無料ブログはココログ

« 2017年2月 | トップページ | 2017年4月 »

2017年3月の6件の投稿

2017年3月20日 (月)

奥武蔵・天覧山と多峯主山

 2017年3月11日(日)、奥武蔵の天覧山と多峯主山(とうのすやま)へハイキング。
 
 

 埼玉県飯能市の東飯能駅前から、天覧山(標高195m)と多峯主山(標高271m)に登り、吾妻峡と飯能河原を経て東飯能駅までの「山峡に歴史を訪ねるコース」、約9Kmを歩く。

 9:30、東飯能駅着、西口前のファミリーマートで昼の弁当を購入。

 9:45、駅西口前をスタート。大通り商店街(県28号、県道70号重複)を西に向かって歩く。
 
 

●店蔵絹甚とひな飾り(10:05)

 大通りに面した「店蔵絹甚(みせぐらきぬじん)」は、飯能市の有形文化財に指定されている歴史的建造物。

 飯能は、かつて絹の集散地であった。江戸時代から商いをしていた篠原家は、明治時代には絹関連(絹織物、生糸、繭、蚕の卵)の買継商を営んでいた。「絹甚」は、篠原甚蔵の名前の「甚」を取った屋号。明治30年代後半に建てられた土蔵造り2階建て、店蔵、居宅と土蔵の3棟は、建築当初の様子をほぼ残しているという。無料で建物内の見学ができる。 

Img_1800

 「飯能ひな飾り展」が、「店蔵絹甚」をはじめとして市内の各商店や公共施設などで、2月下旬から3月中旬まで開催されている。下の写真は、「店蔵絹甚」内の見世(店)で展示されていたひな飾り。

Img_1798

 

●観音寺(10:10~10:35)

 駅から大通り商店街を1Km余り歩いた所、飯能河原交差点の角に市街地の寺院として市民に親しまれている真言宗智山派「観音寺」がある。

 江戸時代の文化・文政期ごろには、「高麗郡三十三ヶ所霊場」の10番札所として庶民の信仰を集めた。また「武蔵野七福神」の1寺で、正面の不動堂に寿老人が安置されている。その右手は本堂(観音堂)。

Img_1815

 七福神の寿老人を祀る観音寺の不動堂。

Img_1823

 1867年(慶応4年)の「飯能戦争」で、幕府軍(反新政府の「振武軍」)が本陣とした「能仁寺」(後述)のほか「智観寺」、「心応寺」などともに立てこもった寺の1つである。

 この日は、東日本大震災などの被災地を支援するイベント「第6回震災復興元気市」がこの境内でも開催されていた。焼きたての焼き芋や、つきたてのあんころ餅(会津若松産の餅米使用)を買って食べ、支援に協力。

Img_1808

 この寺の鐘撞き堂には、太平洋戦争中に鐘が供出されてしまったため堂のみが残されていた。1965年(昭和40年)頃に市内の檀家が仏教の世界に出てくる白象を製作、この鐘撞き堂に収め、現在に至っている。

Img_1816

 漫画・TVアニメ『ヤマノススメ』には、この白象が何度も登場するそうだ。白象と一緒のアニメシーンを描いた看板が置かれ(写真に撮らなかったのが残念)、キャラクターを描いた絵馬も販売してされている。この象を目当てに訪れる『ヤマノススメ』のファンも多いという。

 また観音寺の境内には、飯能鬼子母神が建立されている。鬼子母神とゆかりの深いザクロが飯能の名産だったため、飯能商工会議所など地元関係者の協力によって2007年(平成19年)に設置された。

Img_1819

 

●諏訪八幡神社(10:40)

 「観音寺」の裏手の墓地から林の中の裏道を歩くと、「諏訪八幡神社」の参道の石段がある。神社は、左手の「郷土資料館」と右手の「市民会館」に挟まれて建っている。

 地元では「おすわさま」と呼ばれ、16世紀に信濃の国の諏訪明神(諏訪大社)を勧請(かんじょう)したとされる。

Img_1830

 境内にある「飯能恵比寿神社」は、先の「観音寺」の不動堂と同様に「武蔵野七福神」に数えられ(その中では唯一の神社)、恵比寿と大黒天を祀る。

Img_1834

 秋祭りには、この神社に伝承されている獅子舞が奉納されるという。3頭立(3人一組)での「ささら獅子舞」で、天下泰平、国土安穏を祈る。市指定の無形文化財。(ささらは、竹を細く割って作った楽器で、ささら獅子舞はその楽器を使った踊りのこと。)

 

●震災復興元気市(10:45~11:00)

 「諏訪八幡神社」のすぐ隣に、桜で有名な「飯能中央公園」がある。

 この日3月11日は、6年前の東日本大震災の日。「飯能中央公園」をメイン会場に、東日本大震災などの被災地を支援するイベント「第6回震災復興元気市」が、市内各地で開催されている。ここはメイン会場とあって、大勢の市民で賑わっていた。

Img_1848mos

 公園に隣接する飯能市民会館では「チャリテイよさこい」や、地元の駿河台大学による「元気フェスタ」が実施されていた。

 宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区で津波に合い、がれきの中から見つかった「東禅寺」の釣鐘が会場に設置されている。来場者に、鎮魂供養と復興祈願に撞(つ)いてもらっていた。

Img_1839

 名取市「東禅寺」の三宅住職と飯能市「法光寺」の大野住職は、駒沢大学宗教学部の同級生。震災から1カ月後、大野住職たちが、がれきの中から東禅寺の3つの鐘を捜し出した。「東禅寺」が再建するまで「法光寺」で預かっているそうだ。

 会場では、ボーイスカウトによる募金活動も行われていたので、わずかだが協力する。

 

●能仁寺(11:05~11:10)

 曹洞宗「能仁寺」は、中央公園を出るとすぐ、「天覧山」の南麓にある名刹。

 仁王像(日本彫塑会会員 鏡恒夫氏製作)のある山門をくぐる。

Img_1862

 石段を上ると中雀門。

Img_1863

 正面に立派なの本堂が建つ。右手前の手の指のようなオブジェは、 作品名「紅炎魂・コロナ」、 「作:絹谷幸太 2009年4月」 と書いてあって、炎を表現しているらしい。

Img_1864

 創建は、戦国時代。飯能地方の領主・中山家と黒田家の菩提寺となり、江戸時代には将軍家の庇護のもと栄華をきわめた。1868年(慶応4年)の「飯能戦争」の本陣となり建物と多くの宝物や古文書が焼失してしまった。

 1936年(昭和11年)に本堂が再建、1976年(昭和51)年から復興を続け、現在では山門、位牌堂、大書院、鐘楼、大庫院が完成している。山門からの石灯籠が並ぶ砂利道の参道は風情があり、秋の紅葉の頃は撮影スポットになる。広大な境内は、手入れが良くゆきとどいていて、なんとも心が洗われる。

 この寺には、中山家三代の墓と黒田家累代の墓があるという。また本堂の北庭には桃山時代(1573~1615)の造園とされ、市の指定文化財、日本名園百選の「池泉鑑賞式逢庭園」があるそうだ。

 

●天覧山(11:40~11:45)

 「天覧山」は、山というより標高195mしかない丘である。春はつつじ、秋は紅葉でも有名。山麓にある「能仁寺」の守護神である愛宕権現を祀ってあるところから、元来は「愛宕山」と呼ばれていた。5代将軍綱吉の時に、綱吉の病気平癒のお礼に、生母・桂昌院が十六羅漢の石仏を奉納したので「羅漢山」となったという。

 その後1883年(明治16年)4月、山麓で行なわれた近衛兵の春季小演習を明治天皇がこの山頂から統監されたことで、「天覧山」と呼ばれるようになった。山頂には行幸記念の石碑が建てられている。

 「能仁寺」の境内を出るとすぐに、「天覧山登り口」の看板がある。

 山道を進むと、やがて山腹に市街を展望できる「中段広場」と呼ばれる公園のような小広場に着く。トイレや東屋(あずまや)があり、ここで休憩。明治天皇が山に登られた時は、ここの松の木に馬をつないだという。

 広場には、「山峡に歴史を訪ねるコース」の大きな案内図が立っていた。(写真をクリックすると拡大)

Img_1871

 この先を進むと分岐があり、どちらも頂上に行けるが、左手の岩場の方の道へ行く。崖には将軍綱吉の生母・桂昌院が寄進した羅漢像があった。

Img_1873

 山道は狭くなり急坂になるが、石段となっていて、谷側には鎖が張られている。

Img_1874

 そういえば、数10年前に登った時はもっと自然に近い山で、今のような石段や鎖のガードはなかった。

  山頂に着くと、展望台がある。標高は低いが眺望はよく、飯能市街が一望。また奥武蔵・奥多摩の山々のほか、この日は見えなかったが遠く富士山を望むことができる。

 都心方面の高層ビル群が見える。

Img_1879

 奥多摩の大岳山(標高1267m)が中央のピーク)、御前山(1475m)は右側のピーク。

Img_1888

 山頂の裏手から松林の中を下り始めると、団体らしい大勢のハイカーとすれ違いが続く。

Img_1893

 谷に下りると、水田跡の湿地に出る。

Img_1894

 やがて、いつの間にか尾根道となると「見返り坂」の看板があった。この坂は、源義経の母・常盤(ときわ)御前が、あまりの景色の良さに振り返り振り返り登ったという伝説がある。今は杉の木があってまったく見晴らせない。



●多峯主山(12:25~13:00)

 「多峯主山」は、「天覧山」の北西にある標高271mの山。「多」くの「峯(峰)」の「主」の山と書いて、「とうのすやま」とはなかなか読めない。名の由来は諸説あるが、この辺りの山々の中では最も高い山。

 多峯主山に登る延々と続く坂道と階段。

Img_1902

 やがてこの道も2手に分かれ、どちらも山頂に行ける。左手は、「雨乞い池」や黒田直邦の墓を経て山頂へ行くコース。

 右手の尾根伝いの道から直接山頂へ行くことにする。

 多峯主山の山頂(標高271m)標識。三等三角点がある。ここで昼食。

Img_1918

 低山でありながら271m山頂からの眺望に恵まれ、東の平野部、南から西、北と広がる山間部が見渡せる。

 気がつかなかったが、頂上にはお経を書いた石が1万2千個も埋められてる「経塚」があり、古くから信仰の対象になっていた。写真に写ってないが、この山頂標識の下にあった「石経供養塔」の石碑が、「経塚」だったようだ。

 北西の方向にはっきり見える秩父の武甲山(標高1295m)。

Img_1916

 

●御嶽八幡神社(13:15~13:20)

 多峯主山からしばらく下ると、「御嶽八幡神社」。通称「おんたけさん」、創立年代不詳。「前岩」と呼ばれる巨岩の上に、社(やしろ)がある。産土神(うぶすながみ・生まれた土地の守護神)として信仰が厚い。

Img_1924

 つづら折りの急な階段や坂道を下る。

Img_1925

 多峯主山から下山すると、麓にはお城のような幼稚園(大東幼稚園)があって、この日は卒園式のようだ

Img_1929

 
 
●吾妻峡(13:50~14:15)

 県道70号線に出ると、標識に従ってしばらく名栗方面(北西方向)へ歩き、ドラッグストア(バイゴー)の横を南に入り坂道を下る。民家の路地を通り抜けると、入間川に出る。

 飛び石のような「ドレミファ橋」を渡る。増水時には、通行禁止となる。

Img_1932

 入間川にかかる「岩根橋」を境に上流が「吾妻峡」で、下流が「飯能河原」。静かな流れの峡谷は、巨石や奇石が点在し渓相美を見せる。

Img_1935

 「山峡に歴史を訪ねるコース」では、ドレミファ橋を渡った後は対岸の車の通る道を歩く。その脇道に川沿いの「吾妻峡の河原を歩く散歩道」があり、こちらを歩くことにする。予定していた聖徳太子を祀る「八耳堂」(はちじどう、太子堂とも呼ぶ)はスキップ。

 下流に向かい、赤石、兎石(写真下)、汽車淵と名付けられた奇石が続く、人通りの少ない静かな散歩道。

Img_1944

 中平河原で、約700mの散歩道は終わり、川岸に上がる。大沢川にかかる大沢橋を渡って「飯能河原」に向かう。

 

●飯能河原(14:50~14:55)

 県道28号を歩くとY字路、左が入間川を渡る「岩根橋」、右へ行くと「飯能河原」。

 やがて入間川が大きく蛇行した広い「飯能河原」に着く。この河原は、駅から徒歩20分ほどの市街地近くにある。

Img_1952

 飯能河原は、緑と清流のまち・飯能をまるごと体感できるという。飯能河原にかかる赤い「割岩橋」の下流両岸は、「さいたま緑のトラスト」の保全地に指定されている。

 バーベキューやデイキャンプ、浅瀬は子どもたちの川遊びなどの絶好のレジャースポット。昔、家族でここに来て、テントを張ってバーベキューをしたことがある。今は人影も少なく静かだが、夏になると賑やかな声が絶えない。

 飯能河原を渡って、もと来た「大通り商店街」を歩き、東飯能駅に向かう。

Img_1956

 大通り(県道28号)の広小路交差点に銅像がある。説明板を見ると、双木利一(なみきりいち)先生とある。製作は、彫刻家の清水多嘉示。

Img_1957

 大正から昭和の時代、飯能小学校校長から銀行支店長、町長、県議会議員として活躍、飯能市の発展に人生を捧げた郷土の名士。1939年(昭和14年)8月没、享年62歳。

 
 15:15、東飯能駅着。ここまでの歩程15,700歩、約9.4Km。休憩を入れて所要時間5時間半。

 15:20、東飯能発の川越駅行きに乗車。15:47、川越駅着。

 川越駅東口から延びる商店街「クレアモール」にある「さくら水産」で、2時間ほど打上げ(16:00~17:50)。夜7時過ぎに帰宅。

 

 この日は、汗ばむほどの良い天気で、上着なしでOKだった。しかし風が少しあって、この後またひどい花粉に悩まされた。

 翌朝起きると、少し筋肉痛があった。一昨日に続きウォーキング、ハイキングと2日続いたので、ゆっくり休養する。

 
 

 ★ ★ ★

【飯能市】

 飯能市は、埼玉県の南西に位置し、東京都(青梅市、奥多摩町)に接する。市内の7割が山野。中世より林業で栄え、江戸時代には江戸の相次ぐ火事により、「西川材」と呼ばれる飯能の大量の材木が、入間川や高麗川により運ばれた。

 人口約8万人、東京都区部への通勤率が高い。東京・池袋から電車で1時間足らずで、緑と清流の町として自然に触れることのできる都会のオアシス。

 

【震災復興元気市】

 「第6回震災復興元気市」が11日、飯能市の中央公園をメイン会場に、市民会館、小町公園、観音寺などで、商工関係や教育・行政など100を超える団体が参加して開かれた。東日本大震災などの被災地を支援する飯能市独自のイベント。(写真をクリックすると拡大)

2017

 中央公園では、福島、宮城、岩手、茨城、熊本など被災地の15自治体の商工会議所、市民、業者らが、地元のグルメや特産品を販売。また県内、都内など13自治体のご当地グルメ市も開催される。

 また県内外のマスコットキャラクターが集合、防災・安全を考える展示、軽トラ市。市内の「法光寺」で預かっている釣り鐘の展示は、復興が進んで年内にも宮城県名取市の「東禅寺」に帰ることになり、今回が最後になりそうだという。

 隣接の市民会館でも、踊りや音楽の演技・演奏。別の会場では、ひな飾り(店蔵絹神)、朝市や100円商店街なども展開された。

 

【多峯主山】

 多峯主山にある「雨乞い池」は、山頂付近にありながら今まで一度も枯れたことの無いという。水を濁すと雨が降るという伝説がある。

 山頂付近に墓がある黒田直邦は、江戸時代から明治維新まで飯能地方を領していた黒田氏の祖。若いころは5代将軍綱吉に、8代吉宗まで50年余り将軍に仕え、侍従から老中まで上り詰め、上州沼田藩3万石の初代藩主となった。黒田直邦の祖先・中山家勝の建てた「能仁寺」を中興し、寺領50石の大寺とした。直邦の墓は、黒田家累代と同じ「能仁寺」墓地にもある。

 源義経の母・常盤御前については、山頂付近の「常盤が丘」に常盤御前の墓があったという伝説の場所に宝篋(ほうきょう)印塔が建っている。その近くに「常盤平」と呼ばれる眺めのよい場所や、ほかにも前述の「見返り坂」や「よし竹」伝説がある。

 「よし竹」伝説は、常盤御前がこの山に登りながら「源氏再び栄えるなら、この杖よし竹となれ」と言って持っていた竹杖を地に突き立てた。やがてそれが根づいて一面の竹林となったという伝説がある。今でもわずかながら、この付近によし竹が植生しているそうだ。「よし竹」を調べると、ヨシに似ていて葦竹または葭竹と書くが、ダンチク(葮竹または暖竹)の別名とある。イネ科の多年草で、ヨシよりも高くて茎も太く、竹のように中空で節があるそうだ。

 

【飯能戦争】

 飯能は、1867年(慶応4年)の「戊辰戦争」の一局面「飯能戦争」の舞台となった。

 明治維新時、幕臣の一部や旧幕府を支持する諸藩の藩士・志士で結成された「彰義隊」の頭取であった渋沢成一郎(実業家・渋沢栄一の従兄)は、副頭取の天野八郎と意見が合わず対立。彰義隊を脱退した成一郎を首領とし、有志を集めて「振武軍」を結成した。

 「彰義隊」と新政府軍(官軍)の間で「上野戦争」が起こる。敗戦した彰義隊の生き残りを吸収して1,500名に膨れ上がった「振武隊」は、飯能の「能仁寺」に入り本陣とし、「智観寺」、「広渡寺」、「玉宝寺」、「秀常寺」、「心応寺」、「観音寺」に兵を分散して布陣した。1868年(慶応4年)5月23日、大村藩、佐賀藩、久留米藩、佐土原藩、岡山藩、川越藩からなる3,500名の官軍の一方的な攻撃により飯能は戦場と化し、わずか数時間で勝敗は決した。200戸の民家や本陣であった「能仁寺」ほか「智観寺」、「広渡寺」、「観音寺」の四ヶ寺もほとんど焼失した。

 成一郎は被弾して負傷したものの、伊香保(群馬県渋川市)に逃れ、密かに江戸に戻る。参謀の渋沢平九郎(渋沢栄一の養子)は、変装して顔振峠を越えて逃げるが、黒山村(埼玉県越生町)で官軍に捕まり、切腹して果てた。22歳だった。成一郎は、榎本武揚の艦隊に合流し、最後は箱館(北海道函館市)まで行って転戦した。

 

【ヤマノススメ】

 『ヤマノススメ』は、ペンネーム”しろ”による漫画作品。月刊漫画雑誌『コミック アース・スター』2011年9月号より連載中。登山を趣味とする著者が、4人の女子高生が登山を通して友情を深め成長するストーリーを描いている。飯能が舞台で、実在する山や建物、風景が作中に何度も登場することから、飯能をいわゆる「聖地」として訪れるファンも多いという。

 2013年度から飯能市のまちのイメージアップとして、「アニメを活用した地域振興」(萌えおこし)を始めている。イベント会場でコーナーを設けたり、舞台探訪マップや聖地巡礼ツアー、スタンプラリーなどを行って、賑わい創出、商店街振興などの活性化策を推進、地域も一丸となって支援している。

 下の写真は、2014年(平成26年)8月開催の『ヤマノススメ』舞台探訪スタンプラリーのパンフの一部(パンフとスタンプ台紙が、飯能商工会議所のホームページからダウンロードできた。)

Event201408n

 飯能市内を歩くと、キャラクターが車体に描いてある路線バスが走っていた。そういえば「観音寺」にキャラクターの絵馬のほかにも、市内商店にもキャラクターの看板あったり、天覧山の中段広場の東屋(あずまや)にはファンの交流ノートが置かれたりしていたのを、後になって思い出した。

 NHKの大河ドラマや朝ドラの放映、あるいは小説や映画などによって、急に人気が出て脚光を浴びる観光地や新たな場所が観光地化する傾向は以前からあった。

 数年前から漫画・アニメ作品によって、「聖地巡礼」という言葉が漫画・アニメファンにとって、特別な意味を持つようになった。この「聖地巡礼」が広く知られるようになったのは、埼玉県久喜市(旧鷲宮町)の鷲宮神社がアニメ『らき☆すた』に登場、また長崎県五島市を舞台としている漫画『ばらかもん』などの事例が取り上げられる。

 そして漫画・アニメ作品を対象とした「アニメ・ツーリズム」、広くは文芸、舞台、映画、TVドラマ、漫画・アニメを対象とした「コンテンツ・ツーリズム」というカタカナの言葉も耳にするようになった。近年、全国各地の自治体において、これらを地域活性化(まちおこし)として、真剣に取り組まれているようだ。また観光学、社会学の面からも、これらの「物語の旅」が研究の対象となっている。

 漫画・アニメというコンテンツは、シニア世代からすれば対象となる年齢層が若く、ともすればマニア、オタクという印象もつきまとう。彼らは、クチコミやSNSで情報を分かち合う。旅をしても、シニア世代の様に現地にお金はあまり落とさない。最近ある自治体で、あまりにも女性キャラクターの胸を強調し過ぎたポスターを作り、各方面から批判を浴びたため撤去したというニュースもあった。

 旅行や観光つまり「ツーリズム」に、これまでのような自然景観、歴史遺産、文化遺産といった伝統的な観光資産とともに、21世紀になって「物語=コンテンツ」といった新しい観光資産が加わったのだと思えば良い。今後こういった「コンテンツ・ツーリズム」が、各地域でどう発展していくのか、注目したい。

 

 

 

 

2017年3月15日 (水)

森林公園の早春の花

 2017年3月10日(金)、「国営武蔵丘陵森林公園」(埼玉県滑川町)の早春の花見ウォーク。

 

 東武東上線の森林公園駅北口に9時集合。お昼の弁当が配られ、主催者の挨拶の後、ウォーキングのスタート。

 駅前から森林公園南口までのおよそ3Kmの遊歩道を45分ほどかけて歩く。

 南口から入園、「梅林(花木園)」までは約1Km。寒桜や菜の花を見ながら15分ほど歩く。

Img_6839

 10:10、陽だまりの斜面にある「梅林」に到着。

 ここは、春を一番に感じられるエリア。120品種、500本の梅の木が植えられている。

Img_6843

 梅の木の下に咲く「水仙」。

Img_6849

 早咲きの梅はすでに盛りを過ぎてちょっと寂しいが、遅咲きの白・桃・紅の梅の花が見ごろを迎えている。一部の木では、「樹勢回復中」の看板が立っている。

 「月影枝垂れ」は、白の一重咲き大輪、枝垂れ性の品種。

Img_6856

 見事な紅梅が広がる。

Img_6864

 「月影」という品種の梅。花が青白く、白梅の中でも際立って目立つ梅。一重、野梅性の遅咲きの梅。池に映る月のような梅という意味があるらしい。

Img_6868

 「見驚(けんきょう)」は、中国原産で日本へは古代に渡来した栽培品種の1つ。開花時期は3月上旬ころ。野梅性の淡い桃色をした八重咲きの大輪、花の色は咲き進むと白くなる。大輪で見て驚くというのが名の由来。

Img_6874

 撮影した梅の説明看板で品種をチェックできなかったのが、後になって残念。

Img_6877

Img_6898

 梅の品種とは違うが、花が蝋のような艶がある「ロウバイ(蝋梅、ロウバイ科)」は盛りを過ぎていた。

Img_6886

 早春の花「マンサク(満作、マンサク科)」の花は、もう終わったのか見当たらなかった。マンサクは、花がよく咲けば豊作、花が少なければ不作など、稲の作柄を占ったとか、早春に咲くので「まず咲く」、「まんずさく」と東北地方で訛ったものともいわれている。

 ミズキ科の「サンシュユ(山茱萸)」も咲いていた。江戸時代薬用植物として栽培され、今では観賞用として庭木に植えられている。

Img_6890

 しばらく梅林の中を散策、さまざまな品種の梅の花を観賞。

 (写真をクリックすると拡大表示)

Img_6904


 10:55、「運動広場」に移動して、ここで早めの昼食。

 11:25、次に「野草コース」に向かう。

 11:35、野草コースの入口では、フクジュソウ、オオミスミソウ、キクザキイチゲなど可憐な花が咲いていた。

 早春を代表する花「フクジュソウ(福寿草)」は、キンポウゲ科の毒草。

Img_6924

Img_6879

 「オオミスミソウ(大三角草)」は「雪割草」とも、新潟県の花としても知られ、ピンクや紫など色や花の形の変化に富む。

Img_6915

Img_6929

 「キクザキイチゲ(菊咲一華)」は、菊に似ている。紫色の花もあるそうだ。

Img_6930

 フクジュソウ、オオミスミソウもキクザキイチゲも、キンポウゲ科である。

 野草コースで「カタクリ(片栗)」の花を探したが、まだ時期が早かったようだ。

 11:55、公園南口に向かう。

Img_6940

 
 12:15、公園南口に戻る。ここからまた森林公園駅まで歩いて帰る。

 13:05、森林公園駅着。

 この日は好天に恵まれ、早春を感じながらの4時間、10Km余りのウォーキングを楽しんだ。

 ★ ★ ★

 「雪割草」は、早春に残っている雪を割るようにして咲くのが花の名の由来だそうだ。キンボウゲ科で、オオミスミソウ(大三角草)、ミスミソウ(三角草)、スハマソウ(州浜草)、イチリンソウ(一輪草)、ニリンソウ(二輪草)などが一般に「雪割草」と総称されているという。

 雪割草の中でもオオスミスソウが、最も変異のバリエーションが多く、色々な色や形の花がある。後で撮った写真を見ると、どれがそのオオミスミソウなのか、分からなくなってしまう。また様々な花を作りだすため、交配を試みる雪割草の愛好家も増えているそうだ。雪割草は、新潟県を中心に日本海側でよく見られる花で、新潟県の「県の草花」として2008年(平成20)に指定されている。
 
 一方で、これとは別にユキワリソウというサクラソウ科の高山植物もある。また地方によってはユリ科、ナス科の中にも雪割草と呼ばれる花があったりするので、ややこしい。

2017年3月14日 (火)

早春の三浦半島めぐり

 2017年3月8日(水)、日帰りの三浦半島めぐり。

 

 この日の三浦半島の最高気温は、11℃。天気は晴れだが、午後から雲が多くなり、所によってはにわか雨が降るとの予報。

 参加者18人が乗った貸切バスは、最寄りの駅前を9時出発。東名自動車道の海老名PAで休憩。有料道路の横浜横須賀道路、本町中山道路を経て、11時15分京浜急行の汐入駅前付近で下車。

 

●横須賀どぶ板通り(11:15~12:25)

  汐入駅付近から続く「どぶ板通り」を散策する。横須賀市本町1丁目~3丁目の国道16号(横須賀街道)の南側に並行した道路一帯を「どぶ板通り」と呼ぶ。

Iphone_1473

Img_1201mos

 シャッターの閉った店が目立つ。水曜日は定休日なのか、米兵相手の店が廃業したのかか、それとも夜になって遊びに来るバーなどの店なのだろうか。アルファベットの看板もあまり見ない。

 横須賀のグルメは、「ネイビーバーガー」や「海軍カレー」。「どぶ板通り」の入口付近にある「海軍カレー館」に入る。

Img_1203

 「元祖よこすか海軍カレー」(880円)を注文。

Img_1215

 このカレーは、明治41年のイギリス海軍のレシピに最も忠実な『海軍割烹術参考書』(明治41年)に基づき調理したものらしい。牛乳とサラダが付く。小麦粉が入っていて、昔懐かしい味がする。

Img_1214

 「どぶ板通り」は、「中央大通り」(横須賀中央駅から国道16号まで)にぶつかり終わる。

 写真は、国道16号との交差点(本町一丁目交差点)付近。

Img_1225

 国道16号を横断し「三笠公園」へ。

 

●記念艦「三笠」(12:35~12:55)

 三笠公園には、日露戦争の日本海海戦で活躍した旗艦「三笠」が保存されていて、記念館として見学できる。手前の銅像は、三笠に乗艦し連合艦隊を指揮した東郷平八郎司令官(元帥)。

Img_1230

 艦内を駆け足で観覧(600円)する。明治時代の戦艦だからだろうか、思ったより小さい。

Img_1233

 15センチ副砲(レプリカ)の操砲展示。

Img_1234

 上甲板と8センチ補助砲(レプリカ)。

Img_1235

 艦橋(ブリッジ)の操舵室は意外と狭い。

Img_1240

 前部30センチ主砲(レプリカ)。正面は横須賀米海軍施設。主砲が米軍に向かっているのではなく、艦首が皇居を向いているそうだ。あとで地図で見ると確かにそうだった。

Img_1246

 記念撮影のスペース。背景の絵は、日露戦争での日本海海戦の様子を描いた東城鉦太郎(しょうたろう)の有名な『三笠艦橋の図』の複製。中央で指揮をとるのが、連合艦隊の東郷司令長官。

Img_1256

 中甲板の艦尾にある「長官室」。長官が居住し、執務する部屋。ベッドもある。外国要人との応接にも使われるので、室内は豪華。

Img_1261

 長官室の壁の中央に、明治天皇の御真影があった。

Img_1262

 作戦会議などが行われた「長官公室」。

Img_1259

Img_1263

 長官公室の隣は「艦長公室」、少し離れて大尉から中佐までの士官が使用する「士官室」などがある。

 ほかに中甲板には日露戦争に関する様々な資料を展示してある「展示室」、上甲板には「ビデオ室」がある。

 上甲板にある「無線電信室」。当時の最新鋭の三六式無線電信機を装備しており、バルチック艦隊発見の無線を受信し、艦隊の場所を把握して戦闘準備に備えたという。

Img_1264

 三笠公園近くの地場産物総合販売所「よこすかポートマーケット」で買い物。

Img_1269

 「ポートマーケット」は、横須賀・三浦など地元でとれた旬の農水産物を販売する地産地消マーケット。お土産やレストランの他、軽飲食の施設もある。

 バスは、汐入駅前付近からマーケット駐車場に回送され、13:05出発。

 よこすか海岸通りから三春町4丁目交差点を右折、三崎方面へ国道134号を南下する。三浦海岸を経て引橋から県道26号へ。

 「城ヶ島大橋」を渡って(通行料530円)、城ヶ島へ。

 
●城ケ島(14:00~14:55)

 伊豆半島で有名な「城ケ崎」と混同されやすいが、こちらは岬ではなく「城ヶ島」。

 城ヶ島は、三浦半島の最南端、周囲長約4 km、面積約1キロ平米、神奈川県最大の自然島。鎌倉時代以来の景勝地で、北原白秋の『城ヶ島の雨』で知られる。島の周りの岩礁地帯は、波状岩。この島の東半分には、神奈川県立城ケ島公園が広がる。ここは、三浦市三崎町城ケ島で、人口は約600人。

 島の東は「安房ヶ崎」、西に「長津呂崎」や「灘ヶ崎」、南に「赤羽根崎」、北に「遊ヶ崎」という岬がある。

 島の西側、「灘ヶ崎」に行く。相模湾の波は比較的静か。

Img_1279

 岬に向かって右対岸の三崎港。

Img_1289

 後方を見ると、さっき渡って来た「城ヶ島大橋」。

Img_1308

 「灘ヶ崎」には小高い丘があって、登ると山頂に祠があった。

Img_1291

Img_1292

 この山は「楫(かじ)の三郎山」と言い、祠のそばの木の枝には大漁祈願などの赤い布が結んである。

 三郎山から北西の「灘ヶ崎」の眺望。対岸は、湘南海岸、茅ヶ崎・平塚方面か。

Img_1293

 三郎山からの南西方向の眺望。眼下に「灘ヶ崎」の磯、向うに「長津呂崎」の磯、左に城ケ崎灯台、中央は京急城ヶ島ホテル。

Img_1298

 城ヶ島を出て、対岸の三崎港に移動する。

  

●三崎港(15:10~16:00)

 マグロで有名な三崎魚港。三浦半島最南端の港。

Img_1406

Img_1408

 港にある産直センター「うらりマルシェ」で買い物。あじの干物600円、かまぼこセット1,000円。

Img_1395

 対岸の城ヶ島。

Img_1417

 手軽に海中散歩が楽しめるという半潜水式の観光船「にじいろさかな号」が、三崎港に帰って来た。

Img_1435

 「にじいろさかな号」は、船底のガラス窓から海中をのぞくことができる観光船。約1時間に1本のペースで運航(料金大人1,200円)されているそうだ。

 国道134号線を北上し、荒崎入口交差点左折、1.5キロほど走って左折、海岸線を南下2キロ余り走ると荒崎。
 

●荒崎(16:35~18:00)

  荒崎公園の駐車場で下車。荒崎公園からは、海沿いに長浜海岸まで延びるハイキングコースがあるそうだ。三浦半島屈指の景観といわれる海岸美が楽しめるという。

 今回は、公園の北側の磯辺に行き、夕陽が伊豆半島に沈むのを眺める。

 波状岩が広がる荒崎の磯辺。

Img_1459

 荒崎の海岸から見る富士山のシルエット。

Img_1572

Img_1616

 日の入りは17:40頃。

Img_1702

 18:00、貸切バスは、三浦縦貫道路、横横道路、東名自動車道を経て帰路へ。 

 20:30、出発時の駅前に到着。

 この日は好天に恵まれた。冷たい風が吹いたり日陰になったりするとヒンヤリするが、日差しが暖かい早春の三浦半島めぐりの1日だった。さすがに夕日を見る頃には冷え込むのでダウンを着たが、昼間は上着なしで過ごせた。

 

 ★ ★ ★

 戦前の横須賀「どぶ板通り」は、道の中央にどぶ川が流れていたそうだ。道が狭いため海軍工廠より厚い鉄板を提供してもらい、どぶ川に蓋をしたことから「どぶ板通り」と呼ばれるようになった。その後鉄板は撤去され、川は埋め立てられたという。この一帯は通称「どぶ板通り商店街」と呼ばれ、150軒ほどの商店・飲食店があるが、正式には「本町商店会」という。

 戦後は進駐軍・在日米軍横須賀海軍の兵隊向けの街として栄えた。いたるところにアルファベットの看板やネオンが溢れる異国風の商店街で、他の基地の街のようにベトナム戦争の頃が最盛期だったが、今やその面影も薄れつつある。 

 記念館の「三笠」は、1902年(明治35年)にイギリスで建造された。日露戦争では特に1905年(明治38年)の日本海海戦で、バルト海から派遣されたロシア軍バルチック艦隊と交戦し勝利を得る。1923年(大正12年)に退役、1926年(大正15年)に記念艦として横須賀に保存されていた。

 しかし第二次世界大戦後、占領軍の命令により大砲、マスト、艦橋などが撤去され、また米軍の娯楽施設になったり、物資不足で資材が盗まれたりして荒廃した。

 三笠を元の姿に戻そうとの運動が国内外で高まり、募金や米海軍の支援などにより、1961年(昭和36年)に復元。現在は防衛省が所管している。 

 

 城ヶ島の灘ヶ崎にある小山は「楫(かじ)の三郎山」と言い、案内板には次のように書いてあった。

 ------------------------------------
 対岸の三崎にある海南神社の祭神・藤原資盈(すけみつ)公が、貞観六年(864)故あって九州博多を出帆し、途中暴風にあい漂流の末、三崎に着岸されました。このとき、御座船の楫(かじ)とり役を司っていた家臣三郎をこの山に祀り、「楫の三郎山」と呼ぶようになったと伝えられています。

 また資盈(すけみつ)公が「わが住むべき地があるか」と問われたので、三郎がそのとっていた楫で占い、楫がおちた所に鎮座、これが神号になったとも伝えられています。

 大正初年頃までは、この山に主の大蛇が住んでいるから登るとたたりがあるとの言い伝えがあり、誰一人登ったことがなかったといわれています。

 今では、航海の安全と大漁を祈願する漁業関係者の信仰が厚く、毎月7日、17日、27日に多くの人々が参拝に訪れています。                          

                                                  三浦市
-------------------------------------

<筆者注> 楫(かじ)とは、櫂(かい)や櫓(ろ)など、水をかいて舟を進める道具の古名。

2017年3月 9日 (木)

DIC川村記念美術館

 2017年2月26日(日)、佐倉市にある「DIC川村記念美術館」に行く。
 

 午前中に千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」を観覧、午後から佐倉城址公園を散策した後、佐倉市郊外にある「DIC川村記念美術館」に移動する。

 

 DIC(ディアイシー)は、旧社名「大日本インキ化学工業株式会社」。「川村記念美術館」はそのDICの創業者・川村喜十郎をはじめとする川村家三代の収集品を公開するため、1990年(平成2年)に開館した民間の美術館。

 レンブラントやマネ、ルノアールの印象画、日本画、ピカソやシャガールなどの近代美術、20世紀の現代アートが展示されている。
 

 13:30、美術館の駐車場着。

Img_6797

 インフォメーションの建物の右手、入口ゲートの左手にある彫刻家・佐藤忠良のブロンズ作品『緑』(1989年製作)。

Img_6798

 広大な自然の庭園の中の散策路を歩く。池の向う林の奥にDIC総合研究所が見えた。

Img_6802

 右手の美術館に向かう。

Img_6801

 ヨーロッパの城のような美術館。建物の設計は、建築家・海老原一郎氏。

 美術館入口の左手にある巨大な赤い椅子のような作品は、彫刻家・陶芸家の清水九兵衛『朱甲面』(1990年製作)。材料は、鋳造アルミニウム、ステンレススチールなど。

Img_6804

 美術館の入口の右手にあるフランク・ステラによる作品『リュネヴィル』(1994年製作)。廃材のようにも見えるが、材料はステンレスやアルミナブロンズだそうだ。どこか宮崎駿のアニメ映画『ハウルの動く城』を思い出す。

Img_6809

 13:40、美術館に入館。

Img_6807

 14:00~15:00、ガイドスタッフによる鑑賞ツアーがあり、展示絵画の解説を1点ずつを聞く。どこの美術館もそうだが、館内は撮影禁止。

 

 以下、主な作品について記す。

 なお、「美術館のパンフから転載」と注記された以外の写真の出展は、ウィキペディア「川村記念美術館」のパブリック・コモン。
 

 レンブラント・ファン・レイン『広つば帽を被った男』(1635年); 左方から光が当てられ、生き生きとした顔の表情が光と影で描き出されており、質感をリアルに描写している。

Rembrandt_van_rijn__portrait_of_a_m

 この絵は当初、モデルの妻の肖像画と一対で飾られていたはずだが、子孫の代になって別々に売られたのか、妻の絵はアメリカのクリーヴランド美術館に所蔵。ガイドスタッフの話では、一度だけアメリカから借りて、並べて展示したことがあるそうだ。

 クロード・モネ『睡蓮』(1907年); 自宅の庭に造った池の睡蓮を描き、200点以上の作品を残した中の1つ。よく見ると、映り込みで池の外を表現している。水面に写る光と樹木が絵の遠近感を与えている。

Img4733

 オーギュスト・ルノワール『水浴する女』(1891年); 女性の肌の透明感、背景の境界をぼやかして柔らかさを表現しているのが素晴らしい。

Pierre_auguste_renoir__bather__goog

 ほかに、パブロ・ピカソの『肘掛椅子に座る女』(1927年)を含む2点、など。

 マルク・シャガール『赤い太陽』(1979年); シャガールは、20世紀前半にパリで活躍した外国人画家たちの総称「エコール・ド・パリ」のうち特によく知られる一人。闇の黒さを背景に、無重力遊泳するような人物や動物、花束などが浮かび上がる。(美術館のパンフから転載)

Img464

 他にシャガールの『ダビデ王の夢』1966年; キリストを抱いたマリアとダビデ王の絵は、有名。

 長谷川等伯『烏鷺図屏風』1605年; 六曲一双の屏風で、重要文化財。屏風の左隻に烏と右隻に鷺を描いた水墨画で、黒と白、動と静をを対比させているそうだ。

 左隻の烏の図

Tohaku_hasegawa__crows_and_herons_i

 右隻の鷺の図

Tohaku_hasegawa__crows_and_herons_2

 他に日本画では、尾形光琳の『柳に水鳥図屏風』、加山又造『鶴舞』の作品が各1点が展示。

 次のコーナーでは、現代アートが多数展示。幾何学的な線や模様、抽象的な図形などの絵画や壁画、オブジェなど作品は、理解に苦しむ。作品の掲載、解説は省略する。

 マックス・エルンスト『入る・出る』1923年; ダイニングのドアに直接描かれた絵。(美術館のパンフから転載)

Img4775

 屋外にも作品『リュネヴィル』があったが、フランク・ステラの大型作品群。(美術館のパンフから転載)

Img474

 本美術館は千葉県佐倉市坂戸にあり、隣接するDIC株式会社総合研究所の敷地と合わせ、里山を利用した広さ30万平方米(9万坪)の広大な庭園の一角に建つ。近現代美術のコレクションとしては、日本でも有数の規模を持つらしい。収蔵品が1,000点以上もあるそうだが、広い館内にたくさんの作品を詰め込みすぎず、ゆったりしている。特に現代アートの作品は、大きいので天井も高い。

 15:15、美術館を退館。出口ゲートを出て駐車場へ。

 美術館の外は時間がなくて回れなかったが、池では水鳥が泳ぎ、庭園の林間には散策路が設けられている。野鳥や四季の草花・樹木の花々が楽しめ、芝生広場でくつろげるという。

 15:30、美術館を出発。

 行きは朝7時半過ぎ出発、佐倉市の「歴博」には、2時間半弱で着いた。

 帰りは別ルートで帰ろうとしたが、高速道路が渋滞していて結局4時間半もかかり、帰着したのは20時前。博物館、美術館の2つのミュージアムを午前・午後と観覧して、立ちっぱなしということもあって、けっこう疲れた。

 

 ★ ★ ★

 DIC株式会社は、印刷インキで世界トップシェアのファインケミカルメーカー。明治41年に印刷インキの製造及び販売会社として創業。今日に至るまで 有機顔料、合成樹脂材料の他、電子情報材料などを製造販売。

 「大日本インキ」という名前は聞いたことがあったが、万年筆や硬筆ペンのインクをイメージしていたら違っていた。日露戦争後の明治末期に急伸した印刷業界の印刷用インキ製造・販売が出発点だった。会社の概要は、以下の通り。

 沿革:  1908年(明治41年) 「川村インキ製造所」創業。
      1937年(昭和12年) 「大日本インキ製造株式会社」設立。
      1962年(昭和37年) 「大日本インキ化学工業株式会社」に変更。
      2008年(平成20年) 「DIC株式会社」に商号変更。

 本社: 東京都中央区、工場;東京都板橋区ほか8ヶ所、総合研究所;千葉県佐倉市。 

 資本金: 966億円、連結従業員数:2万人、連結売上高7,500億円(2016年12月期)

 

 
 「現代アート」という定義はないそうだが、「伝統的・古典的なアートではないアートが、現代アート」だそうだ。ともかく現代アートは、鑑賞してもさっぱりわからない。

 この分からない作品を権威のある人から評価されたり、お墨付きを与えられたりして、作品が高価で取引されているのもよく分からない。

 既成の概念、社会通念や規範を破ってこそ現代アートかもしれないが、倫理観に欠ける作品を発表し、社会問題になることもある。現代アートに、こういったマイナスイメージが付い回るのも、分かりにくくしている。

2017年3月 7日 (火)

国立歴史民俗博物館

 2017年2月26日(日)、佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」に行く。

 

 ワゴン車に参加者7人が同乗、7:35出発。「国立歴史民俗博物館」は、千葉県佐倉市城内町、「佐倉城址公園」の一角にある。9:55、博物館到着。

 

 (写真はクリックすると拡大表示します。)

 

 

 

 

 

●国立歴史民俗博物館(9:55~12:40)

 

 正式名称は、「大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館」。略称は、「歴博」。

 

 歴史学、考古学、民族学の大学共同利用機関で研究を推進するとともに、あわせて資料を展示・公開する博物館としての施設。35年ほど前に開館した比較的新しい国立の博物館で、約13万平米の敷地に延べ床面積約3万5千平米の規模を有する壮大な「日本の歴史」の殿堂。

 

Img_1197

Img_1123

 

 広々とした博物館のロビー。10:10、展示室に入場。

Img_1179

 

 

 

●第1展示室(原始・古代)・・・日本列島に人類が登場した旧石器時代~律令国家が成立した奈良時代まで。

 

 残念ながら、リニューアル中のため閉室。

 

●第2展示室(中世)・・・平安時代~安土桃山時代

 

 平安京のジオラマ

 

Img_1131

 「王朝文化」; 女房装束の十二単、男性の左が束帯(そくたい、正装)、右は直衣(のうし、日常着)など貴族の服装を展示。唐風文化に代わって独特な王朝文化が花開く。

Img_1132

 

 「大名と一揆」; 室町時代は大名が力を持つ一方、地域的な自治も発達した。戦国大名朝倉氏の一乗谷遺跡、一揆関係の資料、京都の町並の再現模型などが展示。「洛中洛外図屏風」を元にした京都の町並のミニチュア(写真中央)は、良く出来ていた。

Img_1135tmosjpg


 「民衆の生活と文化」エリア; 中世後期は、底辺の民衆が歴史の表舞台にはなばなしく登場、農業や手工業の技術が発展し、多くの芸能も生まれた。

Img_1138

 中世の賑やかな「市」の様子。

Img_1139

 

Img_1145

 

 縦引き鋸(のこぎり)と職人。この鋸は、製材に一大革新をもたらした。

Img_1141

 

 芸能(田楽)の装束。奈良春日社など、現代の祭礼に名残をとどめる。

 

Img_1142

 煎じ物売りの商人。

Img_1148

 

 「大航海時代のなかの日本」; これまでの中国(明)を中心とした交易から、ヨーロッパ勢力の東アジア進出は多くの文物をもたらし、特に鉄砲とキリスト教は日本に大きな影響を与えた。写真下は、御朱印船の模型。

 

Img_1136

 

 そのほかの展示エリアは、

 

 「東国と西国」; 中世では、東の鎌倉幕府と西の朝廷とに分権化する。それによって文化・生活の違いが顕著になるが、一方で人々や物資が東西を交流する。

 

 「印刷文化」; 平安の経典などから近世初期の古活字本など、印刷文化の歴史を紹介。

 

 

 

●第3展示室(近世)・・・江戸時代

 

 「国際社会のなかの近世日本」; 近世では「鎖国」をしていたと思われがちだが、中国、オランダ、朝鮮、琉球、アイヌとの交流していた。特に松前藩を通じてのアイヌとの交流は初めて知ることが多く、興味深い。

 

Img_1152mos

 「都市の時代」; 近世は、各地に城下町ができ、現代にもつながる都市が作られた「都市の時代」だった。江戸中心部の町・日本橋付近の模型も良く出来ている。

 

Img_1154mos

 「ひとともののながれ」; 各地に都市ができ新たな物流が生まれ、また庶民が旅行するようになると全国の交通網が整備された。写真中央は各地に建てられた道標、左には旅篭屋(はたごや)、右に北前船。

Img_1155mos

 「村から見える近代」; 「四季農耕図屏風」には、農民の生き生きした働く姿や暮らしぶりが描かれている。村びとは、技術開発によって生産性を向上させ、暮らしのゆとりが出来ると学んだり、娯楽を楽しんだりする一方で、貧富の差も広がる。

Img_1159

 

 江戸時代も末期になると、幕府を批判する考え方や、自分たちの地域の文化や歴史をみつめ直そうという動きが起こり、「近代」社会の担い手もこのなかから生まれました。村に住んでいた人たちが考えていたことや活動していたことを紹介。
 

 

 第3展示室では、特集展示「見世物大博覧会」が開催中。

 

 江戸時代に隆盛を極め、明治から現代に至るまで命脈を保ってきた多種多様な「見世物」の様子を、本館や個人が所蔵する絵看板、錦絵、一枚摺(ずり)などを紹介。残念だが撮影禁止。写真は、歴博のパンフから転載。

 

Img461t

 

 

●第4展示室(民俗)・・・列島の民俗文化を紹介しながら、過去を振り返り未来を見つめる。

 

 「民俗へのまなざし」; 産業開発や消費文化の影響を受けつつ変貌する民俗を展示。

 

 サブテーマ「ひろがる民族」では、時代によって三越デパートの「おせち料理」がどう変化したかを食品サンプルで展示されていたが、ここだけは撮影禁止。

 

 サブテーマ「開発と景観」では、世界遺産に登録された白神山地、屋久島、五箇山・白川郷の合掌造りの景観が保全される一方で、生活文化が改変されている。

 

Img_1160

 同上サブテーマの沖縄戦跡と観光、西表島の自然についての展示。

 

Img_1161
 

 

 「おそれと祈り」と「くらしと技」; 3月31日まで、施設工事のためエリアを閉室。

 

 

 

●第5展示室(近代)・・・明治・大正。19世紀後半近代の出発~1920年代まで。

 

 「文明開化」; 公教育の成立・普及、民間の学習活動、自由民権運動などを展示。

 

Img_1162

 

 急激な文明開化は、人々の経済や生活に多くの動揺と混乱を生じ、貧困と格差、伝統文化の破壊、抑圧や差別の歴史をあぶりだすことになった。

 

 「産業と開拓」; 政府は、殖産興業や富国強兵をスローガンに、多くの国民の犠牲のもとに近代化政策を推進した。生糸と海外貿易についての展示。

 

Img_1164

 

 政府は、国策の基幹産業といえる製糸、製鉄のほか北海道開拓を進めるが、一方で様々なひずみを生じた。アイヌに対しての和人同化の強制政策についての具体例は初めて知る。

 

 「都市の大衆の時代」; 近代工業の推進は、産業構造を変化させ、農村から都市変人口移動を加速し、都市の大衆化、消費文化が始まった。

 

 消費文化に着いて、飲料、化粧品、衣料などのポスターを展示。

 

Img_1165

 

 浅草の町並。正面は活動写真館の券売所がある。

 

Img_1166

 

 やがて1923年(大正12年)、関東大震災が大都市東京を襲うことになる。
 

 

●第6展示室(現代)・・・1930年代~1970年代、戦前と戦後 

 

 「戦争と平和」; 明治から大正、昭和と、日本は数々の戦争を繰り返した。富国強兵が国家目標とさ れ、そのために国民と他国民に多くの犠牲を強いた。戦争終結から占領下の生活を展示。

 

 写真中央の「入営祝いの幟(のぼり)」は、親類・知人が贈ったもので、見送りの際に各家庭の前や駅などに立てられた。

 

Img_1167

 

 占領下の生活、闇市・露天商を実物大のマネキンで再現。

 

Img_1169

 

 「戦後の生活革命」; 1950年代半ばから70年代初めまでの高度成長は、重化学工業を中心とした産業がそれを支え、農村から大量の人口が都市へ流入した。電化生活が実現し、都市型生活が広がった。

 

 大衆文化からみた戦後日本のイメージとして、昭和の映画、テレビ番組、CM、雑誌などが展示されていた。懐かしいものがたくさんあってゆっくり見たかったが、あいにく集合時刻まで残り少なくなった。

 

Img_1170

 

 東宝映画『ゴジラ』の造作模型。

 

Img_1172

 

 

 

 11:45、館内のレストラン「さくら」に入店。佐倉丼(豚丼)や古代米のカレーを注文(1,300円)。 

 

Img_1174

 

 13:30~ミュージアムショップ。関連図書や博物館グッズが販売されている。本館のガイドブック(540円)を購入。

Img_1178

 

 

 

●佐倉城址公園(12:40~13:10)

 

 博物館を退場し、城址公園内を散策する。日曜とあって家族連れが多い。さすがにサクラの木が多く植えられていて、花見の頃にはさぞ賑やかだろう。

 

 江戸時代の佐倉城は、佐倉藩の藩庁。明治以降は、歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。

 

 写真は「佐倉陸軍病院」跡地に建つ石碑。戦後は「国立佐倉病院」となり後に移転するが、現在は国立千葉東病院と統合。

 

Img_1180

 

 正岡子規の句碑「常盤木や冬されまさる城の跡」が建つ。

 

Img_1182

 

 二の丸から本丸に入る二階建て「一の門跡」があった。

 

Img_1184

 城の防御のための土塁と本丸跡。城郭は石垣を一切用いない土造りで、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にした。

 

Img_1185

 本丸の隅、赤いパイロンの付近に天守の代用の三重櫓(三階建てのやぐら)があった。

 

Img_1186
 
 

 

 この後の行動は、本ブログ「DIC川村記念美術館」につづく。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 東京・京都・奈良の3か所の美術系博物館は明治時代から存在したが、歴史系の国立博物館(以下、歴博)を設置するべきとの意見は古くから出ており、特に歴史学者の黒板勝美が訴えていた。設置構想が具体化するのは、戦後になってから。1966年(昭和41)「明治100年」記念事業一環として歴博の設置を決定、学識経験者らによって検討が始まった。

 

 1971年(昭和46)文化庁内に歴博設置の基本構想委員会、1978年(昭和53)には歴博設立準備室が設置された。歴博を考古・歴史・民俗の3分野を柱とし、あわせて大学共同利用機関とするコンセプトは、準備室長の歴史学者で東大名誉教授・井上光貞によるところが大きい。

 

 歴博は1981年(昭和56)に発足、設置準備において指導的立場にあった井上が初代館長となった。ただし博物館としての一般公開が始まるのは、2年後の1983年(昭和58)3月。公開直前の2月に井上は急死する。2代目館長は、東大文学部の土田直鎮教授が引き継いだ。

 歴博は展示施設であるとともに、考古学・歴史学・民俗学の研究機関であり、他の研究機関や大学と共同で研究を推進し、調査研究の基盤のもとに収蔵品の展示を行うことが重視されている。収蔵品は、「収集資料」と「製作資料」とに大別される。「収集資料」は実物資料で、古文書、古記録、絵図などの歴史資料、考古資料、民俗資料など。これらは、歴博開館時に文化庁から移管されたものが大部分を占めるという。「製作資料」は、建造物の模型、古墳や町並み・集落などの復元模型、考古資料など遺物の模造(レプリカ)などがある。

 

 話に聞いた通り、天皇や将軍といった権力者中心ではなく、庶民の立場からの日本史をわかり易く、ビジュアルに展示・解説してあって、教科書では習わなかった事柄(例えばアイヌの事など)も多く、非常に有益であった。

 

 2時間近く見て回ったが、全部を見きれなかった。中世、近世の庶民の歴史・風俗に関心があって時間を費やして詳しく見たが、第6展示室(現代)では時間がなくて通り過ぎただけだった。今回は第1展示室(原始・古代)が閉室だったので、特に原始時代の考古学的資料が見られなかったのは残念。歴博は、何度も足を運んで観るものらしい。少々遠い所だが入場料も安いので、機会があればぜひまた行ってみたい。
 
 

 

 ★ ★ ★

 

 佐倉城は、1610年(慶長15年)に土井利勝(後に幕府の老中、大老)が徳川家康の命を受け完成した。江戸時代初期には城主の入れ替わりが多かったが、後に堀田氏が入封し幕末まで続いた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、幕末の藩主で老中を努めた堀田正睦(まさよし)は有名。

 

 正睦は蘭学を奨励し、医師・佐藤泰然を招いて城下に医学塾・順天堂(現在の順天堂大学の起源)を開いた。幕府老中となり、ハリスとの日米修好通商条約締結に奔走する。しかし孝明天皇の勅許を得られず、井伊直弼の大老就任によって失脚した。

 

 佐倉城址公園には、堀田正睦とタウゼント・ハリスの銅像が並んで建っている。
 

 

 常盤木や 冬されまさる 城の跡

 

 正岡子規の句は、既に病魔にむしばまれていた26歳くらいの1894年(明治27)12月、開通したばかりの総武線を利用して佐倉を訪れて詠んだとされる。

 

 「冬の荒れ果てた寂しさが増した城跡は、常緑樹に包まれている」という意味だそうだ。「常盤木(ときわぎ)」は、常緑広葉樹林のこと。「冬され」と歌っているが、一般的には「冬ざれ」のことで、冬の荒れさびれた姿として用いられる季語だという。枯れ果てた古城より、常盤木のような生き生きとした軍事基地を、「冬されまさる」とは表現した。

 

 日清戦争が激しさを増している最中、新設なった総武線路によって大陸への人員・物資輸送に活況のある城址駐屯地のありさまと、荒れさびれた古城の対比を見て、子規はどう感じたのであろうか。

2017年3月 1日 (水)

早春の伊豆半島めぐり-その2

 2017年2月15日(水)~16日(木)、1泊2日の伊豆半島めぐり。

 本ブログ「早春の伊豆半島めぐり-その1」の続き。

 

 16日(木)、日本列島は高気圧に覆われ、伊豆半島の天気は晴れ、最高気温はは14℃。前日よりも暖かい日だった。1泊2日の伊豆半島めぐりの2日目。

 

 4:30頃起床。日出を見るため、5:10ホテルを出発。まだ暗いが、さほど寒くはない。

 

●大瀬海岸(5:35~7:00、南伊豆町大瀬)

 下田のホテルから南下。伊豆半島の最南端「石廊崎(いろうざき)」の東方の「大瀬海岸」の沖に、蓑掛岩(みのかけいわ)と呼ばれる奇岩が多く群立する。

 冬の時期になると、蓑掛岩方向からの日の出が美しいという。

Img_0750

 大瀬海岸から眺める伊豆大島と日の出。波は静か。

Img_0861

Img_0881

 7:30には、ホテルはな岬に戻り、朝食7:45~、休憩。

 8:30、ホテルを出発。   

●下賀茂温泉(8:50~9:50、南伊豆町下賀茂)

 下田市の南に位置する南伊豆町。国道136号線沿いにある道の駅「下賀茂温泉・湯の花」を目標にして行く。ここには、「みなみの桜と菜の花まつり 」の会場の総合案内所がある。

 下賀茂温泉を流れる青野川沿いの早咲きの桜と菜の花。

Img_0948

 青野川沿い両岸4.2kmには、早咲きの「みなみの桜」(種類は河津桜)800の桜並木が続く。

 ピンクの桜と黄色い菜の花、温泉の白い湯煙のコントラスト。

Img_0964

 河津桜は、寒緋桜と大島桜の交雑種で、ピンク色の大きな花が特徴。河津桜発祥の地は、下田市の北部に位置する河津町で、元祖「河津桜まつり」が開催中である。いずれも一足早い川沿いの花見を楽しめるが、こちらの南伊豆町の河津桜は、菜の花と一緒にというのが売りらしい。

Img_1007


 

●松崎町(10:40~11:00、松崎町松崎)

 国道136号線を西海岸に向かうと、山に囲まれた小さな港町・松崎。風情ある「なまこ壁」の建物が点在する。その建物が集まる街並みを散策。

 「なまこ壁通り」を歩く。丸窓が印象的な古くてモダンな松崎町観光協会の建物。昔は松崎警察署だったという。

Img_1025

 薬学会の最高権威・近藤平三郎の生家。

Img_1026

 なまこ壁とは、壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の目地に漆喰をかまぼこ型に盛り付けたもの。目地が、海にいるナマコに似る。

 近藤家のなまこ壁。

Img_1035

 他になまこ壁の名所として、明治の商家「中瀬邸」、「ときわ大橋」、古民家「伊豆文邸」、国の重文「岩科学校」があるそうだが、省略。

 なまこ壁は、防火、保温、保湿性に優れ、明治から昭和初期に各地で見られた外壁の工法。老朽化や建て替えで年々減少し、ここ松崎町では190棟余りが残っていて、建物の保存・修復、左官職人の技術伝承などの活動を行っているという。他には、下田市、倉敷市、東広島市で見られるそうだ。

 


 国道136号線を北上。前日の夕日で有名な堂ヶ島を経て、次の予定の「黄金(こがね)崎」(西伊豆町宇久須)は、時間の都合でスキップ。

 夕陽を浴びて岩肌が黄金色に輝く黄金崎は、駿河湾と富士山の眺望の素晴らしさ、落日の美しさで有名な景勝地。岬全体が公園になっているそうだ。

 

 

●やま弥(12:45~13:30、沼津市西浦平沢)

 県道17号沿いの「駿陽荘 やま弥」は、伊豆半島の根元の近く、駿河湾と富士山を一望できる民宿。

Img_1056

 この辺りは、沼津市の伊豆半島部分。昔は西浦村だったが、遠い昔の1955年(昭和30年)に沼津市に編入した。昼食は、人気メニューの鯛丼1,300円(税込)。

Img_1051

 当店オリジナル料理の「鯛丼」は、当店農園で飼育している地鶏の卵黄、駿河湾の新鮮な真鯛を特製ダレに漬けたものをご飯にのせ、卵黄とのりをかけていただく。

 

●大瀬崎(13:30~14:30、沼津市西浦江梨)

 「やま弥」から県道17号を西へ、10kmほど戻り「大瀬崎」へ。

 大瀬崎は、別名「琵琶島」。駿河湾に約1Km突出た半島、国の天然記念物ビャクシン樹林が群生。海越しに富士山を望む景色は古くから名勝地だそうだ。

 半島には大瀬神社と神池があり、入江は海水浴場で、スキューバダイビングのメッカともなっている。浜辺には、旅館、民宿などの宿泊施設、マリンスポーツやダイビングのショップなどの建物も並ぶ。正面は、富士山。

Img_1120

 大瀬崎の半島に向かって歩くと鳥居が見える。ビャクシン樹林が自然群生している。

Img_1062

 振り返ると、今歩いた来た大瀬海水浴場。波が静かで、遠浅のきれいな海水浴場として有名。

Img_1060

 うっそうとした樹木に囲われた半島の高台にある大瀬神社。駿河湾漁民の海の守護神。

Img_1087

 毎年4月4日は、例大祭の「大瀬祭り」。各港から飾り立てた「踊り船」に女装した青年たちが乗り、踊りやお囃子も賑やかに参拝に出航する。

 大瀬崎の駿河湾越しの富士山。半島の外海側はいつも波が荒く、丸くて大きな石がゴロゴロ。この日は静かすぎて気抜けするほどだった。対岸は、沼津市や富士市の市街地。

Img_1453

 

 県道17号を東へ戻り、西浦みかんを直売所のあるJA共撰場に寄る。予定の「修善寺梅林」は、時間の都合でスキップ。伊豆中央道から15:40沼津ICへ、東名高速を経て圏央道、帰路へ。

 18:30、出発地に到着。走行距離は、2日間で660Kmだった。

 19:30、自宅着。

 

 ★ ★ ★

 沼津市の大瀬崎の近くで、昔海水浴に行った戸田は、最近(2005年)沼津市に編入されている。土肥や修善寺は、「伊豆市」。 その北部には、伊豆長岡や韮山などが合併した伊豆の国市がある。そのほかに「伊豆」が付く自治体として「西伊豆町」、「東伊豆町」「南伊豆町」が出来た。

 東・西・南の伊豆町は良しとしても、伊豆半島の「伊豆市」や律令制の国名を意味する「伊豆の国市」は、一般公募から決めたとはいえ、どうもしっくり来ない。

 古くは福岡県「北九州市」、宮崎県「日向市」が出来た時、最近では鹿児島県「南九州市」や福岡県「筑前町」は、九州のある広域を指す地名で、市町名に使うのはどうかと思った。

 香川県「さぬき市」(讃岐)、愛媛県「四国中央市」、高知県「南国市」、「黒潮町」、岡山県「瀬戸内市」、山梨県「甲斐市」、「甲州市」、「南アルプス市」、「中央市」、福井県「越前町」、岩手県「奥州市」、青森県「つがる市」(津軽)というのがあって、拾い上げると切りがない。

 「太平洋市」や「南セントレア市」というのは一旦決定されたが、各方面からの抗議を浴びて没になったのもある。

 栃木県「さくら市」、群馬県「みどり市」、北海道「大空市」、茨城県「つくばみらい市」、北海道「北斗市」(北斗星)などは地名だろうか、もはや涙ぐましい感じだ。他に良い名前はなかったのだろうか。宮崎県「えびの市」や福島県「いわき市」など、漢字にしにくい名前は良いとしても、「さいたま市」や茨城県「ひたちなか市」、福岡県「みやこ町」・・・のように、無理やり平仮名にした地名が多いのもいただけない。

 合併を優先するあまり、名前がおなざりになったのだろうか。また公募によって安易な名前に流れてしまったのだろうか。難解な字は避けなければならないが、その土地の自然や地理、郷土に根ざした歴史や風土を感じさせる自治体名に出来なかったのだろうかと思うのは、私だけだろうか。

 

 関連ブログ記事

  本ブログ「伊東温泉・伊豆の旅」 2013年11月25日投稿

    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-0eea.html

« 2017年2月 | トップページ | 2017年4月 »

2023年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        

最近のトラックバック