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2016年2月 9日 (火)

宇佐八幡神と渡来人

 2016年1月25日(月)~27日(水)、大分県別府市、宇佐市旅行の追記。

 

 

 

 本ブログの「宇佐神宮」: http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-d1af.html と、

 

 「大分県立歴史博物館」: http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-855d.html

 

の記事を投稿した後、司馬遼太郎の紀行集『街道をゆく』シリーズ「中津・宇佐の道」の巻に、宇佐八幡神についての記述があったことを思い出した。
 

 

 『大徳寺散歩、中津・宇佐の道 司馬遼太郎 街道をゆく 34』(1994年、朝日文庫)のカバー。

 

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 (カバーには、大徳寺(京都市)の土塀の写真が使われている。)

 

 

 司馬氏は、1985年5月31日~6月3日大分県中津市と宇佐市の取材旅行をし、「中津・宇佐の道」の巻を朝日新聞に連載した。

 

 氏は、全国に4万社余りある八幡神社の故郷「宇佐神宮」の前身(祖宮)とされる「薦(こも)神社」(別名、大貞八幡神社)を中津市に訪ねた。御神体の「三角池」(みすみいけ)に自生する薦(こも、植物のマコモのこと)から、古代に想いを馳せる。

 

 次に宇佐市の宇佐神宮と和間神社に足を延ばし、八幡神と渡来人の関係について論じている。更に中津に戻って、福沢諭吉の旧居を訪ね、諭吉の家族について考察。戦国武将・黒田官兵衛の中津時代、次に中津領主を務めた細川忠興について書いている。

 

 

 

 写真は、薦神社の神門(国の重要文化財) 。

 

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(出展:ウィキメディア・コモンズ Ginger1192 大貞八幡神社:2010年11月25日)

 

 下の写真は、宇佐神宮の南中楼門:2016年1月26日。

 

Img_2611


 司馬遼太郎は、この地で八幡神を奉じ始めたのは、どういう人たちだったのだとうかと考えた。その結果、「八幡」(やはた)の「幡」を「秦(はた)氏」に結び付けて解釈し、八幡神は秦氏という渡来人の神だったと結論付けている。宇佐の地には、渡来系の代表的な家系として辛嶋(からしま)氏と大神(おおが)氏が有力だったが、辛嶋氏は秦氏に相違ないとしている。

 

 秦氏の人々は、弥生時代に朝鮮半島から日本にやってきた渡来人だった。中国の秦の始皇帝の末裔だと称していたが、それは定かではない。彼らは、進んだ農業技術を持っていて、稲作を営んだ。秦氏は、稲作に必要な用水池を築堤し、その水を集落の水田に配り、池を神として守ったのだという。

 

 司馬氏は、宇佐神宮の前身とされる「薦神社」の御神体は、「三角池」(みすみいけ、または御澄池)であるが、この池は秦氏の用水池ではなかったのだろうか。また「宇佐神宮」にも「初澤池」と「菱形の池」があり、秦氏の用水池を象徴しているとしている。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 飯沼賢司氏は、雑誌『週刊 司馬遼太郎 街道をゆく』の2005年9月18日号で、司馬遼太郎が八幡の幡を秦氏の秦と解釈していることに、反論している。飯沼氏は、『八幡神とはなにか』 (2004年、角川選書)などを著した中世・古代史専攻の別府大学教授。
 

 

 『週刊 司馬遼太郎 街道をゆく №34』(2005年9月18日号、朝日ビジュアルシリーズ)の表紙。

 

Img362

 (表紙の写真は、由布山)

 

 

 東大寺の大仏鋳造直後の749年(天平勝宝元年)の12月、八幡神の女禰宜(めねぎ、女性神官)・大神杜女(おおがのもりめ)が、天皇しか許されない紫の輿(こし)に乗って入京、大仏に参拝した。

 

 このとき、『続日本紀』には、

 

 「豊前国宇佐郡に坐(いま)す広幡の八幡大神」

 

と呼ばれており、「広幡」(ひろはた)という枕言葉が付けられている。これは大きな旗の神ということだ。

 

 八幡は、中国の唐の時代に確立した軍隊の制度を象徴する「八幡・四鉾」制に由来する。14世紀初頭に成立した『八幡宇佐宮御宣託集』に、

 

 「辛国(からくに)の城に始めて八流の幡と天降りて、吾は日本の神と成れり」

 

とあるように、八幡神は渡来人の辛国の城に出現し、日本の神になったとある。 

 

 

 

 この「辛国の城」とは、朝廷が豊前の国にいた渡来人たちを大隅の国(鹿児島県)に入植させた開拓基地とみられる。その辛国の城の人々は、現地の隼人(はやと)と常に対立関係にあって、その争いの中で「八流の幡」がその城に天降ったというのである。八幡神は、軍旗に降りた神であった。このような幡に降りる神の思想は中国にあり、それをもたらしたのは大隅国の辛国の城にいた渡来の人々であった。

 

 

 一方で、ほぼ同じ時期の和銅年間、豊前宇佐の鷹居(たかい)の地で大神(おおが)氏と辛嶋(からしま)氏という渡来人の二氏によって、八幡神が祀られる。720年(養老4年)に反乱を起こした大隅の隼人の軍が辛国の城を攻めると、豊前の国守は宇佐の八幡神を奉じ豊前の軍を率いて、辛国の城を救援したとされている。ここに、二つの八幡神は宇佐の八幡神として一体となったというのだ。


 

 

 八幡神が仏教といち早く神仏習合した原因は、渡来人の神であったためだが、それよりも軍神であったことが大きい。八幡神は、隼人との戦いの神であった。仏教では、殺生は最も重い罪。戦いによって人を殺すと、その後の報いを人々は恐れた。

 

 そこに登場したしたのが「放生」(ほうじょう)という生き物を放つことによって、その報いから逃れるという仏教的な法、つまり仏教思想である。この放生の法を、宇佐の地に持ち込んだのは、法蓮という僧侶だった。 宇佐神宮は、今でもこの隼人の反乱に由来する伝統的な祭祀儀礼「放生会」(仲秋祭)が行われている。

 
  
 八幡神は、朝鮮半島から豊前国に来た渡来人によって信奉された神であった。しかし、その軍神としての幡の神の信仰や仏教との関係は、7世紀未から8世紀初頭の唐の文化の影響が極めて強く、まったく新しいタイプの神であったと、飯沼氏は述べている。

 

 
 

 

 ★ ★ ★

 

 司馬遼太郎が「八幡」の「幡」は「秦氏」の「秦」と断じたのは、やや乱暴に思える。古代史は、さまざまの古記録でどれが真実か、いくつもの説があって、どれが正しいかはわからないが、たぶん飯沼氏の説が現在の定説になっているのだろう。

 

 司馬氏は、『街道をゆく』の連載の中で、秦氏についてはしばしば触れているとそうだ。秦氏という渡来人が、弥生時代の3、4世紀頃、大挙して(一度ではないだろう)やって来て、日本各地でひたすら山野を開き、水田を作った農民だったという。そして、それぞれの地に神社を残したそうだ。現代多くの日本人の遠祖の人たちであって、日本に最大の功を残した人々であったと述べている。
 

 

 そういう意味で、司馬氏が関心のあった秦氏を八幡信仰を結び付けたと思う。なお辛嶋氏は秦氏の一族であるという説も多いが、異論もあるようだ。

 

 源氏や武家が守護神として「八幡大菩薩」を祀ったのは、八幡神が隼人との戦いの神であったことを考えると、納得できる。戦前は、国家や軍も国民も、大いに神がかりの時代であったが、皮肉にも古くは多くは渡来人の神だったのだ。

 

 九州南部の霧島連山に、「韓国岳」(からくにだけ)という標高1,700mの山がある。山の名の由来は、山頂付近が険しく登山者が殆どいない、あるいは草木が乏しいことから、空国(からくに)あるいは虚国(からくに)と呼ばれたという説。または、韓国(からくに、朝鮮半島)まで見渡すことができるほど高い山という説(実際には山頂からは朝鮮半島は見えない)があった。

 

 前述のように豊前の国の宇佐から大隅の国に移住した渡来人たちは、霧島連山の最高峰を眺めて、「韓国岳」と名付けて聖山としたという説を今回八幡神を調べていて知った。韓国岳の頂上より故郷が見えるわけではないが、望郷の気持ちを込めて彼らが名付けたと思われるこの説を支持したい。

 

 

 

 

 

 

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