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2016年6月15日 (水)

大阪探訪の旅-その1

 2016年5月28(土)~30日(月)、2泊3日の大阪の歴史・文化探訪の旅。
 
 

 5月28日(土)、旅の第1日目。

 友人数人と一緒に東京駅構内で弁当・茶を買い、10:00発の新幹線「のぞみ221号」に乗り込む。12:33、新大阪駅に到着。新大阪から大阪市営御堂筋線・千里中央駅で下車。

 13:15、大阪モノレール・門真市行(写真下)に乗り換え、「万博記念公園」に向かう。

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●万博記念公園

 13:20、万博記念公園駅着。天気は曇り。

 駅を出て、中国自動車道を挟んで見る「太陽の塔」と「万博記念公園」の中央口(右手)。

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 万博の年、梅田駅から地下鉄に乗ってこの場所に来たことを思い出した。その当時はモノレールは無くて、今の地下鉄御堂筋線から万博会場まで臨時線がつながっていたようだ。電車は途中から混んできて、そのうちにぎゅうぎゅう詰め。万博会場中央口駅で下車して、ホームから万博会場入口(今の公園中央口のある場所か?)までは、人混みで身動きできないほどだった。

 
       
 13:40、 「万博記念公園」に入場。

 万博にあったパビリオンは撤去され、広大な跡地は公園となった。日本庭園と日本民芸館などが当時のまま残っている。国際美術館、万国博ホールの建物は残ったが、その後老朽化により解体、移転した。国立民族学博物館(以下民博)と国際児童文学館は、新たに建てられたものである。なお国際児童文学館は、橋下徹大阪府知事の時代に財政再建の一環として、大阪府立中央図書館に統合、2010年3月末で廃止された。

 樹木や芝生の緑に覆われた公園は、桜100選にも選ばれ、日本庭園などの自然文化施設、民博などの文化施設、各種のスポーツ施設などがある。大阪府が管理している。

 自然文化園・日本庭園の入園券200円。

 

 岡本太郎作の「太陽の塔」は、長い年月で傷んだり色あせているが、久しぶりに見る。と言っても、1970年の万博の時に実際に見たかどうかは記憶がない。

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 公園の「お祭り広場」の脇を通り、日本庭園前のゲートを抜けて、民博に向かう。

 

●国立民族学博物館 14:00~16:00

 13:55、民博に入館。建物の設計は、黒川紀章氏だという。

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 本館展示場の一部(朝鮮半島の文化、中国地域の文化、中央・北アジア、アイヌの文化、日本の文化展示)が、残念なことに閉鎖中。何でも3月に館内で発生した火事のためだそうで、全館の5割近くが観覧できないことになる。

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 「これじゃ観覧料は取れないな」と受付で言ったら、職員は通常の一般観覧料420円は、350円に割引きしていると言う。写真、ビデオすべて撮影可は、嬉しい。

 

 オセアニアから、地域展示を回り、代表的な展示物を記す。

 【オセアニア展示】

 大小数万をこえる島々が点在し、発達した航海技術を持ったオセアニアの人々。三角の帆とシングルアウトリガー(船の片側に浮き子)のついたカヌー。

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 【アメリカ展示】

 アメリカは、ヨーロッパ人による征服や植民の歴史を経験し、外来文化が日常に浸透している。カーニバルはキリスト教の移動祝日、ブラジルのリオではアフリカ系の歌と踊りをとりいれたサンバが生まれた。

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 【ヨーロッパ展示】

 16世紀~20世紀は、ヨーロッパのキリスト教や近代技術と文化が世界各地に広がった。写真中央は、生前の姿を楽しい絵と物語を書いた「陽気な墓」。ルーマニアのサプンツァ村にこの墓が多いそうだ。

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 【アフリカ展示】

 アフリカでは、現在イスラムやキリスト教が広がっているが、伝統的な仮面の儀礼はアフリカ各地で活発に行われている。ザンビアのチェワ族にみられるニャウの仮面。死者の霊を祖先の世界に送り届ける葬送の役割を担う。

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 【西アジア展示】

 西アジアは砂漠が大部分を占める中東地域。人々は、遊牧を生業として移動する一方で、古来よりバグダードやカイロなどでは都市文化が栄えてきた。ユダヤ教やキリスト教発祥の地でもあるが、多くの住民はムスリム。写真は、エジプト・ヨルダンのラクダ用装身具。

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 【南アジア展示】

 南アジアは、ヒマラヤ山脈などの北部山岳地帯とアラビア海、ベンガル湾に挟まれたインド大陸をいう。様々な自然環境、多様な宗教や文化、生活様式をもつ人びとが共存しあう。写真は、極彩色に飾られた山車(だし)は、ヒンドゥーの神の乗り物。南インドのチェンナイの寺院の大祭で巡行する。

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 【東南アジア展示】

 「東南アジアの1日」をテーマに、その多彩な民族文化を紹介。写真は、インドネシアのバリ島に伝わる獅子の姿の聖獣「バロン」と魔女の「ランダ」。

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 【東アジア展示】

 東アジアは更に、中央・北アジア、中国地域の文化、朝鮮半島の文化、アイヌ文化、日本文化の展示に別れていて、最もスペースを割いた我々に最も身近な展示であるが、前述のように火事の影響で閉鎖中。

 【音楽展示】

 音と音楽と人間とのかかわりを、世界各地の「太鼓」、「ゴング」、「チャルメラ」、「ギター」などの展示を通じて考える。

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 【言語展示】

 「言葉を構成する要素」、「言語の多様性」、「世界の文字」のテーマで構成。写真なし。

 【インフォメーションゾーン】

 「研究の現場から ― 知ってつながる」というテーマ。民博の中だけでなく、民俗学研究者が日本も含めた世界中をつなぐ役目を担っていて、それぞれ取り組んでいる研究や調査を紹介。

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 創設以来の民博の研究報告書の書棚。

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 ミュージアムショップで、梅棹忠夫著『民博早わかり改訂版』(1997年、千里文化財団、540円)を購入。


 16:30万博記念公園駅を出て、千里中央駅に戻る。雨がパラパラしたが、すぐ止む。

 御堂筋線で難波駅へ、千日前線に乗り換えて、17:35日本橋駅着。


            
   17:45、「ホテルサンルート大阪なんば」にチェックイン。土曜日のせいか、フロントは混雑している。アジア系外国人も多い。

 

●道頓堀

 18:25ホテルを出て、すぐの道頓堀の「かに道楽」。道頓堀通りを散策。

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 夕暮れの道頓堀川沿い。道頓堀川に架かる相合橋から太左衛門橋の方向を望む。

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 道頓堀通りは、週末とあってか、ものすごい人出と賑やかさに圧倒される。

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 18:45~20:50、居酒屋 「たよし とんぼり本店」に入店して夕食。

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 店2階の座敷の部屋から道頓堀川の対岸を見ると、総合ディスカウントストアの「ドン・キホーテ」。店の壁面には、商売繁盛の巨大な恵比寿さんの看板のある観覧車。

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 夕食後、道頓堀川の戎(えびす)橋からおなじみのグリコのネオン看板を見る。左手奥は戎橋筋商店街。

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 東京よりも大阪ミナミの道頓堀界隈は、ハデハデで奇抜な看板が多い。グリコもそうだが、巨大なカニや食いだおれ太郎の人形のほか、ドン・キホーテの恵比寿様、ほかにタレントの面白い顔をしたアップなど・・・。

 戎(えびす)橋から、すっかり暗くなった道頓堀川の太左衛門橋方向を望む。

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 大阪は、東京と比べ繁華街で自転車に乗っている人が多い。結構スピードを出して歩行者の間をすり抜けるので、ヒヤッとする。店の前に停められないのか、道路中央にかたまって駐輪している。

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 千日前商店街(アーケード)を抜けて、「なんばグランド花月」前に行ってみると、もう21:15。

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 大阪の人は、たこ焼きがなぜ好きなんだろうか。「なんばグランド花月」隣にある「たこ焼き道楽・ わなか」千日前本店で、買って食べてみる。

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 この店は、大阪の数あるたこ焼き店でも3本の指に入るほどの人気店だそうだ。生地にかつおと昆布のダシが効いていて、卵も入ってるので美味しく、何もつけなくても良いそうだ。もちろん外はカリッ、中身は思ったよりかなりトロ~としていて、今まで食べた事のないような感触。もっとも出来立ては熱すぎて、あんまり味わう余裕はなかったが。 中に入っているたこは、やや小さい気がする。

 

 週末の夜の繁華街の流れは絶えないが、21:40ホテルに戻る。24:00過ぎて就寝。

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 本ブログ「大阪探訪の旅-その2」に続く。    

 

 ★ ★ ★

 大阪には昔、時々行ったことがあったが、ほとんど忘れてしまった。所々で記憶がよみがえって来ると、懐かしさが湧きあがってくる。地下鉄や地名の方向感覚は、ピンと来ない。エスカレータも意識して大阪式に右側に立つが、しばらくするとうっかり左側に立っていることがある。大阪と東京で、うどんの薄い・濃い味のように、右・左がはっきりした文化の違いがあるのは面白い。

 万博は、1970年3月14日から開催された。3月末ころ、九州から上京することがあった。せっかくだから、ちょっとだけでも万博でも見ておこうと、無計画に大阪に寄った。大阪駅に夜に着き、駅構内の床の上で新聞紙を敷き、横になって寝た。

 若い旅行者やホームレスなど数10人くらいが、大阪駅構内で寝ていた。コートを着ていたが、3月末の深夜・朝方はとても寒くて、寝られなかった。何故そんなところで寝たのか、理由は憶えてない。当時は、寝台車泊で移動する旅行が多かったが、寝台切符がく取れなかったのだろうか。

 翌朝早くに、大阪駅から地下鉄に乗って、万博会場中央口駅で下車したのは、この記事の最初に述べた通り。前売り入場券も持ってなく、当日券販売の窓口は、買い求める人が詰めかけていて、何時間も並ぶようだった。

 こんな調子だから、万博をちょっと見るだけで1日かかってしまう。その日のうちに東京にたどり着かないので、入場をあきらめ、そのまま新大阪から新幹線で東京に向かった。大阪は、そんな苦い思い出がある。

 

 ★ ★ ★

 3月3日(木)午前、民博の本館2階で展示替えのため閉鎖中だった「アイヌの文化展示」内で出火、通報を受けた消防により約30分後に鎮火したという。

 原因は、資料映像用として茅葺家屋付近を撮影中に、撮影用電球の熱で屋根が燃え出した。来館者や職員ら約310人は、一時屋外に避難するなど大騒ぎだったろう。

 消火活動を行った際、消火器の薬剤が飛散。「アイヌの文化」や隣接の「中央・北アジア」の展示物に微細粉末かかかり、除去に時間がかかるという。これらのコーナーは6月16日まで公開を延期。あわせて、展示物を新構築する予定だった「朝鮮半島の文化」、「中国地域の文化」、「日本の文化」の展示も、6月15日まで閉鎖となった。

 

 ★ ★ ★

 民博は1974年(昭和49年)に創設、1977年(昭和52年)に開館した。大学共同利用機関であり、総合研究大学院大学の文化科学研究科も設置、民族学と文化人類学を中心とした研究と展示を行っている。つまり研究所、兼博物館である。国立の東京・京都・奈良・九州博物館が文化庁の所管であるのに対し、民博は学生のいない大学で、文科省学術国際局の所管だそうだ。大学の研究室が、市民のための博物館と結合している。

 初代館長の梅棹(うめさお)忠夫氏は、生態学者、民族学者、情報学者。民博名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、京大名誉教授。理学博士。京大理学部卒で、生態学を出発点に動物社会学を経て民族学、比較文明論と研究を移した。日本における民族学のパイオニア。京大では、今西錦司門下の一人だった。2010年(平成22)、90歳で亡くなっている。

 氏は、若い時から登山や探検に熱中。数多くのフィールドワークの経験から、カードを使った情報整理法を考案。その方法をまとめた『知的生産の技術』(岩波新書、1969年)は、ベストセラーになった。筆者は当時その本を読んで、氏の人物像を知った。

 ヨーロッパ諸国にはすでに、20世紀前半から民族学博物館を持っていた。梅棹氏が中心になって、各界にその必要性を訴え、民博創設に尽力した。しかし最初に民族学博物館を政府に建議したのは80年ほど前、渋沢栄一の孫で後に大蔵大臣・日銀総裁を務めた渋沢敬三氏。渋沢氏は、財界人でありながら民族学者。自宅に民俗学資料を収集、その後東京郊外に個人の博物館を建てたそうだ。

 民族博物館でなく民族学博物館、「学」がついている。「民族学」は、単なるガラクタ集めや雑学ではなく、一つの学問であると梅沢氏は言う。氏によると、「民族学」とは世界の諸民族の文化と社会を比較研究する、要するに人間のことは何でも扱う学問。それは国際理解のためのもっとも手近かな手がかりであり、民博の展示はそれを目的にしているという。

 一方で似た言葉に「民俗学」という分野がある。自国の民間伝承や言葉・風俗・信仰などにかかわる学問。柳田国男氏が、「民俗学の父」とされている。千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」は、民博のように世界の諸民族を対象したものでなく、主に日本の歴史と人々を対象にしているそうだ。

 しかし「民族学」という呼称は、最近あまり聞かなくなった。1934年(昭和9)に設立された「日本民族学会」は、2004年に「日本文化人類学会」に改称されたそうだ。「民族学」は、「文化人類学」とほぼ同じ学問分野で、前者は後者に吸収された感があり、「民族学」という言葉そのものは使われない傾向にあるようだ。

 

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