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2015年9月の5件の投稿

2015年9月17日 (木)

江の島散策

 2015年9月12日(土)、神奈川県藤沢市の「江の島」に行く。

 

 江の島は、湘南海岸から相模湾に突き出た周囲4Km、標高60mの陸繋島。

 江戸時代、「日本三大弁財天」のひとつである「江島弁財天」への信仰が盛んになり、「江の島詣(もうで)」の人々で大いに賑わいを見せた。明治以降、日本神話の三姉妹の女神を祭神とする「江島神社」へと変わり、神社はそれぞれの神を祀る「辺津宮」、 「中津宮」、「奥津宮」の三社からなる。

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 (上の写真は、2014/5/6撮影)

 

 車で弁天橋を渡り、午後2時過ぎ江の島に上陸。この日は、土曜とあって駐車場も混んでいる。なぎさ駐車場(2時間以内620円)へ入場する車の列に並ぶ。

 

●青銅の鳥居

 駐車場から、参道入口にある鳥居へ向かう。

 この青銅の鳥居は、1747年(延享4年)に創建、1821年(文政4年)再建。「江の島道」(えのしまみち)においては三番目の鳥居である三の鳥居。

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 「江の島道」は、藤沢宿や鎌倉から遊山(ゆさん)客が江の島へ向かう道。

 鳥居正面の額「江島大明神」は、鎌倉時代の文永の役(蒙古襲来)に勝利した記念に、後宇多天皇から贈られた勅額の写し。

 ちょうど浅草の仲見世商店街を歩いているような人混みの中を歩く。

 
 

●朱の鳥居

 江戸時代から現在まで変わらない賑やかな狭い参道の商店街を通り抜けると、鮮やかな朱の鳥居が見えてくる。現在の鳥居は、1936年(昭和11年)再建。

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●瑞心門(ずいしんもん)

  朱の鳥居の正面の石段を上ったところにある龍宮城に似た楼門。瑞々(みずみず)しい心でお参りできるようにと名付けられている。

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 壁や天井には、牡丹や唐獅子の絵が飾られている。門をくぐると、江島神社ご鎮座1450年を記念して奉献された「弁財天童子石像」がある。

 

●江の島エスカ―

 江の島の頂上に行くには、数百段の石段を上らなければならないが、1959年(昭和34年)、国内初の屋外エスカレータの「江の島エスカー」が建設された。「朱の鳥居」の左手にエスカ―のりばがある。高低差46mを4連のエスカレータで結ぶ。全長は106m。

 頂上まで石段を上ると20分かかるところ、わずか4分。エスカレーターを乗り継ぐので、途中の神社に参拝したり、旧跡を見ながらでも行ける。

 エスカーは有料、全区間で360円。、島の頂上にある「江の島サムエル・コッキング苑」、「江の島シーキャンドル」(展望灯台)の利用がセットになった「展望灯台セット券」が750円。

 

●龍神と銭洗い

 エスカ―を降りると、白龍池。お金をこの池で洗うと、金運が上昇するという。

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 白龍の左手にある案内板には、

 「当江の島弁才天は日本三大弁才天(厳島、竹生島)の一つで、近年まで岩屋洞窟に祀られ、その御霊水で金銭を洗うと金運向上、財宝福徳の御利益があると伝えられてきました。 現在はこゝの白龍池にお移し致しました。」

 と書いてある。

 

●辺津宮(へつみや)

 朱の鳥居から石段を上った所にある。「辺津宮」は、三姉妹の神のうち「田寸津比賣命」(たぎつひめのみこと)を祀る。江の島では、一番下に位置していることから「下之宮」(しものみや)とも呼ばれ、神社での祈祷は主にこちらで行われる。

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 1206年(建永元年)、将軍・源実朝が創建。1675年(延宝3年)に再建、1976年(昭和51年)の大改修により権現造りの現在の社殿が新築。

 

●奉安殿(ほうあんでん)

 辺津宮の境内の左側にある八角のお堂。神奈川県の重要文化財「八臂弁財天」(はっぴべんざいてん)と、日本三大弁財天のひとつとして有名な全裸の弁財天「妙音弁財天」(みょうおんべんざいてん)、その他が安置されていて拝観料150円。

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 (写真は、ウィキペディアから引用)

 江戸時代に江の島詣が大変な賑わいを見せたのは、この「江島弁財天」への信仰で大人気となったから。時間の都合で入館せず。

 

●江の島弁天橋

 樹木の間から、対岸と島を結ぶ「江の島弁天橋」を見下ろす。

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 昔は片瀬の浜から干潮時に現れる陸路を歩き、江の島に渡った。明治になって木橋が架けられたが、現在のコンクリート橋(全長389m)は1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックのヨット競技に合わせ完成した。

 

●江の島ヨットハーバー

 季節の花が咲く「みどりの広場」の展望台から、北東の方向を望む。江の島ヨットハーバーと白い屋根のヨットハウス、相模湾が良く見える。対岸は鎌倉方面。

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●中津宮(なかつみや)

 「中津宮」(上之宮)は、三姉妹の女神「市寸島比賣命」(いちきしまひめのみこと)を祀る。853年慈覚大師が創建、将軍綱吉が1689年(元禄2年)に再建。1996年(平成8年)の大改修で、当時の鮮明な朱色の社殿を再現した。

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●奥津宮(おくつみや)

 島の西側、霊場発祥の地である「岩屋」洞窟にもっとも近い場所にある。三姉妹の女神のうち、ここ「奥津宮」には一番上の姉神の「多紀理比賣命」(たぎりひめのみこと)が祀られている。中津宮から歩いて約10分だが、時間の都合でスキップ。

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 (写真の出典は、ウィキメディア・コモンズ 神奈川県藤沢市江の島の江島神社奥津宮2011年3月27日 作者 Aimaimyi )

 奥津宮は、昔「岩屋」洞窟(本宮)に海水が入りこんでしまう4月~10月までの期間、本宮のご本尊が遷座されたところ。江戸時代までは「本宮御度所(おたびしょ)」といわれ、壮麗を極めた社殿であった。創建年代は不詳。

 1841年(天保12年)に焼失、翌1842年(天保13年)に再建された。拝殿上部には「八方睨みの亀」が描かれ、どこからみても、こちらを睨んでいるようにみえるそうだ。

 

●江の島サムエル・コッキング苑

 4番目のエスカ―で、広い頂上部に着く。明治時代の英国人貿易商「サムエル・コッキング」に由来し、和洋・南国ムードの植物園(旧・江の島植物園)がある。苑内には、江ノ島電鉄の経営する「江の島展望灯台」などが含まれる。

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 アイルランド人の貿易商サムエル・コッキングは、島の頂上部で廃寺となった「金亀山与願寺」( きんきざんよがんじ )の菜園を買い取り、別荘と庭園を造営。数多くの熱帯植物を収集、ボイラーのある大型温室や、オオオニバスの池など、熱帯植物園を1885年(明治18年)に完成させた。

 2002年(平成14年)、この「江の島植物園」がリニューアル工事される際に、コッキングの温室跡が発見、整備されて公開されるようになった(写真下)。新しくオープンした植物は「江の島サムエル・コッキング苑」と名付けられた。

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●江の島シーキャンドル

 湘南のシンボルとして親しまれる愛称「江の島シーキャンドル」(展望灯台)は、2002年の江ノ電開業100周年事業の一環として旧「平和塔」の脇に建設され、2003年にオープンした。旧「平和塔」は、解体された。

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 避雷針含む塔の高さは、地上60m、海面から120m。展望台にはエレベーターで昇れ、360度の展望が楽しめる。平日は17時までだが、土休日は20時まで営業、LEDによるライトアップも時折り行われる。

 展望灯台から北の方角、藤沢市街を展望。左(西)手に新江ノ島水族館、突き出た堤防は片瀬漁港、その後方に江ノ電の片瀬江ノ島駅がある。境川河口の右の砂浜は片瀬海水浴場。右手は鎌倉方面。

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 さらに左手、西の方角に目をやれば、相模市・海老名市方面、武甲山、御岳山、丹沢、富士山、箱根、伊豆半島、伊豆大島などが遠望できるが、この日は遠くが霞んでいて確認出来なかった。

 東の方角を展望。三浦半島、房総半島方面。眼下の緑は「江の島サムエル・コッキング苑」。

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 南の方角は、断崖絶壁。大正の関東地震により島全体が2m近く隆起し、海蝕台(写真下)が海面に現れたという。

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 江の島にはこのほか、八坂神社、児玉神社、江の島大師など神社仏閣、県立かながわ女性センター、市民の家(廃校になった分校)などの施設、岩屋洞窟、様々な銅像、記念碑・顕彰碑、歌・詩碑句碑、石碑、墓石など、1日で回りきれないほど名所・旧跡がある。

 

 午後4時頃、江の島を後にする。

 エスカーで展望灯台まで行く、2時間ほどの急ぎ足の散策であった。

 

 ★ ★ ★

 社伝では、552年欽明天皇の勅命により、江の島の南側にある洞窟(海蝕洞)に宮を建てたのが、江島神社の始まりであると伝えている。また洞窟は修行の場として、古代から多くの行者や高僧が修行に励んだ伝えられている。

 『吾妻鏡』によれば、1182年に源頼朝の祈願により文覚上人が弁財天を勧請、頼朝が参拝の折りに鳥居を奉納したことで、代々将軍や御家人の江の島信仰が盛んになった。

 江戸時代には江戸っ子の行楽として、大山、江の島、鎌倉、金沢八景を結ぶルートが流行した。寺社参拝だけでなく、名勝旧跡を訪ね、名物料理を味あい、名産品を土産にという遊山(ゆさん)、つまり観光の側面が強かった。

 江の島は、浮世絵に描かれたり、歌舞伎の舞台となったりして、広く全国に知られるようになった。 以下は、葛飾北斎と歌川広重の浮世絵(いずれもウィキベディア「江の島」から引用、出典:ウィキメディア・コモンズ)。

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 「江島神社」の祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約(うけい、占いのこと)により生まれた三姉妹の女神。三女神を「江島大神」と総称し、「江島神社」はそれぞれの女神を祀る「辺津宮」、 「中津宮」、「奥津宮」の三社からなる。 

 江戸時代までは「弁財天女」を祀っており、「江島弁財天」、「江島明神」と呼ばれ、日本三大弁財天のひとつとして信仰されていた。日本三大弁財天とは、安芸の宮島、近江の竹生島、江の島の3つの弁財天のこと。

 「弁財天女」は、いわゆる「弁天様」として七福神の一員となって宝船に乗っている紅一点だが、海や水の神の他、幸福や財宝を招き、芸道上達の神として、今日まで崇敬されている。

 神仏習合の時代の千年以上、江島神社は「金亀山与願寺」( きんきざんよがんじ )と称し、神仏双方が祀られていた。明治の廃仏毀釈で寺は廃され、国家神道の「江島神社」という神社となった。江の島に現在の三女神が祀られたのは、明治の廃仏毀釈後の現在までのたった140年のことだそうだ。

 

 1902年(明治35年)江ノ島電鉄が開通、多くの観光客が利用するようになる。更に鎌倉まで全通すると、江の島~鎌倉を結ぶ観光ルートが出来、更に修学旅行なども加わるようになった。

 戦後、江の島を含む鎌倉郡片瀬町は藤沢市に編入、藤沢市と江ノ島電鉄による江の島の観光地開発が本格化。コンクリートの江の島弁天橋、江の島植物園、平和塔などの観光施設が出来る。1959年(昭和34年)、藤沢市は米国マイアミビーチ市と姉妹都市提携を結び、「東洋のマイアミビーチ」というキャッチコピーで観光開発に更に力を入れるようになった。その年には江ノ島エスカーを建設、1964年の第18回東京オリンピックではヨット競技会場となった。

 江の島にも、住民はいる。江戸時代から明治、大正にかけて島の人口は600~700人台だった。昭和に入って1,000人を突破、現在は急減して360人ほどだそうだ。

 

 藤沢市は、神奈川県南部中央に位置し、相模湾に面して湘南の海に開かれ、遠くに富士山を望む。東京・横浜のベッドタウン、工業都市、文教都市であり、江の島、片瀬・鵠沼(くげぬま)・辻堂の美しい海岸を有する観光都市でもある。藤沢市のホームページによると、2014年(平成26年)の年間観光客数は1,773万人で、前年の約220万人増(14.2%増)だったそうだ。

 湘南と呼ばれる地域の中では、藤沢市は最大の人口約42万人を有する。政令指定都市である3市(横浜市、川崎市、相模原市)に次ぎ、県内4位の大都市である。

2015年9月10日 (木)

高麗の里山

 2015年9月6日(日)、高麗(こま)の里山ハイキング。

 

 西武鉄道池袋線に乗り、10:52高麗駅(埼玉県日高市)で下車。

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 駅前には、大きな案内板が立つ。

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 その昔、朝鮮半島の高句麗(こうくり)という国が、唐と新羅(しらぎ)の連合軍と戦って敗れ、大勢の高句麗人が日本の東国各地に逃れて来た。

 当時の大和朝廷は、武蔵の国に高麗郡を作り、その人たちを移住させて開発した土地が「高麗(こま)郷」、または「高麗の里」。今の埼玉県日高市あたり。

 近郊の山々を「高麗の里山」と呼んで、県内・都内からハイキング客がやって来る。

 

 2週間前の百名山「甲斐駒ヶ岳」とうって変わって、埼玉県の低山「高麗(こま)の里山」の日帰りハイキング。参加者は、5名。

 高麗駅から日和田山(ひわだやま、標高305m)、北向地蔵(380m)を経由して武蔵横手駅まで、9.4Kmの山道を歩く。

 

 11:05、駅前を出発。正面に三角形の日高のシンボル「日和田山」が見える。

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 右に折れる角に、幕府の法度や覚書を記​した高札場。日高市指定文化財で、昭和60​年に復元された。

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 道端の所々に、つぼみや咲き始めの彼岸花を見かける。何を販売していたか分からなかったが「大野屋」という店の前に、黄色と白の彼岸花。黄色は台湾、白は朝鮮の彼岸花、と店の前にいた人が言う。

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 この小道は、駅から彼岸花の群生で有名な「巾着田(きんちゃくだ)」に行く道。「大野屋」の向かいに、勝海舟筆による宿老庵貫斎の「筆塚」がある。

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 この筆塚は、使い古した筆の供養のための塚ではない。この地で塾を開き、人々に学問を教えた宿老庵貫斎の遺徳を偲んで弟子たちが建立した。

 宿老庵貫斎は新井家の11代で、式台の玄関や書院造りの奥の間など格式高い居宅「大澤舎」を建てた丈右衛門定季の号である。新井家は、戦国時代末期この地に土着し、以来現在で16代を数え、江戸時代に代々名主を務めた旧家。

 天保年代に繰り返され​た天災や水難事故を鎮​めるために、この地の村人が建立​した「水天の碑」

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 再び日和田山が正面に。山頂の左下の中腹に岩場と「金刀比羅(ことひら)神社」の鳥居(​展望良し)が見える。
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 県道15号線の高麗川(こまがわ)に架かる鹿台橋を渡り、コンビニに寄って昼食のおにぎりとお茶を購入。この付近の南側に、「巾着田」がある。

 県道15号線を横断して、「巾着田」と反対側の「高麗神社」に向かう「カワセミ街道」を歩く。

 道標に従って左折するとやがて、11:32日和田山への山道の入口。

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 林の坂道を登ると広い遊歩道となる。

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 「金刀比羅神社」の一の鳥居は、コンクリート造り。

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 急坂できつい岩場のある男坂と、その名の通りの女坂の分岐。

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 女坂の方を選ぶが、女坂といっても途中に急坂や岩場もあって、楽ではない。

 岩場に立つ二の鳥居は木造。この少し上に、「金刀比羅神社」がある。

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 雨がパラパラ降り出すが、しばらくして止む。

 ここからは、南方向にある「巾着田」や日高市街、飯能市街の展望が良い。空気が澄んでいれば、東京スカイツリー、新宿副都心、富士山も望めるらしい。

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 正面の広い平地が「巾着田」。その向こうの斜面の芝生は、新武蔵丘ゴルフコース。

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 「巾着田」は、高麗川に囲まれた所にある巾着のような形をした平地。毎年9月〜10月にかけて、この河川敷にある5.5ヘクタールに群生する500万本という彼岸花(曼珠沙華)が見頃になる。日本一の彼岸花群生地として、多くの観光客で賑わう。

 「巾着田」の左(東)側、日高市梅原方面。高麗中学校、高麗小学校の校舎が見える。

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 「巾着田」の右(西)側の日高市の武蔵台団地方面。手前右に武蔵台病院、遠くに白い建物の武蔵台小、中学校。その奥の高い峰は、飯能市の「多峯主山」(とうのすやま、271m)、その右に天覧山(197m)。

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 岩場に建つ小さな社(やしろ)の「金刀比羅神社」の前を通り、急坂を登る。

 

 12:12、「日和田山」の山頂(305m)に到着し、昼食。

 山頂に建つ「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」は、1725年(享保10年)の建立。何故山頂に建てられたかは不明だそうだ。

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 山頂からは東側が開けていて、日高市街地が展望できる。中央から左手の目立った施設は太平洋セメントの工場。

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 12:23「日和田山」を出発、「高指山」向かう。

 山道から舗装道路に出ると、その先の「高指山」の山頂(標高330m)にはNTTの電波塔が見える。施設内は立入禁止となっていて、山頂には行けない。

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 舗装道路を下って行き、「駒高」というところにトイレ、休憩所と売店があった。

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 「物見山」、「北向地蔵」方面に向かう。

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 「物見山」と「北向地蔵」の分岐がある。「物見山」を経て、「北向地蔵」にも行ける。

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 13:25、「物見山」の山頂(375m)に到着。山頂にはベンチがあったりして、山名からして見晴らしが良いはずだが、杉の林に囲まれて、展望なし。

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 「北向地蔵」へ向かう。この辺りは、狭いが平坦な山道。

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 14:03、今回の行程の最高点(380m)にある「北向地蔵」に到着、参拝する。

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 ここは、埼玉県毛呂山町。

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 右に立つ案内板には次のように書いてある。

 「天明6年(西暦1,786)流行した悪疫を防ごうと、野州岩船地蔵尊より分身として譲り受け、北の方岩船地蔵尊と向かい合わせ守護神にしたと伝えられる。丁度北を向いて立っているので、北向地蔵の名で親しまれている。」

 そして、最後の2行には、

 「現在は、男女逢瀬をとりもつ縁起地蔵としても親しまれています。」

 とあるのは、何故か世俗っぽくて面白い。

 なお野州岩船は、下野(しもつけ)の国、つまり栃木県の岩舟町。現在、岩舟町は栃木市に編入されている。


 「北向地蔵」を後にし、林道を下る。

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 毛呂山町から再び日高市に入り、林道から少し沢に降りると、14:32「五常の滝」に着く。

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 「五常」は、儒教の教え。人として守るべき「仁・義・礼・智・信」の5つの徳のこと。滝の入口には、滝不動尊が祀られている。滝の落差は、約12m。今日は雨が降りそうな曇り空だが、暑い日には優しい流れと澄み切った滝壺が涼しさを与えてくれそう。

 

 15:04、西武池袋線の武蔵横手駅(埼玉県日高市)に到着。

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 高麗駅を出発して武蔵横手駅まで、休憩入れて4時間ほどの道のりだった。曇りで暑くはなかったが、いい汗をかいた。

 

 15:20、武蔵横手駅を出発、東飯能駅で乗り換えてJR川越線の川越駅(埼玉県川越市)で下車。

 川越駅東口から徒歩5分の居酒屋「さくら水産」で、16:30~18:10慰労会。

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 18:30、川越駅で解散。

 

 ★ ★ ★

  渡来人の若光は、高句麗王族の優れた人物であった。朝廷より従五位下に叙爵されたのち、「高麗王(こまのこきし)」という氏姓を賜与された。716年、武蔵の国に高麗郡が設置され、朝廷は東国から1799人の高句麗人を高麗郡に移住させた。高麗郡は、現在の日高市と飯能市辺り。そのほとんどが、未開の原野だった。

 高麗王若光が初代の首長として高麗郡に赴任。王族として先頭に立って高句麗人をまとめ、優れた大陸の知識や技術をもって新天地を開拓、道路の整備、山林の開墾、稲作・麦作、養蚕、牧畜、窯業など生活の基盤を整え産業を興し、馬の飼育や騎射術、宗教を伝来し文化を向上、民生の安定に尽くした。

 そんな若光は高麗郡民に慕われていたが、730年波乱に満ちた生涯を終え、惜しまれながら没した。若光は祭神となって、「高麗神社」に祀られた。その後、渡来人たちの高度な生活、高麗郡の繁栄と人口増加は、この地にとどまらず、開拓地を求めて武蔵野全域、関東一円に移住、広がって行ったのではないかと推察されている。

 

 まだ行ったことはないが、日高市新堀に「高麗神社」がある。近くに高麗氏一族の菩提寺「聖天院(しょうでんいん)」があり、若光の墓があるそうだ。高麗神社は、今日まで1300年にわたって、郡民の崇敬を受け続けてきた。近年では、鳩山一郎等の政治家や官界・財界、各界の人たちが参拝するようになったという。

 若光の直系子孫が代々、高麗神社の宮司を受け継ぎ、現在は高麗家60代目当主・高麗文康氏が宮司を努めているそうだ。

 高麗神社本殿が、県の重要文化財に指定されいるほか、国や市の数々の有形・無形文化財も残されている。また、高麗神社の裏手にある「高麗家住宅」は、江戸初期の重要民家として1989年(昭和64年)に国の重要文化財に指定された。

 

 西武池袋線の高麗駅で下車し、徒歩15分程のところに「巾着田」がある。巾着田は、日高市の西部、高麗本郷を流れる大きく湾曲した高麗川に囲まれた所にある。8世紀、この付近に移り住んだ高句麗からの渡来人が、この地を開墾して田を作り、稲作を伝えたという。

 現在は、「巾着田曼珠沙華公園」となっている。直径約500メートル、面積約22ヘクタールの川に囲まれた平地には、菜の花、コスモスなどの花々が咲く。中でも秋の彼岸花(曼珠沙華)の群生は、辺り一面が真紅に染めるという。

 西武鉄道のパンフレットから引用(ダブルクリックで拡大表示)。

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 渡来人たちは、二度と帰れない遠い朝鮮半島に想いを馳せながら、未開の地であった高麗郡の開拓にいそしんだ。赤いじゅうたんを敷き詰めたような彼岸花の光景は、古代日本の歴史ロマンを感じさせてくれるに違いない。


 

2015年9月 5日 (土)

甲斐駒ヶ岳-その3

 2015年8月22日(土)~24日(月)、2泊3日の甲斐駒ヶ岳山行。

 本ブログの記事「甲斐駒ヶ岳-その2」の続き。

 

 8月24日(月)、長野県伊那市の「仙流荘」にて6:00頃起床。朝風呂に入り。朝食7:00~。

 筋肉痛はあるが、温泉に入って、ぐっすり寝たせいか、疲れはだいぶ取れた。

 

 伊那地方にある美術館、博物館を事前に調べたが、伊那市高遠町の「信州高遠美術館」と「高遠町歴史博物館」、上伊那郡辰野町の「辰野美術館」と「世界昆虫館」など、すべて休館日。「伊那市民俗資料館」(伊那市高遠町)と「登内時計記念博物館」(伊那市西箕輪)は開館してそうだが、ここからちょっと遠くて44Km離れた木曽の「奈良井宿」を観光することにする。

 

 8:05、仙流荘を出発。

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 国道152号を北上、伊那市高遠町から国道361号へ、長い「権兵衛トンネル」を抜けて、木曽谷の国道19号を北上する。

 

 愛嬌のある名前の付いた「権兵衛トンネル」は、「権兵衛峠」(経ヶ岳林道)に代わって木曽山脈を貫き、伊那と木曽とを結ぶ全長約4.5Kmのトンネル。

 写真は、クリエイティブ・コモンズ:ウィキペディア「権兵衛トンネル」に掲載の「国道361号権兵衛トンネル - 木曽口(塩尻市)206年6月撮影」から引用。

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 権兵衛峠は、長野県塩尻市(旧木曽郡楢川村)と長野県上伊那郡南箕輪村(飛地)の境にある標高1,530mの峠。木曽山脈の北部にある「経ヶ岳」(標高2,296m)と「木曽駒ヶ岳」(標高2,956m)の鞍部に位置する。冬季には閉鎖、落石などでたびたび通行止めとなり、道幅が狭く車のすれ違いも難しかった。1993年にトンネル工事が開始されたが、難工事の末に開通したのは2006年2月。所要時間は、従来の3分の1、30分に短縮された。

 その昔この峠は、やっと人だけが行き来し、牛馬の往来が不可能な険しい峠道であった。17世紀後半、木曽谷に住み牛を使った物資輸送をしていた古畑権兵衛が、この峠道の開発を呼びかけ、1696年(元禄9年)新しい峠道を完成させた。これにより伊那から大量の米が木曽へ運ばれ、木曽からは漆器などが伊那へ運ばれるようになった。そしていつしか、この峠は「権兵衛峠」、峠を経由して伊那と木曽を結ぶ街道は「権兵衛街道」と呼ばれたという。

 

 9:25、道の駅「奈良井宿木曽の大橋」に到着。道の駅にある檜つくりの太鼓橋「木曽の大橋」を渡る。

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 橋を渡ると広々とした芝生の公園があり、線路下の小さいトンネルをくぐると、JR中央線奈良井駅がある。このあたりは、江戸と京を結ぶ旧中山道の木曽路の中で、一番賑わった宿場町。町並みは南に延長約1kmにおよぶ。

 奈良井宿は、長野県塩尻市にあるが、以前は木曽郡楢川村であった。2005年、楢川村は塩尻市に編入。村内を走る国道19号(旧中山道)沿いの宿場として、「奈良井宿」のほか「贄川(にえかわ)宿」がある。

 奈良井駅から、南へ京の方向に向かって町並みを散策する。平日のまだ朝早い時間のせいか、観光客は少ない。

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 本陣跡はここの建物とは違うが、「本陣跡」の標識の右側にある駐車場にあったようだ。

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 奈良井宿は2014年9月29日に行ったことがあって、10月 2日に本ブログ記事「赤そばの里と奈良井宿」を公開した。

 http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-a79f.html

 

 今回は特に、「明治天皇行在所」の石碑が建つ「上問屋史料館(手塚家住宅)」に入館(300円)する。

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 この建物の手塚家は、1602年(慶長7年)から明治維新に宿場制度が廃止されるまでのおよそ270年間、奈良井宿の「問屋(といや)」を務めてきた。問屋とは、幕府役人や諸大名、その他の旅行者のために、幕府が定めた一定数の伝馬(てんま、宿駅用の馬)と人足を管理・運営する仕事で、手塚家は天保年間から庄屋も兼務した。問屋の下には数人の年寄役がいて、問屋を補佐していたという。

 現在の建物は、1840年(天保11年)の建築。国の重要文化財に指定。江戸の宿図などの古文書や日常生活の陶器、漆器など400点余りの諸道具を展示してある。

 簾(すだれ)の先は、吹き抜けになっている坪庭。右手のガラスケースの中に展示品の一部がある。

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 釘をあまり使わない江戸時代の造りで、黒光りしていて所々に鉋(カンナ)を使わない「ちょうな削り」という荒削りの木材が、目につく。

 土間と囲炉裏のある部屋。

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 部屋や廊下に、古文書やアンティークな道具類など、貴重な資料が並ぶ。掛け軸、屏風、額などが多いが、どんなお宝だろうか。山岡鉄舟の書はどれだか、確認出来なかった。

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 掛け軸の左下の黒い置時計は、明治時代に尾州徳川家・当主徳川義親氏から贈られたという。

 下は、「会所」と呼ばれた部屋で、宿役人(問屋と年寄りなど)が詰めていた。

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 2階の2部屋。箱階段と普通の階段の2か所から昇れる。

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 1880年(明治13年) 明治天皇が巡幸の際の行在所(あんざいしょ、天皇が外出した時の仮の御所)となり、ここで休まれご昼食を召しあがったそうだ。

 その部屋は1階の一番奥の上段の間(廊下より一段高くなっている座敷)で、当時のままに保存されている。8畳くらいか、意外に狭い部屋で驚く。

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 上問屋を出て、再び散策。街道の 「鍵の手」には、石碑が建つ。

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 奈良井宿の町並みの中には、「鍵の手」というクランク状の道路がある。城下町によくある枡形と同じ構造で、敵の軍勢の直進と見通しを防ぐ町の防御構造。この鍵の手は上町(京側)と中町の境となっていて、水場があり、庚申塔、荒沢不動尊、道祖神などが祀られている。

 11時過ぎ、だんだん観光客が増えてきた。

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 木曽は江戸時代から木曽ヒノキを使った漆器が名産で、今でも漆器の専門店が多い。

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 木曽は、信州でも古くからのそば処だという。奈良井駅に戻り、近くの手打ちそばの店「楽々亭」のとろろそば(950円)で昼食。

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 12:05、奈良井宿を出る。

 国道19号を北上して、塩尻市街から長野道の塩尻インターへ、岡谷ジャンクションを経て、中央道の東京方面へと向かう。16:10頃自宅着。

 

 

 ★ ★ ★
   
 前日の甲斐駒ヶ岳登山では、仙水峠から駒津峰の間で、北岳、間ノ岳、鳳凰三山など南アルプスの峰々が眺望でき、感激した。ただ仙丈ケ岳山頂には終始雲がかかっており、また駒ヶ岳山頂からの360度の展望は、周りの雲で全く無くて残念であった。

 山小屋~山頂~北沢峠は、十分余裕を持ったスケジュールで、休憩含み9時間30分の予定にしていた。しかしゆっくりし過ぎて、11時間もかかてしまった。 特に駒津峰~山頂往復が、予定に対して1時間半のオーバー。駒津峰からのアップダウンが激しく、ロープも鎖もない岩場の上り下りなど、予想より厳しいコースだった。2万5千分の1の地図で、アップダウンが読み取れなかったのと、標準コースタイムが実態よりも過少な気がする。山小屋を1時間早めに出発できたのと、下山時のリカバリーで、何とか林道バスにの臨時便に合った。

 最近に無いハードな山だったが、全員が無事下山でき、また今回の山行に協力してくれたメンバーに感謝したい。

 

 友人から聞くと、28年前に甲斐駒ケ岳と仙丈ヶ岳に、5、6人と一緒に登っていた。

 彼の登山記録によると、1987年7月29日夜マイカーで出発、山梨県側の広河原に車を停めて仮眠。当時は、車中泊も平気でよくやっていた。翌30日早朝、林道バスで北沢峠へ。「北沢長衛荘」(現・北沢峠こもれび荘)前のキャンプ場にテントを張り、甲斐駒ヶ岳に向け朝10時出発、14時35分山頂、テント場に戻ったのが17時半だった。

 往復7時間半で、コースは今回と逆。下山した夜は、持参した肉をフライパンで焼いて、テントの前で贅沢なステーキパ-ティだったのを憶えている。翌日31日は、標高3,033mの仙丈ヶ岳に登った。下山後は、山梨県内の温泉に泊まり、8月1日に帰着した。

 車中泊、テント泊、帰りの旅館泊の3泊4日で、3,000m近い2つの山を征したが、あの頃は若くて元気で、体力もあった。

2015年9月 3日 (木)

甲斐駒ヶ岳-その2

 2015年8月22日(土)~24日(月)、2泊3日の甲斐駒ヶ岳山行。

 本ブログの記事「甲斐駒ヶ岳-その1」の続き。

 

 8月23日(日)午前3:00、仙水小屋のスタッフから起こされる。気持ち良く起きられたので、睡眠時間は十分。

 宿泊者全員は母屋に集まり、3:30~朝食。昨日の夕食の時と同じ弁当型の食器だ。朝食の写真は、撮り忘れた。

 

 まだ夜が明けない4:30、ヘッドランプを点け予定より1時間早く、山小屋を出発。

 樹林帯を抜け、大きな石のガレ場(岩塊斜面)の裾を行くころは、空が白みかける。(写真は4:50頃)

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 5:10、岩がゴロゴロした仙水峠(標高2264m)に着くころには、すっかり明るくなっている。

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 5:15頃が日の出だが、周りは濃い霧に囲まれ、太陽はどこにあるか全く見えない。霧が薄くなって見上げると、間近に見える「摩利支天(まりしてん)」の迫力に圧倒される。

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 摩利支天は、甲斐駒ヶ岳と対をなし、山頂の南東に位置する花崗岩の岩峰、標高2,820m。

 15分ほど仙水峠で休憩。ここで、朝食の弁当をとる登山者も多い。

 再び樹林の中を急登、高度を上げる。

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 陽が射してきて、見晴らしの良いところで後ろ振り返ると、雲上に「鳳凰三山」のうちの「地蔵岳」(2,764m)とオベリスクと呼ばれる尖った岩塔がくっきり見える。

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 6:30頃、朝日を浴びた白い三角錐の甲斐駒ヶ岳とその右手に摩利支天が姿を現す。

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 眼下には、昨日通って来た長衛小屋そばにあったキャンプ場、カラフルなテント群が雲間から見える。

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 南アルプスの巨峰、富士山に次ぐ標高の「北岳」(3,193m)の美しい三角形の雄姿を眺望、感激の歓声をあげる。その後方は、第3位の「間ノ岳」(あいのだけ、3,190m)。

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 やがて樹林が切れ、ハイマツの尾根道が続く。駒津峰まで、相変わらず急登は続く。

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 甲斐駒ヶ岳の南西方向にある「仙丈ケ岳」(標高3,033m)が姿を出しかける。しかし山頂には雲がかかっていて、この後はまた雲に隠れてしまった。

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 7:35、駒津峰に到着。ここは甲斐駒ヶ岳の六合目、標高2,752m。休憩17分。写真左手(北西方向)に「鋸岳」(のこぎりだけ、2,685m)。

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 駒津峰から見える、甲斐駒の白い岩石と白い砂の頂きは、いかにも神々しい。

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 荒々しい岩石の山頂を望遠撮影。

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 駒津峰から岩場のやせ尾根の急坂を一旦下る。

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 更に登ってまた下る。

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 鞍部には、巨大岩石「六方石」がある。ここからまた岩場の急登が始まる。

 途中、岩にペンキで「直」(直進)と「マキ」(巻き道)の文字がある。コースが分かれ、直進は岩稜直登の尾根通しで上級者向け。右の巻き道を行く。

 後ろを振り返ると、鞍部にあった「六方石」が見える。

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 前方を見上げると、ここは白い岩石だらけの山頂の直下。

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 山頂まで、滑りそうな白砂の急斜面と鎖の無い岩場を息を切らしながら、ゆっくりと登る。

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 右手に摩利支天を見ながら登る。

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 10:10、甲斐駒ヶ岳の山頂(標高2,967m)に到着。

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 山頂は意外と広く、大きな石の祠と一等三角点がある。山頂は晴れているが、周りは一面の雲が出て来て、眺望は全くない。早めの昼食と休憩で40分、ちょっと長く居過ぎた。

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 祠は石造で、正面には格子扉、わらじが掛けられ、「皇紀二千六百年記念」の文字が見える。隣に「大己貴命」と書かれた石柱があり、周囲にも様々な石碑、石仏など建てられている。

 甲斐駒ケ岳山頂の本宮(奥宮)に対して前宮(里宮)は、2ヶ所あるそうだ。甲斐駒ケ岳への山梨県側西麓の登山口、北杜市竹宇(ちくう)地区と横手地区にそれぞれの「駒ケ嶽神社」が鎮座。南アルプス林道が出来る前はこの登山口からがメインの登山コースで、その黒戸尾根には信仰にまつわる石仏や石碑がいくつも残っているそうだ。

 下山コースの双児山を経由する尾根道を見下ろす。

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 10:50、下山開始。

 山頂から直下5分ほどの東峰(2,966m)に寄り道してみる。人影のないそこには、様々な石碑や石仏が建てられている。岩陰には山頂(西峰)ほど立派ではないが、小さい白い祠もあり、「大己貴命」と「駒ケ嶽神社本社」(の石柱と鉄剣が立っていた。ここが横手駒ケ嶽神社の本宮(奥宮)か。そうすると、山頂(西峰)は、竹宇駒ケ嶽神社の本宮(奥宮)か。

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 摩利支天の峰にも、石仏と石碑、小さな祠が建っていて、摩利支天を祀ってあるらしい。

 早めに下山したメンバーの一人が、摩利支天に寄り道しようとするが、時間がかかり途中あきらめて引き返す。

 

 12:40、駒津峰で休憩10分。だいぶ予定のスケジュールよりも遅れている。帰りの林道バスに間に合うか、下山を急ぐ。駒津峰から尾根通しに、双児山を経由するコースで下る。

 ハイマツが生えた急な下りは、砕石のガレ場。

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 やがて樹林の中の急な登山道となる。アップダウンがあって、13:40双児山(2,649m)で休憩5分、再び樹林の中、ジグザグの登山道が延々と続く。

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 15:00発の林道バスの発車クラクションが聞こえる。北沢峠はすぐ近くと思われるが、なかなか着かない。

 脚、膝の痛みはないが、疲労もそろそろ限界。林道バスの16:00発の最終便に間に合うか心配になる。

 

 15:30、北沢峠にやっとのことで無事到着。

 すでに10数人ほどの登山者がバスのりばに並んでいる。行きに買ってあった往復乗車券を利用し、臨時バスに乗り込む。定員しか乗せないので全員座れるが、かさばる重いザックもあって座席は窮屈。

 15:38、臨時便が出発。最終便は16:00発だが、この後も続々と登山者が下山して来ていたので、臨時便が増発されていたようだ。16:18 、約40分で仙流荘バスのりばに到着。

 

 16:30、「仙流荘」にチェックイン。すぐに温泉に入り、2日分の汗を流し、疲れを癒す。

 18:00~夕食、下山祝いに生ビールで乾杯。飲みながら登山の反省を語り合う。

 新館和室2室に分宿。疲れで、夜9時頃には寝てしまう。

 

 

 ★ ★ ★

 「駒ヶ岳」という山は、全国に18座もあるそうだ。その中で、甲斐の駒ヶ岳が最高峰で2,967m。木曽の駒ヶ岳がこれに続き、2,956 m。甲斐駒ヶ岳と木曽駒ヶ岳に挟まれる長野県伊那谷周辺の人々は、甲斐駒ヶ岳を「東駒ヶ岳」、木曽駒ヶ岳を「西駒ヶ岳」と呼ぶ。

 甲斐駒ヶ岳は花崗岩で出来ていて、山肌が夏でも白く見えることから、古くから名山として讃えられ、また信仰の対象ともなっている。

 甲斐駒ヶ岳の本宮(本社、または奥宮)には、「大己貴大神」(おおなむちのおおかみ、大国主命(おおくにぬしのみこと)のこと)と「駒室大神」が、摩利支天の峰には「摩利支天」が、そのほか烏帽子岳(2,594m)、黒戸尾根にある黒戸山(2,245m)などにも様々な神や仏が、神仏習合(神仏混交)で祀られているらしい。

 「摩利支天」とは、仏教の守護神である天部の一つで、陽炎(かげろう)や日の光を神格化したものだそうだ。天部には、摩利支天のほかに梵天、帝釈天、四天王、弁財天、大黒天、吉祥天、韋駄天、歓喜天、金剛力士、鬼子母神、十二神将などなどがある。

 摩利支天は、常に身を隠し、護身・得財・勝利などをつかさどるとか、念じればすべての災厄を免れることができるとされる。中世、日蓮は行者守護の神として崇敬し、武士の間でも武士の守護神として信仰された。江戸時代には蓄財や福徳の神として大黒天や弁才天とともに人気があったという。

 日本の山岳信仰の対象となった山では、その一峰が摩利支天と呼ばれているところがある。ほかに、「木曽御嶽山」(摩利支天山)、「乗鞍岳」(摩利支天岳)がある。

 

 深田久弥氏も、甲斐駒ヶ岳の品格ある山容を讃えている。

 以下、登山愛好家のバイブルである氏の著書『日本百名山』(1964年、新潮社から刊行)から、その名文を引用する。

 「日本アルプスで一番代表的なビラミッドは、と問われたら、私は真っ先にこの駒ヶ岳をあげよう。その金字塔の本領は、八ヶ岳や霧ヶ峰や北アルプスから望んだ時、いよいよ発揮される。南アルプスの巨峰群が重畳(ちょうじょう)している中に、この端正な三角錐(すい)はその仲間から少し離れて、はなはだ個性的な姿勢で立っている。まさしく毅然(きぜん)という形容に値する威と品(ひん)をそなえた山容である。」

 「日本アルプスで一番奇麗な頂上は、と訊かれても、やはり私は甲斐駒をあげよう。眺望の豊かなことは言うまでもないとして、花崗岩(かこうがん)の白砂を敷きつめた頂上の美しさを推したいのである。・・・・」

 

 深田久弥氏については、

 2014年9月公開の本ブログ記事「茅ヶ岳と深田久弥」に掲載。
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-f5ef.html

 

 この後は、本ブログ記事「甲斐駒ヶ岳-その3」に続く。

2015年9月 1日 (火)

甲斐駒ヶ岳-その1

 2015年8月22日(土)~24日(月)、2泊3日の「甲斐駒ヶ岳」山行。

 

 「甲斐駒ヶ岳」は、南アルプス北端の山梨県北杜市と長野県伊那市にまたがる標高2,967mの山。南アルプスの中でも珍しいピラミッド形の峻険な山容で、花崗岩の白砂を敷き詰めた山肌が美しく、日本アルプス屈指の名峰。日本百名山。

 一泊目は登山口から徒歩45分の「仙水小屋」。翌日早朝から山頂を目指す。下山後、伊那市の南アルプスの玄関口「仙流荘」の温泉でゆっくり体を休め、三日目は観光して帰宅予定。

 

 8月22日(土)、6人を乗せたワゴン車は、6:40出発。夏休みの土曜日とあって、高速道路もサービスエリアも混み合っている。空いてそうなパーキングエリアを見つけて休憩、長野県伊那市へ向かう。

  途中渋滞に巻き込まれて、予定のスケジュールを30分ほどオーバー。10:05、中央道伊那インターで降り、国道361号から伊那市街、伊奈市高遠(たかとう)を経て、国道152号で伊那市長谷(はせ)方面へ。

 2006年(平成18年)、伊那市は高遠町、長谷村と合併し、新しい伊那市となった。

 

 伊那市長谷に入り、10:45美和湖(ダム湖)のほとりにある「長谷アルプスフォトギャラリー」に立ち寄る(入館料100円)。写真家・津野祐次氏の展示写真を鑑賞。

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 津野氏は、1946年長野県駒ヶ根市に生まれ。山岳写真家としてカメラ雑誌や山岳雑誌などに多くの作品を発表。1992年から「長谷アルプスフォトギャラリー」に常設展示している。

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 昨年9月27日、氏は登り慣れた木曽「御嶽山(おんたけさん)」の突然の噴火に山頂付近で遭遇、生還したという経験を持つそうだ。

 ギャラリーには、南アルプス開拓に半生を捧げた「竹沢長衛翁の足跡」のコーナーがあり、翁の写真や遺品など展示されていた。

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 竹沢長衛(ちょうえい、1889~1958年)は、伊那市長谷の出身で、山で暮らす猟師(マタギ)であった。次第に南アルプス北部の山中に足を踏み入れ、登山者と自らのため登山道を切り開き、山小屋を整備、案内人組合を結成、遭難救助にあたるなど登山者のために尽力した。

 

 フォトギャラリーを出て、更に国道152号を南下、三峰橋の手前で左折して黒川に沿ってその上流へ上る。11:15、翌日宿泊予定の「仙流荘」に到着。

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 仙流荘前の河原にある無料駐車場(350台収容)に車を駐める。仙流荘の休憩室で昼食。冷やし中華700円。車に戻って、登山の装備。

 隣接するバスのりばで登山届けを投函し、北沢峠行きの南アルプス林道バスを待つ。手回り品(ザック)含む往復運賃は、2,680円。

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 予定していた12:30発の臨時便に乗車。中型のバスは、奥深く狭い南アルプス林道を走る。携帯電話は、やがて圏外になる。

 南アルプス林道は、過去「南アルプススーパー林道」と呼ばれ、山梨県芦安村(現南アルプス市)から広河原を経て南アルプスを横断、県境の北沢峠を通り、長野県長谷村(現伊那市)に至る道路。観光などの地元振興を目的に加えたこのスーパー林道構想は、自然破壊との批判や反対運動の紆余曲折を経て、1979年に全面開通した。開通後は、山梨県と長野県がそれぞれの林道として管理し、マイカー規制により一般車両の通行が禁止されている。運転手の話だと、昔は麓から北沢峠まで8時間もかけて歩き、峠で1泊してから登山をしていたそうだ。

 

 バスは、約50分ほどかけ、12:20北沢峠に到着。

 バスのりばは、我々が来た長野県側からの南アルプス林道バス(写真下)と、山梨県側の南アルプス市営バスの2か所がある。

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 北沢峠は標高2030m。「甲斐駒ヶ岳」、「仙丈ヶ岳」の登山口である。しゃれたホテルのような外観の「こもれび山荘」(旧長衛荘、写真下)や公衆トイレがある。

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 千丈ヶ岳、双児山、北沢駒仙小屋(現・長衛小屋)方面への分岐の標識があった。

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 13:30、ここから甲斐駒ヶ岳に向けて登山開始。登りは仙水峠経由し、帰りは双児山経由とする。 まずは「北沢駒仙小屋」の方向に進む。天気は、時々陽が射す曇り。

 林道を進み北沢に下りると、竹沢長衛が最初に建てた「長衛小屋」(旧・北沢駒仙小屋)がある。

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 小屋の近くの岩場に竹沢長衛の業績を顕彰するレリーフが貼り付けてあるそうだが、確認できず。

 すぐ南側に広いキャンプ地(テント100張り設置可能)があった。

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 1987年の夏、ここにテントを張って拠点とし、甲斐駒ヶ岳と仙丈ケ岳を往復したことを思い出す。


  北沢沿いにゆるい登りを行くと、13:55下山中の知り合いのパーティ6人と遭遇。彼らは、双児山経由で駒津峰まで行ったが、霧のため甲斐駒ヶ岳登頂はあきらめたそうだ。

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 やがて林の中の急な登山道をしばらく登ると、14:30宿泊先の「仙水小屋」に到着。ここは、北沢峠の東方、仙水峠の西方にあり、標高2130m。

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 仙水小屋の敷地の入口にはロープが張ってあり、宿泊者以外は入ることが出来ず、休憩場所とトイレは使わせないようにしている。

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 収容30人のこじんまりした小屋で、1泊2食7,000円。

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 我々6人は、奥の方にある2階建ての建物の1階に案内される。

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 そこは、定員8人の部屋。部屋の手前に3人(写真下)、奥側に5人の布団を敷きザックを置くと窮屈かと思ったが、山小屋にしては意外とゆったりしている。

 部屋の中ももちろん、屋外にあるトイレも、清潔で快適。トイレは水洗式で、便器を沢の水が常時流れている。

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 しばらくして男性2人のグループが入って来て、相部屋になる。

 夕食は16:30~、宿泊者全員が屋外の木のテーブルで頂く。

 ここは山小屋にはめずらしい刺身が出るので有名だという。まず缶ビール350m㍑(500円)で、乾杯。ご飯のお替り自由、デザートの果物もある。食後には、食べ終わったご飯茶碗でお茶をもらう。なるほど、お茶用の茶碗がいらないし、洗う時ご飯粒も落ちやすい。

 山小屋のスタッフは3人らしくて、食器洗いを出来るだけ省くためか、食器の数が少ない。

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 この小屋は、19:00消灯とのこと。

 テレビも何もなく、持って来たわずかな焼酎をみんなで分けて飲む。雑談以外にすることもなく、翌朝の準備をして、酔いに任せて布団に入る。

 19:00ちょうど、本当に部屋の照明が消灯した。日常生活でこんなに早く寝ることは、ほとんどない。真夜中に2、3回か目を覚ましたが、うつらうつらで十分睡眠は取れただろうか、不安になる。

 

 この後は、本ブログ記事「甲斐駒ヶ岳-その2」に続く。

 

 

 

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