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2015年9月10日 (木)

高麗の里山

 2015年9月6日(日)、高麗(こま)の里山ハイキング。

 

 西武鉄道池袋線に乗り、10:52高麗駅(埼玉県日高市)で下車。

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 駅前には、大きな案内板が立つ。

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 その昔、朝鮮半島の高句麗(こうくり)という国が、唐と新羅(しらぎ)の連合軍と戦って敗れ、大勢の高句麗人が日本の東国各地に逃れて来た。

 当時の大和朝廷は、武蔵の国に高麗郡を作り、その人たちを移住させて開発した土地が「高麗(こま)郷」、または「高麗の里」。今の埼玉県日高市あたり。

 近郊の山々を「高麗の里山」と呼んで、県内・都内からハイキング客がやって来る。

 

 2週間前の百名山「甲斐駒ヶ岳」とうって変わって、埼玉県の低山「高麗(こま)の里山」の日帰りハイキング。参加者は、5名。

 高麗駅から日和田山(ひわだやま、標高305m)、北向地蔵(380m)を経由して武蔵横手駅まで、9.4Kmの山道を歩く。

 

 11:05、駅前を出発。正面に三角形の日高のシンボル「日和田山」が見える。

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 右に折れる角に、幕府の法度や覚書を記​した高札場。日高市指定文化財で、昭和60​年に復元された。

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 道端の所々に、つぼみや咲き始めの彼岸花を見かける。何を販売していたか分からなかったが「大野屋」という店の前に、黄色と白の彼岸花。黄色は台湾、白は朝鮮の彼岸花、と店の前にいた人が言う。

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 この小道は、駅から彼岸花の群生で有名な「巾着田(きんちゃくだ)」に行く道。「大野屋」の向かいに、勝海舟筆による宿老庵貫斎の「筆塚」がある。

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 この筆塚は、使い古した筆の供養のための塚ではない。この地で塾を開き、人々に学問を教えた宿老庵貫斎の遺徳を偲んで弟子たちが建立した。

 宿老庵貫斎は新井家の11代で、式台の玄関や書院造りの奥の間など格式高い居宅「大澤舎」を建てた丈右衛門定季の号である。新井家は、戦国時代末期この地に土着し、以来現在で16代を数え、江戸時代に代々名主を務めた旧家。

 天保年代に繰り返され​た天災や水難事故を鎮​めるために、この地の村人が建立​した「水天の碑」

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 再び日和田山が正面に。山頂の左下の中腹に岩場と「金刀比羅(ことひら)神社」の鳥居(​展望良し)が見える。
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 県道15号線の高麗川(こまがわ)に架かる鹿台橋を渡り、コンビニに寄って昼食のおにぎりとお茶を購入。この付近の南側に、「巾着田」がある。

 県道15号線を横断して、「巾着田」と反対側の「高麗神社」に向かう「カワセミ街道」を歩く。

 道標に従って左折するとやがて、11:32日和田山への山道の入口。

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 林の坂道を登ると広い遊歩道となる。

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 「金刀比羅神社」の一の鳥居は、コンクリート造り。

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 急坂できつい岩場のある男坂と、その名の通りの女坂の分岐。

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 女坂の方を選ぶが、女坂といっても途中に急坂や岩場もあって、楽ではない。

 岩場に立つ二の鳥居は木造。この少し上に、「金刀比羅神社」がある。

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 雨がパラパラ降り出すが、しばらくして止む。

 ここからは、南方向にある「巾着田」や日高市街、飯能市街の展望が良い。空気が澄んでいれば、東京スカイツリー、新宿副都心、富士山も望めるらしい。

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 正面の広い平地が「巾着田」。その向こうの斜面の芝生は、新武蔵丘ゴルフコース。

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 「巾着田」は、高麗川に囲まれた所にある巾着のような形をした平地。毎年9月〜10月にかけて、この河川敷にある5.5ヘクタールに群生する500万本という彼岸花(曼珠沙華)が見頃になる。日本一の彼岸花群生地として、多くの観光客で賑わう。

 「巾着田」の左(東)側、日高市梅原方面。高麗中学校、高麗小学校の校舎が見える。

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 「巾着田」の右(西)側の日高市の武蔵台団地方面。手前右に武蔵台病院、遠くに白い建物の武蔵台小、中学校。その奥の高い峰は、飯能市の「多峯主山」(とうのすやま、271m)、その右に天覧山(197m)。

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 岩場に建つ小さな社(やしろ)の「金刀比羅神社」の前を通り、急坂を登る。

 

 12:12、「日和田山」の山頂(305m)に到着し、昼食。

 山頂に建つ「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」は、1725年(享保10年)の建立。何故山頂に建てられたかは不明だそうだ。

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 山頂からは東側が開けていて、日高市街地が展望できる。中央から左手の目立った施設は太平洋セメントの工場。

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 12:23「日和田山」を出発、「高指山」向かう。

 山道から舗装道路に出ると、その先の「高指山」の山頂(標高330m)にはNTTの電波塔が見える。施設内は立入禁止となっていて、山頂には行けない。

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 舗装道路を下って行き、「駒高」というところにトイレ、休憩所と売店があった。

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 「物見山」、「北向地蔵」方面に向かう。

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 「物見山」と「北向地蔵」の分岐がある。「物見山」を経て、「北向地蔵」にも行ける。

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 13:25、「物見山」の山頂(375m)に到着。山頂にはベンチがあったりして、山名からして見晴らしが良いはずだが、杉の林に囲まれて、展望なし。

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 「北向地蔵」へ向かう。この辺りは、狭いが平坦な山道。

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 14:03、今回の行程の最高点(380m)にある「北向地蔵」に到着、参拝する。

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 ここは、埼玉県毛呂山町。

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 右に立つ案内板には次のように書いてある。

 「天明6年(西暦1,786)流行した悪疫を防ごうと、野州岩船地蔵尊より分身として譲り受け、北の方岩船地蔵尊と向かい合わせ守護神にしたと伝えられる。丁度北を向いて立っているので、北向地蔵の名で親しまれている。」

 そして、最後の2行には、

 「現在は、男女逢瀬をとりもつ縁起地蔵としても親しまれています。」

 とあるのは、何故か世俗っぽくて面白い。

 なお野州岩船は、下野(しもつけ)の国、つまり栃木県の岩舟町。現在、岩舟町は栃木市に編入されている。


 「北向地蔵」を後にし、林道を下る。

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 毛呂山町から再び日高市に入り、林道から少し沢に降りると、14:32「五常の滝」に着く。

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 「五常」は、儒教の教え。人として守るべき「仁・義・礼・智・信」の5つの徳のこと。滝の入口には、滝不動尊が祀られている。滝の落差は、約12m。今日は雨が降りそうな曇り空だが、暑い日には優しい流れと澄み切った滝壺が涼しさを与えてくれそう。

 

 15:04、西武池袋線の武蔵横手駅(埼玉県日高市)に到着。

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 高麗駅を出発して武蔵横手駅まで、休憩入れて4時間ほどの道のりだった。曇りで暑くはなかったが、いい汗をかいた。

 

 15:20、武蔵横手駅を出発、東飯能駅で乗り換えてJR川越線の川越駅(埼玉県川越市)で下車。

 川越駅東口から徒歩5分の居酒屋「さくら水産」で、16:30~18:10慰労会。

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 18:30、川越駅で解散。

 

 ★ ★ ★

  渡来人の若光は、高句麗王族の優れた人物であった。朝廷より従五位下に叙爵されたのち、「高麗王(こまのこきし)」という氏姓を賜与された。716年、武蔵の国に高麗郡が設置され、朝廷は東国から1799人の高句麗人を高麗郡に移住させた。高麗郡は、現在の日高市と飯能市辺り。そのほとんどが、未開の原野だった。

 高麗王若光が初代の首長として高麗郡に赴任。王族として先頭に立って高句麗人をまとめ、優れた大陸の知識や技術をもって新天地を開拓、道路の整備、山林の開墾、稲作・麦作、養蚕、牧畜、窯業など生活の基盤を整え産業を興し、馬の飼育や騎射術、宗教を伝来し文化を向上、民生の安定に尽くした。

 そんな若光は高麗郡民に慕われていたが、730年波乱に満ちた生涯を終え、惜しまれながら没した。若光は祭神となって、「高麗神社」に祀られた。その後、渡来人たちの高度な生活、高麗郡の繁栄と人口増加は、この地にとどまらず、開拓地を求めて武蔵野全域、関東一円に移住、広がって行ったのではないかと推察されている。

 

 まだ行ったことはないが、日高市新堀に「高麗神社」がある。近くに高麗氏一族の菩提寺「聖天院(しょうでんいん)」があり、若光の墓があるそうだ。高麗神社は、今日まで1300年にわたって、郡民の崇敬を受け続けてきた。近年では、鳩山一郎等の政治家や官界・財界、各界の人たちが参拝するようになったという。

 若光の直系子孫が代々、高麗神社の宮司を受け継ぎ、現在は高麗家60代目当主・高麗文康氏が宮司を努めているそうだ。

 高麗神社本殿が、県の重要文化財に指定されいるほか、国や市の数々の有形・無形文化財も残されている。また、高麗神社の裏手にある「高麗家住宅」は、江戸初期の重要民家として1989年(昭和64年)に国の重要文化財に指定された。

 

 西武池袋線の高麗駅で下車し、徒歩15分程のところに「巾着田」がある。巾着田は、日高市の西部、高麗本郷を流れる大きく湾曲した高麗川に囲まれた所にある。8世紀、この付近に移り住んだ高句麗からの渡来人が、この地を開墾して田を作り、稲作を伝えたという。

 現在は、「巾着田曼珠沙華公園」となっている。直径約500メートル、面積約22ヘクタールの川に囲まれた平地には、菜の花、コスモスなどの花々が咲く。中でも秋の彼岸花(曼珠沙華)の群生は、辺り一面が真紅に染めるという。

 西武鉄道のパンフレットから引用(ダブルクリックで拡大表示)。

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 渡来人たちは、二度と帰れない遠い朝鮮半島に想いを馳せながら、未開の地であった高麗郡の開拓にいそしんだ。赤いじゅうたんを敷き詰めたような彼岸花の光景は、古代日本の歴史ロマンを感じさせてくれるに違いない。


 

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