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2016年4月26日 (火)

九州国立博物館

 2016年4月12日(火)、福岡県太宰府市にある「九州国立博物館」へ行く。

 

 

 

 通称「九博(きゅうはく)」は、4番目の国立博物館として「太宰府天満宮」の裏、同宮所有の丘陵地に建設され、2005年10月に開館。

 

 明治時代に開館し100年以上の歴史を有する東京、京都、奈良の3つの国立博物館が美術系博物館であるのに対して、九博は歴史系博物館である。「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える博物館」をコンセプトに、旧石器時代から近世末期までの日本の文化の形成について展示している。アジア地方各地との文化交流を推進する拠点としての役割も持つ。

 

 

 

 5年前に太宰府天満宮を参拝した折、時間の都合でそばを通っただけで行けなかった。

 

 午後2時過ぎ、福岡空港に到着すると、旧友が車で迎えに来ていて、そのまま大宰府へ。3時ごろ入館。館内はやはり、撮影禁止。

 

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 建物は160m×80m の長方形で、独特の曲線を持つ蒲鉾型。屋根の一番高いところで36m、10階建てのマンションより高い。側面の外壁は全面ガラスウォール。

 

 九博の建物内部には、多くの木材が使用されている。エントランスホールの天井には、福岡県と宮崎県産の間伐材が使用。また、収蔵庫の天井と壁には吸湿性が高い九州各地の杉、床は北海道のブナが用いられているという。

 

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 3月15日~6月12日の期間で、特別展「始皇帝と大兵馬俑」が3階フロアで開催中。観覧料は、一般1,600円。

 

 この特別展は、東京国立博物館で昨年10月から開催され今年2月で終了、見逃していたのでタイミングが良かった。九博の後は、国立国際美術館(大阪)で7月~10月で開催予定だそうだ。

 

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 この特別展は、秦王朝と始皇帝にまつわる貴重な文物と兵馬俑(へいばよう)が展示されている。音声ガイド機を借用(520円)して、順路に沿って展示室を回る。

 

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 写真は、「始皇帝と大兵馬俑」のパンフから引用。右から、将軍俑、軍吏俑、歩兵俑、跪射俑、軍馬。

 

 

 

 第1章は、秦王朝の軌跡 - 周辺の小国から巨大帝国へ

 

 中国辺境の一小国だった秦は、やがて戦国の乱世を勝ち抜いて天下を統一していく。その成長の過程には様々な変化があった。青銅器、玉器、金銀器、土器など、展示された秦の文物でその軌跡をたどる。

 

 西周王朝の高度な文化を模倣したり、周辺の競合国や北の遊牧民の文化や技術・デザインを取り入れたり。それらをもとに自国の文化に洗練したり、占領した国の宝物の銘文を書き換えたりで、なかなか興味深い。

 

 写真左は、西周王朝の形や銘文をまねた青銅の鐘。右は、西周王朝の優れた玉器の文化を取り入れた玉と瑪瑙(めのう)の胸飾り。

 

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 秦と北方遊牧民との交流を示す玉剣と金剣鞘。

 

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 紀元前数世紀頃は、日本は弥生から古墳時代。同じ時代には、中国にこういった高度な文明があったことに改めて驚く。

 

 

 

 第2章 始皇帝の実像 - 発掘された帝都と陵園

 

 天下統一を成し遂げた秦王は、それまでの「王」を越える存在として「皇帝」と称し、自らを「始皇帝」と名乗った。統一のために始皇帝は次々と独裁的、中央集権的な政策を実行していく。全国に普及させるために、重量基準の分銅を多数製造したりして度量衡(重さ、長さ、体積など)や文字、通貨の統一を行った。と言っても、従来の秦の制度を占領国に押し付けたのが実態であったという。

 

 木や竹に書かれた公文書を改ざんされないように、泥(粘土)の塊に印を押した封泥(ふうでい)が多く発見されている。首都として発展した咸陽の発掘調査で出土した瓶や壺、宮殿の瓦やレンガ、壁画、水道管(写真下左)などが展示されている。

 

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 以上、展示物写真5枚は、「始皇帝と大兵馬俑」のパンフから引用。

 

 

 

 
 第3章 始皇帝が夢見た「永遠の世界」 - 兵馬俑と銅馬車

 

 秦では始皇帝の以前の世代から、陶俑(とうよう)と呼ばれる騎馬(写真上右)や侍従などの像や穀倉、竈(かまど)の模型など、10~30cmの単純化されたミニチュアが墓の副葬品として存在していた。

 

 このような死後も永遠と日常生活が続く「他界観」という思想が、始皇帝の兵馬俑につながっていると考えられている。

 

 兵馬俑は、将軍や軍馬など実物10体と複製50体を展示。それらを収めた地下坑「兵馬俑坑」のイメージを再現して、兵馬俑を見下ろせるよう高さ90cmのスロープを設置してある。

 

 将軍俑や軍吏俑、歩兵俑、立射俑(立ち姿の射手)、跪射俑(きしゃよう、片膝立て姿の射手)、騎兵俑と軍馬、御者俑(馬車を操る人)、馬丁俑(馬飼い)、雑技俑(力士か芸人か?)など様々な兵馬俑が展示。

 

 等身大に造られた陶製の像は、一体ずつ顔が異なり、髪型、冠、服装、靴、装飾品、鎧など細部に至り写実的で階級や役割など反映させた始皇帝の軍団そのものである。高度な技術、多数の職人と年月を要する巨大プロジェクトは、絶対的な権力者だからこそ実現できた。空前の規模で築き上げた陵墓の「永遠なる世界」を目のあたりにする。実際の兵馬俑は、武器を持っていて、着色されていた。

 

 銅車馬は実物の1/2の大きさで、展示品は精密に再現された複製。1号銅車馬は、先導車。4頭立て2輪馬車に御者が直立し、馬車には傘が立つ。

 

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 2号銅車馬は、始皇帝の御用車。4頭立て2輪馬車に御者が坐し、屋根付き馬車の左右に窓、後方には扉がある。2号車の背後には、始皇帝陵があるそうだ。

 

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 1号銅車馬と2号銅車馬の写真は、「始皇帝と大兵馬俑」のパンフから引用。

 

 

 
 4階フロアの文化交流展示(常設展)「海の道、アジアの路」を観覧。

 

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 九博のホームページでは、以下のようなことが書いてある。

 

 文化交流展示室では、時代別の5大テーマに分けて、常に展示替えをしながら、常設展示を行っている。小さな特集陳列の集合体が文化交流展示であり、何度、来館しても、新鮮な文化交流史が分かるような切り口を提案したいと思う。だからぱっと見ただけでは意図が伝わりにくい。これは他の博物館では行っていない初めての試みである。

 

 5大テーマは、次の通り。

 

  1.旧石器~縄文文化 「縄文人海へ」

 

  2.弥生~古墳時代 「稲づくりから国づくり」

 

  3.奈良、平安時代 「遣唐使の時代」

 

  4.鎌倉、室町、安土・桃山時代 「アジアの海は日々これ貿易」

 

  5.江戸時代 「丸くなった地球、近づく西洋」

 

 

 

 時間が無くてゆっくり観覧できなかったが、たしかに常設展示はパッとしない。「海の道、アジアの路」と題して、そういった切り口での日本史を見るのは興味があるが、なんとなくダラダラと並べられていてインパクトというか、印象に残らない。

 

 歴史の浅い九博の宿命は、収蔵作品数がきわめて少なく、地元、他館、所蔵家からの借用でまかなわれているという。展示物に歴史的、美術的価値の高い国宝級のものが少ないせいもあるし、説明の仕方、ディスプレイの仕方も、観る人に印象付けるような、もっと工夫の余地があるような気がした。

 

 

 

 夕方5時前に博物館を出て、博多へ。6時~旧友らと料亭「稚加栄」で旧交を温める。

 

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 ★ ★ ★

 

 中国では、紀元前2000年頃、黄河中流域に始めて「夏(か)」王朝が誕生、紀元前1600年頃には「殷(いん)」に、紀元前11世紀には「周」王朝にとって代わる。しかしこれら初期の王朝時代は、統治が緩やかであり、地方の小国勢力は常に覇権を争っていた。

 

 中国西方の甘粛省の山あいで農耕と牧畜を営む小さな勢力の秦は、西周王朝の諸侯の一つとなり、富国強兵を推し進める。やがて春秋戦国時代になって、次第に競合諸国を領有し、天下統一を目指して強力な専制政治を行う巨大帝国へと成長していく。

 

 紀元前221年、戦国時代に終止符を打った秦王の嬴政(えいせい)は、事実上中国全土を統治する。嬴政は、自らの権勢を強化するため、始めての皇帝という意味の「始皇帝」を名乗る。

 

 始皇帝は、中央集権や郡県制の実施、度量衡や漢字の統一など様々な政治改革、経済改革を行った。また匈奴などの北方民族へ対抗するため万里の長城の建設、それに加えて巨大な宮殿「阿房宮(あぼうきゅう)」の建築、兵馬俑で知られる皇帝陵墓の建設など、多くの農民を使役させて、次々と巨大プロジェクトを展開していく。

 

 秦王朝の首都・咸陽(かんよう)には、始皇帝の全国の富豪や美人たちを強制移住させ、阿房宮の大工事により人口が集中、当時としては稀な巨大都市になっていった。

 

 過酷な労働と厳格な法治主義、儒教弾圧や「焚書坑儒」などの思想弾圧は、全国人民の不満を高め、のちの反乱につながってゆく。

 

 

 

 始皇帝は自らの権威を誇示するためもあって、広大な秦の領地を時間かけて視察(天下巡遊)に回った。視察先には、皇帝が通行するため、幅70mもある道路も造らせた。巡遊5回目の旅の途中で始皇帝は病に侵される。不死の効果があるとされた有毒の水銀入りの薬を服用するなどして、逆に命を縮めて紀元前2010年49歳で死去した。

 

 それからすぐ小さな反乱が起きる。始皇帝の圧政に苦しんだ農民なども反乱に加わり、数十万にまで膨れ上がる大反乱に発展する。この反乱に、秦の二世皇帝である胡亥(こがい)は、即位3年目にして自害に追い込まれた。

 

 秦最後の王・小嬰(しえい、胡亥の兄の子)は、咸陽に迫って来た反乱軍の劉邦に降伏し、身の安全を保障された。しかし、劉邦に続いて咸陽に入城した項羽によって、一族もろとも殺害されてしまう。

 

 始皇帝によって初めて中国を統一した輝かしい秦帝国は、紀元前206年にあっけなく滅亡してしまう。阿房宮から美女や財宝が略奪され、火をかけられた咸陽は廃墟となった。

 

 秦滅亡後、西楚の覇王・項羽との「楚漢戦争」に勝利した漢王・劉邦は、長安を都として天下の再統一を果たし、前漢の皇帝に即位する。

 

 

 

 世界遺産に登録されている始皇帝陵は、始皇帝が13歳の時から建設が開始された。20世紀後半の1974年、地元住民により発見される。また兵馬俑坑は、この陵を取り巻くように配置され、その規模は2万平米余に及ぶきわめて大きなもので、3つの俑坑には戦車が100余台、馬が600体、将兵など成人男性が8000体近くあり、みな東を向いているという。

 

 兵馬俑一号坑のパノラマ写真。クリエイティブ・コモン:ウィキペディア「兵馬俑」より引用。

 

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 この兵馬俑の発見は特に中国史の研究上、当時の秦の文化や始皇帝の思想などを知る上できわめて貴重なもので、今の中国の原型を築いた秦の時代が浮かび上がって来たのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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