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2015年5月28日 (木)

仙台・石巻の旅-その2

 2015年5月16日(土)~18日(月)、2泊3日の仙台・石巻の旅。
 

 伊達正宗と支倉常長(はせくら・つねなが)ゆかりの地を行く、宮城復興支援の旅。

 本ブログ「仙台・石巻の旅-その1」の続き。

 

 2日目の17日は、石巻市方面を巡り、東日本大震災に伴う津波被災地を慰霊し、支倉常長(はせくらつねなが)と遣欧使節団の苦難の歴史をたどる。旅の一行は、総勢9人。

 宿泊の「ホテルモントレ仙台」で6:00起床、7:00~朝食バイキング。

 7:40、チェックアウト。レンタカー (ハイエース)を借り、8:20仙台駅東口前から北東へ、多賀城市に向かう。 

 

●東北歴史博物館

 宮城県多賀城市高崎に位置する「東北歴史博物館」、9:00到着するが、開館は9:30から。

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 多賀城市は、宮城県のほぼ中央に位置し、仙台市の北東側に隣接するため、同市のベッドタウンとなっている。市名は、古代に陸奥国府と鎮守府が置かれていた「多賀城」に因む。
 
 博物館のすぐそばには、JR東日本東北本線の国府多賀城駅がある。2001年(平成13年)開業したので比較的新しい。博物館に隣接した併設の「今野家住宅」に行ってみるが、こちらは改修工事中で、中には入れなかった。

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 今野家は、石巻市北上町にあった民家を移築復元したもの。江戸時代に村の責任者である肝入を代々務めた。住宅を外から見学したり、近くを周辺を散策して博物館の開館を待つ。

 9:30の開館と同時に、入館。入館料は400円。

 当館の学芸員に案内・解説してもらう。展示物は、石器時代から近現代まで時代別のテーマに分けられ、東北全体や宮城の歴史が展示でつづられていた。

 縄文、弥生時代の東北の生活や文化は、西日本のそれと比べて決して遅れていたり劣っていたのではなく、豊かだったことが分かる。また弥生時代の東北は、寒冷のため水田は存在しなかったかというと、水田もあったらしい。写真は、古代の展示コーナー。

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 蝦夷(えみし)は、未開の野蛮な民族という偏見があった。実際は、中央政権に組み込まれてない東北ネイティブの人々を蝦夷と呼んでいたそうだ。蝦夷側にしてみれば、開拓と称して征服者たちが侵入して来る。それに抵抗する蝦夷の蜂起、大反乱が起きている。

 朝廷は東北での反乱の拡大を防ぐため、征東軍を組織し派遣する。その総大将は、征夷大将軍と呼ばれ、蝦夷を征すると書く。この征夷大将軍は、後に武士の棟梁という意味を持つようになる。

 律令時代に、陸奥国に設置された「多賀城」は、近世、中世の「城」をイメージするが、中央政府の地方政庁であった。平城京を中心に、南に「大宰府」、北に鎮守府と陸奥国府の「多賀城」を配置して大拠点とした。写真下は、多賀城の模型。

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 奥州藤原氏は100年ほどの間、陸奥の国の平泉を中心に東北地方に勢力を張った。その平泉の金文化を支えたのは、三陸海岸沿岸にあった気仙沼などの金鉱山だったという。

 平泉の金色堂巻柱のレプリカ。

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 東北地方の風俗、ワラの神々。

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 伊達政宗や仙台藩の歴史は、仙台市博物館などに譲っていて控えめ。また戊辰戦争についても会津にある福島県立博物館よりも地味な扱いのようだ。

 江戸時代の仙台城下町「芭蕉の辻」のジオラマ。

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 奥羽越列藩同盟の旗、戊辰戦争で活躍した細谷十太夫の陣羽織、北海道移住の図など。

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 明治以降の展示品コーナー。

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 昭和の時代の懐かしい茶の間。テレビは、オリンピックを映している。

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 縄文・弥生文化、蝦夷、多賀城など、東北の歴史観や東北のイメージは、この博物館を見て少し変わった。 

   立派な博物館なのでスタッフに聞くと、県立の博物館だとのこと。宮城県教育庁の文化財保護課が管理運営している。1974年(昭和44)に設置された旧東北歴史資料館が、発展的に改組され1999年(平成11)に博物館として開設された。 

 10:30、退館。博物館の周辺に、多賀城政庁跡と多賀城廃寺跡などの特別史跡多賀城跡があるが、行きそびれてしまった。

 三陸自動車道(利府塩釜IC~鳴瀬奥松島IC、料金480円)を通って、さらに北東の東松島市に向かう。
 

●野蒜(のびる)地区

 復興が進んでいるが、いまだ大津波の傷跡が残る東松島市の野蒜(のびる)地区を見る。

 11:15、 野蒜海岸に来て下車。

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 美しい弧を描いている海岸は白砂の砂浜で、海水浴の絶好なスポットだった。津波によって砂が流失した海岸も多いが、ここには広々とした砂浜がまだ残っている。現在、遊泳禁止。

 海岸には松林があり、学校や住宅が点在していたという。津波によって松林の多くは失われ、被災した建物の解体され、広大な空地となっている。堤防にするのか、延々と砂利が積まれている。

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 11:30~移転したJR仙石線の旧野蒜駅に行く。ホームと一部の線路が残されている。

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 JR仙石線は大震災後の復旧路線として、従来よりも約500mほど内陸に移動した。それにあわせて野蒜駅も新設されたそうだ。

 5月26日の朝日新聞の夕刊に、仙石線が高台移設でつながり、5月30日に50カ月ぶりに全線再開という記事があった。
 大震災の直後、仙台発石巻行きの列車は、旧野蒜駅を過ぎた小高い丘の上で停車した。JR仙台支社からは、乗客は列車を降りて近くの野蒜小学校へ避難するよう指示があった。乗員の機転で高台に列車を止めたまま一晩を過ごし、乗客98人全員が助かった。野蒜小学校は、旧野蒜駅と同じ高さで、津波に飲み込まれたのだ。

 この被災した旧野蒜駅の駅舎は改修されて、観光交流拠点「野蒜地域交流センター」として整備がされた。1階部分には「ファミリーマート」が開店、2階部分には多目的スペースとなっている。
 
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 「野蒜地域交流センター」の1階にある震災直後の写真パネルが掲示されている。

 生々しい野蒜駅舎、仙石線の車両、野蒜小学校など生々しい被災直後の写真は、痛ましくで、胸が詰まる。ここにその写真を転載できないのが残念だが。

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 レンタカーは、三陸自動車道(鳴瀬奥松島IC⇒河北IC、通行料金無料)を経て石巻へ。 なお河北ICは、料金無料区間に伴い実際は廃止されている。

●大川小学校跡地

 12:25、石巻市釜谷山根にある「大川小学校跡地」に着く。

 東日本大震災の津波により全校児童108人のうち74名が、死亡・行方不明となった大川小学校は、追悼する人々の献花が絶えない。

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 校舎の周りや、教室の中に流れ込んだ大量のがれきはすでに取り除かれているが、黒板が教室の面影を残す。校舎内はロープが張られ、立ち入り禁止。

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 教職員11人のうち助かったのは1人だけ。小学校がある石巻市釜谷地区は、北上川の河口から4Kmほど離れていて、山と堤防にさえぎられ海が見えなかった。余震が続いている中、防災無線からは大津波の避難を呼びかける声が響いていたそうだ。確かにすぐそばに、裏山がある。ここにみんなで逃げていれば・・・と、心が痛む。

 まさかここまで津波が来るとは思わなかった・・・、ここから海が見えなくて・・・。 保護者らが児童を迎えに校庭に訪れ、担任に「大津波が来る!」と慌てて伝えた時も、避難する様子はなく、教職員には危機感がなかったそうだ。

 これほどの犠牲者が出た学校はない。学校という場所で、何故子供たちを守れなかったのかという問題は、行政、地域、教育などの関係者に重くのしかかる。検証は、もう終わったのだろうか。

  津波で被災した周辺地域は、がれきが撤去されすべて更地になっていて、鉄筋の校舎の残骸が寂しくたたずむ。校舎を解体すべきとの遺族の声もあるそうだが、ぜひ後世のために保存して欲しい。

 大川小学校を後にする。

 車窓から、あちこちに何事もなかったように平地が続く。ここには住宅や商店や田畑があって人々の暮らしがあったのだ。それらはすべて破壊され、がれきの山だったことを忘れてしまいそうな景色。あちこちに地盤が下がったのか、海水が浸水している場所も多い。

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 まだ多くの人人が移り住んでいる仮設住宅もあったが、写真を撮るのは遠慮した。

●のんびり村

 2:50、「のんびり村」に到着。村といっても、地元の海の幸を味わえる小規模な漁家民宿(2室10名)のこと。石巻市尾崎字宮下。

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 この民宿は、水揚げした牡蠣の殻を外す「牡蠣むき」など海仕事の作業体験もできた。食事も、朝晩の刺網漁などで、その日に獲れた魚が出されたそうだ。

 津波の被害を受けたため、坂下清子村長は仮設住まい。現在は、昼の食事だけを提供。幹事のHさんが昔泊まった縁で、大変歓迎してごちそうしてくれた。新鮮な海の幸、特に近くの海でとれた牡蠣をたらふくいただく。

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 牡蠣めしとアムール貝のお吸い物。

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 三陸自動車道(河北IC⇒石巻河南IC、料金無料)を経て、サン・ファン館へ

       
●サン・ファン館

  「宮城県慶長使節船ミュージアム」、愛称「サン・ファン館」は、牡鹿(おしか)半島の根元あたり石巻市渡波字大森にある。400年前支倉常長らの慶長使節団がローマを目指して乗った「サン・ファン・バウティスタ号」の復元船を係留する県立の博物館。使節団の偉業や様子を展示、20分の映画もある。15:05着、入館料560円。

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 2011年3月の東日本大震災で船体やドック棟が被災し展示品も流出、翌4月の暴風雨で更にマストが折損するなど大きな被害を受け、長らく休館していた。国内外の多くの支援を得て、慶長使節出帆400周年の節目である2013年秋、元の姿を取り戻し、約2年8か月ぶりに再開館した。

 震災で被災したサン・ファン・バウティスタ号の模型。

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 「大航海時代の日本」についてのパネル。

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 リアルに動くロボットの寸劇。左から支倉常長、伊達政宗、宣教師ルイス・ソテロ、スペイン国王使節セバスチャン・ビスカイノ。

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 太平洋、大西洋を渡った使節の航路。

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 係留された「サン・ファン・バウティスタ号」の復元船の外観。

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 船内の様子。船長室で着物姿の常長。

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 軍艦ではないが、いざという場合のため大砲を積んでいた。

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 伊達政宗は、仙台領内でのキリスト教布教を容認する引き換えに、メキシコ(当時スペイン領)との貿易を求め、宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、スペイン国王、およびローマ法王のもとに派遣した。

 政宗は、使節派遣の2年前に起きた慶長の大地震とその津波被害から、奥州に海外貿易を通して復興をめざとともに、藩内の経済活性化を目指そうとした。

 家康もまた、メキシコ貿易に関心が強く持っており、また江戸幕府が成立してまだ日の浅いこの時期、政宗の力を必要としていた。使節派遣は幕府の許可を得て、大型船の建造も幕府の船大工や船奉行の監督下で行われた。

 政宗は仙台領内において、スペイン人の指導によりガレオン船「サン・フアン・バウティスタ号」を建造した。スペインは、ガレオン船の建造技術を最高機密としていたのだが。

 本来は、政宗の重臣が使節になるべきだが、なぜ中級武士の常長が選ばれたのか。朝鮮出兵に従軍経験があって海外に明るく、また政宗の身辺に仕えて「使い役」を務めていたので信頼が厚かった、失敗した時の責任を取らせやすいなど、と考えられている。

 乗り組んだのは、仙台藩の藩士のほか、スペイン人40名と幕府から10名、そして全国から集まった商人やキリシタンたち、総勢180名以上にもなった。復元船の内部を見て、あの小さい船にそんな人数が乗れたのか不思議だ。

 1613年(慶長18年)10月、支倉常長の「サン・ファン・バウティスタ」は、月浦からはるかなローマを目指し出帆した。90日間の航海の後、当時メキシコのアカプルコに入港。ここから先は別の船で大西洋を渡り、マドリードへと旅を続け、1615年(慶長20年)1月スペイン国王フェリーペ3世に謁見、いよいよローマ法王との謁見の時を待った。

 やっとヴァチカン宮殿でローマ法王パウルス5世と謁見、宣教師派遣とスペイン領国との通商を申し込んだ。常長はローマ市民権を与えられ、ローマ貴族に叙せられたが、ローマ法王は宣教師の派遣は同意したが、通商についてはスペイン国王に一任しただけだった。再びスペインに戻った常長は、長旅の疲れで健康を害し、旅費も欠乏してきた。それでも常長は国王、法王にメキシコとの通商許可の請願を繰り返し、使命を果たそうとした。

 通商交渉を有利に運ぶために、政宗はキリスト教徒の保護者であるという姿勢を示していた。しかし、日本で多数のキリシタンが迫害されている事実はスペインでもローマでも明らかになっていた。二枚舌外交を見抜かれていて、遠方から来た使節を迎える儀礼的な歓迎はあったが、交渉は成功しなかった。

 常長は、良い返答を得られないまま、やむなく帰路についた。メキシコまで戻った常長は、迎えに来ていたサン・ファン・バウティスタ号に乗り、フィリピンのマニラに到着、長崎に渡る。出帆から7年後の1620年(元和6年)にようやく仙台にたどり着いた。

 常長が帰国したとき、すでに日本は禁教の時代になっていた。常長は帰国2年後の1622年(元和8年)7月、失意のうちに病死した。享年52歳。宣教師ルイス・ソテロは、1622年(元和8年)マニラから日本に密入国しようとしたが捕らえられた。伊達政宗の助命嘆願にかかわらず、1624年(寛永元年)長崎・大村の放虎原で火刑により殉教した。     
 

●月浦(つきのうら)

 サンファン館から南東、車で10Kmほどの高台から急坂を降りたところに、小さな漁港がある。石巻市月浦に17:00着く。

 月浦は、支倉常長の慶長遣欧使節「サン・ファン・バウティスタ号」が出帆した地。奥まった入江だが、遺跡はないようだ。

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 月浦を見下ろす高台に、小さな公園があり支倉常長の銅像が立っていた。そのすぐ傍にはまだ仮設住宅がある。

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 石巻市の北部へ、細い山道をたどったて追分(おいわけ)温泉に向かう。


●旅館追分温泉

 旅館追分温泉は、石巻市北上町女川にあるひなびた木造の鉱泉宿。18:35到着。

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 到着が遅くなり、19:00~個室で夕食。海鮮や地元の旬の食材をふんだんに使った素朴な料理を楽しむ。そして備え付けのカラオケ装置で熱唱。

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 この後入浴。ここは、昔の金山から湧き出した鉱泉で、珍しい榧(かや)の木造りの浴場だった。

 客室や館内設備は質素で、宿泊料は1泊2食6,700円。3部屋に分かれて宿泊するが、就寝前に大部屋に集まり、缶ビールを飲みながら大阪都構想の住民投票開票状況のTVを視聴。

 都構想反対が賛成を僅差で上回って、大阪市は存続することになった。都構想を推進した橋下市長は、12月の任期を待って辞めるそうだ。今後、安倍政権の憲法改正のシナリオや野党の再編成への影響に注目したい。

 この旅館は、東日本震災で80人もの被災者の宿泊を受け入れ、半年間ほど支援した。

 23:30就寝。


 ★ ★ ★ 

 ポルトガルとスペインが世界の海を支配した大航海時代の末期、16世紀から17世紀にかけて日本にキリスト教と鉄砲が伝来した時代だった。「天正遣欧使節」と「慶長遣欧使節」の二つの使節が、ヨーロッパをめざした。
 1582年(天正10年)、九州のキリシタン大名3人(大友宗麟・大村純忠・有馬晴信)が、4人の少年を名代としてインド洋経由でローマへ派遣、8年後の1590年(天正18年)に帰国した。日本でのキリスト教布教の主導を図るイエズス会が、日本での布教の成果を誇示し、本国から更なる支援を得ようとしたのがこの天正使節だった。

 その23年後の1613年(慶長18年)、政宗は家臣・常長をメキシコ、スペイン、ローマまで太平洋と大西洋を渡って派遣、7年後の1620年(元和6年)に帰国した。天正使節と目的は全く異なり、慶長使節は当時スペインの植民地であったメキシコとの通商と宣教師派遣をスペイン国王とローマ法王に要請するために送り出した本格的な外交使節であった。

 1612年(慶長17年)、江戸幕府はキリスト教禁止令を出した。帰国した天正使節の4少年は、初めは歓待され表舞台で活躍するが、やがて棄教、国外追放や殉教などの運命を選ぶ。長崎県大村市には、4少年の顕彰の像が建っている。

 マドリードで洗礼を受けた常長は、派遣中に禁止令が出たので、帰国後は冷遇されてひっそりと暮らし、2年後に病没した。晩年の常長の記録はほとんどないという。常長の偉業は、江戸時代は歴史の中に埋もれてしまったのだ。

 明治維新後、岩倉具視の欧米視察団はイタリアのベネチェアを訪れた際、"Fasicura"というローマ字の署名が入った文書を発見する。200年以上の時を超えて、支倉常長の偉業が脚光を浴びることになった。    

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