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2016年6月21日 (火)

大阪探訪の旅-その2

 2016年5月28(土)~30日(月)、2泊3日の大阪の歴史・文化探訪の旅。

 本ブログ「大阪探訪の旅-その1」の続き。

 

 5月29日(日)、旅の2日目。

 8:30、ホテルを出る。8:42日本橋駅発の千日前線に乗車、鶴橋駅で下車し、環状線に乗り換え。9:01、大阪城公園駅に到着。今日は、朝から青空が見える良い天気。

 駅から大阪城に向かう途中、何やらおばさんたちが、駅から続々とやって来る人たちを案内している。よく見ると、近くの「大阪城ホール」で宗教団体「生長の家」の大阪教区の大講習会が10時から開催されるようた。大阪教区は、生長の家の全国の教区の中でも一番大きな組織だそうだ。

 

●大阪城

 本丸の北東側の外濠に架かる「青屋門」から入り、内濠の「極楽橋」を渡る。

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 本丸の北にある「山里丸」(または山里曲輪(くるわ))に「刻印石広場」がある。築城の際に、諸大名から運ばれて家紋や産地を刻印された石が多数置いてある。

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 「秀頼・淀君ら自刃の地」とされる場所に、ひっそりと石碑が立つ。

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 9:55、大阪城天守閣前の広場に着く。広場から天守閣の正面を望む。

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 10:10~11:00、 ボランティアガイドの案内で、天守閣の周囲を巡る。

 本丸西側に設けられた「隠し曲輪」は、城内に侵入してきた敵兵を背後からつくための兵士の隠し場所。小さく目立たない出入り口が一つしかない。

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 国の重文指定の「金蔵」(きんぞう、かねぐら)は、幕府が莫大な金銀を保管していた。写真なし。

 初代の豊臣大坂城の発掘現場。1959年(昭和34)、秀吉が築いた大坂城は現在の大阪城の地下に眠っているのが明らかになった。1984年(昭和59)には、「金蔵」の東側で豊臣期の石垣が発見された。大阪市は「大坂夏の陣」400年を期に、初代大坂城の石垣を掘り起こす「豊臣期石垣公開プロジェクト」が進められ、募金を募っている。

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 本丸にある旧・大阪市立博物館の建物は、旧陸軍第四師団の司令部だった。欧州ロマネスク様式の貴重な建物。博物館は、2001年の「大阪歴史博物館」の開館にともない閉館となった。

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 日本庭園は、明治になって紀州徳川の紀州御殿を移築した際の名残りの庭園。

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 桜門枡形にある大阪城で一番大きい石(高さ約5.5mm、幅約11.7m)は、「蛸石(たこいし)」と呼ばれている。重量は推定108トン。

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 11:00~12:00、大阪城天守閣に入館する。入場料600円。

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 中に入ってすぐに気がついたのは、ここは木造でなくて鉄筋コンクリート造り、昔の天守内部の面影は全く無い。外は大坂城だが、内部は博物館だ。そしてコンクリートの階段や内壁を見て、いつの日だったかここを見学した記憶がよみがえった。

  1階は、天守閣のエントランスホール、シアタールームやショップなどがある。

 2階は、お城の情報コーナー。金のしゃちほこと伏虎(ふせとら)のレプリカは人気。

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   3階・4階は、文化財展示室(豊臣秀吉とその時代)。豊臣秀吉ゆかリの品々をはじめとする戦国時代の資料、大坂城にまつわる資料などを展示。しかしこの階は撮影禁止。理由は、重要文化財などの展示を行っているためというが残念。写真は、豊臣秀吉木像。カラーガイド『大阪城』(大阪城天守閣刊行)より転載。

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 5階は、展示室(大坂夏の陣図屏風の世界)。大阪夏の陣図屏風の世界を映像と模型を使い紹介。写真は、大坂夏の陣図屏風。カラーガイド『大阪城』(大阪城天守閣刊行)より転載。

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 6階は、回廊。7階は、展示室(豊臣秀吉の生涯)。 大坂城を築き、天下を統一した秀吉の生涯をわかりやすく紹介。

 8階は、展望台。地上50mから大阪の街を一望する。

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 ミュージアムショップで、小冊子『大阪城』(大阪城天守閣、500円)購入。

 豊臣秀吉の死後、秀吉にゆかりのある各地に豊国(とよくに)神社が建てられ、秀吉(豊国大明神)を祀った。明治になってから京都の豊国神社の大阪別社として、大阪に豊国(ほうこく)神社が創建された。秀吉のほか秀頼、秀長も配祀する。1961年(昭和36)、中之島から、現在の大阪城二の丸に遷座。秀吉の銅像が建っている。時間の都合で、見学はスキップ。

 12:10、大手門枡形の「多門櫓(たもんやぐら)」を抜けて、城外に出る。

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 南内濠の美しい石垣と「六番櫓」。

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 大手門を出てすぐの馬場町交差点を挟んで、大阪府警本部とNHK大阪放送会館のビルが建つ。そのNHKに隣接して、建物の断面が水の都の船をイメージした形をした「大阪歴史博物館」がある。

 

●大阪歴史博物館
         
 左手のビルが大阪歴史博物館、右手はNHK大阪放送会館。エントランスは共通で、下の半球の部分。

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 12:20、博物館に入館。観覧料は、540円。館内の撮影可。

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 10階から7階が常設展示、6階が特別展示。
 
   【10階(古代フロア) 難波宮の時代】

 エスカレータで10階まで上がると、そこには古代の世界。奈良時代の難波宮(なにわのみや)の大極殿(古代朝廷の正殿)。原寸大に復元した空間では、直径70cmもある朱塗りの円柱が立ち並び、官人たちが整列する。

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 大スクリーンでは、宮廷儀式のようすをわかりやすくご紹介していた。

 10階の窓から眼下に「難波宮跡公園」(高速道路の右手)が広がる。公園には難波宮の遺構が保存されている。

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 後期難波宮の復元模型。

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 大阪市平野区の長原古墳群から出土した舟形埴輪(国重文)。当時から難波は、水上交通の要であった。

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  【 9階(中世、近世フロア) 大坂本願寺の時代、天下の台所の時代】

 信長と戦った大坂本願寺(石山本願寺)の時代、大阪はその門前町であった。秀吉による大阪城築城を経て、「天下の台所」と称された江戸時代。水都めぐりと活気あふれる町人のくらしを再現。

 大坂本願寺(石山本願寺)御影堂の模型。

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 水運が発達、諸藩の蔵屋敷や米市、商工家が集中する浪速のまちめぐり。

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 大坂の商業の中心地であった船場の町並みの模型。

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   【8階(歴史を掘るフロア) 歴史を掘る特集展示】

 原寸大に再現した発掘現場が展示され、調査方法や遺構・遺物の見方を学べる。写真なし。

    【7階(近代現代フロア)  大大阪の時代】

 大正末期~昭和初期の「大大阪(だいおおさか)時代」を再現。にぎわった心斎橋筋、道頓堀などの街角を、大きさ、雰囲気そのままにリアルに再現。繁栄するモダン都市・大阪の街を歩くことができる。

 産業都市への歩みの展示。

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 明治維新以降、大阪は紡績ほか多くの民間工場が建設され、工業都市化が進む。大正末期には「大大阪」と呼ばれ、人口300万人を擁した。

 1940年(昭和15)の公設市場の八百屋と魚屋の店先を再現。

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 また心斎橋には、東京・銀座と肩を並べる名店街だった。

 劇場のまち「道頓堀・千日前」。1940年(昭和15)の角坐前を再現。

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 伝統的な歌舞伎、新しい演劇、映画など、道頓堀は「芝居のまち」として賑わった。

 

 13:00から10階で学芸員の30分程度の解説があったが、タイミングを逃して聞けなかった。図録を買おうと思ったが、1階にあるはずのミュージアムショップは閉店中のようだ。

 

 「大阪歴史博物館」の前身は、大阪城公園内にあった「大阪市立博物館」(旧陸軍第四師団司令部)で、1960年(昭和35年)に開館した。博物館には、総合、人文系、自然系博物館、動物園、植物園、水族館などがある。同博物館は、人文系の中で歴史系博物館の先駆けとされ、資料を持たずにゼロから出発したという。そのためか、国宝はなく重要文化財もわずかしかないが、模型、グラフィックや映像を使った大阪の歴史展示は、インパクトがあって分かり易い。

 

 13:30博物館を後にして、JR環状線の森ノ宮駅まで歩く。14:10から森ノ宮駅前のぎょうざの「王将」で、遅い昼食。とんこつラーメン421円。

 14:56、森ノ宮駅発の外回り天王寺方面に乗車。鶴橋駅で乗り換え、近鉄奈良線・大和西大寺行。15:12、八戸(やえ)の里駅(東大阪市)に到着。10分ほど歩くと、「司馬遼太郎記念館」に着く。

 

 
●司馬遼太郎記念館

  15:25、司馬遼太郎記念館に入館。入口に2人の年配の方が立っていて、入館の案内をしてくれる。聞くと、ボランティアだという。この記念館は、こういった近隣のボランティアの人々に支えられているそうだ。入館料500円。

 東大阪市の住宅街にある記念館は、司馬氏の自宅敷地に建てられている。自宅は、氏が好きだった雑木林をイメージした庭木で囲まれて、四季の花々も咲く。

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 庭からガラス越しに、書斎を間近に見ることが出来る。机には万年筆や色鉛筆など、亡くなる直前のままに置かれているという。手前には、休憩したり資料を読んだりするソファが置かれている。
 
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 安藤忠雄設計の記念館入口。

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 この先に受付があり、撮影不可。

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 この記念館は「見る」、というより「感じる」、「考える」記念館という位置づけだそうだ。

 高さ11mの壁面いっぱいに広がる、安藤忠雄氏設計の大書架には圧倒される。6万冊の蔵書のうち、このに2万冊が収められているという。この大書架は、テレビで見たことがあった。実際に自宅にあった書棚ではないが、司馬遼太郎の世界を想像してもらう空間だそうだ。

 撮影禁止のため、パンフレットから大書架の写真を転載する。

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 約150席のホールで、司馬氏に関する映像を鑑賞。

 ショップで、記念館図録『司馬遼太郎』(2015年、司馬遼太郎記念財団、2,160円)購入。

 16:20、記念館をあとにする。

          
 16:42八戸の里駅発、近鉄奈良線・尼崎行に乗車、日本橋駅で乗り換え堺筋線・天下茶屋行、17:05恵美須町駅着。

 

●通天閣

 大阪のシンボル「通天閣」を正面を見ながら、200mのメインストリート「通天閣本通り商店街」を歩く。

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 昭和のにおいがするレトロな商店街。日曜日の夕方だが、シャッターが降りた店もあり、通行する人影もまばら。 意外と寂しい。

 通天閣の真下に建てられた大正時代の将棋名人・坂田三吉の「王将碑」。

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  17:15、通天閣展望台の入口まで来て、もと来た道を戻って恵比寿駅へ。

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 17:30恵美須町駅発、堺筋線で17:32日本橋駅着。外は、小雨が降っている。

    
 道頓堀通りに行き、17:50~居酒屋「磯丸水産」とんぼり店で夕食。

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  19:30居酒屋を出て、19:35ホテル着。11:30就寝。

 

 なお本文で「大坂」と「大阪」の違いは、前者は江戸時代以前、後者は明治以降で区別した。

 この後は、本ブログ「大阪探訪の旅-その3」に続く。

 

 ★ ★ ★

 戦国の世、強大な勢力を誇っていた大寺院・石山(大坂)本願寺は、天下統一を目指す信長に屈し、大炎上した。信長の死後に秀吉は、大坂の良地であるこの跡地に、天下人にふさわしい豪奢な大城郭を築き上げた。台地の上にあって下を淀川が流れる天然の要害、京への交通の要であった。

 ボランティアガイドが言うには、昔地元では大阪城のことを「太閤さんのお城」とも呼んでいたと言う。筆者も、豊臣大坂城の石垣はそのままで、豊臣時代の天守閣をコンクリートで再建したものだと思っていた。ところが、1959年(昭和34年)の学術調査で、地表に現れている城跡に現存する櫓や石垣などはすべて、徳川によるものであることが確認されたというのは、初耳だった。

 徳川は、豊臣色をすべて払拭するため、大坂城の石垣と堀を破壊して「天下普請(ふしん)」を行い、全体に高さ約10mの盛り土をした上、より高い石垣を積み、豊臣天守と別の位置に徳川天守を造った。そのため豊臣大坂城の遺構は、すべて地中に埋もれている。天守以外の建物も徳川独自のものに造り替えた。徳川は、この「天下普請」を諸藩に課すことにより、その財政を逼迫させその勢力を削ぐことであったという。城郭の大きさは豊臣時代の4分の1程度の規模であるが、天守の高さも床面積も豊臣を越え、二重の堀割は江戸城をもしのぐという。

 江戸時代には、たびたびの火災や火薬庫の爆発で、天守や御殿など多数の建造物が損壊した。特に1665年(寛文5年)には落雷によって天守を焼失、以後天守は造られなかった。幕末の1868年(慶応3)、二条城から追われた将軍徳川慶喜が大坂城に移り居城していた。鳥羽・伏見の戦いの敗北によって、慶喜は船で江戸へ退却、大阪城は新政府軍に開け渡された。城内にいた幕府側の残党は放火し、御殿や櫓など城内の建造物のほとんどが、焼失してしまったそうだ。

 1931年(昭和6年)になって、市民の寄付金により復興天守を竣工、大阪の名所として多くの観光客が訪れるようになった。建物は、徳川大坂城の天守台石垣に、鉄骨鉄筋コンクリートで造られた。復興天守は、外観は4層までを徳川時代風の白漆喰壁としたが、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴の絵を描くという、徳川・豊臣の折衷城である。

 太平洋戦争の大阪空襲では、城内に陸軍第4師団司令部や周辺にも軍事施設もあったため、激しい爆撃にさらされた。櫓や門に甚大な被害を受けたり焼失したりしたが、天守閣の破壊は免れた。戦後、大阪城の全域は史跡公園として整備され、復興天守の中は現在博物館「大阪城天守閣」となっている。

 石山本願寺、豊臣大坂城、徳川大坂城、陸軍施設、市民の公園と、中世から現代までの歴史を刻んだ大阪の歴史がここにある。

 

 ★ ★ ★

 難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)にあった古代宮殿。難波宮の存在は『日本書紀』には載っていたが、終戦まで所在地は不明なまま。戦後、陸軍用地が開放されたことにより、山根徳太郎博士らは数度の予備調査の後の1954年(昭和29)から発掘調査が始まった。都市化が進み発掘は困難を極めたが、1960年(昭和35年)の前後に奈良時代より古い「難波宮」の位置と、そこに前後二期の宮殿があることが分かった。

 古い宮殿は(前期難波宮)は、645年に始まる中大兄皇子の大化の改新を受けて、孝徳天皇が飛鳥から遷都した難波宮と考えられる。日本初の本格的な宮殿建築とされ、652年に完成、日本初の本格的な宮殿建築とされる。その後686年に全焼するまで、現在の大阪市中央区に34年の間存続した。一時、飛鳥と難波の複都制の時代もあった。

 新しい宮殿は、同じ場所に聖武天皇によって726年に造営が始められ、平城京の副都となった「後期難波宮」。平城京からは恭仁京(くにきょう)に遷都、恭仁京から難波宮から744年に遷都した。

 大阪に古代の歴史があったとは、気がつかなかった。そういえば日本史の教科書に飛鳥、奈良、平安と京が移って行く過程で、難波宮というのがあったことを思い出す。大阪城のすぐ近い地に、もっと古い歴史を持つ古代都市があったことに改めて驚く。 

 

 ★ ★ ★

 司馬遼太郎記念館は、公益財団法人 「司馬遼太郎記念財団」が運営、記念館を拠点に文化活動を続けている。この財団は、氏が亡くなった1996年(平成8年)に財団法人の認可を受け、親交のあった友人、マスコミ11社、大阪府、東大阪市が理事として参加、司馬遼太郎の精神を後世に伝えるため、遺産の一部を使って運営しているという。

 主な文化活動は、「司馬遼太郎賞」や「司馬遼太郎フェローシップ」の選考、命日の2月12日前後の「菜の花忌」シンポジウム・講演会の開催など。「菜の花忌」は、氏が野に咲く花、とりわけ菜の花といった黄色い花が好きで、また『菜の花の沖』という小説があることにも由来するそうだ。

 産経新聞の記者時代から書き始めた司馬遼太郎の作品は、いったいどのくらいあるのだろうか。長編小説、短編小説、戯曲、随筆、紀行、対談、他に全集、選集など。数えてみようと思ったが、あきらめた。蔵書が6万冊あるそうだ。記念館にある2万冊の記念館の大書架を見て、誰もがその量に驚いたにちがいない。その蔵書の一部の一冊一冊の書名を見ながら、氏がいかにたくさんの資料を集めて読んで、多くの作品を書き上げたという熱意に想いを馳せた。

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