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2015年5月25日 (月)

仙台・石巻の旅-その1

 2015年5月16日(土)~18日(月)、2泊3日の仙台・石巻の旅。
 

 伊達正宗と支倉常長(はせくら・つねなが)ゆかりの地を行く、宮城復興支援の旅。

 1日目は仙台市内を巡り、特に伊達政宗、仙台藩や支倉常長の歴史を探訪。旅の一行は、総勢9人。

 
 新幹線「やまびこ133号」は、12:04仙台駅に到着。関東、東北地方は午前中雨だったが、昼前には青空が出て、気温19度。半袖シャツで十分、風がさわやかで気持ち良い。

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 駅西口からすぐの宿泊先「ホテルモントレ」(仙台市青葉区中央4丁目)に行き、荷物を預ける。駅にもどり、東口から楽天イーグルスのグッズショップ前を通り、予約してあった牛たん専門店へ向かう。

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●牛たん

 牛たんは、仙台の定番グルメ。仙台市内には20店舗以上の牛たん専門の店が構える。

 12:45、駅東口から徒歩5分ほどの牛たん炭焼「利久」東口本店(仙台市宮城野区榴岡4丁目)に入る。

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 牛たん定食は、牛たん焼き、麦飯とテール(牛の尾)スープのセットが基本。麦飯は、あっさりして牛たんと相性が良いとのこと。とろろとミニサラダが付いたヘルシーセットが1,200円(税抜き)。まず、生ビールで喉を潤す。

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 仙台駅西口前で、仙台在住の旧友と合流、合計10人のツアーとなった。

 循環バス「るーぷる仙台」は、仙台駅西口前バスプールのりばを起点に、仙台市内の観光スポットを約70分で巡る。1日乗車券620円。

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 13:45、バスに乗車。メインストリートの「青葉通り」を通って行くが、交差する通りでは時々お囃子や歓声が聞こえ、車窓からチラッと踊りの行列が見える。

 仙台三大祭の一つ「青葉まつり」の本まつりは、明日17日(日)だ。約4,000人の壮大な時代絵巻のパレードが市内を巡行するらしい。今日は、その前日の「宵まつり」の日。あちこちの広場や通りで行われる「すずめ踊り」の演舞に、市民数千人が参加する。

 バスの中で、テープによる観光案内を聞きながら、約20分後に博物館・国際センター前に到着、下車。

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 すぐ先の仙台城跡(青葉山公園)の中を散策しながら、博物館に向かう。午前中の雨に打たれた新緑が清々しい。

●仙台市博物館

 14:15、仙台城三の丸跡にある「仙台市博物館」(仙台市青葉区川内)に入館(400円)。

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 ガイドの案内で、支倉常長の偉業と伊達政宗、仙台藩の歴史を中心に「常設展」を観覧する。ガイドの話では、特別展開催中のため、常設会場が縮小されていて、常設の展示品は少なくなっているとのこと。

 支倉常長の展示品を見る。

 右のロザリオを持つ「支倉常長像」は、日本人が描かれた最古の油絵。左は、常長が拝謁したローマ教皇パウロ5世の肖像画。下は、ローマ市議会が常長に与えた羊皮紙に書かれた「ローマ市公民権証書」。

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 この3点は、いずれも国宝(慶長遣欧使節関係資料)、ユネスコ記憶遺産登録資料。

 1613年(慶長18)政宗は、支倉常長らをスペイン領のメキシコを経由してスペイン、ローマへと「慶長遣欧使節」を派遣する。メキシコ(スペイン)との貿易を行うと理由で、家康の許可を得た正式な外交使節団だった。またローマ教皇に会い、仙台領内での布教のため宣教師派遣を要請する目的もあった。

 しかしその後幕府は、禁教令を出し宣教師とキリシタンの弾圧を始める。この情報がヨーロッパにも伝わり、外交交渉は失敗に終わった。苦難の道を歩んだ常長は、失意のうちに帰国した。

 伊達政宗は、出羽国と陸奥国の戦国大名である伊達氏の第17代当主。やがて勢力を拡大して奥羽(現在の東北地方)最大の大名となる。豊臣秀吉に臣従し、関ケ原の戦いでは東軍につく。仙台藩の初代藩主となり、70歳で江戸で死去した。

  幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明したが、「独眼竜」と呼ばれたのは後世明治期の小説家によるもの。

 狩野派の絵師が描いた正装した伊達政宗の肖像画。政宗の「両目が整った姿にするように」との遺言が守られている。

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 伊達政宗の「黒漆五枚胴具足」。金色の細い三日月形の前立(まえだて)は、有名。重要文化財に指定。

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 伊達政宗は1601年(慶長6)、岩出山(宮城県大崎市)から仙台(千代)に本拠地を移し、領民を岩出山から移住させ、城下町を整備、治水工事や新田開発に力を入れるなど、仙台藩62万石の基礎を築いた。

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 仙台城がある青葉山は、市街地の南西にある標高130mほどの丘陵。東と南を断崖が固め、麓には天然の堀となる広瀬川が曲流しているため、天然の要塞となっている。家康に警戒されまいと天守閣は造らなかったそうだ。

 東日本大震災の復興を祈念する特別展「国宝・吉祥天女が舞い降りた!―奈良・薬師寺 未来への祈り―」が開催中。

 奈良・薬師寺の名宝を観覧する。入館料1,300円(割引券1,200円)。

 薬師寺は、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈念し、680年に建立を発願。天武天皇が没した後、その事業は持統天皇に引き継がれ、藤原京(橿原市)に創建。その後平城京へと移り、およそ1300年後の現在まで数々の貴重な文化財が所蔵されている。

 この特別展の目玉は、奈良時代の国宝「吉祥天女像(きちじょうてんにょぞう)」と飛鳥~奈良時代の国宝「聖観世音菩薩立像(しょうかんぜおんぼさつりゅうぞう)」。

 撮影禁止のため、パンフを掲載する。左の写真の左部分に「吉祥天女像」。右の写真が「聖観世音菩薩立像」の拡大図。

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 「吉祥天女像」は、麻布(まふ)に描かれ額装仕立てになっている。独立画像として現存最古の彩色画だそうだ。このお姿は、光明皇后を写した伝えられ、天平(てんぴょう)美人の優しい面影、着衣の優雅な色彩と繊細な文様は、天女の衣にたとえられる。千年以上も前の絵画とは思えない美しさ、素晴らしさを目にする。大きさは、53×32cmでA3サイズより一回り大きい程度。

 「聖観世音菩薩立像」は、像高189cmセンチで、台座もあるので見上げるように大きい。この観世音菩薩は、均整のとれたスタイルと、優しい微笑をたたえている顔立ちは、日本屈指の美しい「観音さま」といわれている。銅製だが薄い衣と透けて見えるおみ足が表現されている。

 普通は正面からしか拝観することができないが、特別展では前後左右360度からも見ることができた。背中と逆三角形の上半身、腰回り、そして二の腕は実際の女性のようにリアルだ。私たちの悩みや苦しみをお救い下さる慈悲のお心の観音菩薩様は、男性か女性か。我々俗人は不謹慎ながら、女性の色気を感じてしまう。

●瑞鳳殿(ずいほうでん)

 博物館から次のスポット「瑞鳳殿」まで、25分ほど歩く。

 途中で、市内を流れる広瀬川(名取川の支流)に架かる大橋と評定河原(ひょうじょうかわら)橋の2つの橋を渡るのは、広瀬川が大きく蛇行しているため。

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 参道入り口の循環バスの瑞鳳殿前バス停から、長い坂道を登ると「瑞鳳寺」。さらに長い階段を上り、16:00「瑞鳳殿」(仙台市青葉区霊屋下)に着く。観覧料は550円、「るーぷる仙台」の乗車券の提示で450円に割引。

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 仙台市の南西、経ケ峯にある「瑞鳳殿」は、初代藩主・伊達政宗を祀る霊廟で、政宗の遺言により造られた。仙台空襲で全焼したが、1979年(昭和54)再建された。

 瑞鳳殿の手前にある涅槃門。この門が、現世と冥界(あの世)の境界だそうだ。ガイドの案内で、あの世に入る。

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 本殿の全景を写せなかったが、ここ扉の中に正装した政宗公の像が祀ってあるそうだ。

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 本殿の扁額、天女と鳳凰の彫刻。

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 本殿両脇には、殉死した家臣15名および陪臣(直臣でない家臣の家臣)5名の宝篋印塔(ほうきょういんとう、墓塔・供養塔など仏塔の一種)が並ぶ。

 近くに第2代藩主・忠宗を祀る「感仙殿」(写真下)と、第3代藩主・綱宗の「善応殿」が建つ。

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 伊達秀宗は、伊達政宗の庶長子であった。はじめ政宗の世子として育てられた。幼いころから人質として秀吉に預けられ、秀の字をもらって秀宗と名乗り、豊臣姓まで賜った。やがて天下が豊臣家から徳川家に移ると、家康に預けられた。その後、政宗と正室・愛姫との間に忠宗が生まれたので、庶子の秀宗は立場を失った。

 このため、政宗は徳川家に秀宗の身が立つように嘆願、大坂冬の陣で政宗と秀宗が共に徳川方として従軍すると、幕府は秀宗の忠義に報いるとの理由で、1614年(慶長19年)、秀宗は徳川秀忠より伊予の宇和島藩10万石を与えられた。異母弟の忠宗は、1636年(寛永13)、父・政宗の死去にともない家督を相続、第2代の仙台藩主となった。

 第3代藩主・綱宗は、六男であったが、兄たちが早世したり養子に出されたいたため、嫡子となり、1658年(万治3年)父・忠宗の死により若年で家督を継ぐ。しかし酒色に溺れて藩政を顧みなかったため、幕命により21歳の若さで隠居させられた(綱宗隠居事件)。家督は、綱宗の2歳の長男亀千代(後の伊達綱村)が継いだ。この間の経緯は、後の伊達騒動のきっかけになっている。

 伊達政宗や伊達家の裏話を交えたガイドの話は、大変おもしろかった。   

 循環バスで移動する予定だったが、時間の関係でタクシーで3台を拾って仙台城本丸へ。

●仙台城本丸跡

 陽も傾いた17:15、仙台城本丸跡(仙台市青葉区川内)に着く。青葉山にあるので青葉城とも呼ばれる仙台城は、石垣と復元された大手門脇の櫓(やぐら)のみが残る。一部は青葉山公園となっていて、伊達政宗公騎馬像の建つ天守台からは、仙台市内・太平洋が一望。(写真をクリックすると拡大表示されます。)

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 仙台のシンボル伊達政宗公騎馬像。

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 1935年(昭和10年)に完成した政宗公の騎馬銅像は、戦時中の金属類回収令で供出され、仙台城跡から姿を消した。1953年(昭和28年)、仙台城跡にセメント立像の政宗公平和像が設置された。しかし、騎馬銅像の復活を仙台市民が強く望んだため、1964年(昭和39年)今日の銅像が復元した。

 本丸跡には、護国神社(写真下)や、青葉城資料展示館やレストラン、売店、結婚式場を併せ持つ本丸会館などがある。

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 昭忠塔の上部にあった金鵄(金のトビ)鋳造は、東日本大震災で落下し崩壊した。明治維新後、陸軍第二師団の前身となる鎮台が置かれていたが、西南の役から日清戦争まで、戦いで亡くなった東北各地の将兵を慰霊するため、1902年(明治35)に竣工したもの。

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 本丸跡には、仙台出身の作詞家・土井晩翠の像と名曲「荒城の月」の歌碑もある。

 北西の二の丸跡はもっとも広大で、現在は東北大学の敷地となっている。

 再びタクシー3台で、駅西口前まで移動。循環バス「るーぷる仙台」の1日乗車券620円を活用しようと思ったが、結局バスは1回しか乗らなかった。1回乗車は260円なので、360円の損。


●みわ亭

 17:50、仙台駅西口前からすぐ、アジュール仙台2階(青葉区本町1丁目) にある和風の個室居酒屋 「伊達の旬菜~みわ亭」に入る。

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 仙台在住のS氏を交えて懇親会。季節の海鮮と野菜のコース料理+飲み放題。宮城県が誇る地酒「浦霞」がうまい。

 20:40から2時間、仙台駅西口前からすぐのカラオケ「ビッグエコー仙台駅前店」(青葉区中央1丁目)に入り、全員がそれぞれ2~4曲を熱唱。

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 22:40、 S氏と別れて、一行はホテルへ帰る。

 23:00、ホテル着。シャワーを浴びて、12:00頃就寝。

 ★ ★ ★

 伊達政宗は1567年(永禄10)、出羽国米沢城で生まれ、幼名は梵天丸。元服して伊達藤次郎政宗と名乗る。

 幼いころより禅僧・虎哉宗乙(こさいそういつ)に師事し、文武両道に優れた人物であった。17歳で家督を相続すると、かつての伊達家の繁栄を取り戻すべく奥州の領土奪回・拡大を目指す。周囲の大名・豪族を配下または傘下に加え、佐竹氏や上杉氏と同等以上の広大な領地を獲得した。政宗は、武略だけではなく、知略にも長けた戦略的な能力の持ち主であった。

 しかし、豊臣秀吉による天下統一事業が着々と進み、当時伊達家と同盟を結んでいた北条氏の小田原城攻めが開始された段階で、とうとう秀吉に臣従した。関が原の戦いでは徳川家康の東軍側に付き、東北の諸大名と共に会津の上杉景勝を牽制した。よって仙台藩62万石が誕生し、政宗は初代藩主となった。

 藩主となった政宗は、積極的に徳川家へ接近する。家康は、政宗を警戒しながら対応していたらしい。二代将軍・秀忠には御意見番として、「仙台公」あるいは「仙台黄門」など呼ばれ、三代将軍・家光は「伊達の親父殿」と言われて親しんだという。

 秀吉や家康、秀忠、家光という権力者に対する振る舞いから危険視され、また一目を置かれる存在となる。知略とともに謀略にも長けた大名であったのだろう。幕末まで続いた仙台藩の基礎を確立した政宗は、大名としては稀有の存在であったに違いない。また書や漢詩などにも秀でていて、残された直筆の書状も多い。


 ★ ★ ★

 仙台藩は、陸奥国の仙台城に藩庁を置いた表高62万石の雄藩。現在の岩手県南部から宮城県全域と福島県新地町までの60万石を治め、更に茨城県と滋賀県に合計約2万石の飛び地があった。

 「樅の木は残った」は山本周五郎の歴史小説で、NHK大河ドラマにもなった。その題材となった江戸時代前期に仙台藩で起こった「伊達騒動」は、「黒田騒動」、「加賀騒動」とともに三大お家騒動と呼ばれる。1660年(万治3年)綱宗の隠居事件は、その後1665年(寛文5年)の寛文事件、1697年(元禄10年)の綱村隠居事件と、騒動は3期に渡り続いた。

 戊辰戦争では「奥羽越列藩同盟」を結成し、盟主となった。仙台藩は当時、国内有数の兵力を有していたが、英国から大量に最新型銃器を購入していた薩摩・長州軍と比べ、銃器の数や性能が圧倒的に劣っていた。

 会津藩が若松城に篭城する一方で、仙台藩は北上する新政府(薩摩・長州)軍と戦い降伏した。敗戦後仙台藩は、明治政府より表高62万石から実高28万石に減封される。減封よって仙台藩は、家臣らを帰農させたり解雇したりのリストラをしたので、北海道開拓のため移住をした者も多い。

 仙台藩は、分家の宇和島藩より格下とされた。仙台伊達家は伯爵だが、宇和島伊達家は侯爵となった。

 

 ★ ★ ★

 瑞宝殿の見学が終わった時点で、コンパクトカメラでそれまで撮影した写真が、全部消えてしまった。

 明らかに誤操作ではなく、カメラの誤動作だったか。または、SDカードが何らかの原因で破損(物理的でなく論理的な破損)したようだ。その後は、もう一台の一眼レフカメラで撮影を続けた。

 自宅に帰ってパソコンで確認したが、写真は出て来ず。消えたのは133枚。SDカードの信頼性も100%ではない。メーカー品でないものや古いカードは、注意したほうが良いと聞く。
 帰った当日の夜から、SDカードのデータ復元作業に格闘した。翌日、2枚を除いてやっと画像データを復元できた。ただ、写真のプロパティ・データは回復できてない。

 復元した写真を使って、このブログ記事をなんとか書き上げた。

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