尾瀬アヤメ平
2016年7月31日(日)、尾瀬アヤメ平への日帰りハイキング。
「アヤメ平」は、尾瀬ヶ原の南側にある標高約1900~1969mの高原。群馬県北東部の片品村に属する。
アヤメ平ハイキングは、鳩待峠と富士見峠の間の「鳩待通り」と呼ばれる尾瀬ヶ原南側の外輪山の尾根道を歩くコース。アヤメ平は、尾根道北側のなだらかな斜面にある。尾瀬ケ原と違って、天空庭園のような湿原と池塘(ちとう)が広がる。尾瀬の両雄、「燧ケ岳」(ひうちがたけ)と「至仏山」(しぶつさん)のほか、関東の山々が見渡せる360度の展望。
午前5時半出発、関越道沼田インターから、今話題のNHK大河ドラマ『真田丸』で出てくる沼田(群馬県)を経て、国道120号線を北上。7時半、尾瀬戸倉の大駐車場へ到着。
7:50発のシャトルバス(930円)に乗り換え、約30分で鳩待峠に着く。
8時半登山開始。至仏山と反対方向、樹林の中の急坂を登る。
15分ほどで、笹と樹林に囲まれた緩やかな登りの木道。
出発して約1時半後の9:55、急に視界が開けたところは「横田代」の湿原。
後ろを振り返ると、なだらかな山の「至仏山」(2228m)とその左手に「小至仏山」(2162m)が目の高さに見える。
北の方角には、台形の形の「平ヶ岳」(ひらがたけ、2141m)。その右手前は、「景鶴山」(けいづるやま、2004m)。いずれも上越国境(群馬と新潟の県境)にある。
右側にある至仏山の稜線から連なる尖った三角形の「笠ヶ岳」(かさがたけ、2057.5m)。
笠ヶ岳の更に左手、南西の方角にあるギザギザの山が「上州武尊山」(じょうしゅうほたかやま、2158m)。赤城山(1827.6m)は、遠くて確認できなかった。
再び樹林の中に入りしばらくすると、10:40ピークの「中原山」(なかのはらやま、1986m)を通過。熊笹の中に立つ標識がなければ、ここがピークとが気がつかない。
再び開けた湿原をゆるやかに下る。この辺りはもう「アヤメ平」か。
南東の方角の眺望がすばらしい。左のピークは、関東の最高峰「日光白根山」(2578m)。右手のピークは「皇海山」(すかいさん、2144m)。
真夏の青空と雲が広がっている。下界が気温35℃くらだとすれば、ここは25℃くらいか。日差しは強いが、爽やかな風で涼しくて心地よい。
草原の向こうの空に向って、遠く木道が伸びてゆく。
険しい山容の尾瀬の雄、「燧ヶ岳」(ひうちがだけ、2356m)が姿を現す。
所々に湿地を復元した跡に気がつく。
後ろを振り返ると、至仏山。
10:55、「アヤメ平」の標識とベンチに到着。ここはアヤメ平の最高点(1969m)、早めの昼食をとる。
「アヤメ平」についての由来と湿原回復の説明板。(写真をクリックすると拡大されます。)
説明板には、次のように書いてある。
■昔、この周辺に群生するキンコウカの葉をアヤメと間違えたため、アヤメ平と呼ばれるようになりました。昭和30年代に「雲の上の楽園」と言われ、多くの入山者が訪れ、踏み荒らされたため、裸地化してしまいました。
■昭和44年から、ミタケスゲなどの種をまくなど、湿原を回復するための作業を行っております。再び自然を破壊しないよう、湿原には絶対に立ち入らないようにしてください。
TEPCO(東京電力)
「アヤメ平」と聞けば、アヤメが咲き乱れる湿原かと思われるが、こういう由来があったというのは有名な話。実際には、アヤメよりキンコウカの葉の長さが短いので、間違えるはずはないのだが。
ベンチのそばに、「アヤメ平の緑を取り戻すために」という湿原回復の詳しい説明板。(写真をクリックすると拡大されます。)
ここからもう15分(約1Km)ほど下れば、セン沢田代と富士見田代を経て「富士見峠」。そこには「富士見小屋」があり、尾瀬ヶ原、尾瀬沼、戸倉に至る分岐点となっている。
11:30、アヤメ平から、もと来た道を引き返す。
尾瀬といえば、尾瀬ヶ原のコースがメジャー。日曜とはいえ、アヤメ平のコースではすれ違うハイカーは多くはなかった。
ピンぼけ写真だが、湿地に咲いていた主な高山植物を掲載する。
左から、湿原に多く群生するキンコウカ(金黄花)。暗紅色の花穂となるワレモコウ(吾亦紅)。オトギリソウ(弟切草)と見分けが難しいがたぶんイワオトギリ(岩弟切)。
左から、細い葉が菖蒲に似ているイワショウブ(岩菖蒲)。春に白い花が咲き夏は風車のような果穂となるチングルマ(稚児車)。ラッパ型のコバギボウシ(小葉擬宝珠)。
左から、食虫植物のモウセンゴケ(毛氈苔)。木道のそばにあったサワギキョウ(沢桔梗)。穂先に白い花をつけるコバイケイソウ(小梅蕙草)は、葉だけが目立っていた。
朝から天気は良かったが、だんだん雲が多くなって来る。予報では夕方頃から小雨とあったが、午後1時頃には、雨がパラパラ。下山を急ぐ。
13時10分、鳩待峠に到着。雨は止んでいるが、山の方には黒い雨雲が広がっている。
13:25、シャトルバスに乗車。13:50、尾瀬戸倉の第2駐車場に着く。
往路の国道120号線を南下、群馬県立尾瀬高校(沼田市利根町平川)のあたりのY字路 から県道64号線を約5kmほど北上。片品村が設立した日帰り温泉「花の駅片品・花咲の湯」(群馬県片品村花咲)に立ち寄る。
14:30~15:15、「花咲の湯」で汗を流し、疲れを癒す。入館料金650円。
16:00、沼田インターから関越道へ。日曜日の夕方とあって、途中で高速道路が渋滞するが、予定より早い午後6時半には帰宅。
★ ★ ★
沼田城(群馬県沼田市)の城主となった真田信幸が、1600年(慶長5)の関ヶ原の合戦の年に戸倉に関所を設け、尾瀬を通る「沼田街道」を整備したそうだ。江戸時代、群馬県沼田市から片品村、三平峠、尾瀬沼、沼山峠、福島県桧枝岐村を経て会津若松市へ至る道は、群馬側からは「会津街道」、福島側からは「沼田街道」と呼ばれ、会津と上州を結ぶ交易路として盛んに利用されたという。
現在、沼田市と会津若松市を結ぶ国道401号線は、片品村と桧枝岐村間で分断している。数年前、地元の人が尾瀬沼周辺の遊歩道を「国道」と呼んでいたのを聞いて驚き、後になってその意味を知った。
明治に入ると、豊かな自然を持つ尾瀬は、幾度となく開発の危機にさらされた。登山道の整備や尾瀬沼湖畔に「長蔵小屋」を建設した桧枝岐村出身の平野長蔵氏は、尾瀬の自然保護を訴え、多くの人に呼び掛け続けた。
明治から昭和にかけて、当時の電力会社による尾瀬ヶ原、尾瀬沼のダム化など利水開発計画が次々と浮上してきた。長蔵氏とその志を継いだ子・長英氏や学者、登山家、文化人らは、開発反対運動を展開。1944年(昭和19年)「尾瀬保存期成同盟」、1951年(昭和26年)「日本自然保護協会」を結成して自然保護運動に取り組んだ。
一方で、1934年(昭和9年)尾瀬が「日光国立公園」の一部に、1953年(昭和28年)には国立公園の特別保護地区に、また1960年(昭和35年)には国の特別記念物に指定された。現在尾瀬は独立して、「尾瀬国立公園」となっている。
長蔵・長英親子らの反対運動にもかかわらず、1944年(昭和19年)尾瀬沼の取水工事が始まり、1949年(昭和24)に竣工した。高度成長の時代になると、観光バス道路の開発計画が持ち上がり、戸倉~鳩待峠、桧枝岐~沼山峠が開通する。更には沼山峠から三平峠まで尾瀬に車道を通そうしたが、長英氏の長男・長靖氏は反対し、署名集めや環境庁長官への直訴などの活動を展開、1971年(昭和46年)建設中止となった。
尾瀬の利水計画とそれに伴う車道整備計画は、「日本自然保護協会」の運動もあって、1996年(平成8年)東京電力の尾瀬ヶ原水利権の放棄によって、完全に白紙化した。
嘘か本当か、バブル期には尾瀬ヶ原にゴルフ場やリゾート施設を作るという話も聞いたことがある。
★ ★ ★
1949年(昭和24年)、NHKラジオ番組で「♪夏が来れば思い出す~遥かな尾瀬・・・♪水芭蕉の花が咲いてる・・・」と石井好子が歌う江間章子作詞、中田喜直作曲の『夏の思い出』が放送された。1954年(昭和29年)には、藤山一郎が歌ったレコードも発売。1962年(昭和37年)のNHK『みんなのうた』でも紹介された。後には、多くの音楽の教科書にも取り上げられている。
尾瀬の歌は、多くの日本人の心をつかみ、”水芭蕉の尾瀬”が全国に知られることとなる。この歌によって観光地となった尾瀬には、急激に入山者が増え、昭和30年代には「尾瀬ブーム」が起こる。
歌の通りせっかく夏に尾瀬に来ても、ミズバショウは咲いていない。尾瀬の雪解けは5月中旬。5月中旬~6月下旬に、ミズバショウの白い花が咲く。作詞の江間氏は、「尾瀬で水芭蕉が最も見事な5、6月を、私の中では夏と呼ぶ。それは歳時記の影響だと思う。」と述べている。俳句では、水芭蕉は夏の季語。
旧暦は、月の運行に基づく太陰暦に太陽暦の要素を加えた「太陰太陽暦」だが、1年12ヶ月を春夏秋冬の四つに分け、1月~3月を春、4月~6月を夏、7月~9月を秋、10月~12月を冬としている。若い人には、この季節のずれは理解できないだろう。
以前の尾瀬のメインルートは、富士見峠から約20分ほど登った美しい「アヤメ平」へのコースだった。至仏山や燧ヶ岳の眺望も良く、「天上の楽園」と呼ばれた。昭和30年代には、『夏の思い出』に感化された多くのハイカーが押し寄せた。
当時のアヤメ平は、まだ木道が整備されておらず、また自然や環境に対するマナーや考え方も確立していなかった。湿原を自由に歩き回ったり、フォークダンスをしたり、ビニールシートを敷いて食事したり。その結果、またたく間に湿原植物が踏み荒され、湿地の泥炭層が露わになって雨や雪で流失、踏み固められたグランドのようになったそうだ。アヤメ平の美しい姿は、すっかり失われてしまったのだ。
このような荒廃した植生を復元させるための取り組みは、「植生復元」と呼ばれる。1966年(昭和41)年から、福島県と群馬県が植生復元活動を始めた。主にアヤメ平では、1969年(昭和44年)から東京電力の子会社・尾瀬林業が、植生復元活動を開始した。
その方法は、健全な植物群落をブロック状に切り取り荒廃地に移植する、健全な湿原からミタケスゲの種子採取して播く、雨水等のよるミタケスゲの種子流出を防ぐためにワラゴモで覆う、泥炭の流出を防止する土留め作る、 発育しやすい土壌をつくるために泥炭に粉灰(木炭の粉)を混ぜ合わせる、などの作業が続けられた。現在も、緑の回復がまだ十分でない場所を中心に、計画的な作業が進められているという。
アヤメ平の荒廃と植生復元の話は知ってはいたが、復元作業が始まってからすでに40数年が経つ。今回初めてアヤメ平を歩いてみると、ほとんど緑が戻っていて、嬉しい限りだ。しかし、一目で復元跡とわかる不自然な湿地が点在していて、痛々しさが残る。
現在も尾瀬の各地で、各関係機関による植生復元活動が行われている。何にしても自然を破壊するのは、短期間、低コストにして簡単であるが、自然を復元するには長い期間と膨大なコストが掛かり、いかに大変なことだと思い知らされる。
関連ブログ「燧ケ岳-その1」 2013年8月22日投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-7e66.html
関連ブログ「燧ケ岳-その2」 2013年8月23日投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-11b8.html
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