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2016年7月 1日 (金)

あやめの潮来と小江戸佐原

 2016年6月23日(木) バスで行く「あやめの潮来と小江戸佐原」の日帰り旅行。


 この日は朝からあいにくの雨。目的地に着く昼前には止むという天気予報を期待して、バスは午前7時40分出発。参加者32名。関越道、圏央道、東北道、外環道、常磐道、圏央道を走る。

 幹事や会長の挨拶のあと、お茶やビール、つまみが配られ、車中はにぎやかにカラオケも始まる。出発から1時間後の東北道久喜インター付近を走るころには、雨が止んでいるのに気がつく。

 

●愛友酒造(茨城県潮来市)

 最初の訪問先は、江戸末期の創業で200年以上の歴史のある酒造会社「愛友酒造」(茨城県潮来市)。午前10時50分に到着。

 酒蔵の見学の後、試飲コーナーでは樽酒などの利き酒を楽しむ。

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 潮来は、霞ヶ浦や北浦、常陸利根川などに面した水郷のまち。東北地方から江戸へ行き交う水上交通の港町として栄えた。現在は、あやめの咲く六月は観光客で賑わいを見せる。米栽培を中心とした農業が盛んだそうだ。


●水郷潮来あやめ園(茨城県潮来市)

 次の見学先は「水郷潮来あやめ園」に11時45分到着、食事処で昼食。

 少しバラパラの雨が降りだしたが、あやめ園を散策する。ここは去年の6月に来たところ。水郷を巡る遊覧船(30分1,000円)で楽しむ者もいる。

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 潮来が一躍有名になった花村菊枝の「潮来嫁さん」の歌碑。

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 橋幸夫の「♪潮来の伊太郎・・・」で有名な「潮来笠」の歌碑もある。

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 園内には、約500種100万株のあやめ(花菖蒲)が植えられていて、「水郷潮来あやめまつり」が26日(日)まで開催中だが、あやめはすでに見頃を過ぎていて残念。観光客もチラホラ。

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 潮来で見られるあやめは、実際は花菖蒲。地元では、花菖蒲もあやめと呼ぶそうで、まつり名、公園の名も「あやめまつり」、「あやめ園」と言うそうだ。

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●小江戸佐原(千葉県香取市佐原) 

 次は、香取市佐原へ移動し、午後1時30分から1時間ほど、佐原のまち並みを散策。小江戸佐原は、小野川沿いとその周辺に古い商工業者が軒を連ねる歴史的な建物の残る水郷のまち。

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 佐原は水運が発達し、「江戸優り(えどまさり)」と呼ばれるほど、江戸の文化をいち早く取り入れ、更にそれを独自の文化が発達したという。その面影を残すまち並みが小野川沿岸や香取街道に残っている。

 小野川に架かる「樋橋(とよばし)」。

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 小野川は、佐原を東西わけて流れる。「樋橋」は、江戸時代に小野川上流でせき止めた農業用水を西の田に送るため、小野川に架けられた大きな樋(とよ)であった。この樋の上に板を渡して、人が通れる橋となった。樋から小野川に落ちる水の音から「ジャージャー橋」と呼ばれる。
 
 江戸後期に全国を測量した伊能忠敬の旧宅(国の史跡)は、去年も入館した。入館料無料。

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 忠敬は家業や村政に励みながら学問を学び続け、隠居して50才になって江戸に出て、本格的な天文学、暦学などを学ぶ。老齢の55才から17年間にわたり全国測量を行った。生涯ロマンと情熱を持ち続け、生涯現役を続けた忠敬には、「中高年の星」として多くの人々から称賛されている。

 旧宅から小野川の対岸に、「伊能忠敬記念館」もある。昨年は観覧する機会がなかったので、今回は入館(大人500円)する。
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 香取市(旧佐原市)の施設と思われるが、館内の展示は立派だ。

 伊能忠敬の50歳までの半生、隠居してからの勉学、全国測量の行程、伊能図などが紹介。忠敬の人間像と生涯、実測による正確な日本地図を完成した科学的業績が、余すことなく展示されていて、感動する。

 伊能忠敬が残した資料は、代々の子孫が大切に保存してきたという。資料は佐原市(現香取市)に寄贈され、記念館はこれらを公開するために1998年(平成10年)に開館した。伊能忠敬関係資料は、重要文化財から国宝に指定された貴重なものである。


●道の駅「水の郷さわら」(香取市佐原)

 午後2時40分から30分ほど、国道356号線沿いにある道の駅「水の郷さわら」で買い物。

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 道の駅は、利根川に面しており、道の駅の隣には川の駅もある。

 左手に小野川の水門。河川マリーナや観光船乗り場がある。

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 往路を逆順に走り、カラオケを楽しみながら、6時15分出発地に無事帰着。

 この日は、目的地に着くころには雨が止むという、梅雨時期にしては天気に恵まれた1日だった。次回は11月頃に宿泊旅行を計画したいと、幹事からの話があった。

 

 関連ブログ「水郷の佐原と潮来」 2015年6月16日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-b018.html

 関連ブログ「深川界隈」 2013年1月27日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-189d.html

 

●伊能忠敬のヒストリー

【少年時代】

 伊能忠敬は1745年(延享2年)、上総国(かずさのくに)の山辺郡小関村(今の千葉県九十九里町小関)のイワシ漁の網元で、名主をつとめる小関家の次男として生まれた。幼名は三治郎。母は小関家の娘、父は婿養子だった。

 三治郎が6才の時に母が亡くなり、母の弟が小関家を継いだ。父は、幼い三治郎を小関家に残して兄と姉を連れ、生家の武射郡(むさのこおり)小堤(おんづみ)村(現在、横芝光町小堤)の神保家に戻って居候した。父の実家の神保家も名門で、酒造業を営んでいる大地主だった。やがて父は神保家から分家し、三治郎を10才の時に引き取った。

 三治郎は、小さい時から学問好きで、算術に優れていた。父も分家してから塾を開くような知識人で、三治郎も父からも学問の基礎を教わった。持ち前の勤勉さから、幅広い教養を身につけ、16歳の時には佐忠太と名乗った。

 近くの村で土地改良工事があり、佐忠太は算術の知識を見込まれ、現場監督を務める。この時の仕事ぶりを親戚の目に留まり、佐原の伊能家への婿入りが決まった。1762年、佐忠太17歳、妻のミチは21歳であった。

【佐原の時代】 

 伊能家は、主人があいついで若死し、当主不在の時代が長く続いていた。佐忠太が伊能家に来た時は家業は縮小し、衰退していた。忠敬は倹約を徹底、本業の酒造の販路拡大、薪問屋や米穀取り引きなどの事業拡大で、10年間ほどのうちに経営を立て直した。やがて、格式を高めるために林大学頭の門に入り、忠敬の名をもらう。29歳の時の伊能家の年間収益は、351両=約3,500万円だった。

 下の写真は、伊能忠敬記念館パンフより転載。佐原時代、伊能忠敬50歳までの前半生を紹介。

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 忠敬は伊能家当主となって18年目の32歳の時、奥州の仙台・塩釜・松島方面へ、妻ミチと二人の従者を連れて観光旅行に行った。妻との最初で最後の旅であった。

 36歳で名主となる。1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財を投げ打って米や金銭を分け与えるなど地域救済に尽力、忠敬の村は一人の餓死者も出さなかったという。

 名字帯刀を許され、翌年の1784年(39歳)には、名主から村方後見に昇格した。村方後見は、地頭から任命されるもので、名主の上座にいて村役や村方全体を監督する立場にあった。佐原は天領だったが、旗本の津田氏が地頭職を務める知行地だった。

 1783年(天明3年)の浅間山大噴火の飢饉、1786年(天明6年)利根川洪水の対策に奔走していた年の暮れに、長年連れ添った妻ミチが42歳で亡くなる。この4年後、内縁の妻を迎え、二男一女をもうけた。最初の子の秀蔵は、後に全国測量に同行し助手として働くことになる。しかし2人目の妻は、結婚4年後の1790年に26歳で亡くなり、その後の3人目の妻も病弱で結婚5年目の1795年に亡くなっている。

 天明の大凶を乗り切って一息ついた時、忠敬は自分が40歳の峠を越していることに気づく。跡取りの長男・景敬は、すでに20歳を過ぎていた。1790年(寛政2年)、45歳で忠敬は隠居を決意、村方後見の役を免じてもらうべく地頭に願い出る。しかし、地頭も忠敬を頼りにしていたため、なかなか許可がもらえない。その間、忠敬は佐原で暦学書を読んだり、機器を買い込み天体観測を行なったり、独学の日々を送った。

 1793年(寛政5年、48歳)の伊能家の収益は、1264両(約1億2640万円)、29歳の時の3.6倍にまで増えていた。この年忠敬は、凶作や飢饉が続いて延び延びになっていた伊勢神宮参拝の旅に出かけた。近隣の有力者らとの一行10名は、江戸から東海道の名所旧跡を訪ね、伊勢参宮を果たした後、奈良・大坂・京都などの近畿方面を見物、3ヶ月以上の大旅行だった。この旅では、磁石や望遠鏡を携行し、測量・観測記事もある旅行記を残している。

【第二の人生】

 この旅の翌年1794年49歳の時、忠敬は幕府の改暦事業についての噂を耳にし、再び隠居願いを地頭に提出し、やっと許可が下りる。忠敬は、すべての家業を長男に譲り、長男や親戚の同意を得て江戸に住み込み、若い頃から関心のあった天文学を本格的に勉強することになる。1795年(寛政7年)、江戸深川に居宅を構えた。時に、忠敬50歳だった。

 浅草には、星を観測して暦(こよみ)を作る幕府の天文方暦局があった。忠敬が江戸に家を構えた同年春に、当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき、当時31歳)が幕府の天文方に登用されていた。至時は、大阪で西洋天文学・暦学の大家で町医者の麻田剛立(あさだごうりゅう、当時61歳)の一門の1番弟子だった。

 忠敬は高橋至時に弟子入りする。当初、至時は20歳も年上の忠敬を「年寄りの道楽」と期待してなかったが、他の弟子より熱心に勉強する忠敬の姿に感動する。忠敬は巨費を投じて、自宅を本格的な天文観測所に改造、日本で初めて金星の子午線経過の観測に成功する。

 1797年、高橋至時は新たな暦(寛政暦)を完成させた。しかし至時は地球の正確な大きさが分からず、暦の精度に不満足だった。オランダの書物から、地球が丸いことを知ってはいたが、子午線1度の長さは25里、30里、32里などの説があった。

 忠敬は、2つの地点で北極星を見上げる角度を観測し、その差から緯度の差がから、2地点の距離が分かる、そうすれば地球の外周が割り出せると提案した。2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が減るため、江戸から蝦夷地(北海道)まで距離を測ることが望ましいと至時はアドバイスした。

 当時は幕府の許可が無ければ、蝦夷地には行けない。そこで至時が考えたのが地図の制作、つまり暦制作が本来の目的だが、地図制作は移動の自由を得るための口実だった。この頃、蝦夷地ではロシアが上陸して通商を要求しており、国防のために正確な地図が必要だった。結果的には幕府は蝦夷地のみならず、東日本全体の測量許可を出す。ただし幕府の財政援助はなく、すべて自費。伊能家の3万両=約30億円ともされる資産が役立った。

 1798年から、忠敬は最後の妻(内縁)と江戸で暮らしている。彼女は聡明な女性で、忠敬の地図つくりを手伝ったりした。

 こうして1800年、伊能忠敬の第1次蝦夷を皮切りに全国測量が始まる。第2次測量で、忠敬は、子午線1度の距離を28.2里(110.75Km)と導き出した。

 下の写真は、伊能忠敬記念館パンフより転載。全国測量へ、隠居してから勉学と全国測量の行程を紹介。左側には、象限儀(しょうげんぎ)という天体観測器具が展示。測量地の緯度を求めるために、北極星などの高度を観測した器具。その下の筒状のものは望遠鏡。

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 第4次測量が終わり忠敬が江戸に戻ると、至時は西洋の天文書の解読作業をしていた。緯度1度の距離が記載されていて、忠敬の28.2里にほぼ近いことがわかり、二人は手を取り合って喜んだ。1804年(文化元年)、忠敬の師・高橋至時が40歳で亡くなる。幕府は至時の跡継ぎとして、息子の高橋景保(かげやす)を天文方に登用した。

 5次測量からは幕府の直轄事業となり、測量隊員も増員、手当も増額された。測量先の藩も忠敬らに協力するようになった。忠敬の子・伊能秀蔵は、14歳のとき蝦夷地測量(第1次測量)に参加してから第6次測量まで従事した。数学や測量が不得意で、不行状から、1815年(文化3年)に父忠敬に勘当された。

 10次の測量が終わった時は、忠敬71歳。17年かけて歩いた距離は、実に4万Km、つまり地球を一周したことになる。こうして蝦夷地測量から17年がかりで集めた全国の測量データを用いて、いいよ全日本地図の作成作業が始まった。

 1817年(72歳)、かつて忠敬が測量を果たせなかった蝦夷地北西部の測量データを、間宮林蔵が持って来た。あとは各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけだが、地球は球面のため平面に修正する計算が大変だった。だがこの場面になって、忠敬は持病の慢性気管支炎が悪化し、急性肺炎に冒されてしまう。

 1818年(文政元年)、忠敬は弟子に見守られながら73歳で世を去った。高橋景保や弟子たちは、この地図は伊能忠敬が作ったと世間に伝える為に、その死を伏せて地図の完成を目指した。忠敬の死から3年後の1821年。江戸城大広間で幕府上層部が見守る中、景保や忠敬の孫・忠誨(ただのり、15歳)、弟子たちの手で日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。大図214枚、中図8枚、小図3枚という、とてつもない大きさの地図だった。
 

 ★ ★ ★

 地頭から許可が下りず延び延びになったが、忠敬は50歳で隠居した。江戸時代は平均寿命が30~40歳だったというデータがあるが、乳幼児の死亡率が高かった時代の統計なので、あてにならない。「人生50年」という言葉もあったが、江戸時代では成年になった人の平均寿命は60歳くらいだったとされる。忠敬の祖父は45歳、父は44歳で隠居している。人によって異なるが、隠居はだいたい平均45歳前後だったようだ。

 ということは現代は、江戸時代よりも15歳~20歳くらい若くなっている。忠敬を現代人に置き換えれば、65歳で本格的な天文学・暦学の勉強を始め、70歳から86歳まで、全国を歩き回ったことになる。

 飽くなき学問に対する情熱、誰もなしえてない日本地図を作るというロマン、そしてなんというパワーと不屈の精神の持ち主だったのだろうか。現代の多くの高齢者に、大きな勇気を与えている。

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