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2016年2月の4件の投稿

2016年2月 9日 (火)

宇佐八幡神と渡来人

 2016年1月25日(月)~27日(水)、大分県別府市、宇佐市旅行の追記。

 

 

 

 本ブログの「宇佐神宮」: http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-d1af.html と、

 

 「大分県立歴史博物館」: http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-855d.html

 

の記事を投稿した後、司馬遼太郎の紀行集『街道をゆく』シリーズ「中津・宇佐の道」の巻に、宇佐八幡神についての記述があったことを思い出した。
 

 

 『大徳寺散歩、中津・宇佐の道 司馬遼太郎 街道をゆく 34』(1994年、朝日文庫)のカバー。

 

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 (カバーには、大徳寺(京都市)の土塀の写真が使われている。)

 

 

 司馬氏は、1985年5月31日~6月3日大分県中津市と宇佐市の取材旅行をし、「中津・宇佐の道」の巻を朝日新聞に連載した。

 

 氏は、全国に4万社余りある八幡神社の故郷「宇佐神宮」の前身(祖宮)とされる「薦(こも)神社」(別名、大貞八幡神社)を中津市に訪ねた。御神体の「三角池」(みすみいけ)に自生する薦(こも、植物のマコモのこと)から、古代に想いを馳せる。

 

 次に宇佐市の宇佐神宮と和間神社に足を延ばし、八幡神と渡来人の関係について論じている。更に中津に戻って、福沢諭吉の旧居を訪ね、諭吉の家族について考察。戦国武将・黒田官兵衛の中津時代、次に中津領主を務めた細川忠興について書いている。

 

 

 

 写真は、薦神社の神門(国の重要文化財) 。

 

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(出展:ウィキメディア・コモンズ Ginger1192 大貞八幡神社:2010年11月25日)

 

 下の写真は、宇佐神宮の南中楼門:2016年1月26日。

 

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 司馬遼太郎は、この地で八幡神を奉じ始めたのは、どういう人たちだったのだとうかと考えた。その結果、「八幡」(やはた)の「幡」を「秦(はた)氏」に結び付けて解釈し、八幡神は秦氏という渡来人の神だったと結論付けている。宇佐の地には、渡来系の代表的な家系として辛嶋(からしま)氏と大神(おおが)氏が有力だったが、辛嶋氏は秦氏に相違ないとしている。

 

 秦氏の人々は、弥生時代に朝鮮半島から日本にやってきた渡来人だった。中国の秦の始皇帝の末裔だと称していたが、それは定かではない。彼らは、進んだ農業技術を持っていて、稲作を営んだ。秦氏は、稲作に必要な用水池を築堤し、その水を集落の水田に配り、池を神として守ったのだという。

 

 司馬氏は、宇佐神宮の前身とされる「薦神社」の御神体は、「三角池」(みすみいけ、または御澄池)であるが、この池は秦氏の用水池ではなかったのだろうか。また「宇佐神宮」にも「初澤池」と「菱形の池」があり、秦氏の用水池を象徴しているとしている。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 飯沼賢司氏は、雑誌『週刊 司馬遼太郎 街道をゆく』の2005年9月18日号で、司馬遼太郎が八幡の幡を秦氏の秦と解釈していることに、反論している。飯沼氏は、『八幡神とはなにか』 (2004年、角川選書)などを著した中世・古代史専攻の別府大学教授。
 

 

 『週刊 司馬遼太郎 街道をゆく №34』(2005年9月18日号、朝日ビジュアルシリーズ)の表紙。

 

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 (表紙の写真は、由布山)

 

 

 東大寺の大仏鋳造直後の749年(天平勝宝元年)の12月、八幡神の女禰宜(めねぎ、女性神官)・大神杜女(おおがのもりめ)が、天皇しか許されない紫の輿(こし)に乗って入京、大仏に参拝した。

 

 このとき、『続日本紀』には、

 

 「豊前国宇佐郡に坐(いま)す広幡の八幡大神」

 

と呼ばれており、「広幡」(ひろはた)という枕言葉が付けられている。これは大きな旗の神ということだ。

 

 八幡は、中国の唐の時代に確立した軍隊の制度を象徴する「八幡・四鉾」制に由来する。14世紀初頭に成立した『八幡宇佐宮御宣託集』に、

 

 「辛国(からくに)の城に始めて八流の幡と天降りて、吾は日本の神と成れり」

 

とあるように、八幡神は渡来人の辛国の城に出現し、日本の神になったとある。 

 

 

 

 この「辛国の城」とは、朝廷が豊前の国にいた渡来人たちを大隅の国(鹿児島県)に入植させた開拓基地とみられる。その辛国の城の人々は、現地の隼人(はやと)と常に対立関係にあって、その争いの中で「八流の幡」がその城に天降ったというのである。八幡神は、軍旗に降りた神であった。このような幡に降りる神の思想は中国にあり、それをもたらしたのは大隅国の辛国の城にいた渡来の人々であった。

 

 

 一方で、ほぼ同じ時期の和銅年間、豊前宇佐の鷹居(たかい)の地で大神(おおが)氏と辛嶋(からしま)氏という渡来人の二氏によって、八幡神が祀られる。720年(養老4年)に反乱を起こした大隅の隼人の軍が辛国の城を攻めると、豊前の国守は宇佐の八幡神を奉じ豊前の軍を率いて、辛国の城を救援したとされている。ここに、二つの八幡神は宇佐の八幡神として一体となったというのだ。


 

 

 八幡神が仏教といち早く神仏習合した原因は、渡来人の神であったためだが、それよりも軍神であったことが大きい。八幡神は、隼人との戦いの神であった。仏教では、殺生は最も重い罪。戦いによって人を殺すと、その後の報いを人々は恐れた。

 

 そこに登場したしたのが「放生」(ほうじょう)という生き物を放つことによって、その報いから逃れるという仏教的な法、つまり仏教思想である。この放生の法を、宇佐の地に持ち込んだのは、法蓮という僧侶だった。 宇佐神宮は、今でもこの隼人の反乱に由来する伝統的な祭祀儀礼「放生会」(仲秋祭)が行われている。

 
  
 八幡神は、朝鮮半島から豊前国に来た渡来人によって信奉された神であった。しかし、その軍神としての幡の神の信仰や仏教との関係は、7世紀未から8世紀初頭の唐の文化の影響が極めて強く、まったく新しいタイプの神であったと、飯沼氏は述べている。

 

 
 

 

 ★ ★ ★

 

 司馬遼太郎が「八幡」の「幡」は「秦氏」の「秦」と断じたのは、やや乱暴に思える。古代史は、さまざまの古記録でどれが真実か、いくつもの説があって、どれが正しいかはわからないが、たぶん飯沼氏の説が現在の定説になっているのだろう。

 

 司馬氏は、『街道をゆく』の連載の中で、秦氏についてはしばしば触れているとそうだ。秦氏という渡来人が、弥生時代の3、4世紀頃、大挙して(一度ではないだろう)やって来て、日本各地でひたすら山野を開き、水田を作った農民だったという。そして、それぞれの地に神社を残したそうだ。現代多くの日本人の遠祖の人たちであって、日本に最大の功を残した人々であったと述べている。
 

 

 そういう意味で、司馬氏が関心のあった秦氏を八幡信仰を結び付けたと思う。なお辛嶋氏は秦氏の一族であるという説も多いが、異論もあるようだ。

 

 源氏や武家が守護神として「八幡大菩薩」を祀ったのは、八幡神が隼人との戦いの神であったことを考えると、納得できる。戦前は、国家や軍も国民も、大いに神がかりの時代であったが、皮肉にも古くは多くは渡来人の神だったのだ。

 

 九州南部の霧島連山に、「韓国岳」(からくにだけ)という標高1,700mの山がある。山の名の由来は、山頂付近が険しく登山者が殆どいない、あるいは草木が乏しいことから、空国(からくに)あるいは虚国(からくに)と呼ばれたという説。または、韓国(からくに、朝鮮半島)まで見渡すことができるほど高い山という説(実際には山頂からは朝鮮半島は見えない)があった。

 

 前述のように豊前の国の宇佐から大隅の国に移住した渡来人たちは、霧島連山の最高峰を眺めて、「韓国岳」と名付けて聖山としたという説を今回八幡神を調べていて知った。韓国岳の頂上より故郷が見えるわけではないが、望郷の気持ちを込めて彼らが名付けたと思われるこの説を支持したい。

 

 

 

 

 

 

2016年2月 4日 (木)

別府地獄めぐり

 2016年1月25日(月)~27日(水)、大分県別府市、宇佐市を旅行。

 本ブログの記事「大分県立歴史博物館」の続き。

 27日(水)午前、別府を代表する観光スポット「地獄めぐり」に行く。

 

 別府温泉には、含有物によって青、赤、白などの様々な泉色の熱湯や熱泥、そして噴気や間欠泉など、特色のある源泉が多く点在する。

 この不思議な自然湧出の源泉で、別府地獄組合に加入しているのは鉄輪(かんなわ)温泉の「海地獄」、「鬼石坊主地獄」、「山地獄」、「かまど地獄」、「鬼山地獄」、「白池地獄」、やや離れて柴石(しばせき)温泉にある「血の池地獄」、「龍巻地獄」の8つ。「別府地獄めぐり」は、この8つの地獄を回るのが定番コース。

 この中から「海地獄」、「白池地獄」、「血の池地獄」、「龍巻地獄」の4つが、国指定名勝として2009年に選ばれた。

 

 別府駅西口前からタクシーで、 地獄めぐりの最初のスポット、鉄輪(かんなわ)温泉の「海地獄」に10:30着く。

 窓口で8地獄の共通観覧券(2,100円)を購入するが、事前に別府駅構内の観光案内所でもらった割引券を提出すると、10%引きで1,890円。

 

●海地獄(国名勝指定)

 園内に入ると硫黄の匂いがして睡蓮(スイレン)の大きな池がある。この先に猛烈な噴煙が昇っているところが「海地獄」。

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 海地獄は、今から約1,200年前に鶴見岳の爆発で誕生した。別府の地獄の中で最も大きい池。

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 98度もある熱湯の池で、海をイメージする硫酸鉄のコバルトブルーがとても美しい。しかし、もうもうとした噴気でよく見えない。

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 園内の別の池では、温泉熱を利用してアマゾン原産のオオオニバスや熱帯性スイレンを栽培している。

 

●鬼石坊主地獄

 ボコボコと噴き上げる灰色の熱泥の沸騰する様子が、「坊主の頭」に見えるというので、この名で呼ばれるようになった。まさに見ていて地獄そのもの。

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 鬼石坊主地獄の歴史は古く、733年(天平5)に編まれた「豊後風土記」にも登場している。明治時代には「新坊主地獄」として観光名所となったが、1950年代後半に一旦閉鎖された。2002年(平成14年)に、約40年ぶりに「鬼石坊主地獄」として復活したそうだ。

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●山地獄

 岩山の山裾付近のいたるところから、ゴボゴボと水蒸気が吹き上げている。

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 ここでは、温泉熱を利用やミニ動物園があり、カバ、ウサギ、カピパラ、サル、クジャク、ミニチュアホース、フラミンゴなど数種が飼育されている。

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 いくら温泉熱といっても、この寒空で動物たちはじっとして動かない。

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●かまど地獄

 その昔、氏神である「竈門(かまど)八幡宮」の大祭に、地獄の噴気で神前に供える御飯を炊いていた事が、名前の由来そうだ。かまど地獄は、一丁目~六丁目までさまざまな湯の池がある。また、足湯や飲湯、美肌効果のある「肌の湯」(顔に噴気を当てる)が楽しめる。

 かまど地獄二丁目。釜と赤鬼は、かまど地獄のシンボル。

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 かまど地獄三丁目は、乳白色の幻想的な池。

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 かまど地獄四丁目は、熱泥の坊主地獄。一丁目は見過ごしたが、こんな感じでもっと赤い。

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 かまど地獄五丁目の池は、気温によって湯の色がグリーンやブルーに変化する。

 韓国からの観光客が多く来ていた。韓国人ガイドが大声で、池の水面にたばこの煙を吹きかけると、噴煙を上げるという実験をやっていた。

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 かまど地獄六丁目は、真っ赤な熱泥地獄の池。

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●鬼山地獄

 緑白色の熱水をたたえた池を中心に、温泉熱を利用し世界各国のワニが飼育されていて、別名「ワニ地獄」とも呼ばれている。

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  1923年(大正12年)に日本で初めて温泉熱を利用して、ワニ飼育を開始した。現在、クロコダイル、アリゲーターなど世界のワニ 約100頭を飼育。貴重なワニの剥製も展示。

 ここで誕生した赤ちゃんワニ(イリエワニ)も 、現在水槽の中で成長している。

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 間近で見るとワニ柄がきれい。

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●白池地獄(国名勝指定)

 白池地獄は含ホウ酸食塩泉で、噴出時は無色透明の熱湯が、池に落ちると温度と圧力の低下で、青みを帯びた白色に変色する。

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 池は、落ち着いた和風庭園の中にある。またここには、温泉熱を利用した熱帯魚館があり、アマゾンに生息するピラニア等、さまざまなめずらしい熱帯魚を観察することができる。

 

 ここで、12:00になった。食事処を探す。

 

●海山の蔵(さちのくら)

 12:10、近くの温泉宿「もと湯の宿 黒田や」1階にある併設レストラン「海山(さち)の蔵」に入る。畳の掘りごたつ席に座る。高級感があって、静かで落ち着いた雰囲気。

 鉄輪温泉の名物「地獄蒸しランチ」1,620円を注文。デザート、コーヒー付き。入口にたくさんの蒸し釜があって、温泉の蒸気熱を利用して、野菜、豚肉や魚を蒸したヘルシーなランチ。温泉熱のせいか柔らかくて、野菜も甘くておいしい。

 写真は、もと湯の宿「黒田や」のホームページから転載。

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 この店でゆっくりし過ぎた。

 次の、「血の池地獄」・・・酸化鉄の朱色の地獄、国指定名勝

     「龍巻地獄」・・・30~40分間隔の間欠泉で知られる地獄、国指定名勝

 は、車で10分ほどの柴石温泉へ移動しなくてはならない。

 

 時間が中途半端なので、残り2つの地獄はスキップして、別府駅へ戻ることに。

 

 15:05、別府北浜バス停から、空港連絡バスで大分空港へ。

 17:30、定刻を15分遅れで、羽田空港行きは出発した。

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 ★ ★ ★

  別府市は、西側の鶴見岳(標高1,375m)等の火山帯から、東側の別府湾へと広がるの扇状地に位置する。多数の温泉が湧き出ていて、源泉数・湧出量ともに日本一を誇る温泉都市。

 別府温泉は、狭義には別府駅周辺の温泉を指すが、広義には別府市内に泉質や雰囲気を異にした数百ある温泉の総称。それらは歴史の異なる8箇所の温泉郷、別府・浜脇・観海寺・堀田・明礬(みょうばん)・鉄輪(かんなわ)・柴石(しばせき)・亀川を中心に分布しており、これらを「別府八湯」(べっぷはっとう)と呼ぶそうだ。

 別府の歴史を知る資料は少ないが、昔の別府温泉・地獄はどうだったのだろうか。
 

 【別府の古代・中世】

 8世紀の前半に編纂された『豊後国風土記』に、別府地獄について記述があるそうだ。鉄輪・亀川の辺りは、近寄ることができない、忌み嫌われた土地であったと記され、赤湯の泉(血の池地獄)や間欠泉などに関する詳しい記事もある。人々から、これらを「地獄」と呼ばれるようになった。

 大昔の人々は荒涼たる地に地獄の世界を目の当たりに見て、おののいたに違いない。この風土記には、温泉の湯の利用に関する記述はまったく見られないという。この当時は、100度もある高温の湯が噴出する鉄輪の一帯は、人々の保養に使われる温泉とは全く意識されていなかったようである。

 四国・道後温泉では、神様が温泉治療を行ったという伝説があり、8世紀の時代の人々は、病を癒やす薬として湯を利用した。古代から、道後の湯を始め、天皇も通ういくつかの温泉が知られていたが、別府が湯治場、療養の地として認められるようになったのは、中世以降のこととされる。
 

 【別府の近世】

 別府が、積極的な湯治場として活用されるようになるのは、近世以降のこと。最初は里人が入湯したり、日常生活での蒸し物に利用したりする程度で、他の地域から湯治客がやってくることは少なかった。

 湯治のため多くの人々がやってくるようになるのは、江戸時代末期の文化・文政時代(1804~1830)からで、その頃から屋内に湯屋を持つ旅籠や木賃宿もでき、次第に温泉場としての形を成すようになったようだ。

 日本の風呂は、中世以前の蒸し湯の時代から、江戸時代に湯船のある風呂へと変化したそうだ。江戸時代の鉄輪温泉の蒸し湯は、世に知られた存在だったらしい。蒸し湯は、石室の中に温泉の熱気を入れ、身体を温め悪い箇所を治癒するものである。このような蒸し風呂による治療の伝統は、かつて石風呂などが全国各地にあったそうだが、温泉の熱気を利用したものは極めてめずらしいらしい。

 そして、蒸し湯や地獄蒸し料理への利用、明礬(みょうばん)や湯の花を生産など、蒸気の利用が次第に積極的に行われてきた。そして、地獄を観覧するために巡る小旅行も、この頃から始まっただろう。きっと当時の旅人や湯治客が、恐る恐る、興味深く地獄を見て回ったのは容易に想像できる。
 

 【別府の近代・現代】

 明治以降、別府港の築港、鉄道や道路の整備により交通網が発達して観光客が増加、別府温泉は全国的に知られるようになり、別府は一大観光都市へと発展していく。近世の旅籠や木賃宿に起源を持つ宿泊業は、現在も継続している。また、住民が組合を作って管理・運営する温泉共同浴場も利用されている。

 明治後半になるまで、湯治客が見物していく程度の地獄は、すべて無料で開放されていた。しかし1911年(明治44)年、「海地獄」が見物客に入場料を取り始めたことをきっかけに、そのほかの地獄も入場料を取りはじめた。

 高温の熱水が噴出する地獄は、作物の栽培も、住居を建てることもできず、地主からすれば不良資産でもあった。それが見物客から入場料を徴収することで、収入を得ることのできる観光資源に変わったのである。それぞれの地獄の地主たちは、見物客のために柵を整備したり売店を設置したりと、見物客を集めるため色々な工夫を行った。これが、本格的な「地獄めぐり」のはじまりだった。

 当時の交通手段は、徒歩、人力車、馬車などが主力であった。1917年(大正6年)頃、地獄遊覧にタクシーが運行を始め、地獄めぐりに訪れる観光客が多くなる。1920年(大正9年)には、乗客6人程度の乗合バスができた。

 1928年(昭和3年)、油屋熊八が設立した亀の井自動車(現在の亀の井バス)は、地獄めぐりバスを運行する際に、初めて女性バスガイドによる案内を始めた。この観光案内は大好評を博し、地獄めぐりの人気は決定的なものとなった。現在も、国内で最長の歴史を持つ定期観光バスとして、亀の井バスにより運行されている。

 地獄は柵で囲まれ、周りに見学路が作られ、温泉熱を利用した動植物の飼育・栽培やお土産屋など、観光地として整備され充実していった。別府には現在、別府地獄組合に加盟していない地獄もたくさんあり、また消滅した地獄なども多いという。
 

 【別府の湯けむり景観】

 2012年(平成24年)に「別府の湯けむり・温泉地景観」が、文化庁の重要文化的景観に選定された。別府市のホームページによると、別府のこの重要文化的景観は、扇状地の随所から立ち上る湯けむりの下で営まれる、温泉資源の多面的な利用の在り方を示す文化的景観として極めて価値の高いものだとしている。

 別府市が、豊富な温泉資源を活用した生活・生業の在り方を示す文化的景観を、後世のために保護しながら、魅力ある地域つくりを進めているのは、素晴らしい。

2016年2月 3日 (水)

大分県立歴史博物館

 2016年1月25日(月)~27日(水)、大分県別府市、宇佐市を旅行。

 本ブログの記事「宇佐神宮」の続き。

 26日(火)午後、宇佐市の宇佐風土記の丘にある「大分県立歴史博物館」に行く。

 

 宇佐神宮の仲見世商店街で昼食の後、13:40国道10号線の宇佐神宮前交差点そばにタクシー営業所を見つけ、タクシーに乗り込む。

 宇佐神宮から北西の方向にある宇佐風土記の丘に向かう。どこか古代の風景を思わせるような平野の田園地帯を走ると、およそ5分で県立歴史博物館に着く。

 観覧料は、大人310円。下の写真は、博物館のパンフ表紙。

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 1981年(昭和56年)の「宇佐風土記の丘」の開設に伴い、敷地内に「大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館」として開館。その後、1998年(平成10年)に名称を「大分県立歴史博物館」に改め、常設展示室を増設、展示をリニューアルした。

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 大分県全般の歴史を対象としたものではなく、宇佐神宮や国東半島の六郷山の八幡・仏教文化などを中心にした常設展示が行われている。

 

 13:45入館すると、天井まで届く高さの石仏「熊野磨崖仏」(くまのまがいぶつ)の複製模型が迎えてくれる。

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 「熊野磨崖仏」は、大分県豊後高田市にある平安時代後期に岩壁に彫った仏像。国の重要文化財及び史跡に指定。この仏像は大日如来像で高さ約6.7m、その左手の実際の岩壁には約8mの不動明王像が刻まれているそうだ。

 鬱蒼とした山中に日本最大級の巨大な仏像を刻まれ、当時のこの地方の信仰の強さを表している。

 

 常設展示室に向かう通路に展示された「こて(鏝)絵」。

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 こて絵は、漆喰(しっくい)を使って描いたレリーフ。左官職人が、母屋や土蔵の壁の装飾に、左官こて(鏝)で浮き彫りにした絵。江戸末期に伊豆の左官・入江長八が始め、全国に広がったそうだ。テレビで紹介されていたのを見たことがある。

 題材は七福神、鶴亀、干支など極彩色の縁起物が中心。明治に盛んに作られて全国で見られるが、大分県各地に多く約700ヶ所が確認されている。特に宇佐市の安心院(あじむ)町では、うち約100ヶ所近くもあるという。
 

 

 「豊の国・おおいたの歴史と文化-くらしといのり-」と題した常設展示は、以下の7つテーマの展示エリアに分かれている。

  ・ 富貴寺大堂の世界
  ・ 生・死・いのり
  ・ 豊の古代仏教文化
  ・ 宇佐八幡の文化
  ・ 六郷山の文化
  ・ 広がる仏教文化
  ・ 信仰とくらし

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 ちなみに「豊の国」(とよのくに)は、現在の福岡県東部と大分県全域にあたる。後に豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)に分かれる。ここでの「豊の国」は、大分県を意味しているようだ。

 

 常設展示室に入るといきなり「撮影禁止」の立て札があり、がっかり。

 最近の博物館は、特別な理由、例えば個人所有の展示物以外は、原則フラッシュなしで撮影が許可されている場合が多いので残念。博物館の職員と思われる人に聞いても、何故禁止なのか説明はない。
 

●富貴寺(ふきじ)の世界

 展示室の中央には「富貴寺の世界」と題し、国宝「富貴寺大堂」(ふきじおおどう)の創建当時に再現された実物大模型がある。写真は、博物館のパンフより転載。

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 「富貴寺」は、国東半島の豊後高田市にある天台宗の寺院。「阿弥陀堂」つまり「富貴寺大堂」は、平安時代後期に宇佐神宮の大宮司・宇治氏が、極楽往生を祈願して建てたという。

 宇治平等院鳳凰堂、平泉中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつで、現存する九州最古の木造建築物。国宝に指定され、国東を代表する文化財。

 大堂の中に収められている本尊の阿弥陀如来像(写真は再現模型、博物館のパンフより転載)は、国の重要文化財。大堂内は極楽浄土の世界を描いた壁画は、風化が激しいがこれも国の重要文化財。

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 観覧チケットにも「富貴寺大堂」の壁画が印刷してあったので、これも転載する。

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●生・死・いのり

 展示室の順路は、「生・死・いのり」と題した旧石器時代から古墳時代から始まる。宇佐風土記の丘や周辺から出土資料が展示。写真は、博物館のパンフより転載。

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●豊の古代仏教文化

 飛鳥・奈良時代、19ヶ寺もの寺院が建てられた古代の豊の地域の仏教文化を紹介。

 「虚空蔵寺塔」跡が宇佐別府道路宇佐インター付近で発掘された。奈良・法隆寺と同じ建物配置でつくられた広大な寺域で、奈良時代(7世紀末頃)に創建されたという。写真は、礎石から復元した「虚空蔵寺」の三重塔模型で、パンフから転載。

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●宇佐八幡の文化

 「八幡神」は、もともと宇佐地方の神だったそうだ。今から1300年ほど前に、朝廷より守護神として崇められるようになった。八幡神の歴史について紹介。

 600年ほど前の絵図をもとに製作された精密な「宇佐神宮境内」の模型や、八幡造と呼ばれる独特の建築様式の「宇佐神宮本殿」の10分の1模型が展示されている。

 写真は宇佐神宮本殿の模型で、博物館パンフから転載。

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●六郷山の文化

 国東半島の六郷には、「六鄕満山」(ろくごうまんざん)と呼ばれる多数の寺院があり、独特の仏教文化が栄えた。国東半島は、「仏の里」とも呼ばれる。六鄕満山と宇佐神宮との繋がり、六鄕満山の代表的な行事である「修正鬼会」(しゅじょうおにえ)という火祭り(写真は博物館パンフから転載)についても紹介。

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●広がる仏教文化

 大分県に所在する石に刻まれた仏像など、豊富な石造文化財について紹介。「臼杵磨崖仏」(うすきまがいぶつ)は、大分県南部を代表する磨崖仏で、平安時代後期から鎌倉時代にかけて60体以上が彫られた。実物は磨崖仏としては初めて、彫刻として九州初の国宝に指定。写真は、磨崖仏の複製で、博物館パンフより転載。

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●信仰とくらし

 大分市野津原にある国重要文化財「後藤家住宅」の実物大模型を展示。江戸時代後期の庄屋の家での生活道具、身近な信仰や祭りや年中行事などを紹介。

 人々が神仏に願い事をするときや、願い事が叶ったお礼として用いられたさまざまな奉納物も展示されている。写真は後藤家住宅(模型)で、博物館パンフより転載。
 
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●企画展「お釈迦さまと羅漢さん」

 平成27年度5回目の企画展、平成27年12月22日(火)~平成28年2月14日(日)の期間で、開催されている。

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 企画展示室で、お釈迦さまと、お釈迦さまをとりまくさまざまな仏さまや弟子たちの大分県内に所蔵する絵画・彫刻等とパネル約60点を展示。こちらも、撮影禁止。

 特に、中津市の耶馬渓(やばけい)の羅漢寺(らかんじ)石造仏群が、2014年(平成26年)に国の重要文化財に指定され、関連する資料が展示。羅漢(らかん)は、お釈迦さまの弟子で仏教で最高の修行を終えた僧侶のこと。写真は国指定重文の石造五百羅漢像のパネル展示、歴史博物館企画展パンフから転載。

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●宇佐風土記の丘

 15:30博物館を出て、近くの風土記の丘の古墳群へ向かう。

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 由布岳などに水源を発する駅館川(やっかんがわ)は、大分県宇佐市内を流れ、周防灘に注ぐ。その駅館川の河岸段丘の大地に風土記の丘が広がっている。約19haの史跡公園は、国指定史跡の6基の前方後円墳があり、周囲には小石室墳方形周構墓(ほうけいしゅうこうぼ)が散在しているという。

 それぞれの被葬者達は、3世紀末から6世紀にかけて宇佐平野を支配していた権力者たちと考えられている。九州内においても特徴的な遺跡で、規模も宮崎県の西都原古墳群に次ぐ。

 博物館から歩き始めると、古墳までは意外に遠くて時間的が足りなくなりそうで、博物館前に戻り、すぐそばの「赤塚(あかつか)古墳」を見る。

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 「赤塚古墳」は全長58m、前方後円墳としては県下最古、古墳時代前期(3世紀後半~4世紀初頭)に築造された。1921年(大正10年)、後円部から発掘され石棺から三角縁神獣鏡など5面の鏡や副葬品が見つかっている。鏡は、大和政権が地方の首長に分け与えたものとされる。

 資料写真を見ると古墳の上には青々とした樹木が数本生えているが、撮影した写真は伐採されたり枯れたりしたのか、特に左手の前方に枯れ枝に見える物が乗っていて、みすぼらしい。

 

 
 歴史博物館を後にして、タクシーで、宇佐駅へ。15:58発JR特急ソニック31号・大分行に乗る。16:20別府駅着。

 ホテルで休憩の後、別府冷麺・温麺を食べてみたくなって、駅東口周辺の「ラーメン亭一番」に行く。 冬でも冷麺を注文できるのかと店の人に聞くと、冬にも冷麺を食べる地元の人もいるが、初めての人は材料が同じ温麺がお薦めだとか。

 別府冷麺の温かいバージョンの温麺を食べる。冷麺と同じ600円。

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 別府冷麺は、戦後満州から引き揚げた料理人が開いた店が発祥で、朝鮮半島の冷麺を和風にアレンジしたとされる。麺は小麦粉、そば粉、でんぷんを基本とし、スープは魚介ベース。現在、別府冷麺を出す店は専門店系と焼肉屋系の2系列に大別されるそうだ。

 この店は、「昭和60年創業以来、別府冷麺発祥店の流れを汲んだ別府でしか味わえない別府冷麺・温麺を提供しております。」という。

 昆布とカツオ、牛骨を使用したスープ、酸っぱいキャベツキムチ、国産牛を煮込んだチャーシュー、ゆで卵、ネギ、そば粉入りもっちり丸麺。旨みたっぷりの牛肉チャシューがおいしい。食べているうちに、キムチの辛みがスープに溶け出し、その刺激がたまらない。

 

 別府駅周辺のホテル「アーサー」に連泊。

 

 

 ★ ★ ★

 もともと「八幡神」の由来は、応神天皇とは無関係だったのだ。八幡神は、ここ宇佐地方の豪族の氏神で、農耕神あるいは海の神として祀られていたそうだ。

 「八幡」は「やはた」と読んだそうだが、のちに神仏習合で「ハチマン」と音読に転化したと考えられている。「幡」は、神霊が宿る「旗」を意味する言葉とされ、八幡は八つの旗、またはたくさんの旗を意味した。 

 

 奈良時代の大和朝廷は、中国の唐にならって律令国家の建設を進めようとしたが、東北の蝦夷(えみし)と南九州の隼人(はやと)は、その体制に従うことに強く抵抗した。

 この蝦夷については、2015年5月に東北を旅して「東北歴史博物館」でも学んだ。
 http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-b645-1.html

 

 現在の鹿児島県の薩摩や大隅などの南九州に居住した人々は隼人と呼ばれ、いくつものクニをつくり生活していた。風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。ちなみに古く「日本書紀」などで「熊襲」(くまそ)と呼ばれた人々は、隼人と同じとされる。

 東北の蝦夷と南九州の隼人は、必ずしも未開な野蛮な人達ではなかったと思うが、中央政権は彼らをそのように見下し、自分たちと異なる民族のように差別したのだろう。
 

 720年(養老4年)、隼人が反乱を起こす。「反乱」という言葉は支配者側の表現で、被支配者側から見れば「決起」であったろう。大和朝廷はそれを制圧するため、一万人の兵隊を南九州に送る。宇佐の人々も八幡神を神輿(みこし)に乗せて鎮定に赴き、3ヵ年にわたって抵抗する隼人を平定して、723年(養老7年)に帰還した。いつのまにか八幡神は、大和朝廷の守護神とされた。

 そのとき、100人もの隼人の首を宇佐へ持ち帰り、宇佐神宮より西へ約1kmの所に葬って「凶首塚」(きょうしゅづか)を建てた。その後隼人の霊を祀る「百太夫殿」を建立、現在の「百体神社」(宇佐神宮の末社)になったとされる。
 
 さらに、「隼人の霊を慰めるため『放生会』(ほうじょうえ)をすべし」との八幡神のお告げが下ったという。744年(天平16年)に和間の浜(宇佐市の和間海浜公園?)で、隼人の霊に見立てた蜷(にな)や貝を海に放つ「放生会」の祭典がとり行われた。これが、現在でも毎年10月、3日間にわたって行われている宇佐神宮の重要な祭礼「放生会」(仲秋祭)の始まりで、宇佐は全国各地で行われる「放生会」の発祥の地である。

 隼人との戦いで殺生の罪を悔いた八幡神は仏教に救いを求め、当時は先進的な「神仏習合」の思想が成立したとされる。神仏習合により、神社内に神宮寺「弥勒寺」が作られ、「八幡大菩薩」と称された。

 

 

 ★ ★ ★ 

 725年(神亀2年)、聖武天皇の発願によって現在の地に宇佐神宮の御殿が造立され、八幡神として応神天皇が奉祀された。これが宇佐神宮の創建とされる。その後に比売大神(ひめおおかみ)と神功皇后(応神天皇の母)が祭神に加わった。

 八幡神は、清和源氏や桓武平氏を始めとする全国の武家に広く信仰を集め、武家の守護神となった。源氏は八幡神を氏神として崇敬し、日本全国各地に勧請(分霊を移す)した。源義家は、石清水八幡宮で元服して自らを「八幡太郎義家」を名乗ったのは有名だ。

 宇佐神宮は、九州にありながら中央(大和朝廷や源氏)と密接な関係を持ち、また九州一円に広大な荘園を所有し、権力と財力を手に入れた。宇佐地方の氏神にすぎなかった八幡神は国家神となり、宇佐神宮は全国の八幡宮の総本宮として、めざましい発展をしていく。都が平安京へ移ると朝廷は「石清水八幡宮」を、さらに武士の棟梁・源氏が鎌倉へ「鶴岡八幡宮」を創設した。

 一方、国東半島では神仏習合の独特の寺院集団と信仰が発展し、多くの寺院や大小の石仏や石塔が多数点在した。これは、「仏の里」とされる国東半島では、天台宗の波及と相まって、宇佐八幡の庇護と影響があったようだ。

 

 日本全国には10万余の神社があり、そのうちの4万余が八幡神社だそうだ。ということは八幡様は、日本で一番親しまれている神様ということになる。

 ちなみに全国の郵便局の数が2万5千、公立の小中学校が3万3千校、コンビニが4万店余り。八幡神社の数が、いかに凄いのかがわかる。

 当時の大和朝廷は八幡神が応神天皇の神霊とし、現在の神道でもそう伝えられている。しかし、源氏や武家の守護神、武運の神としての「八幡大菩薩」は、天照大神や王朝とは別の世界として変質して崇拝されたのではないだろうか。

 そして、我々庶民の多くが「八幡様」や「はちまんさん」と愛称で呼ぶときも、祭神が応神天皇の神霊というのは頭に無い。古神道の自然崇拝のような神として、または村や町の守護神、氏神様として、親しんでいるのではないかと思う。

 その八幡様の総本宮が宇佐神宮であり、八幡神の歴史を学んだ有意義な旅であった。
 
 

 大分県別府市、宇佐市の旅行の3日目は、次のブログ記事「別府地獄めぐり」に続く。

2016年2月 1日 (月)

宇佐神宮

 2016年1月25日(月)~27日(水)、大分県別府市、宇佐市を旅行。

 26日(火)午前、全国に4万社余りある八幡神社の総本社「宇佐神宮」に行く。

 気象庁は、1月23日~25日の日本列島全域の上空には今冬最強の寒気が流れ込むため、西日本を中心に大雪に警戒するよう呼びかけ。24日は、長崎市や鹿児島市など、九州各地の平野部でも積雪を観測。長崎市では観測史上で最高の17cmの積雪。沖縄でも1977年以来39年ぶり、史上2回目の降雪が観測された。

 
 24日午前中、大分空港に向け羽田空港を出発予定だったが、大雪のため欠航となった。冬型の気圧配置は翌25日にかけても続き、西日本や北陸を中心に大荒れの予報で、強風や雪による交通の乱れが心配された。

 

 25日午前中の東京は、寒気の中の晴天となった。羽田空港に着くと、長崎、福岡行き等が欠航しているが、大分行きは大丈夫。

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 雲一つない晴天の羽田空港。右端に遠く東京スカイツリー見える。10:50発大分行きソラシドエア機に搭乗。

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 12:35、大分空港に無事到着。今朝まで空港に降っていたとはずの雪が残っているかと思いきや、融けてしまったのか見当たらない。大分空港の空は雲が多いが、時々陽が射す。

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 空港レストラン「なゝ瀬」で大分名物のだんご汁の昼食あと、空港連絡バスで別府市内へ移動。途中の山間部でわずかに雪が舞うが、所要時間およそ50分で別府駅前に到着。

 夕方は、別府駅周辺の居酒屋「とよ常」で、名物のとり天。

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 佐賀の関で水揚げされた豊後水道のブランド魚「関サバ」は、高くてちょっと手が出ない。別府駅周辺のホテル「アーサー」泊。
 

 翌26日(火)朝、別府駅東口前におもしろいブロンズ像が建っているのに気がつく。台座には、「子どもたちをあいした ピカピカのおじさん The men called "Shiny Uncle" who loved children.」の文字が刻まれ、銘板には「油屋熊八の像」とある。

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 横から見ると、スーパーマンのように今にも飛び出しそう。マントにはぶら下がっている猿のような動物は何だろうか。

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 この像は、別府の観光開発に尽力し、温泉地由布院の礎を築いた油屋熊八翁の偉業をたたえ、今から10年前の2007年に建てられたそうだ。

 

 別府駅10:20発の博多行きJR特急ソニック22号、30分で宇佐駅に着く。

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 駅からタクシー約10分ほどの「宇佐神宮」へ。

 11:10、タクシーを降りると、参道の右手には土産物屋や茶屋が軒を連ねる仲見世商店街。平日で、昨日まで雪だったせいか、観光客は少ない。

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 商店街を過ぎると、大きな狛犬と朱塗りの大きな鳥居がある。

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 鳥居を抜けると、戦前の俳人・種田山頭火(たねだ・さんとうか)の句碑があった。山頭火は、1929年(昭和4年)と1938年(昭和13年)に宇佐神宮に参詣、その際に詠んだ俳句が2首刻まれている。

 「松から朝日が赤い大鳥居」 「春霜にあとつけて詣でる」

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 なるほど「自律俳句」を唱えた氏の句は、五七五の定型をはみ出している。

 
 参道は右に折れ、市内を流れる寄藻(よりも)川に架かる神橋を渡る。ここから先が宇佐神宮の境内、つまり神域となる。橋の上には、薄く雪が残り、注意して渡る。

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 これが、「大鳥居」(おおとりい)。そういえば、この鳥居の中央にあるはずの神社名を記した額束(がくづか)が無い。参道も広いが、境内の広さに驚く。

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 大鳥居のすぐ先の右手に「宝物館」があったが、残念ながら火曜休館。国指定、県指定の文化財等、数百点の宝物を収蔵・展示公開しているという。

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 写真では見えないが、宝物殿の手前に「初沢池」がある。奈良の「猿沢池」、京都の「大沢池」と共に日本三沢の一つだそうだ。


 八幡大神がお現れになったという霊池「菱形池」と能楽殿。

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 右手は神社庁。左手にやっと手水舎(てみずや)が見えてくる。

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 「勅使祭」(後述)や「大祓式」(おおはらえしき)などで、お祓いの儀式を行う「祓所(はらいじょ)」。白いものは、融けずに残っている雪。参道はここから左に折れる。

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 森に囲まれた石段を本殿の「上宮」(じょうぐう)に向かって進む。イチイガシと楠(クス)を主体とした自然のままの常緑広葉樹林で、国の天然記念物に指定されている。

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 石段を上り切ったところの木造の鳥居は、県指定の有形文化財。その先にが「西大門」(さいだいもん)が見える。この鳥居は宇佐古来の形式をもつ鳥居として「宇佐鳥居」と称し、額束がなく黒い台輪を柱上に置いていて、「大鳥居」をはじめ宇佐の鳥居の規格となるものだそうだ。

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 「西大門」は、文禄時代(1592年~)に改築されたといわれ、桃山風の華麗な構造、内部は極彩色。県指定文化財。
 


 「西大門」を抜けて、本殿に向かう。中央の説明板の左に、立札が3本立っている。

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 その立札3本は、右から以下のような行事と内容である。

 平成27年5月28日 「本殿遷座祭」
 上宮の修理工事のため下宮にお移ししていた御祭神が、上宮へお戻りになった際に天皇陛下の勅使がお見えになった。

 平成27年10月3日 「大分県行幸啓」
 天皇皇后両陛下が、大分県を御幸された。

 平成27年10月6日 「臨時奉幣祭」
 昨年秋、10年に一度の「臨時奉幣祭」(「勅使祭」ともいう)は、古式に則り斎行された。天皇陛下の勅使が御参向され、陛下よりの神前へのお供え物である幣帛(へいはく)を奉る重要な儀式。祭典前夜には、市民による提灯行列もあったそうだ。

 

 摂社の一つ「八子(やこ)神社」と、右の「上宮」回廊の隙間を抜けて立つ楠木の幹の形が面白い。

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 左に上宮(じょうぐう)と呼ばれる本殿を囲む「南中楼門」(みなみちゅうろうもん)、正面は「大楠」(おおくす)。「南中楼門」は、県指定文化財。
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 この「南中楼門」の中に、左から一之御殿、二之御殿、三之御殿の3棟の本殿がある。それぞれの御殿名を書いた立て札と石段の上にさい銭箱があって、3か所をお参りする。

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 参拝は一般の神社の「二礼二拍手一礼」と異なり、「二礼四拍手一礼」で行うように、わざわざ立て札に書いてある。出雲大社とおなじ作法。

 祭神は、以下の3柱である。

 一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) - 第15代天皇・応神天皇のこと。

 二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) - 宗像三女神とされている。

 三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう) - 応神天皇の母。

 

 「上宮」の本殿は、「八幡造(はちまんづくり)」とよばれる建築様式で、二棟の切妻造平入の建物が前後に接続したM字の形をしている。桧皮葺(ひはだぶき)で白壁朱漆塗柱の華麗な建物が、横一列に並んでいるそうだ。

 奥殿を「内院」、前殿を「外院」といい、神様が昼は前殿、夜は奥殿に移動することが八幡造の特徴だそうだ。本殿は、1952年(昭和27年)国宝に指定された。楼門の外から、中の本殿の写真は撮れない。

 下の本殿の写真は、宇佐市観光協会HPより転載。

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 「三之御殿」前にそびえる御神木の「大楠」は、推定樹齢800年。

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 何かと思ったら、ひょうたんの絵馬。祭神の神功皇后は、我が母乳をひょうたんの中に入れ、我が子の応神天皇に与えられたと伝えられている。ひょうたんの中に、願い事を書いた紙を入れて奉納するらしい。

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 「上宮」から帰り道は、順路に従い「若宮神社」、「下宮(げぐう)」へ下る。

 「若宮神社」は、応神天皇の若宮(皇子)の大鷦鷯命(仁徳天皇)たちを祀ってある。除災難・厄難の神様。国指定の重要文化財。

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 「下宮(げぐう)」には、「上宮」と同じ御祭神を祀る。「下宮参らにゃ片参り」と云われるように、下宮にも二礼四拍一礼でお参りした。

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 西参道にある屋根付きの神橋「呉橋(くれはし)」。昔、呉の国の人が架けたともいわれ、鎌倉時代以前からある。10年に一度の「勅使祭」の時だけ扉が開かれる。県指定文化財。

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 帰りの参道沿いに、神社に不釣り合いな古い蒸気機関車が展示してある。近寄ってみると、「宇佐参宮線26号蒸気機関車」の説明板がある。

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 機関車は、1981年(明治24年)のドイツ製。1984年(明治27年)に九州鉄道(国鉄の前身)が購入し活躍していたが、1965年(昭和27年)大分交通(株)に譲渡されて「宇佐参宮線」の主役となり、1965年(昭和40年)に廃止された。以前は、宇佐神宮と豊後高田が鉄道で繋がっていたそうだ。県指定有形文化財。

 

 仲見世通りでは、宇佐飴、甘酒などが名物らしい。もう午後1時近くになった。寒いので「神宮茶屋」のノンアルコールの甘酒200円。

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 「葱屋本舗(ねぎ屋さんのねぎ焼き)」に入り、「ねぎ焼き」(ミックス700円、豚550円)の軽い昼食。地元の甘くて食感の良い小ネギをたっぷり使ったお好み焼き、大分のB級グルメ。

 

 ★ ★ ★

 別府駅前の「油屋熊八の像」は、両手を上げた熊八が着ているマントに、小鬼が2匹取りついている。

 熊八は、1863年(文久3年)生まれ、愛媛県宇和島出身。若い時に3年間北米を旅行したあと、別府に居住。亀の井ホテルの創業やバス会社を経営、日本で始めて女性のバスガイドを誕生させた人として有名で、「別府観光の父」として別府市民から慕われているそうだ。

 クリスチャンで酒を飲まず、子供たちが大好きで、子供のための「オトギ倶楽部」を結成。童話、歌や演奏を聞かせたり、イベントを開いたりした。はげ頭から「ピカピカのおじさん」と自称して親しまれた。

 「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチフレーズを考え、このフレーズを刻んだ標柱を富士山山頂付近に担ぎ上げたほか、全国各地に建ててPRした。当時はだれも思いつかないような奇抜なアイデアを、次々に実行したという。1935年(昭和10年)に亡くなった。

 像は、天国から舞い降りて来た熊八が「やあ!」と呼びかけている陽気なおじさんのイメージだそうで、小鬼は子供を意味するのだろうか。駅前に、こんなユニークな銅像は見たことが無い。

 

 ★ ★ ★

 「宇佐神宮」は、大分県の国東半島付け根にそびえる聖地・御許山(おもとさん、標高647m)の北側山麓に鎮座する。

 全国に約4万社余りある八幡宮の元祖である。あの有名な京都の「石清水八幡宮」、福岡の「筥崎(はこざき)宮」、または鎌倉の「鶴岡八幡宮」とともに、日本三大八幡宮の一つである。

 主祭神である八幡大神は応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に お現れになったといわれている。725年(神亀2年)、八幡大神を祀るため、現在の地に御殿が創建された。その後。731(天平3年)二之御殿、823年(弘仁14年)三之御殿が建立されたという。

 本殿は、小椋山(亀山)という小高い丘陵の山頂に鎮座する「上宮」と、その山麓に鎮座する「下宮」とからなり、その周りにいくつもの社殿が散在する。広大な境内は国の史跡に指定、本殿は八幡造りという古来の様式を今に伝える国宝、ほかに国指定の重要文化財の工芸品も所蔵されている。

 こんなに規模の大きい神社とは知らず、とにかく本殿までの道のりは遠かった。ぶらぶらしながら歩き、道すがら見どころもあって、本殿までゆうに30分以上はかかった。

 「宇佐神宮」は、神仏習合発祥の地としても知られ、いち早く外来の仏教を取り入れた。神宮寺の「弥勒寺」と一体のものとして、明治の神仏分離までは、正式には「宇佐八幡宮弥勒寺」と称していたらしい。現在でも通称「宇佐八幡」とも呼ばれる。境内にあった「弥勒寺」は、廃仏毀釈によって廃寺となっていて、林の中に礎石がひっそりと残されているそうだ。

 

 一之御殿の「八幡大神」は、第15代応神天皇の事。実在の最古の天皇で、大陸からの進んだ文化や産業を積極的に導入し、新しい国づくりをした天皇。その徳が後に神格化されて、「八幡大神」として崇められるようになったという。

 「八幡大神」は万能な神様とされたが、特に源氏から武運の神様として信仰されたのは有名。「八幡大菩薩」というのは、以前はよく意味が分からなかったが、神仏習合によるものだということを知る。仏教の菩薩は仏ではないが、人々を教え導く修行僧のことである。「八幡様(応神天皇)は菩薩様である」ということになる。

 また、三之御殿の神功皇后は、応神天皇の母。母神として安産、教育等のお守りとされている。

 ただし主祭神の「八幡大神」でなく、二之御殿の「比売大神(ひめのおおかみ)」がなぜ中央に鎮座しているのは、よく分からない。

 比売大神は、天照大神(あまてらすおおのかみ)が須佐之男命(すさのおのみこと)との誓いで誕生した三人娘の「宗像三女神」、すなわち多岐津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)と多紀理姫命(たぎりひめのみこと)の三神(三柱)とされる。後世の応神天皇よりも古い神で、上位だというのだろうか。なお比売大神は、実在したと思われる卑弥呼だという説もあるというのは面白い。

 

 この大分県別府市、宇佐市の旅行ブログは、次の「大分県立歴史博物館」に続く。

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