白山・本郷界隈-その2
2017年1月29日(日)、文京区の白山・本郷界隈を歩く。
本ブログ「白山・本郷界隈-その1」の続き。白山界隈から本郷界隈に移動する。
12時25分、小石川2丁目の「源覚寺」を出て、こんにゃくえんま交差点から白山通りを横断、東へ向かうと菊坂下の交差点。
●旧伊勢屋質店(12:30~12:45)
菊坂下交差点から、昔この辺りは菊畑だったという「菊坂」を上る。
坂の途中、左手に樋口一葉が通ったという「旧伊勢屋質屋」がある。今はもう営業していないが、そのままの建物(左の土蔵と2階建の店舗兼住宅)が保存されている。
所在地は文京区本郷5丁目、跡見学園女子大学が菊坂跡見塾として所有し、内部を公開している。太い柱や梁を使った土蔵、風通しや日当たりのため中庭、床の間がある奥座敷、当時の質物台帳が置いてある見世(店)など見学する。江戸時代の町屋造り、明治の面影を残す。玄関は直接道路から見えないように工夫してあるところが面白い。入場料は無料、撮影は禁止。
樋口一葉(1872~1896)が菊坂の家に住んでいたときから、生活が苦しくなるたびに通って家計をやりくりした質屋。下谷区竜泉町に移ってからも通ったという。 一葉が亡くなった際には、店から香典が届けられほど縁が深かった。質屋は1869年(明治2年)創業、1982年(昭和57年)に廃業した。2015年(平成27年)に、跡見学園女子大学が文京区からの補助も得て、所有者から建物を購入した。
●金田一京助・春彦の旧居跡(12:50)
樋口一葉が住んでいた家のすぐそばで、「鐙(あぶみ)坂」を上り切った所の左手の石垣の上に、金田一京助、長男・春彦の旧居跡がある。道路挟んだ向かいは、財務省関東財務局真砂住宅がある。
文京区教育委員会の「鐙坂」の説明板が立っている。以下抜粋する。
本郷台地から「菊坂」の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」とか、その形が「鐙に似ている」ということから名付けられたなどといわれている。
ここは文京区本郷4丁目。石垣の前には「金田一京助・春彦の旧居跡」と書かれた文京区教育委員会の説明板が立ち、その上に2棟の住宅がある。手前は白い壁の比較的新しい家。写真ではうまく写っていないが(残念)、その奥には時代を経た独特の雰囲気の木造住宅。
旧居跡というのは、この2棟を指すのか、片方の古い家なのかよく分からなかった。
金田一京助(1882-1971)は言語学者、民俗学者。アイヌ語の研究で有名。京助は学者として活躍するかたわら、盛岡中学の後輩である詩人・石川啄木の援助を行なっていた。啄木が移り住んだアパートや家がこの近くに集中している。
金田一京助の長男・春彦(1913-2004)も言語学者、国語学者。国語辞典の編纂や方言の研究で有名。ちなみに春彦の長男・真澄(つまり京助の孫)は、ロシア語学者。次男・秀穂も言語学者で、日本語教育やテレビのバラエティ番組出演でも知られている。
この辺りの旧町名は、明治2年(1869)から昭和40年(1965)まで「真砂(まさご)町」だった。『婦系図』などの小説の舞台になったり、文人が多く住んでいたことで知られている。
●樋口一葉の旧居跡(12:55)
金田一京助・春彦の旧居跡から鐙坂を少し下って、右手の狭い路地に入る。
5千円札で有名な樋口一葉(1872-1896)は、東京生まれの小説家。本名は夏子、戸籍名は奈津。
父は下級役人だったが、事業で負債を抱えて死去。住まいを転々とした後、父亡き後の明治23年から26年まで、ここで母と妹と暮らした借家があった。3人で洗い物や仕立てで生計を立てたものの、借金は追いつかない。このころ文筆で身を立てる決意をしたとされるが、当時の建物は今はない。一葉が使ったとされる井戸が残っている。一葉の時代は、このようなポンプで汲み上げたのではなく、つるべを使っていたのだろう。
一葉の旧居跡を訪ねる人は多い。周囲はその面影を残し、ひっそりとした雰囲気が漂う。
女に学業は不要との母の考えで、一葉は成績優秀だったが上級学校には進まなかった。14歳で中島歌子に歌や古典を学び、文才は卓越していた。やがて半井桃水(なからい・とうすい)に小説を学び、食べるために職業作家を目指す。
生活に苦しみながら、『たけくらべ』、『にごりえ』、『十三夜』といった名作を発表、森鴎外ら文壇から絶賛を受ける。わずか1年半でこれらの作品を世に出したが、24歳6ヶ月の若さで、肺結核により亡くなった。死ぬまで金策に追われていたという。没後に発表された『一葉日記』も高い評価を受けている。
●坪内逍遥旧居・常磐会跡(13:00)
「炭団(たどん)坂」は、菊坂の谷にある古い街並みから、本郷の台地へ上る急坂。今では中央に手すりのある石段となっている。この坂を上りきると、まっすぐ春日通り方面に向かう。
炭団坂の途中に立つ文京区教育委員会の説明板には、次のように書いて(抜粋)ある。
本郷台地から菊坂の谷へと下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。
台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないことは、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。
この炭団坂を上った西側の崖の上に、「坪内逍遥旧居・常磐会跡」の同教育委員会設置の説明板が立っている。
坪内逍遥(1859~1935)は小説家、評論家、教育家、翻訳家、劇作家。明治17年(1884)この地(旧真砂町18番地)に住み、『小説神随』や『当世書生気質』を発表した。ほかにシェークスピア全集の翻訳などがある。近代日本文学の成立や演劇運動に大きな影響を与えた。
逍遙が旧真砂町25番地に転居後、明治20年(1888)には旧伊予藩主久松氏の育英事業として、「常盤会」という寄宿舎になった。俳人の正岡子規らが寄宿している。現在は、マンション「ブランズ本郷真砂」(写真左手)が建っている。写真右手が炭団坂。
●宮沢賢治の旧居跡(13:05)
長い菊坂の途中で、菊坂に並行する細い路地に下りる石段に、文京区教育委員会の説明板が立っている。
写真左手の建物は、「よしむら歯科医院」。正面の3階建ての建物の所に、宮沢賢治の旧居があった。この家は平成2年(1990)末まで残っていて、二軒長屋の左側の2階6畳間に住んでいた。現在は、写真のように賃貸アパート「ベルウッド本郷」に改築されている。
宮沢賢治(1986-1933)は詩人、童話作家。岩手県の花巻市生まれ。
25歳の時の大正10年(1921)1月に上京。同年8月、妹の肺炎悪化のため急ぎ花巻に帰るまで、ここ本郷菊坂町75番地の稲垣方2階6畳に間借りしていた。ここでは、東大赤門前にあった印刷会社で働き、日蓮宗の布教活動をしていた。童話集『注文の多い料理店』に収められた『どんぐりと山猫』、『かしはばやしの夜』などが、この上京中に書かれている。
●石川啄木ゆかりの赤心館跡(13:10)
「よしむら歯科医院」横の石段から菊坂を横断、「長泉寺」の石段を上って山門をくぐり、境内を抜けて振り返って撮ったのが、下の写真。正面に長泉寺の境内が見え、左側電柱のそばの建物(オルガノ株式会社)のフエンスに文京区教育委員会が説明板が設置してある。ここは、本郷5丁目。
石川啄木(1886-1912)は「文学の志」やみがたく、明治41年(1908)に北海道の放浪の旅を終えて上京した。啄木22歳、3度目の上京であった。上京後金田一京助を頼って、ここにあった「赤心館」に下宿し、執筆に励んだ。
赤心館での生活は4ヶ月。その間のわずか1ヶ月の間に、『菊池君』、『母『』、『ビロード』など小説5編、原稿用紙にして300枚にものぼる作品を完成した。しかし、作品に買い手がつかず、失意と苦悩の日が続いた。収入は途絶え、下宿代にもこと欠く日々で、金田一京助の援助で近くにあった下宿「蓋平館(がいへいかん)別荘」に移っていった。
たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず (赤心館時代の作品)
石川啄木は歌人、詩人、思想家。岩手県で生まれる。盛岡中学中退後、明星派の詩人として出発。20才で処女詩集『あこがれ』を出版、詩人として知られるようになった。小学校代用教員を経て、北海道に職を求め各地を流浪。上京して「東京朝日新聞」の校正係となるが、なおも窮乏生活は続く。
歌人として道を開き、明治43年(1910)歌集『一握の砂』を出版、歌壇内外から注目された。大逆事件に衝撃を受け、社会主義思想に傾倒する。明治45年(1912)、肺結核のため小石川区久堅町の借家で生涯を閉じる。享年27才。代表作に歌集『悲しき玩具』、詩集『呼子と口笛』等がある。
●菊富士ホテル跡(13:15)
石川啄木ゆかりの赤心館跡のすぐ近くに、「菊富士ホテル」跡がある。本郷5丁目のオルガノ株式会社の敷地内に石碑が建っている。
かつて「菊富士ホテル」がここにあった。このホテルには、大正から昭和10年代にかけて、多くの文学者、学者、芸術家、思想家たちが滞在し、数々の逸話が残っている。
主な宿泊者には、石川淳、宇野浩二、宇野千代、尾崎士郎、坂口安吾、高田保、谷崎潤一郎、直木三十五、広津和郎、正宗白鳥、真山青果、竹久夢二、三木清、中條百合子、湯浅芳子、大杉栄、月形龍之介、高柳健次郎。
このホテルは、明治30年この地に岐阜県出身者が下宿「菊富士楼」を開業、大正3年に五層楼を新築「菊富士ホテルと改名し営業を続けた。昭和20年3月、東京大空襲で被災し50年の歴史を閉じた。
●鳳明館(13:20)
菊坂に戻り、北へ「梨の木坂」を上りきると、「鳳明館本館」がある。この周辺は、静かで昔ながらの東京下町の雰囲気が残る。
文京区本郷5丁目にある鳳明館本館は、明治時代の下宿屋を昭和になって旅館に模様替えしたと言われており、登録有形文化財に指定されている歴史ある旅館。
本館の周辺に別館、台町別館、森川別館などがある。内部は、都心とは思えないほど落ち着いた雰囲気だという。修学旅行生や東大受験生が、今でも宿泊しているのだろうか。最近は、外国人観光客にも人気があるそうだ。
再び菊坂交差点にもどり、本郷通りに向かって50m先の右手に「新坂」の入口がある。そこから50mほど坂を上った所に空き地があった。石川啄木は、都内のあちこちに旧居跡があったが、ここは啄木ゆかりの宿。2014年前まで「太栄館」という旅館があり、啄木の碑もあったがそうだが、今は取り壊され更地になっている。
●徳田秋声の旧宅(13:15)
秋声の旧宅は、「新坂」の途中から路地を入った所、本郷6丁目にある。
徳田秋声(1872-1943)は、金沢市出身で明治から昭和初期活躍した小説家。尾崎紅葉の門下、『雲のゆくへ』が出世作。自然主義文学の巨匠。代表作に『足跡』、『黴(かび)』、『あらくれ』、『仮装人物』、『縮図』など。金沢から上京後この地に居を構え、明治38年(1905)から73歳で没するまで38年間住んだ。この建物と多くの遺品が保存されている。東京都指定史跡。
●法真寺(13:45)
本郷通り(国道17号線)を挟んで東大赤門の向かいにある浄土宗「法真寺」は、樋口一葉ゆかりの寺。
一葉が4歳から9歳(明治9~14年)までの5年間の幼少期を過ごした家、通称「一葉桜木の宿」がこの寺のすぐ東隣にあった。現在は、法真寺の境内となっている。
当時は45坪もある屋敷で、庭には立派な桜の木があったという。この時代が一葉にとって最も豊かな安定した日々だった。父・則義もまだ健在で警視病院の会計係を務めており、家は裕福だった。経済的には最も恵まれた時期に過ごしたこの家を、一葉は「桜木の宿」として懐かしんだ。
本堂の左手に観音様、桜の木、一葉塚の背後には草草紙を手にする少女(一葉)の像がある。
●東大本郷キャンパス(13:55~14:30)
東大赤門から本郷キャンパスに入場する。赤門は、東大正門の南へ300m程の所にある。
赤門は、国指定重要文化財。加賀藩13代藩主前田斉泰(なりやす)は、文政10年(1827)に11代将軍徳川家斉の娘・溶姫(やすひめ・ようひめ)を正室に迎えた。この門は、その際に建立された御守殿門と呼ばれる朱塗りの門。
現在の東大本郷キャンパスの一部とその周辺地は、元和元年(1615)の大坂夏の陣の後、加賀藩前田家が幕府からを賜ったものである。
赤門から入ってすぐ左手に「コミュニケーションセンター」がある。その隣に浜松フォトニクス株式会社が、アクリルケースに入った光電子増倍管の実物を展示している。
2002年に東大の小柴昌俊先生が、2015年にも同じく東大の梶田隆章先生がノーベル物理学賞を受賞した。これは浜松ホトニクス製の光電子増倍管が大量に設置された岐阜県の素粒子観測施設であるカミオカンデ、スーパーカミオカンデで研究した成果であることが記されていた。(写真をクリックすると、拡大表示します。)
東大本郷キャンパス構内を散策。いちょう並木から安田講堂を望む。
東大のシンボル、安田講堂。正式名は東京大学大講堂。収容人員は1,144席。講堂のほか多くの事務室や食堂など入っている。
安田財閥の創始者・安田善次郎の寄付により建設、1925年(大正14年)竣工。1968年(昭和43年)の東大紛争では、全学共闘会議によって占拠されるという事件があった。その後荒廃したままであったが、旧安田財閥の関連企業の寄付もあり、1988年(昭和63年)から1994年(平成6年)にかけて改修工事が行われた。
構内にあった「育徳園心字池」は、夏目漱石の名作「三四郎」でここが舞台となったため、「三四郎池」と呼ばれる。
寛永6年(1629)前田家3代藩主利常の時に、隠居していたが3代将軍家光の大御所である秀忠の訪問(御成り)があった。このために御殿などを新築したり、庭園を整備したという。庭園が「育徳園」で、池を「心字池」といった。
本郷7丁目にある東大医学部付属病院。
●弥生美術館、竹久夢二美術館(14:45~15:15)
東大の弥生門から退場し、斜め向かいの「弥生美術館」に入館。同敷地内の「竹久夢二美術館」と渡り廊下でつながっていて、入館料900円で両館を観覧できる。弁護士・鹿野琢見氏によって創立された私設の美術館。文京区弥生2丁目にある。
大正時代の有名な挿絵画家・高畠華宵(たかばたけ・かしょう)の作品、竹久夢二の作品を常設展示。 館内は撮影禁止。
写真は美術館の入場券。(写真をクリックすると拡大表示します。)
開催中の展覧会は、弥生美術館では時代劇画の平田弘史の作品。竹久夢二美術館では、「竹久夢二の春・夏・秋・冬―四季の抒情 夢二絵ごよみ―」。
写真は、平田弘史(左)と竹久夢二(右)の展覧会のチラシ。
なお、夢二がたびたび訪れたという伊香保(群馬県渋川市伊香保町)には、立派な「竹久夢二伊香保記念館」があり、10数年前に行ったことがある。
●不忍池と上野公園(15:20~16:00)
不忍池(しのばずのいけ)や上野公園は、冬の季節にもかかわらず相変わらず人出が多かった。ここは、台東区上野公園。
不忍池から上の公園に向かうと崖の上に京都清水寺に似た「清水観音堂」(重要文化財)と「月の松」がある。
徳川家康、秀忠、家光公の三代にわたる将軍に仕えた天海大僧正は、秀忠から寄進されていた上野の山に平安京と比叡山の関係にならって、寛永2(1625)年に「東叡山・寛永寺」を開いた。
それは、比叡山が京都御所の鬼門を守護するように、東叡山寛永寺を江戸城の鬼門の守りとした。そして京都の有名寺院になぞらえたお堂を次々と建立、その一つが「清水観音堂」(上野清水堂)で、寛永8年(1631)に創建された。
江戸時代の植木職人の技によって、丸く一回転した枝ぶりの「月の松」は、浮世絵師・歌川広重の江戸の名所シリーズ『名所江戸百景』に描かれている。江戸の庶民に親しまれていたが、明治初期の台風で失われ、そのままになっていた。江戸の風景を復活させるため、現代の造園技術を駆使して2012年(平成24年)12月に150年ぶりに復元したという。
草野球が行える「正岡子規記念球場」(東京都が管理)の脇を通る。明治初期に日本に野球が紹介されて間もない頃の愛好者だった正岡子規のは、この球場がある上野公園内で野球を楽しんでいたそうだ。
昨年に世界文化遺産に登録された「国立西洋美術館」の前を経て、ゴールの上野駅公園口に16:05頃到着。
上野駅からJR山手線で池袋駅へ。池袋駅東口から歩いてすぐの居酒屋「粋酔」で新年会(16:45~18:45)。
自宅に帰ったのは20時過ぎ、万歩計を見るとこの日歩いたのは2万2千歩、距離はおよそ13Kmだった。
都内はいつも電車で移動することが多いが、改めて歩いてみると都会の意外な面に気付き、驚きがある。今回の行事を計画し、案内してくれたYさんに感謝。
★ ★ ★
樋口一葉の両親の故郷、甲斐の国中萩原村(後に大藤村、現在山梨県甲州市塩山)の「慈雲寺」には、一葉女史の文学碑が建つ。2013年4月、次の記事に記載した。
・本ブログ「甲州桜めぐり」 2013/04/03 投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-f620.html
文京区小石川の小石川植物園、石川啄木の終焉の地については、2012年1月に次のブログで確認した。
・本ブログ「池袋周辺の史跡めぐり-その1」 2012/01/29 投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-e97a.html
上野公園の本ブログ関連記事は以下の通り。
・上野・谷中界隈 2014/02/02 投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3a2a.html
・上野恩賜公園 2012/10/11 投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-f868.html
・国立西洋美術館「ホドラー展」 2015/01/13 投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-e775.html
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小石川周辺は明治・大正の文学の香りが満載ですね。10年前によく歩きました。また行ってみたくなりました。
(PS)最近は御無沙汰で寂しかったですね~!。またのお越しを楽しみにしております。
投稿: ローリングウエスト | 2017年2月 7日 (火) 06時13分
伊香保の竹下夢二や啄木の生家は尋ねたことがありますが、今夜は東京に旧跡巡り
に行ったような気分になりました。田舎者で東京は全くわかのらないので、こんなにも
多くの文学偉人の名所。ビックリです。流石が東京ですね。
投稿: 雪だるま | 2017年2月12日 (日) 22時51分