尚仁沢湧水と足尾銅山
2015年8月2日(日)、栃木県の塩谷町「尚仁沢湧水」と日光市「足尾銅山」に行く。
早朝5:00、出発。
栃木県宇都宮市内にある上河内スマート・インターチェンジで東北自動車道を降り、県道63号線を北上する。鬼怒川に架かる上平橋を渡ると塩谷町に入る。放射性物質が付着した指定廃棄物の「最終処分場反対」の看板やのぼり旗が道路わきに並ぶ。
矢板市と塩谷町の境界にある尚仁沢(しょうじんさわ)湧水に7:20着。すでに、アマチュアカメラマンや観光客が来ている。
栃木県北部の「釈迦ヶ岳」(1,795m)等の火山群がある「高原山系」の中腹、標高590mに「尚仁沢湧水」はある。付近一帯は、樹齢数百年にも及ぶうっそうとした原生林に覆われている。
昭和60年、環境省選定「全国名水百選」に認定された名水。高原山系への降水が、広葉樹林の土壌と火山灰や軽石が堆積してできた火山地層で、長年かけて濾過され、再び地上に湧き出したもの。清らかな湧水は、日量65,000トンで、全国有数の水量を誇る。
十数カ所の湧水群から湧き出る澄み切った湧水は、四季を通じて水温が11℃前後と一定、冬でも渇水や凍結することがない。
冷たい湧水は沢となり、川面から水蒸気が湧き出し霧となって、木漏れ日が光のカーテンを作りだす幻想的な風景。
約2時間半後の9:55、尚仁沢湧水を後にする。
9:05、東荒川ダム湖のそばにある塩谷町の農産物や土産、軽食の施設「尚仁沢はーとらんど」で休憩。ここには今年2月に来た。
隣接の「尚仁沢名水パーク」(東荒川ダム公園)には、相変わらず湧水を求めて県内外に人たちが水汲みに訪れている。
県道63号を南下、玉入の交差点を右折し、国道461号線を西へ日光方面へ向かう。
9:40、道の駅「湧水の郷しおや」で休憩。
日光市の中心街を通り、国道122号線を南下、日光市足尾町に行く。
11:00、日光市の足尾庁舎の駐車場着。
旧足尾町は、渡良瀬川の最上流、栃木県西部にあった町。江戸幕府直轄の鉱山として開発が始まった「足尾銅山」で有名。銅山全盛の大正時代初期には、県内では宇都宮に次ぐ4万人近い人口を抱え、「日本一の鉱都」として栄え、日本の殖産興業と近代化を支えてきた。「足尾鉱毒事件」として知られた環境問題、暗い坑道の中で酸欠や崩落事故と隣り合わせの過酷な労働、朝鮮人・中国人の強制労働など、負の歴史的側面も併せ持つ。
1973年(昭和48年)の銅山閉山後は、過疎化が著しい。2006年に旧日光市や周辺自治体と合併し、新しい日光市の一部となった。
日光市の足尾庁舎のすぐ近くには、「足尾銅山観光」の入口があった。
「足尾銅山観光」は、閉山した足尾銅山の坑内を観光できる施設。トロッコ電車に乗って全長700メートルのうす暗い坑道に入っていくと、当時の鉱石採掘の様子が年代ごとに人形で再現されているそうだ。
併設の「銅(あかがね)資料館」には、鉱石の見本や選鉱・製錬の過程、選鉱所・製錬所のジオラマ模型などが展示され、操業当時の様子や足尾銅山の歴史や役割を学ぶことができるという。時間の都合で入場せず。入場料は大人820円。
足尾町を流れる渡良瀬川に架かる「通洞大橋」。
近くの「わたらせ渓谷鉄道」の通洞駅舎。
ここから、国道122号線を2Kmほど南下して右折、渡良瀬川の支流である庚申川に沿って北上すると、足尾銅山の三大坑道の一つだった「小滝坑」とその周辺の施設跡がある。
石垣やわずかに残された建物跡など、車窓からいくつか垣間見えたが、残念ながら撮影する余裕がなかった。
製錬所、選鉱所の跡地。樹木や土砂に覆われて当時の面影はないが、レンガの跡が残る。
製錬所、選鉱所の跡地の道向かいの広場に、「ここに小滝の里あり」の石碑。
石碑は、小滝で育ち暮らした方々が、1986年(昭和61年)に小滝を偲んで建てた。小滝応援歌や小滝小学校校歌(なんと作曲は山田耕作)の歌碑もある。小滝坑の周辺の渓谷沿いの狭い土地には、鉱山施設のほか坑夫社宅、浴場、小学校、病院、料理屋、芸妓屋などが立ち並び、1916年(大正5年)の最盛期は1万人余りが住んでいたという。1954年(昭和29年)に閉坑され、その後施設は撤収、廃墟となった。
銀山平公園。近くに足尾温泉「庚申の湯」や国民宿舎「かじか荘」がある。
この場所は、1891年(明治24年)に銀が採掘されたので、銀山と呼ばれていたところで、のちに東洋一の製材所が開設、足尾銅山の用材の一大基地だった。現在は銀山平公園として、バンガローや貸しテントのあるキャンプ場となっている。
銀山平公園にある「中国人殉難烈士慰霊塔」。
小滝地区の入口付近にあった「朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑」に比べると立派。太平洋戦争末期、中国から強制連行されて来た257名が、足尾銅山の労働に従事し109名が殉難したという。
国道122号線を更に南下、群馬県みどり市に入って草木湖、花輪駅を経て、13:00過ぎ桐生市の道の駅「くろほね・やまびこ」で遅い昼食。
15:30頃、帰着。
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福島第一原発の事故に伴い、環境省は放出された放射性セシウムが付着した焼却灰、稲わら、下水汚泥などの「指定廃棄物」は、発生した県内において処理することとし、宮城、茨城、栃木、群馬、千葉の各県において、それぞれ最終処分場を設置するとしている。
2014年(平成26年)7月、環境庁は栃木県の指定廃棄物処分場の調査候補地に、塩谷町にある国有地を提示した。塩谷町、町議会と住民の反対同盟は、環境省に対し白紙撤回を求めている。理由は、候補地が尚仁沢湧水に隣接していて、不適切であるとしている。
塩谷町の放射性物質指定廃棄物の最終処分場問題についての関連記事は、
2015年2月のブログ記事「栃木県北部の冬景色」を参照。
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-81a2.html
今年2月に来た時よりも、反対を表明する看板やのぼり旗の数が多くなっていた。2月以降のこの問題の経過は、次の通りである。
6月、塩谷町は環境省への抗議文を送付した。文書では、望月環境大臣が県内処理を見直さない方針を表明した事を批判、各県ごとに最終処分場を設置することを定めた放射性物質汚染対処特措法の見直しを求め、放射能をこれ以上拡散しないよう訴えている。
同月、環境省による住民説明会開催の要請に対して、塩谷町は国の要請を拒否した。
反対同盟では、抗議活動、広報活動、学習会などの活動を継続している。
この問題の国と自治体・住民との争いの決着の道筋は、まだまだ見えない。
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16世紀中に採掘が始められてから400年という歴史を経て廃墟となった足尾銅山は、当時の最先端産業の隆盛を誇り、日本の近代化を支えた華々しさの一方で、排煙・鉱毒ガス・鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらした公害問題、過酷で危険な鉱夫たちの低賃金労働、そして労働者の不満が爆発した足尾暴動事件、中国人・朝鮮人強制連行など、悲しい歴史が凝縮されている。
足尾銅山のキーとなる人物に、古川市兵衛と田中正造がいる。古川は、新技術を導入し近代化を図って足尾銅山を開発、日本の鉱山王と呼ばれ、古河財閥の創業者である。一方田中は、衆議院議員、自由民権家で農民運動、足尾銅山の反公害運動で知られている。
なお、2005年から旧足尾町(現日光市)は、足尾銅山の世界遺産登録をめざした取り組みを進めている。足尾銅山は、「日本の近代化・産業化と公害対策の起点」と位置づけ、「日本の急速な産業化の歴史の反映であると同時に、日本で初めて社会問題化した公害とその対策の歴史でもあり、それは同時期の先進諸国に共通する大きな課題への挑戦でもあった。」と提案書に記載している。
2015年世界遺産リストに、「明治日本の産業革命遺産」が登録された。幕末~明治までに急速な発展をとげた炭鉱、鉄鋼業、造船業に関する文化遺産で九州や山口・岩手・静岡の8県に点在する。問題のある松下村塾や山口県の遺産が多く含まれ、安倍首相の肝いりで推進した。登録にあたって、韓国側からこれらの遺産の中で強制労働が行われたとして外交問題となった。強制連行、強制労働の事実については、異論や諸説あるが、少なくともそれに近いことは行われている。
足尾銅山でも同様で、過酷な労働、強制連行、強制労働については提案書には触れられていないようだ。日本人にとっての遺産には、歴史の光の部分と影の部分がある。影の側面も隠すことなく認めて、後世に伝えて行くべきである。
足尾銅山の産業遺産は、短い時間でほんの一部を垣間見たが、また別の機会にゆっくり巡ってみたい。
足尾鉱毒事件についての関連記事は、
2014年3月のブログ記事「渡良瀬遊水地」を参照。
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-6b27.html
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