甲斐駒ヶ岳-その3
2015年8月22日(土)~24日(月)、2泊3日の甲斐駒ヶ岳山行。
本ブログの記事「甲斐駒ヶ岳-その2」の続き。
8月24日(月)、長野県伊那市の「仙流荘」にて6:00頃起床。朝風呂に入り。朝食7:00~。
筋肉痛はあるが、温泉に入って、ぐっすり寝たせいか、疲れはだいぶ取れた。
伊那地方にある美術館、博物館を事前に調べたが、伊那市高遠町の「信州高遠美術館」と「高遠町歴史博物館」、上伊那郡辰野町の「辰野美術館」と「世界昆虫館」など、すべて休館日。「伊那市民俗資料館」(伊那市高遠町)と「登内時計記念博物館」(伊那市西箕輪)は開館してそうだが、ここからちょっと遠くて44Km離れた木曽の「奈良井宿」を観光することにする。
8:05、仙流荘を出発。
国道152号を北上、伊那市高遠町から国道361号へ、長い「権兵衛トンネル」を抜けて、木曽谷の国道19号を北上する。
愛嬌のある名前の付いた「権兵衛トンネル」は、「権兵衛峠」(経ヶ岳林道)に代わって木曽山脈を貫き、伊那と木曽とを結ぶ全長約4.5Kmのトンネル。
写真は、クリエイティブ・コモンズ:ウィキペディア「権兵衛トンネル」に掲載の「国道361号権兵衛トンネル - 木曽口(塩尻市)206年6月撮影」から引用。
権兵衛峠は、長野県塩尻市(旧木曽郡楢川村)と長野県上伊那郡南箕輪村(飛地)の境にある標高1,530mの峠。木曽山脈の北部にある「経ヶ岳」(標高2,296m)と「木曽駒ヶ岳」(標高2,956m)の鞍部に位置する。冬季には閉鎖、落石などでたびたび通行止めとなり、道幅が狭く車のすれ違いも難しかった。1993年にトンネル工事が開始されたが、難工事の末に開通したのは2006年2月。所要時間は、従来の3分の1、30分に短縮された。
その昔この峠は、やっと人だけが行き来し、牛馬の往来が不可能な険しい峠道であった。17世紀後半、木曽谷に住み牛を使った物資輸送をしていた古畑権兵衛が、この峠道の開発を呼びかけ、1696年(元禄9年)新しい峠道を完成させた。これにより伊那から大量の米が木曽へ運ばれ、木曽からは漆器などが伊那へ運ばれるようになった。そしていつしか、この峠は「権兵衛峠」、峠を経由して伊那と木曽を結ぶ街道は「権兵衛街道」と呼ばれたという。
9:25、道の駅「奈良井宿木曽の大橋」に到着。道の駅にある檜つくりの太鼓橋「木曽の大橋」を渡る。
橋を渡ると広々とした芝生の公園があり、線路下の小さいトンネルをくぐると、JR中央線奈良井駅がある。このあたりは、江戸と京を結ぶ旧中山道の木曽路の中で、一番賑わった宿場町。町並みは南に延長約1kmにおよぶ。
奈良井宿は、長野県塩尻市にあるが、以前は木曽郡楢川村であった。2005年、楢川村は塩尻市に編入。村内を走る国道19号(旧中山道)沿いの宿場として、「奈良井宿」のほか「贄川(にえかわ)宿」がある。
奈良井駅から、南へ京の方向に向かって町並みを散策する。平日のまだ朝早い時間のせいか、観光客は少ない。
本陣跡はここの建物とは違うが、「本陣跡」の標識の右側にある駐車場にあったようだ。
奈良井宿は2014年9月29日に行ったことがあって、10月 2日に本ブログ記事「赤そばの里と奈良井宿」を公開した。
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-a79f.html
今回は特に、「明治天皇行在所」の石碑が建つ「上問屋史料館(手塚家住宅)」に入館(300円)する。
この建物の手塚家は、1602年(慶長7年)から明治維新に宿場制度が廃止されるまでのおよそ270年間、奈良井宿の「問屋(といや)」を務めてきた。問屋とは、幕府役人や諸大名、その他の旅行者のために、幕府が定めた一定数の伝馬(てんま、宿駅用の馬)と人足を管理・運営する仕事で、手塚家は天保年間から庄屋も兼務した。問屋の下には数人の年寄役がいて、問屋を補佐していたという。
現在の建物は、1840年(天保11年)の建築。国の重要文化財に指定。江戸の宿図などの古文書や日常生活の陶器、漆器など400点余りの諸道具を展示してある。
簾(すだれ)の先は、吹き抜けになっている坪庭。右手のガラスケースの中に展示品の一部がある。
釘をあまり使わない江戸時代の造りで、黒光りしていて所々に鉋(カンナ)を使わない「ちょうな削り」という荒削りの木材が、目につく。
部屋や廊下に、古文書やアンティークな道具類など、貴重な資料が並ぶ。掛け軸、屏風、額などが多いが、どんなお宝だろうか。山岡鉄舟の書はどれだか、確認出来なかった。
掛け軸の左下の黒い置時計は、明治時代に尾州徳川家・当主徳川義親氏から贈られたという。
下は、「会所」と呼ばれた部屋で、宿役人(問屋と年寄りなど)が詰めていた。
2階の2部屋。箱階段と普通の階段の2か所から昇れる。
1880年(明治13年) 明治天皇が巡幸の際の行在所(あんざいしょ、天皇が外出した時の仮の御所)となり、ここで休まれご昼食を召しあがったそうだ。
その部屋は1階の一番奥の上段の間(廊下より一段高くなっている座敷)で、当時のままに保存されている。8畳くらいか、意外に狭い部屋で驚く。
上問屋を出て、再び散策。街道の 「鍵の手」には、石碑が建つ。
奈良井宿の町並みの中には、「鍵の手」というクランク状の道路がある。城下町によくある枡形と同じ構造で、敵の軍勢の直進と見通しを防ぐ町の防御構造。この鍵の手は上町(京側)と中町の境となっていて、水場があり、庚申塔、荒沢不動尊、道祖神などが祀られている。
11時過ぎ、だんだん観光客が増えてきた。
木曽は江戸時代から木曽ヒノキを使った漆器が名産で、今でも漆器の専門店が多い。
木曽は、信州でも古くからのそば処だという。奈良井駅に戻り、近くの手打ちそばの店「楽々亭」のとろろそば(950円)で昼食。
12:05、奈良井宿を出る。
国道19号を北上して、塩尻市街から長野道の塩尻インターへ、岡谷ジャンクションを経て、中央道の東京方面へと向かう。16:10頃自宅着。
★ ★ ★
前日の甲斐駒ヶ岳登山では、仙水峠から駒津峰の間で、北岳、間ノ岳、鳳凰三山など南アルプスの峰々が眺望でき、感激した。ただ仙丈ケ岳山頂には終始雲がかかっており、また駒ヶ岳山頂からの360度の展望は、周りの雲で全く無くて残念であった。
山小屋~山頂~北沢峠は、十分余裕を持ったスケジュールで、休憩含み9時間30分の予定にしていた。しかしゆっくりし過ぎて、11時間もかかてしまった。 特に駒津峰~山頂往復が、予定に対して1時間半のオーバー。駒津峰からのアップダウンが激しく、ロープも鎖もない岩場の上り下りなど、予想より厳しいコースだった。2万5千分の1の地図で、アップダウンが読み取れなかったのと、標準コースタイムが実態よりも過少な気がする。山小屋を1時間早めに出発できたのと、下山時のリカバリーで、何とか林道バスにの臨時便に合った。
最近に無いハードな山だったが、全員が無事下山でき、また今回の山行に協力してくれたメンバーに感謝したい。
友人から聞くと、28年前に甲斐駒ケ岳と仙丈ヶ岳に、5、6人と一緒に登っていた。
彼の登山記録によると、1987年7月29日夜マイカーで出発、山梨県側の広河原に車を停めて仮眠。当時は、車中泊も平気でよくやっていた。翌30日早朝、林道バスで北沢峠へ。「北沢長衛荘」(現・北沢峠こもれび荘)前のキャンプ場にテントを張り、甲斐駒ヶ岳に向け朝10時出発、14時35分山頂、テント場に戻ったのが17時半だった。
往復7時間半で、コースは今回と逆。下山した夜は、持参した肉をフライパンで焼いて、テントの前で贅沢なステーキパ-ティだったのを憶えている。翌日31日は、標高3,033mの仙丈ヶ岳に登った。下山後は、山梨県内の温泉に泊まり、8月1日に帰着した。
車中泊、テント泊、帰りの旅館泊の3泊4日で、3,000m近い2つの山を征したが、あの頃は若くて元気で、体力もあった。
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