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2016年6月の8件の投稿

2016年6月29日 (水)

渡良瀬遊水地ウォーク

 2016年6月19日(日)、渡良瀬遊水地ウォーク。

 

 「渡良瀬遊水地」の自然と歴史を訪ね、東武日光線の藤岡駅から板倉東洋大前駅まで約15Km歩く。 

 「渡良瀬遊水地」は、わが国で最大の面積を誇る遊水地。茨城県古河市の北西に位置し、埼玉県、茨城県、栃木県、群馬県の4県にまたがり、総面積33km²(3300ha)にもなる広大な調節池。これは、山手線で囲まれた面積の半分に相当するというから、いかに大きいかが分かる。
 
 JR東北線宇都宮行きに乗り、栗橋駅で東武日光線に乗り換える。

 10:23、東武日光線の藤岡駅着。
   

 
●藤岡駅(スタート)

 10:40、藤岡駅前を出発。参加者6人。

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 駅前には、小さいタクシー会社以外は何もない。

 駅から住宅街を南に約2km、15分ほど歩くと繁桂寺の白壁と古い山門がある。

    
●繁桂寺(はんけいじ) 10:55~11:05

 正式には「潜龍山・繁桂禅寺」と称する曹洞宗の寺院。本堂は、コンクリート造りで新しい。

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 平安時代1145年頃の建立で、室町時代1628年(寛永5年)にこの地に移ったという歴史をのある古刹。境内には、藤岡城主の藤岡佐渡守、漢学者の森鴎村、実業家の岩崎清七などの墓がある。境内にある藤棚が有名で、5月上旬に紫色の花が垂れ下がるという。

 11:10、コンビニに寄って、昼の弁当購入。

 コンビニを出ると立派な栃木市藤岡体育館が建っていて、その隣に「栃木市藤岡遊水会館」がある。 

 

●藤岡遊水池会館 11:25~11:45

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 遊水池会館に入館(無料)。1階は、渡良瀬遊水地と湿地に関する情報提供、資料の公開、展示などを行う。半円形のコーナーに、渡瀬遊水地を感じられるようなパノラマ写真が設置。また栃木市のイベント、観察会、講座などの紹介を行っている。

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 遊水館のスタッフから、簡単な説明を聞く。

 2階は、貸出用の大会議室と栃木市の遊水地課事務室となっているそうだ。

 

 渡良瀬遊水地に向かって歩く。

 堤防に上ると、一面がヨシ(又は葦、アシ)原に覆われた広大な遊水地。その中に樹木や芝生が植栽されているゴルフ場「渡良瀬カントリークラブ」がある。写真では見えないが、遠くには筑波山が霞む。

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 堤防の上に作られた舗装された遊歩道を南に向かって歩く。時々サイクリングの自転車が、追い越して行く。

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 遠くに見えるビルは、古河の市街地。

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 ヨシ原は、遊水地総面積の半分を占めるという。3月下旬には、自然環境保全のため「ヨシ焼き」が行われる。

 しばらく堤防の上の遊歩道を歩くと、堤防の外に「旧谷中村合同慰霊碑」がある。

 

●旧谷中村合同慰霊碑 12:10~12:40 

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 足尾鉱毒事件に端を発した公害対策として、谷中村は1906年(明治39年)廃村となり藤岡町に合併。1973年(昭和48年)、旧谷中村の墓地を集め、納骨堂を兼ねた合同慰霊碑が建立された。

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 並べられた石塔には、「十九夜」や「十九夜供養」の文字と上部に観音様のような像が彫られている。これは、月待塔と呼ばれる民間信仰。特定の月齢の夜に集まり、月待行事を行った講中で、供養の記念として建てた塔。

 月齢の十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などがあり、「講中」と称する仲間が集まり、飲食のたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事。十九夜講はほとんど女人講で、祈願も安産や育児、婦人の病などが多いそうだ。如意輪観音を祀る。

 このほか、庚申講の庚申塔なども集められている。合祀を拒んだ一部子孫の墓地は、この合同慰霊碑に移設されず、延命院跡などの墓地に残されているという。

 こで昼食・休憩。

 

 12:42、北エントランス(写真下)を通過。車で入る遊水地の入口(エントランス)は2か所あり、もう一つは中央エントランス。

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 北エントランス付近から、堤防の遊歩道を左に折れ、遊水地の中の直線道路を1.4kmほど歩く。

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 「谷中村遺跡を守る会」が立てた「横堤跡」の看板。

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 どこか特定できないが、この辺りに横堤という集落があったようだ。一軒一軒に当時の住居者の氏名(写真をクリックすると拡大表示)が書かれている。

 ここに来るまでに、ヨシ原の中にこんもりと盛り上がった丘に樹木が茂っている場所を2、3ヶ所見た。それが横堤の屋敷跡だったのかは確認できない。

 T字路に「谷中村遺跡入口」の道標。右に折れると、9時30分~17時までと表示のあるゲートがある。

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 ゲートを抜けると、その先右手に「ウォッチングタワー」(展望台)が建っている。

  
   
●ウォッチングタワー 13:10~13:30

 遊水地を一望、好天なら富士山のほか、浅間山、男体山や筑波山などの関東の山々も見晴らせるという。ここでしばし休憩。

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 眼下の道路は、左手の方向から歩いて来た。

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 谷中湖にそそぐ水路。この先の谷中湖の入口には水門がある。

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 水路の左手のアシ原は、「ヨシ原浄化施設」。ヨシの自然浄化機能により、生活雑排水や窒素・リン等を含む河川水をきれいな水にして谷中湖に流す。

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   バーベキューも楽しめる「子供広場ゾーン」(芝生広場)、大駐車場、レンタサイクルセンター、売店を通って、谷中湖の湖畔に着く。

 
●体験活動センターわたらせ 13:45~13:55

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 遊水地、湿地を見て触れて感じる体験、学習活動の支援を行う場。

 このセンターのスタッフから、遊水地や谷中湖の説明を聞く。

 
   
●史跡保存ゾーン 14:00~14:05 

 少し高台になった谷中村役場跡は、今は更地になっていて東屋が建っていた。

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 谷中村史跡保存ゾーンには、旧谷中村の役場跡、邸宅跡などには、住居者の氏名が書かれた碑が建てられいる。また、地図や谷中村廃村までの経緯が書かれた案内板で詳しく知ることができる。行かなかったが、他に雷電神社跡、延命院跡、屋敷跡などの史跡がある。

 
   
●谷中湖

  ハート形の人工の谷中湖は、面積4.5平方キロ、周囲9.2Kmにおよぶ巨大な貯水池。大雨時に貯水し、洪水を防ぐ目的で作られたが、栃木・埼玉・千葉・東京の生活用水池としても大きな役割を果たしているそうだ。

 谷中湖が、ダムだとは知らなかった。日本最初の平地型ダムだそうだ。写真は、国交省関東地方整備局利根川上流河川事務所のパンフから転載。

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 広々とした谷中湖は3つのブロックに分かれ、北ブロックではウインドサーフィンなどのウォータースポーツで賑わい(写真下)、谷中ブロックと南ブロックでは、魚釣りが楽しめる。

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 谷中湖の湖畔と湖上の遊歩道を約1/4周する。写真は、谷中湖の西岸から見る「北橋」。

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 「北橋」から見る谷中ブロックの人工浮島と「東橋」。

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 谷中ブロックの湖面には人口浮島を造り水質の改善を行い、水鳥の休息地や魚のすみかになっている。また、谷中ブロックに隣接して野鳥観察のできる「野鳥観察台」がある。

 写真は「西橋」を谷中湖の西岸から見る。

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 この後、「下宮橋」を渡って遊水地を出、県道9号線を横断、南西に20分ほど歩き東武日光線の柳生駅がゴール。

 しかし我々は、「下宮橋」を渡らず、ここから谷中湖の湖岸に沿って2km(約35分)ほど北上し、1つ先の駅の板倉東洋大前駅を目指す。

 15:17「思い出橋」を渡り、遊水地の外に出る。ここから、約2Km先に板倉東洋大前駅がある。板倉町立東小学校の脇を抜けると、駅の近くに「わたらせ自然館」があった。

 

●わたらせ自然館 15:30~15:35

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 入館無料。遊水地の立体模型、植物の写真・標本、昆虫標本などが展示。 ここは、群馬県板倉町の施設。

 
   
●板倉東洋大前駅(ゴール)

 15:45、東武日光線の板倉東洋大前駅に到着。駅の西口側には、東洋大のキャンパスが広がっている。

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 ここまで歩程約15Km、25,000歩。休憩含め約5時間だった。

   
 16:04板倉東洋大前駅発、南栗橋行き。栗橋でJR宇都宮線伊東行に乗り換え。16:53、大宮駅で下車。

 17:30~19:35、大宮駅東口一番街の居酒屋「鰓(えら)呼吸」で反省会。

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 大宮駅で解散。

 

 ★ ★ ★

 北関東を流れる利根川水系の渡良瀬川に、思川(おもいがわ)と巴波川(うずまがわ)が合流する辺りは、広大な湿地帯となっていた。

 ここは明治時代、渡良瀬川上流の足尾 銅山から出る鉱毒で渡良瀬川は汚染され、やがて田中正造が明治天皇へ直訴するという「足尾鉱毒事件」の舞台となった場所。日本の公害の原点となった。

 当時政府は、谷中村を廃村としたうえ鉱毒を沈殿させ無害化することを目的に、渡良瀬川下流の周辺湿地帯を含めたこの地域を貯水池化するために造られたのが「渡良瀬遊水地」。大半が栃木県栃木市(旧藤岡町)に属し、残りの部分が栃木県小山市、栃木県下都賀郡野木町、茨城県古河市、埼玉県加須市、群馬県邑楽郡板倉町に属する。

 その一方で利根川水系は、台風などの大雨時に堤防を決壊、大洪水 を発生させたため、1963年(昭和38年)以降は洪水対策として、渡良瀬貯水池が段階的に整備され、関東地域の洪水調節・都市用水の需給に役割を果たしている。

 また2012年(平成24年)、渡良瀬遊水地は水鳥や多様な湿地の生態系を守るために制定された「ラムサール条約」に登録された。

 人工の谷中湖(渡良瀬貯水池)は、1976年に着工し2002年に完成した。湖がハート形をしているのは、ハートの凹みの部分に谷中村の遺跡があり、1972年の造成時にブルドーザーに身を挺して守った谷中村の子孫たちの闘いの結果だという。

 
   
 関連ブログ「尚仁沢湧水と足尾銅山」 2015年8月6 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-f3d8.html

 関連ブログ「渡良瀬遊水地」 2014年3月28日 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-6b27.html
   

2016年6月27日 (月)

吉見朝観音2016

 2016年6月18日(木)、今年も埼玉県比企郡吉見町の「吉見朝観音詣り」に行く。

 

 古くから「吉見観音」として親しまれている坂東11番札所「安楽寺」(埼玉県比企郡吉見町)では、毎年6月18日に朝早くお詣りするとご利益があるという「厄除け朝観音ご開帳」がある。

 今年も御開帳のこの日に合わせ、恒例の早朝のウォーキングに参加。

 一昨年はどんよりとした曇空、昨年はあいにくの雨の中で傘を差してのウォーキング。今年のこの日は、前日に続き最高気温が30℃を超す真夏日の予報。朝から雲一つない青空のもと、午前4時半ウォーキング開始。5時には他のウォーカーと合流し、「吉見観音」へ向かう。

 

 古墳時代の横穴墓群の遺跡のある「吉見百穴(ひゃくあな)」の付近を歩く。

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 朝日を浴びて、小道を歩く。

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 だんだんと陽が高くなり、日差しが強くなってやや汗ばんで来る6時頃、「吉見観音」に到着。

 境内や参道には、名物の「厄除け団子」などを売る露店が並び、未明から団子を買い求める参拝客でにぎわっている。

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 いつも参道で店を開いている厄除け団子の「どびんや」は、今朝は3時半には開店して4時半には売り切れたので、店を閉めたそうだ。

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 本堂から山門を見下ろす。

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 参拝後、近くの空き地で団体から弁当とお茶を頂き、朝食。お土産の厄除け団子が配られ、7時頃に解散。

 

 坂東三十三札所の第9番「慈光寺」(埼玉県ときがわ町)と第10番「正法寺」(岩殿観音、東松山市)とともにこの「吉見観音」(安楽寺)の埼玉県比企地域の3ヶ寺は、「比企三山」とも呼ばれている。鎌倉幕府初代将軍となった源頼朝の異母弟の源範頼(のりより)が、この「吉見観音」(安楽寺)と深いゆかりがあったそうだ。

 県の文化財に指定されている山門(仁王門)、本堂や三重塔を見学しながら、観光ガイドの話を聞く。

 本堂には、左甚五郎作とされる「野荒しの虎」伝説の欄間彫刻。

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 竹林の虎の前足下はタケノコ。右後ろ足に怪我を負っている。

 野荒しの虎の伝説: この付近では、夜ごと田畑や家畜を荒らしまわる虎がいて、村人は大変困っていた。ある夜村人総出で虎刈りを行った際、虎の足を槍で突いたが、逃げられてしまった。血の跡を辿って行くと安楽寺のお堂まで続いており、欄間の虎の後ろ足には血がついていたという。

 いつの時代のものか、範頼が描かれた絵馬も本堂に奉納されている。

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 御開帳された御本尊を拝顔させていただく。

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 県指定の有形文化財「三重塔」。江戸時代初期の塔は関東でも珍しく、その特徴を良く表しているそうだ。

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 この日の歩数は2万歩、歩程10kmのウォーキング、午前9時ころ帰宅。

 

 ★★★

 「吉見観音」つまり「安楽寺」は、奈良時代・天平年間(西暦730年頃)に僧・行基がこの地に観世音菩薩の像を彫って岩窟に安置したことが始まりとされる。また平安時代初期の大同年間(西暦806年頃)に、坂上田村麻呂が奥州征伐の途中この地に立ち寄り、戦勝を祈願し堂宇を建立したと伝えられる。

 もともと「安楽寺」(岩殿山光明院安楽寺)には、東南東に350mほど離れた所に本坊「息障院」があった。息障院は、真言宗智山派、岩殿山息障院光明寺と称する。寺の縁起(開創・開基、その年代)も宗派も安楽寺と同じ。

 そもそも「息障院」と「安楽寺」は、かつては一つの大寺院を形成していたことが知られている。その後室町時代の明徳年間(1390年~1393年)、「息障院」はこの寺の南東へ約800mのところへ移ったと伝えられる。今なおこの寺の周囲には、範頼の館跡と思われる堀の一部等が残っていおり、現在の「息障院」の境内地は、県指定旧跡に指定されている。

 平安時代末期、源頼朝の異母弟の源範頼は、平治の乱後この「息障院」に逃げて来て、地元の豪族・比企氏の庇護によって成長したと伝えられる。範頼は源義朝の6男で、遠江国蒲御厨(かばのみくりや、現静岡県浜松市)で生まれ育ったため、蒲冠者(かばのかじゃ)ともいわれる。

 頼朝が鎌倉で勢力を得た後も吉見に住んでいたと思われ、範頼の居館を中心とするこの地一帯を、御所(現在、埼玉県吉見町大字御所)と呼ぶようになったそうだ。しかし記録が少なくて、果たして吉見の地と範頼がどこまで深い関わりを持っていたのか、はっきりしないとも聞く。

 範頼は、源平の合戦では異母弟の義経と共に平氏追討軍を指揮した。頼朝が征夷大将軍になると謀反の疑いをかけられ、1193年(建久4年)に伊豆に流された。範頼のその後については不明で、修善寺で自刃したなどの諸説がある。

 範頼没後は、その子・範円(のりかど、または範国)、為頼、義春、義世(よしよ)に至る5代がこの館跡に居住し、吉見氏と称した。しかし義春、次いで義世は、権力を握った北条氏によりで謀反の罪で殺された。また後世の戦国時代に、松山城(東松山市)の城主として登場する上田氏は、吉見氏の末裔との説もある。

 吉見の地を領していた範頼により、「安楽寺」に本堂と三重塔が建立されたと伝わる。しかし1537年(天文6年)、小田原の後北条氏が松山城を攻め、その戦乱によって全ての伽藍が消失した。現在の「安楽寺」本堂は、1661年(寛文元年)の再建、三重塔は更に古い寛永年間(1624~1645)の建立。現在の三重塔は高さが約24mだが、範頼が建てたものはその2倍の48mもあって壮大なものであったという。

 「安楽寺」の本堂、三重塔、三棟(みつむね)造りの仁王門(山門)は、県の指定文化財。仁王門の中にある仁王像は、町指定の文化財となっている。

 

 2015年ブログ記事「吉見朝観音2015」は、こちら。
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-aef0.html

 2014年のブログ記事「吉見朝観音2014」は、こちら。
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 2013年のブログ記事「吉見朝観音2013」は、こちら。
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 2012年のブログ記事「吉見朝観音2012」は、こちら。
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2016年6月24日 (金)

大阪探訪の旅-その3

 2016年5月28(土)~30日(月)、2泊3日の大阪の歴史・文化探訪の旅。

 本ブログ「大阪探訪の旅-その2」の続き。

 

 5月30日(月)、旅の3日目(最終日)。中之島界隈を歩く。

 8:30、ホテルをチェックアウト。近くのコンビニで不要な荷物を自宅に送り、身軽になる。

 8:42日本橋駅発の地下鉄堺筋線に乗車、8:49南森町駅着。

 

●大阪天満宮

 南森町駅から徒歩数分で菅原道真公を祭った神社「大阪天満宮」へ。

 9:05、天満宮の表門(大門)。

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 権現造りの本殿に参拝。福岡の「大宰府天満宮」や東京の「湯島天満宮」に似ている。

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 901年に菅原道真は、政敵・藤原時平の策略によって、九州大宰府へ左遷させられることになった。大宰府に赴く前、中之島にあったここの「大将軍社」に参詣した。903年、59歳で道真が没した後、天神信仰が始まる。

 949年、「大将軍社」の前に突然7本の松が生え、霊光を放ったという不思議な話がが都に伝わった。村上天皇の勅命によって、道真を祀る天満宮を建立させたと伝えられている。

 境内にある「大将軍社」(写真下)は、天満宮が本社でその摂社(本社と縁の深い神社)となっている。

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 「太宰府天満宮」(福岡)と「北野天満宮」(京都)の二つに、天神祭で有名なここ「大阪天満宮」を入れた三つが「日本三大天神」だと思っていた。しかしそれは異説で、三つめは天満宮の中で最も古い歴史を持つ「防府天満宮」(山口県)を入れるのが、一般的のようだ。

 9:20天満宮を出て、天神橋筋を徒歩約10分で天神橋。橋の中央付近から、らせん階段で中之島公園へ下りる。

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●中之島公園

 9:35、中之島公園のバラ園。約4,00株のバラは、見頃を過ぎていた。

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 「ばらぞの橋」付近からバラ園と阪神高速道方面を見る。

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 中之島公園は1891年(明治24)、大阪市初の市営公園。堂島川と土佐掘川にはさまれた延長約1.5Km、面積10.6haの水辺公園。大阪の都心、オフィス街のオアシス。中央公会堂や中之島図書館などの歴史的建築物ほか現代的なビル群と緑が川面に映える。

 淀屋橋から肥後橋まで延長400mは、ケヤキ、ツバキ、ツツジなどの緑と10体の彫刻が設置されたの「中之島緑道」があるそうだ。

 

 9:55、「大阪市立東洋陶磁美術館」を通過。

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 住友グループから大阪市に寄贈された「安宅コレクション」と呼ばれる東洋陶磁コレクションを中心として1982年(昭和57年)に設立された美術館。安宅コレクションは、経営破綻した総合商社・安宅産業の元会長で芸術愛好家・安宅英一氏が収集した美術品。
 

 

●大阪市中央公会堂(通称:中之島公会堂)

 しばらく公会堂の前で休憩した後、10:30「大阪市中央公会堂」に入館。

 中之島のシンボルで、赤煉瓦造りのこの公会堂は、大正時代のネオ・ルネッサンス様式の建築物。国指定の重要文化財。

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 1911年(明治44年)、株式仲買人の岩本栄之助が公会堂建設費として100万円を寄付したことにより、建設計画が始まった。懸賞付建築設計コンペにより岡田信一郎が1位を取り、その設計原案に基づいて、辰野金吾と片岡安が実施設計というように、当時を代表する建築家たちによって設計された。

 1913年(大正2年)に着工、1918年(大正7年)に開館。岩本栄之助は、第一次大戦による相場変動で大損失を出し、公会堂の完成を見ないまま1916年(大正5)に自殺した。

 3階へエレベータで上り、地下1階の展示室まで見学エリアを巡りながら下りる。公会堂の各室は、貸室のため見学できない。

 下の写真の左は大集会室、右は特別室。パンフより転載。

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 地下1階の展示室。寄付をした岩本氏ゆかりの記念品や近代大阪の名建築物の資料などが展示されている。

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 「大大阪時代の中之島」と題するパネル。1924年(大正13)発行の『大阪パノラマ地図』。

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 パネルの説明文は次の通り。

 「1918(大正7)年の中央公会堂竣工後から7年後の1925(大正14)年、大阪市は市域を拡大、人口も200万人を超え、面積、人口ともに東京市をぬいて日本第一の都市、世界でも第6位の大都市となりました。以後、昭和初期頃までを『大大阪時代』と呼びます。」 

 

●大阪府立中之島図書館

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 住友家の寄付を受けて、ネオ・バロック様式で建てられ、1904年(明治37)に「大阪図書館」として開館した。国指定の重要文化財。

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 10:55、中之島図書館に入館。エントランスを見る。

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 もう一つの府立図書館である「大阪府立中央図書館」(東大阪市)が、一般書から学術書まで幅広い分野の本を所蔵しているのに対し、「府立中之島図書館」は古文書や大阪関連の文献、ビジネス関係分野の書籍・資料に特化している。蔵書数は約55万冊。

 1906年(明治39)に「大阪府立図書館」に、1974年(昭和49)に「大阪府立中之島図書館」と改称。

 

●大阪市役所

 半年前まで橋下徹氏が市長をしていた「大阪市役所」は、図書館の隣にある。

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●旧日本銀行大阪支店

 大江橋南詰交差点からメインストリートの御堂筋を南に歩き、11:05「旧日本銀行大阪支店旧館」前を通過。

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 1903年(明治36)に、ベルギー国立銀行をモデルに建設された。緑青の円屋根をもつ煉瓦と石造りの2階建て洋風建築。設計は、日本銀行本店、東京駅舎や大阪市中央公会堂を手掛けた建築家・辰野金吾らによる。建物外観は、ネオ・ルネッサンス様式を主に取り入れている。

 江戸時代のこの地には、水戸藩や島原藩の蔵屋敷があり、明治初期には現在の郵便局に当たる「郵便役所」や、関西財界の指導者・五代友厚の別邸があったそうだ。

 日本銀行大阪支店は、一時は高層ビルへの全面建替えも計画されたが、1982年(昭和57)に御堂筋から見える東・南・北3面の外壁のほかドームの両側に三角屋根を組み合わせた屋根、旧貴賓室や大階段など重要な部分を保存して改築、西側敷地に新しい高層棟を新築した。

 

●大同生命大阪本社

 11:07淀屋橋を渡る。

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 中之島の対岸、土佐堀川に面して、NHK朝ドラマ『あさが来た』のヒロインのあさが嫁いだ先の両替屋の加島屋(ドラマでは、加野屋)の跡地に建てられた「大同生命大阪本社」ビル(写真中央)。淀屋橋から見る。

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 あさは、実在の広岡浅子のことで、明治を代表する女性実業家、教育家、社会運動家。

 また、ドラマに出て来た元薩摩藩士で大阪経済の基礎つくりをした五代友厚の像が、この界隈の大阪証券取引所の前、北浜1丁目交差点に建っているそうだ。

 

 淀屋橋を渡りきると、地下鉄淀屋橋駅。

 11:16淀屋橋駅発 、大阪市営御堂筋線・新大阪行 、11:26新大阪駅着。

 11:35~駅構内のそば処「やま家」で昼食(肉うどん680円)。みやげとビール・つまみを買い込み、新幹線ホームへ。

 

 13:03新大阪駅発「のぞみ22号」に乗車、15:33東京駅着。 「大阪探訪の旅」を終わる。

 17:30、自宅着。

 

 ★ ★ ★

 土曜と日曜の夜であったが、道頓堀界隈のにぎわいは驚いた。大阪の景気もいま一つ・・・という中で、予想外の活気であった。外国人の観光客も多い。定期的に観察したわけではないし、東京の新宿・渋谷と単純に比較するのも難しいが、やっぱり昔ながらの賑やかな大阪だった。

 そもそも大阪市は、かつて日本一の大都市になったという歴史を持っていたこと、大正末期から昭和初期にかけて「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれていた時代があったことは、今回初めて知った。その時代を象徴しているのが昭和初期、かつて天下を取った秀吉の大阪城天守閣(実際のところは、徳川天守だったが)の再興だったという。

 もともと近世から「天下の台所」と呼ばれた経済基盤があって、商業・紡績・鉄鋼などの産業が発展、文化・芸術・産業の中心都市として華やかで活気にあふれた黄金時代だった。こうして、大大阪時代は昭和に年号が変わった1920年代後半にピークを迎える。

 1923年(大正12年)の関東大震災により、東京市や関東の被災者の一部が大阪に大挙して転居し、急激に人口が増加したという。また1925年(大正14年)の大阪市域拡張によって近隣町村を編入、面積181平方Km、人口211万人となり、東京市を追い抜いて日本一になった。この当時は、世界でも6番目の人口であったそうだ。

 やがて東京市は、大震災からの「帝都復興祭」が1930年(昭和5年)に行われ、また1932年(昭和7年)には市域を拡張して面積551平方Km、人口497万人の大東京市が誕生。一方大阪は、第一次世界大戦後の戦時バブル崩壊や昭和恐慌で、繊維や金属産業が大打撃を受ける。さらに戦争への道を進む中で、統制経済等により次第に大阪経済は衰えて行く。

 戦後の復興期と高度経済成長期には、大阪は依然として東京に次ぐ大都市であり、西日本の中核都市であった。しかし、1960年代後半より更なる衰退が始まり、万博開催の1970年(昭和45年)の前後から厳しくなっていく。高度成長期から安定成長期となった1978年(昭和53年)、人口で首都圏の横浜市に第2位の座を奪われてしまう。(ただし、財政規模はまだ大阪市のほうが大きいそうだ)。

 1990年代初めのバブル崩壊とその後の長期不景気で、大阪市の人口減少続くが、それでも人口が増加し続けている中京圏の名古屋市が背後に迫っている。

 2016年2月の推計人口は、東京都区部 926万人、横浜市 373万人、大阪市 269万人、名古屋市 230万人である。

 

 ★ ★ ★

 JR東日本のSuicaや関東の私鉄・バスのPasumoなどの「ICカード乗車券」は、エリア内での相互利用できていたが、2013年からエリア外でも全国で相互利用が出来るようになった。

 今回の旅行では「ICカード乗車券」を使えば、どこに行くにも乗車券をいちいち購入しなくても済んだので、非常に便利だった。こういったシステムは、世界でも日本が一番進んでいるのだろう。将来、1枚のクレジットカードでどのこのホテルに宿泊できるように、世界中の都市の公共交通機関でICカード乗車券が使える時代が来るのだろうか。

 ただし、オートチャージ機能を持つICカード乗車券を持っていたが、残念ながら大阪ではオートチャージが出来ないようだ。

 今回の大阪探訪の旅を企画・計画してくれたTさん、Kさんに感謝。

2016年6月21日 (火)

大阪探訪の旅-その2

 2016年5月28(土)~30日(月)、2泊3日の大阪の歴史・文化探訪の旅。

 本ブログ「大阪探訪の旅-その1」の続き。

 

 5月29日(日)、旅の2日目。

 8:30、ホテルを出る。8:42日本橋駅発の千日前線に乗車、鶴橋駅で下車し、環状線に乗り換え。9:01、大阪城公園駅に到着。今日は、朝から青空が見える良い天気。

 駅から大阪城に向かう途中、何やらおばさんたちが、駅から続々とやって来る人たちを案内している。よく見ると、近くの「大阪城ホール」で宗教団体「生長の家」の大阪教区の大講習会が10時から開催されるようた。大阪教区は、生長の家の全国の教区の中でも一番大きな組織だそうだ。

 

●大阪城

 本丸の北東側の外濠に架かる「青屋門」から入り、内濠の「極楽橋」を渡る。

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 本丸の北にある「山里丸」(または山里曲輪(くるわ))に「刻印石広場」がある。築城の際に、諸大名から運ばれて家紋や産地を刻印された石が多数置いてある。

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 「秀頼・淀君ら自刃の地」とされる場所に、ひっそりと石碑が立つ。

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 9:55、大阪城天守閣前の広場に着く。広場から天守閣の正面を望む。

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 10:10~11:00、 ボランティアガイドの案内で、天守閣の周囲を巡る。

 本丸西側に設けられた「隠し曲輪」は、城内に侵入してきた敵兵を背後からつくための兵士の隠し場所。小さく目立たない出入り口が一つしかない。

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 国の重文指定の「金蔵」(きんぞう、かねぐら)は、幕府が莫大な金銀を保管していた。写真なし。

 初代の豊臣大坂城の発掘現場。1959年(昭和34)、秀吉が築いた大坂城は現在の大阪城の地下に眠っているのが明らかになった。1984年(昭和59)には、「金蔵」の東側で豊臣期の石垣が発見された。大阪市は「大坂夏の陣」400年を期に、初代大坂城の石垣を掘り起こす「豊臣期石垣公開プロジェクト」が進められ、募金を募っている。

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 本丸にある旧・大阪市立博物館の建物は、旧陸軍第四師団の司令部だった。欧州ロマネスク様式の貴重な建物。博物館は、2001年の「大阪歴史博物館」の開館にともない閉館となった。

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 日本庭園は、明治になって紀州徳川の紀州御殿を移築した際の名残りの庭園。

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 桜門枡形にある大阪城で一番大きい石(高さ約5.5mm、幅約11.7m)は、「蛸石(たこいし)」と呼ばれている。重量は推定108トン。

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 11:00~12:00、大阪城天守閣に入館する。入場料600円。

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 中に入ってすぐに気がついたのは、ここは木造でなくて鉄筋コンクリート造り、昔の天守内部の面影は全く無い。外は大坂城だが、内部は博物館だ。そしてコンクリートの階段や内壁を見て、いつの日だったかここを見学した記憶がよみがえった。

  1階は、天守閣のエントランスホール、シアタールームやショップなどがある。

 2階は、お城の情報コーナー。金のしゃちほこと伏虎(ふせとら)のレプリカは人気。

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   3階・4階は、文化財展示室(豊臣秀吉とその時代)。豊臣秀吉ゆかリの品々をはじめとする戦国時代の資料、大坂城にまつわる資料などを展示。しかしこの階は撮影禁止。理由は、重要文化財などの展示を行っているためというが残念。写真は、豊臣秀吉木像。カラーガイド『大阪城』(大阪城天守閣刊行)より転載。

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 5階は、展示室(大坂夏の陣図屏風の世界)。大阪夏の陣図屏風の世界を映像と模型を使い紹介。写真は、大坂夏の陣図屏風。カラーガイド『大阪城』(大阪城天守閣刊行)より転載。

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 6階は、回廊。7階は、展示室(豊臣秀吉の生涯)。 大坂城を築き、天下を統一した秀吉の生涯をわかりやすく紹介。

 8階は、展望台。地上50mから大阪の街を一望する。

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 ミュージアムショップで、小冊子『大阪城』(大阪城天守閣、500円)購入。

 豊臣秀吉の死後、秀吉にゆかりのある各地に豊国(とよくに)神社が建てられ、秀吉(豊国大明神)を祀った。明治になってから京都の豊国神社の大阪別社として、大阪に豊国(ほうこく)神社が創建された。秀吉のほか秀頼、秀長も配祀する。1961年(昭和36)、中之島から、現在の大阪城二の丸に遷座。秀吉の銅像が建っている。時間の都合で、見学はスキップ。

 12:10、大手門枡形の「多門櫓(たもんやぐら)」を抜けて、城外に出る。

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 南内濠の美しい石垣と「六番櫓」。

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 大手門を出てすぐの馬場町交差点を挟んで、大阪府警本部とNHK大阪放送会館のビルが建つ。そのNHKに隣接して、建物の断面が水の都の船をイメージした形をした「大阪歴史博物館」がある。

 

●大阪歴史博物館
         
 左手のビルが大阪歴史博物館、右手はNHK大阪放送会館。エントランスは共通で、下の半球の部分。

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 12:20、博物館に入館。観覧料は、540円。館内の撮影可。

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 10階から7階が常設展示、6階が特別展示。
 
   【10階(古代フロア) 難波宮の時代】

 エスカレータで10階まで上がると、そこには古代の世界。奈良時代の難波宮(なにわのみや)の大極殿(古代朝廷の正殿)。原寸大に復元した空間では、直径70cmもある朱塗りの円柱が立ち並び、官人たちが整列する。

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 大スクリーンでは、宮廷儀式のようすをわかりやすくご紹介していた。

 10階の窓から眼下に「難波宮跡公園」(高速道路の右手)が広がる。公園には難波宮の遺構が保存されている。

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 後期難波宮の復元模型。

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 大阪市平野区の長原古墳群から出土した舟形埴輪(国重文)。当時から難波は、水上交通の要であった。

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  【 9階(中世、近世フロア) 大坂本願寺の時代、天下の台所の時代】

 信長と戦った大坂本願寺(石山本願寺)の時代、大阪はその門前町であった。秀吉による大阪城築城を経て、「天下の台所」と称された江戸時代。水都めぐりと活気あふれる町人のくらしを再現。

 大坂本願寺(石山本願寺)御影堂の模型。

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 水運が発達、諸藩の蔵屋敷や米市、商工家が集中する浪速のまちめぐり。

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 大坂の商業の中心地であった船場の町並みの模型。

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   【8階(歴史を掘るフロア) 歴史を掘る特集展示】

 原寸大に再現した発掘現場が展示され、調査方法や遺構・遺物の見方を学べる。写真なし。

    【7階(近代現代フロア)  大大阪の時代】

 大正末期~昭和初期の「大大阪(だいおおさか)時代」を再現。にぎわった心斎橋筋、道頓堀などの街角を、大きさ、雰囲気そのままにリアルに再現。繁栄するモダン都市・大阪の街を歩くことができる。

 産業都市への歩みの展示。

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 明治維新以降、大阪は紡績ほか多くの民間工場が建設され、工業都市化が進む。大正末期には「大大阪」と呼ばれ、人口300万人を擁した。

 1940年(昭和15)の公設市場の八百屋と魚屋の店先を再現。

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 また心斎橋には、東京・銀座と肩を並べる名店街だった。

 劇場のまち「道頓堀・千日前」。1940年(昭和15)の角坐前を再現。

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 伝統的な歌舞伎、新しい演劇、映画など、道頓堀は「芝居のまち」として賑わった。

 

 13:00から10階で学芸員の30分程度の解説があったが、タイミングを逃して聞けなかった。図録を買おうと思ったが、1階にあるはずのミュージアムショップは閉店中のようだ。

 

 「大阪歴史博物館」の前身は、大阪城公園内にあった「大阪市立博物館」(旧陸軍第四師団司令部)で、1960年(昭和35年)に開館した。博物館には、総合、人文系、自然系博物館、動物園、植物園、水族館などがある。同博物館は、人文系の中で歴史系博物館の先駆けとされ、資料を持たずにゼロから出発したという。そのためか、国宝はなく重要文化財もわずかしかないが、模型、グラフィックや映像を使った大阪の歴史展示は、インパクトがあって分かり易い。

 

 13:30博物館を後にして、JR環状線の森ノ宮駅まで歩く。14:10から森ノ宮駅前のぎょうざの「王将」で、遅い昼食。とんこつラーメン421円。

 14:56、森ノ宮駅発の外回り天王寺方面に乗車。鶴橋駅で乗り換え、近鉄奈良線・大和西大寺行。15:12、八戸(やえ)の里駅(東大阪市)に到着。10分ほど歩くと、「司馬遼太郎記念館」に着く。

 

 
●司馬遼太郎記念館

  15:25、司馬遼太郎記念館に入館。入口に2人の年配の方が立っていて、入館の案内をしてくれる。聞くと、ボランティアだという。この記念館は、こういった近隣のボランティアの人々に支えられているそうだ。入館料500円。

 東大阪市の住宅街にある記念館は、司馬氏の自宅敷地に建てられている。自宅は、氏が好きだった雑木林をイメージした庭木で囲まれて、四季の花々も咲く。

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 庭からガラス越しに、書斎を間近に見ることが出来る。机には万年筆や色鉛筆など、亡くなる直前のままに置かれているという。手前には、休憩したり資料を読んだりするソファが置かれている。
 
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 安藤忠雄設計の記念館入口。

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 この先に受付があり、撮影不可。

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 この記念館は「見る」、というより「感じる」、「考える」記念館という位置づけだそうだ。

 高さ11mの壁面いっぱいに広がる、安藤忠雄氏設計の大書架には圧倒される。6万冊の蔵書のうち、このに2万冊が収められているという。この大書架は、テレビで見たことがあった。実際に自宅にあった書棚ではないが、司馬遼太郎の世界を想像してもらう空間だそうだ。

 撮影禁止のため、パンフレットから大書架の写真を転載する。

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 約150席のホールで、司馬氏に関する映像を鑑賞。

 ショップで、記念館図録『司馬遼太郎』(2015年、司馬遼太郎記念財団、2,160円)購入。

 16:20、記念館をあとにする。

          
 16:42八戸の里駅発、近鉄奈良線・尼崎行に乗車、日本橋駅で乗り換え堺筋線・天下茶屋行、17:05恵美須町駅着。

 

●通天閣

 大阪のシンボル「通天閣」を正面を見ながら、200mのメインストリート「通天閣本通り商店街」を歩く。

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 昭和のにおいがするレトロな商店街。日曜日の夕方だが、シャッターが降りた店もあり、通行する人影もまばら。 意外と寂しい。

 通天閣の真下に建てられた大正時代の将棋名人・坂田三吉の「王将碑」。

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  17:15、通天閣展望台の入口まで来て、もと来た道を戻って恵比寿駅へ。

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 17:30恵美須町駅発、堺筋線で17:32日本橋駅着。外は、小雨が降っている。

    
 道頓堀通りに行き、17:50~居酒屋「磯丸水産」とんぼり店で夕食。

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  19:30居酒屋を出て、19:35ホテル着。11:30就寝。

 

 なお本文で「大坂」と「大阪」の違いは、前者は江戸時代以前、後者は明治以降で区別した。

 この後は、本ブログ「大阪探訪の旅-その3」に続く。

 

 ★ ★ ★

 戦国の世、強大な勢力を誇っていた大寺院・石山(大坂)本願寺は、天下統一を目指す信長に屈し、大炎上した。信長の死後に秀吉は、大坂の良地であるこの跡地に、天下人にふさわしい豪奢な大城郭を築き上げた。台地の上にあって下を淀川が流れる天然の要害、京への交通の要であった。

 ボランティアガイドが言うには、昔地元では大阪城のことを「太閤さんのお城」とも呼んでいたと言う。筆者も、豊臣大坂城の石垣はそのままで、豊臣時代の天守閣をコンクリートで再建したものだと思っていた。ところが、1959年(昭和34年)の学術調査で、地表に現れている城跡に現存する櫓や石垣などはすべて、徳川によるものであることが確認されたというのは、初耳だった。

 徳川は、豊臣色をすべて払拭するため、大坂城の石垣と堀を破壊して「天下普請(ふしん)」を行い、全体に高さ約10mの盛り土をした上、より高い石垣を積み、豊臣天守と別の位置に徳川天守を造った。そのため豊臣大坂城の遺構は、すべて地中に埋もれている。天守以外の建物も徳川独自のものに造り替えた。徳川は、この「天下普請」を諸藩に課すことにより、その財政を逼迫させその勢力を削ぐことであったという。城郭の大きさは豊臣時代の4分の1程度の規模であるが、天守の高さも床面積も豊臣を越え、二重の堀割は江戸城をもしのぐという。

 江戸時代には、たびたびの火災や火薬庫の爆発で、天守や御殿など多数の建造物が損壊した。特に1665年(寛文5年)には落雷によって天守を焼失、以後天守は造られなかった。幕末の1868年(慶応3)、二条城から追われた将軍徳川慶喜が大坂城に移り居城していた。鳥羽・伏見の戦いの敗北によって、慶喜は船で江戸へ退却、大阪城は新政府軍に開け渡された。城内にいた幕府側の残党は放火し、御殿や櫓など城内の建造物のほとんどが、焼失してしまったそうだ。

 1931年(昭和6年)になって、市民の寄付金により復興天守を竣工、大阪の名所として多くの観光客が訪れるようになった。建物は、徳川大坂城の天守台石垣に、鉄骨鉄筋コンクリートで造られた。復興天守は、外観は4層までを徳川時代風の白漆喰壁としたが、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴の絵を描くという、徳川・豊臣の折衷城である。

 太平洋戦争の大阪空襲では、城内に陸軍第4師団司令部や周辺にも軍事施設もあったため、激しい爆撃にさらされた。櫓や門に甚大な被害を受けたり焼失したりしたが、天守閣の破壊は免れた。戦後、大阪城の全域は史跡公園として整備され、復興天守の中は現在博物館「大阪城天守閣」となっている。

 石山本願寺、豊臣大坂城、徳川大坂城、陸軍施設、市民の公園と、中世から現代までの歴史を刻んだ大阪の歴史がここにある。

 

 ★ ★ ★

 難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)にあった古代宮殿。難波宮の存在は『日本書紀』には載っていたが、終戦まで所在地は不明なまま。戦後、陸軍用地が開放されたことにより、山根徳太郎博士らは数度の予備調査の後の1954年(昭和29)から発掘調査が始まった。都市化が進み発掘は困難を極めたが、1960年(昭和35年)の前後に奈良時代より古い「難波宮」の位置と、そこに前後二期の宮殿があることが分かった。

 古い宮殿は(前期難波宮)は、645年に始まる中大兄皇子の大化の改新を受けて、孝徳天皇が飛鳥から遷都した難波宮と考えられる。日本初の本格的な宮殿建築とされ、652年に完成、日本初の本格的な宮殿建築とされる。その後686年に全焼するまで、現在の大阪市中央区に34年の間存続した。一時、飛鳥と難波の複都制の時代もあった。

 新しい宮殿は、同じ場所に聖武天皇によって726年に造営が始められ、平城京の副都となった「後期難波宮」。平城京からは恭仁京(くにきょう)に遷都、恭仁京から難波宮から744年に遷都した。

 大阪に古代の歴史があったとは、気がつかなかった。そういえば日本史の教科書に飛鳥、奈良、平安と京が移って行く過程で、難波宮というのがあったことを思い出す。大阪城のすぐ近い地に、もっと古い歴史を持つ古代都市があったことに改めて驚く。 

 

 ★ ★ ★

 司馬遼太郎記念館は、公益財団法人 「司馬遼太郎記念財団」が運営、記念館を拠点に文化活動を続けている。この財団は、氏が亡くなった1996年(平成8年)に財団法人の認可を受け、親交のあった友人、マスコミ11社、大阪府、東大阪市が理事として参加、司馬遼太郎の精神を後世に伝えるため、遺産の一部を使って運営しているという。

 主な文化活動は、「司馬遼太郎賞」や「司馬遼太郎フェローシップ」の選考、命日の2月12日前後の「菜の花忌」シンポジウム・講演会の開催など。「菜の花忌」は、氏が野に咲く花、とりわけ菜の花といった黄色い花が好きで、また『菜の花の沖』という小説があることにも由来するそうだ。

 産経新聞の記者時代から書き始めた司馬遼太郎の作品は、いったいどのくらいあるのだろうか。長編小説、短編小説、戯曲、随筆、紀行、対談、他に全集、選集など。数えてみようと思ったが、あきらめた。蔵書が6万冊あるそうだ。記念館にある2万冊の記念館の大書架を見て、誰もがその量に驚いたにちがいない。その蔵書の一部の一冊一冊の書名を見ながら、氏がいかにたくさんの資料を集めて読んで、多くの作品を書き上げたという熱意に想いを馳せた。

2016年6月15日 (水)

大阪探訪の旅-その1

 2016年5月28(土)~30日(月)、2泊3日の大阪の歴史・文化探訪の旅。
 
 

 5月28日(土)、旅の第1日目。

 友人数人と一緒に東京駅構内で弁当・茶を買い、10:00発の新幹線「のぞみ221号」に乗り込む。12:33、新大阪駅に到着。新大阪から大阪市営御堂筋線・千里中央駅で下車。

 13:15、大阪モノレール・門真市行(写真下)に乗り換え、「万博記念公園」に向かう。

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●万博記念公園

 13:20、万博記念公園駅着。天気は曇り。

 駅を出て、中国自動車道を挟んで見る「太陽の塔」と「万博記念公園」の中央口(右手)。

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 万博の年、梅田駅から地下鉄に乗ってこの場所に来たことを思い出した。その当時はモノレールは無くて、今の地下鉄御堂筋線から万博会場まで臨時線がつながっていたようだ。電車は途中から混んできて、そのうちにぎゅうぎゅう詰め。万博会場中央口駅で下車して、ホームから万博会場入口(今の公園中央口のある場所か?)までは、人混みで身動きできないほどだった。

 
       
 13:40、 「万博記念公園」に入場。

 万博にあったパビリオンは撤去され、広大な跡地は公園となった。日本庭園と日本民芸館などが当時のまま残っている。国際美術館、万国博ホールの建物は残ったが、その後老朽化により解体、移転した。国立民族学博物館(以下民博)と国際児童文学館は、新たに建てられたものである。なお国際児童文学館は、橋下徹大阪府知事の時代に財政再建の一環として、大阪府立中央図書館に統合、2010年3月末で廃止された。

 樹木や芝生の緑に覆われた公園は、桜100選にも選ばれ、日本庭園などの自然文化施設、民博などの文化施設、各種のスポーツ施設などがある。大阪府が管理している。

 自然文化園・日本庭園の入園券200円。

 

 岡本太郎作の「太陽の塔」は、長い年月で傷んだり色あせているが、久しぶりに見る。と言っても、1970年の万博の時に実際に見たかどうかは記憶がない。

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 公園の「お祭り広場」の脇を通り、日本庭園前のゲートを抜けて、民博に向かう。

 

●国立民族学博物館 14:00~16:00

 13:55、民博に入館。建物の設計は、黒川紀章氏だという。

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 本館展示場の一部(朝鮮半島の文化、中国地域の文化、中央・北アジア、アイヌの文化、日本の文化展示)が、残念なことに閉鎖中。何でも3月に館内で発生した火事のためだそうで、全館の5割近くが観覧できないことになる。

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 「これじゃ観覧料は取れないな」と受付で言ったら、職員は通常の一般観覧料420円は、350円に割引きしていると言う。写真、ビデオすべて撮影可は、嬉しい。

 

 オセアニアから、地域展示を回り、代表的な展示物を記す。

 【オセアニア展示】

 大小数万をこえる島々が点在し、発達した航海技術を持ったオセアニアの人々。三角の帆とシングルアウトリガー(船の片側に浮き子)のついたカヌー。

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 【アメリカ展示】

 アメリカは、ヨーロッパ人による征服や植民の歴史を経験し、外来文化が日常に浸透している。カーニバルはキリスト教の移動祝日、ブラジルのリオではアフリカ系の歌と踊りをとりいれたサンバが生まれた。

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 【ヨーロッパ展示】

 16世紀~20世紀は、ヨーロッパのキリスト教や近代技術と文化が世界各地に広がった。写真中央は、生前の姿を楽しい絵と物語を書いた「陽気な墓」。ルーマニアのサプンツァ村にこの墓が多いそうだ。

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 【アフリカ展示】

 アフリカでは、現在イスラムやキリスト教が広がっているが、伝統的な仮面の儀礼はアフリカ各地で活発に行われている。ザンビアのチェワ族にみられるニャウの仮面。死者の霊を祖先の世界に送り届ける葬送の役割を担う。

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 【西アジア展示】

 西アジアは砂漠が大部分を占める中東地域。人々は、遊牧を生業として移動する一方で、古来よりバグダードやカイロなどでは都市文化が栄えてきた。ユダヤ教やキリスト教発祥の地でもあるが、多くの住民はムスリム。写真は、エジプト・ヨルダンのラクダ用装身具。

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 【南アジア展示】

 南アジアは、ヒマラヤ山脈などの北部山岳地帯とアラビア海、ベンガル湾に挟まれたインド大陸をいう。様々な自然環境、多様な宗教や文化、生活様式をもつ人びとが共存しあう。写真は、極彩色に飾られた山車(だし)は、ヒンドゥーの神の乗り物。南インドのチェンナイの寺院の大祭で巡行する。

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 【東南アジア展示】

 「東南アジアの1日」をテーマに、その多彩な民族文化を紹介。写真は、インドネシアのバリ島に伝わる獅子の姿の聖獣「バロン」と魔女の「ランダ」。

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 【東アジア展示】

 東アジアは更に、中央・北アジア、中国地域の文化、朝鮮半島の文化、アイヌ文化、日本文化の展示に別れていて、最もスペースを割いた我々に最も身近な展示であるが、前述のように火事の影響で閉鎖中。

 【音楽展示】

 音と音楽と人間とのかかわりを、世界各地の「太鼓」、「ゴング」、「チャルメラ」、「ギター」などの展示を通じて考える。

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 【言語展示】

 「言葉を構成する要素」、「言語の多様性」、「世界の文字」のテーマで構成。写真なし。

 【インフォメーションゾーン】

 「研究の現場から ― 知ってつながる」というテーマ。民博の中だけでなく、民俗学研究者が日本も含めた世界中をつなぐ役目を担っていて、それぞれ取り組んでいる研究や調査を紹介。

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 創設以来の民博の研究報告書の書棚。

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 ミュージアムショップで、梅棹忠夫著『民博早わかり改訂版』(1997年、千里文化財団、540円)を購入。


 16:30万博記念公園駅を出て、千里中央駅に戻る。雨がパラパラしたが、すぐ止む。

 御堂筋線で難波駅へ、千日前線に乗り換えて、17:35日本橋駅着。


            
   17:45、「ホテルサンルート大阪なんば」にチェックイン。土曜日のせいか、フロントは混雑している。アジア系外国人も多い。

 

●道頓堀

 18:25ホテルを出て、すぐの道頓堀の「かに道楽」。道頓堀通りを散策。

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 夕暮れの道頓堀川沿い。道頓堀川に架かる相合橋から太左衛門橋の方向を望む。

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 道頓堀通りは、週末とあってか、ものすごい人出と賑やかさに圧倒される。

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 18:45~20:50、居酒屋 「たよし とんぼり本店」に入店して夕食。

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 店2階の座敷の部屋から道頓堀川の対岸を見ると、総合ディスカウントストアの「ドン・キホーテ」。店の壁面には、商売繁盛の巨大な恵比寿さんの看板のある観覧車。

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 夕食後、道頓堀川の戎(えびす)橋からおなじみのグリコのネオン看板を見る。左手奥は戎橋筋商店街。

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 東京よりも大阪ミナミの道頓堀界隈は、ハデハデで奇抜な看板が多い。グリコもそうだが、巨大なカニや食いだおれ太郎の人形のほか、ドン・キホーテの恵比寿様、ほかにタレントの面白い顔をしたアップなど・・・。

 戎(えびす)橋から、すっかり暗くなった道頓堀川の太左衛門橋方向を望む。

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 大阪は、東京と比べ繁華街で自転車に乗っている人が多い。結構スピードを出して歩行者の間をすり抜けるので、ヒヤッとする。店の前に停められないのか、道路中央にかたまって駐輪している。

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 千日前商店街(アーケード)を抜けて、「なんばグランド花月」前に行ってみると、もう21:15。

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 大阪の人は、たこ焼きがなぜ好きなんだろうか。「なんばグランド花月」隣にある「たこ焼き道楽・ わなか」千日前本店で、買って食べてみる。

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 この店は、大阪の数あるたこ焼き店でも3本の指に入るほどの人気店だそうだ。生地にかつおと昆布のダシが効いていて、卵も入ってるので美味しく、何もつけなくても良いそうだ。もちろん外はカリッ、中身は思ったよりかなりトロ~としていて、今まで食べた事のないような感触。もっとも出来立ては熱すぎて、あんまり味わう余裕はなかったが。 中に入っているたこは、やや小さい気がする。

 

 週末の夜の繁華街の流れは絶えないが、21:40ホテルに戻る。24:00過ぎて就寝。

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 本ブログ「大阪探訪の旅-その2」に続く。    

 

 ★ ★ ★

 大阪には昔、時々行ったことがあったが、ほとんど忘れてしまった。所々で記憶がよみがえって来ると、懐かしさが湧きあがってくる。地下鉄や地名の方向感覚は、ピンと来ない。エスカレータも意識して大阪式に右側に立つが、しばらくするとうっかり左側に立っていることがある。大阪と東京で、うどんの薄い・濃い味のように、右・左がはっきりした文化の違いがあるのは面白い。

 万博は、1970年3月14日から開催された。3月末ころ、九州から上京することがあった。せっかくだから、ちょっとだけでも万博でも見ておこうと、無計画に大阪に寄った。大阪駅に夜に着き、駅構内の床の上で新聞紙を敷き、横になって寝た。

 若い旅行者やホームレスなど数10人くらいが、大阪駅構内で寝ていた。コートを着ていたが、3月末の深夜・朝方はとても寒くて、寝られなかった。何故そんなところで寝たのか、理由は憶えてない。当時は、寝台車泊で移動する旅行が多かったが、寝台切符がく取れなかったのだろうか。

 翌朝早くに、大阪駅から地下鉄に乗って、万博会場中央口駅で下車したのは、この記事の最初に述べた通り。前売り入場券も持ってなく、当日券販売の窓口は、買い求める人が詰めかけていて、何時間も並ぶようだった。

 こんな調子だから、万博をちょっと見るだけで1日かかってしまう。その日のうちに東京にたどり着かないので、入場をあきらめ、そのまま新大阪から新幹線で東京に向かった。大阪は、そんな苦い思い出がある。

 

 ★ ★ ★

 3月3日(木)午前、民博の本館2階で展示替えのため閉鎖中だった「アイヌの文化展示」内で出火、通報を受けた消防により約30分後に鎮火したという。

 原因は、資料映像用として茅葺家屋付近を撮影中に、撮影用電球の熱で屋根が燃え出した。来館者や職員ら約310人は、一時屋外に避難するなど大騒ぎだったろう。

 消火活動を行った際、消火器の薬剤が飛散。「アイヌの文化」や隣接の「中央・北アジア」の展示物に微細粉末かかかり、除去に時間がかかるという。これらのコーナーは6月16日まで公開を延期。あわせて、展示物を新構築する予定だった「朝鮮半島の文化」、「中国地域の文化」、「日本の文化」の展示も、6月15日まで閉鎖となった。

 

 ★ ★ ★

 民博は1974年(昭和49年)に創設、1977年(昭和52年)に開館した。大学共同利用機関であり、総合研究大学院大学の文化科学研究科も設置、民族学と文化人類学を中心とした研究と展示を行っている。つまり研究所、兼博物館である。国立の東京・京都・奈良・九州博物館が文化庁の所管であるのに対し、民博は学生のいない大学で、文科省学術国際局の所管だそうだ。大学の研究室が、市民のための博物館と結合している。

 初代館長の梅棹(うめさお)忠夫氏は、生態学者、民族学者、情報学者。民博名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、京大名誉教授。理学博士。京大理学部卒で、生態学を出発点に動物社会学を経て民族学、比較文明論と研究を移した。日本における民族学のパイオニア。京大では、今西錦司門下の一人だった。2010年(平成22)、90歳で亡くなっている。

 氏は、若い時から登山や探検に熱中。数多くのフィールドワークの経験から、カードを使った情報整理法を考案。その方法をまとめた『知的生産の技術』(岩波新書、1969年)は、ベストセラーになった。筆者は当時その本を読んで、氏の人物像を知った。

 ヨーロッパ諸国にはすでに、20世紀前半から民族学博物館を持っていた。梅棹氏が中心になって、各界にその必要性を訴え、民博創設に尽力した。しかし最初に民族学博物館を政府に建議したのは80年ほど前、渋沢栄一の孫で後に大蔵大臣・日銀総裁を務めた渋沢敬三氏。渋沢氏は、財界人でありながら民族学者。自宅に民俗学資料を収集、その後東京郊外に個人の博物館を建てたそうだ。

 民族博物館でなく民族学博物館、「学」がついている。「民族学」は、単なるガラクタ集めや雑学ではなく、一つの学問であると梅沢氏は言う。氏によると、「民族学」とは世界の諸民族の文化と社会を比較研究する、要するに人間のことは何でも扱う学問。それは国際理解のためのもっとも手近かな手がかりであり、民博の展示はそれを目的にしているという。

 一方で似た言葉に「民俗学」という分野がある。自国の民間伝承や言葉・風俗・信仰などにかかわる学問。柳田国男氏が、「民俗学の父」とされている。千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」は、民博のように世界の諸民族を対象したものでなく、主に日本の歴史と人々を対象にしているそうだ。

 しかし「民族学」という呼称は、最近あまり聞かなくなった。1934年(昭和9)に設立された「日本民族学会」は、2004年に「日本文化人類学会」に改称されたそうだ。「民族学」は、「文化人類学」とほぼ同じ学問分野で、前者は後者に吸収された感があり、「民族学」という言葉そのものは使われない傾向にあるようだ。

 

2016年6月13日 (月)

初夏の裏磐梯-その2

 2016年5月23日(月)~24日(火)、裏磐梯とその周辺の宿泊旅行。

 

 本ブログ「初夏の裏磐梯-その1」の続き。

 

 24日(火)、未明3:00に起床。ヘッドランプを装着して、3:40ペンションを出発。

 ペンションは、曾原湖と小野川湖の中間にある。小野川湖の南の秋元湖に向かう。

 

●秋元湖の朝景

 3:50~「秋元湖」の堤防から、静かな湖面に映す朝焼けを眺める。気温は8℃、薄いスポーツジャケットを羽織っているが肌寒い。

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●早朝の檜原湖

 だいぶ日は上ってはいるが、早朝の「檜原湖」を見るため、5:55檜原湖の西畔に位置するキャンプ場に到着。

 このエリアへの入場は有料で、入口の小屋におばさんが立っていて、100円を払う。

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 ここから見る水辺の風景は、日本と思えないような絶景スポット。水辺から、雄大な磐梯山を望む。北斜面の山体崩壊跡の荒々しい姿を見せる。

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●曾原湖の朝

 7:15、「曾原湖」に着く。この湖は檜原湖の東側にあって、裏磐梯の湖の中では最も小さい。

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 風のない朝は、静かな水面に周囲の景色を映し出す。

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 7:30 ペンションに戻り、8:00~朝食。

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 9:00、チェックアウト。1泊2食9,500円と入湯料150円。

 ペンションから小野川湖の東岸に向かう。

 

●小野川不動滝

 「小野川湖」東岸より約2Km、9:20「小野川不動滝」の駐車場に到着。

 駐車場から滝までは約20~30分。静かな原生林の中、厳しい急坂もある長い遊歩道を歩く。ちょっと足が不自由な人には、無理そう。小野川湖上流にある落差30mの迫力ある瀑布に9:50到着。森の中で豪快に流れ落ちるこの滝は、裏磐梯では一番人気だそうだ。

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 不動明王が祀られている祠がある。水は「小野川湧水」として環境省の名水百選に選定されている。

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 10:15不動滝を出て、10:35不動滝の駐車場に戻る。

 小野川湖南岸の「磐梯吾妻レークライン」(県道70号)を東に向かう。

 

●中津川渓谷

 「中津川渓谷」は、秋元湖上流・中津川の渓谷、北塩原村と猪苗代町の境界にある。県道70号の中津川橋を渡り、町営「中津川渓谷レストハウス」の駐車場に11:00到着。

 急こう配で、ここも長い遊歩道(自然探勝路)を谷へと下る。

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 約15分で森に囲まれた谷、白い岩肌を澄んだ水が流れる渓谷の岩場に着く。

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 秋には燃えるような紅葉が有名。春には新緑、夏には川の流れの清々しさも楽しめるという。

 中津川渓谷探勝路は、ここから更に対岸に渡り、渓谷に沿って秋元湖北岸まで下る約1kmのコース。往復で40分ほどだそうだ。

 11:45岩場を出で、12:00レストハウス駐車場に戻る。

 県道70号線の「磐梯吾妻レークライン」を経て、国道115線、県道24号線を走る。県道25号線の沼尻郵便局の手前で、中之沢温泉に向かう。

 

●達沢不動滝

 中之沢温泉から達沢川に沿って上流にむかって車で5分ほど走る。12:50達沢不動滝の駐車場に到着。駐車場に建つ鳥居を抜け、原生林の遊歩道を数分ほど歩くと滝に着く。

 岩肌に沿って、白いカーテンのように流れ落ちる勇壮な高さ10mの男滝(おだき)。幅16mの水平に近い滝口は、一見して人工の堰(せき)かと思うほど。

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 ふと左手を見ると、ひっそりと、しとやかに流れる女滝(めだき)があるのに気が付く。

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 滝元には、滝の名前の通り不動尊が祀ってある。

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 13:35、達沢不動滝の駐車場をあとにする。

 

 帰路、磐梯熱海温泉(郡山市)の街や国道49号線沿いので食事処を探すが、適当な店がない。14:25郡山インターから東北道に入り、15:30~那須高原サービスエリアでやっと遅い昼食(那須鶏の鶏そば、620円)。
 

 この先の東北道で車両火災があり、35分ほどの事故渋滞がに遭遇しそう。渋滞を避けるために、岩船ジャンクション(栃木県栃木市)から北関東道に進路を変更。太田桐生(群馬県)インターで一般道へ降りる。18:10頃、自宅着。

 

 ★ ★ ★   

 なぜ全国に、「不動滝」という名前の滝が多いのだろうか。

 「不動滝」とは、「不動明王」(または不動尊、お不動さん)という仏様を祀った滝のこと。不動明王は、仏教の真言宗や天台宗の明王部と呼ばれる地位に属する仏。恐ろしい形相をして、右手の剣で人々の迷える心を断ち、左手の縄で正しい教えの道に人々を導いてくれる。背後の火炎は、世間の闇を照らし災難を焼き尽くすとされる。大日如来の化身ともされる。

 元来は、アチャラ・ナータと呼ばれるインドの神。アチャラは「動かない」、ナータは「守護者」という意味で、中国に入って漢字の名がついたそうだ。

 不動明王を最初に日本にもたらしたのは、遣唐使の空海(弘法大師)だった。日本へ戻る途中に海が荒れたが、空海は不動明王を呼び出し、風や波を静めて海を渡ったという。このことから不動明王のご利益は、海上安全。転じて陸の安全、つまり交通安全。人の悪い心を断ち正しい道に導いてくれることから家内安全、修行成就、厄除け、商売繁盛・・・など、幅広い様々なご利益がある。このため不動明王は多くの庶民の信仰対象として、平安時代から今日まで社会に根付いてきた。

 不動明王の教えを説く『聖無動尊大威怒王秘密陀羅尼経』には、「静かな山林に入って清らかな地を求め、そこに霊場を作って真言を唱える修行をすれば、不動明王の姿を見ることができ、願いがかなう。或いは、河水に浸かって真言を唱え、または山の頂や樹の下、宗教施設で真言を唱えれば、願いがかなう。或いは、般若心経を安置し・・・・・(以下略)。」という一節があるそうだ、この中の河水に入って真言を唱える行(ぎょう)が、滝行(たきぎょう)の根拠とされている。日本古来の自然信仰である滝への信仰もあって、滝と不動明王とが強く関連付けられたようだ。

 

★★★

 全国に「中津」や「中津川」と言う地名や川が多い。福島県でも、裏磐梯の中津川のほか福島市を流れる中津川もある。

 土地の便・不便、交通の良否を、「ツが良い」と言うらしい。「津」はこのように、「交通の位置」から、海岸や河岸の船舶が来着する船着き場、渡し場、港の意味になったそうだ。転じて泉などの水のある所や単に海岸、更には人の多く集まる所、都会という意味もある。

 三重県津市、滋賀県大津市は、港という意味であろう。それでは、大分県中津市、岐阜県中津川市はどうだろうか。中津市は周防灘に面し、山国川とその支流・中津川の河口にある。本流の山国川は、かつては中津川と呼ばれていた。中津川市は、岐阜県の山間にあって木曽川支流の中津川が流れる。

 では「中津」、「中津川」は、全国にどのくらいあるだろうか調べてみる。「中津」は中津市、中津町と中津村の自治体が10ほどもある。「中津川」という名前の川は、全国各地になんと25以上もあって驚く。自治体は、中津川市と中津川村の2つ。ほかに、大阪市北区中津、埼玉県秩父市中津川、徳島県三好市池田町中津川など、「中津」、「中津川」の地区名、旧村名や集落名も数多くある。

 これらの多くは、山奥の集落だったり、山深い谷川の名前だったりする。中津を流れる川だから中津川、逆に中津川が流れる集落を中津と言ったりするようだ。

 「中」は字の通り、中くらい、中間、中央という意味。「津(つ)」を国語辞典、古語辞典などの何冊かの辞書で探すと、前述の意味の他にも「格助詞で体言や形容詞の語幹に付く。所属・地点・方角・位置・時につく。”…の”、”…にある”という意。連体修飾語を作る。津と書くのは当て字。」などの説明も見つかる。例として、「神つ国」「天つ風」「滝つ瀬」「夕つ方」「先つ年」「まつげ(目つ毛)」などがある。

 また『地名用語語源辞典』(1983年、楠原佑介・溝手理太郎編)によれば、「津」には場所を意味する接尾語で、単に「処」と同じような意味もあるようだ。

 「中津」が、中くらい、中間または中央の港というのは、非常に分かり易い。しかし、これよりも全国に圧倒的に多い「中津」は、中くらい、中間または中央となる場所、または人の集まる所という意味の方であろうか。

 

 関連ブログ

 「紅葉の吾妻・裏磐梯の旅」 2014/11/07 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-78e0.html

 「猪苗代湖と裏磐梯の冬景色」 2014/01/24 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-8d9c.html

初夏の裏磐梯-その1

 2016年5月23日(月)~24日(火)、裏磐梯とその周辺の宿泊旅行。

 

 福島県の猪苗代湖がある磐梯山南側の「表磐梯」に対して、北側にある磐梯山(標高1816m)、安達太良山(1709m)、吾妻山(2035m)に囲まれた標高800m程度の高原一帯は、「裏磐梯」、「裏磐梯高原」または「磐梯高原」とも呼ばれる。

 1888年(明治21年)7月の磐梯山の噴火によって小磐梯の山体崩壊が起こり、北麓の5村11集落を呑み込み、長瀬川とその支流の中津川、小野川、檜原川などせき止め、土石流や火山泥流が下流域を埋め立て、死者と行方不明者数が477人にのぼる甚大な被害を残した。川のせき止めにより、桧原湖、小野川湖、秋元湖、五色沼をはじめ、大小さまざまな湖沼が形成された。

 その後数10年は荒涼とした原野のままであったが、植林や観光開発を進められ、1950年(昭和25年)に一帯は周辺の火山とともに磐梯朝日国立公園に指定され、山岳道路等が整備された。

 

 23日(月)、早朝5時出発。東北道を北上し、上河内サービスエリアで休憩。

 

●観音沼森林公園

 白河インターで降りて、国道289号線を西へ進む。長い甲子トンネルを抜けた後、道の駅「しもごう」(福島県下郷町)で休憩。8:30、道の駅の近くの観音沼森林公園に到着。

 「観音沼森林公園」は、標高1640mの観音山の麓にある観音沼を中心に、一帯が1985年(昭和60)に整備された。以前は秘境と呼ばれていたが、2008年に国道289号が開通してからは、多くの観光客が訪れるそうだ。

 沼にはいくつかの浮島があって、静かで神秘的。また四季の花木が植栽されている。公園の周囲の森は、小鳥のさえずりを楽しめる野鳥の宝庫だそうだ。公園内には、全長3.2kmの散策路が整備されている。

 午前中のこの時刻の気温20℃。本日は、本州で真夏日となる最高気温30℃以上になる所もあるそうだ。 

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 沼1周の遊歩道1.2Kmを回る。

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 観音沼のほとりには、唐様式で彫刻の施された「嶽観音堂」がある。東征した坂上田村麻呂が戦いで亡くなった人馬を弔うために建てたとされる。

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●猿楽台地の蕎麦畑

 10:10、観音沼森林公園を出る。農道を西北の方角の会津鉄道「養鱒公園駅」方面に向かい、日本一の蕎麦畑「猿楽(さるがく)台地」に立ち寄る。

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 下郷町の南西部にある猿楽台地は、昭和40年代に国営農地開発事業により整備された農地。標高が600~700mで、昼夜の寒暖差が激しく、蕎麦の栽培に適しているという。8月下旬~9月上旬には、農道の両サイドの40haもの広大な畑が白い蕎麦の花が広がり、周囲の会津の山並みと青い空の風景は見事だそうだ。

 国道121号、国道118号線を北上する。11:30頃、会津若松市街を通過。

 気温はすでに28℃の夏日となった。磐梯山を右手に見て、県道64号線の「磐梯山ゴールドライン」を通って、裏磐梯へ向かう。

 

●五色沼湖沼群

 12:20、五色沼入口の駐車場。「レストラン五色沼」で昼食(手打ちそば800円)。

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 噴火で川が埋め立てられて出来たという「五色沼湖沼群」の自然探勝路を巡る。 「五色沼」と言っても、大小40余りの湖沼群の総称で、探勝路から直接見える湖沼は限られている。 

 13:05、駐車場をスタート。青緑色に光る五色沼最大の「毘沙門沼」、正面には磐梯山。

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 もはや深い緑になっていてるが、所々に新緑らしい木々を目にする。

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 自然探勝路は平坦な道かと思っていたが、以外とアップダウンがある。

 周囲の草が酸化鉄で鉄錆色に染まった「赤沼」は、木立の茂みで良く見えなかった。

 青、赤、緑など三つの色を持つ美しい「みどろ(深泥)沼」。三つの色は、水質、水深、水草の繁茂などによって生まれているという。

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 次の「竜沼」(たつぬま)も、木立でさえぎられている。冬季でないと見えないそうだ。名前の由来は不明。

 五色沼の中で2番目に大きい「弁天沼」も、神秘的な雰囲気が漂う沼。

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 天候や見る角度によって色が変わるという「るり(瑠璃)沼」。冬は青く、春は濃い緑ともされる。後ろは磐梯山。

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 五色沼湖上郡の中で、最も青白色をしているという「青沼」。

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 裏磐梯物産館のすぐ手前にある「柳沼」。紅葉の時期は、周囲のカエデやウルシが美しいという。

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 遊歩道をはさんで「柳沼」の反対側にある「母沼」。この沼だけ透明で、周りの木々や石が配置された日本庭園のよう。

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 15:00、探勝路の終点・裏磐梯物産館に到着。ここから国道459号線を挟んで西側には、裏磐梯最大の「檜原湖」がある。

 15:16、裏磐梯高原駅バス停発の磐梯東都バスに乗車。国道459号線を走り、五色沼入口バス停で下車(250円)。そこから15:30、五色沼入口の駐車場に戻る。

 

●曲沢沼と秋元湖

  この後、「曲沢沼」(まがりさわぬま)と「秋元湖」に寄ってみる。やはり一昨年の冬(2014年1月)に来た冬景色とは全く違う。

 曾原湖の近くにあり、秋は紅葉で有名な「曲沢沼」。

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 北塩原村と猪苗代町にまたがる「秋元湖」。

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●檜原湖の夕日

 17:40、「檜原湖」の長峰船付バス停付近の駐車場に車を置く。アップダウンのある自然探勝路を20分ほど歩いて、「松原キャンプ場」付近の夕日ビュースポットへ18:05に着く。

 檜原湖は、裏磐梯地域最大の湖。周囲には散策路、遊覧船、キャンプ場などがある。冬には氷結した湖上でのワカサギ釣りや夏のバスフィッシングなどが有名。

 18:40頃まで、夕日を眺める。

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 19:00駐車場に戻り、ペンション「レラ」(北塩原村桧原)に19:10到着。

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 19:30~夕食。21:40 就寝。

 疲れていたが、この夜は蒸し暑くてなかなか眠れず。

 

 ★ ★ ★

 ペンションで夕食後、宿のオーナーが撮影した冬の風景写真を披露しながら、赤い実はカンボクの実だと説明していた。今までこの実は、ナナカマドだと思っていたが、思い違いのようだった。

 一昨年の冬(2014年1月)に裏磐梯に来た時、真っ白い雪に中に、鮮やかな赤い実がたくさん目に飛び込んで来て感動した。よく街路樹などにも利用されていていて、秋には紅葉が美しいナナカマド。その実が裏磐梯では、野鳥に食べられないで、よくぞ残っていたかと驚いた。(下の写真は、2014/1/19裏磐梯で筆者が撮影)

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 ナナカマドの実は、人には苦いだけで食べられない。果実酒に利用はされるが。鳥たちは、ナナカマドの実を好んで食べるらしい。一方カンボクの実は、ナナカマドの実に似ているが別名「鳥喰わず」と言い、野鳥は食べないのだそうだ。もちろん人も、苦くて食べられない。

 だから冬にはカンボクの赤い実が残り、鳥たちが食べつくたナナカマドの実は残ってはいないようだ。

 

 関連ブログ 

 「紅葉の吾妻・裏磐梯の旅」 2014/11/07 投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-78e0.html

 「猪苗代湖と裏磐梯の冬景色」 2014/01/24 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-8d9c.html

 

 以下、本ブログ「初夏の裏磐梯-その2」に続く。

 

 

2016年6月 4日 (土)

森林公園の初夏の花

 2016年5月27日(金)午後、国営・武蔵丘陵森林公園(埼玉県比企郡滑川町)の植物園に行く。

 

 この日は雨が止んだ後の曇り。

 都市緑化植物園の展示棟前の巨大なネギ坊主、アリウム・ギガンチウムが見頃。

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 庭園樹園花畑に咲く約4万株のルピナス。そろそろ終わりです。

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 ★ ★ ★

 以前は、公園中央口付近にある「山田大沼」の沼や周辺の木々の上には、大量のカワウが住みついていた。この日は、数羽程度しか見当たらない。あれだけのカワウは、今どこへ行ったのだろうか。

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 カワウの集団繁殖により、公園内の水質汚濁、樹木の枯死、糞臭・糞汚れ、景観悪化が発生していた。以下3枚の写真は、2013年5月7日撮影の山田沼の枯死した樹木とカワウ。

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 以上

 

 

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