両国・お茶の水界隈-その2
2015年1月25日(日)、両国・お茶の水界隈の史跡を巡る。
本ブログの記事「両国・お茶の水界隈-その1」の続き。
両国駅前で遅い昼食を済ませ、13:41両国駅から総武線に乗る。
13:47、御茶ノ水駅下車。
●ニコライ堂(13:52~14:07)
「ニコライ堂」の名で知られる「東京復活大聖堂教会」は、ギリシャ正教とも呼ばれる正教会の教会。イイスス・ハリストス(イエス・キリストのギリシャ語読み)の復活を記憶する聖堂。
江戸時代末期の1861年(文久元年)に、函館のロシア領事館の司祭として来日したギリシア正教会大主教・聖ニコライが、1884年(明治17年)に駿河台の火消屋敷跡に建設を始め、1891年(明治24年)に竣工。
ロシア人シチュールポクの原設計、イギリス人コンドル(日本における西洋建築の草分け)の実施設計によるものであった。関東大震災で被災し、1929年(昭和4年)に修復された。国の重要文化財。石造りの重要文化財としては、最も古い。
正教会は、東方正教会とも呼ばれる。ローマ・カトリック教会やプロテスタントの諸教会が西ヨーロッパを中心に広がったのに対し、キリスト教が生まれた中近東を中心に、ギリシャ、東欧から、ロシアへ広がったという。(下は、聖堂のパンフから抜粋)
日本最大のビザンチン式建築物で、水色のドームの屋根と白の壁が美しい、お茶の水のシンボルとなっている。
聖堂の内部は、午後の数時間だけ拝観でき、300円の献金が必要。写真撮影は禁止。
入館するとパンフレットとロウソクを一本渡される。灯りのともった大きな燭台があって、そこから火をもらってお祈りする。
よく見るキリスト教会と祭壇など内部の様子は、かなり違っている。美しいステンドガラスが張り巡らされ、何か荘厳な印象を受ける。教会の女性スタッフから、説明を聴く。
ニコライ堂は、イスラム教のモスクに似ているが、これはそもそも東ローマ帝国の勢力下で興ったビザンチン建築様式で、正教会の聖堂やイスラム教のモスク(礼拝堂)にも利用されたという。
聖橋(ひじりばし)を渡って、湯島聖堂へ向かう。
聖橋から下を見下ろす。JR御茶ノ水駅の中央線快速、神田川とその上を斜めにまたぐ地下鉄丸ノ内線。
聖橋を渡りきって、振り返るとビルの谷間にニコライ堂の丸い屋根が見える。
●湯島聖堂(14:15~14:28)
「湯島聖堂」は、孔子を祀る孔子廟。「日本の学校教育発祥の地」である。湯島天満宮(湯島天神)とともに、合格祈願の受験生が参拝に訪れる。国の史跡に指定されている。
杏壇(きょうだん)門をくぐる。
広い前庭があって、左右に回廊、正面が大成殿(孔子廟)。関東大震災で焼失後、コンクリート造りで再建された。
五代将軍綱吉は、儒学の振興を図るため、1690年(元禄3年)湯島の地に聖堂を創建し、幕府儒臣・林羅山が上野忍岡(現在の上野公園)の私邸内に建てた孔子廟と林家の家塾をここに移した。
その後、およそ100年を経た1797年(寛政9年)、林家の私塾は林家の手を離れ、幕府は官立学校として「昌平坂学問所」を開設した。
教育・研究機関としての昌平坂学問所は、幕府天文方の開成所、種痘所の医学所と併せて、後の東京大学へ連なる。また、この地に設立された東京師範学校(東京教育大学、現在の筑波大学)や東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学) の源流ともなっている。
1975年(昭和50年)、台湾より贈られた世界一大きい孔子銅像。斯文(しぶん)会館の講堂のそばに立つ。
迎高(ぎょうこう)門。本当はこっちが湯島聖堂の入口。右手に、斯文会館(管理棟)がある。
東京都文京区の湯島には、湯島聖堂のほか、湯島天神(天満宮)、春日局の墓所がある麟祥院、東京医科歯科大学などがある。さらに近隣の本郷には、同じく順天堂大学や東京大学病院などの医療機関や医療関連会社が集っている。
湯島と言えば、物理学者・長岡半太郎の伝記に出てくる「湯島小学校」を思い出す。湯島聖堂(文京区湯島一丁目)から少し北に方角の湯島二丁目にある公立小学校。江戸時代の寺子屋が起源だが、明治の学制施行前からの小学校として都内屈指の歴史がある。ほかの出身者に、日本画の横山大観、女形役者・花柳章太郎がいる。
湯島通れば思い出す・・・・、泉鏡花の小説『婦系図』(おんなけいず)を題材とした歌謡曲「湯島の白梅」(歌・小畑実、作詩・佐伯孝夫、作曲・清水保雄)は、昭和17年に発表された。
湯島通れば 想い出す
お蔦(つた) 主税(ちから)の 心意気
知るや白梅 玉垣に
残る二人の 影法師
●神田明神(14:37~14:47)
神田明神は、湯島聖堂のすぐ北にある。国道17号線(本郷通り)を横断し、神田明神の東側にある「明神男坂」と呼ばれる急な石段を登る。
なお、この南側に裏道のような「明神女坂」という石段もあるそうだが、男坂と比べ階段のきつさは変わらないという。
男坂の階段を上り詰めたところに、神田明神の男坂門がある。
神田明神は、千代田区外神田二丁目に鎮座する1300年近くの歴史をもつ神社。正式名称は「神田神社」。江戸時代には「江戸総鎮守」として、将軍から庶民にいたるまで、江戸のすべてを守護。今も、ビジネスの中心地である神田、日本橋、秋葉原、大手町・丸の内など108の町々の総氏神様で、東京都心をお守りする。東京十社の一社。
祇園祭り(京都)、天神祭り(大阪)と並び日本三大祭り、また江戸三大祭りの一つ「神田祭り」をおこなう神社として知られる。
境内は、日曜日とあってか、参列者で賑わいを見せている。ここで行われる結婚式の参列者らしい姿も。御神殿に参拝、今年一年の幸せを祈願する。
立派な随神門から退場する。
社伝によると、730年(天平2)年に出雲氏族・真神田臣(まかんだおみ)により、武蔵国豊島郡柴崎村(千代田区大手町)に創建。その後、天慶の乱(939~940年)に敗れた平将門の首が葬られたが、将門の祟りを鎮めるため、1309年(延慶2)には将門公が「神田明神」の祭神として祀られた。当初、皇居のほとりの大手町にあった。
江戸時代に入ると、家康は当社を深く尊崇し、城下の大規模な造成により、1616年(元和2)には江戸城の丑寅(うしとら)の鬼門にあたる現在の地に移転。江戸総鎮守にふさわしく、幕命により桃山風の壮麗な社殿が築かれた。
関東大震災で、建物は壊滅、昭和9年(1934)年に鉄骨鉄筋コンクリート造り総漆朱塗の社殿を再興。1995年(平成7)より、建物の塗り替えと修復を行い現在に至る。
少し時間があるので、「御茶ノ水駅」前から「秋葉原駅」まで歩くことにする。この日は日曜日で、秋葉原駅前は歩行者天国となっている。下の写真は、神田明神通りと交差する中央通り(正面)付近。
2008年(平成20年)6月8日(日)に、25歳の男が2トントラックとサバイバルナイフを使った「秋葉原無差別殺傷事件」を起こしたのは、この辺りだったろうか。
トラックは、神田明神下交差点から東に向かい、中央通りとの交差点に設置されていた信号を無視して横断中の歩行者5人をはねとばした。トラックを降りた男は、通行人、駆け付けた警官らを無差別に殺傷。7人が死亡、10人が重軽傷。
JR秋葉原駅に到着。
池袋駅東口からすぐの居酒屋「粋酔~SUISUI~」で新年会(15:50 ~18:40) 。
20:25 自宅着。
今日は、両国・お茶の水界隈の名所旧跡を巡り、と秋葉原まで歩いた。ここまでの歩程は、約17,200歩、約10.3Km。都会の雑踏の中を歩いたので少々疲れたが、天気に恵まれ、暖かい新春ウォーキングであった。
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