雲仙・普賢岳2015
2015年10月21日(水)、4年ぶりに雲仙・普賢岳に登る。
「雲仙岳」は、長崎県の島原半島中央にある火山で、島原市、南島原市、雲仙市にまたがる。主峰の「普賢岳」(ふげんだけ)を中心に、周囲に最高峰の「平成新山」、「国見岳」、「妙見岳」(みょうけんだけ)、「野岳」、「九千部岳」(くせんぶだけ)、「矢岳」からなる山々の総称。
主峰は「普賢岳」(1,359m)だが、1990年(平成2年)から1995年(平成7年)にかけての火山活動で「平成新山」(1,483m)が出来、こちらの方が標高が高くなった。「平成新山」は、長崎県の最高峰。
前日から小浜温泉「雲仙荘」に宿泊。
5:30起床。6:30、前日コンビニで買ったおにぎりの朝食。7:25、「雲仙荘」を車で出発。
7:50、仁田峠循環道路の入口ゲートで環境保全協力金100円を払い、仁田峠へ向かう。
仁田峠循環道路は、雲仙市および南島原市の雲仙天草国立公園内を走る延長8.2kmの観光道路。左回りの一方通行となっている。以前は長崎県が管理する有料道路であったが、2009年(平成21年)に雲仙市に移管された。
雲仙市小浜町雲仙を通る国道57号上にある入り口から、第二展望所と第一展望所がある。第一展望所は、仁田峠の雲仙ロープウェイ仁田峠駅にある。仁田峠を過ぎると下り道となり、吹越峠で国道389号と合流する。
第二展望所からは、普賢岳(左)、平成新山溶岩ドーム(右)と火砕流の堆積物が作るすそ野が一望。天気は良いが、あいにく遠望の島原市街や有明海は霞んでいて、まして阿蘇は明瞭に見えない。
右に雲仙ロープウェイ仁田峠駅、左の妙見岳山頂付近に妙見駅がある。標高差174m、距離約500m、所要時間は3分。
8:30、雲仙ロープウェイ仁田峠駅付近の登山口を出発。
登山口からは、「あざみ谷」までは緩やかに下る。
8:45、「あざみ谷」で休憩。この谷から、登りとなる。
登るにつれ、妙見岳(1,333m)が進行方向左手に見える。
「紅葉茶屋」からは、露岩の多い急坂を登る。途中鎖場もある。やがて、国見岳が後方に姿を現す。
9:42、普賢岳の山頂直下にある普賢神社の石祠。
普賢神社は、1990年(平成2年)の噴火で焼失したという。この小さい石祠はその後に再建されたものだそうだ。
石祠のある場所から、右手が普賢岳山頂、直進は「霧氷沢」への分岐。
この辺りは展望が開け、目の高さの「国見岳」(1,347m)と紅葉が素晴らしい。
1等三角点がおかれた山頂は、大きな岩塊の上にある。
後方に白煙を上げる平成新山(1483m)の溶岩ドーム。
普賢岳神社の石祠がある分岐の戻り、「霧氷沢」の方へ下る。
10:14、「霧氷沢」に着く。平成新山の山腹のガレ場が間近に見えるスポットで、この先は行き止まり。
「霧氷沢分かれ」の分岐に戻る。途中にあった冷たい風が出る風穴(ふうけつ)。
2014年10月の強風雨による倒木、崩壊等のため、普賢岳新登山道の一部区間(霧氷沢わかれ~西の風穴)が通行止めとなっている。
「霧氷沢分かれ」から、平成新山に近い「立石の峰」まで行って見る。
10:30「立石の峰」に着き、11:00まで旅館のおにぎりで昼食。平成新山が眼前に。
この辺りには奇岩が多い。説明板によると、ここは約2万年前に大崩落した「妙見カルデラ」内にある「立石の峰溶岩ドーム」。妙見カルデラ内には、この溶岩ドームと「普賢岳溶岩ドーム」、「平成新山溶岩ドーム」、「島ノ峰溶岩ドーム」の4つの溶岩ドームがあるそうだ。
普賢岳山頂近く、登山道の外れに青銅製の「秩父宮殿下登山記念碑」が立つ。
秩父宮殿下は、昭和天皇の弟君。登山、スキー、テニスなどをたしなまれていたが、肺結核で1941年(昭和16年)から療養生活を送り、1953年(昭和28年)に逝去された。普賢岳に登られたのは、たぶん戦前の事だろう。
11:40、「紅葉茶屋」の分岐に戻り、休憩。
仁田峠と反対方向の「鬼人谷口」(きじんたにぐち)に下る。この辺りの谷から見る紅葉の美しさは格別。
「鬼人谷口」から「国見岳分かれ」まで、ジグザクの急坂を息を切らして登る。妙見岳の方向から来た登山客と行き交う。
高度を増すにつれ、紅葉の普賢岳と平成新山が後方に姿を現す。
12:11、妙見岳への尾根に着くと、「国見分かれ」の分岐。国見岳の方に行って見る。
国見岳の直下から山頂を見上げる。
普賢岳の山頂には、人影が見える。
時間の都合で国見岳には登らず、「国見分かれ」の分岐まで戻る。
この先は、妙見岳への平坦で長い尾根道を進む。
12:35、「妙見神社」に到着、参拝。
眼下に、ロープウェイ仁田峠駅(中央)と駐車場(右)。正面の山は、「野岳」(1,142m)。
左に仁田峠駐車場、中央に雲仙ゴルフ場と「矢岳」(940m)、右に雲仙温泉街と「おしどりの池」を見下ろす。
狂い咲きのミヤマキリシマが、チラホラ。
13:15、仁田峠に到着。所要時間は、4時間45分。
雲仙岳の紅葉は例年より1週間早く、ちょうど見ごろだった。前日にテレビニュースで紅葉の様子が放映されたため、それ見てやって来た観光客、登山客が多くいたようだ。遠望が霞んで良く見えなかったが、秋晴れの良い登山日和だった。
関連ブログ、2011年11月投稿「雲仙・普賢岳」
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-fc3f.html
★★ ★
島原半島西側の小浜温泉などのある海岸線は、ゆるやかな凹曲線を描く。千々石(ちぢわ)海水浴場などの砂浜を除き、海岸は険しい断崖が多い。沖合いに広がる「橘湾」は、かつては「千々石湾」と呼ばれていた。
「橘湾」は、地底のマグマが地表に噴出した際に陥没してできた直径11Kmのカルデラとされていて、湾岸の千々石断層群とあわせて「千々石カルデラ」と呼ばれる。雲仙岳の山々は、千々石カルデラの外輪山だそうだ。普賢岳や平成新山の溶岩は、千々石カルデラ、つまり橘湾の地下のマグマだまりから供給されているという。
陸軍軍人、橘周太(たちばな・しゅうた)中佐(1865-1904年、没後昇進)は、肥前国南高来郡千々石村(現・長崎県雲仙市千々石町)の生まれ。日露戦争中、歩兵第34連隊の第1大隊長となり、「遼陽の戦い」で戦死。海軍の広瀬中佐と並んで、人望に厚く優れた人格者でもあり、「軍神」と称された。
死後、橘中佐の銅像が1918年(大正7年)に千々石町(現・雲仙市千々石町)に建立された。その際、関係者は「千々石湾」を「橘湾」と変更するよう申請し、海軍水路部が正式に認め「橘湾」と記載するようになったという。
また、彼を祭神として祀る「橘神社」が1940年(昭和15年)に創建された。戦前の人はよく知っている軍歌「橘中佐」というのがある。歌詞は32番までの長大で臨場感あふれる歌だそうだ。
「橘神社」にずいぶん昔に行ったことがあった。国道57号に面して九州一の御影石の大鳥居があり、入口には橘中佐の立派な銅像があった。その神社裏手の城山に、千々石出身で天正遣欧少年使節の千々石ミゲル(帰国後棄教、千々石清左衛門と名を改める)の記念碑があるのは、当時知らなかった。彼の功績が地元でも広く認められるようになったのは、戦後の事である。
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