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2017年6月の8件の投稿

2017年6月25日 (日)

映画「家族はつらいよ2」

 2017年6月21日(水)、映画『家族はつらいよ2』を観る。

 

 山田洋次監督の国民的映画『男はつらいよ』シリーズが終了してから20年以上が経つ。山田監督が取り組んだ本格的ホームコメディ・ドラマ『家族はつらいよ』の2作目。

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 橋爪功と吉行和子が、熟年離婚の危機を迎えた夫婦を演じた『家族はつらいよ』の続編。3年前の『東京家族』で演じた西村雅彦×夏川結衣、中嶋朋子×林家正蔵、妻夫木聡×蒼井優 が、前回、今回もそれぞれの夫婦で配役。 

 父親の運転免許返上の問題をめぐって家族の騒動が起こるが、運転中に故郷の同級生に偶然再会。その同級生が来訪し、新たな大騒動を引き起こす。

 映画のパンフレットの表紙。

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 離婚騒動から数年後、周造はマイカーでの外出をささやかな楽しみにしていたが、最近車に傷が目立ち始めたことを長男の妻・史江(夏川結衣)が気付く。高齢者の危険運転を心配した家族は、周造から運転免許を返上させようと画策する。

 しかし、頑固なオヤジをいったい誰が説得するのか。嫌な役回りを兄妹夫婦でなすりつけ合う。そんな家族を見透かした周造は、「いつの間に俺の家族は言いたいことも素直に言えなくなってしまったんだ!もう崩壊しているな、この家族は!」と大激怒。「俺は死ぬまで車を運転する!」と宣言する始末。平田家は、またもや不穏な空気に包まれる。

 そんなある日、富子(吉行和子)が海外旅行に出かけることになり不在に。つかの間の独身生活を楽しむ周造は、お気に入りの居酒屋の女将・かよ(風吹ジュン)を食事に誘い、車を走らせる。その途中、道路工事の現場で交通整理に汗を流す高校時代の同級生・丸田吟平(小林稔侍)と偶然再会する。

 その直後にダンプカーと追突事故を起こしてしまうが、かよの機転の利く対応で事なきを得る。しかし、長男夫婦に交通事故と女性とのデートがバレてしまい、大喧嘩に。

 同級生の丸太は、大きな呉服屋の跡取り息子。高校時代は背が高くてサッカー部のゴールキーパー、女子生徒にモテた。男子生徒の憧れのマドンナと結婚、その後離婚や事業の失敗、だまされて保証人になり借金に追われる生活で音信不通に。今や独り身で、貧しく寂しい生活を送っていたのだった。

 周造は丸太のために同窓会を開き、四十数年ぶりに一緒に酒を飲み、酔っぱらった丸田を自宅2階の留守中の富子のベッドに泊める。翌朝、周造の免許返納について家族会議を開くため、長男・幸之助(西村雅彦)が招集した兄妹夫婦たちが集まった。ところがなんと、泊まっていた丸太が血を吐いて息を引き取っており、平穏な住宅街に救急車や警察がやって来て、平田家は大パニック・・・。

 映画のパンフレットから転載。

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 ★ ★ ★

 前回は探偵事務所の小林稔侍は、貧しい孤独老人の役。特別出演の笑福亭鶴瓶と演歌歌手・徳永ゆうきは、チョイ役で出演。刑事役の劇団ひとりと新米巡査の藤山扇治郎(藤山寛美の孫)は、初出演だった。

 高齢者ドライバーの問題から端を発して、老々介護、老人の孤独死などのいわゆる高齢化社会の問題点が浮きあがって来る。前回の「熟年離婚」に続いて、「無縁社会」というテーマを背景に、平田家の大騒動、大喧嘩の可笑しさに、劇場の中は私を含め観客も大爆笑だった。丸太という男を通じて、悲哀とか哀愁を感じながら・・・。

 今回も庄太(妻夫木聡)の妻・憲子(蒼井優)が、このストーリーのキーパーソン。ドタバタ家族の中でも、一番しっかりしていていて良識もあるまともな人物。看護師をしている。しかし憲子の家族は大変だ。憲子の実家の母親は、寝たきりの認知症の祖母を引き取り、保険営業の仕事をしながら介護をしている。別れた父親は、ペースメーカーをつけているのに酒好き、医者嫌い、博多でひとり暮らしという孤独老人。家族から見放された老人の孤独死は、憲子にとっては他人事ではないというのが伝わって来る。

 やっぱり憲子役の蒼井優には、山田監督が尊敬する小津安次郎監督の映画『東京物語』、紀子役の原節子をイメージしてしまう。
 

 周造役の橋爪功は1941年9月生まれの75歳と、ちょうど後期高齢者。免許更新時に認知機能検査や高齢者講習の受講などがあり、映画と同じくそろそろ免許返上の年代か。富子役の吉行和子は、映画ではとても70歳前後くらいにしか見えないが、なんと1935年8月生まれの81歳。80代にしてまだまだ現役女優として活躍しているのは凄い。

 1931年9月生まれで85歳の山田洋次監督には、家族コメディシリーズの3作目『家族はつらいよ3』も期待したい。

 

 

 本ブログの関連記事は以下の通り。

 映画「東京家族」 2013年2月9日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-1fb5.html

 映画「家族はつらいよ」  2016年4月7日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-009d.html

2017年6月24日 (土)

大分・豊の国探訪の旅-その3

 2017年5月26日(金)~28日(日)、大分・豊の国の自然と歴史を訪ねる2泊3日の旅。

 

 本ブログ記事「大分・豊の国探訪の旅-その2」の続き。

 【3日目】は、八幡神社の総本宮「宇佐神宮」と古代仏教文化の里「国東半島」をめぐる。

 

 5月28日(日)朝、「ホテルルートイン中津駅前」にて起床。6時45分からホテル内のレストランで朝食バイキング。

 7時15分、ホテルを早めに出発、国道10号線を東へ走る。宇佐神宮の4kmほど手前の赤い橋「瀬社橋」から上り坂、その頂上付近に御幡交差点がある。そこで、事前に申し込んでいた宇佐市観光協会の観光ガイドWさんと、7時50分に合流。

 ガイドの案内でここから10号線を外れ、天皇から派遣された勅使が通ったという細いまっすぐな道(勅使街道)を2Kmほど進む。この道は宇佐神宮の「呉橋」、「西参道」に通じる。

 

●極楽寺 -宇佐市南宇佐

 まず、宇佐神宮のすぐ近くにある「極楽寺」に入る。宇佐神宮の神仏習合の歴史を知る上で、非常に重要なお寺だそうだ。

 極楽寺の弥勒堂に安置されている「弥勒大仏」は、かつては「宇佐八幡宮弥勒寺」の講堂の本尊仏だった。明治の廃仏毀釈騒動の時に難を逃れ遷座。県の有形文化財に指定。

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 現地の案内板には以下のようにあった。

 「元宇佐神宮境内にあった弥勒寺講堂の本尊仏であったが、明治初年の神仏分離令によりこの極楽寺へ招来された。 弥勒仏は正しくは弥勒菩薩であるが、五十六億七千万年後に如来(仏)となることが確定されているので、弥勒仏(如来)と称され、仏像としても如来像としても作成される。 本像は丈六(一丈六尺、筆者注=約4.8m)の大仏である。」


●宇佐神宮 -宇佐市南宇佐

 宇佐神宮は、全国に約44,000社ある八幡宮の総本社、通称「宇佐八幡」。「石清水八幡宮」、「筥崎宮」又は「鶴岡八幡宮」とともに「日本三大八幡宮」の一つ。祭神の八幡大神(はちまんおおかみ)は、応神天皇の神霊とされる。宇佐神宮は、神仏習合発祥の地。神仏分離以前は弥勒寺と一体のものとして、「宇佐八幡宮弥勒寺」と称した。参拝料無料。

 極楽寺から表参道入口を経て、8時30分寄藻川(よりもがわ)に架かる太鼓橋の「神橋」を渡る。

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 神橋を渡ると「大鳥居」が見え、広くてまっすぐな「表参道」が続く。

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 大鳥居の手前右側に「黒男(くろお)神社」がある。御祭神は、武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)。景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇と5代の天皇に240余年もの間、忠臣として仕えた伝説上の人物。古くから大鳥居の外に鎮座、八幡大神をお護りしている長寿、忠誠、奉仕などの神様。

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 大鳥居をくぐり長い表参道を進むと、右手に宝物館、初澤池(はつさわいけ)、参集殿、神宮庁、左手に絵馬堂、菱形池、能楽殿があって、8時50分手水舎(てみずや)でお清め。

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 手水舎の先、右手の「春宮(とうぐう)神社」には、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を祀る。応神天皇の皇子を祀る2つの摂社の一つ。

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 勉学に励んだことから学問の神様として敬われている。菟道稚郎子は応神天皇に寵愛され、皇太子に立てられていたが、異母兄の大鷦鷯尊(おほさざきのみこと、仁徳天皇)に皇太子の座を譲った。

 参道は、「祓所(はらえど)」で左に曲がり、本殿がある「上宮(じょうぐう)」のある亀山(小椋山(おぐらやま)ともいう)に向かって上る。
 
 写真は、うっそうとしたイチイガシやクスノキの自然のままの常緑広葉樹林(国指定天然記念物)に囲まれた石畳、石段の参道から、上り口にある鳥居を振り返る。

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 「若宮神社」の手前の参道に、三角形の石が二つ並ぶ「夫婦石」がある。夫婦やカップルは、手をつないで左右の石を一緒に踏む、独り身なら両足で二つの石を踏むと幸せになれるそうだ。

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 参道の左手にある「亀山神社」は、上宮が鎮座する亀山の中腹に鎮座。祭神は亀山の神の大山積尊(おおやまつみ)。ガイドに言われてこの神社の礎石をよく見ると、亀の形をしていた。

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 「西大門」前に建つ木造の鳥居「宇佐鳥居」は、県指定有形文化財。宇佐古来の形式をもつ鳥居として知られる。大きい反りのある笠木(かさぎ、2本の柱の上の横木)に桧皮葺(ひわだぶき)の屋根をかけ、額束(がくづか)はなく、柱上に台輪(だいわ)を置いている。大鳥居をはじめ、他の宇佐の鳥居もすべてこれと同じ形式。写真は、2016/1/26撮影。

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 文禄(1592年~)のころ改築されたとされる「西大門」は、唐破風(とうはふ)に安土桃山風の彩色を施した構造で桧皮葺。

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 西大門をくぐると亀山山頂に鎮座する立派な「上宮(じょうぐう)」に到着。目の前に見える建物は、左から一之御殿、二之御殿、三之御殿の本殿を囲む回廊である。拝礼は一般的な2礼2拍手1礼でなく、出雲神社と同じく2礼4拍手1礼。三御殿に参拝する。

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 三之御殿前にそびえる推定樹齢800年のクスノキは、御神木(写真右手)。EXILEのUSA(うさ)さんが祈願、テレビ番組で紹介されてパワースポットになった。

 回廊の中の本殿は、よく見えなくて写真が撮れない。写真下は、(公社)ツーリズムおおいた「おおいた風景写真集」より転載。

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 宇佐神宮の本殿は、八幡造(はちまんづくり)という古来の様式を今に伝える貴重な建築として国宝に指定。二棟の切妻造平入の建物が前後に接続したマクドナルドの”M”の字の形をしている。両殿の間に大きな黄金の雨樋(あまどい)が渡されているという。桧皮葺(ひはだぶき)で、白壁、朱漆塗柱の美しい建物が並んでいる。

 本殿の奥殿を「内院」、前殿を「外院」という。神様の夜のご座所である内院には御帳台(みちょうだい、寝所)があり、昼のご座所である外院には御椅子が置かれているそうだ。

 一之御殿は、八幡大神(はちまんおおかみ、応神天皇)を祀る。

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 「南中楼門」は、皇族や勅使が通る門。入母屋造り檜皮葺の重厚な造りで、二之御殿の前にある神宮内郭の南正門。県指定有形文化財。

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 南中楼門の奥にある二之御殿は、比売大神 (ひめのおおかみ)を祀る。宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)ともされる。

 三之御殿は、応神天皇の母である神功(じんぐう)皇后を祀る。

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 現在の本殿は、一之御殿は1860年(万延元年)、二之御殿1859年(安政6年)、三之御殿1861年(文久元年)の建立。

 上宮から下宮に向かう途中に「若宮神社」がある。八幡神の応神天皇の若宮(皇子)である大鷦鷯命(おほさざきのみこと、仁徳天皇)と他の皇子を祀り、除災、厄除けの神様として知られる。写真は2016/1/26撮影。

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 亀山の山麓に鎮座する「下宮(げぐう)」は、弘仁年間(810年~824年)、嵯峨天皇の勅願により創建。上宮からの分祀で、祭神は上宮と同じ3柱。

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 古代から国家の大事を決する時、「若宮神社」の拝殿で亀占(きせん)を行っていた。その時に用いた亀甲を焼いたものを、この下宮境内の「兆竹(さましだけ)」を用いて「”冷ました”とされている。

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 写真下は、古くは壮大な「弥勒寺」という神宮寺が、廃仏毀釈により取り壊され、礎石のみが残っている。

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 かつて弥勒寺があった境内は、八坂神社や北側には神宮庁(社務所)と宝物館が建っている宇佐神宮境内の西側一帯だった。

 呉橋くればし)は西参道の途中、寄藻川に架かる屋根のついた神橋。鎌倉時代以前からあるとされ、呉の国の人が掛けたという伝承がある。県指定文化財。

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 この橋は、10年に1度、勅使のみが渡ることが出来る。普段は橋の両端の扉に、鍵が掛けられている。

 宇佐神宮を10:10分に出て、3Kmほど北にある「県立歴史博物館」へ向かう。


 

●県立歴史博物館(宇佐市大字高森字京塚)

 「県立歴史博物館」に10時15分着。九州最古の前方後円墳など6基の古墳群を有する「宇佐風土記の丘」内にある歴史博物館。

 宇佐神宮や国東半島の六郷満山(ろくごうまんざん)の八幡・仏教文化などを中心に、大分の歴史・文化を体系的に展示。観覧料金310円。

 写真は、博物館ロビーにある熊野磨崖仏(大日如来像)の複製。

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 「富貴寺大堂」の実物大の模型。中央に阿弥陀如来坐像が見える。

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 富貴寺大堂に安置されている木造の阿弥陀如来坐像と壁画の複製。

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 博物館の観覧チケットには、富貴寺大堂の壁画、極楽浄土の世界が描かれている。

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 時間の都合でこれら展示以外の見学は簡単に済ませ、博物館を10時55分に出て東進、国東半島の豊後高田市へ向かう。


●富貴寺(ふきじ) -豊後高田市田染蕗(たしぶふき)

 国東半島の県道34号線を桂川に沿って東に向かう。やがて桂川支流の蕗(ふき)川に沿って分岐し、3kmほど道なりに進むと県道655線との合流点付近に富貴寺がある。博物館から車で走ること25分、11時20分に「富貴寺」に到着。

 石段を上ると、ユーモラスな石造の仁王像のある仁王門。拝観料300円。

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 「富貴寺大堂」は、近畿以外に所在する数少ない平安建築の一つで国宝。

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 本尊の木造阿弥陀如来坐像は、榧(かや)の木の寄木造り、平安時代藤原期の作で、極楽浄土の大堂壁画と合わせて国の重要文化財。富貴寺境内全体は、国の史跡に指定。

 歴史博物館で見た富貴寺大堂、壁画、阿弥陀如来坐像の実物を目の当たりにする。

 堂の中は、撮影禁止。下の写真、阿弥陀如来坐像は「豊後高田市フォトギャラリー」より転載。仏像の金箔は剥がれ、壁画の彩色は失われている。

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 富貴寺大堂の境内には、貴重な石仏や石塔が建っている。南北朝時代とされる十王石仏と一番右端によく見えないが奪衣婆(だつえば)の石仏がある。

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 十王は、中世以降に国東半島に持ち込まれた信仰で、閻魔(えんま)大王をはじめとする地獄の裁判官。大堂壁画の極楽浄土の世界と対比して安置されたと考えられる。奪衣婆は、三途の川の渡し賃を持たない亡者の衣服を奪い、罪の重さを量る仏様。

 笠塔婆(かさそとば、左の写真)4基は、鎌倉時代に立てられたと伝えられる。県指定有形文化財。国東塔(くにさきとう、右の写真)は、国東半島独特の宝塔の一種。一般の宝塔には台座がないが、国東塔は基礎と塔身の間に蓮華座の台座があるのが特徴。

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 富貴寺の門前の食事処「榧(かや)の木」で昼食。山かけそば750円。富貴寺前を12時25分に出発、県道655号を南下する。

 
 

●元宮磨崖仏と大門坊磨崖仏 -豊後高田市真中

 計画外だったが、観光ガイドの案内で富貴寺から3.4Kmの県道655号沿いの右手にある「元宮磨崖仏」に立ち寄る。12時30分着。

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 不動明王を中心として、凝灰岩の岩壁に6体の仏像が薄肉彫りで刻まれていたが、1体は欠損しているという。国の史跡に指定。室町時代の作とされる。風雨をさけるための比較的新しい屋根が設けられていて、賽銭箱、香炉、花立てなどが設置されていた。

 元宮磨崖仏から更に県道655号を500mほど進むと、右手に「大門坊磨崖仏」がある。

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 豊後高田市真中の大門坊という寺院の境内の凝灰岩の岩壁に、薬師如来、大日如来など数体の仏像が刻まれている。日当たりが悪いせで苔が生え、雨ざらしの状態で風化が進んでいる。よく見ないと、どこに仏像が彫ってあるのか分からない。制作年代は、鎌倉期と推定。大門坊磨崖仏を12時45分に出る。



●真木大堂 -豊後高田市田染真木

 更に県道655号を南下し、富貴寺より5.2Kmの県道沿い右手に「真木大堂」がある。12時45分着。

 古刹「伝乗寺」は、六郷満山の最大規模の本山本寺で、多くの学僧を集めた学問所、平安時代に建てられた。広大な境内の中に、七堂伽藍を備えて田染地区だけでも36の寺坊があって隆盛を誇ったが、約700年前に焼失したそうだ。

 写真は、ウィキベディアコモンズ「真木大堂」から転載。

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 現在の「伝乗寺」の本殿。木造の仁王像(阿形と吽形)。国東半島で石造の仁王像は多いが、木造はまれだという。

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 「真木大堂」は、その伝乗寺の堂宇のひとつ。火災の難を免れ、現存する木造9体の国指定重要文化財の仏像は、空調の効いたこの一堂に集めてありガラス越しに拝観(拝観料300円)できる。

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 堂内は撮影禁止。下の3枚の写真は、「豊後高田市フォトギャラリー」より転載。

 白い水牛に乗った大威徳明王(だいいとくみょうおう)は、顔、手、足がそれぞれ6つある。次の写真は、不動明王と二童子立像。

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 阿弥陀如来坐像と4体の四天王立像。

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 真木大堂の境内にあった石造物。国東塔と庚申塔。

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 真木大堂発13時15分、県道655号を更に南下する。

 

●熊野磨崖仏 -豊後高田市田染平野

 真木大堂より2.6Km、「胎蔵寺」の駐車場に13時20分着。拝観料300円。

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 「胎蔵寺」横の山道を登る。鳥居をくぐると急な石段が続き、さすがに息が切れる。乱積みと言われる自然石の石段は、登って行くほど乱雑で歩きにくい。鬼が一夜にして積み上げたという言い伝えがあるそうだ。

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 開けた広場に出ると熊野磨崖仏が現れる。平安後期藤原時代の作とされ、国の重要文化財、史跡。日本最古・最大級の不動明王(約8m)と大日如来(約6.7m)。

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 胎蔵寺を13時50分出発。県道655線に出た所で、観光ガイドが指さす方向の峰の中腹に大きな洞穴がある。国東半島にはこういった洞窟がたくさんあって、修験者たちが籠って修行したという。

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 県道655号線を北上して真木大堂付近まで戻り、これまで案内していただいた観光ガイドのWさんと別れる。朝早くから午後2時くらいまで、案内して頂いたWさんに心から深謝。

 県道34号線を東進、大分空港(国東市)近くでレンタカーを返却、空港に余裕を持って15時10分に到着。ソラシドエア92便は、大分空港を定刻通り16時50分出発。羽田空港18時30分着、21時20分自宅着。
   

 

 ★ ★ ★

 「宇佐神宮」は、皇室からも崇敬される「伊勢神宮」に次ぐ宗廟(そうびょう)として、実在したとされる最古の天皇・応神天皇を祀る。応神天皇は、大陸文化を取り入れて国を繁栄させた天皇として神格化された。571年(欽明32年)宇佐の地で八幡大神として崇められるようになり、725年(神亀2年)に宇佐神宮が創建された。

 東大寺の大仏建立の際、東大寺の守護神に宇佐八幡の分社を勧請(かんじょう)したのが「分社」の始まり。それ以後、石清水八幡や鶴岡八幡など、多くの八幡社が造られるようになった。

 奈良時代、僧・道鏡が皇位を得ようとした「道鏡事件」は有名な話。勅使の和気清麻呂(わけのきよまろ)が宇佐神宮の神託を問うために参宮するなど、歴史の舞台となった。戦前には、清麻呂は皇統の断絶を救ったとして、楠木正成とならぶ勤皇の忠臣と見なされ、十円紙幣に肖像が印刷された。

 2015年(平成27年)10月、10年に一度の「勅司祭」(天皇の勅使が派遣されて行われるる祭祀)が執り行われた。勅使御奉迎の打上花火や提灯行列、奉納行事や野点(茶席)などの行事が催され、また勅使が渡る「呉橋」が一般開放された。この祭りは、宇佐市民や観光客で大賑わいだったそうだ。
 

 観光ガイドの説明で、宇佐神宮には3つの発祥の地であることを知る。

 一つ目は、「神仏習合」の発祥の地。二つ目は、「神輿(みこし)」の発祥地。そして三つめは、宇佐神宮における最古の祭祀で、全国各地で行われる「放生会(ほうじょうえ)」の発祥の地でもある。

 東大寺の大仏参拝のために、八幡神が神輿に乗って宇佐から上京したという言い伝えがある。以後、神輿は神の移動手段として、全国に広まっていったという。

 720年(養老4年)、大和朝廷は隼人(はやと)の反乱を鎮圧するため、一万人の兵を南九州に送る。宇佐の人々も八幡神を神輿(みこし)に乗せて現地に赴き、3年にわたって抵抗する隼人を平定して帰還した。いつのまにか八幡神は、大和朝廷の守護神とされた。

 その後、隼人の霊を慰めるため「放生会」をすべしとの八幡神のお告げが下る。隼人の霊に見立てた蜷(にな)や貝を、海に放つ祭典がとり行われた。これが、現在でも宇佐神宮の重要な祭礼「放生会」(仲秋祭)の始まりで、宇佐は全国各地で行われる「放生会」の発祥の地なのである。

 

 国東半島の中央にそびえる最高峰・両子(ふたご)山(標高721m)から、谷々が放射状に海岸へと広がり、約28谷を六つの里に分け、六郷と称した。国東半島の中央部は両子火山群の溶岩ドーム、溶岩台地で、その周囲は火山噴出物で形成されている。

 この地に開かれた天台宗の寺院全体を総称しして「六郷満山」と呼び、奈良・平安・鎌倉時代より、全国八幡社の総本社「宇佐八幡」の庇護と影響の下で、神仏習合の独特の寺院集団と山岳信仰が形成された。往時には半島一帯に185の寺院、洞窟・僧坊を含めて約800の大小の堂、また石仏・石塔が点在し、「ほとけの里」と呼ばれる六郷満山仏教文化圏が開かれ、山岳地域の険しい山道を歩く修行が行われるようになった。

 両子山の中腹にある寺院「両子寺」は、山岳修行の中心。深い緑に包まれた神秘的な境内、山門を背景にした仁王像、本堂、護摩堂、奥の院等、往時の佇まいを伝える。

    
    
 関連ブログ記事
   
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 「大分県立歴史博物館」2016/02/03投稿
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 「宇佐神宮」 2016/02/01投稿
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2017年6月21日 (水)

吉見朝観音2017

 2017年6月18日(木)、今年も埼玉県比企郡吉見町の「吉見朝観音詣り」に行く。
 

 この日の恒例行事、早朝ウォーキングに参加。

 早朝5時、集合場所を出発。梅雨に入ってどんよりとした曇り空だが、蒸し暑くもなく清々しい気持ち良い早朝ウォーキング。まだ人通りのない市街地、住宅地、田園地帯の数キロの道のりを歩く。 

 古墳時代末期の横穴墓群の遺跡「吉見百穴(ひゃくあな)」の前を歩く。

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 田植えが終わった田園地帯を進む。

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 1時間後の午後6時頃、「吉見観音」に到着し、参拝。

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 本堂から境内を見下ろす。

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 埼玉県比企郡吉見町にあるこの寺は、地元では「吉見観音」と呼んで親しまれている。正式には「岩殿山 安楽寺」、坂東第11番札所。古くから毎年この日は「厄除け朝観音御開帳」が行われ、お参りが朝早いほど御利益があるとされ、深夜から早朝まで参拝客で賑わう。

 境内には名物の「厄除け団子」を売るテントの前で買い求める参拝客の行列。

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 参道には大判焼き、焼きそば、お好み焼きなどの屋台も並んでいる。

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 参加者は参拝後、近くの空き地に集合。朝食の弁当とお茶、お土産の厄除け団子が配られた。

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 朝食後、7時前に現地解散。参加者は、三々五々とまた往路を歩いて帰る。

  

 ★ ★ ★
 
 古くから吉見観音の参道で店を開いている茶店の「どびんや」は、本日分の厄除け団子が売り切れたのか、午前6時過ぎに覘いた時はすでに店が閉まっていた。

 「どびんや」をネットの「食べログ」などのグルメサイトを見ると、名物・厄除け団子のメニューとして、柚子味噌団子、みたらし(甘辛)団子、醤油団子、粒餡団子が並んでいる。

 この日に売られている「厄除け団子」を持ち帰ると、家族には美味しくないと評判が悪い。和菓子として食べ慣れているみたらしや粒餡、漉し餡の団子ではなく、焼いて醤油がかかった昔からの味付けの醤油団子だから。

 

 江戸時代にこの辺りで疫病が流行った時、貴重な米粉で作っただんごを、安楽寺の観音様に朝早くお供えしたところ、たちまち疫病が治まったというのが「厄除けだんご」の由来だという話がある。そこで、毎年6月18日の早朝に観音詣でが行われ、境内では「厄除け団子」が売られるようになったという。この団子を食べると、1年間の厄払いが出来ると言われており、地元の参拝者はこれを買い求め、家族だけでなく親戚・隣人・知人にも配ったりしている。

 現在の串団子は、様々な材料と味付けされた団子が商品化されているが、古来より団子は神仏への供え物としたようだ。供え物の団子は、祈祷を済ませた後は硬くなっているので、焼いてから醤油で味付けして食したのだと思われる。

 なお、砂糖醤油の葛餡(くずあん)をかけた「みたらし(御手洗)団子」は、京都の下鴨神社が行う「御手洗祭」が語源だそうだ。醤油だれ団子、焼き団子、醤油団子、単にみたらしとも言う。甘辛いみたらし団子を指して、甘辛団子、甘辛とも言ったりする地域もあってややこしい。

 

 

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2017年6月16日 (金)

大分・豊の国探訪の旅-その2

 2017年5月26日(金)~28日(日)、大分・豊の国の自然と歴史を訪ねる2泊3日の旅。

 

 本ブログ記事「大分・豊の国探訪の旅-その1」の続き。

 【2日目】は、「由布岳(ゆふだけ)」を眺めながら、大分県の景勝地「耶馬渓」へ。黒田官兵衛と福沢諭吉ゆかりの中津城下町をめぐり、中津市内のホテル泊。

 

 5月27日(土)朝、「おにやまホテル」にて5時起床。朝食は、ホテル内のレストラン「和味(なごみ)」で和洋バイキング。

 「おにやまホテル」を8時出発。国道500号、県道11号を経て、別府インター(IC)から大分自動車道を日田方面へ走る。

 

●由布岳

 深田久弥が百名山に入れず後悔したとされる豊後富士とも呼ばれる「由布岳」を、高速道路を走る車窓から眺める。由布岳は、東峰と最高峰の西峰(標高1584m)の双耳峰。

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 8時30分、大分自動車道の由布岳パーキングエリア(PA)着、10分ほど休憩。北斜面の山頂から山腹にかけての大規模な崩壊地を見上げる。

 PAに立つ案内板によると、麓の集落を守るための治山ダムなどの治山施設が整備されているという。昨年3月の熊本地震でも大量の土砂が崩落したしたそうだが、麓の被害を防止したと書いてあった。

 大分自動車から左手に「九重連山」が見えるはずだが、確認できなかった。
 
 

●一目八景

 大分自動車道玖珠ICを出て右折し国道387号、県道28号へと狭い山道を走る。大分県の温泉というと、別府や湯布院にある温泉をイメージするが、この辺りの山間部にもいくつも温泉地があるのに気がつく。大分県が「おんせん県」だというのが、よくわかる。

 「深耶馬渓」は、「山国川」支流の「山移川(やまうつりかわ)」支流に位置する渓谷で、「一目八景」が有名。 「一目八景」は、切り立った凝灰岩と広葉樹林から成る渓谷。群猿山(ぐんえんざん)、鳶ノ巣山(とびのすいわ)、嘯猿山(しょうえんざん)、夫婦岩(めおといわ)、雄鹿長尾の峰(おじかながおのみね)、烏帽子岩(えぼしいわ)、仙人ヶ岩(せんにんがいわ)、海望嶺(かいぼうれい)などの岩峰群が一望できる深耶馬渓の代表的なスポット。

 近くには鴫良(しぎら)、深耶馬渓などの温泉がある。

 車を走らせると、谷筋の狭い県道28号線の両側に土産屋や食事処が並ぶが、駐車スペースがない。そのまま県道を進むと、左手に大きな無料駐車場があった。9時20分駐車場に車を置き、川沿いの散策道を上流に向かって歩く。10分ほどで一目八景展望台に着く。

 鳶(とび)の幼鳥が餌をもらおうと天に口を開け、周りの木々が鳥の巣のように見えるという「鳶ノ巣山」。

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 2つの岩が夫婦のように寄り添う「夫婦岩」。

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 猿が群がっているように見える「群猿山(ぐんえんざん)」。

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 このほかにも、いくつか名前の付いた岩峰を確認。

 一目八景を9時50分出発、県道28号をさらに北上する。

 

●耶馬渓ダム

 10時05分「耶馬渓ダム」に寄って、ダム湖を眺めながら5分ほど休憩。

 ダム湖の噴水は何かと思いきや、説明板によるとダム貯水池の水質保全を目的としたものだそうだ。ポンプの加圧や散水によってプランクトンの増殖を抑えるという。

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 一級河川の山国川水系の山移川に建設された「耶馬渓ダム」は、山国川の治水、利水及び水力発電を目的とした特定多目的ダム。

 耶馬渓ダムの完成を記念して1987年に造られた広さ約2万平方mの「渓石園(けいせきえん)」と呼ばれる日本庭園があるが、時間都合でスキップする。

 

●羅漢寺

 耶馬渓ダムより国道212号を北上、七仙橋を渡って約500m先の交差点を右折、国道500号を南下する。

 10時40分、羅漢寺の駐車場に到着 。

 ここ豊前の「羅漢寺」は、「日本三大五百羅漢」の一つ。645年(大化元年)にインドの僧・法道仙人が岩山で修行して開基したとされるが、伝説の域を出ないそうだ。ここには五百羅漢をはじめとして、三千体以上の石仏がある。国の重要文化財。

 駐車場から羅漢寺への入口。

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 参道入口の左にある「禅海堂」のすぐ裏に、リフト乗り場がある。

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 「禅海堂」は、「青の洞門」を掘った僧・禅海(後述)を祀っていて、ノミや槌が展示されているそうだ。

 羅漢山の山頂までのリフト往復800円を購入する(羅漢寺までだけなら、700円)。写真は、羅漢寺に向かうリフト。約3分で羅漢寺駅に着く。

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 羅漢寺駅でリフトを降り、険しい崖に沿った狭い山道を進むと、崖に「千体地蔵尊」の看板のある建物がある。

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 格子の隙間から建物の中を覗く。室町期に安置されたという1,100体以上の地蔵尊。

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 石段を上ると途中、小さい洞窟にも石仏や石塔が並ぶ。

 羅漢寺の山門。室町幕府の三代将軍足利義満により建立されたとされる。

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 この山門の先からは、撮影禁止。山門の入口から左側に「無漏窟」(むろくつ、五百羅漢窟)と呼ばれる大きな洞窟があり、様々な表情をした五百羅漢などが安置されているが、写真を撮れず残念。

 写真の右上には、鐘楼が崖にへばりついている。

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 この先を進むと、見晴らしの良い羅漢山の中腹に、洞窟に半分埋め込まれた立派な本堂が建っていた。本堂は1943年(昭和18年)の火災で焼失、現本堂は1969(昭和44年)年に再建されたそうだ。

 羅漢寺駅へ戻り、更にリフトに乗って3分、羅漢山の山頂に着く。

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 山頂には高い鉄骨の展望台があって、阿蘇山、英彦山、豊前海が見えるという。阿蘇山(写真中央)は確認できた。
 
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 なお、羅漢寺の向かいの山に「古羅漢」があるという。「古羅漢」には磨崖仏(まがいぶつ)、石仏、国東塔(くにさきとう)などが残されていているそうだ。

 今回は時間の関係でリフトで羅漢寺に登ったが、江戸時代中期に作られたという旧参道は、往復45分の散策コースで、緩やかな石畳で風情があるそうだ。

 11時35分、羅漢寺の駐車場をあとにする。

 

●競秀峰

 本耶馬渓は、大分県北部の下毛(しもげ)郡にあった旧町名。旧本耶馬渓町は、2005年(平成17)中津市に編入した。国指定名勝「耶馬渓」の中心をなし、「青の洞門」や「競秀峰」を中心とする山国川上流一帯を指す。

 国道500号から国道212号へ戻り、約300mほど先の目的地「レストハウス洞門」駐車場に11時40分着。

 「レストハウス洞門」から1周約1.8Kmの山国川の畔を散策する。岩峰が連なるの「競秀峰」の絶景を見ながら下流へと遊歩道を歩く。

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 「競秀峰」は景勝地の多い本耶馬渓のなかでも、屈指の美しさを誇る岩峰だという。「青の洞門」の上にそびえる。大黒岩、恵比須岩、妙見岩など8つの岩峰が集まり、いかに秀でているか競いあっているように見えるというのが名前の由来か。凝灰石の層が帯状に浮かび上がっていることから帯岩とも呼ばれる。



●耶馬渓橋

 山国川に架かる8連アーチの石橋「耶馬渓橋」を渡る。青の洞門からわずか500m下流にある

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 日本で最長の116m、石造の8連アーチ橋は日本で唯一。1923年(大正12年)に竣工。長崎県の石橋に多い水平な石積みを採用しているため、別名「オランダ橋」ともいう。大分県の有形文化財に指定、「日本百名橋」のひとつ。上流の「馬渓橋」、「羅漢寺橋」とともに、「耶馬渓三橋」と呼ばれる。

  耶馬渓橋から対岸の車道に沿って川上に向かう。


 
 
●青の洞門 

 「青の洞門」は、諸国巡礼の途中だった禅海和尚が、30年余りをかけてノミと槌だけで掘った隧道。完成は、1763年(宝暦13年)。全長は約342mだったが、現在の洞門はかなり変化している。明治時代、陸軍の輸送路拡幅のための大改修で、当初の原型は大部分が破壊された。現在は歩行者用通路の一部に、当時のノミの痕跡が認められる程度となっている。写真は、「青の洞門」の入口で、車も通る。

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 当時の面影を残す手堀のトンネルと明かり窓やノミの跡が残る。

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 「青の洞門」の逸話は、大正時代に菊池寛の小説『恩讐の彼方に』のモデルとなり、また尋常小学校国語読本で取上げられて、知られるようになった。

 「青の洞門」の約500m先に、禅海和尚の像がある。

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 山国川に架かる「禅海橋」を渡って対岸へ渡り、レストハウスに戻る。

 「青の洞門」は、山国川のほとりから見学するほか、山腹を巡る「競秀峰探勝道」からもその美しさを満喫できるそうだ。隧道を通らずに難所であった崖側を通るルートが今も残っており、険しい場所ではあるが鎖などを伝って通ることができる。探勝道は、初級、中級で70分、上級で100分のコースがある。

 下の写真で、横に一筋の探勝道が見える。よく見ると鎖場も見える。

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 レストハウス洞門で「競秀峰」の絶景を見ながらランチ。耶馬渓のご当地グルメは「洞門バーガー」(430円~)。中津は鱧(はも)料理が名物、「鱧かつカレー」(1,080円)を注文する。

 13時20分、レストハウス洞門を出発。


●中津城

 国道212号を北上し、中津市街地へ。13時45分、「中津城公園」の駐車場着。事前に申し込んでいた中津耶馬渓観光協会の観光ガイドYさんの案内で、中津城や城下町を巡る。

 中津城公園に建つ福沢諭吉の言葉「独立自尊」の石碑。

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 「独立自尊」は、「心身の独立を全うし、自らのその身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」とある。自他の尊厳を守り、何事も自分の判断・責任のもとに行うことを意味し、慶應義塾の基本精神となっている。

 また公園内には、西南戦争の時に旧中津藩士によって中津隊が結成され西郷軍に参加した大顕彰碑「西南役中津隊之碑」も建っている。

 「中津城」は、黒田官兵衛(孝高、如水)が築城し、細川忠興が完成させた。江戸時代は小笠原家(8万石、後に4万石に半減)を経て、明治初期まで奥平家が10万石の藩庁だった。

 写真は、中津城に残る官兵衛が築いた石垣。自然石ではなく、直方体に加工された石が使われている。1588年(天正16年)に普請された現存する近世城郭の石垣としては、九州最古のものだそうだ。

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 模擬天守の北面は、黒田氏の石垣に細川氏が石垣を継いだ境("y"の字が見える)がある。向かって左が細川氏、右が黒田氏の石垣。(写真をクリックすると拡大表示)

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 堀には海水を引いたため、水城(海城)ともされ、今治城、高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。

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 天守の存在は不明で、模擬天守閣(資料館)が旧藩主奥平氏の子孫によって、1964年(昭和39年)に鉄筋コンクリートで建てられ、奥平家所蔵の宝物が展示されている。

 中津城へ入場。福澤諭吉旧居・記念館との共通入場券が600円。

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 城内には甲冑、刀剣、陣道具・古文書などの宝物が展示されている。3階には幕末・明治までの中津の蘭学の歴史のコーナーもあり、中津は蘭学で有名だったことも知る。

 明治時代の中津城の写真。今のような天守閣はない。

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 中津城天守の展望台からの展望。写真の北門橋が架かる「中津川」は、豊前海(ぶぜんかい、周防灘の南部海域)へ注ぐ。

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 大分県北西部、福岡県にまたがる英彦山(ひこさん、標高1199m)付近を源流として、耶馬溪を流れる「山国川」は、やがて福岡県と接し県境に架かる山国橋付近で二手に分かれる。中州である小祝島の東側は、「中津川」、西側が「山国川」となる。

 豊前海は、瀬戸内海を経て大坂・近畿に通じる。官兵衛が築いた中津城は、海路交通の便が良く、大坂からの知らせを早船で3日で受け取ることができ、九州の玄関口でもあった。

 

●福沢諭吉旧居 

 15時30分中津城を出て、「福沢諭吉旧居」に徒歩10分くらいで着く。

 福澤諭吉は、1835年(天保5年)に大坂の中津藩蔵屋敷で下級武士の次男として生まれる。1歳6ヶ月の時父が急死、母子6人で中津に帰郷する。貧しい少年時代を過ごし、14歳で儒学の塾に入る。

 旧居は、19歳で長崎に遊学するまで居住。当時の武士の生活を垣間見る。

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 諭吉は庭の土蔵を改修し、二階で窓の明かりで勉学に励んだという。諭吉の人形が座っていた。

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 旧居の庭に立つ諭吉の胸像(左)と隣接する「福沢諭吉記念館」にある胸像。

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 記念館の内部。『学問のすすめ』の版本や貴重な資料が展示されていた。

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 福沢諭吉旧居を16時30分発、観光ガイドと一緒に中津の城下町を散策する。



●合元寺

 寺町通りには、黒田官兵衛ゆかりの寺が多い。官兵衛の末弟が初代住職だった「西蓮寺」、閻魔様の「円龍寺」、河童の墓のある「円応寺」、赤壁寺の「合元寺(ごうがん)」などをめぐる。

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 「合元寺」は、官兵衛に従って姫路から中津に移り住んだ空誉上人が開山。官兵衛の子・黒田長政が謀殺した宇都宮鎮房(しげふさ)の家臣と激戦の場になった。その時の壁の血しぶきが、何度塗り直しても赤く染み出でくるため、ついに赤壁とせざるを得なかったという逸話が残っている。

 中津城公園の駐車場に戻り、17時20分案内頂いた観光ガイドYさんとお別れ。
  

 

 17時30分、「ホテルルートイン中津駅前」にチェックイン。

 荷物を部屋へ置いて、18:30~中津駅前のアーケード街へ。夕食の飲食店を探すが、土曜日とあってどこも混んでいる。

 焼きとん屋「くうとん」に入店、20時15分退店する。

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 20時半頃、ホテルに戻る。

 このホテルには大浴場があって1日の疲れを癒し、23時頃就寝。

 明日は、宇佐神宮と国東半島をめぐる。


 ★ ★ ★

 二百名山の「由布岳」は双耳峰で、東峰は家族連れでもOKだが、最高峰の西峰(標高1584m)は急な岩場や鎖場があって険しいという。山頂からは、百名山の九重山、祖母山、阿蘇山などが見えるそうだ。

 当初の旅行計画では、2日目に由布岳登山を予定していた。由布岳中央登山口(標高780m)から樹林帯を進むと、合野越(ごうやごえ)からは景色の良い開けた道となる。やがて松や灌木のジグザグ道を登ると、ミヤマキリシマ(5月下旬~)が咲き誇っているだろう。岩ゴロゴロの急坂になるとマタエ、この先は東西のピークに別れる。登りのコースタイムは、2時間10分。下りは1時間半。しかし、日程の都合で由布岳登山の計画を変更し、耶馬渓と中津に行くことにした。

  
 

 儒学者で南画家・書道家の頼山陽が、1818年(文政元年)に「山国谷」と呼ばれたこの地(耶馬溪町柿坂)を訪れ、その景勝を絶賛して「筆舌に尽難し」と筆を投げたという。

 その12年後、山陽は記憶を元に『耶馬渓図巻記』という山水画の絵巻を描き、この「山国谷」を中国風の文字を当て、「耶馬渓」と漢詩に詠んだのが、名前の由来だそうだ。その後、周辺の渓谷についても「耶馬渓」という名称が使われるようになった。各地域を「本耶馬渓」、「裏耶馬渓」、「深耶馬渓」、「奥耶馬渓」などと呼んでいるのはいつからだろうか。
 

 

 「耶馬渓」は、松島・天橋立・宮島の「日本三景」にならって、1916年(大正5年)に三保の松原(静岡県)と大沼公園(北海道)とともに「日本新三景」に選ばれた。1923年(大正12年)には国の名勝に指定、1950年(昭和25年)には、一帯が「耶馬日田英彦山国定公園」に指定された。また、寒霞渓 (かんかけい、香川県小豆島)、 妙義山(群馬県)とともに「日本三大奇勝」の一つである。

 しかし奇岩の周囲の樹木が生い茂り、昔のような景観が損なわれ、観光客の苦情もあったため、市が数年前から「耶馬渓修景」に取り組んでいる。地元や地権者の協力を得て、うっそうとした雑木を伐採、美観が復活したそうだ。修景ビフォー・アフターの写真を見ると、アフター後の今もまた木々が茂ってきているので、イタチごっこのような気もする。

 

 「青の洞門」が掘られる前、この付近を通行する際は川原を歩いていたそうだ。藩が下流に堰を設けために水量が増加し、川原が水没してしまった。このため断崖に道を作り、岩にくくりつけた鎖につかまりながら通らなくてはならず、転落する人が後を絶たなかったという。

 諸国遍歴の旅の途中、羅漢寺を参拝する折りに立ち寄った禅海和尚が、この断崖の難所で通行人が命を落とすのを見て、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと考えた。1730年(享保15年)頃、中津藩主の許可を得て、托鉢(たくはつ)で資金を集めて雇った石工たちと一緒に、また周辺の村民の協力や九州諸藩主の援助を得たりしながらノミと槌だけで30年かけて掘り抜き、1763年(宝暦13年)に完成させたといわれる。

 開通後は、通行料を徴収したという言い伝えもあり、日本最古の有料道路ともされる。ちなみに、洞門は江戸時代には「樋田(ひだ)のくりぬき」と呼ばれていたそうだが、大正以降に「青の洞門」という名称になったという。「樋田」や「青」は、この地域の地名だそうだ。

 子供の頃にどんな本を読んだのか忘れたが、この「青の洞門」の話は何故かよく覚えている。
 


 中津は、「蘭学の里」と呼ばれる。福沢諭吉のほかにも多くの蘭学者、医師を輩出したことを知った。オランダの解剖書「ターヘル・アナトミア」を翻訳、「解体新書」を出版した中津藩医で蘭学者の前野良沢(まえのりょうたく)は、特に著名。ほかにも、日本で最初の和蘭辞典「蘭語訳撰」と蘭和辞典「バスタード辞書」を刊行した奥平昌高(中津藩5代藩主)、九州で最初の解剖を行った村上玄水らは、蘭学や医学の礎を築いた。

 「蘭学の里・中津と中津城」の顕彰碑が中津城公園に建てられていた。中津城資料館にも、多くのパネルを使って中津の蘭学の歴史を詳しく説明してあった。見てはないが、JR中津駅前にも福沢諭吉の銅像とともに、「蘭学の泉ここに湧く」という碑文があるそうだ。

 中津の城下町を散策すると、あちこち説明板とともに史跡や偉人ゆかりの場所があり、まさに故郷を愛し誇りを持つ町だったということが、心に残る。このブログに書ききれないほど、中津を丁寧に説明して頂いたボランティア観光ガイドに感謝。


■追補■ 2017/6/24

-由布院と湯布院について

 1955年(昭和30年)に由布院町と湯平(ゆのひら)村が合併して湯布院町となった。昔からある地名などは由布院温泉、由布院駅、由布岳と言い、湯布院の“湯”の字を使うのは新し町全体を指すとき。由布院温泉と湯平温泉を合わせて、湯布院温泉ともいう。   
    
 更に2000年(平成17)年、庄内町、挾間町、湯布院町が合併して由布市となり、由布院温泉や由布院駅のある旧湯布院町は、由布市湯布院町になった。このように「湯布院」と「由布院」が混在し分かりにくくなったため、「ゆふいん」と表記されることもある。
   
    
-九重、久住、くじゅうについて
    
 地域一帯を「くじゅう」と呼び、北側に九重町(ここのえまち)、南側に久住町(くじゅうまち:現、竹田市)がある。山名は「久住山」、火山群や周辺地域全体は「九重山」、または「九重連山」と呼ぶ。

 

2017年6月10日 (土)

東京・お台場

 2017年6月9日(金)、東京都港区の「お台場」に行く。

 

 「お台場」は、東京臨海副都心地区のおおむね東京港埋立第13号を指す。

 JR新橋駅汐留改札を出て、臨海新都心線「ゆりかもめ」の1日乗車券820円を購入。10時頃「ゆりかもめ」に乗車、13分で「お台場臨海公園」駅に着く。

 駅前にある33階建の高級分譲タワーマンション「ザ・タワーズ台場」が目を引く。

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 「お台場海浜公園」の浜辺エリアへ行く。

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 浜辺エリアでは無料で潮干狩りができるという。さすがに水質は悪いようで、遊泳は禁止。浜辺のあちこちには、クラゲが大量に打ち上げられていた。

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 お台場海浜公園の対岸、「レインボーブリッジ」の手前の中央の緑は「台場公園」。

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 「お台場海浜公園」と一体となった「台場公園」は、国指定史跡の「第三台場」を公園として開放されていて、砲台跡、陣屋跡や火薬庫跡、かまど跡などがあるという。

 1997年(平成9年)、新宿区より移転した「フジテレビ」のビル(中央)をお台場海浜公園から見る。

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 日の出桟橋、晴海、浅草などを結ぶお台場海浜公園の海上バス乗り場。正面の2棟のビルは、左がUR都市機構の賃貸マンション「シーリアお台場一番街」、右が都住宅供給公社の賃貸マンション「トミンタワー台場一番街」。

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 お台場海浜公園から望む田町、品川方面。手前の2つの緑の島は、野鳥の繁殖地で「鳥の島」と呼ばれる防波堤で、立ち入り禁止。

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 手前の灯台(灯籠)は、何ためにあるのか、不明。遠景は、田町にあるタワーマンション「芝浦アイランドグローヴタワー」の分譲マンション。

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 お台場海浜公園の「自由の女神」像。

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 「アクアシティお台場」(写真左手)の5階レストラン「築地食堂 源ちゃん」に入り、ランチ。右手のビルは、フジテレビ。

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 「お台場海浜公園」から、隣接する「潮風公園」へ歩く。護岸工事中の壁が延々と続き、公園からは海が見えない。

 「潮風公園」の中央を首都高速湾岸線が走る。1976年(昭和51年)、「東京港トンネル」(海底トンネル)により、大井・臨海副都心間が開通した。写真中央は海底トンネルの排気塔。ここから湾岸線は、左側の海底に入る。

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 「潮風公園」の首都高速湾岸線から南側エリアで、やっと海が開けた。観光船「安宅丸」とクレーン林立する大井ふ頭。

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 「安宅丸」については、本ブログ「隅田川水上バスと浅草寺」を参照。
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-98b3.html

 写真左手には、東京湾が広がる。

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 潮風公園から歩いて船の科学館駅へ。

 船の科学館駅の駅舎から見る「フジテレビ」(左手)、「ダイバーシティ東京プラザ」(中央)、「オフィスタワー」(右手)のビル。

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 数年前この景色を見た時に、茶色の建物「ダイバーシティ東京プラザ」前の樹木の上に高さ18mのガンダム立像の上半身がのぞいていたのだが、撤去されたのだろうか見えない。

 駅のホームから見る、1974年(昭和49年)に開館した「船の科学館」。お台場で最初の大規模建築物だった。

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 「船の科学館」には、南極観測船「宗谷」が係留されている。右手には、先ほど見かけた「安宅丸」が停泊。

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 船の科学館駅から「ゆりかもめ」に乗って移動。青海駅まで4分、14時15分頃着。

 青海駅から北東を望む。門の形をした「東京ベイコート倶楽部」(左)と逆三角形独特な形の「東京ビッグサイト」(右)の建物。

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 青海駅の北口にある「MEGA WEB(メガウェブ)」は、”見て、乗って、感じる”トヨタのテーマパーク。入場料無料。

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 青海駅南口にある「水の広場公園」と有明ふ頭。

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 15:25発の水上バスで、日の出桟橋へ渡ろうと「パレットタウン乗船場」(写真左下)に行くと、なんと本日は運休。

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 「ゆりかもめ」で帰ることにする。15時25分頃青海駅発、約20分で新橋駅着。

 関東甲信越地方は、7日梅雨入りの発表されたが、前線が東の方へ離れて梅雨とはいえ晴れ間が続く。この日の東京は、最高気温28度の夏日。海風が適当に吹いてくるので、暑さを感じない良い日和であった。

 

 ★ ★ ★

  1853年(嘉永6年)にペリー艦隊が来航、脅威を感じた幕府は、江戸防衛のため洋式の海上砲台の建設を計画する。台場は、石垣で囲まれた正方形や五角形の洋式砲台で、埋め立ての土は高輪の山を切り崩して調達した。品川海上に第一台場から第三台場が完成。

 完成した台場は、江戸湾海防を担当していた譜代大名の川越藩(第一台場)、会津藩(第二台場)、忍藩(第三台場)の3藩が担った。その後に第五台場と第六台場が完成した。これらは品川台場(品海砲台)と呼ばれ、「お台場」は幕府に対して「御」をつけ、「御台場」と呼んだことが由来。

 翌年ペリー艦隊は2度目の来航で品川沖まで来たが、この砲台のおかげで横浜まで引き返し、そこでペリーが上陸することになった。

 結局、合計8つの台場が建設されたという。しかし、これらの砲台は一度も火を噴くことなく、開国することになったのだった。

 

 ニューヨークにある自由の女神像は、アメリカ合衆国の独立100周年を記念してフランスより贈呈され、1886年に完成した。ニューヨーク港内、リバティ島にある。台座から松明(たいまつ)までの高さは46m、台座部分も含めると93m、総重量は225トン。

 フランスのパリにある自由の女神像は、セーヌ川のグルネル橋のたもとにある。フランスがアメリカに自由の女神像を送ったことの返礼として、パリに住むアメリカ人たちがフランス革命100周年を記念して贈った。高さは11.5m、重さは14トンと、ニューヨークにあるものよりかなり小さい。1889年に除幕式が行われた。

 1998年(平成10年)4月から約1年間、「日本におけるフランス年」を記念してパリの自由の女神像がお台場海浜公園に設置されていた。この事業が好評を博したため、その後フランス政府からレプリカ制作が認められ、フランスで複製されたブロンズ製レプリカが2000年(平成12年)に設置された。台座からの高さ約12.25メートル。重さ約9トン。

 自由の女神レプリカ像は、ラスベガスなどアメリカに点在、またフランス、日本でも各地で建てられているそうだ。

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 「再び潮風公園」 2012/05/15 投稿
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 「雨の潮風公園」 2012/03/31 投稿
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2017年6月 8日 (木)

大分・豊の国探訪の旅-その1

 2017年5月26日(金)~28日(日)、大分・豊の国の自然と歴史を訪ねる2泊3日の旅。

 

  大分はおんせん県。別府温泉は、世界一の源泉数と湧出量を誇る。【1日目】は、杵築城下町散策の後、別府「地獄めぐり」で大自然のパワーを体感、別府・鉄輪(かんなわ)温泉泊。
 

 5月26日(金)朝、池袋で久しぶりのラッシュアワーに遭遇しながら、羽田空港第2ターミナルビルへ。羽田空港の天気は雨だが、九州は晴れているそうだ。

 羽田発11時00分発のソラシドエア91便は、雨のためか出発が遅れ、大分空港には20分遅れて12時55分着。

 写真は、国東(くにさき)半島の大分空港(写真中央)へ着陸態勢のソラシドエア機。

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 空港で大分市在住のメンバー1名の出迎えを受け、参加者6名は空港ビル3Fの和風レストラン「なゝ瀬」で昼食。名物のダンゴ汁、とり天定食、とり天うどん等を注文。

 大分空港の近郊のトヨタレンタカーから、レンタカーと自家用車の2台に分乗して13時45分出発。

 

●杵築(きつき)城下町

 国道213号を南下し、杵築市の「杵築ふるさと産業館」駐車場に14時10分到着。

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 杵築は、凸凹形状の「サンドイッチ型」城下町と呼ばれ、南北の高台にある武家屋敷とその谷筋には老舗商家が残り、風情ある石畳の坂が美しい。

 手前の「酢屋の坂」を下った谷は、商人の町。

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 北台武家屋敷通りには、上級武士たちの屋敷跡や藩校が並ぶ。中でも「酢屋の坂」近くにある「大原邸」は、家老屋敷としてその風格と風情が今でも残る貴重な建築遺産。

 写真は、「大原邸」の長屋門。

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 「大原邸」に入館。入館料200円。ボランティアガイドに案内してもらう。

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 長屋門、茅葺屋根、式台のある間口の広い玄関。次の間、紋入りの畳の縁、弓天井、厠(かわや)、風呂場、台所。広い敷地には、回遊式の庭園。身分の高い家老宅であったことは、質素で堅実だが格式の高さがこの建物の随所に残されている。

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 「酢屋(すや)の坂」を下ったところ、商人の町「谷町通り」に店を構える創業明治33年の「綾部味噌」(写真左手の建物)は、市指定有形文化財。

 この建物は、18世紀中頃に建てられたもので、前身は豪商・志保屋が営む酢屋。「酢屋の坂」と対面する「志保屋の坂」の名の由来となっている。

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 「谷町通り」から「志保谷(塩屋の坂)」を上ると、南台武家屋敷。対面は、北台武家屋敷。

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 「きつき城下町資料館」付近の展望台から、八坂川の台地にそびえる海と川に三方を囲まれた「杵築城」を望む。右手は、八坂川と杵築大橋。守江湾には、広大な干潟が広がる。

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 15時30分、杵築を出発。国道213号線から国道10号線を走り、別府市内へ向かう。 
 

 

●別府地獄めぐり

 杵築で少しゆっくりしたので、予定より1時間遅れの16時15分「海地獄」駐車場へ到着。

 当初の予定は、鉄輪(かんなわ)温泉の「海地獄」→「鬼石坊主地獄」→「山地獄」→「かまど地獄」→「鬼山地獄」→「白池地獄」を徒歩で巡り、少し離れた柴石温泉へ車で移動して「龍巻地獄」→「血の池地獄」の合計8地獄を見学する予定であった。

 「8地獄共通観覧券」2,000円(10%の割引チケットあり)を購入しようとするが、各地獄への入場は17時まで。あと40分しかない。全部の地獄を回れないので、あとは翌朝にしてくださいと窓口で言われる。

 共通観覧券の有効期間は、購入日とその翌日の2日間。開場は朝8時からだが、翌朝は次の予定があって別府を離れるので、8地獄をあきらめ、「海地獄」→「鬼石坊主地獄」→「かまど地獄」の3つを見学することにする。

 海地獄の入口。入場料400円。

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 鬼石坊主地獄、入場料400円。

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 かまど地獄、入場料400円。

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 17時ころで退出して、すぐ近くに4階建ての屋上に「おにやまホテル」の看板があるホテルへ。

 

●おにやまホテル

 17時10分、鉄輪(かんなわ)温泉「おにやまホテル」にチェックイン。 

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 鬼山地獄を源泉に持つ、別府最大級の露天風呂という「鬼山の湯」に入浴。もちろん源泉かけ流し。夕食は19:00~、レストラン「和味(なごみ)」で「地獄蒸し会席料理」。

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 22時頃就寝。明日は耶馬渓、中津へ行く。

 

 

 ★ ★ ★

 杵築城は、木付(きつき)氏によって室町時代初期に八坂川河口の台山(だいやま)の上に築かれた。戦国時代には、大友氏と島津氏の戦いの舞台となった。

 前田氏、杉原氏を経て、慶長4年(1599年)には細川氏(忠興)の所領となる。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは、大友氏の杵築城攻撃に対し、中津の黒田如水(黒田官兵衛)が救援した。1632年(寛永9年)細川氏が熊本藩に移封となると、替わって小笠原氏、その後、1645年(正保2年)には松平氏が3万2千石で封じられ、明治維新まで居を構えた。

 天守は、1608年(慶長13年)に落雷で焼失、以来再建されなかったそうだ。天守の建築構造は不明だという。現在の天守台跡には、杵築ゆかりの資料館と展望台を兼ねた3層の鉄筋コンクリート造りの模擬天守閣が建てられている。

 

 別府の地獄では観光用として、温泉熱を利用してアマゾン産のオオオニバスの栽培、鳥や哺乳類、ワニ、熱帯魚など飼育し、地獄以外の付加価値が付いている。

 「かまど地獄」には色の違う様々な地獄があって、地獄の1丁目から6丁目までの名前が付いている。また「極楽」と称する足湯、喉・肌に良い湯気、足や手の箱蒸し、飲む温泉などの設備もあり、温泉卵とか何故かラムネなどの飲食物やお土産など、他の地獄とは変わった特色を出しているようだ。

 1年前にここへ来た時もそうだったが、「かまど地獄」はやたらと多くの韓国人ツアーが目立つ。この日も韓国人のガイドが何人かいて、韓国語で団体客を案内をしていた。ガイドは、たばこを手にして、タバコの煙を地獄の池の表面の湯気に吹きかけると、そこから白い湯けむりが増大するというパフォーマンス。それを見た韓国人団体客からは、歓声が上がていた。

 日本人のガイドが我々に、ここにいるガイドは全員が「かまど地獄」のスタッフだと言う。また、地獄の湯けむりが増大する実験を我々にも見せてくれた。タバコの煙の粒子が核となって、周りの水蒸気がくっつき白い湯気に見える、ちょうど雲のできる原理と同じようなものだ、という説明を聞き納得した。

 

 

 関連ブログ記事「別府地獄めぐり」 2016年2月4日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-ae15.html

 

 

 本ブログ記事「大分・豊の国探訪の旅-その2」に続く。

2017年6月 3日 (土)

都内をめぐる日帰り研修旅行

 2017年5月30日(火)、迎賓館、深大寺、地下調節池、とげぬき地蔵をめぐる、都内日帰り研修バスツアー。
 

 都心では気温29℃の夏日。全国各地でも、今年一番の暑い日だった。

 バスは、午前7時半出発。参加者31名を乗せて関越道、外環道、首都高を走る。車内では、幹事の挨拶の後、お茶やお菓子、ビールが配られ、カラオケも始まった。

●迎賓館

 最初の見学先である元赤坂の「迎賓館赤坂離宮」に10時に到着。迎賓館は、外国からの賓客を迎えるのに支障のない範囲で一般公開されている。

 噴水のある主庭側からの迎賓館。

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 入館前に、テントの下で手荷物検査と金属探知機でのボディチェックがあり、30分以上も見学者の列に並ぶ。(写真下)

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 参観料は大人1000円、団体参観料は大人800円。

 館内には見学者のトイレがないため、入館前に済ますように。館内は撮影禁止、カメラはバッグにしまえ、レンズにキャップをせよとかなかなか細かい。決められた参観路を歩くよう、壁やカーテン、家具に直接手にふれないよう、繰り返しアナウンスされる。

 赤い絨毯、豪華な大理石、巨大なシャンデリア、金箔が施された彫刻、立派な天井画や壁画など、テレビで見る晩餐会や首脳会談などが開かれる広間を目の当たりにする。

 写真は、広間の一つ「彩鸞の間(さいらんのま)」。迎賓館のパンフから転載。

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 迎賓館の前庭から撮影。

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 12時、迎賓館をあとにする。

 
●深大寺(じんだいじ)

 調布市の「深大寺都内は、浅草の「浅草寺」に次ぐ古刹で、だるま市でも知られる。

 門前の「深大寺そば」が有名で、20軒以上のそば屋があるそうだ。12時35分、そば処に到着。そば定食を頂いた後、参拝に行く。

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 深大寺の山門。

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 本堂に参拝。

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 本尊は本堂に安置の阿弥陀三尊像。飛鳥後期の作とされる「銅造釈迦如来倚像(白鳳仏)」が、今年3月に国宝指定されたばかり。気がつかなかったが現在「釈迦堂」で特別開帳されているとのことだった。

 緑の多い深大寺周辺は、そば屋の他、土産屋、お休み処など、参拝客で賑わっている。

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 13時、深大寺を出発。

●地下調節池

 午後からは、「神田川・環状七号線地下調節池」へ。14時、善福寺川取水施設(杉並区堀ノ内)へ到着。

 地下調節池は、神田川水系の水害を防止するため、豪雨時に川の水を地下トンネルに逃がす東京都の施設。スライドやビデオ、模型での説明の後、地下40mにある直径12.5mもあるトンネルへエレベーターで降りて見学。

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 このトンネルには、照明は全く無い。案内の都職員が持つ懐中電灯を頼りに、後について行く。

 この先は、防災用にきれいな水が少し溜めてあって進めない。

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 環状7号線の地下、トンネルは延長い4.5Kmあり、54万トンの洪水を貯留できるそうだ。

 15時35分、善福寺川取水施設を出発し、巣鴨へ向かう。

 
●とげぬき地蔵

 最後は、「とげぬき地蔵」で親しまれる巣鴨の「高岩寺(こうがんじ)」。16時20到着。

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 境内にある「洗い観音」は、観音様に水をかけ、自分の悪いところの観音様の部位をさすると治るそうだ。

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 高岩寺前の「巣鴨地蔵尊通り商店街」は「おばあちゃんの原宿」と呼ばれ、塩大福などの和菓子や老人向け衣料のお店が並んでいる。

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 和菓子屋で、塩大福と玉子せんべいを購入。

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 17時、高岩寺を後にして帰路へ。18時半出発地に無事到着。


 研修旅行の名の通り、迎賓館、地下調整池など、普段行けないような施設を見学、また深大寺やとげぬき地蔵の高岩寺も初めての参拝で、有意義だった。

 ★ ★ ★

 迎賓館は、港区元赤坂の「迎賓館赤坂離宮」と、京都市上京区の京都御苑内に「京都迎賓館」があり、内閣府が管理している。

 迎賓館赤坂離宮の建物は、かつては紀州徳川家の江戸中屋敷があった所。1909年(明治42年)に皇太子の住まいである「東宮御所」として建設された。しかし、皇太子・嘉仁親王(大正天皇)は、ほとんど使用することなかった。

 その後、皇太子時代の裕仁親王(後の昭和天皇)や明仁親王(今上天皇)が一時お住いになった以外は「東宮御所」として利用されず、戦後は国立国会図書館や内閣法制局、東京オリンピック組織委員会などの国の機関に使用された。「東宮御所」は、皇太子が天皇に即位した後は「赤坂離宮」と呼ばれた。

 その後赤坂離宮は改修されて、1974年(昭和49年)3月に現在の迎賓館が完成。2009年(平成21年)12月には、明治以降の建物としては初めて国宝に指定された。 一般公開が始まったのは2016年 (平成28年)4月で、つい最近のことである。

 ★ ★ ★

 武蔵野の面影を残す「深大寺」の周辺は、隣接の旧寺領であった「都立神代植物公園」とあわせて、散策、憩の場所として知られている。

 中国の伝奇小説『西遊記』に登場する僧・三蔵法師として有名な玄奘三蔵が経典を求めて天竺(インド)へ行く途中、水神「深沙大王」(じんじゃだいおう)が砂の中から現れ、玄奘の難を救い守護したという(『西遊記』では、妖怪・沙悟浄のことか)。「深大寺」の名称は、その「深沙大王」に由来すると伝えられている。深沙大王は本来、疫病を除き、魔事を遠ざける神とされる。

 深大寺は豊富な湧水源の多い武蔵野台地の崖面に立地し、古くから周辺の田畑を潤し、水源地ということから霊場でもあったので、水神「深沙大王」ゆかりの深大寺の建立に至ったのではないかという。深大寺は733年(天平5年)、満功上人(まんくうしょうにん)が開創したと伝えられている。

 「深大寺そば」が名物となったのも、水の恵みがあったからか。蕎麦の栽培や水車を利用しての製粉、そば打ちに湧水が利用された。


 ★ ★ ★

 「とげぬき地蔵」の通称で名高い「高岩寺」の本尊・地蔵菩薩像(延命地蔵)は、秘仏のため非公開だそうだ。本尊の地蔵菩薩立像の姿を和紙に刷った「御影(おみかげ)」を祈願、またはその札を水と共に飲むなど、病気平癒に効果があるとされる。

 「とげぬき地蔵」の縁起は、次のようである。

 1713年(正徳3年)小石川の武士・田付又四郎の妻が、病気で死に瀕していた。地蔵尊に毎日一心に祈願を続けていた又四郎が、夢枕に立った僧のお告げにより地蔵の姿を印じた「御影」の紙1万枚を隅田川に流すと、妻の病は回復した。その後、毛利家の女中が誤って針を飲み込んで苦しんだ時、地蔵の印像を水で飲ませたところ、すぐに針を吐き出したという。

 以後、「とげぬき地蔵」の伝承が、他の病気の治癒や広く厄除け・招福にご利益があるとされ、現在でも高齢者を中心に参拝者が絶えない。

 高岩寺は、今から約400年前1596年(慶長元年)に熊谷(埼玉県)の「集福寺」の扶嶽太助(ふがくたいじょ)和尚が、江戸・神田明神下(千代田区外神田)に創建した。その後下谷(台東区上野)を経て、明治時代に巣鴨(豊島区巣鴨)に移転した。現在では末寺の高岩寺の方が有名だが、本来は熊谷の集福寺の方が本寺だそうだ。

2017年6月 1日 (木)

宮崎市街から高岡町と綾町

 2017年5月21日(日)~23日(火)、宮崎市街から宮崎市高岡町、宮崎県東諸県郡綾町へ行く2泊3日の旅。

 
 5月21日(日)、長崎自動車道、九州自動車道を経て、宮崎自動車道を走る高速バスの車窓から、雄大な「霧島連山」を望む。

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 ●宮崎市街

 やがて宮崎市街に入り、繁華街「橘通り」(県庁前付近、一番街付近)を走る。

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 バスはJR宮崎駅西口前に、13時前に到着。左手のビルは、「JR九州ホテル宮崎」。

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 宿泊した「JR九州ホテル宮崎」の5階から見下ろすJR宮崎駅(左手)と西口前。

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 つい笑ってしまう「すみません回送中です」の宮崎交通のバス。県内の人にはこんな光景は見慣れているだろうが、バスを見てびっくり。腰の低い土地柄か、お客に対するバス会社の優しさが伝わる。JR宮崎駅西口前にて。

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 JR宮崎駅東口前。

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 歓楽街「西橘通り」の入り口「一番街」は、昼も夜もけっこう賑やか。

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●宮崎市高岡町の天ヶ城公園

 5月22日(月)、宮崎市郊外の宮崎市高岡町「天ヶ城(あまがじょう)公園」に行く。

 高岡町は、宮崎県の中部に存在していた東諸県郡の町であったが、2006年1月に宮崎市に編入された。

 「天ヶ城公園」は、標高120mの丘にある。宮崎市街に注ぐ大淀川の流れと、西に霧島連山、東に日向灘、宮崎市街地が望めるという。1,300本の「千本桜」と呼ばれるソメイヨシノや、5万本のツツジが有名。

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 公園内の右手に城風の建物「天ケ城」(宮崎市天ケ城歴史民俗資料館)、広大な芝生の広場の左手には遊具があった。

 天ケ城歴史民俗資料館は、大淀川と生きてきた町の人々の生活や、薩摩藩に属した高岡が、かつて日向の中心であった当時の武家社会、高岡の歴史・風土・産業などを紹介しているという。

 大手門のような入場口に行くと、なんと「開館日:土・日・祝日」。ただし花見のシーズンだろうか、「特別開館期間:3月15日~4月14日(この期間は休館日はありません。)」とある。平日5日間は、閉館している資料館なんて聞いたことが無い。残念だった。

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 天ヶ城は、薩摩島津家17代島津義弘が1600年(慶長5年)、日向伊東氏の攻撃に備えるために築城した城。

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 関ヶ原の戦いのあと、島津義弘が東の国境を守る拠点として、島津領内各地から数百人の武士を移住させ、ここ久津良名(くつらみょう)に「天ケ城」を築き、12ヶ村をまとめて高岡とした。

 1615年の一国一城令によって廃城となったが、城下町的な機能を持つ「麓」と呼ばれる地域を形成した。(島津藩では、武士たちが住むところを「麓」と呼んだ。)

 天ヶ城公園から見下ろす大淀川の流れと高岡の街並み。

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●宮崎県綾町(あやちょう)

  高岡町から綾町へ移動する。綾町は、宮崎県の中西部に位置する東諸県郡の町だが、宮崎都市圏に属する。

 綾は、奈良時代から日向の国の交通の要衝で、鎌倉から戦国時代までは伊東氏、江戸時代は薩摩島津氏が統治した。基幹産業は農業で、有機農業(自然生態系農業)に町ぐるみで力を入れており、綾牛・綾豚・綾地鶏などの畜産品は有名。

 昼食に、評判の「そば処まる」に入る。古民家の畳の座敷で、手打ちそばを味わう。えび天せいろそば1,000円は、リーズナブル。

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●綾の照葉大吊橋(てるはおおつりばし)

 綾町の本庄川(綾南川、大淀川の支流)に架かる吊り橋「綾の照葉大吊橋」に行く。入園料は350円。

 長さ250m、高さ142mの歩行者専用の大吊橋は、1982年に架橋。歩行者専用の吊り橋としては高さにおいて、2006年10月に大分県玖珠郡九重町の「九重"夢"大吊橋」(高さ173m)に破られ、日本で2番目。

 周辺の森は日本一の規模を誇る照葉樹林が広がっていて、2012年にユネスコエコパークに登録された。写真左手前の石碑は、「照葉樹林の自然 日本一」とある。

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 ユネスコエコパークは現在、志賀高原、白山、大台ケ原・大峯山・大杉谷、屋久島、綾、只見、南アルプスが登録されている。

 橋のたもとに「歩く吊り橋世界一」、「日本一悠久の森へ 新照葉大吊橋」の石碑が建つ。

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 対岸に向かって恐る恐る渡る。橋の揺れはあまりないが、強い風が吹くと人が飛ばされそう。また桁が網状で、足元から谷が透けて見えるので怖い。
 
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 対岸に渡ると、この先は照葉樹林の自然を歩く遊歩道がある。「山ヒルに注意」の看板と「遊歩道は土砂崩れの為、通行禁止」のロープが張られていた。

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 橋のスタート地点を望む。向うに見える建物は「照葉樹林文化館」。照葉樹林の植生や昆虫、鳥、動物の自然生態系と人々の暮らしが展示されているそうだ。

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 谷を見下ろすと、遊歩道をつなぐ「かじか吊り橋」が架かる。

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●綾・国際クラフトの城

 「綾・国際クラフトの城」は、伝統工芸や歴史・民俗資料の施設と綾城(あやじょう)がある。入園料は350円。

 門をくぐると左手に、綾で生まれた名刀工・田中国廣の像がある。

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 田中国廣は子供の頃から鍛刀に励み、長じて1586年(天正14年)に打った刀は、日州古屋住国廣作として国の重要文化財に指定されている。

 また国廣は文武両道にも秀れ、伊東氏が没落する際、伊東満千代(伊東義祐の娘の子、後に遣欧使節の伊東マンショ)の侍臣(じしん)として、大友宗麟を頼って豊後へ逃がした功績も残している。

 

 園内に建つ「綾城」は、1985年(昭和60年)、時代考証により中世風の城館の天守建造物が建設された。綾町産の木材を使って建てられた山城。

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  綾城は、いまから650年ほど前の元弘年間(1331年~1334年)に足利尊氏の家臣であった細川小四郎義門が築城したとされる。義門の子・義遠は綾氏を名乗り、数代この城にて綾を支配したが、その後伊東氏の配下に入り、伊東48城の一つとして島津と戦う重要な拠点(支城)になっていた。

 1577年(天正5年)に伊東氏は家臣団の離反と島津氏の攻撃を受けて滅亡。その後は島津氏の支城となり、1615年に江戸幕府の一国一城令により、綾城は廃城となった。

 城内には、ジオラマ、甲冑、刀剣、武士の暮らしのパネルなど、歴史資料が展示されている。

 マネキン人形と音声で、島津氏に追われた伊東氏が綾城で、豊後に逃げる算段をしているシーンが説明されている。左に立っているのが、都於郡(とのこおり、現在の西都市)城主の伊東義祐、真ん中で座っているのが綾城主の佐土原遠江守、右が刀工の田中国廣。

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 綾城の最上階から見下ろす綾町の街並み。

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 園内には、「綾城」のほかに「工芸館」や「工芸体験館」の建物がある。

 綾では、草木染めによる染織、地産材による木工、竹細工、陶芸やガラス工芸など、様々な手工芸作りが盛ん。また良質のカヤが産出されるため、碁盤や将棋盤などの最高級品は、綾で創られたものが珍重されるという。写真下の「工芸館」では、これら工芸品が展示・販売されている。

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 「工芸館」の一角の展示室に、「昭和の暮らし」の展示があった。数十年前のラジオや扇風機などの家電製品、蓄音機やレコード、ポスターやパンフレット、「平凡」や「明星」の娯楽雑誌、アイドル写真集、人形やおもちゃ、コーラなどの空き瓶や空き缶、置物などなど・・・、いつまで見ていても飽きない。

 特に、大小のビクターの犬はたくさん展示されていて、懐かしかった。

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 その他園内には、「工芸体験館」や「綾陽校記念館」があるが、入館せず。

 「工芸体験館」では、織物や陶芸のオリジナル作品作りの体験ができるそうだ。

 「綾陽校記念館」は、明治時代に建築された綾小学校の校舎をこの敷地内に移築し、町民から贈られた農具や生活用具の他、明治時代の教科書などを展示する歴史資料館となっているという。

 

 5月23日(火)の帰路、宮崎空港から羽田空港へ向かうソラシドエア機。眼下に伊豆大島、中景は伊豆半島、遠景に富士山。

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 ★ ★ ★

 高岡町の天ケ城は、石垣などは古そうだが、実際に存在した天守閣を復元したものでない。いわゆるコンクリート造りの「模擬天守」とよばれる観光用の建物だ。

 こういった模擬天守は、全国各地に作られていている。筆者は、歴史をねつ造、誤解するのものとして否定する。どうしてもこんな城を建てたければ、復元したものではない模擬天守閣だと、パンフレットや城に入口に明確に説明すべきであると思う。

 綾城も、中世の城として元々資料や設計図は残されていなかった為、各地の城を研究をして設計図を作った「模擬天守」である。築城に関しては、「日本城郭協会」にお墨付きを頂いているそうだ。綾城を建てるにあたって、江戸時代ではなく全国でも珍しい中世の城にした点、コンクリート造りでなく、全ての材料が綾産の木材だという点が面白い。

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