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2017年6月16日 (金)

大分・豊の国探訪の旅-その2

 2017年5月26日(金)~28日(日)、大分・豊の国の自然と歴史を訪ねる2泊3日の旅。

 

 本ブログ記事「大分・豊の国探訪の旅-その1」の続き。

 【2日目】は、「由布岳(ゆふだけ)」を眺めながら、大分県の景勝地「耶馬渓」へ。黒田官兵衛と福沢諭吉ゆかりの中津城下町をめぐり、中津市内のホテル泊。

 

 5月27日(土)朝、「おにやまホテル」にて5時起床。朝食は、ホテル内のレストラン「和味(なごみ)」で和洋バイキング。

 「おにやまホテル」を8時出発。国道500号、県道11号を経て、別府インター(IC)から大分自動車道を日田方面へ走る。

 

●由布岳

 深田久弥が百名山に入れず後悔したとされる豊後富士とも呼ばれる「由布岳」を、高速道路を走る車窓から眺める。由布岳は、東峰と最高峰の西峰(標高1584m)の双耳峰。

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 8時30分、大分自動車道の由布岳パーキングエリア(PA)着、10分ほど休憩。北斜面の山頂から山腹にかけての大規模な崩壊地を見上げる。

 PAに立つ案内板によると、麓の集落を守るための治山ダムなどの治山施設が整備されているという。昨年3月の熊本地震でも大量の土砂が崩落したしたそうだが、麓の被害を防止したと書いてあった。

 大分自動車から左手に「九重連山」が見えるはずだが、確認できなかった。
 
 

●一目八景

 大分自動車道玖珠ICを出て右折し国道387号、県道28号へと狭い山道を走る。大分県の温泉というと、別府や湯布院にある温泉をイメージするが、この辺りの山間部にもいくつも温泉地があるのに気がつく。大分県が「おんせん県」だというのが、よくわかる。

 「深耶馬渓」は、「山国川」支流の「山移川(やまうつりかわ)」支流に位置する渓谷で、「一目八景」が有名。 「一目八景」は、切り立った凝灰岩と広葉樹林から成る渓谷。群猿山(ぐんえんざん)、鳶ノ巣山(とびのすいわ)、嘯猿山(しょうえんざん)、夫婦岩(めおといわ)、雄鹿長尾の峰(おじかながおのみね)、烏帽子岩(えぼしいわ)、仙人ヶ岩(せんにんがいわ)、海望嶺(かいぼうれい)などの岩峰群が一望できる深耶馬渓の代表的なスポット。

 近くには鴫良(しぎら)、深耶馬渓などの温泉がある。

 車を走らせると、谷筋の狭い県道28号線の両側に土産屋や食事処が並ぶが、駐車スペースがない。そのまま県道を進むと、左手に大きな無料駐車場があった。9時20分駐車場に車を置き、川沿いの散策道を上流に向かって歩く。10分ほどで一目八景展望台に着く。

 鳶(とび)の幼鳥が餌をもらおうと天に口を開け、周りの木々が鳥の巣のように見えるという「鳶ノ巣山」。

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 2つの岩が夫婦のように寄り添う「夫婦岩」。

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 猿が群がっているように見える「群猿山(ぐんえんざん)」。

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 このほかにも、いくつか名前の付いた岩峰を確認。

 一目八景を9時50分出発、県道28号をさらに北上する。

 

●耶馬渓ダム

 10時05分「耶馬渓ダム」に寄って、ダム湖を眺めながら5分ほど休憩。

 ダム湖の噴水は何かと思いきや、説明板によるとダム貯水池の水質保全を目的としたものだそうだ。ポンプの加圧や散水によってプランクトンの増殖を抑えるという。

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 一級河川の山国川水系の山移川に建設された「耶馬渓ダム」は、山国川の治水、利水及び水力発電を目的とした特定多目的ダム。

 耶馬渓ダムの完成を記念して1987年に造られた広さ約2万平方mの「渓石園(けいせきえん)」と呼ばれる日本庭園があるが、時間都合でスキップする。

 

●羅漢寺

 耶馬渓ダムより国道212号を北上、七仙橋を渡って約500m先の交差点を右折、国道500号を南下する。

 10時40分、羅漢寺の駐車場に到着 。

 ここ豊前の「羅漢寺」は、「日本三大五百羅漢」の一つ。645年(大化元年)にインドの僧・法道仙人が岩山で修行して開基したとされるが、伝説の域を出ないそうだ。ここには五百羅漢をはじめとして、三千体以上の石仏がある。国の重要文化財。

 駐車場から羅漢寺への入口。

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 参道入口の左にある「禅海堂」のすぐ裏に、リフト乗り場がある。

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 「禅海堂」は、「青の洞門」を掘った僧・禅海(後述)を祀っていて、ノミや槌が展示されているそうだ。

 羅漢山の山頂までのリフト往復800円を購入する(羅漢寺までだけなら、700円)。写真は、羅漢寺に向かうリフト。約3分で羅漢寺駅に着く。

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 羅漢寺駅でリフトを降り、険しい崖に沿った狭い山道を進むと、崖に「千体地蔵尊」の看板のある建物がある。

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 格子の隙間から建物の中を覗く。室町期に安置されたという1,100体以上の地蔵尊。

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 石段を上ると途中、小さい洞窟にも石仏や石塔が並ぶ。

 羅漢寺の山門。室町幕府の三代将軍足利義満により建立されたとされる。

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 この山門の先からは、撮影禁止。山門の入口から左側に「無漏窟」(むろくつ、五百羅漢窟)と呼ばれる大きな洞窟があり、様々な表情をした五百羅漢などが安置されているが、写真を撮れず残念。

 写真の右上には、鐘楼が崖にへばりついている。

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 この先を進むと、見晴らしの良い羅漢山の中腹に、洞窟に半分埋め込まれた立派な本堂が建っていた。本堂は1943年(昭和18年)の火災で焼失、現本堂は1969(昭和44年)年に再建されたそうだ。

 羅漢寺駅へ戻り、更にリフトに乗って3分、羅漢山の山頂に着く。

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 山頂には高い鉄骨の展望台があって、阿蘇山、英彦山、豊前海が見えるという。阿蘇山(写真中央)は確認できた。
 
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 なお、羅漢寺の向かいの山に「古羅漢」があるという。「古羅漢」には磨崖仏(まがいぶつ)、石仏、国東塔(くにさきとう)などが残されていているそうだ。

 今回は時間の関係でリフトで羅漢寺に登ったが、江戸時代中期に作られたという旧参道は、往復45分の散策コースで、緩やかな石畳で風情があるそうだ。

 11時35分、羅漢寺の駐車場をあとにする。

 

●競秀峰

 本耶馬渓は、大分県北部の下毛(しもげ)郡にあった旧町名。旧本耶馬渓町は、2005年(平成17)中津市に編入した。国指定名勝「耶馬渓」の中心をなし、「青の洞門」や「競秀峰」を中心とする山国川上流一帯を指す。

 国道500号から国道212号へ戻り、約300mほど先の目的地「レストハウス洞門」駐車場に11時40分着。

 「レストハウス洞門」から1周約1.8Kmの山国川の畔を散策する。岩峰が連なるの「競秀峰」の絶景を見ながら下流へと遊歩道を歩く。

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 「競秀峰」は景勝地の多い本耶馬渓のなかでも、屈指の美しさを誇る岩峰だという。「青の洞門」の上にそびえる。大黒岩、恵比須岩、妙見岩など8つの岩峰が集まり、いかに秀でているか競いあっているように見えるというのが名前の由来か。凝灰石の層が帯状に浮かび上がっていることから帯岩とも呼ばれる。



●耶馬渓橋

 山国川に架かる8連アーチの石橋「耶馬渓橋」を渡る。青の洞門からわずか500m下流にある

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 日本で最長の116m、石造の8連アーチ橋は日本で唯一。1923年(大正12年)に竣工。長崎県の石橋に多い水平な石積みを採用しているため、別名「オランダ橋」ともいう。大分県の有形文化財に指定、「日本百名橋」のひとつ。上流の「馬渓橋」、「羅漢寺橋」とともに、「耶馬渓三橋」と呼ばれる。

  耶馬渓橋から対岸の車道に沿って川上に向かう。


 
 
●青の洞門 

 「青の洞門」は、諸国巡礼の途中だった禅海和尚が、30年余りをかけてノミと槌だけで掘った隧道。完成は、1763年(宝暦13年)。全長は約342mだったが、現在の洞門はかなり変化している。明治時代、陸軍の輸送路拡幅のための大改修で、当初の原型は大部分が破壊された。現在は歩行者用通路の一部に、当時のノミの痕跡が認められる程度となっている。写真は、「青の洞門」の入口で、車も通る。

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 当時の面影を残す手堀のトンネルと明かり窓やノミの跡が残る。

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 「青の洞門」の逸話は、大正時代に菊池寛の小説『恩讐の彼方に』のモデルとなり、また尋常小学校国語読本で取上げられて、知られるようになった。

 「青の洞門」の約500m先に、禅海和尚の像がある。

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 山国川に架かる「禅海橋」を渡って対岸へ渡り、レストハウスに戻る。

 「青の洞門」は、山国川のほとりから見学するほか、山腹を巡る「競秀峰探勝道」からもその美しさを満喫できるそうだ。隧道を通らずに難所であった崖側を通るルートが今も残っており、険しい場所ではあるが鎖などを伝って通ることができる。探勝道は、初級、中級で70分、上級で100分のコースがある。

 下の写真で、横に一筋の探勝道が見える。よく見ると鎖場も見える。

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 レストハウス洞門で「競秀峰」の絶景を見ながらランチ。耶馬渓のご当地グルメは「洞門バーガー」(430円~)。中津は鱧(はも)料理が名物、「鱧かつカレー」(1,080円)を注文する。

 13時20分、レストハウス洞門を出発。


●中津城

 国道212号を北上し、中津市街地へ。13時45分、「中津城公園」の駐車場着。事前に申し込んでいた中津耶馬渓観光協会の観光ガイドYさんの案内で、中津城や城下町を巡る。

 中津城公園に建つ福沢諭吉の言葉「独立自尊」の石碑。

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 「独立自尊」は、「心身の独立を全うし、自らのその身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」とある。自他の尊厳を守り、何事も自分の判断・責任のもとに行うことを意味し、慶應義塾の基本精神となっている。

 また公園内には、西南戦争の時に旧中津藩士によって中津隊が結成され西郷軍に参加した大顕彰碑「西南役中津隊之碑」も建っている。

 「中津城」は、黒田官兵衛(孝高、如水)が築城し、細川忠興が完成させた。江戸時代は小笠原家(8万石、後に4万石に半減)を経て、明治初期まで奥平家が10万石の藩庁だった。

 写真は、中津城に残る官兵衛が築いた石垣。自然石ではなく、直方体に加工された石が使われている。1588年(天正16年)に普請された現存する近世城郭の石垣としては、九州最古のものだそうだ。

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 模擬天守の北面は、黒田氏の石垣に細川氏が石垣を継いだ境("y"の字が見える)がある。向かって左が細川氏、右が黒田氏の石垣。(写真をクリックすると拡大表示)

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 堀には海水を引いたため、水城(海城)ともされ、今治城、高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。

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 天守の存在は不明で、模擬天守閣(資料館)が旧藩主奥平氏の子孫によって、1964年(昭和39年)に鉄筋コンクリートで建てられ、奥平家所蔵の宝物が展示されている。

 中津城へ入場。福澤諭吉旧居・記念館との共通入場券が600円。

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 城内には甲冑、刀剣、陣道具・古文書などの宝物が展示されている。3階には幕末・明治までの中津の蘭学の歴史のコーナーもあり、中津は蘭学で有名だったことも知る。

 明治時代の中津城の写真。今のような天守閣はない。

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 中津城天守の展望台からの展望。写真の北門橋が架かる「中津川」は、豊前海(ぶぜんかい、周防灘の南部海域)へ注ぐ。

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 大分県北西部、福岡県にまたがる英彦山(ひこさん、標高1199m)付近を源流として、耶馬溪を流れる「山国川」は、やがて福岡県と接し県境に架かる山国橋付近で二手に分かれる。中州である小祝島の東側は、「中津川」、西側が「山国川」となる。

 豊前海は、瀬戸内海を経て大坂・近畿に通じる。官兵衛が築いた中津城は、海路交通の便が良く、大坂からの知らせを早船で3日で受け取ることができ、九州の玄関口でもあった。

 

●福沢諭吉旧居 

 15時30分中津城を出て、「福沢諭吉旧居」に徒歩10分くらいで着く。

 福澤諭吉は、1835年(天保5年)に大坂の中津藩蔵屋敷で下級武士の次男として生まれる。1歳6ヶ月の時父が急死、母子6人で中津に帰郷する。貧しい少年時代を過ごし、14歳で儒学の塾に入る。

 旧居は、19歳で長崎に遊学するまで居住。当時の武士の生活を垣間見る。

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 諭吉は庭の土蔵を改修し、二階で窓の明かりで勉学に励んだという。諭吉の人形が座っていた。

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 旧居の庭に立つ諭吉の胸像(左)と隣接する「福沢諭吉記念館」にある胸像。

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 記念館の内部。『学問のすすめ』の版本や貴重な資料が展示されていた。

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 福沢諭吉旧居を16時30分発、観光ガイドと一緒に中津の城下町を散策する。



●合元寺

 寺町通りには、黒田官兵衛ゆかりの寺が多い。官兵衛の末弟が初代住職だった「西蓮寺」、閻魔様の「円龍寺」、河童の墓のある「円応寺」、赤壁寺の「合元寺(ごうがん)」などをめぐる。

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 「合元寺」は、官兵衛に従って姫路から中津に移り住んだ空誉上人が開山。官兵衛の子・黒田長政が謀殺した宇都宮鎮房(しげふさ)の家臣と激戦の場になった。その時の壁の血しぶきが、何度塗り直しても赤く染み出でくるため、ついに赤壁とせざるを得なかったという逸話が残っている。

 中津城公園の駐車場に戻り、17時20分案内頂いた観光ガイドYさんとお別れ。
  

 

 17時30分、「ホテルルートイン中津駅前」にチェックイン。

 荷物を部屋へ置いて、18:30~中津駅前のアーケード街へ。夕食の飲食店を探すが、土曜日とあってどこも混んでいる。

 焼きとん屋「くうとん」に入店、20時15分退店する。

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 20時半頃、ホテルに戻る。

 このホテルには大浴場があって1日の疲れを癒し、23時頃就寝。

 明日は、宇佐神宮と国東半島をめぐる。


 ★ ★ ★

 二百名山の「由布岳」は双耳峰で、東峰は家族連れでもOKだが、最高峰の西峰(標高1584m)は急な岩場や鎖場があって険しいという。山頂からは、百名山の九重山、祖母山、阿蘇山などが見えるそうだ。

 当初の旅行計画では、2日目に由布岳登山を予定していた。由布岳中央登山口(標高780m)から樹林帯を進むと、合野越(ごうやごえ)からは景色の良い開けた道となる。やがて松や灌木のジグザグ道を登ると、ミヤマキリシマ(5月下旬~)が咲き誇っているだろう。岩ゴロゴロの急坂になるとマタエ、この先は東西のピークに別れる。登りのコースタイムは、2時間10分。下りは1時間半。しかし、日程の都合で由布岳登山の計画を変更し、耶馬渓と中津に行くことにした。

  
 

 儒学者で南画家・書道家の頼山陽が、1818年(文政元年)に「山国谷」と呼ばれたこの地(耶馬溪町柿坂)を訪れ、その景勝を絶賛して「筆舌に尽難し」と筆を投げたという。

 その12年後、山陽は記憶を元に『耶馬渓図巻記』という山水画の絵巻を描き、この「山国谷」を中国風の文字を当て、「耶馬渓」と漢詩に詠んだのが、名前の由来だそうだ。その後、周辺の渓谷についても「耶馬渓」という名称が使われるようになった。各地域を「本耶馬渓」、「裏耶馬渓」、「深耶馬渓」、「奥耶馬渓」などと呼んでいるのはいつからだろうか。
 

 

 「耶馬渓」は、松島・天橋立・宮島の「日本三景」にならって、1916年(大正5年)に三保の松原(静岡県)と大沼公園(北海道)とともに「日本新三景」に選ばれた。1923年(大正12年)には国の名勝に指定、1950年(昭和25年)には、一帯が「耶馬日田英彦山国定公園」に指定された。また、寒霞渓 (かんかけい、香川県小豆島)、 妙義山(群馬県)とともに「日本三大奇勝」の一つである。

 しかし奇岩の周囲の樹木が生い茂り、昔のような景観が損なわれ、観光客の苦情もあったため、市が数年前から「耶馬渓修景」に取り組んでいる。地元や地権者の協力を得て、うっそうとした雑木を伐採、美観が復活したそうだ。修景ビフォー・アフターの写真を見ると、アフター後の今もまた木々が茂ってきているので、イタチごっこのような気もする。

 

 「青の洞門」が掘られる前、この付近を通行する際は川原を歩いていたそうだ。藩が下流に堰を設けために水量が増加し、川原が水没してしまった。このため断崖に道を作り、岩にくくりつけた鎖につかまりながら通らなくてはならず、転落する人が後を絶たなかったという。

 諸国遍歴の旅の途中、羅漢寺を参拝する折りに立ち寄った禅海和尚が、この断崖の難所で通行人が命を落とすのを見て、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと考えた。1730年(享保15年)頃、中津藩主の許可を得て、托鉢(たくはつ)で資金を集めて雇った石工たちと一緒に、また周辺の村民の協力や九州諸藩主の援助を得たりしながらノミと槌だけで30年かけて掘り抜き、1763年(宝暦13年)に完成させたといわれる。

 開通後は、通行料を徴収したという言い伝えもあり、日本最古の有料道路ともされる。ちなみに、洞門は江戸時代には「樋田(ひだ)のくりぬき」と呼ばれていたそうだが、大正以降に「青の洞門」という名称になったという。「樋田」や「青」は、この地域の地名だそうだ。

 子供の頃にどんな本を読んだのか忘れたが、この「青の洞門」の話は何故かよく覚えている。
 


 中津は、「蘭学の里」と呼ばれる。福沢諭吉のほかにも多くの蘭学者、医師を輩出したことを知った。オランダの解剖書「ターヘル・アナトミア」を翻訳、「解体新書」を出版した中津藩医で蘭学者の前野良沢(まえのりょうたく)は、特に著名。ほかにも、日本で最初の和蘭辞典「蘭語訳撰」と蘭和辞典「バスタード辞書」を刊行した奥平昌高(中津藩5代藩主)、九州で最初の解剖を行った村上玄水らは、蘭学や医学の礎を築いた。

 「蘭学の里・中津と中津城」の顕彰碑が中津城公園に建てられていた。中津城資料館にも、多くのパネルを使って中津の蘭学の歴史を詳しく説明してあった。見てはないが、JR中津駅前にも福沢諭吉の銅像とともに、「蘭学の泉ここに湧く」という碑文があるそうだ。

 中津の城下町を散策すると、あちこち説明板とともに史跡や偉人ゆかりの場所があり、まさに故郷を愛し誇りを持つ町だったということが、心に残る。このブログに書ききれないほど、中津を丁寧に説明して頂いたボランティア観光ガイドに感謝。


■追補■ 2017/6/24

-由布院と湯布院について

 1955年(昭和30年)に由布院町と湯平(ゆのひら)村が合併して湯布院町となった。昔からある地名などは由布院温泉、由布院駅、由布岳と言い、湯布院の“湯”の字を使うのは新し町全体を指すとき。由布院温泉と湯平温泉を合わせて、湯布院温泉ともいう。   
    
 更に2000年(平成17)年、庄内町、挾間町、湯布院町が合併して由布市となり、由布院温泉や由布院駅のある旧湯布院町は、由布市湯布院町になった。このように「湯布院」と「由布院」が混在し分かりにくくなったため、「ゆふいん」と表記されることもある。
   
    
-九重、久住、くじゅうについて
    
 地域一帯を「くじゅう」と呼び、北側に九重町(ここのえまち)、南側に久住町(くじゅうまち:現、竹田市)がある。山名は「久住山」、火山群や周辺地域全体は「九重山」、または「九重連山」と呼ぶ。

 

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