となった。最近では地元の日向夏や宮崎マンゴー入りも販売されている。

 関連ブログ記事「小田原方面の旅」 2015年6月28日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/625-2421.html   

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