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2015年5月の3件の投稿

2015年5月29日 (金)

仙台・石巻の旅-その3

 2015年5月16日(土)~18日(月)、2泊3日の仙台・石巻の旅。
 

 伊達正宗と支倉常長(はせくら・つねなが)ゆかりの地を行く、宮城復興支援の旅。

 本ブログ「仙台・石巻の旅-その2」の続き。

 3日目の18日は、松島町へ行き、伊達氏の菩提寺「瑞巌寺」を拝観。旅の一行は、総勢9人。

 

 宿泊の「旅館追分温泉」、6:30起床、朝風呂、8:00~朝食。

 8:45、旅館出発。三陸自動車道(河北IC⇒松島海岸IC、料金460円)を通って、日本三景・松島で有名な「瑞巌寺」(宮城県宮城郡松島町松島町内)に向かう。 

●瑞巌寺

 瑞巌寺の正式名は、「松島青龍山(しょうとうせいりゅうざん)瑞巌円福禅寺(ずいがんえんぷくぜんじ)。平安時代の創建で、宗派と寺号の変遷を経て、現在は臨済宗妙心寺派瑞巌寺。古くは松島寺とも呼ばれた。

 江戸時代になってから伊達政宗は、禅僧・虎哉宗乙(こさいそういつ)の勧めで当時の円福寺の復興を思い立ち、1604年(慶長9年)から5年の工事で完成した。瑞巌円福禅寺と改称した。桃山様式の本堂などの国宝建築はこの時のもの。

 総門をくぐり、杉林の長い参道を歩く。「3.11津浪到達点」の看板が左手に見える。

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 参道のシンボルだった杉林は、津波の塩害によって立ち枯れが目立ち、約300本が伐採されたそうだ。

 9:55、受付。拝観料は、700円。

 現在、国宝の本堂、御成門が改修中(平成22年9月~平成28年春頃)で、非公開となっており、国宝の庫裡(くり)と陽徳院の御霊屋「寶華殿(ほうげでん)」が公開されている。

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 国宝の庫裡に入る。庫裡は、僧侶の居住する場所で、台所も兼ねる。

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 入口に、1927年(昭和2年)高村光雲作の「光雲観音」。

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 本来、本堂に安置している本尊や政宗公の大位牌などが、大書院(仮本堂)に展示・特別公開されている。間近で拝観できるのは滅多にあることではなく、ラッキーだった。しかもストロボなしなら撮影可。

 大書院に行く途中に見える臥(ふ)せた龍の形をしている「臥龍梅(がりゅうばい)」。政宗が朝鮮から持ち帰り、瑞巌寺の上棟の祝いに自らお手植えした。白梅と紅梅の2本ある。樹齢約400年。

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 大書院に入り、ご本尊の「聖観世音(しょうかんのん)菩薩」を、正面から拝する。ブロンズ製で製作年代は不明だという。身長100cm。

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 左は、藩祖伊達政宗、右は第2代忠宗の大位牌。

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 伊達家歴代の位牌、3代綱宗から12代斉邦(なりくに)までと各々の正室のもの。

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 庫裡を出て、御霊屋(おたまや)に向かう。

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 陽徳院の御霊屋「寶華殿(ほうげでん)」。陽徳院は、政宗の正室・愛姫(めごひめ)。堂は、孫の伊達綱宗公が造営した。

 下は、瑞巌寺のパンフの一部。

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 瑞巌寺の宝物館「青龍殿」に入り、展示品を観覧。

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 宝物館は、撮影禁止。

 下の写真は、瑞巌寺のパンフの一部。ダブルクリックで拡大します。

 

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 展示された宝物の中で、等身大の「伊達政宗甲冑倚像(かっちゅういぞう)」(上のパンフ)は、興味深い。政宗17回忌に正室・陽徳院が京の仏師に造らせた。「自身の肖像、木像はすべて両目を入れよ」との政宗の遺言があったが、陽徳院は殿のありのままのご雄姿を遺したいと、右目を小さくして両目が入れられている。文禄の役で朝鮮に渡った政宗27歳の時の姿だという。

 映画やテレビで、刀の鍔(つば)の眼帯をしているのは演出。実際はそんなものはしてなかったそうだ。

 帰りの参道から、左手の杉林の先で良く見えなかったが、洞窟群がある。江戸時代以降に掘られ、五輪塔、供養塔や法名などが無数に安置されたり、壁面に彫られている。

 下の写真の「鰻(うなぎ)塚」は、松島湾で捕れた鰻の供養として、1923年(大正12年)地元民の寄付金で建立されたそうだ。

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 瑞巌寺を後にして仙台駅東口前に戻る。レンタカー返却。

●力(ちから)寿司

 仙台のグルメ牛たんの次は、寿司でランチ。12:00~13:10、仙台駅東口から 徒歩10分の「力寿司」(仙台市宮城野区東八番丁)で。

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 にぎりは、1,200円でボリューム(19貫)満点。ここでは、寿司以外の定食メニューも豊富。

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 仙台駅西口に戻る。地下街のS-PALで、おみやげ購入。
   
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 14:24発の東京行き新幹線「やまびこ48号」に乗車、帰路へ。17:45自宅着。 
 

 ★ ★ ★

 支倉常長の出帆から400年が経つ。常長の苦難の足跡は報われることなく、帰国2年後この世を去った。2011年の長崎旅行で見聞した天正遣欧少年使節やキリシタン弾圧の歴史と、今回の旅はつながっている。彼らが復活したのは、200年以上経った明治になってからであった。

 東日本大震災から4年が経った。まだ残る生々しい津波の爪跡を見て、復興にはまだまだ多くの資金と労力、時間がかかること、まだ仮設住宅に住む人が多くいること、心が癒えない人もたくさんいることが、身に染みて感じた貴重な体験であった。

 3日間の東北・仙台・石巻の旅が無事終わり、大変有意義であった。この旅行を企画・計画から準備し、手配、そして当日の案内をしてくれた仙台出身のHさんに、大変お世話になりました。この場を借りて、御礼申し上げたい。

2015年5月28日 (木)

仙台・石巻の旅-その2

 2015年5月16日(土)~18日(月)、2泊3日の仙台・石巻の旅。
 

 伊達正宗と支倉常長(はせくら・つねなが)ゆかりの地を行く、宮城復興支援の旅。

 本ブログ「仙台・石巻の旅-その1」の続き。

 

 2日目の17日は、石巻市方面を巡り、東日本大震災に伴う津波被災地を慰霊し、支倉常長(はせくらつねなが)と遣欧使節団の苦難の歴史をたどる。旅の一行は、総勢9人。

 宿泊の「ホテルモントレ仙台」で6:00起床、7:00~朝食バイキング。

 7:40、チェックアウト。レンタカー (ハイエース)を借り、8:20仙台駅東口前から北東へ、多賀城市に向かう。 

 

●東北歴史博物館

 宮城県多賀城市高崎に位置する「東北歴史博物館」、9:00到着するが、開館は9:30から。

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 多賀城市は、宮城県のほぼ中央に位置し、仙台市の北東側に隣接するため、同市のベッドタウンとなっている。市名は、古代に陸奥国府と鎮守府が置かれていた「多賀城」に因む。
 
 博物館のすぐそばには、JR東日本東北本線の国府多賀城駅がある。2001年(平成13年)開業したので比較的新しい。博物館に隣接した併設の「今野家住宅」に行ってみるが、こちらは改修工事中で、中には入れなかった。

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 今野家は、石巻市北上町にあった民家を移築復元したもの。江戸時代に村の責任者である肝入を代々務めた。住宅を外から見学したり、近くを周辺を散策して博物館の開館を待つ。

 9:30の開館と同時に、入館。入館料は400円。

 当館の学芸員に案内・解説してもらう。展示物は、石器時代から近現代まで時代別のテーマに分けられ、東北全体や宮城の歴史が展示でつづられていた。

 縄文、弥生時代の東北の生活や文化は、西日本のそれと比べて決して遅れていたり劣っていたのではなく、豊かだったことが分かる。また弥生時代の東北は、寒冷のため水田は存在しなかったかというと、水田もあったらしい。写真は、古代の展示コーナー。

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 蝦夷(えみし)は、未開の野蛮な民族という偏見があった。実際は、中央政権に組み込まれてない東北ネイティブの人々を蝦夷と呼んでいたそうだ。蝦夷側にしてみれば、開拓と称して征服者たちが侵入して来る。それに抵抗する蝦夷の蜂起、大反乱が起きている。

 朝廷は東北での反乱の拡大を防ぐため、征東軍を組織し派遣する。その総大将は、征夷大将軍と呼ばれ、蝦夷を征すると書く。この征夷大将軍は、後に武士の棟梁という意味を持つようになる。

 律令時代に、陸奥国に設置された「多賀城」は、近世、中世の「城」をイメージするが、中央政府の地方政庁であった。平城京を中心に、南に「大宰府」、北に鎮守府と陸奥国府の「多賀城」を配置して大拠点とした。写真下は、多賀城の模型。

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 奥州藤原氏は100年ほどの間、陸奥の国の平泉を中心に東北地方に勢力を張った。その平泉の金文化を支えたのは、三陸海岸沿岸にあった気仙沼などの金鉱山だったという。

 平泉の金色堂巻柱のレプリカ。

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 東北地方の風俗、ワラの神々。

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 伊達政宗や仙台藩の歴史は、仙台市博物館などに譲っていて控えめ。また戊辰戦争についても会津にある福島県立博物館よりも地味な扱いのようだ。

 江戸時代の仙台城下町「芭蕉の辻」のジオラマ。

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 奥羽越列藩同盟の旗、戊辰戦争で活躍した細谷十太夫の陣羽織、北海道移住の図など。

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 明治以降の展示品コーナー。

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 昭和の時代の懐かしい茶の間。テレビは、オリンピックを映している。

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 縄文・弥生文化、蝦夷、多賀城など、東北の歴史観や東北のイメージは、この博物館を見て少し変わった。 

   立派な博物館なのでスタッフに聞くと、県立の博物館だとのこと。宮城県教育庁の文化財保護課が管理運営している。1974年(昭和44)に設置された旧東北歴史資料館が、発展的に改組され1999年(平成11)に博物館として開設された。 

 10:30、退館。博物館の周辺に、多賀城政庁跡と多賀城廃寺跡などの特別史跡多賀城跡があるが、行きそびれてしまった。

 三陸自動車道(利府塩釜IC~鳴瀬奥松島IC、料金480円)を通って、さらに北東の東松島市に向かう。
 

●野蒜(のびる)地区

 復興が進んでいるが、いまだ大津波の傷跡が残る東松島市の野蒜(のびる)地区を見る。

 11:15、 野蒜海岸に来て下車。

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 美しい弧を描いている海岸は白砂の砂浜で、海水浴の絶好なスポットだった。津波によって砂が流失した海岸も多いが、ここには広々とした砂浜がまだ残っている。現在、遊泳禁止。

 海岸には松林があり、学校や住宅が点在していたという。津波によって松林の多くは失われ、被災した建物の解体され、広大な空地となっている。堤防にするのか、延々と砂利が積まれている。

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 11:30~移転したJR仙石線の旧野蒜駅に行く。ホームと一部の線路が残されている。

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 JR仙石線は大震災後の復旧路線として、従来よりも約500mほど内陸に移動した。それにあわせて野蒜駅も新設されたそうだ。

 5月26日の朝日新聞の夕刊に、仙石線が高台移設でつながり、5月30日に50カ月ぶりに全線再開という記事があった。
 大震災の直後、仙台発石巻行きの列車は、旧野蒜駅を過ぎた小高い丘の上で停車した。JR仙台支社からは、乗客は列車を降りて近くの野蒜小学校へ避難するよう指示があった。乗員の機転で高台に列車を止めたまま一晩を過ごし、乗客98人全員が助かった。野蒜小学校は、旧野蒜駅と同じ高さで、津波に飲み込まれたのだ。

 この被災した旧野蒜駅の駅舎は改修されて、観光交流拠点「野蒜地域交流センター」として整備がされた。1階部分には「ファミリーマート」が開店、2階部分には多目的スペースとなっている。
 
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 「野蒜地域交流センター」の1階にある震災直後の写真パネルが掲示されている。

 生々しい野蒜駅舎、仙石線の車両、野蒜小学校など生々しい被災直後の写真は、痛ましくで、胸が詰まる。ここにその写真を転載できないのが残念だが。

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 レンタカーは、三陸自動車道(鳴瀬奥松島IC⇒河北IC、通行料金無料)を経て石巻へ。 なお河北ICは、料金無料区間に伴い実際は廃止されている。

●大川小学校跡地

 12:25、石巻市釜谷山根にある「大川小学校跡地」に着く。

 東日本大震災の津波により全校児童108人のうち74名が、死亡・行方不明となった大川小学校は、追悼する人々の献花が絶えない。

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 校舎の周りや、教室の中に流れ込んだ大量のがれきはすでに取り除かれているが、黒板が教室の面影を残す。校舎内はロープが張られ、立ち入り禁止。

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 教職員11人のうち助かったのは1人だけ。小学校がある石巻市釜谷地区は、北上川の河口から4Kmほど離れていて、山と堤防にさえぎられ海が見えなかった。余震が続いている中、防災無線からは大津波の避難を呼びかける声が響いていたそうだ。確かにすぐそばに、裏山がある。ここにみんなで逃げていれば・・・と、心が痛む。

 まさかここまで津波が来るとは思わなかった・・・、ここから海が見えなくて・・・。 保護者らが児童を迎えに校庭に訪れ、担任に「大津波が来る!」と慌てて伝えた時も、避難する様子はなく、教職員には危機感がなかったそうだ。

 これほどの犠牲者が出た学校はない。学校という場所で、何故子供たちを守れなかったのかという問題は、行政、地域、教育などの関係者に重くのしかかる。検証は、もう終わったのだろうか。

  津波で被災した周辺地域は、がれきが撤去されすべて更地になっていて、鉄筋の校舎の残骸が寂しくたたずむ。校舎を解体すべきとの遺族の声もあるそうだが、ぜひ後世のために保存して欲しい。

 大川小学校を後にする。

 車窓から、あちこちに何事もなかったように平地が続く。ここには住宅や商店や田畑があって人々の暮らしがあったのだ。それらはすべて破壊され、がれきの山だったことを忘れてしまいそうな景色。あちこちに地盤が下がったのか、海水が浸水している場所も多い。

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 まだ多くの人人が移り住んでいる仮設住宅もあったが、写真を撮るのは遠慮した。

●のんびり村

 2:50、「のんびり村」に到着。村といっても、地元の海の幸を味わえる小規模な漁家民宿(2室10名)のこと。石巻市尾崎字宮下。

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 この民宿は、水揚げした牡蠣の殻を外す「牡蠣むき」など海仕事の作業体験もできた。食事も、朝晩の刺網漁などで、その日に獲れた魚が出されたそうだ。

 津波の被害を受けたため、坂下清子村長は仮設住まい。現在は、昼の食事だけを提供。幹事のHさんが昔泊まった縁で、大変歓迎してごちそうしてくれた。新鮮な海の幸、特に近くの海でとれた牡蠣をたらふくいただく。

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 牡蠣めしとアムール貝のお吸い物。

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 三陸自動車道(河北IC⇒石巻河南IC、料金無料)を経て、サン・ファン館へ

       
●サン・ファン館

  「宮城県慶長使節船ミュージアム」、愛称「サン・ファン館」は、牡鹿(おしか)半島の根元あたり石巻市渡波字大森にある。400年前支倉常長らの慶長使節団がローマを目指して乗った「サン・ファン・バウティスタ号」の復元船を係留する県立の博物館。使節団の偉業や様子を展示、20分の映画もある。15:05着、入館料560円。

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 2011年3月の東日本大震災で船体やドック棟が被災し展示品も流出、翌4月の暴風雨で更にマストが折損するなど大きな被害を受け、長らく休館していた。国内外の多くの支援を得て、慶長使節出帆400周年の節目である2013年秋、元の姿を取り戻し、約2年8か月ぶりに再開館した。

 震災で被災したサン・ファン・バウティスタ号の模型。

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 「大航海時代の日本」についてのパネル。

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 リアルに動くロボットの寸劇。左から支倉常長、伊達政宗、宣教師ルイス・ソテロ、スペイン国王使節セバスチャン・ビスカイノ。

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 太平洋、大西洋を渡った使節の航路。

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 係留された「サン・ファン・バウティスタ号」の復元船の外観。

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 船内の様子。船長室で着物姿の常長。

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 軍艦ではないが、いざという場合のため大砲を積んでいた。

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 伊達政宗は、仙台領内でのキリスト教布教を容認する引き換えに、メキシコ(当時スペイン領)との貿易を求め、宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、スペイン国王、およびローマ法王のもとに派遣した。

 政宗は、使節派遣の2年前に起きた慶長の大地震とその津波被害から、奥州に海外貿易を通して復興をめざとともに、藩内の経済活性化を目指そうとした。

 家康もまた、メキシコ貿易に関心が強く持っており、また江戸幕府が成立してまだ日の浅いこの時期、政宗の力を必要としていた。使節派遣は幕府の許可を得て、大型船の建造も幕府の船大工や船奉行の監督下で行われた。

 政宗は仙台領内において、スペイン人の指導によりガレオン船「サン・フアン・バウティスタ号」を建造した。スペインは、ガレオン船の建造技術を最高機密としていたのだが。

 本来は、政宗の重臣が使節になるべきだが、なぜ中級武士の常長が選ばれたのか。朝鮮出兵に従軍経験があって海外に明るく、また政宗の身辺に仕えて「使い役」を務めていたので信頼が厚かった、失敗した時の責任を取らせやすいなど、と考えられている。

 乗り組んだのは、仙台藩の藩士のほか、スペイン人40名と幕府から10名、そして全国から集まった商人やキリシタンたち、総勢180名以上にもなった。復元船の内部を見て、あの小さい船にそんな人数が乗れたのか不思議だ。

 1613年(慶長18年)10月、支倉常長の「サン・ファン・バウティスタ」は、月浦からはるかなローマを目指し出帆した。90日間の航海の後、当時メキシコのアカプルコに入港。ここから先は別の船で大西洋を渡り、マドリードへと旅を続け、1615年(慶長20年)1月スペイン国王フェリーペ3世に謁見、いよいよローマ法王との謁見の時を待った。

 やっとヴァチカン宮殿でローマ法王パウルス5世と謁見、宣教師派遣とスペイン領国との通商を申し込んだ。常長はローマ市民権を与えられ、ローマ貴族に叙せられたが、ローマ法王は宣教師の派遣は同意したが、通商についてはスペイン国王に一任しただけだった。再びスペインに戻った常長は、長旅の疲れで健康を害し、旅費も欠乏してきた。それでも常長は国王、法王にメキシコとの通商許可の請願を繰り返し、使命を果たそうとした。

 通商交渉を有利に運ぶために、政宗はキリスト教徒の保護者であるという姿勢を示していた。しかし、日本で多数のキリシタンが迫害されている事実はスペインでもローマでも明らかになっていた。二枚舌外交を見抜かれていて、遠方から来た使節を迎える儀礼的な歓迎はあったが、交渉は成功しなかった。

 常長は、良い返答を得られないまま、やむなく帰路についた。メキシコまで戻った常長は、迎えに来ていたサン・ファン・バウティスタ号に乗り、フィリピンのマニラに到着、長崎に渡る。出帆から7年後の1620年(元和6年)にようやく仙台にたどり着いた。

 常長が帰国したとき、すでに日本は禁教の時代になっていた。常長は帰国2年後の1622年(元和8年)7月、失意のうちに病死した。享年52歳。宣教師ルイス・ソテロは、1622年(元和8年)マニラから日本に密入国しようとしたが捕らえられた。伊達政宗の助命嘆願にかかわらず、1624年(寛永元年)長崎・大村の放虎原で火刑により殉教した。     
 

●月浦(つきのうら)

 サンファン館から南東、車で10Kmほどの高台から急坂を降りたところに、小さな漁港がある。石巻市月浦に17:00着く。

 月浦は、支倉常長の慶長遣欧使節「サン・ファン・バウティスタ号」が出帆した地。奥まった入江だが、遺跡はないようだ。

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 月浦を見下ろす高台に、小さな公園があり支倉常長の銅像が立っていた。そのすぐ傍にはまだ仮設住宅がある。

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 石巻市の北部へ、細い山道をたどったて追分(おいわけ)温泉に向かう。


●旅館追分温泉

 旅館追分温泉は、石巻市北上町女川にあるひなびた木造の鉱泉宿。18:35到着。

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 到着が遅くなり、19:00~個室で夕食。海鮮や地元の旬の食材をふんだんに使った素朴な料理を楽しむ。そして備え付けのカラオケ装置で熱唱。

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 この後入浴。ここは、昔の金山から湧き出した鉱泉で、珍しい榧(かや)の木造りの浴場だった。

 客室や館内設備は質素で、宿泊料は1泊2食6,700円。3部屋に分かれて宿泊するが、就寝前に大部屋に集まり、缶ビールを飲みながら大阪都構想の住民投票開票状況のTVを視聴。

 都構想反対が賛成を僅差で上回って、大阪市は存続することになった。都構想を推進した橋下市長は、12月の任期を待って辞めるそうだ。今後、安倍政権の憲法改正のシナリオや野党の再編成への影響に注目したい。

 この旅館は、東日本震災で80人もの被災者の宿泊を受け入れ、半年間ほど支援した。

 23:30就寝。


 ★ ★ ★ 

 ポルトガルとスペインが世界の海を支配した大航海時代の末期、16世紀から17世紀にかけて日本にキリスト教と鉄砲が伝来した時代だった。「天正遣欧使節」と「慶長遣欧使節」の二つの使節が、ヨーロッパをめざした。
 1582年(天正10年)、九州のキリシタン大名3人(大友宗麟・大村純忠・有馬晴信)が、4人の少年を名代としてインド洋経由でローマへ派遣、8年後の1590年(天正18年)に帰国した。日本でのキリスト教布教の主導を図るイエズス会が、日本での布教の成果を誇示し、本国から更なる支援を得ようとしたのがこの天正使節だった。

 その23年後の1613年(慶長18年)、政宗は家臣・常長をメキシコ、スペイン、ローマまで太平洋と大西洋を渡って派遣、7年後の1620年(元和6年)に帰国した。天正使節と目的は全く異なり、慶長使節は当時スペインの植民地であったメキシコとの通商と宣教師派遣をスペイン国王とローマ法王に要請するために送り出した本格的な外交使節であった。

 1612年(慶長17年)、江戸幕府はキリスト教禁止令を出した。帰国した天正使節の4少年は、初めは歓待され表舞台で活躍するが、やがて棄教、国外追放や殉教などの運命を選ぶ。長崎県大村市には、4少年の顕彰の像が建っている。

 マドリードで洗礼を受けた常長は、派遣中に禁止令が出たので、帰国後は冷遇されてひっそりと暮らし、2年後に病没した。晩年の常長の記録はほとんどないという。常長の偉業は、江戸時代は歴史の中に埋もれてしまったのだ。

 明治維新後、岩倉具視の欧米視察団はイタリアのベネチェアを訪れた際、"Fasicura"というローマ字の署名が入った文書を発見する。200年以上の時を超えて、支倉常長の偉業が脚光を浴びることになった。    

2015年5月25日 (月)

仙台・石巻の旅-その1

 2015年5月16日(土)~18日(月)、2泊3日の仙台・石巻の旅。
 

 伊達正宗と支倉常長(はせくら・つねなが)ゆかりの地を行く、宮城復興支援の旅。

 1日目は仙台市内を巡り、特に伊達政宗、仙台藩や支倉常長の歴史を探訪。旅の一行は、総勢9人。

 
 新幹線「やまびこ133号」は、12:04仙台駅に到着。関東、東北地方は午前中雨だったが、昼前には青空が出て、気温19度。半袖シャツで十分、風がさわやかで気持ち良い。

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 駅西口からすぐの宿泊先「ホテルモントレ」(仙台市青葉区中央4丁目)に行き、荷物を預ける。駅にもどり、東口から楽天イーグルスのグッズショップ前を通り、予約してあった牛たん専門店へ向かう。

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●牛たん

 牛たんは、仙台の定番グルメ。仙台市内には20店舗以上の牛たん専門の店が構える。

 12:45、駅東口から徒歩5分ほどの牛たん炭焼「利久」東口本店(仙台市宮城野区榴岡4丁目)に入る。

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 牛たん定食は、牛たん焼き、麦飯とテール(牛の尾)スープのセットが基本。麦飯は、あっさりして牛たんと相性が良いとのこと。とろろとミニサラダが付いたヘルシーセットが1,200円(税抜き)。まず、生ビールで喉を潤す。

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 仙台駅西口前で、仙台在住の旧友と合流、合計10人のツアーとなった。

 循環バス「るーぷる仙台」は、仙台駅西口前バスプールのりばを起点に、仙台市内の観光スポットを約70分で巡る。1日乗車券620円。

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 13:45、バスに乗車。メインストリートの「青葉通り」を通って行くが、交差する通りでは時々お囃子や歓声が聞こえ、車窓からチラッと踊りの行列が見える。

 仙台三大祭の一つ「青葉まつり」の本まつりは、明日17日(日)だ。約4,000人の壮大な時代絵巻のパレードが市内を巡行するらしい。今日は、その前日の「宵まつり」の日。あちこちの広場や通りで行われる「すずめ踊り」の演舞に、市民数千人が参加する。

 バスの中で、テープによる観光案内を聞きながら、約20分後に博物館・国際センター前に到着、下車。

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 すぐ先の仙台城跡(青葉山公園)の中を散策しながら、博物館に向かう。午前中の雨に打たれた新緑が清々しい。

●仙台市博物館

 14:15、仙台城三の丸跡にある「仙台市博物館」(仙台市青葉区川内)に入館(400円)。

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 ガイドの案内で、支倉常長の偉業と伊達政宗、仙台藩の歴史を中心に「常設展」を観覧する。ガイドの話では、特別展開催中のため、常設会場が縮小されていて、常設の展示品は少なくなっているとのこと。

 支倉常長の展示品を見る。

 右のロザリオを持つ「支倉常長像」は、日本人が描かれた最古の油絵。左は、常長が拝謁したローマ教皇パウロ5世の肖像画。下は、ローマ市議会が常長に与えた羊皮紙に書かれた「ローマ市公民権証書」。

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 この3点は、いずれも国宝(慶長遣欧使節関係資料)、ユネスコ記憶遺産登録資料。

 1613年(慶長18)政宗は、支倉常長らをスペイン領のメキシコを経由してスペイン、ローマへと「慶長遣欧使節」を派遣する。メキシコ(スペイン)との貿易を行うと理由で、家康の許可を得た正式な外交使節団だった。またローマ教皇に会い、仙台領内での布教のため宣教師派遣を要請する目的もあった。

 しかしその後幕府は、禁教令を出し宣教師とキリシタンの弾圧を始める。この情報がヨーロッパにも伝わり、外交交渉は失敗に終わった。苦難の道を歩んだ常長は、失意のうちに帰国した。

 伊達政宗は、出羽国と陸奥国の戦国大名である伊達氏の第17代当主。やがて勢力を拡大して奥羽(現在の東北地方)最大の大名となる。豊臣秀吉に臣従し、関ケ原の戦いでは東軍につく。仙台藩の初代藩主となり、70歳で江戸で死去した。

  幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明したが、「独眼竜」と呼ばれたのは後世明治期の小説家によるもの。

 狩野派の絵師が描いた正装した伊達政宗の肖像画。政宗の「両目が整った姿にするように」との遺言が守られている。

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 伊達政宗の「黒漆五枚胴具足」。金色の細い三日月形の前立(まえだて)は、有名。重要文化財に指定。

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 伊達政宗は1601年(慶長6)、岩出山(宮城県大崎市)から仙台(千代)に本拠地を移し、領民を岩出山から移住させ、城下町を整備、治水工事や新田開発に力を入れるなど、仙台藩62万石の基礎を築いた。

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 仙台城がある青葉山は、市街地の南西にある標高130mほどの丘陵。東と南を断崖が固め、麓には天然の堀となる広瀬川が曲流しているため、天然の要塞となっている。家康に警戒されまいと天守閣は造らなかったそうだ。

 東日本大震災の復興を祈念する特別展「国宝・吉祥天女が舞い降りた!―奈良・薬師寺 未来への祈り―」が開催中。

 奈良・薬師寺の名宝を観覧する。入館料1,300円(割引券1,200円)。

 薬師寺は、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈念し、680年に建立を発願。天武天皇が没した後、その事業は持統天皇に引き継がれ、藤原京(橿原市)に創建。その後平城京へと移り、およそ1300年後の現在まで数々の貴重な文化財が所蔵されている。

 この特別展の目玉は、奈良時代の国宝「吉祥天女像(きちじょうてんにょぞう)」と飛鳥~奈良時代の国宝「聖観世音菩薩立像(しょうかんぜおんぼさつりゅうぞう)」。

 撮影禁止のため、パンフを掲載する。左の写真の左部分に「吉祥天女像」。右の写真が「聖観世音菩薩立像」の拡大図。

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 「吉祥天女像」は、麻布(まふ)に描かれ額装仕立てになっている。独立画像として現存最古の彩色画だそうだ。このお姿は、光明皇后を写した伝えられ、天平(てんぴょう)美人の優しい面影、着衣の優雅な色彩と繊細な文様は、天女の衣にたとえられる。千年以上も前の絵画とは思えない美しさ、素晴らしさを目にする。大きさは、53×32cmでA3サイズより一回り大きい程度。

 「聖観世音菩薩立像」は、像高189cmセンチで、台座もあるので見上げるように大きい。この観世音菩薩は、均整のとれたスタイルと、優しい微笑をたたえている顔立ちは、日本屈指の美しい「観音さま」といわれている。銅製だが薄い衣と透けて見えるおみ足が表現されている。

 普通は正面からしか拝観することができないが、特別展では前後左右360度からも見ることができた。背中と逆三角形の上半身、腰回り、そして二の腕は実際の女性のようにリアルだ。私たちの悩みや苦しみをお救い下さる慈悲のお心の観音菩薩様は、男性か女性か。我々俗人は不謹慎ながら、女性の色気を感じてしまう。

●瑞鳳殿(ずいほうでん)

 博物館から次のスポット「瑞鳳殿」まで、25分ほど歩く。

 途中で、市内を流れる広瀬川(名取川の支流)に架かる大橋と評定河原(ひょうじょうかわら)橋の2つの橋を渡るのは、広瀬川が大きく蛇行しているため。

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 参道入り口の循環バスの瑞鳳殿前バス停から、長い坂道を登ると「瑞鳳寺」。さらに長い階段を上り、16:00「瑞鳳殿」(仙台市青葉区霊屋下)に着く。観覧料は550円、「るーぷる仙台」の乗車券の提示で450円に割引。

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 仙台市の南西、経ケ峯にある「瑞鳳殿」は、初代藩主・伊達政宗を祀る霊廟で、政宗の遺言により造られた。仙台空襲で全焼したが、1979年(昭和54)再建された。

 瑞鳳殿の手前にある涅槃門。この門が、現世と冥界(あの世)の境界だそうだ。ガイドの案内で、あの世に入る。

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 本殿の全景を写せなかったが、ここ扉の中に正装した政宗公の像が祀ってあるそうだ。

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 本殿の扁額、天女と鳳凰の彫刻。

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 本殿両脇には、殉死した家臣15名および陪臣(直臣でない家臣の家臣)5名の宝篋印塔(ほうきょういんとう、墓塔・供養塔など仏塔の一種)が並ぶ。

 近くに第2代藩主・忠宗を祀る「感仙殿」(写真下)と、第3代藩主・綱宗の「善応殿」が建つ。

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 伊達秀宗は、伊達政宗の庶長子であった。はじめ政宗の世子として育てられた。幼いころから人質として秀吉に預けられ、秀の字をもらって秀宗と名乗り、豊臣姓まで賜った。やがて天下が豊臣家から徳川家に移ると、家康に預けられた。その後、政宗と正室・愛姫との間に忠宗が生まれたので、庶子の秀宗は立場を失った。

 このため、政宗は徳川家に秀宗の身が立つように嘆願、大坂冬の陣で政宗と秀宗が共に徳川方として従軍すると、幕府は秀宗の忠義に報いるとの理由で、1614年(慶長19年)、秀宗は徳川秀忠より伊予の宇和島藩10万石を与えられた。異母弟の忠宗は、1636年(寛永13)、父・政宗の死去にともない家督を相続、第2代の仙台藩主となった。

 第3代藩主・綱宗は、六男であったが、兄たちが早世したり養子に出されたいたため、嫡子となり、1658年(万治3年)父・忠宗の死により若年で家督を継ぐ。しかし酒色に溺れて藩政を顧みなかったため、幕命により21歳の若さで隠居させられた(綱宗隠居事件)。家督は、綱宗の2歳の長男亀千代(後の伊達綱村)が継いだ。この間の経緯は、後の伊達騒動のきっかけになっている。

 伊達政宗や伊達家の裏話を交えたガイドの話は、大変おもしろかった。   

 循環バスで移動する予定だったが、時間の関係でタクシーで3台を拾って仙台城本丸へ。

●仙台城本丸跡

 陽も傾いた17:15、仙台城本丸跡(仙台市青葉区川内)に着く。青葉山にあるので青葉城とも呼ばれる仙台城は、石垣と復元された大手門脇の櫓(やぐら)のみが残る。一部は青葉山公園となっていて、伊達政宗公騎馬像の建つ天守台からは、仙台市内・太平洋が一望。(写真をクリックすると拡大表示されます。)

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 仙台のシンボル伊達政宗公騎馬像。

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 1935年(昭和10年)に完成した政宗公の騎馬銅像は、戦時中の金属類回収令で供出され、仙台城跡から姿を消した。1953年(昭和28年)、仙台城跡にセメント立像の政宗公平和像が設置された。しかし、騎馬銅像の復活を仙台市民が強く望んだため、1964年(昭和39年)今日の銅像が復元した。

 本丸跡には、護国神社(写真下)や、青葉城資料展示館やレストラン、売店、結婚式場を併せ持つ本丸会館などがある。

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 昭忠塔の上部にあった金鵄(金のトビ)鋳造は、東日本大震災で落下し崩壊した。明治維新後、陸軍第二師団の前身となる鎮台が置かれていたが、西南の役から日清戦争まで、戦いで亡くなった東北各地の将兵を慰霊するため、1902年(明治35)に竣工したもの。

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 本丸跡には、仙台出身の作詞家・土井晩翠の像と名曲「荒城の月」の歌碑もある。

 北西の二の丸跡はもっとも広大で、現在は東北大学の敷地となっている。

 再びタクシー3台で、駅西口前まで移動。循環バス「るーぷる仙台」の1日乗車券620円を活用しようと思ったが、結局バスは1回しか乗らなかった。1回乗車は260円なので、360円の損。


●みわ亭

 17:50、仙台駅西口前からすぐ、アジュール仙台2階(青葉区本町1丁目) にある和風の個室居酒屋 「伊達の旬菜~みわ亭」に入る。

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 仙台在住のS氏を交えて懇親会。季節の海鮮と野菜のコース料理+飲み放題。宮城県が誇る地酒「浦霞」がうまい。

 20:40から2時間、仙台駅西口前からすぐのカラオケ「ビッグエコー仙台駅前店」(青葉区中央1丁目)に入り、全員がそれぞれ2~4曲を熱唱。

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 22:40、 S氏と別れて、一行はホテルへ帰る。

 23:00、ホテル着。シャワーを浴びて、12:00頃就寝。

 ★ ★ ★

 伊達政宗は1567年(永禄10)、出羽国米沢城で生まれ、幼名は梵天丸。元服して伊達藤次郎政宗と名乗る。

 幼いころより禅僧・虎哉宗乙(こさいそういつ)に師事し、文武両道に優れた人物であった。17歳で家督を相続すると、かつての伊達家の繁栄を取り戻すべく奥州の領土奪回・拡大を目指す。周囲の大名・豪族を配下または傘下に加え、佐竹氏や上杉氏と同等以上の広大な領地を獲得した。政宗は、武略だけではなく、知略にも長けた戦略的な能力の持ち主であった。

 しかし、豊臣秀吉による天下統一事業が着々と進み、当時伊達家と同盟を結んでいた北条氏の小田原城攻めが開始された段階で、とうとう秀吉に臣従した。関が原の戦いでは徳川家康の東軍側に付き、東北の諸大名と共に会津の上杉景勝を牽制した。よって仙台藩62万石が誕生し、政宗は初代藩主となった。

 藩主となった政宗は、積極的に徳川家へ接近する。家康は、政宗を警戒しながら対応していたらしい。二代将軍・秀忠には御意見番として、「仙台公」あるいは「仙台黄門」など呼ばれ、三代将軍・家光は「伊達の親父殿」と言われて親しんだという。

 秀吉や家康、秀忠、家光という権力者に対する振る舞いから危険視され、また一目を置かれる存在となる。知略とともに謀略にも長けた大名であったのだろう。幕末まで続いた仙台藩の基礎を確立した政宗は、大名としては稀有の存在であったに違いない。また書や漢詩などにも秀でていて、残された直筆の書状も多い。


 ★ ★ ★

 仙台藩は、陸奥国の仙台城に藩庁を置いた表高62万石の雄藩。現在の岩手県南部から宮城県全域と福島県新地町までの60万石を治め、更に茨城県と滋賀県に合計約2万石の飛び地があった。

 「樅の木は残った」は山本周五郎の歴史小説で、NHK大河ドラマにもなった。その題材となった江戸時代前期に仙台藩で起こった「伊達騒動」は、「黒田騒動」、「加賀騒動」とともに三大お家騒動と呼ばれる。1660年(万治3年)綱宗の隠居事件は、その後1665年(寛文5年)の寛文事件、1697年(元禄10年)の綱村隠居事件と、騒動は3期に渡り続いた。

 戊辰戦争では「奥羽越列藩同盟」を結成し、盟主となった。仙台藩は当時、国内有数の兵力を有していたが、英国から大量に最新型銃器を購入していた薩摩・長州軍と比べ、銃器の数や性能が圧倒的に劣っていた。

 会津藩が若松城に篭城する一方で、仙台藩は北上する新政府(薩摩・長州)軍と戦い降伏した。敗戦後仙台藩は、明治政府より表高62万石から実高28万石に減封される。減封よって仙台藩は、家臣らを帰農させたり解雇したりのリストラをしたので、北海道開拓のため移住をした者も多い。

 仙台藩は、分家の宇和島藩より格下とされた。仙台伊達家は伯爵だが、宇和島伊達家は侯爵となった。

 

 ★ ★ ★

 瑞宝殿の見学が終わった時点で、コンパクトカメラでそれまで撮影した写真が、全部消えてしまった。

 明らかに誤操作ではなく、カメラの誤動作だったか。または、SDカードが何らかの原因で破損(物理的でなく論理的な破損)したようだ。その後は、もう一台の一眼レフカメラで撮影を続けた。

 自宅に帰ってパソコンで確認したが、写真は出て来ず。消えたのは133枚。SDカードの信頼性も100%ではない。メーカー品でないものや古いカードは、注意したほうが良いと聞く。
 帰った当日の夜から、SDカードのデータ復元作業に格闘した。翌日、2枚を除いてやっと画像データを復元できた。ただ、写真のプロパティ・データは回復できてない。

 復元した写真を使って、このブログ記事をなんとか書き上げた。

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