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2017年2月の4件の投稿

2017年2月26日 (日)

早春の伊豆半島めぐり-その1

 2017年2月15日(水)~16日(木)、1泊2日の伊豆半島めぐり。

 

 15日(水)は、冬型の気圧配置がゆるみ伊豆半島は晴れ。最高気温は11℃で、比較的暖かい日。

 6:10自宅を出る。総勢12人が出発地に集合し、ワゴン車2台に分乗して7:00出発。

 圏央道から、厚木小田原道路、西湘バイパス、真鶴道路、熱海ビーチラインの有料道路を経て、伊豆半島東岸の国道135号線を南下。熱海市から伊東市へ、10:20頃道の駅「伊藤マリンタウン」で休憩。

 

●城ヶ崎海岸(11:10~12:00、伊東市富戸)

 約4000年前の噴火で溶岩が流れ、海岸線を2km近く埋め立てた海岸は、溶岩流と海の侵食作用でできた小さな岬と入り江が連続、荒々しい断崖絶壁が続く。

 海の吊り橋「門脇吊橋」を渡る。長さ48m、高さ23mのスリルを味わう。

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 門脇埼灯台を中心に、長さ9Kmのハイキングコースがある。

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●稲取温泉(12:40~14:30、東伊豆町稲取)

 更に伊豆半島東岸を南下し、東伊豆町稲取へ。

 稲取は、東伊豆海岸に小さく突き出た岬にある温泉。あちこちに、「雛のつるし飾り発祥の地」の幟(のぼり)が立つ。役場前にある稲取漁港の駐車場に車を駐める。

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 そこから南へ350m(5分)歩いた先にある「網元料理 徳造丸」に、13時前に入る。

 1階は海産物直売、2階は食事処のお座敷。ここのお勧めは「金目鯛彩り膳」(金目鯛姿煮、刺身、金目のしゃぶしゃぶ、黄飯ご飯、お吸い物、その他)、3,500円(税別)。

 ちょっと手が出ないので、金目鯛のカブト煮、黄飯ご飯とお吸い物の1,100円を注文。こってりとした煮付は美味しい。食事が終わると、店の入口には10人以上が行列。早く入店してラッキーだった。

 残り時間が少なくなったので、急いで西へ700m(10分)歩いたところの「雛のつるし飾りまつり」の会場「文化公園雛の館」に行く。入館料300円。

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 稲取温泉に伝わる雛祭りは、江戸時代後期より母や祖母手作りのつるし飾り。 雛壇の両脇に一対のつるし飾りを飾って、女の子の成長を願ったという。

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 伝統工芸の吊るし飾りは、糸の先に布製の人形などを吊るして雛人形とともに飾る。ここ伊豆町稲取の「雛のつるし飾り」、福岡県柳川市の「さげもん」、山形県酒田市の「傘福」を称して「日本三大吊るし飾り」というそうだ。会場には、柳川の「さげもん」と酒田の「傘福」も展示してあった。

 稲取漁協には、金目鯛が水揚げされていた。

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  金目鯛の日本一の水揚げは下田漁港とされるが、ここ稲取漁港の金目鯛は、一本吊りで脂の乗りが高く、漁業関係者から極上とされている。伊豆半島特産の金目鯛は、1975年(昭和50年)頃までは一般には流通してなかったが、輸送手段が確立して全国に知られるようになった。金目鯛は深海魚で、鯛の種類ではない。1年中獲れるが、旬が冬季で荒天で漁が安定性せず、最近は漁獲量も減って高級魚となっている。

 

●白浜海岸(14:55~14:30、下田市白浜)

 稲取温泉で時間を取ったため、予定の下賀茂温泉を止め、下田市の白い砂の白浜大浜海水浴場へ行く。

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 沖に見えるのは伊豆大島。

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 南北に約800mの広々とした開放感あふれる砂浜。海辺では、サーファーが数人。

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●堂ヶ島(16:35~17:50、西伊豆町仁科)。

 伊豆半島の東海岸から、西海岸へ移動する。

 西伊豆の黄金崎や堂ヶ島などは、日本一の夕日が眺められるスポットとして有名。16:15浮島海岸(西伊豆町仁科)に寄って、南東2Kmにある堂ヶ島へ移動。

 堂ヶ島の西伊豆の海に沈む夕陽。波は静か。

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 日没後の一時の景色は、「マジックアワー」と呼ばれる。

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 「マジックアワー」と呼ばれる時間は、太陽は沈み切っているが、まだ辺りが残光に照らされているほんのわずかな、最も美しい幻想的な時間帯を指す。日の出の直前の時間帯でも言うらしい。太陽が無いため影が無く、色相がソフトで暖かく、金色に輝いて見える状態だそうだ。

 

●下田伊藤園ホテルはな岬(18:35~、下田市武ガ浜)

 下田は、黒船来航の地。伊豆の南部に位置し黒潮の影響を受けて、一年を通して暖かな気候に恵まれた温泉地。「ホテルはな岬」は、伊豆の海を望める港の宿。

 18:35頃ホテル着。入浴後、19:30~バイキングの夕食。21:30頃就寝。

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 このホテルは、1年365日土曜も休前日も、1人1泊2食付き8,100円(税込)、この他入湯税が130円で合計8,230円で泊まることができる。しかもバイキングなので食べ放題。夕食は、アルコール飲み放題が付く。カラオケ、インターネット、麻雀ルームなども無料だ。

 徹底的に人件費や経費を削減した格安ホテルの「伊東園ホテルグループ」は、伊豆を中心に全国に44館の温泉旅館・ホテルを有する。

 翌日、早朝4時半起床。

 

 関連ブログ記事

  本ブログ「伊東温泉・伊豆の旅」 2013年11月25日投稿

    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-0eea.html

 

 翌日16日(木)は、本ブログ「早春の伊豆半島めぐり-2」に続く。

2017年2月24日 (金)

夏目漱石の妻と阿川弘之の妻

 明治の文豪・夏目漱石は、昨年12月で没後100年、今年2017年2月に生誕150年を迎えた。
 

 昨年末に、二松学舎大学で製作された漱石そっくりのロボット(アンドロイド、写真)が公開され、話題になった。

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 数年前から、毎年実施している都内の名所旧跡を巡るウォーキングの中で、漱石の旧居跡や墓地、漱石の小説に出てくる「伝通院」、「こんにゃく閻魔(えんま)」、「小石川植物園」、東大の「三四郎池」など、漱石のゆかりの地も訪ねた。

 漱石の旧居跡、2011/1/29千駄ヶ谷にて撮影。

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 漱石の墓、2012/1/22雑司ヶ谷霊園にて撮影。

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 ここでは、漱石の妻・夏目鏡子について記述してみたい。

 鏡子は、漱石が亡くなった後に結婚生活を口述し、それを漱石の弟子で長女・筆子の夫に筆記させた。その回想記『漱石の思ひ出』は、昭和初期に出版された。

 漱石は、幼少期に屈折した生活を過ごしたことがあり、小説家になる前は四国松山の中学教師、第五高校(熊本)の教授から東大の講師をしていた。頭脳は明晰だが、几帳面で気難しく、わがままで頑固者だった。しかしその後、留学先のロンドンで神経衰弱を患ってからは、ますます心が荒れてしまう。漱石の作品は良く知られていていくつか読んだこともあるが、留学中にノイローゼになった事は、ずっと後に知った。

 明治政府官僚のお嬢様だった妻・鏡子は、おおらかで自分の思ったことを口に出す性格、ことごとく夫とぶつかる。当時は漱石の弟子たちから、悪妻とも中傷されたこともあったようだが、今の基準で考えるとごく現代風の女性だったそうだ。

 妻として漱石との家庭生活の苦労を、この回想記で生々しく語っている。この回想記を元に、NHKで土曜夜のドラマ『夏目漱石の妻』となって、昨年9月から10月に4回に渡って放送された。

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 漱石(長谷川博己)の言動で家庭崩壊しそうな夫婦関係や親子関係を、妻(尾野真千子)は必死で守り、家庭の夢を追いかける物語。明治の亭主関白の夫、明治の女の芯の強さを少しコミカルに描いたこのドラマを、家内と一緒に興味深く視聴した。

 漱石は、小説を書きながらもひどい胃潰瘍、晩年には糖尿病にも悩まされ、小説『明暗』の執筆途中の49歳で亡くなった。亡くなるまでの彼女には、少しも平穏な結婚生活はなかったという。しかし、子供は2男5女もいた。
 
 このドラマが終わってから別の資料で知ったことだが、晩年の鏡子は孫に「いろんな男の人を見てきたけど、あたしゃお父様(漱石)が一番いいねぇ」と目を細めて言ったそうだ。20年も一緒に過ごした妻の苦労は、並大抵ではなかったはずだが…。
 
  

 この話を知った後、エッセイストでタレントの阿川佐和子が、あるテレビ番組で似たような話をしていたのに驚いた。佐和子のお母さんは最近になって、亡くなった夫で小説家・阿川弘之との結婚生活を振り返って、「幸せだった」とか、「いい人だった」と言うので、彼女は唖然としたそうだ。

 阿川佐和子は、テレビ番組の中で父親ことをよく批判していた。彼女の父親・阿川弘之は小説家で、代表作に『春の城』、『雲の墓標』のほか、帝国海軍提督を描いた三部作『山本五十六』、『米内光政』、『井上成美』などがある。文壇の重鎮として文化勲章をもらったほどの人だが、家庭では亭主関白、自己中心、短気で頑固者、堅物でいつも怒鳴り散らしていて、妻や子供たち(佐和子ほか兄弟)を困らせ、母はいつも泣かされていたそうだ。

 佐和子は、知的でユーモアがあって、聞き上手、話し上手。テレビ番組『ビートたけしのTVタックル』などでもお馴染。家内は、土曜の朝の対談番組『サワコの朝』が好きで、よく見ている。政治家や大物タレントにも物おじせず、ストレートに切り込む話し方が魅力だ。ベストセラーになった『聞く力』は、読んだことがある。

 弘之が一昨年94歳で世を去って一周忌の昨年7月、娘の佐和子は妻子に対しては絶対服従を求める「暴君」の父親の素顔を書いた『強父論』という単行本を出した。

 数日前に買って読んでみたが、数分おきに大声をあげて笑いながら、一気に読んでしまった。阿川佐和子のウィットに富んだ簡潔な文章ですっと理解でき、横暴で破天荒な父親・弘之の深刻な話だが、面白く楽しんで読める。

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 晩年の父親への介護の苦労から始まって、子供の頃は急に怒り出す父親にびくびくしながら育ったこと。大人になってからは、理屈っぽいが不合理、理不尽な考えの父親に従順ながらも確執もあり。そして、父親の最期の様子と亡くなってからのことが書かれている。

 弘之は、自分では合理主義者であると言うが、感情の先立つことが多い。男尊女卑でわがままで、妻や子供には絶対服従を求める。佐和子に対する口癖のひとつに、「文句があるなら出ていけ。のたれ死のうが女郎屋に行こうが、俺の知ったこっちゃない」だった。

 今なら児童虐待か、DV(家庭内暴力)か、それと離婚に対する敷居が低くなっているので、そんな夫婦は簡単に別れてしまうだろう。

 友達のような夫婦、優しい父親が今の時代は大多数だが、昔は怖くて強い父親はあちこちにいたのだ。亡くなった親戚の伯父、近所のおやじ、知人の旦那…、身近にいたそんな横暴な亭主関白の夫のいる家庭を見聞きした時、それに耐えている妻子に同情し、いたたまれない気持ちになる。そして、その妻の姿は、夏目漱石とか阿川弘之の妻と重なってしまうのだ。

 小説家としては立派でも、家庭では自己中心で古い考えの頑固な夫にあんなに苦労して不幸に耐えた妻は、夫が亡くなった後には夫のことをあんなに美化するものかと、そのギャップに言葉を失う。夫婦というのは、そんなものなのだろうか。

 

 関連ブログ

  ・本ブログ「池袋周辺の史跡めぐり-その1」 2012/01/29 投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-e97a.html

  ・本ブログ「池袋周辺の史跡めぐり-その2」 2012/01/30 投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/2-4ddc.html

  ・本ブログ「白山・本郷界隈-その1」 2017/01/31 投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-20e8.html
 
  ・本ブログ「白山・本郷界隈-その2」 2017/02月/05 投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-0fea.html

2017年2月 7日 (火)

秩父神社の節分祭

 2017年2月3日(金)、秩父神社(埼玉県秩父市)の「鬼やらい節分祭」に行く。

 

 「追儺(ついな)」とか「鬼やらい」とか呼ばれる行事は、節分などの季節の変わり目に、古来から全国的に行われている鬼を追い出す祭り。

 「秩父神社」は埼玉県秩父地方の総鎮守であり、「三峯神社」、「宝登山神社」とともに秩父三社の一つ。秩父市の市街地、秩父鉄道秩父駅のすぐ近くにある。付近を山梨県甲府に至る国道140号線、長野県茅野市に至る国道299号線が通る。
 

 途中道路が渋滞したりで、秩父神社についたのは10時20分ころ。

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 裃(かみしも)を着た年男・年女の氏子たちが社殿でお祓いを受けている。

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 神主を先頭に、年男・年女たちは社殿から神門をくぐって平成殿(社務所)に向かう。

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 やがて金棒を持った赤鬼や青鬼たちが境内にやって来て、踊ったりしながら騒ぎ立てる。

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 平成殿の2階に上がった年男・年女たちが、豆を撒き鬼を追い出す。

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 豆は、白い御供物の袋に入っている。福引券も入っているそうだ。
 
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 鬼が逃げ出すと同時に、観客は飛んでくる豆に必死に手を広げ、地面に落ちた豆を拾う。

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 豆まきが終わると、鬼は幼児を怖がらせたり、抱き上げたりして記念撮影。でも泣き出す子供が多い。

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 神楽殿では、打ち出の小槌を持った福の神(大黒様?)が、笛・太鼓に合わせて踊りながら豆を撒いていた。

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 このような豆まきが、午前中は10時半、10時、11時40分、午後は14時、15時と、5回繰り返されるという。

 

 午前の部が終わり、神門をくぐって拝殿に行って参拝する。

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 秩父神社の社殿は、本殿・幣殿・拝殿が一つにまとめられた権現(ごんげん)造り。

 拝殿の立派な彫刻、扁額(へんがく)には「知知夫(ちちぶ)神社」とある。

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 拝殿の正面左手にある彫刻「子宝・子育ての虎」は、左甚五郎の作とされる。

 (写真は、クリックすると拡大表示します。)

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 彫刻の下には、「赤子には肌を離すな、幼児には手を離すな、子供には目を離すな、若者には心を離すな」と親の心得が書かれた札があるそうだ。母虎は、何故かヒョウ柄だ。

 拝殿東側の彫刻。

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 本殿東側の彫刻「つなぎの龍」は、これも左甚五郎作と伝えられる。夜な夜な近くの池に青龍が現れるため、鎖でつながれたという伝説がある。

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 彫刻「北辰の梟(ふくろう)」は、本殿北側の中央に彫刻されたフクロウ。

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 このフクロウは、体は本殿(南)を向いているのに、顔だけ180度逆の方向(北)を向いていて、祭神である「妙見菩薩」を守っているという。妙見菩薩は「北辰菩薩」とも呼ばれ、北辰すなわち北極星を神格化したものとされる。

 本殿西側の彫刻。

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 本殿西側の左下にある彫刻「お元気三猿」。有名な日光東照宮の「見ざる・言わざる・聞かざる」に対して逆に、「見て・聞いて・話せて」といつまでも元気に願って、「お元気三猿」と呼ばれている。

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 西側幣殿(幣殿は、本殿と拝殿をつなぐ建物)の彫刻「瓢箪(ひょうたん)から駒」。馬に関する諺(ことわざ)の「瓢箪から駒」は、意外なところから意外な発見や出会いがあることで、その意味は開運招福。社殿の西側にはこの諺に因んだ彫刻が施されている。

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 なお、「秩父夜祭」では、祭神は御輿だけでなく神馬に乗って御旅所に渡るため、12月3日には本物の馬が2頭奉納されて神幸の供をする。

 拝殿西側の彫刻。

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 午前中の行事が終わって拝殿で参拝の後、11時50分ころ神社を出る。

 運よく豆袋を2袋拾った。中には豆と紅白の砂糖菓子が入っている。福引券はなかったが、家に帰ってからありがたく豆を頂く。

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 ★ ★ ★

 毎年12月1日~6日の秩父神社の例祭「秩父夜祭」は、国の重要無形民俗文化財」(秩父祭の屋台行事と神楽)に指定。京都の「祇園祭」、飛騨の「高山祭」とともに日本三大曳山祭にも数えられる。また18府県で計33件の祭りの「山・鉾・屋台行事」の一つとして、2016年12月ユネスコ無形文化遺産へ登録が決定した。(写真の出典は、ウィキメディア・コモンズ)

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 この祭りは、寛文年間から300年以上続き、歴史的にも文化的に価値が高いとされる。提灯で飾り付けられた豪華絢爛の山車(笠鉾・屋台)の曳き回しや冬の花火大会は、全国に知られている人気のある祭りの一つ。

 

 秩父神社の現存する社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康の寄進によるものとされ、江戸時代初期の建築様式をよく留めている。埼玉県の有形文化財に指定。

 御由緒によると、秩父神社の創建は第10代崇神(すじん)天皇の代に、八意思金命(やごころおもいかねのみこと)の子孫である知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)が知知夫国(ちちぶのくに)の初代の国造(くにのみやつこ)に任命され、祖神を祀ったことに始まる。一説には紀元前87年に創建とされる。武蔵国(むさしのくに)成立以前から栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至る。

 関東でも屈指の古社のひとつで、中世以降は関東武士団の源流である秩父平氏が奉じる妙見信仰(妙見菩薩)と習合し、江戸時代まで「秩父妙見宮」と呼ばれた。明治の神仏分離令により「秩父神社」の旧社名に復したという。平成殿(社務所)の2階からは、「奉祝 御鎮座 二千百年」の垂れ幕が下がる。
 

 
 節分は、もともと各季節の始まりの日である立春・立夏・立秋・立冬の前日を指していて、「季節を分ける」ことを意味している。昔から節分を境に季節が変わり、邪気(鬼)が生じると考えられていた。やがて江戸時代頃より、節分はもっぱら立春の前日のみを指すようになる。この日には、各地で豆まきや鬼追いの行事が行われる。これらの儀式の多くは、本来は旧暦大晦日の行事であったものが、節分の日に行われるようになったという。

 秩父神社では、夜7時半から「節分追儺祭」の神事がある。「奉幣(ほうべい、神に供物を捧げる)」行事、「撤豆(さんとう、豆まき)」行事、「引目(ひきめ、弓で矢を放つ)」行事、そして「鬼やらい(鬼払い)」と、往古の形式にならって行われるという。

 そして日中は、「鬼やらい」や「豆まき」、神楽殿では「福神舞」などが行われ、境内では甘酒がふるまわれ、抽選券のくじ引きが行われる。平日にもかかわらず、多くの人々で賑わっていた。

 
 

本記事に関連するブログは、以下の通り。

  ・「三峯神社」 2013/05/24 投稿
     http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-4a2b.html

  ・「秩父・大陽寺(つづき)」 2013/05/23 投稿
     http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-3145.html

  ・「秩父・大陽寺」 2013/05/22 投稿
     http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-3386.html

  ・「宝登山神社」 2013/03/08 投稿
     http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-3b82.html

  ・「長瀞・宝登山のロウバイ園」 2013/03/07 投稿
     http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-6267.html

2017年2月 5日 (日)

白山・本郷界隈-その2

 2017年1月29日(日)、文京区の白山・本郷界隈を歩く。

 

 本ブログ「白山・本郷界隈-その1」の続き。白山界隈から本郷界隈に移動する。

 12時25分、小石川2丁目の「源覚寺」を出て、こんにゃくえんま交差点から白山通りを横断、東へ向かうと菊坂下の交差点。

 

●旧伊勢屋質店(12:30~12:45)

 菊坂下交差点から、昔この辺りは菊畑だったという「菊坂」を上る。

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 坂の途中、左手に樋口一葉が通ったという「旧伊勢屋質屋」がある。今はもう営業していないが、そのままの建物(左の土蔵と2階建の店舗兼住宅)が保存されている。

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 所在地は文京区本郷5丁目、跡見学園女子大学が菊坂跡見塾として所有し、内部を公開している。太い柱や梁を使った土蔵、風通しや日当たりのため中庭、床の間がある奥座敷、当時の質物台帳が置いてある見世(店)など見学する。江戸時代の町屋造り、明治の面影を残す。玄関は直接道路から見えないように工夫してあるところが面白い。入場料は無料、撮影は禁止。

 樋口一葉(1872~1896)が菊坂の家に住んでいたときから、生活が苦しくなるたびに通って家計をやりくりした質屋。下谷区竜泉町に移ってからも通ったという。 一葉が亡くなった際には、店から香典が届けられほど縁が深かった。質屋は1869年(明治2年)創業、1982年(昭和57年)に廃業した。2015年(平成27年)に、跡見学園女子大学が文京区からの補助も得て、所有者から建物を購入した。

 

●金田一京助・春彦の旧居跡(12:50)

 樋口一葉が住んでいた家のすぐそばで、「鐙(あぶみ)坂」を上り切った所の左手の石垣の上に、金田一京助、長男・春彦の旧居跡がある。道路挟んだ向かいは、財務省関東財務局真砂住宅がある。

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 文京区教育委員会の「鐙坂」の説明板が立っている。以下抜粋する。

 本郷台地から「菊坂」の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」とか、その形が「鐙に似ている」ということから名付けられたなどといわれている。
 
 
 ここは文京区本郷4丁目。石垣の前には「金田一京助・春彦の旧居跡」と書かれた文京区教育委員会の説明板が立ち、その上に2棟の住宅がある。手前は白い壁の比較的新しい家。写真ではうまく写っていないが(残念)、その奥には時代を経た独特の雰囲気の木造住宅。

 旧居跡というのは、この2棟を指すのか、片方の古い家なのかよく分からなかった。

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 金田一京助(1882-1971)は言語学者、民俗学者。アイヌ語の研究で有名。京助は学者として活躍するかたわら、盛岡中学の後輩である詩人・石川啄木の援助を行なっていた。啄木が移り住んだアパートや家がこの近くに集中している。

 金田一京助の長男・春彦(1913-2004)も言語学者、国語学者。国語辞典の編纂や方言の研究で有名。ちなみに春彦の長男・真澄(つまり京助の孫)は、ロシア語学者。次男・秀穂も言語学者で、日本語教育やテレビのバラエティ番組出演でも知られている。
 

 この辺りの旧町名は、明治2年(1869)から昭和40年(1965)まで「真砂(まさご)町」だった。『婦系図』などの小説の舞台になったり、文人が多く住んでいたことで知られている。

 

●樋口一葉の旧居跡(12:55)

 金田一京助・春彦の旧居跡から鐙坂を少し下って、右手の狭い路地に入る。

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 5千円札で有名な樋口一葉(1872-1896)は、東京生まれの小説家。本名は夏子、戸籍名は奈津。

 父は下級役人だったが、事業で負債を抱えて死去。住まいを転々とした後、父亡き後の明治23年から26年まで、ここで母と妹と暮らした借家があった。3人で洗い物や仕立てで生計を立てたものの、借金は追いつかない。このころ文筆で身を立てる決意をしたとされるが、当時の建物は今はない。一葉が使ったとされる井戸が残っている。一葉の時代は、このようなポンプで汲み上げたのではなく、つるべを使っていたのだろう。

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 一葉の旧居跡を訪ねる人は多い。周囲はその面影を残し、ひっそりとした雰囲気が漂う。

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 女に学業は不要との母の考えで、一葉は成績優秀だったが上級学校には進まなかった。14歳で中島歌子に歌や古典を学び、文才は卓越していた。やがて半井桃水(なからい・とうすい)に小説を学び、食べるために職業作家を目指す。

 生活に苦しみながら、『たけくらべ』、『にごりえ』、『十三夜』といった名作を発表、森鴎外ら文壇から絶賛を受ける。わずか1年半でこれらの作品を世に出したが、24歳6ヶ月の若さで、肺結核により亡くなった。死ぬまで金策に追われていたという。没後に発表された『一葉日記』も高い評価を受けている。
 
  

●坪内逍遥旧居・常磐会跡(13:00)

 「炭団(たどん)坂」は、菊坂の谷にある古い街並みから、本郷の台地へ上る急坂。今では中央に手すりのある石段となっている。この坂を上りきると、まっすぐ春日通り方面に向かう。

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 炭団坂の途中に立つ文京区教育委員会の説明板には、次のように書いて(抜粋)ある。

 本郷台地から菊坂の谷へと下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。
 台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないことは、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。
 

 この炭団坂を上った西側の崖の上に、「坪内逍遥旧居・常磐会跡」の同教育委員会設置の説明板が立っている。

 坪内逍遥(1859~1935)は小説家、評論家、教育家、翻訳家、劇作家。明治17年(1884)この地(旧真砂町18番地)に住み、『小説神随』や『当世書生気質』を発表した。ほかにシェークスピア全集の翻訳などがある。近代日本文学の成立や演劇運動に大きな影響を与えた。

 逍遙が旧真砂町25番地に転居後、明治20年(1888)には旧伊予藩主久松氏の育英事業として、「常盤会」という寄宿舎になった。俳人の正岡子規らが寄宿している。現在は、マンション「ブランズ本郷真砂」(写真左手)が建っている。写真右手が炭団坂。

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●宮沢賢治の旧居跡(13:05)

 長い菊坂の途中で、菊坂に並行する細い路地に下りる石段に、文京区教育委員会の説明板が立っている。

 写真左手の建物は、「よしむら歯科医院」。正面の3階建ての建物の所に、宮沢賢治の旧居があった。この家は平成2年(1990)末まで残っていて、二軒長屋の左側の2階6畳間に住んでいた。現在は、写真のように賃貸アパート「ベルウッド本郷」に改築されている。

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 宮沢賢治(1986-1933)は詩人、童話作家。岩手県の花巻市生まれ。

 25歳の時の大正10年(1921)1月に上京。同年8月、妹の肺炎悪化のため急ぎ花巻に帰るまで、ここ本郷菊坂町75番地の稲垣方2階6畳に間借りしていた。ここでは、東大赤門前にあった印刷会社で働き、日蓮宗の布教活動をしていた。童話集『注文の多い料理店』に収められた『どんぐりと山猫』、『かしはばやしの夜』などが、この上京中に書かれている。
 
    

●石川啄木ゆかりの赤心館跡(13:10)

 「よしむら歯科医院」横の石段から菊坂を横断、「長泉寺」の石段を上って山門をくぐり、境内を抜けて振り返って撮ったのが、下の写真。正面に長泉寺の境内が見え、左側電柱のそばの建物(オルガノ株式会社)のフエンスに文京区教育委員会が説明板が設置してある。ここは、本郷5丁目。

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 説明板には、次のように書かれている。(抜粋)

 石川啄木(1886-1912)は「文学の志」やみがたく、明治41年(1908)に北海道の放浪の旅を終えて上京した。啄木22歳、3度目の上京であった。上京後金田一京助を頼って、ここにあった「赤心館」に下宿し、執筆に励んだ。

 赤心館での生活は4ヶ月。その間のわずか1ヶ月の間に、『菊池君』、『母『』、『ビロード』など小説5編、原稿用紙にして300枚にものぼる作品を完成した。しかし、作品に買い手がつかず、失意と苦悩の日が続いた。収入は途絶え、下宿代にもこと欠く日々で、金田一京助の援助で近くにあった下宿「蓋平館(がいへいかん)別荘」に移っていった。

 たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず (赤心館時代の作品)
 

 石川啄木は歌人、詩人、思想家。岩手県で生まれる。盛岡中学中退後、明星派の詩人として出発。20才で処女詩集『あこがれ』を出版、詩人として知られるようになった。小学校代用教員を経て、北海道に職を求め各地を流浪。上京して「東京朝日新聞」の校正係となるが、なおも窮乏生活は続く。

 歌人として道を開き、明治43年(1910)歌集『一握の砂』を出版、歌壇内外から注目された。大逆事件に衝撃を受け、社会主義思想に傾倒する。明治45年(1912)、肺結核のため小石川区久堅町の借家で生涯を閉じる。享年27才。代表作に歌集『悲しき玩具』、詩集『呼子と口笛』等がある。

 

●菊富士ホテル跡(13:15)

 石川啄木ゆかりの赤心館跡のすぐ近くに、「菊富士ホテル」跡がある。本郷5丁目のオルガノ株式会社の敷地内に石碑が建っている。

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 かつて「菊富士ホテル」がここにあった。このホテルには、大正から昭和10年代にかけて、多くの文学者、学者、芸術家、思想家たちが滞在し、数々の逸話が残っている。

 主な宿泊者には、石川淳、宇野浩二、宇野千代、尾崎士郎、坂口安吾、高田保、谷崎潤一郎、直木三十五、広津和郎、正宗白鳥、真山青果、竹久夢二、三木清、中條百合子、湯浅芳子、大杉栄、月形龍之介、高柳健次郎。
 
 このホテルは、明治30年この地に岐阜県出身者が下宿「菊富士楼」を開業、大正3年に五層楼を新築「菊富士ホテルと改名し営業を続けた。昭和20年3月、東京大空襲で被災し50年の歴史を閉じた。

 

●鳳明館(13:20)

 菊坂に戻り、北へ「梨の木坂」を上りきると、「鳳明館本館」がある。この周辺は、静かで昔ながらの東京下町の雰囲気が残る。

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 文京区本郷5丁目にある鳳明館本館は、明治時代の下宿屋を昭和になって旅館に模様替えしたと言われており、登録有形文化財に指定されている歴史ある旅館。

 本館の周辺に別館、台町別館、森川別館などがある。内部は、都心とは思えないほど落ち着いた雰囲気だという。修学旅行生や東大受験生が、今でも宿泊しているのだろうか。最近は、外国人観光客にも人気があるそうだ。 

 

 再び菊坂交差点にもどり、本郷通りに向かって50m先の右手に「新坂」の入口がある。そこから50mほど坂を上った所に空き地があった。石川啄木は、都内のあちこちに旧居跡があったが、ここは啄木ゆかりの宿。2014年前まで「太栄館」という旅館があり、啄木の碑もあったがそうだが、今は取り壊され更地になっている。
 

●徳田秋声の旧宅(13:15)

 秋声の旧宅は、「新坂」の途中から路地を入った所、本郷6丁目にある。

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 ここには、東京都教育委員会の説明板がある。

 徳田秋声(1872-1943)は、金沢市出身で明治から昭和初期活躍した小説家。尾崎紅葉の門下、『雲のゆくへ』が出世作。自然主義文学の巨匠。代表作に『足跡』、『黴(かび)』、『あらくれ』、『仮装人物』、『縮図』など。金沢から上京後この地に居を構え、明治38年(1905)から73歳で没するまで38年間住んだ。この建物と多くの遺品が保存されている。東京都指定史跡。

 

●法真寺(13:45)

 本郷通り(国道17号線)を挟んで東大赤門の向かいにある浄土宗「法真寺」は、樋口一葉ゆかりの寺。

 一葉が4歳から9歳(明治9~14年)までの5年間の幼少期を過ごした家、通称「一葉桜木の宿」がこの寺のすぐ東隣にあった。現在は、法真寺の境内となっている。

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 当時は45坪もある屋敷で、庭には立派な桜の木があったという。この時代が一葉にとって最も豊かな安定した日々だった。父・則義もまだ健在で警視病院の会計係を務めており、家は裕福だった。経済的には最も恵まれた時期に過ごしたこの家を、一葉は「桜木の宿」として懐かしんだ。

 本堂の左手に観音様、桜の木、一葉塚の背後には草草紙を手にする少女(一葉)の像がある。

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●東大本郷キャンパス(13:55~14:30)

 東大赤門から本郷キャンパスに入場する。赤門は、東大正門の南へ300m程の所にある。

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 赤門は、国指定重要文化財。加賀藩13代藩主前田斉泰(なりやす)は、文政10年(1827)に11代将軍徳川家斉の娘・溶姫(やすひめ・ようひめ)を正室に迎えた。この門は、その際に建立された御守殿門と呼ばれる朱塗りの門。

 現在の東大本郷キャンパスの一部とその周辺地は、元和元年(1615)の大坂夏の陣の後、加賀藩前田家が幕府からを賜ったものである。

 赤門から入ってすぐ左手に「コミュニケーションセンター」がある。その隣に浜松フォトニクス株式会社が、アクリルケースに入った光電子増倍管の実物を展示している。

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 2002年に東大の小柴昌俊先生が、2015年にも同じく東大の梶田隆章先生がノーベル物理学賞を受賞した。これは浜松ホトニクス製の光電子増倍管が大量に設置された岐阜県の素粒子観測施設であるカミオカンデ、スーパーカミオカンデで研究した成果であることが記されていた。(写真をクリックすると、拡大表示します。)
 

 東大本郷キャンパス構内を散策。いちょう並木から安田講堂を望む。

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 東大のシンボル、安田講堂。正式名は東京大学大講堂。収容人員は1,144席。講堂のほか多くの事務室や食堂など入っている。

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 安田財閥の創始者・安田善次郎の寄付により建設、1925年(大正14年)竣工。1968年(昭和43年)の東大紛争では、全学共闘会議によって占拠されるという事件があった。その後荒廃したままであったが、旧安田財閥の関連企業の寄付もあり、1988年(昭和63年)から1994年(平成6年)にかけて改修工事が行われた。

 構内にあった「育徳園心字池」は、夏目漱石の名作「三四郎」でここが舞台となったため、「三四郎池」と呼ばれる。       

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 寛永6年(1629)前田家3代藩主利常の時に、隠居していたが3代将軍家光の大御所である秀忠の訪問(御成り)があった。このために御殿などを新築したり、庭園を整備したという。庭園が「育徳園」で、池を「心字池」といった。
 

 本郷7丁目にある東大医学部付属病院。

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●弥生美術館、竹久夢二美術館(14:45~15:15)

 東大の弥生門から退場し、斜め向かいの「弥生美術館」に入館。同敷地内の「竹久夢二美術館」と渡り廊下でつながっていて、入館料900円で両館を観覧できる。弁護士・鹿野琢見氏によって創立された私設の美術館。文京区弥生2丁目にある。

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 大正時代の有名な挿絵画家・高畠華宵(たかばたけ・かしょう)の作品、竹久夢二の作品を常設展示。 館内は撮影禁止。

 写真は美術館の入場券。(写真をクリックすると拡大表示します。)

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 開催中の展覧会は、弥生美術館では時代劇画の平田弘史の作品。竹久夢二美術館では、「竹久夢二の春・夏・秋・冬―四季の抒情  夢二絵ごよみ―」。

 写真は、平田弘史(左)と竹久夢二(右)の展覧会のチラシ。

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 美術館の塀に描いた夢二の作品。

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 なお、夢二がたびたび訪れたという伊香保(群馬県渋川市伊香保町)には、立派な「竹久夢二伊香保記念館」があり、10数年前に行ったことがある。

 

●不忍池と上野公園(15:20~16:00)

 不忍池(しのばずのいけ)や上野公園は、冬の季節にもかかわらず相変わらず人出が多かった。ここは、台東区上野公園。

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 不忍池から上の公園に向かうと崖の上に京都清水寺に似た「清水観音堂」(重要文化財)と「月の松」がある。

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 徳川家康、秀忠、家光公の三代にわたる将軍に仕えた天海大僧正は、秀忠から寄進されていた上野の山に平安京と比叡山の関係にならって、寛永2(1625)年に「東叡山・寛永寺」を開いた。

 それは、比叡山が京都御所の鬼門を守護するように、東叡山寛永寺を江戸城の鬼門の守りとした。そして京都の有名寺院になぞらえたお堂を次々と建立、その一つが「清水観音堂」(上野清水堂)で、寛永8年(1631)に創建された。

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 江戸時代の植木職人の技によって、丸く一回転した枝ぶりの「月の松」は、浮世絵師・歌川広重の江戸の名所シリーズ『名所江戸百景』に描かれている。江戸の庶民に親しまれていたが、明治初期の台風で失われ、そのままになっていた。江戸の風景を復活させるため、現代の造園技術を駆使して2012年(平成24年)12月に150年ぶりに復元したという。
 
 草野球が行える「正岡子規記念球場」(東京都が管理)の脇を通る。明治初期に日本に野球が紹介されて間もない頃の愛好者だった正岡子規のは、この球場がある上野公園内で野球を楽しんでいたそうだ。

 昨年に世界文化遺産に登録された「国立西洋美術館」の前を経て、ゴールの上野駅公園口に16:05頃到着。
 

 上野駅からJR山手線で池袋駅へ。池袋駅東口から歩いてすぐの居酒屋「粋酔」で新年会(16:45~18:45)。

 自宅に帰ったのは20時過ぎ、万歩計を見るとこの日歩いたのは2万2千歩、距離はおよそ13Kmだった。

 

 都内はいつも電車で移動することが多いが、改めて歩いてみると都会の意外な面に気付き、驚きがある。今回の行事を計画し、案内してくれたYさんに感謝。

 

 

 ★ ★ ★

 樋口一葉の両親の故郷、甲斐の国中萩原村(後に大藤村、現在山梨県甲州市塩山)の「慈雲寺」には、一葉女史の文学碑が建つ。2013年4月、次の記事に記載した。

  ・本ブログ「甲州桜めぐり」 2013/04/03 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-f620.html

 文京区小石川の小石川植物園、石川啄木の終焉の地については、2012年1月に次のブログで確認した。

  ・本ブログ「池袋周辺の史跡めぐり-その1」 2012/01/29 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-e97a.html

 上野公園の本ブログ関連記事は以下の通り。

  ・上野・谷中界隈 2014/02/02 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3a2a.html

  ・上野恩賜公園 2012/10/11 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-f868.html

  ・国立西洋美術館「ホドラー展」 2015/01/13 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-e775.html

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