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2016年2月 3日 (水)

大分県立歴史博物館

 2016年1月25日(月)~27日(水)、大分県別府市、宇佐市を旅行。

 本ブログの記事「宇佐神宮」の続き。

 26日(火)午後、宇佐市の宇佐風土記の丘にある「大分県立歴史博物館」に行く。

 

 宇佐神宮の仲見世商店街で昼食の後、13:40国道10号線の宇佐神宮前交差点そばにタクシー営業所を見つけ、タクシーに乗り込む。

 宇佐神宮から北西の方向にある宇佐風土記の丘に向かう。どこか古代の風景を思わせるような平野の田園地帯を走ると、およそ5分で県立歴史博物館に着く。

 観覧料は、大人310円。下の写真は、博物館のパンフ表紙。

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 1981年(昭和56年)の「宇佐風土記の丘」の開設に伴い、敷地内に「大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館」として開館。その後、1998年(平成10年)に名称を「大分県立歴史博物館」に改め、常設展示室を増設、展示をリニューアルした。

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 大分県全般の歴史を対象としたものではなく、宇佐神宮や国東半島の六郷山の八幡・仏教文化などを中心にした常設展示が行われている。

 

 13:45入館すると、天井まで届く高さの石仏「熊野磨崖仏」(くまのまがいぶつ)の複製模型が迎えてくれる。

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 「熊野磨崖仏」は、大分県豊後高田市にある平安時代後期に岩壁に彫った仏像。国の重要文化財及び史跡に指定。この仏像は大日如来像で高さ約6.7m、その左手の実際の岩壁には約8mの不動明王像が刻まれているそうだ。

 鬱蒼とした山中に日本最大級の巨大な仏像を刻まれ、当時のこの地方の信仰の強さを表している。

 

 常設展示室に向かう通路に展示された「こて(鏝)絵」。

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 こて絵は、漆喰(しっくい)を使って描いたレリーフ。左官職人が、母屋や土蔵の壁の装飾に、左官こて(鏝)で浮き彫りにした絵。江戸末期に伊豆の左官・入江長八が始め、全国に広がったそうだ。テレビで紹介されていたのを見たことがある。

 題材は七福神、鶴亀、干支など極彩色の縁起物が中心。明治に盛んに作られて全国で見られるが、大分県各地に多く約700ヶ所が確認されている。特に宇佐市の安心院(あじむ)町では、うち約100ヶ所近くもあるという。
 

 

 「豊の国・おおいたの歴史と文化-くらしといのり-」と題した常設展示は、以下の7つテーマの展示エリアに分かれている。

  ・ 富貴寺大堂の世界
  ・ 生・死・いのり
  ・ 豊の古代仏教文化
  ・ 宇佐八幡の文化
  ・ 六郷山の文化
  ・ 広がる仏教文化
  ・ 信仰とくらし

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 ちなみに「豊の国」(とよのくに)は、現在の福岡県東部と大分県全域にあたる。後に豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)に分かれる。ここでの「豊の国」は、大分県を意味しているようだ。

 

 常設展示室に入るといきなり「撮影禁止」の立て札があり、がっかり。

 最近の博物館は、特別な理由、例えば個人所有の展示物以外は、原則フラッシュなしで撮影が許可されている場合が多いので残念。博物館の職員と思われる人に聞いても、何故禁止なのか説明はない。
 

●富貴寺(ふきじ)の世界

 展示室の中央には「富貴寺の世界」と題し、国宝「富貴寺大堂」(ふきじおおどう)の創建当時に再現された実物大模型がある。写真は、博物館のパンフより転載。

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 「富貴寺」は、国東半島の豊後高田市にある天台宗の寺院。「阿弥陀堂」つまり「富貴寺大堂」は、平安時代後期に宇佐神宮の大宮司・宇治氏が、極楽往生を祈願して建てたという。

 宇治平等院鳳凰堂、平泉中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつで、現存する九州最古の木造建築物。国宝に指定され、国東を代表する文化財。

 大堂の中に収められている本尊の阿弥陀如来像(写真は再現模型、博物館のパンフより転載)は、国の重要文化財。大堂内は極楽浄土の世界を描いた壁画は、風化が激しいがこれも国の重要文化財。

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 観覧チケットにも「富貴寺大堂」の壁画が印刷してあったので、これも転載する。

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●生・死・いのり

 展示室の順路は、「生・死・いのり」と題した旧石器時代から古墳時代から始まる。宇佐風土記の丘や周辺から出土資料が展示。写真は、博物館のパンフより転載。

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●豊の古代仏教文化

 飛鳥・奈良時代、19ヶ寺もの寺院が建てられた古代の豊の地域の仏教文化を紹介。

 「虚空蔵寺塔」跡が宇佐別府道路宇佐インター付近で発掘された。奈良・法隆寺と同じ建物配置でつくられた広大な寺域で、奈良時代(7世紀末頃)に創建されたという。写真は、礎石から復元した「虚空蔵寺」の三重塔模型で、パンフから転載。

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●宇佐八幡の文化

 「八幡神」は、もともと宇佐地方の神だったそうだ。今から1300年ほど前に、朝廷より守護神として崇められるようになった。八幡神の歴史について紹介。

 600年ほど前の絵図をもとに製作された精密な「宇佐神宮境内」の模型や、八幡造と呼ばれる独特の建築様式の「宇佐神宮本殿」の10分の1模型が展示されている。

 写真は宇佐神宮本殿の模型で、博物館パンフから転載。

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●六郷山の文化

 国東半島の六郷には、「六鄕満山」(ろくごうまんざん)と呼ばれる多数の寺院があり、独特の仏教文化が栄えた。国東半島は、「仏の里」とも呼ばれる。六鄕満山と宇佐神宮との繋がり、六鄕満山の代表的な行事である「修正鬼会」(しゅじょうおにえ)という火祭り(写真は博物館パンフから転載)についても紹介。

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●広がる仏教文化

 大分県に所在する石に刻まれた仏像など、豊富な石造文化財について紹介。「臼杵磨崖仏」(うすきまがいぶつ)は、大分県南部を代表する磨崖仏で、平安時代後期から鎌倉時代にかけて60体以上が彫られた。実物は磨崖仏としては初めて、彫刻として九州初の国宝に指定。写真は、磨崖仏の複製で、博物館パンフより転載。

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●信仰とくらし

 大分市野津原にある国重要文化財「後藤家住宅」の実物大模型を展示。江戸時代後期の庄屋の家での生活道具、身近な信仰や祭りや年中行事などを紹介。

 人々が神仏に願い事をするときや、願い事が叶ったお礼として用いられたさまざまな奉納物も展示されている。写真は後藤家住宅(模型)で、博物館パンフより転載。
 
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●企画展「お釈迦さまと羅漢さん」

 平成27年度5回目の企画展、平成27年12月22日(火)~平成28年2月14日(日)の期間で、開催されている。

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 企画展示室で、お釈迦さまと、お釈迦さまをとりまくさまざまな仏さまや弟子たちの大分県内に所蔵する絵画・彫刻等とパネル約60点を展示。こちらも、撮影禁止。

 特に、中津市の耶馬渓(やばけい)の羅漢寺(らかんじ)石造仏群が、2014年(平成26年)に国の重要文化財に指定され、関連する資料が展示。羅漢(らかん)は、お釈迦さまの弟子で仏教で最高の修行を終えた僧侶のこと。写真は国指定重文の石造五百羅漢像のパネル展示、歴史博物館企画展パンフから転載。

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●宇佐風土記の丘

 15:30博物館を出て、近くの風土記の丘の古墳群へ向かう。

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 由布岳などに水源を発する駅館川(やっかんがわ)は、大分県宇佐市内を流れ、周防灘に注ぐ。その駅館川の河岸段丘の大地に風土記の丘が広がっている。約19haの史跡公園は、国指定史跡の6基の前方後円墳があり、周囲には小石室墳方形周構墓(ほうけいしゅうこうぼ)が散在しているという。

 それぞれの被葬者達は、3世紀末から6世紀にかけて宇佐平野を支配していた権力者たちと考えられている。九州内においても特徴的な遺跡で、規模も宮崎県の西都原古墳群に次ぐ。

 博物館から歩き始めると、古墳までは意外に遠くて時間的が足りなくなりそうで、博物館前に戻り、すぐそばの「赤塚(あかつか)古墳」を見る。

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 「赤塚古墳」は全長58m、前方後円墳としては県下最古、古墳時代前期(3世紀後半~4世紀初頭)に築造された。1921年(大正10年)、後円部から発掘され石棺から三角縁神獣鏡など5面の鏡や副葬品が見つかっている。鏡は、大和政権が地方の首長に分け与えたものとされる。

 資料写真を見ると古墳の上には青々とした樹木が数本生えているが、撮影した写真は伐採されたり枯れたりしたのか、特に左手の前方に枯れ枝に見える物が乗っていて、みすぼらしい。

 

 
 歴史博物館を後にして、タクシーで、宇佐駅へ。15:58発JR特急ソニック31号・大分行に乗る。16:20別府駅着。

 ホテルで休憩の後、別府冷麺・温麺を食べてみたくなって、駅東口周辺の「ラーメン亭一番」に行く。 冬でも冷麺を注文できるのかと店の人に聞くと、冬にも冷麺を食べる地元の人もいるが、初めての人は材料が同じ温麺がお薦めだとか。

 別府冷麺の温かいバージョンの温麺を食べる。冷麺と同じ600円。

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 別府冷麺は、戦後満州から引き揚げた料理人が開いた店が発祥で、朝鮮半島の冷麺を和風にアレンジしたとされる。麺は小麦粉、そば粉、でんぷんを基本とし、スープは魚介ベース。現在、別府冷麺を出す店は専門店系と焼肉屋系の2系列に大別されるそうだ。

 この店は、「昭和60年創業以来、別府冷麺発祥店の流れを汲んだ別府でしか味わえない別府冷麺・温麺を提供しております。」という。

 昆布とカツオ、牛骨を使用したスープ、酸っぱいキャベツキムチ、国産牛を煮込んだチャーシュー、ゆで卵、ネギ、そば粉入りもっちり丸麺。旨みたっぷりの牛肉チャシューがおいしい。食べているうちに、キムチの辛みがスープに溶け出し、その刺激がたまらない。

 

 別府駅周辺のホテル「アーサー」に連泊。

 

 

 ★ ★ ★

 もともと「八幡神」の由来は、応神天皇とは無関係だったのだ。八幡神は、ここ宇佐地方の豪族の氏神で、農耕神あるいは海の神として祀られていたそうだ。

 「八幡」は「やはた」と読んだそうだが、のちに神仏習合で「ハチマン」と音読に転化したと考えられている。「幡」は、神霊が宿る「旗」を意味する言葉とされ、八幡は八つの旗、またはたくさんの旗を意味した。 

 

 奈良時代の大和朝廷は、中国の唐にならって律令国家の建設を進めようとしたが、東北の蝦夷(えみし)と南九州の隼人(はやと)は、その体制に従うことに強く抵抗した。

 この蝦夷については、2015年5月に東北を旅して「東北歴史博物館」でも学んだ。
 http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-b645-1.html

 

 現在の鹿児島県の薩摩や大隅などの南九州に居住した人々は隼人と呼ばれ、いくつものクニをつくり生活していた。風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。ちなみに古く「日本書紀」などで「熊襲」(くまそ)と呼ばれた人々は、隼人と同じとされる。

 東北の蝦夷と南九州の隼人は、必ずしも未開な野蛮な人達ではなかったと思うが、中央政権は彼らをそのように見下し、自分たちと異なる民族のように差別したのだろう。
 

 720年(養老4年)、隼人が反乱を起こす。「反乱」という言葉は支配者側の表現で、被支配者側から見れば「決起」であったろう。大和朝廷はそれを制圧するため、一万人の兵隊を南九州に送る。宇佐の人々も八幡神を神輿(みこし)に乗せて鎮定に赴き、3ヵ年にわたって抵抗する隼人を平定して、723年(養老7年)に帰還した。いつのまにか八幡神は、大和朝廷の守護神とされた。

 そのとき、100人もの隼人の首を宇佐へ持ち帰り、宇佐神宮より西へ約1kmの所に葬って「凶首塚」(きょうしゅづか)を建てた。その後隼人の霊を祀る「百太夫殿」を建立、現在の「百体神社」(宇佐神宮の末社)になったとされる。
 
 さらに、「隼人の霊を慰めるため『放生会』(ほうじょうえ)をすべし」との八幡神のお告げが下ったという。744年(天平16年)に和間の浜(宇佐市の和間海浜公園?)で、隼人の霊に見立てた蜷(にな)や貝を海に放つ「放生会」の祭典がとり行われた。これが、現在でも毎年10月、3日間にわたって行われている宇佐神宮の重要な祭礼「放生会」(仲秋祭)の始まりで、宇佐は全国各地で行われる「放生会」の発祥の地である。

 隼人との戦いで殺生の罪を悔いた八幡神は仏教に救いを求め、当時は先進的な「神仏習合」の思想が成立したとされる。神仏習合により、神社内に神宮寺「弥勒寺」が作られ、「八幡大菩薩」と称された。

 

 

 ★ ★ ★ 

 725年(神亀2年)、聖武天皇の発願によって現在の地に宇佐神宮の御殿が造立され、八幡神として応神天皇が奉祀された。これが宇佐神宮の創建とされる。その後に比売大神(ひめおおかみ)と神功皇后(応神天皇の母)が祭神に加わった。

 八幡神は、清和源氏や桓武平氏を始めとする全国の武家に広く信仰を集め、武家の守護神となった。源氏は八幡神を氏神として崇敬し、日本全国各地に勧請(分霊を移す)した。源義家は、石清水八幡宮で元服して自らを「八幡太郎義家」を名乗ったのは有名だ。

 宇佐神宮は、九州にありながら中央(大和朝廷や源氏)と密接な関係を持ち、また九州一円に広大な荘園を所有し、権力と財力を手に入れた。宇佐地方の氏神にすぎなかった八幡神は国家神となり、宇佐神宮は全国の八幡宮の総本宮として、めざましい発展をしていく。都が平安京へ移ると朝廷は「石清水八幡宮」を、さらに武士の棟梁・源氏が鎌倉へ「鶴岡八幡宮」を創設した。

 一方、国東半島では神仏習合の独特の寺院集団と信仰が発展し、多くの寺院や大小の石仏や石塔が多数点在した。これは、「仏の里」とされる国東半島では、天台宗の波及と相まって、宇佐八幡の庇護と影響があったようだ。

 

 日本全国には10万余の神社があり、そのうちの4万余が八幡神社だそうだ。ということは八幡様は、日本で一番親しまれている神様ということになる。

 ちなみに全国の郵便局の数が2万5千、公立の小中学校が3万3千校、コンビニが4万店余り。八幡神社の数が、いかに凄いのかがわかる。

 当時の大和朝廷は八幡神が応神天皇の神霊とし、現在の神道でもそう伝えられている。しかし、源氏や武家の守護神、武運の神としての「八幡大菩薩」は、天照大神や王朝とは別の世界として変質して崇拝されたのではないだろうか。

 そして、我々庶民の多くが「八幡様」や「はちまんさん」と愛称で呼ぶときも、祭神が応神天皇の神霊というのは頭に無い。古神道の自然崇拝のような神として、または村や町の守護神、氏神様として、親しんでいるのではないかと思う。

 その八幡様の総本宮が宇佐神宮であり、八幡神の歴史を学んだ有意義な旅であった。
 
 

 大分県別府市、宇佐市の旅行の3日目は、次のブログ記事「別府地獄めぐり」に続く。

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