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2015年11月の8件の投稿

2015年11月30日 (月)

昭和天皇記念館と江戸東京たてもの園

 2015年11月27日(金)、「国営昭和記念公園」(立川市)の園内にある「昭和天皇記念館」、「江戸東京たてもの園」(小金井市)に行く。

 

 快晴で暖かい日だったが、北風が冷たい。

 先週行った「昭和記念公園」(立川市)に、再び行って見る。午後は、「江戸東京たてもの園」(小金井市)の園内をめぐる。

 

 8:25、15人を乗せたマイクロバスは、最寄駅前を出発。圏央道青梅インターから青梅街道を通り、武蔵村山市を経て立川市に向かう。10:05、「国営昭和記念公園」の立川口に到着。

 

 最初立川口ゲート前で、「昭和記念公園」の入園券を買うが、「昭和天皇記念館」の入館券と「昭和記念公園」の入園券が一つになったお得なセット券があるというので、窓口で交換してもらう。

 立川口ゲートから公園と反対方向(東)に400mほど歩くと、エスカレータやエレベータが設置されている。そこはちょうど建物の屋上にあたり、そこから下に降りると、「花みどり文化センター」の入口(写真下)。

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 記念館というので立派な建物があるのかと思いきや、「花みどり文化センター」の建物の中を奥へ進み、その1室が「昭和天皇記念館」。ちょっとわかりにくかった。

 写真下は、「昭和天皇記念館」の正面。ドアが閉じていて、何か重々しい。館内は、撮影禁止なので展示品を掲載できないのは残念。

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 記念館は2005年(昭和17年)に開館、昭和天皇・香淳皇后の遺品を中心に展示されている。今年10周年を迎え、これを記念して昭和天皇のご生涯を回顧する「思い出の昭和天皇」の特別写真展を開催中。

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 昭和天皇記念館の見学と往復で1時間ほどを過ごし、立川口ゲートに戻り、昭和記念公園に入園。

 「カナール」(水路)の両側のイチョウ並木は、ほとんど葉を落とし、冬の訪れの気配。

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 「かたらいのイチョウ並木」まで行って見るが、ここのイチョウもわずかに黄色い葉を残すのみ。

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 前回のように園内をゆっくり回れなくて、しかも昼食をとる時間もなくなった。テイクアウトの焼きそば(410円)と焼き鳥(410円)で済ませる。

 12:30、昭和記念公園を出て、五日市街道を通って小金井市へ向かう。

 

 13:15、小金井公園に到着。園内の「江戸東京たてもの園」を巡る。

 「江戸東京たてもの園」は都立小金井公園の中にあり、1993年(平成5年)に開園した野外博物館。敷地面積は約7ha(2万1千坪)。江戸時代から昭和初期まで、30棟の復元建造物が建ち並ぶ。ここには、もう何回も来たことがある。

 入口の「ビジターセンター」は、1940年(昭和15)に皇居前広場で行われた紀元2600年記念式典のために仮設された式殿の「光華殿」。1941年(昭和16)に小金井公園に移築、開園にあたりビジターセンターとして改修された。

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 ビジターセンターを抜けると、ボランティアガイドが数人いて、1時間ほど案内してくれるという。主な建物の説明を聴く。

 「田園調布の家(大川邸)」-1925年(大正14) 大田区田園調布に建てられた住宅で、当時としては珍しく全室洋間。

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 「前川國男邸」-1942年(昭和17) 有名な建築家・前川國男の自邸として、 品川区大崎に戦時中に建てられた。外観は切妻屋根の和風、内部は吹き抜けの居間を中心に書斎・寝室。

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 「デ・ラランデ邸」-1910年(明治43)頃 平屋建ての洋館だったが、1910年(明治43)年頃ドイツ人建築家デ・ラランデにより3階建に増築。何回か所有者が変わり、1999年(平成11)まで新宿区信濃町に建っていた。

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 「八王子千人同心組頭の家」-江戸時代後期 八王子千人同心は、江戸時代に八王子に配備された郷士身分(半農半士)の徳川家の家臣団。甲斐国境の警備と治安が任務。

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 「三井八郎右衞門邸」-1952年(昭和27)- 第11代三井総領家当主・三井八郎右衞門高公が残した邸宅。1万6千坪もあった麻生区今井町(現港区六本木)の大邸宅は空襲で焼け、財閥解体後に港区西麻布に建てられた。客間と食堂部分は、1897年(明治30)頃京都に建てられたものなど三井家関連の施設や今井町から移築。蔵は1874年(明治7)の建築当初の土蔵に復元。当時とはかなり縮小されているが、繁栄していた三井財閥の面影を残している。

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 「高橋是清邸」-1902年(明治35) 総理大臣、大蔵大臣を務めた政治家・高橋是清の母屋の部分、港区赤坂にあった。1936年(昭和11)の2・26、是清はこの家で暗殺された。

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 奥の建物から順に、銅板片で正面を飾った「丸二商店」(荒物屋)-昭和初期、花屋の「花市生花店」-1927年(昭和2)、タイル張りの「武居三省堂」(文具店)-1927年(昭和2)。いずれも千代田区神田で、看板建築様式。

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 奥の建物は、港区白金台に建てられた木造3階建の「大和屋本店(乾物屋)」-1928年(昭和3)。手前は、外観は洋風の看板建築だが、2階部分は和風つくりの「植村邸」-1927年(昭和2)、中央区新富。

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 「看板建築」とは、切妻屋根の町屋に代わる建築様式で、関東大震災後に建てられた木造洋風の店舗併用の住居。前面は軒の出ない垂直な壁面になっていて、建材としては防火面で銅板貼りが多い。

 「小寺醤油店」-1933年(昭和8) 大正から、現在の港区白金で営業していた店で、味噌や醤油、酒類を売っていた。

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 「子宝湯」-1929年(昭和4) 東京の銭湯を代表する足立区千住にあった建物。大型の唐破風(からはふ)は、神社仏閣を思わせる。

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 1:30~1時間のガイドの予定は、結局オーバーして14:45終了。

 15:15、江戸東京たてもの園を出る。

  小金井街道を経て、関越道所沢インターへ。17:00、出発地に帰着。

 

 昭和記念公園の関連ブログ 「昭和記念公園と西武園ゆうえんち」 2015/11/26 投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-9651.html

 江戸東京たてもの園の関連ブログ 「江戸東京たてもの園」 2012/08/30投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-797f.html

 

 ★ ★ ★

 「昭和天皇記念館」は、「昭和天皇・香淳皇后のご遺品を中心に保存及び展示を行い、昭和天皇のご生涯のご事蹟とご遺徳を偲び、皇室と国民の絆をより深く結びつける」ことを目的として設立されたという。 2005年(平成17年)11月に開館。公益財団法人「昭和聖徳記念財団」が管理運営している。

 開館10周年記念に合わせ、昭和天皇が1953年(昭和28年)~1969年(昭和44年)までご使用になったという金箔を施された儀式用の椅子、当時のプリンス自動車が技術の粋を集めて開発、1967年(昭和42年)から使用された懐かしい国産初の御料車「日産プリンス・ロイヤル」が特別展示されていた。

 幼年、少年時代から昭和天皇87年のご生涯の写真、終戦直前の御前会議の絵、巡行や植樹祭などの写真、即位の礼の御列の模型、公務用の机や筆記用具、少年時代の教科書、生物学の研究所の備品等々・・・、見ていて飽きない。日本国憲法の御名御璽(ぎょめいぎょじ)と大臣の署名など、こんなものをと思われるような貴重な資料もあって驚くが、たぶん複製だろう。

 見学者は他に1、2人ほどいたかどうか。館内はこじんまりとして、思ったよりも広くはない。見学を始めてしばらくすると、職員と思われる年配の紳士から、「10分間のビデオを見てください」と声をかけられる。

 当然のことながら、戦前は統帥権を持った大元帥、現人神(あらひとがみ)だったということは歴史から消去され、平和をを愛する象徴としての人間天皇が強調される。

 

 管理運営をしている「昭和聖徳記念財団」の役員名簿を調べてみると、なんと会長(非常勤)は元衆議院議長の綿貫民輔氏、副会長(非常勤)は元建設事務次官と元参議院議長、日本郵船(株)相談役の3人、専務理事だけが常勤で、元宮内庁京都事務所長。

 そのほか理事が11人、監事が2人、評議員が11人すべて非常勤だ。宮内庁、神社本庁、神社、企業や新聞社などの元役員や元幹部。宮内庁と関係の深い公益財団法人菊葉文化協会の役員も多く、役員・職員も宮内庁の天下り先なのだろう。
 会館建設費14億円は、各方面から寄付が募られた。建設当初は、歴史を歪曲し昭和天皇を賛美するものとして、反対運動もあったという。記念財団の事業経費は、財産・資産運用益、事業収益、宝くじ協会の助成金、法人を含む会員の年会費、寄付金などで賄われているようだ。

2015年11月26日 (木)

昭和記念公園と西武園ゆうえんち

 2015年11月19日(木)、「国営昭和記念公園」(立川市)と「西武園ゆうえんち」(所沢市)に行く。

 

 前日は曇りのち雨、この日の日中は久しぶり晴れ間が戻る。午前11時前、「国営昭和記念公園」に入園。黄葉・紅葉は、見頃をやや過ぎていた。「西武ゆうえんち」(所沢市)のナイトアトラクション、イルミネーションは17時15分に点灯、18時退園。

 

 7:00過ぎ自宅を出て、集合場所へ。14人を乗せたマイクロバスが、8:00出発。走り始めてしばらくして参加者にトラブルがあり、バスは途中で出発地に戻り45分遅れで再出発。

 10:50、昭和記念公園の立川口から入園。入園料410円。

 2015年11月7日~23日は、昭和記念公園の「黄葉・紅葉まつり2015」。11月中旬に見頃を迎えるイチョウが特に人気がある。

 立川口からすぐの「カナール」と呼ばれる水路の両脇に左右に2列ずつ、106本のイチョウ並木が200m。平日だが、入園者は多い。

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 黄葉のトンネルの足元には、落葉した黄色い厚いジュウタンが敷き詰められている。

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 落葉したイチョウの葉が落ちた枝が、秋の終わり告げている。

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 「ふれあい橋」から見えるヒマラヤスギ(マツ科)の雌花の松かさ。長さが10cm前後ある。成熟すると頭の方から鱗片がパラパラと落ちてしまうそうだ。

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 「水鳥の池」のサイクルボートと手漕ぎボート。

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 「いちょう橋」を渡り、「うんどう広場」の近くにもう一つのイチョウ並木がある。道の左右に98本のイチョウが300mにわたって続く。こちらもだいぶ葉を落としている。

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 日本庭園に行くと、モミジもだいぶ寂しい。

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 「みんなの原っぱ」に行く。9月中旬から11月上旬、見頃だったコスモスも終わっている。

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 「みんなの原っぱ」の真ん中にあるシンボルの大ケヤキ。

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 13:15~、原っぱ中央売店で野外テーブルに一人座って昼食。発泡スチロールの器に入ったとんこつラーメンが、700円。


 立川分水は、1737年(元文2年)に玉川上水から数多く引かれた灌漑・生活用の分水のひとつ。

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 15:00、昭和記念公園を退園。
   

 

 15:30、西武園ゆうえんち着。

 ナイト開園時刻16:00を待ち、西口から入園。イルミネーション入園料が平日 900円。

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 17:15、オープニングセレモニー、カウントダウンと共にイルミネーションが一斉に点灯。

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 18:00、ゆうえんちを出発。途中で圏央道の狭山パーキングに寄り、19:20出発地に到着。20:00、自宅着。

 

 ★ ★ ★

 国営昭和記念公園は、昭和天皇在位50年記念事業の一環として整備され、1983年(昭和58年)に開園した国営公園。東京都立川市と昭島市にまたがる。戦前は、陸軍の立川飛行場、戦後米軍が接収した立川基地跡地の一部で、総面積は180ha(54万坪)。

 国営公園は、国土交通省が維持管理する都市公園で、武蔵丘陵森林公園など全国に16カ所ある。

 「昭和記念公園」についての関連ブロク 2012/11/21投稿。

  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-3974.html

 

 

 西武園ゆうえんちに行ったのは、何十年前だっただろうか。当時の面影のあるアトラクションもあったが、サンリオと提携した新しいキティの乗り物などもある。プールや水場の乗り物などがあるが、こちらは夏だけ。2010年から冬季限定のイルミネーションが営業しているという。

 メインゲート前には、東京都(東村山市)と埼玉県(所沢市)との都県境がある。西武園ゆうえんちの300万球のイルミネーションは「イルミージュ」は呼ばれ、小林幸子とコラボで、今季は四季折々の自然を表現した「花鳥風月」がテーマだそうだ。小林幸子の歌声にあわせ、光が踊る。

 

 東京都内や近郊には、家族向けテーマパークやレジャーランドが数多くある。来場者数では一人勝ちの東京ディズニーランド(1983年開園)との対応上、どこの施設もリニューアルしたり、新しいアトラクションを取り込んだりして、工夫しているようだ。

 ここ数年前から、イルミネーションがブームとなっている。クリスマスと関係があったのか、冬だけのイベントとしてイルミネーションを採用しているところは多い。電気代が安いLEDの普及で、夏の花火よりもトータルコストは安いという。商店街や街の活性化のためにも、あちこちでイルミネーションが賑やかな季節になってきた。

2015年11月16日 (月)

紅葉の上州沼田と足利のイルミネーション

 2015年11月13日(金)、紅葉の上州沼田の迦葉山(かしょうざん)と吹割(ふきわり)の滝、足利のイルミネーション「光の花の庭」を見に行く。

 群馬県沼田市と栃木県足利市を巡る日帰りバスツアー。

 

 参加者34名を乗せたバスは、8時半最寄駅前を出発。バスの中では、お茶にビール、つまみが配られ、にぎやかにカラオケも始まる。

 バスは関越道を沼田インターで降り、県道266号線を北上。やがて、大型バスがやっと通れる曲がりくねった山道を上ると、周囲の山々は紅葉に染まっている。

 

 10時45分、最初の見学先「迦葉山弥勒寺」に到着。

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 ここは、群馬県沼田市上発知町にある曹洞宗の寺院。沼田市街から北方約16km、武尊(ほたか)山系に連なる深山幽谷の迦葉山(標高1322m)の中腹に位置する。天狗のお寺として有名で、高尾山薬王院、鞍馬寺と共に「日本三大天狗」の寺の一つだそうだ。

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 天狗のお面がたくさん奉納されている中峰堂の拝殿。

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 848年、桓武天皇の皇子・葛原(かずらわら)親王の発願により、天台宗比叡山の座主・慈覚大師円仁を招き、創建されたと伝えられている。1456年、曹洞宗に改宗。

 1451年、天巽(てんそん)禅師とその弟子の神童・中峰(ちゅうほう)が、弥勒寺を訪れた。寺に常住するが、やがて中峰は、「自分は迦葉仏の化身であり、役目を果たしたので山に宿り、衆生を救う」と言い残して昇天し、天狗の面を残したという天狗の伝説がある。

 徳川初代将軍の祈願所として、御朱印百石・十万石の格式を許された由緒ある寺で、古くから多くの人々に信仰されてきた。

 迦葉山の中峰堂には、1939年(昭和14)年に戦勝祈願の日本一の大天狗面(顔の丈:6.5m、 鼻の高さ:2.8m)と、1971年(昭和46年)に交通安全祈願の大天狗面(顔の丈:5.5m、鼻の高さ:2.7m)が安置されている。

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 国道120号線ロマンチック街道を日光方面に向かう。12時、国道沿いの「吹割の滝」近くのドライブインにバスを停め、昼食。

 昼食後、遊歩道の階段を降り、紅葉の渓谷で水しぶきを吹き上げる迫力ある「吹割の滝」を見る。「吹割の滝」は、群馬県沼田市利根町にある。

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 国の天然記念物・名勝、日本の滝百選に指定された「吹割の滝」は、高さ7m、幅30m余。奇岩が1.5Kmに渡って続く片品渓谷にかかる。凝灰岩、花崗岩の河床を流れる片品川の清流が、岩の軟かい部分を浸蝕して割くように流れ、そこから水しぶきが吹き上げる様子から、この名が生まれた。
 
 ごうごうと落下し飛散する瀑布は、「東洋のナイヤガラ」と言われるが、ちょっと大げさ。

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 「吹割の滝」だけに注目して付近の遊歩道を一周しただけで、ドライブインに駐車したバスに戻る。国道沿いや遊歩道の出入り口には、土産物屋が並ぶ。

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 周辺には整備された遊歩道がもっと広がっていて、「吹割の滝」に続く「鱒飛びの滝」の景観、「獅子岩」や「般若岩」と呼ばれる岩壁群の奇景、パワースポットのある「浮島観音堂」、「浮島橋」や「観瀑台」からの眺めなど、独特の渓谷には多くの見所がある。ここには何回か来ているが、これらは見ていない。次の機会にしたい。

 

 沼田市内の観光フルーツ園「原田農園」のりんご園に。14時15分到着。沼田インターから数分の場所にある。食べ放題のリンゴ狩り、350円。

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 食べ放題といっても、昼食後ではリンゴ1個がせいぜい。残りは、指定のカゴに入れてお買い上げ。大カゴで2,000円、小カゴは1,300円。

 

 「ふじ」は、一番人気の蜜入りりんご。大玉で果汁が多く、甘味と酸味のバランスがとれている。 貯蔵性に優れ、年を越しても良い味が楽しめる。袋をかけで育てたのを「ふじ」、袋をかけずに育てたものが「サンふじ」として流通。青森生まれで、デリシャスと国光の2種類のリンゴを交配したもの。

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 「陽光」は、群馬で生まれた深紅の真っ赤なりんご。大玉でやや硬め、甘味と酸味のバランスがとれている。シャキシャキの歯ざわりが良い。1981年(昭和56年)、群馬県の試験場でゴールデンデリシャスが自然交配で生まれた。

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 「ぐんま名月」は、群馬で生まれた黄色い蜜入りりんご。 大玉で果汁が多く、まろやかな甘味。 1991年(平成3年)に誕生して以来、人気が高いが、収穫量が限られているので売り切れてしまうこともあり、「幻の黄色いりんご」と呼ばれる。

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 大玉の「ぐんま名月」を、小さいカゴに5個入れて、持ち帰り。

 「ぐんま名月」についての関連記事「紅葉の越後路の旅」(20113/11/21 投稿)

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-67ae.html

 その後、「原田農園」の売店にも立ち寄り、沼田市内をあとにする。

 

 北関東自動車道から栃木県足利市へ移動。

 暗くなった17時頃、「あしかがフラワーパーク」に入園。

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 300万球というイルミネーションが輝く「光の花の庭」を、皆思い思いに散策。

 

 四季のさまざまな花々が彩るこのフラワーパークは、藤の花が有名な所。元は、足利市堀込町に、「早川農園」 として1968年に開園。都市開発の為、1997年に現在の足利市迫間町 (はさまちょう) に移設し、「あしかがフラワーパーク」 としてオープンした。

 この地は、元々湿地帯だった為、園内の地下に木炭の粉(250トン)が埋設され、土壌を浄化し、土壌と生命体の活性化を図っている。園内の拡張整備も進み、現在は 9万2千㎡ の敷地面積となっている。

 園のシンボルである大藤(樹齢130年)4本の移植は、日本の女性樹木医第1号である塚本こなみ氏によって行われ、全国から注目を集め、日本で初めての成功例となったのは有名。大藤4本と80mにおよぶ白藤のトンネルは、栃木県天然記念物に指定。見頃を迎える4月中旬~5月中旬の 1ヵ月間は、「ふじのはな物語~大藤まつり~」が開催される。

 また10月下旬よりイルミネーション「光の花の庭」が開催、最近では関東最大規模のイルミネーションとして大人気だそうだ。

 園内は、藤以外にも数多くの花々や植物で彩られ、四季折々の花を楽しむことができ、年間で100万人以上の来園者が訪れるという。

 

 帰りのバスの中では、みんな疲れでぐったり。東北道を南下して、19時半頃最寄駅前に到着。

 

 ★ ★ ★

 この日は紅葉も見ごろで、良い天気に恵まれた。例年2回、春は日帰り、秋は宿泊の旅行だったが、今回は費用の面や参加者数の問題で、日帰り旅行となった。

 朝8時半出発して夜7時半帰着の旅、いつもの宿泊旅行の2日分を1日でこなした感じだった。

2015年11月15日 (日)

スパリゾート・ハワイアンズ2015

 2015年11月5日(木)~6日(金)、1泊2日で福島県の「スパリゾート・ハワイアンズ」へ行く。

 
  
 スパリゾート・ハワイアンズは、福島県いわき市にある温泉を利用したテーマパーク、ホテル、ゴルフ場などから構成される常磐興産株式会社が運営する大型リゾート・レジャー施設。

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 最近では、3年前に行っている。

 関連記事 「スパリゾート・ハワイアンズ」 2012/11/19 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-0e0b.html

 

 11月5日(水)9:30、最寄駅前を車2台で出発。参加者は11名。

 常磐道を走り、千代田PAで休憩。12:10、友部SAで昼食。「手打ち蕎麦処 常陸庵」は、ちょうど昼時で混んでいて、しばらく空くのを待つ。「しゃもせいろ」1,500円を注文。

 良質な蕎麦として知られる「常陸秋そば」を使用した二八そばと、茨城三大地鶏の「奥久慈産しゃも」を使った温かいつけ汁。シャモ肉の歯ごたえと肉からで出るダシが美味い。

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 常磐道いわき湯本ICを出て、北東に直線で4km先にある「願成寺」に向かう。

 

●願成寺「白水阿弥陀堂」(がんじょうじ・しろみずあみだどう)

 14:25~15:10、国宝「白水阿弥陀堂」を拝観。拝観料500円。

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 白水阿弥陀堂は、平安時代末期の1160年、藤原清衡の娘で、岩城則道(岩城の国主)の妻・徳姫が建立した。福島県唯一の国宝建造物。

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 徳姫は、夫の菩提を祈るために寺を建て「願成寺」と名付け、その一角に「阿弥陀堂」を建立した。

 

 堂内に入り参拝。正座して、お坊さんの説明を聴く。堂内は撮影禁止。

 中央が、本尊・阿弥陀如来。左右に控える観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)立像と勢至菩薩(せいしぼさつ)立像。手前には、持国天王(じこくてんのう)立像と多聞天王(たもんてんのう)立像。いずれも平安時代の寄木造りで、国の重文。

 写真は、白水阿弥陀堂のパンフより引用。

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     本尊の阿弥陀如来。白水阿弥陀堂のパンフより引用。

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  •  平安時代末期に作られた堂を取り巻く広大な領域は、白水阿弥陀堂境域として国の史跡に指定。三方を池に囲まれ、正面から中ノ島を経由して堂に至る参拝道を設け、更に周囲を経塚山などの山々で囲まれた当時盛んだった「浄土式庭園」の様式を構成している。現在の庭園は、1972年(昭和47年)から復元された。
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  •  境内にある大イチョウ。樹高約29m、幹周り約5.9m。 樹齢不明。市の天然記念物。

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  •  「白水」という地名は、篤姫の故郷・平泉の「泉」という文字を2つに分け、名づけたという。

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     近くの「願成寺」を見学。山門には、「福島八十八ヶ所霊場第七拾番札所」の看板がかかる。
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     いわき湯本IC付近に戻る。スパリゾート・ハワイアンズは、インターから3分ほどの所にある。

     

    ●スパリゾート・ハワイアンズ

     15:25、「スパリゾート・ハワイアンズ」に到着。

     常夏ムードで温泉利用した大プールや、フラガールのショーがある「ウォーターパーク」の建物。

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     ホテル「モノリスタワー」。2011年3月11日の東日本大震災により長期間の休業後、2012年2月8日約1年ぶりの全面開業に合わせてオープンした新ホテル。

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     ホテル「ハワイアンズ」は、メインの宿泊施設で和室中心の客室数291室。

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     ホテル「ハワイアンズ」の東2号館4Fに、3室に分かれて投宿。まずは、中央館6Fの大浴場へ。

     17:30~19:30、中央館3Fバイキングレストラン「クイーン」で夕食。

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     ウォーターパークのビーチシアターに行き、前列から4列目のSS席。20:30~約1時間のハワイアンズのショーを鑑賞。

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     ショー終了後の予定した大露天風呂「江戸情話与一」には入らず、部屋に戻る。

     22:00~部屋で2次会、24:00頃就寝。

     

     

     11月6日(金) 6:30頃、起床。

     7:20~中央館4Fのお座敷の間「桃山」で、バイキングの朝食。

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     9:30、ホテル出発。茨城県高萩市の「花貫(はなぬき)渓谷」に向かう。

     

     ●花貫渓谷

     常磐道(いわき湯本IC~高萩IC)を経て、10:10紅葉の「花貫渓谷」の大駐車場に到着。駐車料金500円。平日だが大駐車場には車がいっぱい。駐車場の右手隅には屋台が並ぶ。

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     大小さまざまな淵や滝がある渓谷で、四季の渓谷の自然を楽しめる。

     紅葉の汐見滝吊り橋~小滝沢キャンプ場の遊歩道を1時間ほど散策する。

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     次は、太平洋を望む茨城県ひたちなか市の那珂湊に向かう。

     

    ●那珂湊おさかな市場

     常磐道(高萩IC~日立南IC)を経て、12:30「那珂湊おさかな市場」に到着。駐車料金100円。

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     森田水産の2Fレストランで昼食と市場の見学、買い物など1時間半ほど。

     海鮮丼1,940円(税込)を注文。安くはないが、新鮮でボリュームがある。

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     常磐那珂有料道路(水戸南IC)~北関東道壬生(みぶ)SAで休憩。

     東北道を南下。16:50、出発の駅前に到着。

     

     

     ★ ★ ★

     白水阿弥陀堂の入口付近に「みろく沢石炭(スミ)の道・遊歩道案内図」があった。

     「国宝・白水阿弥陀堂の周辺
      常磐炭鉱発祥の地『みろく沢石炭(すみ)の道』を
      歩いて 歴史の遺産にふれてみませんか!
      連絡先:内郷ふるさと振興協会 ・・・・
      ・・・ 炭鉱「ヤマ」の案内人ボランティアガイドがご案内します。」

     「石炭(すみ)の道」は、かつて人が石炭を背負って運んだ山道の風景が、当時のままに残っているそうだ。常磐炭田発祥の地「みろく沢」、「みろく沢炭鉱資料館」、石炭を発見した「片寄(かたよせ)平蔵の碑」、平蔵の後を引き継ぎ、炭鉱業発展に貢献した磐城炭業の祖「加納作平翁の碑」があるという。

     「みろく沢炭鉱資料館」は、元炭鉱マンだった個人が開設、長年に渡り炭鉱関係の用具や資料を収集し、展示している。

     1886年(安政3年)白水村弥勒沢において、片寄平蔵は石炭が露出している鉱脈(露頭)を探し当てた。平蔵は材木商人で秋田の桐材を江戸で販売していたので、江戸を訪れた時に黒船に偶然出会う。黒船の動力となる蒸気を作るため、石炭が使われている事を知る。平蔵は石炭の将来性を察し、石炭の採掘を大々的に行い、掘り出した石炭は船で江戸に送った。また石炭販売会社を興し、軍艦操練所の石炭納入で幕府御用達になるなどし、幕府から名字帯刀を許された。

     かつて白水村(現在のいわき市内郷白水町)は湯長谷藩の領地であった。磐城郡大森村(現いわき市四倉町)出身の片寄平蔵は、大森村が笠間藩(現在の茨城県笠間市の飛び地)であることから、石炭を掘るには、湯長谷藩の許可が必要であった。その時力添えをしたのが、白水村の名主、大越甚六と加納作次郎。その作次郎の養子となった加納作平は、石炭業の発展に尽力した。加納家は五代にわたり、磐城炭田の興亡に関わることになる。

     

     ★ ★ ★

     スパリゾート・ハワイアンズのフラガールは、全員髪型がスーパーロング。フラダンスをする人は、髪は腰まであり、ふわふわヘアーが理想だという。髪も衣装の一つ。

     ステージで踊っているダンサーはスタイルは抜群だが、小柄に見えた。しかし、フラガールと一緒の写真撮影で舞台に上がって並ぶと、意外と長身だった。

     

     フラガールになるには、常磐興産株式会社の入社試験を受け、合格者は正社員として採用されると同時に、社が運営する「常磐音楽舞踏学院」へ入校する。来年度2016年に入校するフラガールは、52期生になる。

     採用要領を見ると、満22歳以下、身長158cm以上。筆記試験(一般常識)、作文、実技選考、面接がある。定員が6人くらいで、競争率はかなり高いかと思ったが、近年で3倍くらいだという。ちなみに宝塚音楽院は定員40人で、競争率は20~30倍くらい。

     入学後、数ヶ月の基礎レッスンを経て、7月頃には舞台デビューする。宝塚音楽学校と同じく、学校教育法上は県知事認可の各種学校となっている。

     クラシックバレエをベースに、民族舞踊の基礎から指導、プロのエンターティナーを育成するのが目的。

     教育カリキュラムは、
      ・クラシックバレエ、ジャズダンスなどの基礎レッスン
      ・フラ、タヒチアン、マオリダンスなどの民族舞踊のレッスン
      ・声楽、ウクレレ、ハワイアンミュージック
      ・茶道、華道、書道、一般常識
      ・ハワイ文化、ポリネシア文化など

     2年の課程を修了した者には修了証書が授与され、プロ契約を締結するそうだ。

    2015年11月12日 (木)

    日本スリーデーマーチ2015

     2015年11月1日(日)、11月3日(祝日)の2日間、「日本スリーデーマーチ」に参加。

     

     日本最大のウオーキングの祭典「第38回日本スリーデーマーチ」が、埼玉県東松山市を中心にした周辺の市や町を舞台に、11月1日(日)から3日間繰り広げられた。

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     1日は、友人数人と一緒に20Kmコースを歩く。
     2日目は休養して、3日目の最終日は団体で10Kmのコースを歩き、その後2Kmの市内パレードに参加。

     

    ●11月1日(日)、吉見百穴・森林公園20Kmコース。

     天気は、晴れのち曇り、最高気温17℃。

     9:00、東松山駅前を出発、吉見百穴(ひゃくあな)を経て岩鼻運動公園へ向かう。

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     市民病院前から総合福祉エリア付近を通り、整備されたウオーキング・トレイル(小道)へ入る。

     春には9千株の牡丹が満開となる「東松山ぼたん園」を抜ける。この時期は、年に2回開花する十月桜(じゅうがつさくら)が咲く。

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     静かな里山のトレイルをたどり、秋庭神社と江戸時代に当地を治めた旗本・森川氏の陣屋跡のそばを通る。

     12:00頃、障害者支援施設「あかつき園」(青い鳥福祉会)。いつも休憩所として開放されていて、豚汁などが販売。ここで昼食をとる予定だったが工事中で、閉鎖されていた。

     12:15~12:40、扇谷山(おおぎやさん)「宗悟寺(そうごじ)」(東松山市大谷)の境内に入り昼食。

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     30Kmコースと合流して、「国営武蔵丘陵森林公園」の中央口から入る。当日は入園無料で開放。

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     公園の南口から出て、森林公園駅まで続く森林公園緑道を歩くころには、やや疲れも出てくる。ゴールの中央会場をめざす。

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     ゴール前の市街地大通りでは、「よさこい陣屋まつり」が行われている。

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     15:00、ゴール(中央会場)に到着。

     16:30~18:30、予約してあったやきとり屋の店で友人らと打ち上げ。

     素晴らしい天気に恵まれ、田園風景を楽しみながらの20km。やきとり屋も超満員、久しぶりのやきとりは美味い。

     

    ●11月2日は、あいにくの雨。12月並みの寒さで、最高気温は14℃ (14:30頃) 。

     ちょうど休養日にしていたが、この日歩く人たちは大変だったようだ。

     

    ●11月3日(祝)、唐子中央公園コース10Kmと市内パレード2Km。

     冷たい雨が降った2日目から一転、秋晴れで、気持ちの良いウォーキング。最高気温は21℃。

     中央会場前の市役所の建物2階と市総合会館2階で結ぶ渡り廊下には、「祝ノーベル物理学賞! 東松山出身 梶田隆章氏」の看板が参加者を迎える。

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     東松山市のホームページで、「ノーベル物理学賞の梶田隆章氏の故郷を歩こう!!」がキャッチフレーズ。中央会場には、氏を紹介する特設ブースが設置されているそうだ。

     9:35、中央会場をスタート。しばらく住宅街を通って、唐子中央公園にむかう。

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     コースの途中の「唐子中央公園」では、地元の文化祭・商工祭で賑やか。地元名産品の販売とか、お茶や豚汁などの配布、歌や踊りのイベントをやっている。11:05~11:50、ここで昼食休憩。

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     田園風景の中を歩き、次の休憩所「南中学校」をめざす。

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     ノーベル物理学賞の梶田氏の大きな垂れ幕。氏は、この東松山市立南中学校を1974年(昭和49年)卒業した。12:30、ここで小休止。

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     その後、上野本の「金谷氷川神社」前を通過。13:00、市内パレード集合場所に到着。

     14:00、参加した団体の市内パレードが出発。東松山駅前の歩道橋にもノーベル賞の横断幕。

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     市内パレードの大通りでは、和太鼓、学校の吹奏楽部や警察音楽隊などが演奏。学校、団体、自治会、企業などが、のぼりや旗を持って、行列を作る。ユニフォーム、はっぴやコスプレで歩く人も。

     14:40、ゴールのメイン会場に着き、解散。舞台では、ちょうどプロ歌手が舞台で歌っていた。最終日なので、会場はものすごい混雑。

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     会場には、全国のウォーキング団体などの模擬店や飲食の屋台、グッズ販売などのテントが並ぶ。知人がやっているドイツ料理店の屋台で、ソーセージの炭火焼きをつまみにビールをタンブラーで2杯飲んで帰る。

     東松山市の今回の参加者集計表を見ると、1日目は約3万1千人、2日目は少なくて約1万3千人、3日目は約3万2千人が参加し、3日間の延べ人数は約7万6千人だったそうだ。3日間とも天気がよければ、例年の10万人くらいになったはずだった。
     

     日本スリーデーマーチ関連のブログ記事。

      「日本スリーデーマーチ2014」 2014/11/10 投稿
       http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-ba9a.html

      「日本スリーデーマーチ」 2012/11/17 投稿
       http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-ba9a.html

     

     

     ★ ★ ★

     東松山市大谷の扇谷山「宗悟寺」は、江戸時代を通じて当地を治めた旗本の森川氏の菩提寺で、比企氏のゆかりの寺。

     比企氏は、平安末期から鎌倉前期にかけて武蔵国比企郡(現在の東松山市)を支配した豪族。比企氏の館は、この「宗悟寺」の東側の城ヶ谷(じょうがやつ)にあったそうだ。

     鎌倉時代初期の1203年(建仁3年)、二代将軍源頼家の外戚として権勢をふるった比企能員(よしかず)とその一族は、北条時政の謀略によって滅ぼされた。

     源頼家が伊豆の修善寺で暗殺された後、比企能員の娘で頼家の側室「若狭局(わかさのつぼね)」が、「宗悟寺」の西にある比企尼山(びくにやま)に逃れ、頼家を弔う為に尼となって、その地に粗末な庵「寿昌寺(じゅしょうじ)」を建てた、と「宗悟寺」には伝えられている。

     この寺を1592年(天正20年)、森川氏が現在の地に再興して「宗悟寺」と改称。この寺には、頼家の位牌が残されているそうだ。寺の墓地には、森川氏代々の墓(市指定文化財)がある。また1999年(平成11年)、境内に「比企一族顕彰碑」が建てられた。

     

     2015年ノーベル物理学賞の梶田孝章氏は、東松山市出身。1971年(昭和46年)に野本小学校、1974年(昭和49年)南中学校を卒業後、県立川越高校、埼玉大学を卒業し、東京大学大学院を修了して理学博士号を取得。

     1999年(平成11年)東京大学宇宙線研究所教授、2008年(平成20年)同研究所所長に就任。今回のノーベル物理学賞受賞は、ニュートリノの観測施設スーパーカミオカンデで観測を行い、ニュートリノが質量をもつことを確認したことが高く評価された。

     森田東松山市長は、梶田氏を市民の誇りとして「名誉市民」として推挙するという。

     上田埼玉県知事は、ノーベル物理学賞の梶田隆章氏と医学生理学賞を受賞した大村智氏の二人に、「県民栄誉章」を贈呈することにした。その理由は、梶田氏が埼玉県東松山市出身で、高校・大学が埼玉県内、現在埼玉県越谷市民であることから。大村氏が埼玉県北本市に創設した北里大メディカルセンターが、高度な医療機関として地域に貢献しているとの功績をたたえた。

    2015年11月11日 (水)

    長崎出島とグラバー園

     2015年10月20日(火)、長崎市の出島とグラバー園に行く。

     

     前日の19日、長崎県雲仙市の小浜温泉「雲仙荘」に20数名が集まり、年に1度の宿泊のイベントが18:00~開かれた。

     当日の20日、7:00~宿泊先の「雲仙荘」で朝食後、8:40マイクロバスに乗車し長崎市内へ観光ツアーに出発。

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     ガイドの案内で、出島オランダ商館跡、新地中華街、グラバー園を巡る。

     10:10、「出島」付近でマイクロバスを下車。中島川に架かる玉江橋から「出島」を望む。

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     出島西側メインゲートから入場。料金大人510円。

     西側の護岸石垣、荷卸し場の「水門」を見学。

     

     「一番船船頭部屋」の建物に入る。1階は、倉庫として使用された土間が復元。

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     2階に上がると、オランダ船の船長の宿泊所及び商館員の住まい。乗組員のほとんどは、停泊している船の中に宿泊したそうだ。

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     当時は、日本人の大工が建物を建てたが、内装は和洋折衷。

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     復元された建物の中の家具や調度品は、オランダから当時のアンティークを取り寄せたという。

     

     「カピタン部屋」の建物に入る。

     カピタンと呼ばれたオランダ商館長の事務所兼住居と、大名や役人など客をもてなす、出島を代表するメインの建物。

     17.5畳の部屋。商館の事務を執る部屋と思われる。

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     カピタン部屋の15畳の事務所。幕府に献上するオルゴール時計が置いてある。

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     カピタン部屋の35畳の大広間。商館員がそろって食事をした。

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     食卓には、「阿蘭陀冬至(おらんだとうじ)」と呼んでクリスマスを祝ったとされるの宴会料理を再現したという。

     カピタン部屋にあった晩餐の様子のミニチュア。左端には出入りが許された遊女、奥には楽隊、東南アジア系の召使もいる。

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     「乙名(おとな)部屋」は、長崎の有力町人から奉行所が選出した出島乙名が、貿易事務を行う部屋。

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     建物は全部回りきれなかったが、出島の歴史や生活に関する展示がされていた。

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     出島の「表門」や「ミニ出島」などを見学、東側ゲートから退場する。

     

     出島から徒歩で、長崎新地・中華街へ向かう。

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     11:30、中華料理店「西湖(せいこ)」で、昼食にちゃんぽん。

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     近くの「築町」電停から石橋行きの路面電車に乗る。多くの観光客は、一つ手前の「大浦天主堂下」電停で降りて、グラバー園の第1ゲートから入園していた。

     2002年(平成14年)から、大浦の「石橋」電停から「グラバー園」を結んでいる「グラバースカイロード」が運行している。斜行エレベーターと垂直エレベーターを利用して、グラバー園の第2ゲートから入園できようになった。こちらのゲートからは、園内の斜面を下りながら見学することが出来る。

     

     12:50、グラバー園に入園。入園料610円。

     「旧三菱第2ドッグハウス」の前から長崎の中心街を望む。

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     長崎港と対岸の稲佐山方面。

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     明治日本の産業革命遺産(ユネスコ世界遺産)となった長崎造船所の「ジャイアント・カンチレバークレーン」(緑色の構造物)が見える。

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     日本に初めて設置された最新式電動クレーンで、英国製。1909年(明治42)年に長崎造船所で竣工、現在も使用されている。

     クレーンの左手には、同じく世界遺産となった「三菱長崎造船所 第三船渠(せんきょ、ドックのこと)」。

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     二つの建物の間の海面上に「№ 3 DOCK」の文字が見える。1905年(明治38年)に竣工した当時全長222m、建造能力3万トンの大型ドック。その後増強されて、現在も稼働中。

     

     「旧リンガー住宅」は、イングランド出身フレデリック・リンガー一家が明治から昭和にかけて住んでいた。国重要文化財。

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     この家は、わが国に例の少ない石造りの洋風住宅。リンガーは、1864年(元治元)頃長崎に来日。「グラバー商会」に勤めたが、 同商会にいたライル・ホームとともに、「ホーム・リンガー商会」を設立。外国貿易、 商社代理店、 製茶、 製粉など幅広い分野で活動した。

     ちなみに長崎ちゃんぽんの全国チェーン店「リンガーハット」は、このリンガー氏の名にあやかっているそうだ。なおハット(HUT)は、小さい家という意味。

     
     「旧オルト住宅」は、イングランド出身ウィリアム・オルトの旧宅。国重要文化財。

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     開国とともに長崎に来日、「オルト商会」を設立。長崎を代表する女傑・大浦慶と提携して、九州一円から茶を買い求め、世界に輸出した。オルト夫人のエリザベスは、17歳の時に結婚し来日した。下の写真は、食堂。

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     三浦環(たまき)が、蝶々夫人に扮した銅像。

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     三浦環は、プッチーニ作の「蝶々夫人」で国際的に活躍したオペラ歌手。モデルは、グラバーの妻ツルという説があるが、グラバー邸が「蝶々夫人」の舞台になる港を見下ろす丘に立つ家にマッチする。

     三浦環は、1922年に日本に帰国するとしばらく長崎に滞在、「蝶々夫人」ゆかりの土地を訪ね歩き、演奏会を開いたりしたそうだ。三浦環の像の近くには、大理石のプッチーニの像もある。

     

     「旧グラバー住宅」は、スコットランド出身の実業家トーマス・グラバーの邸宅。応接室にあるグラバーと妻のツルの写真。

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     見学中に修学旅行生がドッと押し入り、おなじみの撮影スポットは、記念撮影で占拠されてしまった。

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     旧グラバー住宅は、1863年に建てられた現存する日本最古の木造洋風建築。国重要文化財。明治日本の産業革命遺産(ユネスコ世界遺産)。グラバーは、同じく産業革命遺産の「小菅修船場」(船舶修理施設)や「高島炭鉱」の経営など、近代技術を導入して日本の近代化に尽力した。

     

     13:45グラバー園を出て、すぐそばに立つ国宝の「大浦天主堂」を見上げる。
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     時間の都合で大浦天主堂は拝観せず。マイクロバスで長崎駅へ移動、14:10解散。

     

     連泊する数人は、15:15小浜温泉「雲仙荘」へ戻る。

     小浜温泉沖の橘湾に沈む夕日が美しいと聞いて、日没を待っていたが、うっかり外を見るのを失念してしまった。気がついたときは、日の入りの時刻を10分ほど過ぎた17:53だった。

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     翌日は、雲仙・普賢岳に登る。

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     ★ ★ ★

     1636年(寛永13年)、出島が完成。当時はポルトガル人を収容するため、幕府が長崎の有力町人25人に命じて、2年をかけて人工島を築造させた。建設費は銀200貫目(約4,000両)、今の金額で約4億円。

     1639年(寛永16年)、幕府がキリスト教布教を禁止しポルトガル人を国外に追放。出島は無人となる。その後、築造に出資した人たちの訴えにより、1641年(寛永18年)に平戸にあった東インド会社のオランダ商館が出島に移され、宗教活動を制限されたオランダ人が居住、西欧との唯一の窓口となる。

     明治以降は、出島周辺の埋め立てが進む。1883年(明治16年)から8年間にわたって行われた中島川の河口改修工事によって出島の北側部分が削られ、1897年(明治30年)から7年にわたって行われた港湾改良工事によって周辺が埋め立てられ、海に浮かぶ扇形の原形は失われた。

     
     長崎市は、1951年(昭和26年)度より「出島復元整備事業」に着手、1996年(平成8年)度に策定された「出島復元整備計画」に基づき、19世紀初頭の出島を復元する計画を進めている。

     2000年(平成12年)度までの第1期工事で、商館長次席が住んだ「ヘトル部屋」、商館員の食事を作った「料理部屋」、オランダ船長の「一番船船頭部屋」、輸入品の砂糖や蘇木を収納した「一番蔵」・「二番蔵」の計5棟が完成した。

     第2期復元工事は、2006年(平成18年)4月に完成。オランダ船から人や物が搬出入された「水門」、商館長の「カピタン部屋」、日本側の貿易事務の「乙名部屋」(おとなべや)、輸入した砂糖や酒を納めた「三番蔵」、帳簿などの筆記を行うオランダ人主席事務員の「拝礼筆者蘭人部屋」(蘭学館)など5棟を復元した。

     第3期工事の2016年度(平成28年度)には、新たに出島中央部6棟の復元建物が完成する予定、現在復元のため発掘調査中である。

     この6棟の復元に続き、2017年(平成29年)度に出島表門橋の架橋を目指し、将来は周囲に堀を巡らし、扇形の島を完全復元するという。

     

     オランダ政府は戦後、日本に対して出島の復元を戦争賠償権を放棄する条件にしたという話があったとも聞く。それが今長崎市に受け継がれているのだろうか、真偽のほどはわからない。昭和30年代、観光バスで出島の近くを通った時、「この辺りが出島です」とバスガイドから案内されても、ビルが立ち並びその面影は全く無かった。

     1951年の事業開始から、既に60年以上が経過している。民有地の公有地化だけでも50年もの歳月を要した。2050年を目指して、夢のような壮大な「出島復元100年プロジェクト」が推進されている。出島が貴重な歴史的遺産として、完全復元されることを期待したい。

    2015年11月10日 (火)

    雲仙・普賢岳2015

     2015年10月21日(水)、4年ぶりに雲仙・普賢岳に登る。

     

     「雲仙岳」は、長崎県の島原半島中央にある火山で、島原市、南島原市、雲仙市にまたがる。主峰の「普賢岳」(ふげんだけ)を中心に、周囲に最高峰の「平成新山」、「国見岳」、「妙見岳」(みょうけんだけ)、「野岳」、「九千部岳」(くせんぶだけ)、「矢岳」からなる山々の総称。 

     主峰は「普賢岳」(1,359m)だが、1990年(平成2年)から1995年(平成7年)にかけての火山活動で「平成新山」(1,483m)が出来、こちらの方が標高が高くなった。「平成新山」は、長崎県の最高峰。

     

     前日から小浜温泉「雲仙荘」に宿泊。

     5:30起床。6:30、前日コンビニで買ったおにぎりの朝食。7:25、「雲仙荘」を車で出発。

     7:50、仁田峠循環道路の入口ゲートで環境保全協力金100円を払い、仁田峠へ向かう。

     仁田峠循環道路は、雲仙市および南島原市の雲仙天草国立公園内を走る延長8.2kmの観光道路。左回りの一方通行となっている。以前は長崎県が管理する有料道路であったが、2009年(平成21年)に雲仙市に移管された。

     雲仙市小浜町雲仙を通る国道57号上にある入り口から、第二展望所と第一展望所がある。第一展望所は、仁田峠の雲仙ロープウェイ仁田峠駅にある。仁田峠を過ぎると下り道となり、吹越峠で国道389号と合流する。
     

     第二展望所からは、普賢岳(左)、平成新山溶岩ドーム(右)と火砕流の堆積物が作るすそ野が一望。天気は良いが、あいにく遠望の島原市街や有明海は霞んでいて、まして阿蘇は明瞭に見えない。

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     8:20、仁田峠に到着、登山準備。

     右に雲仙ロープウェイ仁田峠駅、左の妙見岳山頂付近に妙見駅がある。標高差174m、距離約500m、所要時間は3分。

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     仁田峠駅からの第一展望所。手前の普賢岳の後方に平成新山。

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     8:30、雲仙ロープウェイ仁田峠駅付近の登山口を出発。

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     登山口からは、「あざみ谷」までは緩やかに下る。

     8:45、「あざみ谷」で休憩。この谷から、登りとなる。

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     登るにつれ、妙見岳(1,333m)が進行方向左手に見える。

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     9:10、「紅葉茶屋」の分岐点のベンチで休憩。

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     「紅葉茶屋」からは、露岩の多い急坂を登る。途中鎖場もある。やがて、国見岳が後方に姿を現す。

     9:42、普賢岳の山頂直下にある普賢神社の石祠。

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     普賢神社は、1990年(平成2年)の噴火で焼失したという。この小さい石祠はその後に再建されたものだそうだ。

     石祠のある場所から、右手が普賢岳山頂、直進は「霧氷沢」への分岐。

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     この辺りは展望が開け、目の高さの「国見岳」(1,347m)と紅葉が素晴らしい。

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     9:50、普賢岳の山頂(1,359m)に到着。

     1等三角点がおかれた山頂は、大きな岩塊の上にある。

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     後方に白煙を上げる平成新山(1483m)の溶岩ドーム。

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     普賢岳神社の石祠がある分岐の戻り、「霧氷沢」の方へ下る。

     10:14、「霧氷沢」に着く。平成新山の山腹のガレ場が間近に見えるスポットで、この先は行き止まり。

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     「霧氷沢分かれ」の分岐に戻る。途中にあった冷たい風が出る風穴(ふうけつ)。

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     2014年10月の強風雨による倒木、崩壊等のため、普賢岳新登山道の一部区間(霧氷沢わかれ~西の風穴)が通行止めとなっている。

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     「霧氷沢分かれ」から、平成新山に近い「立石の峰」まで行って見る。

     10:30「立石の峰」に着き、11:00まで旅館のおにぎりで昼食。平成新山が眼前に。

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     この辺りには奇岩が多い。説明板によると、ここは約2万年前に大崩落した「妙見カルデラ」内にある「立石の峰溶岩ドーム」。妙見カルデラ内には、この溶岩ドームと「普賢岳溶岩ドーム」、「平成新山溶岩ドーム」、「島ノ峰溶岩ドーム」の4つの溶岩ドームがあるそうだ。

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     普賢岳山頂近く、登山道の外れに青銅製の「秩父宮殿下登山記念碑」が立つ。

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     秩父宮殿下は、昭和天皇の弟君。登山、スキー、テニスなどをたしなまれていたが、肺結核で1941年(昭和16年)から療養生活を送り、1953年(昭和28年)に逝去された。普賢岳に登られたのは、たぶん戦前の事だろう。

     

     11:40、「紅葉茶屋」の分岐に戻り、休憩。

     仁田峠と反対方向の「鬼人谷口」(きじんたにぐち)に下る。この辺りの谷から見る紅葉の美しさは格別。

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     「鬼人谷口」から「国見岳分かれ」まで、ジグザクの急坂を息を切らして登る。妙見岳の方向から来た登山客と行き交う。

     高度を増すにつれ、紅葉の普賢岳と平成新山が後方に姿を現す。

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     12:11、妙見岳への尾根に着くと、「国見分かれ」の分岐。国見岳の方に行って見る。

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     国見岳の直下から山頂を見上げる。

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     普賢岳と平成新山、左手は国見岳の中腹。

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     普賢岳の山頂には、人影が見える。

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     時間の都合で国見岳には登らず、「国見分かれ」の分岐まで戻る。

     この先は、妙見岳への平坦で長い尾根道を進む。

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     12:35、「妙見神社」に到着、参拝。

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     12:43~12:54、ロープウェイ妙見駅で休憩。

     眼下に、ロープウェイ仁田峠駅(中央)と駐車場(右)。正面の山は、「野岳」(1,142m)。

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     左に仁田峠駐車場、中央に雲仙ゴルフ場と「矢岳」(940m)、右に雲仙温泉街と「おしどりの池」を見下ろす。

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     狂い咲きのミヤマキリシマが、チラホラ。

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     13:15、仁田峠に到着。所要時間は、4時間45分。

     

     雲仙岳の紅葉は例年より1週間早く、ちょうど見ごろだった。前日にテレビニュースで紅葉の様子が放映されたため、それ見てやって来た観光客、登山客が多くいたようだ。遠望が霞んで良く見えなかったが、秋晴れの良い登山日和だった。

     関連ブログ、2011年11月投稿「雲仙・普賢岳」
      http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-fc3f.html

     

     ★★ ★

     島原半島西側の小浜温泉などのある海岸線は、ゆるやかな凹曲線を描く。千々石(ちぢわ)海水浴場などの砂浜を除き、海岸は険しい断崖が多い。沖合いに広がる「橘湾」は、かつては「千々石湾」と呼ばれていた。

     「橘湾」は、地底のマグマが地表に噴出した際に陥没してできた直径11Kmのカルデラとされていて、湾岸の千々石断層群とあわせて「千々石カルデラ」と呼ばれる。雲仙岳の山々は、千々石カルデラの外輪山だそうだ。普賢岳や平成新山の溶岩は、千々石カルデラ、つまり橘湾の地下のマグマだまりから供給されているという。


     
     陸軍軍人、橘周太(たちばな・しゅうた)中佐(1865-1904年、没後昇進)は、肥前国南高来郡千々石村(現・長崎県雲仙市千々石町)の生まれ。日露戦争中、歩兵第34連隊の第1大隊長となり、「遼陽の戦い」で戦死。海軍の広瀬中佐と並んで、人望に厚く優れた人格者でもあり、「軍神」と称された。

     死後、橘中佐の銅像が1918年(大正7年)に千々石町(現・雲仙市千々石町)に建立された。その際、関係者は「千々石湾」を「橘湾」と変更するよう申請し、海軍水路部が正式に認め「橘湾」と記載するようになったという。

     また、彼を祭神として祀る「橘神社」が1940年(昭和15年)に創建された。戦前の人はよく知っている軍歌「橘中佐」というのがある。歌詞は32番までの長大で臨場感あふれる歌だそうだ。

     

     「橘神社」にずいぶん昔に行ったことがあった。国道57号に面して九州一の御影石の大鳥居があり、入口には橘中佐の立派な銅像があった。その神社裏手の城山に、千々石出身で天正遣欧少年使節の千々石ミゲル(帰国後棄教、千々石清左衛門と名を改める)の記念碑があるのは、当時知らなかった。彼の功績が地元でも広く認められるようになったのは、戦後の事である。

    2015年11月 2日 (月)

    野母崎と伊王島

     2015年10月24日(土)、長崎半島の「野母崎」と、長崎港外の香焼沖に浮かぶ「伊王島」へ行く。

     2005年、長崎県西彼杵郡の野母崎町と伊王島町は、香焼町、高島町、三和町、外海町と共に長崎市に編入された。

     

     長崎半島の突端にある「野母崎」は、長崎市中心部から南西へ25Km、車で50分ほどの距離にある。

     国道499号線南下して半島の海岸線を走ると、「端島(はしま)」、通称「軍艦島」が見えてくる。11:30、軍艦島がよく見える「野母崎総合運動公園」に行く。

     総面積11万㎡の運動公園の敷地には、多目的グランド、プール、テニスコート、ローンボウルズ(ボウリングに似た芝生の上の競技)のコート、体育館、水仙の里(展望台)、親水ボードデッキなどが設置されている。

     この公園内には、展望台を備えた「水仙の里」(写真下)がある。

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     「水仙の里」は、3つの小山に1,000万球の水仙が植裁されている。12月下旬から1月中旬にかけては、一面に水仙の花が咲き、「水仙まつり」が行われて多くの人で賑わう。爽やかな香りが漂い、環境省の「かおり風景100選」に選ばれた。

     親水ボードデッキから北の方角、コバルトブルーの五島灘に浮かぶ「軍艦島」を望む。

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     「高島」から南西2.5Km、長崎港から南西に約18Kmの沖合に浮かぶ「軍艦島」は、南北約480m、東西約160m、周囲約1.2Kmの小さな海底炭鉱の島。江戸時代後期1810年頃に石炭が発見され、明治時代になると本格的に石炭採掘が開始された。

     軍艦島の右手遠景に、伊王島(左)と伊王島大橋を望む。

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     更に右手遠景に、三菱重工長崎造船所の香焼工場。

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     小山の一つ、北側展望台に登ると「水仙の里」の説明板があった。(ダブルクリックで拡大表示)

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     展望台から、運動公園の多目的グランド、プールや「軍艦島資料館」(中央の建物)を見下ろす。

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     ここからは、「高浜海水浴場」がよく見える。800mのビーチは遠浅で良好な水質で、「日本の水浴場88選」にも選ばれている。

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     丘の上から見る「軍艦島」(左手)、中央の小さい「中の島」、その右手に島影に隠れていた「高島」が顔を出す。

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     「高島」のズームアップ。高島には、三菱石炭鉱業(株)の主力炭鉱があった。

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     高島は、長崎港から南西に14Kmにある。面積1.2㎡。高島炭鉱が島の主産業であったが、1986年(昭和61年)に閉山後は人口が急減。現在も数百人の有人島で、閉山後に栽培された「高島フルーティ・トマト」が名産。温泉、釣り、海水浴場、キャンプ場などの観光の島。

     2005年に長崎市に編入する前は、西彼杵郡高島町として「飛島」(現在は防波堤で高島と繋がっている)、「中の島」、「端島(軍艦島)」の4島からなる、日本一小さな町だった。

     江戸時代初期から採掘が始まっていた高島炭鉱は、明治時代初期にグラバー邸で有名な英国商人トーマス・グラバーらによって、外国の資本と技術が我が国で初めて導入された本格的な近代炭鉱。

     特に「北渓井坑(ほっけいせいこう)」は、西洋の最新技術と機械が導入され、日本最初の蒸気機関によって海底炭田を掘る竪坑(たてこう)は、2015年(平成27年)の「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録された。

     また、炭鉱近くに建てられた「グラバー別邸」と呼ばれる屋敷跡があり、復元して観光の目玉にしようという動きがあるという。
     
     

     展望台を降り、12:00公園内の「軍艦島資料館」の建物に入る。入場無料。

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     資料館は、建物の2階にある。

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     資料館には、石炭の採掘や島の暮らしの様子など、当時の貴重な資料が写真、パネルやDVDビデオによって紹介されていた。最盛期には約5,300人もの人々が住み、当時の東京都の9倍の人口密度。学校や病院、商店のほか、映画館やパチンコ店などの娯楽施設もあった。1916年に建てられた7階建ての集合住宅は、日本最古の鉄筋コンクリート造りの高層アパートとされている。鉄筋コンクリートが建ち並ぶ姿が、軍艦に似ていることから「軍艦島」と呼ばれる。

     エネルギー需要が石炭から石油に移ったことで、出炭量や人口も徐々に減少、1974年(昭和49年)に炭鉱が閉山。その後無人島となり、廃墟となった。

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     2015年(平成27年)、「軍艦島」を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産」が世界文化遺産に登録された。現在は島の一部を見学出来る「軍艦島上陸ツアー」が人気。

     なお運動公園の近くには「野母崎 海の健康村」がある。軍艦島と五島灘を一望できる宿泊と温泉を備えたホテルで、日帰りも利用できるという。

     

     野母崎から国道499号線を戻り、香焼町から「伊王島大橋」を渡って伊王島に入る。2011年(平成23年)に、伊王島は対岸の香焼町と橋長876mの伊王島大橋でつながり、陸続きとなった。

     伊王島は、長崎港から南西へ10Km、高速船で20分ほどの海上に浮かぶ。長崎中心部からだと車で35分。かつて炭鉱の島として栄え、閉山後は農漁業のほか、釣りや海水浴場、天然温泉のリゾートアイランド。

     島の中央部にある長崎温泉「やすらぎ伊王島」は、ホテル3棟、コテージ13棟、レストラン、天然温泉、休憩所、テニスコート、バーベキューガーデン、ショップ、エステやマッサージなどのあるリゾート宿泊施設。

     白壁とオレンジ色の屋根は、南欧を思わせる「やすらぎ伊王島」のコテージ群。手前は、伊王島港ターミナル。

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     13:00、やすらぎ伊王島の「海の見えるホテル」2階、「オリーブDeオリーブ」でランチバイキング。大人1,580円。

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     北の「伊王島」と南の「沖ノ島」の2つの島を合わせて「伊王島」と呼ぶ。2つの島の間は幅数十mしかなく、西から祝橋、賑橋、栄橋(写真下)の3つの橋が架かる。

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     ホテルの外に出て北東の方向を眺める。

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     長崎港の出入口に架かる「女神大橋」。

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     三菱重工長崎造船所の香焼工場のクレーン。

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     14:00、伊王島の北端にある「伊王島灯台」に行く。

     伊王島の北端の高台は、長崎港の出入口に近く、見張り台や砲台が設置された要塞としての歴史がある。

     「伊王島灯台」は、1866年(慶応2年)に米・英・仏・蘭の4カ国と締結した江戸条約によって全国8ヶ所に設置されたものの一つ。日本で初めての鉄造六角形の洋式灯台で、1871年(明治4年)に点灯。1945年(昭和20年)8月9日の原爆の被害を受け、鉄筋コンクリート造の四角形に改築された。現在の建物は2003年(平成15年)に六角形に復元、灯塔上部のドームは140年前の建設当時のもの。

     この灯台は、2012年高倉健主演の最後の作品、映画「あなたへ」のロケ地にもなったそうだ。

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     行かなかったが、「伊王島灯台記念館」が灯台の近くにあり、伊王島灯台の歴史を紹介する資料を展示されているそうだ。建物は、1877年(明治10年)にわが国初の無筋コンクリート造りの灯台守の宿所として建てられた。長崎県有形文化財に指定。 

     

     伊王島の玄関口にもどり、14:20近くの駐車場に車を停めて白亜のゴチック様式の「馬込ミカエル天主堂」を眺める。

     住民の半数以上がカトリック教徒で、島のランドマークとなっている。1890年(明治23年)に建立され、現在の天主堂は、1931年(昭和6年)に建てられた。国の登録有形文化財。

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     ライトアップされる夜は、荘厳で幻想的な雰囲気が漂うという。

     14:35、伊王島大橋を渡り、香焼町へと伊王島を後にする。

     

     関連ブログとして、2014年7月に行った「長崎市伊王島」の記事が以下にある。
       http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-dff2.html

     

     ★ ★ ★

     明治以後、石炭は燃料、製鉄などの材料として需要が増大していった。北海道、福島・山口・福岡・佐賀・長崎県が主要産地で、最盛期には全国800以上の炭鉱があったという。昭和30年代の中学校の教科書には、石狩、釧路、常磐、三池、筑豊などの大規模炭田の名が連ね、憶えさせられた。

     長崎県の中では、「長崎炭田」とか「西彼杵(にしそのぎ)炭田」と呼ばれた炭田は、長崎半島と西彼杵半島西部に点在した海底炭鉱群で、高島炭鉱、池島炭鉱、端島炭鉱、崎戸炭鉱、松島炭鉱などがあった。池島炭鉱は、2001年に閉山した九州最後の炭鉱。トロッコ電車に乗って、坑内見学ができるそうだ。

     国内の炭鉱は、やがて安価な輸入石炭に押され、また石油の大量輸入と石油へのエネルギー革命を転機に、1961年をピークに多くが衰退し、姿を消していった。
     
     

     福島の原発事故は、もう過去の出来事として、再稼働や原発輸出が推し進められ、国民の関心も薄れて「福島の教訓」は忘れ去られようとしている。「原発ゼロ」の道のりは遠い。原発の立地自治体の首長らは、原発の再稼働を求め、地域経済、雇用、財政等の理由で、「安全より経済」優先を唱えているようにも思える。

     電力事業者は、老朽化した一部原発の廃炉により、比較的新しい原発の安全確保をPRして再稼働と、さらに裏では新増設の計画も進められている。

     原発の廃炉の問題は、炭鉱閉山の過去の事例に学ぶべき点もある。再生エネルギーに転換し「脱原発」を進めるための諸課題の中から、次の共通点と相違点を挙げておきたい。

     廃炉によって大きな影響を受ける原発立地自治体を対象に、炭鉱閉山時につくられた「産炭地振興臨時措置法」のような時限立法で、従来の原発交付金に代わって、財政、雇用、地域振興について活性化を図る必要がある。原発地域の原発依存からの脱却がなければ、全原発の廃止にはつながらない。

     一方、石油へエネルギー政策の転換時には、炭鉱は閉山するだけで良かった。しかし原発を廃炉にするには、莫大な費用のほか、高度な技術を持つ専門家や技術者が30年~40年もの間、核のゴミ処理や原発解体の作業が必要となる。こういった廃炉のためだけの優秀な人材を確保しなければならない。

     

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