紅葉の信濃路の旅
2016年11月20日(日)~22日(月)、大河ドラマ「真田丸ゆかりの地を中心に東信州から北信州を巡る1泊2日のバスツアー。
20日(日)、この日は朝から濃い霧。午前8時、参加者29名を乗せた観光バスは、関越道、上信越道の霧の中を走る。やがて霧が晴れて曇り空、雨はなさそう。
●千曲錦酒造(10:15~10:45)
最初の訪問先は、佐久インターから上信道を降りてすぐ、江戸時代初期の天和元年(1681年)創業という老舗「千曲錦酒造」(長野県佐久市長土呂)。武田信玄の二十四将の一人・原虎胤(はらとらたね)の子孫・弥八郎が、この地域の名主を勤めるかたわら、酒造業を始めたとされる。
この日は日曜で酒蔵の見学は出来なかったが、おなじみの試飲コーナーでは利き酒を楽しむ。
バスは国道141号から国道18号を走り、東御市加沢にある「蜂天国」へ。
「世界初のスズメバチの芸術館」がキャッチフレーズの館内には、スズメバチの標本や生態などの説明パネルとともに、珍形・奇形や巨大な蜂の巣800点余りが展示され、初めて見る人は驚くばかり。一見する価値はある。
置物などの人工物にくっついた巣や巨大な巣は、アートなのかオブジェだろうか。スズメバチだけで自然に作ったのではなく、人間の手が加わっている。蜂の巣駆除作業で取り外した巣を置物にくっつけて、いくつも並べるとスズメバチは巣と巣の間をせっせと埋めて、大きな巣の造形物ができていくのだそうだ。
あまりにも多くの蜂の巣のアートを見ていると、ちょっと食傷気味になる。
バスは、国道18号線を北上し、上田城址の目の前にある「ホテル祥園」(上田市大手1丁目)に入り、昼食(12:20~13:10)。
●真田丸大河ドラマ館と上田城址(13:20~15:50)
「上田城址公園」の大型バス駐車場にバスを止め、公園に入場。
上田城址公園の一角にある「信州上田 真田丸大河ドラマ館」に入館。
現在放映中の大河ドラマの影響で狭い館内は、多くの観光客で大混雑。ドラマの解説や配役の紹介、ロケの写真や衣装、小道具、甲冑などが展示されている。館内は、撮影禁止。
写真は、ドラマの真田信繁(幸村)が大坂の陣で着用した「赤備え(あかぞなえ)」の鎧兜(よろいかぶと)。これだけは、撮影可だった。
上田城は、真田本城主の真田氏が築城し、二度にわたり徳川軍を撃退した。しかし関ヶ原の戦いで西軍が敗れたため、上田城は徳川によって破壊され後、小諸藩主だった仙石忠政が移り、再構築した。しかし忠政の死後は、松平氏が藩主を交代し幕末までこの城を引き継いでいる。
写真は、「上田城」の東門虎口櫓(やぐら)門。
本丸にある「真田神社」。明治になって上田城が廃城となった跡地に、創建された。本丸には、もともと天守閣はなかった。
神社は当初、松平氏を祀り「松平(しょうへい)」神社と称した。戦後、真田氏と仙石氏も合祀して「上田神社」と改称した。しかし市内の同名他社と紛らわしいため、その10年後に初代城主の真田氏の名前を冠して「真田神社」と再改称され、今に至っているそうだ。
集合時刻の14時40分になっても参加者の一人がバスに戻らず。迷子になったらしくて、大騒ぎとなるハプニング。大事に至らずやっと見つかったが、結局1時間以上の遅れの15時50分、公園の駐車場を出発。
上信越道の坂城インターから信州中野インターを経て、16時55分湯田中温泉「ホテル星川館」(下高井郡山ノ内町平穏)に到着。
温泉に浸かった後は、18時半から20時50分まで大広間で懇親会。
★ ★ ★
21日(月)、6:25起床、7:30から朝食。9:00ホテルを出発。
●小野りんご園(9:15~9:35)
信州中野の「小野りんご園」(中野市吉田)に寄る。ここは先月10月17日、リンゴ狩りに来たところ(文末の関連ブログ参照)。
時間の関係でリンゴ狩りを省略、試食とお土産のリンゴを1人1カゴずつ持ち帰り。
●小布施のまち歩き(9:55~10:30)
栗と北斎で知られる小布施町の街中を散策(高井郡小布施町大字小布施)。
ここには、江戸時代の絵師・葛飾北斎の「北斎館」のほか美術館や博物館、栗菓子・土産物・食事処・カフェなどの店が並ぶ。
この街も10月17日に訪ねて、「北斎館」を見学した(文末の関連ブログ参照)。今回は、「高井鴻山記念館」に入館しようと思ったが、改修工事中につき来年3月まで休館。高井鴻山は、地元の農・豪商でありながら江戸末期一級の文化人。北斎にアトリエを提供し、創作を支えた鴻山に関する資料が展示されているそうだ。
「北斎館」すぐ隣の甘味処「おぶせ庵」と民家の間の空き地に置いてあった天才バカボンの人形が、おもしろい。
●真田邸と松代城(11:05~12:10)
10:55上信越道長野インターを降りて、長野市松代の「真田邸」と「松代城」を見学。
「真田邸」は、9代藩主・幸教(ゆきのり)が、江戸住まいを幕府から帰国を許可された義母・貞松院の住まいとして、1864(元治元)年に建築された。
松代城の城外御殿で、当時は「新御殿」と呼ばれていた。母屋、表門、土蔵、庭園が、江戸末期の御殿建築として貴重な建物であり、松代城とともに国の史跡に指定。紅葉の庭園も見どころ。
隠居後の幸教もここを住まいとし、明治以降には伯爵となった真田氏の私宅となった。1966年(昭和41)年、12代当主の幸治氏により代々の家宝とともに松代町(現長野市)に寄贈された。
「松代城」は、川中島で上杉と戦った武田信玄の拠点だったところで、「海津城」と呼ばれていた。関が原の勝利で功績を上げた初代藩主の真田信之(信幸)が、加増され上田城から移ってから「松代城」に変わる。幕末まで真田氏の松代藩10万石の藩庁だった。
写真は、「松代城」の太鼓門。
明治維新に廃城となるが、近年江戸時代に近い姿で再現されたという。
長野インター近くの「信州そば蔵ドライブイン」で、栗おこわと生そばの昼食(12:20~13:15)。
16時、出発地の駐車場に到着。この日は曇り空だったが、自宅に帰る途中で雨。2日間とも寒くもなく、まずまずの天気の旅行だった。
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蜂の子(ヘボ)はクロスズメバチなどの幼虫だが、他にもミツバチ、アシナガバチなど、全国各地の山間部では幼虫やサナギが食用にされている。古い時代には貴重な蛋白源として常食されたが、近年は珍味として瓶詰や甘露煮、佃煮が販売されている。
蜂の巣を採取するため、「蜂追い」と呼んで目印をつけた蜂を追いかける昔ながらの伝統的な狩猟がある。山間部の村には、蜂追いの愛好家や名人がいたりする。
蜂の巣作りの勤勉さから「蜂は企業の手本なり」というのは、「蜂天国」のオーナー塩澤氏の言葉。氏は、地元で生コンクリート会社などの経営者だそうだ。スズメバチに愛着を持って、蜂の巣づくりがピークを迎える夏から秋には、蜂の巣集めに奔走しているという。特に長野県は、蜂蜜採取のためやミツバチ養蜂、蜂の子を食用とするためスズメバチの飼育や蜂追いなどが盛んな所だが、このような蜂の巣でアート作りをしている人がいたとは驚いた。
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真田といえば「赤備え(あかぞなえ)」が有名。 旗指物(はたさしもの)や、兵士が身につける甲冑(かっちゅう)などの武具を全て朱色に統一した部隊編成は、武田の重臣・飯富虎昌(おぶ とらまさ)が最初に始めたとされている。赤は戦場で目立ち、武田のこの部隊の戦いが強く印象づけられた。やがて「武田の赤備え」といえば、優れた精鋭部隊、最強軍団を意味した。また、当時は朱色の染料が貴重で高価、装備一式を同色に染めることなどは、特別のことだという理由もあった。
信繁(幸村)の父・昌幸が存命中の文禄年間には、真田氏は甲冑と旗指物には赤を使用していた。真田氏の赤備えは、元々仕えていた武田氏から引き継いだものだろう。また、大阪夏の陣の真田信繁の兜は、大きな鹿の角が一対備え付けられ、前方に六文銭が飾られている。雄雄しい鹿の角にあやかって、当時の兜によく使われていた。もっとも信繁の兜は、九度山(和歌山県)で共に幽閉生活を送っていた父から授けられた物だとされている。
大阪夏の陣で、赤備えで編成した真田信繁の部隊は、徳川本陣への攻撃で「日本一の兵(つわもの)」と讃えられた。赤備えは、劣勢の豊臣方につくことへの信繁自身の覚悟を表わし、兵士に赤を与えることで士気を向上させ、さらに精鋭部隊というイメージを敵に与え恐れさせたのに違いない。
六文銭は、「三途の川(さんずのかわ)」を意味している。昔は、亡くなった者は「この世」と「あの世」の間を隔てる三途の川を渡って、あの世へ行くものだと信じられていた。川には渡し船があり、人を葬る際には船賃に困らないよう、六文の銭を副葬品として入れる習慣があった。真田の家紋を六文銭にした由来は、いつ命を落としても悔いが残らぬように六文銭を常に身につけ、命をかけて戦いに挑むという強い意志から来ているそうだ。
しかし「大阪の陣」で豊臣派の真田信繁は、ドラマのように六文銭を実際には使用しなかったとされる。真田家の本流は信繁の兄の信之(信幸)であり、信之は徳川派に属していた。兄に気兼ねしたという理由からだと言われている。
「ものみ・ゆさん」の関連ブログ記事
「信州松代の史跡巡り」 2012/06/20投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-3d01.html
「長野市周辺と白馬の旅」 2016/03/26投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-937b.html
「長野市周辺と白馬の旅-その2」 2016/10/28投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-0d0e.html
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