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2016年10月の6件の投稿

2016年10月31日 (月)

コスモスまつりと秋バラまつり

 2016年10月23日(日)、埼玉県鴻巣市の「コスモス・フェスティバル」と伊奈町の「秋バラまつり」へ行く。

 

 この日は、薄い白い雲が広がる秋の空。荒川河川敷の「吹上コスモス畑」(埼玉県鴻巣市)と「伊奈バラ園」(埼玉県伊奈町)へ。

 8:00、集合場所からから乗用車3台で出発。最初に鴻巣市吹上の「コスモスアリーナふきあげ」に向かう。

 

●吹上コスモス畑(8:50~9:50) 鴻巣市明用

 前日の22日に続き、同じコスモス畑にやって来た。22日(土)と23日(日)の2日間、コスモス・フェスティバルが開催中。朝早めに着いたので、駐車場は空いていた。

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 「コスモスアリーナふきあげ」周辺の荒川河川敷の6.3haの畑に、1,000万本のコスモスが咲き誇る。赤、ピンク、白のほか、珍しい黄色のコスモスもある。近くには日本一長い真っ赤な「荒川水管橋」、天気が良ければ遠くには秩父連山や富士山を見ることができるそうだ。

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 次は国道17号線を南下し、「伊奈バラ園」(埼玉県伊奈町・町制施行記念公園)に向かう。

 
 
●伊奈バラ園(11:10~12:00) 北足立郡伊奈町小針内宿

 昼近くになって、公園の駐車場は混んでいる。

 約1.2ヘクタールのバラ園に、木バラ、つるバラなど300種4800株を超えるバラが植えられている。この日は、「秋バラまつり」が開催されていた。

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 秋バラは、春に比べると花は小さいが、色合いが良く、香りも強くなるそうだ。また気温が低いため花持ちが良ので、春よりも長く花が咲いている。ここは、春のバラ園への入園は有料だが、秋は無料。

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 昼食にうどんを食べるため、国道122号線を北上して埼玉県加須市へ。

 

●加須うどん(12:40~13:20)

 手打ちのそば・うどん処「こぶし」(加須市久下)に入店する。

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 県内B級グルメ・グランプリを受賞した「肉みそうどん」(860円)を注文。

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 2010年(平成22年)11月に開催された「第7回埼玉B級ご当地グルメ王座決定戦」で、「加須市みんなで考えた肉みそうどん」が優勝した。現在、市内10数店舗のうどん店で食べられる。加須の手打ちうどんに肉みそをかけ、温泉卵をのせたもので、かき混ぜて食べる。店によって、肉みその味やトッピングが異なるそうだ。

 この店の「肉みそうどん」は、オリジナルのピリ辛肉みそと温泉たまごが絡み合うおすすめメニュー。一見、暖かいうどんかと思ったが、冷たいもりうどん。肉みそが辛くて、刺激が効いていて美味しい。定番のうどんを超えた、違う麺を食べているようだ。ピリ辛肉みそのジャージャー麺にも似ている。

 食事後、帰路へ。14:10、出発時の集合場所に到着。

 

 「ものみ・ゆさん」の関連ブログ記事

  「荒川コスモス街道」 2016年10月24日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-dfe3.html
 

 

 ★ ★ ★

 香川県の讃岐うどんに次ぎ、意外にも埼玉県はうどんの生産量が全国第2位のうどん県。特に有名な「加須うどん」は、加須市とその周辺地域で生産され食べられている郷土料理。「加須の手打ちうどん」とも呼ばれる。

 この地域は川の氾濫により肥沃な土が運ばれ、小麦に適した土地で、昔から米より小麦の栽培が盛んだった。江戸時代半ばに、加須市にある関東三大不動のひとつ「不動ヶ岡不動尊總願寺」の門前で、うどんを参拝客に振る舞ったのが始まりとされる。

 加須を含む北埼玉地方では、江戸時代末期ころから「青縞織り」という藍染の綿織物が特産品として生まれ、明治中期には加須で定期的に市が開かれていた。関東一円から人が集まるようになると、織物職人や商人等の昼食や土産物として加須うどんが広がったそうだ。また、古くから家庭でも、冠婚葬祭やハレの日は、うどんが作られていた。

 手ごね、足踏みと寝かせの作業を通常の2倍以上行い、包丁で切った後に短い時間棒に掛けて干す。加須の手打うどんの特徴は、コシが強く加水率が高く、ツルツル・シコシコとした口当たりとのど越しの良さだそうだ。

 店では冷たい盛りうどんを、あっさりしたつゆで食べるのが一般的。西日本の人たちには、ちょっと馴染めない。加須市内には、約40のうどん店があるそうだ。

2016年10月30日 (日)

白馬山麓・八方尾根

 2016年10月18日(火)、白馬山麓の八方尾根トレッキング。

 

 前日の長野観光ツアーは、夕方ホテル五龍館に戻り、連泊。

 

 10月18日(火)、5:40起床。外を見ると濃い霧が漂っている。7:00からの朝食の頃は、霧は晴れたが、空には雲が低く広がっている。

 ホテルに不要な荷物を預け、トレッキング希望者12人は、7:45にホテルを出発。ゴンドラの八方駅(標高770m)まで、徒歩で約10分。

 八方駅から「八方池山荘」(第一ケルン)までは、「八方アルペンライン」と呼ばれ、ゴンドラとリフトを利用する。往復乗車券は、大人2,900円。2,610円のリピーター割引券があったが、ホテルに置き忘れてしまった。モンベルカードやJAFカードの提示でも、割引があるようだ。

 下の乗車券の写真は、北アルプスと八方尾根の「八方池」

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 ゴンドラは、8:00から営業。8:10、6人乗りの八方ゴンドラリフトの「アダム」に乗りこむ。

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 ゴンドラは紅葉の中をぐんぐん高度を上げ、アッというまに下界の白馬村は雲の下へ。

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 8分で「兎(うさぎ)平」(標高1440m)に着くと、次は4人乗りのアペンクワッドリフトに乗り継ぐ。

 7分で、「黒菱(くろびし)平」(標高1680m)に着く頃には、霧が出て来た。

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 黒菱平から、更に4人乗りのグラートクワッドリフトに乗り継ぐ。所要時間は5分。霧は出たり消えたり。

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 8:50、リフトを降りると目の前に標高1830mの山小屋「八方池山荘」とトイレあり。右手に少し行くと、標高1820mの「第一ケルン」がある。

 八方池山荘の前から、ゆるやかな坂道を登る。大きい石がゴロゴロした道は歩きにくい。

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 所々に、歩きやすい整備された木道もある。

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 「第二ケルン」が見えて来た。

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 9:40、標高2005mの第二ケルンに到着、ここで5分休憩。

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 目の前に見えるはずの北アルプスの峰々は、雲で全く見えない。

 見上げると、向うに「八方ケルン」が見える。ここから神秘の池といわれる「八方池」までは片道30分、帰りのバスの時間の余裕を見て下山することに。

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 八方池山荘(第一ケルン)から黒菱平を経て、兎平へとリフトで降りる。黒菱平から下は、霧が晴れている。

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 10:45、兎平に到着。見上げると黒菱平は、もう雲に包まれている。右の建物「うさぎ平テラス」に入り、レストランで昼食。

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 兎平には、動物とのふれあいや餌やり、乳製品の手作り体験ができる「天空牧場」があるそうだ。またパラグライダーのテイクオフ(離陸)場にもなっている。

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 うさぎ平テラスに併設された天空の展望台「オープンテラス」から、パラグライダーを見上げ、白馬村を見下ろす。

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 オープンテラスからは、晴れていれば正面に戸隠連峰や浅間山、南に美ヶ原や八ヶ岳連峰が見渡せるという。気持ちよさそうなパラグライダーの飛行や下界のパノラマをしばし眺める。

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 11:30うさぎ平を出て、ゴンドラで八方駅へ下る。

 ホテルまでの帰り道から、紅葉の八方尾根を見上げる。すでに、兎平までも雲が降りて来ていて、紅葉も色あせて見えるのは残念。

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 ホテルの近くの道すがら見えた白馬ジャンプ競技場。

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 12:10、ホテル着。預けた荷物を引き取り、帰りの準備をしてしばらくロビーで休憩。

 13:20、ホテルの送迎バスが出発。13:40発の長野駅東口行きの特急バスで帰る8名は白馬八方バスターミナルへ。

 残りの乗用車組の4名は、特急バス組とホテルで別れる。途中で県道31号線沿い道の駅「おがわ」でお土産に「おやき」(一個150円)を、長野インター前の土産やの「おぎのや」で「峠の釜めし」(1000円)を買って、上信越道から帰路へ。

 

 ★ ★ ★

 「八方尾根」は、白馬連峰の「唐松岳」(2696m)から四方八方に尾根が延びていることから名付けられた。八方池までのトレッキングコースは、百名山11峰が見渡せる絶景スポットが点在。また、黒菱(くろびし)平から上部は中部山岳国立公園に指定され、貴重な高山植物をはじめ特別天然記念物の日本カモシカやライチョウなどの動植物が生息している。

 雨は降らなかったがあいにくの曇り空、素晴らしい北アルプスの眺望が望めなかったこと、限られた時間で八方池まで行けなかったのは、残念だった。

 今年はまだ気温の低下が遅く、急な冷え込みがあまりなかったのか、全国的に紅葉の最盛期が遅れているようだ。志賀高原も八方尾根も紅葉は始まってはいたが、鮮やかな色の、素晴らしい紅葉にはお目にかかれなかった。

 29日の朝日新聞夕刊には、「栃木県日光市の中禅寺湖周辺で紅葉が見頃を迎えている。湖畔ではカエデやナナカマド、カツラなどの木々が赤や黄色に色づき・・・・・。先週末の冷え込みで一気に色づいたという。」という記事と写真があった。日光周辺の紅葉も例年より1、2週間遅れているようだ。

 12日には白馬三山で初冠雪が確認されたが、その後気温が上がってしまったようだ。八方尾根トレッキング翌日の19日、八方尾根の黒菱平で初雪が降ったそうだ。今頃の秋晴れの白馬村で、北アルプスの冠雪の白、山麓の紅葉の赤、針葉樹の緑色の三色が織りなす奇跡の絶景「白馬三段紅葉」が見られるのだろうか。

 

2016年10月28日 (金)

長野市周辺と白馬の旅-その2

 2016年10月16日(日)白馬山麓のホテルに前泊、17日(月)長野市とその周辺の観光ツアーに行く。

 

 16日(日)志賀高原の池めぐりが終わって、志賀高原総合会館98を13:15車で出発。

 国道292号、志賀中野有料道路(100円)、県道29号、上信越道の信州中野IC入り長野ICで出る(510円)。長野市街を通り西の方角へ、国道19号、白馬長野有料道路(210円)を経て県道31号、県道33号を走る。途中、道の駅「おがわ」で休憩。

 

 15:55、白馬八方温泉「ホテル五龍館」に到着。

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 ホテルは、JR白馬駅より北西に車で5分。近くに徒歩10分の八方尾根スキー場や白馬ジャンプ競技場がある。ここは、今年3月にも宿泊したところ。



 ホテルの前から見える北アルプスの「白馬三山(しろうまさんざん)」。左から「白馬鑓ヶ岳(しろうまやりがたけ)」(標高2,903m) 、「杓子岳(しゃくしだけ)」(2,812m) 、「白馬岳(しろうまだけ)」(2,932m)。 12日には、初冠雪があったと聞く。

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 ホテルから見える白馬八方尾根。18日に八方尾根のトレッキングを予定。

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 16:30、白馬ジャンプ競技場へ行って見る。

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 1998年(平成10年)の長野オリンピックで使用されたジャンプ競技場。左はノーマルヒル、右はラージヒル。今年3月には、リフト(往復料金460円)に乗り地上約140mのスタート地点から眺めた白馬村の風景は、素晴らしかった。

 ちょうどジャンプの練習中だった。

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 今日から2泊3日、全国各地から21名が参加して、年に一度のOB会。

 入浴後の17:45~22:00、懇親会と2次会は盛会だった。22:30就寝。

 

 ★ ★ ★

 10月17日(月)、6:00起床。7:00~朝食。8:50、参加者21名は、観光バスでホテル出発。

 中野市でリンゴ狩り、小布施町で「北斎館」の観覧と「栗おこわ」料理の昼食、長野市の信濃美術館、善光寺を貸切バスでめぐる観光ツアー。 

 今日は朝から雨。終日雨の予報であったが、りんご園に着く頃には雨は止む。

 

●小野りんご園」(中野市)でりんご狩り(10:30~11:00)

 料金500円で、直接木からもぎ取って食べ放題。1個はお持ち帰りできる。

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 シナノスイートは、甘くてシャキシャキの人気品種。下の写真はふじ。

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●「北斎館」(小布施町)に入館(11:45~12:30)。入館料1,000円。

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 江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎の肉筆画を紹介。北斎の生涯と小布施ゆかりの作品が展示されている。

 写真は、北斎館のパンフの表紙。北斎が描いた天井絵のある祭り屋台。

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  1976年(昭和51年)以来、開館40周年を記念して特別展「氏家コレクション-肉筆浮世絵の美」が開催中。故氏家武雄氏が蒐集した作品の中から、北斎をはじめ菱川師宣、喜多川歌麿、歌川広重などの傑作50点を展示してある。

 氏家コレクションの展示室。

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 北斎の肉筆画展示室。

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 北斎は『富嶽三十六景』の浮世絵版画で有名だが、肉筆画をこんなに多く描いているとは知らなかった。肉筆浮世絵は版画浮世絵よりも、精密で色も鮮やか、絵師の力量が問われるという。また版画と違い、肉筆画は一品制作である。

 祭り屋台展示室には、長野県宝に指定された2基の祭屋台が展示。

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 小布施町の東町祭屋台には北斎筆の『龍と鳳凰』、上町祭り屋台には、男波・女波と呼ばれる『怒濤』の二枚の天井絵がある。

 

 北斎館を出て、小布施のまち歩き。

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●おぶせの里「いなか家」(小布施町)で昼食(12:45~13:20)。

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 無病息災を願って、六つの皿の「六皿息災料理」。器の配置は、信州の武将・真田幸村の家紋「六文銭」にあやかっているそうだ。左下の黒い器は、「栗おこわ」。栗は小布施の名産。右下は、きのこ汁。

 

●信濃美術館「東山魁夷館」(長野市)に入館(14:20~15:15)。入館料500円。

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  東山魁夷の本名は、東山新吉。1908年(明治41年)横浜に生まれ、3歳で神戸に転居。第二神戸中学から東京美術学校日本画科を卒業。昭和を代表する日本画家の一人で、文化勲章受章。1999年(平成11年)没。

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 御射鹿池(みしゃかいけ)という溜め池が、長野県茅野市にある。東山魁夷の1972年(昭和47年)の作品「緑響く」のモチーフとして有名な池である。今でも、多くのアマチュア写真家が、この溜め池の前に三脚を並べる。東山魁夷の絵画に、影響を受けたという写真家は少なくはない。

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 日展への出品作など代表作の多くを、東京国立近代美術館と長野県に寄贈。長野県は、信濃美術館に「東山魁夷館」を1990年(平成2年)に増設し、常設展示している。

 東山魁夷は、「信州の豊かな自然を描くことが多く、風景画家として一筋の道を歩いてきた。私の作品を育ててくれた故郷とも言える長野県にお願いした。」と寄贈の理由を述べている。

 その他にも、魁夷ゆかりの地の「兵庫県立美術館」、「香川県立東山魁夷せとうち美術館」、市川市立「東山魁夷記念館」、「東山魁夷 心の旅路館」(岐阜県中津川市)にも作品が寄贈されている。

 本館の「信濃美術館」の方は、月曜日は休館だった。

 

 
●「善光寺」(長野市)参り(15:20~16:30)。

 善光寺は、信濃美術館からすぐ近く。仲見世の土産や「丸八たきや」の駐車場(本堂西側)にバスを駐め、お店のガイドの案内で、歴代の「回向柱(えこうばしら)納所」、工事中の「経蔵(きょうぞう)」、「本坊大勧進」を見て、「山門」へ。

 重要文化財の「山門(三門)」は、二層入母屋造り。

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 1750年(寛延3年)に完成。2007年(平成19年)に修復工事がなされ、檜皮葺き(ひわだぶき)になっていた屋根が、創建当初の栩葺き(とちぶき)に改められた。

 楼上に掲げられている「善光寺」と書かれた額は、通称「鳩字の額」と呼ばれ、3文字の中に鳩が5羽隠されている。また「善」の一字が牛の顔に見え、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を物語っているという。山門の内部が公開されていて、500円で2階まで上がれる。

 本堂は、江戸時代中期を代表する仏教建築として、国宝に指定。

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 本堂は、創建以来10数回焼失したが、その都度全国の信徒からの浄財で復興した。現在の本堂は、1707年(宝永4年)の再建。国内有数の規模の木造建築で、T字型の棟の形から「撞木(しゅもく)造り」と呼ばれる。屋根は、総檜皮葺き(ひわだぶき)。

 「戒壇巡り」が500円で体験できる。本堂の床下の真っ暗な通路を通り、本尊の阿弥陀如来が安置されている「瑠璃壇」という小部屋の真下にある錠前に触れると、死後に極楽浄土へ行けるとされる。

 参道の仲見世に向かう。

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 善光寺の入口となる「仁王門」には、善光寺の山号である「定額山」の額が掲げられている。

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 仁王門は、1752年(宝暦2年)に建立されたが二度焼失、現在のものは1918年(大正7年)に再建。仁王像と背後の三宝荒神・三面大黒天は、ともに高村光雲と米原雲海の作。

 

 この日は朝から雨で心配したが、現地に着く頃には雨も止んだ。寒くもなく、午後からは晴れ間もあり、予定のツアーは無事終了した。

 予定の30分遅れで、17:45「ホテル五龍館」着。

 18:00~20:00、二度目の懇親会。入浴後、21:00~23:00二次会。23:30就寝。

 

 

 「ものみ・ゆさん」の関連ブログ記事

  「信州松代の史跡巡り」 2012/06/20投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-3d01.html

  「長野市周辺と白馬の旅」 2016/03/26投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-937b.html


  「志賀高原の池めぐり」 2016年10月26日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-ad52.html

 

 ★ ★ ★

 「北斎館」がなぜ小布施町にあるのか、北斎が小布施の出身かと思っていたら違っていた。

 北斎は、1760年(宝暦10年)、江戸・本所(現在の墨田区)で生まれた百姓の子であった。幼い時に幕府御用達の鏡磨師であった中島伊勢の養子となったが、のちに実子に家督を譲り家を出る。貸本屋の丁稚や木版彫刻師の徒弟となって苦労を重ね、実家へ戻る。この時、貸本の絵に関心を持ち、画家の道を志す。

 1778年(安永7年) の18歳の頃、浮世絵師・勝川春章の門下となったが、1794年(寛政6年)破門される。狩野派、土佐派、琳派(りんぱ)、洋風画など和漢洋の画法を取得し、司馬江漢などの洋風銅版画にも関心を寄せるなど、貧しくて破天荒な修業生活を送る。

 若い時から意欲的で何でも描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出していた。奇行が多く、逸話も多い。また改号や転居が頻繁で、春朗・宗理・可候・北斎・画狂人など30以上の号を用い、転居は生涯で90回を超えた。

 『北斎漫画』と『富嶽三十六景』は、北斎の名を後に世界中に広めることとなった代表的な作品。『北斎漫画』は、絵手本として発行したスケッチ画集。1814年(文化11年)北斎が55歳の時に初編を手掛けた以降、その人気は北斎が亡くなっても衰えることなかった。

 『富嶽三十六景』は、1831年(天保2年)~1833年(天保4年)頃にかけて刊行された46枚シリーズの風景画・浮世絵。北斎の絵師としての地位は、この作品により不動のものとなり、風景画に新しい分野を切り開いた。その頃の北斎の年齢は、すでに72歳~74歳。修業を始めてから、50年が過ぎた頃であった。 

 

 信州・小布施村で酒造業を主とした豪農商の高井鴻山は、陽明学などの学問にも通じ、多くの文人とも交流があった江戸時代末期の一流文化人であった。江戸での遊学の折、北斎と知り合いその門下となった。この縁によって、数年後の1842年(天保13年)秋、旅の道すがら83歳の北斎が、小布施の鴻山屋敷を訪れた。鴻山は感激し、自邸に一間のアトリエを新築し、北斎を厚遇した。

 当時の小布施は、千曲川を利用した舟輸送により北信濃の商業・交易の中心として繁栄していた。北斎や一茶をはじめ、文人を引きつける魅力のある町だった。北斎の当地への訪問は4度にわたり、滞在中は鴻山の全面的な援助のもとで、肉筆画の独自の画境に没頭した。このとき描かれたものが、小布施の町の祭り屋台の天井絵であり、曹洞宗・岩松院の天井絵である。1849年(嘉永2年)、北斎は卒寿(90歳)で没する。 

 

 小布施町内には「北斎館」をはじめ、12の美術館・博物館がある。小布施町は、歴史的町並の修景事業が行い、上信越道の須坂長野東IC開通、北陸(長野)新幹線の開業などに伴い、北信濃の人気観光スポットとなった。

 長野県内には多くの美術館・博物館があり、その数は東京都に次ぐともいわれている。その中でも長野県信濃美術館は、県立の美術館として半世紀の歴史を刻んでいる。 

 

 「牛に引かれて善光寺参り」で有名な「善光寺」は、無宗派の単立寺院で、檀家も持っていない。全国各地の信者の浄財で支えられていて、年間600万人以上の参拝者が来るそうだ。住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。現在、セクハラ疑惑騒ぎで信徒から辞任を要求されている住職は、「大勧進貫主」の方である。

 日本最古と伝わる「一光三尊阿弥陀如来」を本尊とし、御開帳が行われる7年に一度、丑年と未年に多くの参拝者が訪れる。御開帳は、秘仏の本尊の身代わりとして、まったく同じ姿の「前立本尊」を本堂に移してお参りするという儀式。本堂の前には、45cm角で高さ10mもある杉材の新しい「回向柱」(えこうばしら)が建つ。直近では、2015年4月5日~5月31日の間、御開帳が開催された。

 善光寺の建立の詳細は不明とされているが、奈良後期から平安前期にはかなりの規模の大寺院だった。江戸時代には、「一生に一度は善光寺詣り」と言われていた。

2016年10月26日 (水)

志賀高原の池めぐり

 2016年10月16日(日)、志賀高原の池めぐりハイキング。

 

 

 

 15日(土)、JR長野駅善光寺口前の長野第一ホテルに前泊。すぐ近くの駐車場に車を駐める。

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 16日(日)、5:30起床。7:00~ホテルでは信州そばといなり寿司2個というユニークな朝食。

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 7:10、自家用車で志賀高原に向け出発。

 上信越道(須坂長野東IC~信州中野IC、330円)、県道29号、志賀中野有料道路(100円)を経て、国道292号へ。

 うっかり目的地を通り過ぎて時間をロスしてしまい、予定より20分遅れの8:35「志賀高原総合会館98」に到着。

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 総合会館98は、1998年長野冬季オリンピックの年に開館した複合公共施設。世界的な音楽指揮者・小澤征爾氏の監修のもとで完成した音楽ホールがあり、またスポーツ合宿、学習合宿やシンポジウムなどにも利用されている。総合会館98の駐車場に車を駐める。

 道を挟んで、旧ロープウェイ駅だった観光施設「志賀高原ゲートウェイステーション」( 山の駅)の前にバス停がある。すぐそばには、睡蓮が浮かぶ「蓮池」。向うの山々は、「鉢山」か「志賀山」か、確認できない。

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 この湖畔は、紅葉の美しいスポットだが、まだ時期が早いようだ。

 湯田中温泉の駅前からやって来た渋峠行きの長野電鉄バスは、3分遅れで到着。8:40、何とか予定のバスにギリギリ間に合った。 硯川(ほたる温泉)バス停で、9:00下車(運賃400円)。ここは、標高1695m。

 ここからは、前山サマーリフト(所要時間5分、片道400円)に乗る。

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 眼下には熊の湯・硯川のホテル群、正面には特徴のある尖った形の「笠ヶ岳」 (標高2075m)。

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 9:10、リフトを降りると、「前山」の山頂。標1810mの山頂は、風もあってか肌寒い。

 遊歩道の両側に「前山湿原」が広がる。やがて浮島のある「渋池」へ。池周辺や浮島にはモウセンゴケが多く生育している。この標高でのハイマツは珍しく、氷河時代の名残とされえいる。池の向うは、志賀高原で二番目に高い「横手山」(標高2,305m)。

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 針葉樹林の森を進み、9:35分岐に着く。左は「志賀山」(標高2036m)と「裏志賀山」(2040m)の登山コース。分岐を右へ、直接「四十八池湿原」へ向かう。

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 森が突然開け、尾瀬ヶ原のような高層湿原の「四十八池湿原」が現れる。

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 9:55、湿原の前のベンチ付きの東屋に到着、10分ほど休憩。

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 湿原は、志賀山と火口 湖のある鉢山(標高2041m)に囲まれた標高1890mの所にあり、面積3.8ヘクタール。この中に60余りの池沼がある。向うに見える山が、志賀山と裏志賀山。春・夏には、ミズバショウ、ヒメシャクナゲ、ミズギク、ワタスゲなどの花が咲くが、この時期は草もみじ。

 5分ほど歩くと、「志賀山神社」の額のある鳥居。志賀山の登山コースの出口。

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 眼下に「大沼池」が見えて来た。エメラルドグリーンの色の青さに息を飲む。この先は、きつい下り坂は長い。

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 山道が平坦になって、大沼池のレストハウスが見えて来た。

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 10:55、レストハウス「エメラルド大沼」着、ここは標高1730m。

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 大沼池は火山のせき止め湖で、 周囲5.5km。志賀高原で最も大きな湖。

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 火山性の強酸性池で、魚や水草は生息していない。畔で見ると、意外と透明度が高い。正面の山は志賀山。

 20分後に出発、池の周囲に沿って歩く。大沼池はの色は、見る場所、角度や天候で微妙に変わる。

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 11:30、大沼池の出口「池尻」に到着。この池を農業用水の溜め池として使用しているのか、堤が築いてある。

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 「吉田桜山翁碑 大正十三年修築 八ヶ郷耕地整理組合」と読める大きな石碑が建つ。大沼池を下流の村々のために、1924年(大正13年)堤の修築に尽力されたのだろうか、詳細は不明。強酸性の水は、農業用水に使えるのだろうか、気になる。

 

 この先は、林道となって緩やかに下る。大沼池入口バス停から、大沼池へに登って来る人達とすれ違う。

 12:00、分岐あり。林道に沿って直進すると清水口バス停へ(約1.2Km、約20分)。右の小道は、「逆池」を経由して清水口バス停へ(約1.7Km、約30分)とある。

 どちらにしても同じ場所に至るが、右手の山道の方が近道のようだ。「清水口バス停」がどこのことか分からなかったが、後で「大沼池入口バス停」と同じだと知る。全く紛らわしい道標だ。「逆池」を経由する山道を選ぶ。

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 狭くて急坂の山道をひたすら下る。道の左手に見えるはずの「逆池」がなかなか出て来ない。分岐から15分後、やっと道の谷側の樹間に大きな水たまりのような池が見えたが、これが「逆池」だったのだろうか。

  

 分岐から20分後、更に清水口バス停へ(約0.2Km、約5分)と清水名水公園(約0.1Km、約2分)の分岐に出る。
 
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 とりあえず舗装された道路を歩いて、「清水口バス停」へ行って見る。このバス停は駐車場やトイレもあり、屋根付の「大沼池入口バス停」のことだった。次の蓮池行きへのバスは、この時間帯は本数が少なくて、次の出発まで1時間以上もある。

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 少しここでブラブラして時間つぶしをしていたが、清水公園へ行ってみることに。12:50、公園らしきところに「志賀高原清水公園、志賀の源水、標高一、五五〇メートル」の木柱が建っている。

 公園といっても、道路沿いの斜面から清水が流れ、ベンチがあるだけの小さな公園。大きなポリタンクを持った地元の人だろうか、「水道水より美味しいので・・・」と言って、清水を汲んでいた。ここで休憩、昼食。

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 大沼池入口バス停に戻り、13:15発の蓮池行きの長野電鉄バスに乗車。総合会館98バス停には停車しないので、手前の蓮池バス停で下車(220円)。

 ここからは総合会館98バス停までの300mほど歩き、13:25に着く。「志賀高原ゲートウェイステーション」( 山の駅)の前から見る蓮池は、朝見た景色とは違った顔をしていた。

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 総合会館98の駐車場から、13:45に車で出発。次の目的地・長野県白馬村のホテル五龍館へ向かう。

 

 往路と逆順に、国道292号、志賀中野有料道路(100円)、県道29号、上信越道に信州中野IC入り長野ICで降りる(510円)。

 長野市街を通り、西の方角へ国道19号、白馬長野有料道路(210円)、県道31号を経て、道の駅「おがわ」で休憩。更に県道33号を通って、15:55ホテル五龍館に到着。所要時間は休憩を入れて、約2時間10分だった。

 

 ★ ★ ★

 志賀高原では、大沼池の古くからの「大蛇伝説」にちなんで、毎年8月下旬の3日間に渡り「大蛇祭り」が行われている。祭りのメイン会場は、蓮池と総合会館98周辺。大沼池の水神前で「入魂祭」、大蛇を小舟に乗せて湖上渡り、花火大会、お練り行列、大蛇のお嫁さんを選ぶ「ミス志賀高原コンテスト」など、各種イベントが行われるそうだ。

 大蛇伝説とは、信濃中野(現在の中野市)を拠点とした戦国武将・高梨政盛の美しい娘・黒姫に恋した大沼池の大蛇が、小姓に化けて近づくが正体を知れてしまう。怒った大蛇は暴風雨で村に大洪水を起こす。悲しんだ黒姫は大沼池に身を投じ、大蛇を鎮めたという悲話。

 そういえばNHK大河ドラマ『真田丸』に、後世の高梨家が登場する。真田家の重臣・高梨内記(配役:中原丈雄)は、昌幸(草刈正雄)の側近として真田家を支えて、高野山幽閉や大坂の陣にも従う。内記の娘・きり(長澤まさみ)は、信繁(堺雅人)の生涯のパートナー(史実では側室か?)。幼馴染時から大坂の陣まで、波乱の信繁の人生に寄り添う。

 

 「志賀高原」は、「ユネスコエコパーク」(生物圏保存地域)に指定されている。ユネスコエコパークは、1976(昭和51)年から実施されている。地域の豊かな生態系や生物多様性を保全し、自然に学ぶと共に、文化的にも経済・社会的にも持続可能な発展を目指す取り組みである。

 「世界自然遺産」が、自然地域を保護・保全するのが目的であるのに対し、「ユネスコエコパーク」は、生態系の保全と持続的な利活用の調和を目的としており、自然と人間社会の共生に重点が置かれているという。

 現在、ユネスコエコパークの登録件数は世界120か国で669件(2016年3月現在)、日本の登録件数は、次の7件である。

 志賀高原、白山、大台ケ原・大峯山、屋久島、綾、只見、南アルプス。

 志賀高原エコパークは、1980年(昭和55年)に登録された。志賀山を中心とした大沼池や四十八池湿原を含む約1,000haは、長期的に保護を図っていくため「核心地域」と定め、それを囲むエリアを環境教育や学習、エコツーリズムなど自然環境の保全を優先しながら利用する「緩衝地域」としている。

2016年10月24日 (月)

荒川コスモス街道

 2016年10月22日(土)、埼玉県鴻巣市の「荒川コスモス街道」を歩く。

 

 写真は、荒川水管橋見学会でもらったカード。

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 この時期の荒川コスモス街道は、800万本とか1千万本という鮮やかなコスモスが見頃だ。この日はどんよりとした曇り空だが、天気予報の通り終日雨は降らなかった。

 JR高崎線吹上駅の南口付近に車を停め、10:45ウォーキング開始。

 吹上小学校、富士電機工場のそばを通り、西の方角へ住宅街を抜け荒川堤防に向かって歩く。

 11:10、途中の道路わきに「中山道 榎戸(えのきど)村」の石柱が立つ。

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 石柱の裏面には、次のような説明が刻まれている。

- ここは旧榎戸村の上方。村は中山道に面して東西五丁南北六丁余の小村だが、江戸以来、吹上、大芦村から糠田村に至る八ケ村へ田用水を供給する元荒川の「榎戸堰(えのきどせき)」があり、風光明媚な所として知られた。 -
 

 すぐ近くには、「榎戸堰公園」という小さな公園があり。その横には、元荒川の流れを調節するコンクリート製の現在の榎戸堰。元荒川はその昔、荒川と利根川が合流していた時代の荒川の本流であった。

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 榎戸堰公園の積上げられた石山の上に、立派な「代田仙三郎翁顕彰の碑」が建つ。

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 レリーフの人物は、この村の名主で1899年(明治32年)から第2代吹上村長を務めた代田仙三郎翁。翁は、村長時代に関係の村々や県を説得し、元荒川の治水・堰堤工事などの公共事業に奔走した。難工事のために費用は予算を遥かに超過したが、私財を投じて完成させたという郷土の名士。

 下流の田畑に用水を供給した榎戸堰は木造だったが、レンガと石材で近代的な用水堰に造り替えられた。村々は毎年くり返された修復普請の苦労から解放され、安定した用水を得られるようになったという。

 この堰から下流へ桜並木が続き、今は鴻巣市の桜の名所となっているそうだ。

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 11:15、荊原(ばらはら)地区にある荒川堤への上り口、吹上宿から熊谷宿に向かう中山道沿いに地蔵堂と二宮尊徳の石像がある。

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 地蔵堂の横に、市教育委員会の「権八地蔵とその物語」と題する説明板がある。「権八地蔵」は、この地蔵堂に安置される石地蔵で、「権八延命地蔵」とか「物言い地蔵」などともいう。

 鳥取藩士の平井権八は、同僚を殺害したため脱藩して江戸へ向かった。途中で金がなくなった権八は、この辺りで通りすがりの上州の生糸商人を辻斬りして300両を強奪。傍に立っていたこの地蔵に賽銭をあげ、「今の事は他言してくれるな」と手を合わせた。地蔵は、「わしも言わぬが、おぬしも言うな。」と口をきいたという伝説がある。

 平井権八は歌舞伎の演目『鈴ヶ森』の登場人物・白井権八にあたるそうだ。史実の平井権八は、1679年(延宝7年)鈴ヶ森刑場(品川区大井)で磔(はりつけ)の刑に処されている。なお地蔵堂の隣に、なぜ二宮尊徳像があるのかわからない。

 

 11:20、ここから舗装された荒川堤防の上を、南に向かって歩き始める。時折、サイクリング車が追い抜いて行く。

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 辺りの空には、パラグライダーが飛び交っている。どこかでエンジン音がする。山の上からフライトするのとは異なり、エンジンを背負ってプロペラの推力で平地から離着陸できるという「モーターパラグライダー」だ。(写真をクリックすると拡大表示)

 11:35、「荒川パノラマ公園」に着き、10分ほど休憩。ローラー滑り台付きの地上18mの展望台がある。

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 11:50、県道66号線(行田東松山線)が通る「大芦(おおあし)橋」の下をくぐる。

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 日本で一番長い、荒川に架かる美しい水道橋「荒川水管橋」が近づいてきた。

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 県企業局では県営水道を知ってもらうために、普段は立ち入ることができない荒川水管橋を実際に渡る見学会を、「コスモス・フェスティバル」に合わせて初めて開催。

 水管橋を歩く見学者が見える。

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 12:00、水管橋の下を通過。

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 水管橋の下にテントがあって、見学の受付をしていた。予約制のため、キャンセル待ちをエントリーして、先に進む。


 12:25、「コスモス・フェッティバル」荒川堤の会場に到着。

 22日(土)・23日(日)の2日間は、「コスモス・フェスティバル」が開催されている。「コスモスアリーナふきあげ」(旧吹上町民体育館)の前に屋台が並び、大勢の客で混雑している。歌や踊りなどのイベントが行われていて、指定場所でのコスモスの摘み取りもできるとそうだ。

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 堤防から河川敷に降りると、6.3ヘクタールの「吹上コスモス畑」が広がる。荒川水管橋を背景に、色とりどりのコスモスを鑑賞。

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 ピンクや白のほか、黄色いコスモス(イエローキャンパス)畑の一角がある。

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 12:45、堤防の斜面でコスモスを見ながら昼食。

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 今年は、台風10号の影響で河川敷が冠水したため、コスモスの生育が悪いそうだ。

 

 13:30フェスティバル会場を出て、水管橋に戻る。運良くのキャンセルがあって、水管橋を渡ることができる。

 見学コースが二つあって、「2Kmコース」は水管橋の端まで行って帰って来る往復40分のコース。途中までで帰って来る、往復20分の「400mコース」に参加することに。

 14:00ヘルメットと軍手を装着して、5、6階建てビルの高さにある2本の送水管(直径1.2m)に並行したメンテナンス用通路まで階段を上る。

 案内の職員の後を追って、一人分の幅しかない通路をゆっくりと歩く。

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 水管橋から左手を見ると、河川敷には遠くにコスモス畑、左手の建物(体育館)の前がフェスティバル会場。手前の芝生は、グランドゴルフ場。

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 右下の河川敷には、サッカー場。

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 終了後、おみやげに記念カードと「埼玉県のおいしい水道水」のペットボトルをいただく。

 

 この荒川水管橋は全長1.1Kmと日本一の長さを誇る水道用水の供給のための施設。1984年(昭和59年)に荒川に架けられた。埼玉県企業局が管理。

 利根大堰で取水された水はいったん行田浄水場へ送られ、そこで水道水へと生まれ変わる。浄水場からは地下パイプを経由して、荒川水管橋まで送水されている。利根川の水が荒川の上を越えて、県の西部地域の水道事業者(市や町)へと供給されるのだ。

 

 更に荒川堤防を日枝神社の小谷(こや)地区までコスモス街道は続くが、水管橋の見学で時間を費やしたため、ショートカットして吹上駅に向かうことに。

 14:30、水管橋を出て、北東方向に伸びる田園地帯と住宅街の中のまっすぐな道を歩く。

 14:50、吹上駅前着。この日の歩程16,000歩、約9.6Kmのウォーキングだった。

 

 

 ★ ★ ★                           

 「荒川コスモス街道」は、かつて埼玉県北足立郡の吹上町にあったが、2005年(平成17年)に川里町とともに町は鴻巣市に編入され、市域の一部になった。

 街道には春には菜の花やポピー、秋にはコスモスが咲き誇り、ウォーキングやサイクリングのコースとして利用されている。1985年(昭和60年)に吹上町の誕生30周年を記念して、荒川堤防沿いやコスモスアリーナ周辺の花畑に地元の人達がコスモスの手入れを始めたという。

 荒川コスモス街道の全長は、荊原(ばらはら)地区から小谷(こや)までの約3.1Km。吹上駅を起点・終点にすると、徒歩で約11Km、約3時間。

 ネットで写真を見ると、コスモスアリーナ前の河川敷だけでなく、堤防に沿って大芦橋や水管橋のたもと等にもコスモスが咲いている。以前この街道を歩いた人からも、堤防にもっと咲いていたと聞く。

 今回歩いてみて、なぜ堤防沿いに咲いてないのだろうか、花の手入れを止めたのだろうか。疑問が残る。

2016年10月 3日 (月)

映画「シン・ゴジラ」

 2016年9月30日(金)、映画『シン・ゴジラ』を観る。

 

 第1作の『ゴジラ』が1954年(昭和29年)に公開されてから、もう60年余りが経つ。『シン・ゴジラ』は、東宝製作のゴジラシリーズの第29作目。海外作品を除き、2004年(平成16年)公開の『ゴジラ FINAL WARS』以来、実に12年ぶり。

 総監督・脚本は庵野秀明、監督・特技監督は樋口真嗣。主演は、長谷川博己。

 2016年(平成28年)7月29日に公開され、この夏の大ヒット作。すでに公開から2ヶ月を過ぎたが、近隣の劇場では10月初旬には上映終了となるようだ。

 「シン」という言葉には、「新」しい、「真」の、「神」のゴジラという複数の意味があるそうだ。

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 メインキャスト。左から石原さとみ、長谷川博己、竹野内豊。(『シン・ゴジラ』パンフレットから転載。)

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 【ネタバレあらすじ】

 東京湾で大量の水蒸気が噴出、海底を通る東京湾アクアラインではトンネル崩落事故が発生。総理官邸では原因究明の会議が開かれ、総理大臣(大杉漣)、内閣官房長官(柄本明)、総理大臣補佐官(竹野内豊)らは、海底火山か海底熱水噴出との見解に傾く。内閣官房副長官の矢口(長谷川博己)は、ネット情報などから巨大生物の存在を示唆するが、取り合ってもらえない。

 間もなくテレビの生中継で、海面に現れた巨大生物の尻尾が映される。総理は、巨大生物は上陸することはないと、一方的な情報を国民に伝える。しかし、多摩川河口から船や橋を破壊しながら、巨大生物は大田区蒲田に上陸、品川方面に向かう。人々は大パニックに陥り、逃げ惑う。

 政府では自衛隊に対して、災害派遣か防衛出動か、武力使用について議論。結局総理は、自衛隊初の防衛出動の決断を下す。攻撃ヘリが現場に到着するが、逃げ遅れた住民が発見され攻撃は中止。巨大生物は突然進行を止め、京浜運河から東京湾へと姿を消す。被害地域では多数の死者・行方不明者を出し、微量の放射線量の増加が確認された。

 巨大生物の再襲来に備え、矢口を事務局長とした「巨大不明生物特設災害対策本部」が設置される。米国から大統領特使カヨコ・アン・パタースン(石原ひとみ)が極秘に来日、矢口に接触する。太古から生き延びた生物が海洋投棄された放射性廃棄物を食べて進化したこと、米エネルギー省ではコードネームを「ゴジラ (Godzilla)」と名付けていること等の情報が矢口に提供される。矢口は、各分野のスペシャリストを招集し、特別チームを作る。

 特別チームは、ゴジラが原子炉のような体内器官を有し、それによってエネルギーを得て生じる熱は血液循環によって背びれから放熱していると推測。血液循環を止めれば、ゴジラは生命維持のため体内原子炉を停止、急速冷却を行い活動停止するはずと結論づける。そして、血液凝固剤投与によってゴジラを凍結させる矢口プランが発案された。

 ゴジラは鎌倉に再上陸、横浜・川崎を抜けて都内へ向け歩行する。自衛隊は、ゴジラの都内進入阻止のため、攻撃ヘリ、戦車、ロケット弾、戦闘機による実力行使を行う。

 (写真は、ゴジラを攻撃するヘリ。東宝の予告編動画から切り取り)

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 しかし全く歯が立たず、自衛隊の作戦は失敗に終わる。

 政府は日米安保条約に基づき、米国に支援を要請。港区に進撃してきたゴジラに、米爆撃機は大型貫通爆弾を投下して傷を負わせる。しかし、ゴジラは口から火炎や熱線を吐きビル街を焼き尽くし、背中からは幾筋もの熱線を空に放射して爆撃機を撃墜した。

 官邸から避難する総理大臣ほか閣僚たちが乗ったヘリコプターも熱線を浴び、全員死亡。やがてゴジラは、東京駅構内でエネルギーが切れたのか、突然活動を停止。政府機能は立川に移転、総理大臣臨時代理(平泉成)が指名され、矢口はゴジラ対策担当大臣に任命される。

 (写真は、熱線を放射するゴジラ。『シンゴジラ』パンフレットから転載。)

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 ゴジラの組織片の分析から、無生殖によりネズミ算式に増殖、更に進化により小型化し、飛翔能力を得て大陸間を超えて拡散する可能性が出て来た。ロシア・中国は、米国だけでなく国連でゴジラを退治すべきと主張。安保理で核攻撃が決議され、都民360万人の避難が始まる。チームは、日本への3度目となる核使用を避けるため、矢口プランによるゴジラ凍結を提案、避難の間にその準備を進める。

 国連軍の核攻撃開始が間近に迫る中、矢口プランは「ヤシオリ作戦」という日米共同作戦が開始される。爆弾搭載の新幹線を無人運転でゴジラに衝突させ、米軍の無人飛行機による攻撃でゴジラのエネルギーを消費させる。周囲の高層ビルをゴジラに向け爆破・倒壊させて、ゴジラが転倒。そこに数台のコンクリートポンプ車が近づき、ポンプ車のアームから血液凝固剤をゴジラの口に注入、ゴジラの凍結に成功する。日本は救われた。

 放射能汚染も短期間で消え、東京復興の希望も見えてきた。しかし、万一凍結したゴジラが復活した場合には、核攻撃の秒読みが再開される。東京駅脇に凍りついたままのゴジラが立ちつくす。

 ラストシーンでは、ゴジラの尻尾の骨が露わになった先端がアップになって、人の形をした複数の生命体が取り付いていた・・・。筆者はこのシーンを良く確認できなかったが、これは何を暗示しているのであろうか。

 

 ★ ★ ★

 初代のゴジラは特撮映画と言って、人間がゴジラの着ぐるみ入って、ミニチュアの都市の中で暴れ回っていたが、現在はフルCG(コンピュータ・グラフィックス)で製作されている。シン・ゴジラのスタイルは、初代にかなり似せているが、黒い溶岩のような皮膚の間から、赤い筋肉のような、灼熱のマグマのようなものが見えて、気持ち悪くて怖い。エンディングロールでは、伊福部昭(いふくべあきら)作曲の初代『ゴジラ』のテーマ曲が流れた。

 初代映画は、戦後の水爆実験に対するアンチテーゼであった。今回のゴジラは、3.11の東日本大震災、それに伴う福島原発事故が意識されているようだ。

 1954年公開の初代『ゴジラ』のワンシーン(出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 実力や人気のある俳優・女優など、300名を超えるという豪華なキャストにびっくり。有名なのにチョイ役だったり、セリフがほとんどない出演者も多い。防衛大臣が女性(余貴美子)という設定は、現実の小池元防衛大臣を意識したのか、意外だった。元AKBの前田敦子は、避難民の役だったようだが、どの場面にいたのか気がつかなかった。

 狂言師の野村萬斎が、ゴジラ役を演じている。といってもぬいぐるみを着ているわけではない。萬斎の動きを、デジタル的に記録するモーションキャプチャーが使用され、フルCGで作成したゴジラに反映させている。すばしっこいティラノサウルスのような恐竜でなく、神の化身か、重厚な怪獣のようなシン・ゴジラの動きを、狂言や能の所作で表現したそうだ。
 
 

 ★ ★ ★

 『週刊朝日』9月6日号の連載コラム「田原総一朗のギロン堂」に、氏は「政治映画である『シン・ゴジラ』が映し出す日本政治の現実」というテーマで論じている。確かに本作を観ると、政治家や官僚、学者、そして自衛隊のリアリティが追及されている。

 この映画が単なるSF映画、怪獣映画や娯楽映画でなく、フィクションの巨大生物をテーマとしながら、大臣や官僚の無責任な言動、中途半端な会議、総理官邸の機能喪失、外交関係などの描き方は、残念ながら現実味を帯びていて興味深い。

 

 政界の軍事通で知られる前地方創生担当大臣、元防衛大臣の石破茂氏が、自身のオフィシャル・ブログ8月19日と8月26日付の記事で、劇中の自衛隊の防衛出動について、異を唱えている。

 「ゴジラに対する自衛隊の防衛出動は、理解できない」、「害獣駆除として災害派遣で対処するのが法的には妥当」とし、「災害派遣でも武器の使用も武力の行使も出来る」と論じている。また「このような極限事例について考えることは、一般的な法律の思考回路を錬成する意味において、有意義なものだと思っています。」とも述べている。このブログ記事は各方面で話題になり、多くのマスコミにも反響があった。

 『週刊朝日』9月9日号には、「シン・ゴジラに学ぶ日本の危機管理」の見出しで、石破氏がこのプログに関して取材を受け、危機管理の持論を述べている。この映画から受けた教訓はという質問に、「あらゆるリスクを考えて、政策を進めないといけない。」と答えている。

 

 ★ ★ ★

 民衆がパニックになって逃げ惑うシーンは、これまでのゴジラ映画に付きものであるが、スマホで写真を撮ったり、SNSで情報が飛び交う所は目新しい。

 解決のために奔走するのは、もちろん主役の矢口内閣官房副長官であるが、決して個人プレーではなくチームプレーである。ヒーローが一人で活躍するアメリカ映画とは違って、ここが日本人らしいというか、日本映画らしい。しかし、霞が関や永田町のエリート集団が中心で、民間人や庶民がほとんど登場してないのは残念。

 牧悟郎という変わり者の日本人学者が、渡米して巨大生物ゴジラを研究していた。日本に帰って、海で行方不明になった。牧が残した謎の暗号化資料が、米国大統領特使カヨコから日本側に提供され、その暗号を特別チームが解読する・・・という話は、どうも分かりにくい。ストーリーの中に、この話は無くても良いような気がする。
 

 フィクションといえ、映画の背景には有事における安全保障や危機管理の問題との見方がある。日本の存亡というナショナリズムを煽って、愛国心を強める「右傾エンタメ」とは違うし、集団的自衛権、憲法改正や軍国主義復活の問題に発展させて論評する映画ではなさそう。むしろ東日本大震災と福島原発事故をゴジラになぞらえた危機管理と考えた方が、しっくりする。

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