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2017年3月 7日 (火)

国立歴史民俗博物館

 2017年2月26日(日)、佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」に行く。


 ワゴン車に参加者7人が同乗、7:35出発。「国立歴史民俗博物館」は、千葉県佐倉市城内町、「佐倉城址公園」の一角にある。9:55、博物館到着。

 (写真はクリックすると拡大表示します。)

●国立歴史民俗博物館(9:55~12:40)

 正式名称は、「大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館」。略称は、「歴博」。

 歴史学、考古学、民族学の大学共同利用機関で研究を推進するとともに、あわせて資料を展示・公開する博物館としての施設。35年ほど前に開館した比較的新しい国立の博物館で、約13万平米の敷地に延べ床面積約3万5千平米の規模を有する壮大な「日本の歴史」の殿堂。

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 広々とした博物館のロビー。10:10、展示室に入場。

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●第1展示室(原始・古代)・・・日本列島に人類が登場した旧石器時代~律令国家が成立した奈良時代まで。

 残念ながら、リニューアル中のため閉室。


●第2展示室(中世)
・・・平安時代~安土桃山時代

 平安京のジオラマ

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 「王朝文化」; 女房装束の十二単、男性の左が束帯(そくたい、正装)、右は直衣(のうし、日常着)など貴族の服装を展示。唐風文化に代わって独特な王朝文化が花開く。

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 「大名と一揆」; 室町時代は大名が力を持つ一方、地域的な自治も発達した。戦国大名朝倉氏の一乗谷遺跡、一揆関係の資料、京都の町並の再現模型などが展示。「洛中洛外図屏風」を元にした京都の町並のミニチュア(写真中央)は、良く出来ていた。

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 「民衆の生活と文化」エリア; 中世後期は、底辺の民衆が歴史の表舞台にはなばなしく登場、農業や手工業の技術が発展し、多くの芸能も生まれた。

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 中世の賑やかな「市」の様子。

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 縦引き鋸(のこぎり)と職人。この鋸は、製材に一大革新をもたらした。

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 芸能(田楽)の装束。奈良春日社など、現代の祭礼に名残をとどめる。

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 煎じ物売りの商人。

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 「大航海時代のなかの日本」; これまでの中国(明)を中心とした交易から、ヨーロッパ勢力の東アジア進出は多くの文物をもたらし、特に鉄砲とキリスト教は日本に大きな影響を与えた。写真下は、御朱印船の模型。

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 そのほかの展示エリアは、

 「東国と西国」; 中世では、東の鎌倉幕府と西の朝廷とに分権化する。それによって文化・生活の違いが顕著になるが、一方で人々や物資が東西を交流する。

 「印刷文化」; 平安の経典などから近世初期の古活字本など、印刷文化の歴史を紹介。


●第3展示室(近世)
・・・江戸時代

 「国際社会のなかの近世日本」; 近世では「鎖国」をしていたと思われがちだが、中国、オランダ、朝鮮、琉球、アイヌとの交流していた。特に松前藩を通じてのアイヌとの交流は初めて知ることが多く、興味深い。

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 「都市の時代」; 近世は、各地に城下町ができ、現代にもつながる都市が作られた「都市の時代」だった。江戸中心部の町・日本橋付近の模型も良く出来ている。

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 「ひとともののながれ」; 各地に都市ができ新たな物流が生まれ、また庶民が旅行するようになると全国の交通網が整備された。写真中央は各地に建てられた道標、左には旅篭屋(はたごや)、右に北前船。

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 「村から見える近代」; 「四季農耕図屏風」には、農民の生き生きした働く姿や暮らしぶりが描かれている。村びとは、技術開発によって生産性を向上させ、暮らしのゆとりが出来ると学んだり、娯楽を楽しんだりする一方で、貧富の差も広がる。

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 江戸時代も末期になると、幕府を批判する考え方や、自分たちの地域の文化や歴史をみつめ直そうという動きが起こり、「近代」社会の担い手もこのなかから生まれました。村に住んでいた人たちが考えていたことや活動していたことを紹介。

 第3展示室では、特集展示「見世物大博覧会」が開催中。

 江戸時代に隆盛を極め、明治から現代に至るまで命脈を保ってきた多種多様な「見世物」の様子を、本館や個人が所蔵する絵看板、錦絵、一枚摺(ずり)などを紹介。残念だが撮影禁止。写真は、歴博のパンフから転載。

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●第4展示室(民俗)・・・列島の民俗文化を紹介しながら、過去を振り返り未来を見つめる。

 「民俗へのまなざし」; 産業開発や消費文化の影響を受けつつ変貌する民俗を展示。

 サブテーマ「ひろがる民族」では、時代によって三越デパートの「おせち料理」がどう変化したかを食品サンプルで展示されていたが、ここだけは撮影禁止。

 サブテーマ「開発と景観」では、世界遺産に登録された白神山地、屋久島、五箇山・白川郷の合掌造りの景観が保全される一方で、生活文化が改変されている。

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 同上サブテーマの沖縄戦跡と観光、西表島の自然についての展示。

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 「おそれと祈り」と「くらしと技」; 3月31日まで、施設工事のためエリアを閉室。

●第5展示室(近代)・・・明治・大正。19世紀後半近代の出発~1920年代まで。

 「文明開化」; 公教育の成立・普及、民間の学習活動、自由民権運動などを展示。

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 急激な文明開化は、人々の経済や生活に多くの動揺と混乱を生じ、貧困と格差、伝統文化の破壊、抑圧や差別の歴史をあぶりだすことになった。

 「産業と開拓」; 政府は、殖産興業や富国強兵をスローガンに、多くの国民の犠牲のもとに近代化政策を推進した。生糸と海外貿易についての展示。

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 政府は、国策の基幹産業といえる製糸、製鉄のほか北海道開拓を進めるが、一方で様々なひずみを生じた。アイヌに対しての和人同化の強制政策についての具体例は初めて知る。

 「都市の大衆の時代」; 近代工業の推進は、産業構造を変化させ、農村から都市変人口移動を加速し、都市の大衆化、消費文化が始まった。

 消費文化に着いて、飲料、化粧品、衣料などのポスターを展示。

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 浅草の町並。正面は活動写真館の券売所がある。

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 やがて1923年(大正12年)、関東大震災が大都市東京を襲うことになる。

●第6展示室(現代)・・・1930年代~1970年代、戦前と戦後 

 「戦争と平和」; 明治から大正、昭和と、日本は数々の戦争を繰り返した。富国強兵が国家目標とさ れ、そのために国民と他国民に多くの犠牲を強いた。戦争終結から占領下の生活を展示。

 写真中央の「入営祝いの幟(のぼり)」は、親類・知人が贈ったもので、見送りの際に各家庭の前や駅などに立てられた。

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 占領下の生活、闇市・露天商を実物大のマネキンで再現。

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 「戦後の生活革命」; 1950年代半ばから70年代初めまでの高度成長は、重化学工業を中心とした産業がそれを支え、農村から大量の人口が都市へ流入した。電化生活が実現し、都市型生活が広がった。

 大衆文化からみた戦後日本のイメージとして、昭和の映画、テレビ番組、CM、雑誌などが展示されていた。懐かしいものがたくさんあってゆっくり見たかったが、あいにく集合時刻まで残り少なくなった。

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 東宝映画『ゴジラ』の造作模型。

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 11:45、館内のレストラン「さくら」に入店。佐倉丼(豚丼)や古代米のカレーを注文(1,300円)。 

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 13:30~ミュージアムショップ。関連図書や博物館グッズが販売されている。本館のガイドブック(540円)を購入。

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●佐倉城址公園(12:40~13:10)

 博物館を退場し、城址公園内を散策する。日曜とあって家族連れが多い。さすがにサクラの木が多く植えられていて、花見の頃にはさぞ賑やかだろう。

 江戸時代の佐倉城は、佐倉藩の藩庁。明治以降は、歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。

 写真は「佐倉陸軍病院」跡地に建つ石碑。戦後は「国立佐倉病院」となり後に移転するが、現在は国立千葉東病院と統合。

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 正岡子規の句碑「常盤木や冬されまさる城の跡」が建つ。

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 二の丸から本丸に入る二階建て「一の門跡」があった。

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 城の防御のための土塁と本丸跡。城郭は石垣を一切用いない土造りで、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にした。

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 本丸の隅、赤いパイロンの付近に天守の代用の三重櫓(三階建てのやぐら)があった。

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 この後の行動は、本ブログ「DIC川村記念美術館」につづく。


 ★ ★ ★

 東京・京都・奈良の3か所の美術系博物館は明治時代から存在したが、歴史系の国立博物館(以下、歴博)を設置するべきとの意見は古くから出ており、特に歴史学者の黒板勝美が訴えていた。設置構想が具体化するのは、戦後になってから。1966年(昭和41)「明治100年」記念事業一環として歴博の設置を決定、学識経験者らによって検討が始まった。

 1971年(昭和46)文化庁内に歴博設置の基本構想委員会、1978年(昭和53)には歴博設立準備室が設置された。歴博を考古・歴史・民俗の3分野を柱とし、あわせて大学共同利用機関とするコンセプトは、準備室長の歴史学者で東大名誉教授・井上光貞によるところが大きい。

 歴博は1981年(昭和56)に発足、設置準備において指導的立場にあった井上が初代館長となった。ただし博物館としての一般公開が始まるのは、2年後の1983年(昭和58)3月。公開直前の2月に井上は急死する。2代目館長は、東大文学部の土田直鎮教授が引き継いだ。

 歴博は展示施設であるとともに、考古学・歴史学・民俗学の研究機関であり、他の研究機関や大学と共同で研究を推進し、調査研究の基盤のもとに収蔵品の展示を行うことが重視されている。収蔵品は、「収集資料」と「製作資料」とに大別される。「収集資料」は実物資料で、古文書、古記録、絵図などの歴史資料、考古資料、民俗資料など。これらは、歴博開館時に文化庁から移管されたものが大部分を占めるという。「製作資料」は、建造物の模型、古墳や町並み・集落などの復元模型、考古資料など遺物の模造(レプリカ)などがある。

 話に聞いた通り、天皇や将軍といった権力者中心ではなく、庶民の立場からの日本史をわかり易く、ビジュアルに展示・解説してあって、教科書では習わなかった事柄(例えばアイヌの事など)も多く、非常に有益であった。

 2時間近く見て回ったが、全部を見きれなかった。中世、近世の庶民の歴史・風俗に関心があって時間を費やして詳しく見たが、第6展示室(現代)では時間がなくて通り過ぎただけだった。今回は第1展示室(原始・古代)が閉室だったので、特に原始時代の考古学的資料が見られなかったのは残念。歴博は、何度も足を運んで観るものらしい。少々遠い所だが入場料も安いので、機会があればぜひまた行ってみたい。
 

 ★ ★ ★

 佐倉城は、1610年(慶長15年)に土井利勝(後に幕府の老中、大老)が徳川家康の命を受け完成した。江戸時代初期には城主の入れ替わりが多かったが、後に堀田氏が入封し幕末まで続いた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、幕末の藩主で老中を努めた堀田正睦(まさよし)は有名。

 正睦は蘭学を奨励し、医師・佐藤泰然を招いて城下に医学塾・順天堂(現在の順天堂大学の起源)を開いた。幕府老中となり、ハリスとの日米修好通商条約締結に奔走する。しかし孝明天皇の勅許を得られず、井伊直弼の大老就任によって失脚した。

 佐倉城址公園には、堀田正睦とタウゼント・ハリスの銅像が並んで建っている。

 常盤木や 冬されまさる 城の跡

 正岡子規の句は、既に病魔にむしばまれていた26歳くらいの1894年(明治27)12月、開通したばかりの総武線を利用して佐倉を訪れて詠んだとされる。

 「冬の荒れ果てた寂しさが増した城跡は、常緑樹に包まれている」という意味だそうだ。「常盤木(ときわぎ)」は、常緑広葉樹林のこと。「冬され」と歌っているが、一般的には「冬ざれ」のことで、冬の荒れさびれた姿として用いられる季語だという。枯れ果てた古城より、常盤木のような生き生きとした軍事基地を、「冬されまさる」とは表現した。

 日清戦争が激しさを増している最中、新設なった総武線路によって大陸への人員・物資輸送に活況のある城址駐屯地のありさまと、荒れさびれた古城の対比を見て、子規はどう感じたのであろうか。

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