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2017年3月20日 (月)

奥武蔵・天覧山と多峯主山

 2017年3月11日(日)、奥武蔵の天覧山と多峯主山(とうのすやま)へハイキング。
 
 

 埼玉県飯能市の東飯能駅前から、天覧山(標高195m)と多峯主山(標高271m)に登り、吾妻峡と飯能河原を経て東飯能駅までの「山峡に歴史を訪ねるコース」、約9Kmを歩く。

 9:30、東飯能駅着、西口前のファミリーマートで昼の弁当を購入。

 9:45、駅西口前をスタート。大通り商店街(県28号、県道70号重複)を西に向かって歩く。
 
 

●店蔵絹甚とひな飾り(10:05)

 大通りに面した「店蔵絹甚(みせぐらきぬじん)」は、飯能市の有形文化財に指定されている歴史的建造物。

 飯能は、かつて絹の集散地であった。江戸時代から商いをしていた篠原家は、明治時代には絹関連(絹織物、生糸、繭、蚕の卵)の買継商を営んでいた。「絹甚」は、篠原甚蔵の名前の「甚」を取った屋号。明治30年代後半に建てられた土蔵造り2階建て、店蔵、居宅と土蔵の3棟は、建築当初の様子をほぼ残しているという。無料で建物内の見学ができる。 

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 「飯能ひな飾り展」が、「店蔵絹甚」をはじめとして市内の各商店や公共施設などで、2月下旬から3月中旬まで開催されている。下の写真は、「店蔵絹甚」内の見世(店)で展示されていたひな飾り。

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●観音寺(10:10~10:35)

 駅から大通り商店街を1Km余り歩いた所、飯能河原交差点の角に市街地の寺院として市民に親しまれている真言宗智山派「観音寺」がある。

 江戸時代の文化・文政期ごろには、「高麗郡三十三ヶ所霊場」の10番札所として庶民の信仰を集めた。また「武蔵野七福神」の1寺で、正面の不動堂に寿老人が安置されている。その右手は本堂(観音堂)。

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 七福神の寿老人を祀る観音寺の不動堂。

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 1867年(慶応4年)の「飯能戦争」で、幕府軍(反新政府の「振武軍」)が本陣とした「能仁寺」(後述)のほか「智観寺」、「心応寺」などともに立てこもった寺の1つである。

 この日は、東日本大震災などの被災地を支援するイベント「第6回震災復興元気市」がこの境内でも開催されていた。焼きたての焼き芋や、つきたてのあんころ餅(会津若松産の餅米使用)を買って食べ、支援に協力。

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 この寺の鐘撞き堂には、太平洋戦争中に鐘が供出されてしまったため堂のみが残されていた。1965年(昭和40年)頃に市内の檀家が仏教の世界に出てくる白象を製作、この鐘撞き堂に収め、現在に至っている。

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 漫画・TVアニメ『ヤマノススメ』には、この白象が何度も登場するそうだ。白象と一緒のアニメシーンを描いた看板が置かれ(写真に撮らなかったのが残念)、キャラクターを描いた絵馬も販売してされている。この象を目当てに訪れる『ヤマノススメ』のファンも多いという。

 また観音寺の境内には、飯能鬼子母神が建立されている。鬼子母神とゆかりの深いザクロが飯能の名産だったため、飯能商工会議所など地元関係者の協力によって2007年(平成19年)に設置された。

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●諏訪八幡神社(10:40)

 「観音寺」の裏手の墓地から林の中の裏道を歩くと、「諏訪八幡神社」の参道の石段がある。神社は、左手の「郷土資料館」と右手の「市民会館」に挟まれて建っている。

 地元では「おすわさま」と呼ばれ、16世紀に信濃の国の諏訪明神(諏訪大社)を勧請(かんじょう)したとされる。

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 境内にある「飯能恵比寿神社」は、先の「観音寺」の不動堂と同様に「武蔵野七福神」に数えられ(その中では唯一の神社)、恵比寿と大黒天を祀る。

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 秋祭りには、この神社に伝承されている獅子舞が奉納されるという。3頭立(3人一組)での「ささら獅子舞」で、天下泰平、国土安穏を祈る。市指定の無形文化財。(ささらは、竹を細く割って作った楽器で、ささら獅子舞はその楽器を使った踊りのこと。)

 

●震災復興元気市(10:45~11:00)

 「諏訪八幡神社」のすぐ隣に、桜で有名な「飯能中央公園」がある。

 この日3月11日は、6年前の東日本大震災の日。「飯能中央公園」をメイン会場に、東日本大震災などの被災地を支援するイベント「第6回震災復興元気市」が、市内各地で開催されている。ここはメイン会場とあって、大勢の市民で賑わっていた。

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 公園に隣接する飯能市民会館では「チャリテイよさこい」や、地元の駿河台大学による「元気フェスタ」が実施されていた。

 宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区で津波に合い、がれきの中から見つかった「東禅寺」の釣鐘が会場に設置されている。来場者に、鎮魂供養と復興祈願に撞(つ)いてもらっていた。

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 名取市「東禅寺」の三宅住職と飯能市「法光寺」の大野住職は、駒沢大学宗教学部の同級生。震災から1カ月後、大野住職たちが、がれきの中から東禅寺の3つの鐘を捜し出した。「東禅寺」が再建するまで「法光寺」で預かっているそうだ。

 会場では、ボーイスカウトによる募金活動も行われていたので、わずかだが協力する。

 

●能仁寺(11:05~11:10)

 曹洞宗「能仁寺」は、中央公園を出るとすぐ、「天覧山」の南麓にある名刹。

 仁王像(日本彫塑会会員 鏡恒夫氏製作)のある山門をくぐる。

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 石段を上ると中雀門。

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 正面に立派なの本堂が建つ。右手前の手の指のようなオブジェは、 作品名「紅炎魂・コロナ」、 「作:絹谷幸太 2009年4月」 と書いてあって、炎を表現しているらしい。

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 創建は、戦国時代。飯能地方の領主・中山家と黒田家の菩提寺となり、江戸時代には将軍家の庇護のもと栄華をきわめた。1868年(慶応4年)の「飯能戦争」の本陣となり建物と多くの宝物や古文書が焼失してしまった。

 1936年(昭和11年)に本堂が再建、1976年(昭和51)年から復興を続け、現在では山門、位牌堂、大書院、鐘楼、大庫院が完成している。山門からの石灯籠が並ぶ砂利道の参道は風情があり、秋の紅葉の頃は撮影スポットになる。広大な境内は、手入れが良くゆきとどいていて、なんとも心が洗われる。

 この寺には、中山家三代の墓と黒田家累代の墓があるという。また本堂の北庭には桃山時代(1573~1615)の造園とされ、市の指定文化財、日本名園百選の「池泉鑑賞式逢庭園」があるそうだ。

 

●天覧山(11:40~11:45)

 「天覧山」は、山というより標高195mしかない丘である。春はつつじ、秋は紅葉でも有名。山麓にある「能仁寺」の守護神である愛宕権現を祀ってあるところから、元来は「愛宕山」と呼ばれていた。5代将軍綱吉の時に、綱吉の病気平癒のお礼に、生母・桂昌院が十六羅漢の石仏を奉納したので「羅漢山」となったという。

 その後1883年(明治16年)4月、山麓で行なわれた近衛兵の春季小演習を明治天皇がこの山頂から統監されたことで、「天覧山」と呼ばれるようになった。山頂には行幸記念の石碑が建てられている。

 「能仁寺」の境内を出るとすぐに、「天覧山登り口」の看板がある。

 山道を進むと、やがて山腹に市街を展望できる「中段広場」と呼ばれる公園のような小広場に着く。トイレや東屋(あずまや)があり、ここで休憩。明治天皇が山に登られた時は、ここの松の木に馬をつないだという。

 広場には、「山峡に歴史を訪ねるコース」の大きな案内図が立っていた。(写真をクリックすると拡大)

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 この先を進むと分岐があり、どちらも頂上に行けるが、左手の岩場の方の道へ行く。崖には将軍綱吉の生母・桂昌院が寄進した羅漢像があった。

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 山道は狭くなり急坂になるが、石段となっていて、谷側には鎖が張られている。

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 そういえば、数10年前に登った時はもっと自然に近い山で、今のような石段や鎖のガードはなかった。

  山頂に着くと、展望台がある。標高は低いが眺望はよく、飯能市街が一望。また奥武蔵・奥多摩の山々のほか、この日は見えなかったが遠く富士山を望むことができる。

 都心方面の高層ビル群が見える。

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 奥多摩の大岳山(標高1267m)が中央のピーク)、御前山(1475m)は右側のピーク。

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 山頂の裏手から松林の中を下り始めると、団体らしい大勢のハイカーとすれ違いが続く。

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 谷に下りると、水田跡の湿地に出る。

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 やがて、いつの間にか尾根道となると「見返り坂」の看板があった。この坂は、源義経の母・常盤(ときわ)御前が、あまりの景色の良さに振り返り振り返り登ったという伝説がある。今は杉の木があってまったく見晴らせない。



●多峯主山(12:25~13:00)

 「多峯主山」は、「天覧山」の北西にある標高271mの山。「多」くの「峯(峰)」の「主」の山と書いて、「とうのすやま」とはなかなか読めない。名の由来は諸説あるが、この辺りの山々の中では最も高い山。

 多峯主山に登る延々と続く坂道と階段。

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 やがてこの道も2手に分かれ、どちらも山頂に行ける。左手は、「雨乞い池」や黒田直邦の墓を経て山頂へ行くコース。

 右手の尾根伝いの道から直接山頂へ行くことにする。

 多峯主山の山頂(標高271m)標識。三等三角点がある。ここで昼食。

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 低山でありながら271m山頂からの眺望に恵まれ、東の平野部、南から西、北と広がる山間部が見渡せる。

 気がつかなかったが、頂上にはお経を書いた石が1万2千個も埋められてる「経塚」があり、古くから信仰の対象になっていた。写真に写ってないが、この山頂標識の下にあった「石経供養塔」の石碑が、「経塚」だったようだ。

 北西の方向にはっきり見える秩父の武甲山(標高1295m)。

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●御嶽八幡神社(13:15~13:20)

 多峯主山からしばらく下ると、「御嶽八幡神社」。通称「おんたけさん」、創立年代不詳。「前岩」と呼ばれる巨岩の上に、社(やしろ)がある。産土神(うぶすながみ・生まれた土地の守護神)として信仰が厚い。

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 つづら折りの急な階段や坂道を下る。

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 多峯主山から下山すると、麓にはお城のような幼稚園(大東幼稚園)があって、この日は卒園式のようだ

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●吾妻峡(13:50~14:15)

 県道70号線に出ると、標識に従ってしばらく名栗方面(北西方向)へ歩き、ドラッグストア(バイゴー)の横を南に入り坂道を下る。民家の路地を通り抜けると、入間川に出る。

 飛び石のような「ドレミファ橋」を渡る。増水時には、通行禁止となる。

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 入間川にかかる「岩根橋」を境に上流が「吾妻峡」で、下流が「飯能河原」。静かな流れの峡谷は、巨石や奇石が点在し渓相美を見せる。

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 「山峡に歴史を訪ねるコース」では、ドレミファ橋を渡った後は対岸の車の通る道を歩く。その脇道に川沿いの「吾妻峡の河原を歩く散歩道」があり、こちらを歩くことにする。予定していた聖徳太子を祀る「八耳堂」(はちじどう、太子堂とも呼ぶ)はスキップ。

 下流に向かい、赤石、兎石(写真下)、汽車淵と名付けられた奇石が続く、人通りの少ない静かな散歩道。

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 中平河原で、約700mの散歩道は終わり、川岸に上がる。大沢川にかかる大沢橋を渡って「飯能河原」に向かう。

 

●飯能河原(14:50~14:55)

 県道28号を歩くとY字路、左が入間川を渡る「岩根橋」、右へ行くと「飯能河原」。

 やがて入間川が大きく蛇行した広い「飯能河原」に着く。この河原は、駅から徒歩20分ほどの市街地近くにある。

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 飯能河原は、緑と清流のまち・飯能をまるごと体感できるという。飯能河原にかかる赤い「割岩橋」の下流両岸は、「さいたま緑のトラスト」の保全地に指定されている。

 バーベキューやデイキャンプ、浅瀬は子どもたちの川遊びなどの絶好のレジャースポット。昔、家族でここに来て、テントを張ってバーベキューをしたことがある。今は人影も少なく静かだが、夏になると賑やかな声が絶えない。

 飯能河原を渡って、もと来た「大通り商店街」を歩き、東飯能駅に向かう。

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 大通り(県道28号)の広小路交差点に銅像がある。説明板を見ると、双木利一(なみきりいち)先生とある。製作は、彫刻家の清水多嘉示。

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 大正から昭和の時代、飯能小学校校長から銀行支店長、町長、県議会議員として活躍、飯能市の発展に人生を捧げた郷土の名士。1939年(昭和14年)8月没、享年62歳。

 
 15:15、東飯能駅着。ここまでの歩程15,700歩、約9.4Km。休憩を入れて所要時間5時間半。

 15:20、東飯能発の川越駅行きに乗車。15:47、川越駅着。

 川越駅東口から延びる商店街「クレアモール」にある「さくら水産」で、2時間ほど打上げ(16:00~17:50)。夜7時過ぎに帰宅。

 

 この日は、汗ばむほどの良い天気で、上着なしでOKだった。しかし風が少しあって、この後またひどい花粉に悩まされた。

 翌朝起きると、少し筋肉痛があった。一昨日に続きウォーキング、ハイキングと2日続いたので、ゆっくり休養する。

 
 

 ★ ★ ★

【飯能市】

 飯能市は、埼玉県の南西に位置し、東京都(青梅市、奥多摩町)に接する。市内の7割が山野。中世より林業で栄え、江戸時代には江戸の相次ぐ火事により、「西川材」と呼ばれる飯能の大量の材木が、入間川や高麗川により運ばれた。

 人口約8万人、東京都区部への通勤率が高い。東京・池袋から電車で1時間足らずで、緑と清流の町として自然に触れることのできる都会のオアシス。

 

【震災復興元気市】

 「第6回震災復興元気市」が11日、飯能市の中央公園をメイン会場に、市民会館、小町公園、観音寺などで、商工関係や教育・行政など100を超える団体が参加して開かれた。東日本大震災などの被災地を支援する飯能市独自のイベント。(写真をクリックすると拡大)

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 中央公園では、福島、宮城、岩手、茨城、熊本など被災地の15自治体の商工会議所、市民、業者らが、地元のグルメや特産品を販売。また県内、都内など13自治体のご当地グルメ市も開催される。

 また県内外のマスコットキャラクターが集合、防災・安全を考える展示、軽トラ市。市内の「法光寺」で預かっている釣り鐘の展示は、復興が進んで年内にも宮城県名取市の「東禅寺」に帰ることになり、今回が最後になりそうだという。

 隣接の市民会館でも、踊りや音楽の演技・演奏。別の会場では、ひな飾り(店蔵絹神)、朝市や100円商店街なども展開された。

 

【多峯主山】

 多峯主山にある「雨乞い池」は、山頂付近にありながら今まで一度も枯れたことの無いという。水を濁すと雨が降るという伝説がある。

 山頂付近に墓がある黒田直邦は、江戸時代から明治維新まで飯能地方を領していた黒田氏の祖。若いころは5代将軍綱吉に、8代吉宗まで50年余り将軍に仕え、侍従から老中まで上り詰め、上州沼田藩3万石の初代藩主となった。黒田直邦の祖先・中山家勝の建てた「能仁寺」を中興し、寺領50石の大寺とした。直邦の墓は、黒田家累代と同じ「能仁寺」墓地にもある。

 源義経の母・常盤御前については、山頂付近の「常盤が丘」に常盤御前の墓があったという伝説の場所に宝篋(ほうきょう)印塔が建っている。その近くに「常盤平」と呼ばれる眺めのよい場所や、ほかにも前述の「見返り坂」や「よし竹」伝説がある。

 「よし竹」伝説は、常盤御前がこの山に登りながら「源氏再び栄えるなら、この杖よし竹となれ」と言って持っていた竹杖を地に突き立てた。やがてそれが根づいて一面の竹林となったという伝説がある。今でもわずかながら、この付近によし竹が植生しているそうだ。「よし竹」を調べると、ヨシに似ていて葦竹または葭竹と書くが、ダンチク(葮竹または暖竹)の別名とある。イネ科の多年草で、ヨシよりも高くて茎も太く、竹のように中空で節があるそうだ。

 

【飯能戦争】

 飯能は、1867年(慶応4年)の「戊辰戦争」の一局面「飯能戦争」の舞台となった。

 明治維新時、幕臣の一部や旧幕府を支持する諸藩の藩士・志士で結成された「彰義隊」の頭取であった渋沢成一郎(実業家・渋沢栄一の従兄)は、副頭取の天野八郎と意見が合わず対立。彰義隊を脱退した成一郎を首領とし、有志を集めて「振武軍」を結成した。

 「彰義隊」と新政府軍(官軍)の間で「上野戦争」が起こる。敗戦した彰義隊の生き残りを吸収して1,500名に膨れ上がった「振武隊」は、飯能の「能仁寺」に入り本陣とし、「智観寺」、「広渡寺」、「玉宝寺」、「秀常寺」、「心応寺」、「観音寺」に兵を分散して布陣した。1868年(慶応4年)5月23日、大村藩、佐賀藩、久留米藩、佐土原藩、岡山藩、川越藩からなる3,500名の官軍の一方的な攻撃により飯能は戦場と化し、わずか数時間で勝敗は決した。200戸の民家や本陣であった「能仁寺」ほか「智観寺」、「広渡寺」、「観音寺」の四ヶ寺もほとんど焼失した。

 成一郎は被弾して負傷したものの、伊香保(群馬県渋川市)に逃れ、密かに江戸に戻る。参謀の渋沢平九郎(渋沢栄一の養子)は、変装して顔振峠を越えて逃げるが、黒山村(埼玉県越生町)で官軍に捕まり、切腹して果てた。22歳だった。成一郎は、榎本武揚の艦隊に合流し、最後は箱館(北海道函館市)まで行って転戦した。

 

【ヤマノススメ】

 『ヤマノススメ』は、ペンネーム”しろ”による漫画作品。月刊漫画雑誌『コミック アース・スター』2011年9月号より連載中。登山を趣味とする著者が、4人の女子高生が登山を通して友情を深め成長するストーリーを描いている。飯能が舞台で、実在する山や建物、風景が作中に何度も登場することから、飯能をいわゆる「聖地」として訪れるファンも多いという。

 2013年度から飯能市のまちのイメージアップとして、「アニメを活用した地域振興」(萌えおこし)を始めている。イベント会場でコーナーを設けたり、舞台探訪マップや聖地巡礼ツアー、スタンプラリーなどを行って、賑わい創出、商店街振興などの活性化策を推進、地域も一丸となって支援している。

 下の写真は、2014年(平成26年)8月開催の『ヤマノススメ』舞台探訪スタンプラリーのパンフの一部(パンフとスタンプ台紙が、飯能商工会議所のホームページからダウンロードできた。)

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 飯能市内を歩くと、キャラクターが車体に描いてある路線バスが走っていた。そういえば「観音寺」にキャラクターの絵馬のほかにも、市内商店にもキャラクターの看板あったり、天覧山の中段広場の東屋(あずまや)にはファンの交流ノートが置かれたりしていたのを、後になって思い出した。

 NHKの大河ドラマや朝ドラの放映、あるいは小説や映画などによって、急に人気が出て脚光を浴びる観光地や新たな場所が観光地化する傾向は以前からあった。

 数年前から漫画・アニメ作品によって、「聖地巡礼」という言葉が漫画・アニメファンにとって、特別な意味を持つようになった。この「聖地巡礼」が広く知られるようになったのは、埼玉県久喜市(旧鷲宮町)の鷲宮神社がアニメ『らき☆すた』に登場、また長崎県五島市を舞台としている漫画『ばらかもん』などの事例が取り上げられる。

 そして漫画・アニメ作品を対象とした「アニメ・ツーリズム」、広くは文芸、舞台、映画、TVドラマ、漫画・アニメを対象とした「コンテンツ・ツーリズム」というカタカナの言葉も耳にするようになった。近年、全国各地の自治体において、これらを地域活性化(まちおこし)として、真剣に取り組まれているようだ。また観光学、社会学の面からも、これらの「物語の旅」が研究の対象となっている。

 漫画・アニメというコンテンツは、シニア世代からすれば対象となる年齢層が若く、ともすればマニア、オタクという印象もつきまとう。彼らは、クチコミやSNSで情報を分かち合う。旅をしても、シニア世代の様に現地にお金はあまり落とさない。最近ある自治体で、あまりにも女性キャラクターの胸を強調し過ぎたポスターを作り、各方面から批判を浴びたため撤去したというニュースもあった。

 旅行や観光つまり「ツーリズム」に、これまでのような自然景観、歴史遺産、文化遺産といった伝統的な観光資産とともに、21世紀になって「物語=コンテンツ」といった新しい観光資産が加わったのだと思えば良い。今後こういった「コンテンツ・ツーリズム」が、各地域でどう発展していくのか、注目したい。

 

 

 

 

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コメント

秩父霊場三十四観音は全て巡ったのですが飯能もいいお寺が沢山ありますね~!東京はもう4日前に桜開花宣言が出てビックリです。でも寒の戻りもあってゆっくり満開になっていくようです。今年は春を長~く楽しみたいものです。

>RW様
飯能には何度も行ったことがありましたが、さほど印象に残るものではありませんでした。でも今回のハイキングでは、改めで飯能の自然、歴史や文化に触れることが出来て良かったです。

お寺巡りいいですね~!アウトドアの季節ですね!今年は春になっても雪が降り寒さがぶり返した日が多かったです。今日もまた寒の戻りで雨、もう関東の桜も終わりかな・・。今年は開花宣言から満開まで長~く待たされた上に、夜桜や週末は天気があまりよくなく花見の面ではちょっとタイミングが合わない感じでしたね。でもこれからは新緑や花が本格的、いい季節を思い切り満喫し楽しんでいきましょう

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