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2016年6月27日 (月)

吉見朝観音2016

 2016年6月18日(木)、今年も埼玉県比企郡吉見町の「吉見朝観音詣り」に行く。

 

 古くから「吉見観音」として親しまれている坂東11番札所「安楽寺」(埼玉県比企郡吉見町)では、毎年6月18日に朝早くお詣りするとご利益があるという「厄除け朝観音ご開帳」がある。

 今年も御開帳のこの日に合わせ、恒例の早朝のウォーキングに参加。

 一昨年はどんよりとした曇空、昨年はあいにくの雨の中で傘を差してのウォーキング。今年のこの日は、前日に続き最高気温が30℃を超す真夏日の予報。朝から雲一つない青空のもと、午前4時半ウォーキング開始。5時には他のウォーカーと合流し、「吉見観音」へ向かう。

 

 古墳時代の横穴墓群の遺跡のある「吉見百穴(ひゃくあな)」の付近を歩く。

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 朝日を浴びて、小道を歩く。

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 だんだんと陽が高くなり、日差しが強くなってやや汗ばんで来る6時頃、「吉見観音」に到着。

 境内や参道には、名物の「厄除け団子」などを売る露店が並び、未明から団子を買い求める参拝客でにぎわっている。

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 いつも参道で店を開いている厄除け団子の「どびんや」は、今朝は3時半には開店して4時半には売り切れたので、店を閉めたそうだ。

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 本堂から山門を見下ろす。

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 参拝後、近くの空き地で団体から弁当とお茶を頂き、朝食。お土産の厄除け団子が配られ、7時頃に解散。

 

 坂東三十三札所の第9番「慈光寺」(埼玉県ときがわ町)と第10番「正法寺」(岩殿観音、東松山市)とともにこの「吉見観音」(安楽寺)の埼玉県比企地域の3ヶ寺は、「比企三山」とも呼ばれている。鎌倉幕府初代将軍となった源頼朝の異母弟の源範頼(のりより)が、この「吉見観音」(安楽寺)と深いゆかりがあったそうだ。

 県の文化財に指定されている山門(仁王門)、本堂や三重塔を見学しながら、観光ガイドの話を聞く。

 本堂には、左甚五郎作とされる「野荒しの虎」伝説の欄間彫刻。

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 竹林の虎の前足下はタケノコ。右後ろ足に怪我を負っている。

 野荒しの虎の伝説: この付近では、夜ごと田畑や家畜を荒らしまわる虎がいて、村人は大変困っていた。ある夜村人総出で虎刈りを行った際、虎の足を槍で突いたが、逃げられてしまった。血の跡を辿って行くと安楽寺のお堂まで続いており、欄間の虎の後ろ足には血がついていたという。

 いつの時代のものか、範頼が描かれた絵馬も本堂に奉納されている。

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 御開帳された御本尊を拝顔させていただく。

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 県指定の有形文化財「三重塔」。江戸時代初期の塔は関東でも珍しく、その特徴を良く表しているそうだ。

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 この日の歩数は2万歩、歩程10kmのウォーキング、午前9時ころ帰宅。

 

 ★★★

 「吉見観音」つまり「安楽寺」は、奈良時代・天平年間(西暦730年頃)に僧・行基がこの地に観世音菩薩の像を彫って岩窟に安置したことが始まりとされる。また平安時代初期の大同年間(西暦806年頃)に、坂上田村麻呂が奥州征伐の途中この地に立ち寄り、戦勝を祈願し堂宇を建立したと伝えられる。

 もともと「安楽寺」(岩殿山光明院安楽寺)には、東南東に350mほど離れた所に本坊「息障院」があった。息障院は、真言宗智山派、岩殿山息障院光明寺と称する。寺の縁起(開創・開基、その年代)も宗派も安楽寺と同じ。

 そもそも「息障院」と「安楽寺」は、かつては一つの大寺院を形成していたことが知られている。その後室町時代の明徳年間(1390年~1393年)、「息障院」はこの寺の南東へ約800mのところへ移ったと伝えられる。今なおこの寺の周囲には、範頼の館跡と思われる堀の一部等が残っていおり、現在の「息障院」の境内地は、県指定旧跡に指定されている。

 平安時代末期、源頼朝の異母弟の源範頼は、平治の乱後この「息障院」に逃げて来て、地元の豪族・比企氏の庇護によって成長したと伝えられる。範頼は源義朝の6男で、遠江国蒲御厨(かばのみくりや、現静岡県浜松市)で生まれ育ったため、蒲冠者(かばのかじゃ)ともいわれる。

 頼朝が鎌倉で勢力を得た後も吉見に住んでいたと思われ、範頼の居館を中心とするこの地一帯を、御所(現在、埼玉県吉見町大字御所)と呼ぶようになったそうだ。しかし記録が少なくて、果たして吉見の地と範頼がどこまで深い関わりを持っていたのか、はっきりしないとも聞く。

 範頼は、源平の合戦では異母弟の義経と共に平氏追討軍を指揮した。頼朝が征夷大将軍になると謀反の疑いをかけられ、1193年(建久4年)に伊豆に流された。範頼のその後については不明で、修善寺で自刃したなどの諸説がある。

 範頼没後は、その子・範円(のりかど、または範国)、為頼、義春、義世(よしよ)に至る5代がこの館跡に居住し、吉見氏と称した。しかし義春、次いで義世は、権力を握った北条氏によりで謀反の罪で殺された。また後世の戦国時代に、松山城(東松山市)の城主として登場する上田氏は、吉見氏の末裔との説もある。

 吉見の地を領していた範頼により、「安楽寺」に本堂と三重塔が建立されたと伝わる。しかし1537年(天文6年)、小田原の後北条氏が松山城を攻め、その戦乱によって全ての伽藍が消失した。現在の「安楽寺」本堂は、1661年(寛文元年)の再建、三重塔は更に古い寛永年間(1624~1645)の建立。現在の三重塔は高さが約24mだが、範頼が建てたものはその2倍の48mもあって壮大なものであったという。

 「安楽寺」の本堂、三重塔、三棟(みつむね)造りの仁王門(山門)は、県の指定文化財。仁王門の中にある仁王像は、町指定の文化財となっている。

 

 2015年ブログ記事「吉見朝観音2015」は、こちら。
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-aef0.html

 2014年のブログ記事「吉見朝観音2014」は、こちら。
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-8047.html

 2013年のブログ記事「吉見朝観音2013」は、こちら。
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-8047.html

 2012年のブログ記事「吉見朝観音2012」は、こちら。
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-8047.html

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