無料ブログはココログ

« 2014年12月 | トップページ | 2015年2月 »

2015年1月の4件の投稿

2015年1月29日 (木)

両国・お茶の水界隈-その1

 2015年1月25日(日)、両国・お茶の水界隈の史跡を巡る。

 この日は、天気に恵まれて快晴。日差しが暖かい、最高気温は12℃。

 
 

●JR両国駅

 JR秋葉原駅で総武線に乗り換え、9:56両国駅に到着。

Img_6019

 駅西口の改札口前には、国技館に飾られていた毎日新聞社の優勝額や横綱力士の手形が展示されていた。

 
Img_6015

 駅前の露店の向うに、両国国技館の幟(のぼり)と櫓(やぐら)が、目に飛び込む。

Img_6270

 23日の大相撲初場所13日目で、東横綱・白鵬は大関・稀勢の里を下し、千秋楽を待たず5場所連続、33回目の優勝を飾った。33度目の優勝は、昭和の大横綱・大鵬の史上最多優勝回数の記録を塗り替えた。

 この日の25日は千秋楽とあって、まだ午前中だが駅前は混雑している。白鵬は、全勝優勝をかけて西横綱・鶴竜と闘う。

 

 両国駅西口を10:10出発。

 手前の緑の屋根が両国国技館。奥の白い建物が江戸東京博物館。

Img_6025

 

●横網町公園(10:22~)

 
 「旧安田庭園」に向かう途中にある「横網町(よこあみちょう)公園」は、都立の公園。関東大震災と東京空襲のメモリアルパーク。

 両国の国技館に近いので「よこづなちょう」と読みそうだが、「よこあみちょう」である。

 この場所は震災の時、陸軍被服廠跡の空き地だった。3万8千人の避難者がここに逃げ込んで焼死した。また東京空襲の犠牲者が多くここに仮埋葬された。東京都慰霊堂や復興記念館が建てられている。

 東京都慰霊堂は、ちょうど耐震補強の工事中。完成性は2016年(平成28)春の予定。

Img_6037

 関東大震災の死者を追悼するため中国仏教徒から送られた梵鐘。

Img_6039

 「震災遭難児童弔魂群像」は、関東大震災で被災し犠牲となった東京市の小学校児童5千人を弔うために作られた。

Img_6042

 

 
●旧安田庭園(10:27~10:38)

Img_6052

  「旧安田庭園」は江戸時代、本庄松平氏(常陸笠間藩、のち丹後宮津藩)の下屋敷だった。元禄年間に大名庭園として築造され、安政年間に隅田川の水を引いた潮入り回遊庭園として整備された。明治になって、安田財閥の祖である安田善次郎氏が所有。氏の没後、1936年(大正11年)に東京市に寄贈された。現在は墨田区が管理する。入園無料。

Img_6050

 

●隅田川テラスと蔵前橋

 隅田川テラスを上流に向かって歩く。隅田川テラスは、隅田川の両岸にある親水テラスで、散策路となっている。護岸壁には、浮世絵や小中学校の作品の壁画が並ぶ。

 明治までの隅田川の川岸には、水勢を弱め護岸の役目をする杭が多数打たれていた。特にこの辺りは「百本杭」と呼ばれていて、隅田川の風情として親しまれていたそうだ。明治末期には、護岸工事でほとんどが抜かれたが、下の写真ように杭が再現展示してある。

Img_6060

 上流に見える「厩(うまや)橋」は、春日通りを通す橋。米蔵とともに厩が並んでいて、馬を対岸へ渡す為、「厩の渡し」があった。1874年(明治7年)に、現在よりも約100mほど下流に架橋、現在の橋は1929年(昭和4年)に架けられた。川底に都営地下鉄大江戸線が通っている。隅田川テラスの上は、首都高6号向島線が通る。

Img_6068

 黄色の「蔵前橋」は、蔵前橋通りを通す橋。西岸は台東区蔵前、川沿いに幕府の米蔵が並んでいた事から名付けられた「蔵前通り」の地名が、橋名となった。東岸は墨田区横網。関東大震災の復興計画により 1927年(昭和2年)、現在の橋が架橋された。それ以前は「富士見の渡し」と呼ばれていた渡船場があった。

Img_6070

 10:52、蔵前橋を渡る。 

Img_6071

 
      
●浅草御蔵跡(10:55)

 蔵前橋の蔵前側の橋のたもとに、「浅草御蔵跡」の石碑と説明板が立っている。

Img_6075

 浅草御蔵というのは、江戸幕府が全国に散らばっている天領から運んだ年貢米や買い上げ米などを収納・保管した米蔵。大阪、京都の二条城と合わせて「三御蔵」と呼ばれていた。 浅草御蔵の前を御蔵前と呼び、「蔵前」の地名となっている。

   
●玩具問屋街

 蔵前・浅草橋の問屋街は、神田川にかかる浅草橋から春日通り交差点までの「江戸通り」のおよそ1.2Kmの道路の両側に並んでいる。この通りには、玩具、文具、花火、人形などの問屋街として、発展してきた。現在では、ビーズ、装飾品、手芸などのお店も加わり、個性豊かな特色のある問屋街として高い人気がある。

 11:00、蔵前一丁目交差点の玩具店「山縣商店」。シャッターが閉まっていた。

Img_6080

Img_6079

 

●鳥越神社(11:07~11:13)

Img_6082

Img_6089

 この地「浅草鳥越」は、平安後期頃までは、白鳥村と称していた。651年、小高い丘(白鳥山)の山頂に、東征した日本武尊を祀って白鳥神社を建てた。永承年間(1046~1053年)、奥州安部氏の反乱鎮定のため源頼義・義家父子が東国に向かう際、一羽の白い鳥が大川(隅田川)の浅瀬に降り立つのを知り、軍勢を無事対岸に渡すことに成功した。義家は、これは白鳥明神の御加護であるにちがいないと、山頂の本社に参拝、鳥越大明神の御社号を奉り、以後「鳥越神社」と称されるようになった。

 江戸時代の初め頃までは、神社は約2万坪の広大な敷地だった。江戸城築城や池・川の埋め立て用土砂の採取、旗本や大名屋敷用地として、徳川幕府にほとんどの土地を取り上げられてしまったという。
      
 見ることはできなかったが例大祭に出る「千貫神輿」は、都内最大級を誇るそうだ。例大祭「鳥越まつり」は、例年6月に開催される。 

 

 
●榊(さかき)神社( 11:20~11:24)    
      
 日本武尊が東夷征伐の折、西暦110年(景行天皇40年)に創建したという。もとは「第六天神社」と称し、森田町(現、蔵前3丁目)に鎮座していたが、1719(享保4年)浅草不唱小名(柳橋1丁目)へ遷座。明治の廃仏毀釈により社号を「榊神社」へ改称。1928年(昭和3年)「浅草文庫」の跡地であった当地へ移転した。

 浅草文庫は、1874年(明治7年)に創設された官立図書館で、翌年に開館。和・漢・洋の蔵書数は11万余冊とも13万余冊ともいわれていて、現在その蔵書は国立公文書館内閣文庫、国立国会図書館、東京国立博物館などに所蔵されている。浅草文庫は、1881年(明治14年)に閉館した。

 その後は東京職工学校(後に東京高等工業学校、現東京工業大学)の校地となっていた。関東大震災後に東京高等工業学校が目黒区大岡山へ移転したことから、1928年(昭和3年)には、その跡地の一部に当社が遷座し現在に至る。

Img_6100

Img_6103
 

     
●人形問屋街

 
 江戸通りを南下すると浅草橋の近くに人形問屋街がある。創業1835年(天保6年)の「久月 浅草橋本店」に寄ると、ひな人形が多数展示され、混み合っていた。

Img_6115

Img_6116

 隣には「秀月」、ほかにも「吉徳」の店などがあった。

Img_6123

    
      
●浅草橋と両国橋

 11:44 、神田川に架かる「浅草橋」を渡る。屋形船が停泊するその先は、「柳橋」が架かり隅田川につながる。

Img_6132

 11:49 、柳橋から逆に浅草橋を望む。左手は屋形船の船宿。

Img_6146

 11:52、「両国橋」を渡る。総武線の鉄橋とスカイツリーが見える。

Img_6155

 「両国橋」は、国道14号(靖国通り・京葉道路)を通す橋。本来の名は「大橋」であったが、武蔵と下総の国を結ぶ橋という事から「両国橋」と呼ばれた。江戸時代最大の火災である「明暦の大火」(1657年、明暦3年)で多数の犠牲者がでた為、防災上と江戸市街拡張のため、1659年(万治2年)に架設。現在の橋は、震災復興事業として、1929年(昭和7年)に架けられた。

     
●回向院(えこういん、12:00~12:14)

 明暦の大火の犠牲者を弔うために、1657年(明暦3年)に開かれた浄土宗の寺院。

Img_6168

 明暦の大火で、10万以上の 焼死者を将軍・徳川家綱の命によって葬った万人塚が 始まり。のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬した。

Img_6180   

 江戸時代の勧進相撲の舞台ともなった。鼠小僧次郎吉の墓(写真)もある。

Img_6189

 そのほか、水子供養や犬猫や鳥の動物供養の碑など、数々の石碑が所狭しと並ぶ。境内は、思ったより広くない。

    
●時津風部屋(12:19)

 墨田区両国三丁目、マンション風のビルの1階に時津風部屋がある。「時津風部屋」と「双葉山相撲道場」の二つの看板が掲げられている。

Img_6203

 69連勝の大記録を打ち立てた大横綱・双葉山は、現役の1941年(昭和16年)立浪部屋から独立して「双葉山相撲道場」を設立。1945年(昭和20年)11月場所限りで現役引退して12代時津風を襲名、同時に「双葉山相撲道場」は「時津風部屋」と改称した。1957年からは11年間理事長を務めた。また横綱・鏡里、大関・大内山・北葉山・豊山の多くの力士を育成した。

 2007年(平成19年)6月に起こった時津風部屋力士暴行死事件で、17歳の新弟子・時太山(序ノ口)が、愛知県犬山市の宿舎で暴行を受け死亡した。暴行を指示した15代時津風親方(小結・双津竜)と暴行に関わった兄弟子3人は、傷害及び傷害致死で逮捕され、相撲協会から解雇された。

 15代時津風の後継16代時津風(前頭・時津海)は、2010年(平成22年)6月に野球賭博をしていた事実が発覚(大相撲野球賭博問題)し、平年寄りへの降格処分を受けた。

 大横綱・双葉山が創設した名門の「時津風部屋」は、これで消滅する危機に瀕したのだ。

 この近辺には、陸奥部屋、春日野部屋、井筒部屋、出羽ノ海部屋、大島部屋などの相撲部屋が多い。すみだ観光ガイドが案内する「相撲コースガイドツアー」というのがあるらしい。(90分1人500円、場所中のみ催行)

 

●本所松坂町公園(12:21~12:24 )

 回向院のすぐ東にある公園。赤穂浪士が討入りした吉良上野介の上屋敷跡。公園は周囲を高家の格式をあらわす長屋門を模した塀と門で囲まれている。

Img_6216    

 公園と言っても約100平方m(30坪)ほどの敷地に、吉良邸内にあった吉良首洗い井戸、松坂稲荷社があり、説明板、吉良邸見取図や資料などが展示されている。写真は、吉良上野介の像。

Img_6215

 吉良邸は、浅野匠頭守による殿中刃傷事件の後の1701年(元禄14年)、上野介が当地を拝領して建設された吉良家の上屋敷で、坪数2,550坪あった。

 
      
●勝海舟生誕の地(12:27~12:32)

 両国小学校のそばの両国公園の中に、「勝海舟生誕の地」の石碑がある。

Img_6228

Img_6225

 勝海舟は、墨田区の本所亀沢町の父小吉の実家・男谷家で1823年(文政6年)に誕生。幼名は麟太郎。青年期まで墨田の地で学問や剣術の修行に励み、その後蘭学を修め、西洋の兵学、砲術、航海、測量法などを学んだ。1860年(安政7年)、咸臨丸艦長として日本人初の太平洋を横断、米国を訪問した。1868年(慶応4年)、高輪の薩摩藩邸において西郷隆盛と会見し、江戸城無血開城を果たす。明治政府に重用され、参謀兼海軍卿・元老院議官などになり伯爵となった。 

      
●芥川龍之介の文学碑(12:33~12:35)

Img_6234

 出身校の両国小学校(当時は江東尋常小学校、墨田区両国4-26)の角に、芥川龍之介の自署、児童文学『杜子春(とししゅん)』の以下の一節が刻まれている。

 「-- お前はもう仙人になりたいといふ望も持つてゐまい。
  大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。
  ではお前はこれから後、何になつたら好いと思ふな。」
 「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」
  杜子春の聲には今までにない晴れ晴れした調子が罩(こも)って
  ゐました。
                                「杜子春」より

      
●相撲写真資料館(12:37~)

 1929年(昭和4年)に、先代が旧両国国技館の脇に開業して以来、相撲協会の専属を務めた「工藤写真館」が運営する写真の博物館。

Img_6235

 相撲協会の公式行事や歴代横綱、優勝力士、幕内全力士をはじめ、国技館の変遷、相撲部屋の様子など、相撲に関する写真を数多く所蔵。各場所ごとに、70枚ほどを展示している。入場無料。

 

 

 回向院から両国駅に向かう通りの歩道には、横綱力士の土俵入りのブロンズ像と手形が並ぶ。

Img_6242

 

 
●花の舞(12:51~13:34)

 両国駅前に戻り、食事処「大江戸八百八町 花の舞 両国国技館前店」 に入る。

Img_6252

 店内に入ると、通路の左右に個室が並ぶ。

Img_6255

 さらに通路を奥に進むと、正面に国技館を模した土俵があり、土俵の周りには人気の「升席」もある。

Img_6253
   
 生ビール500円、そばセット800円(税抜き)を注文。      

 昼食を済ませ、両国駅から総武線に乗り「御茶ノ水駅」で下車。午後からは、お茶の水界隈の旧跡を巡ることにする。   

 

 次回のブログ記事「両国・お茶の水界隈-その2」に続く。

 

 なお関連ブログ記事は以下の通り。

  2013年7月 「隅田川水上バスと浅草寺」
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-98b3.html

2015年1月21日 (水)

捏造の科学者

 単行本『捏造の科学者~STAP細胞事件』(須田桃子著、文芸春秋)が、売れている。2015年1月7日発売の第1刷分は、一週間でほぼ完売したそうだ。

 

 1月9日午後の日本テレビの情報番組「ミヤネ屋」で、著者である毎日新聞科学環境部の須田桃子記者が出演していた。司会の宮根氏とのやりとりの最後で、驚く話があった。学術論文では、投稿者側が査読(学術誌に掲載前の論文を専門家が評価・検証すること)して欲しくない人物を指定できるそうだ。このSTAP細胞論文では、iPS細胞の山中伸弥教授が査読から排除されていたという。

 この番組を視聴して気になっていたが、17日の朝日新聞2面にこの書籍が全5段の広告で掲載され、読んでみたくなる。第2刷は、15日から配本が開始された。

Book_img170t

 
 1月18日、ネット販売のアマゾンでは、在庫切れ。駅前の本屋にかろうじて1冊だけ残っていたので購入。21日読了。

Book_img168 

 昨年1月、理化学研究所(理研)の小保方晴子氏は、チャールズ・バカンティ教授(ハーバード大学)や若山照彦教授(山梨大学)と共同でSTAP細胞を発見したとして、論文2本を科学誌「ネイチャー」に発表した。記者会見では、生物学の常識をくつがえす大発見とされ、若い女性研究者・小保方氏が脚光を浴び、世間から大いに注目された。

 STAP細胞(刺激惹起性多能性獲得細胞、Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency cells)は、動物の体細胞を弱酸性溶液に浸すなどの外的刺激を与えて、体のどんな部分にもなれる能力を獲得させたとされる細胞。この新たな細胞は、ES細胞(胚性幹細胞)やiPS細胞(人工多能性幹細胞)を上回る「第3の万能細胞」だという。短期間に大量に作製できるなど、将来の再生医療への応用が期待されている。

 しかし、インターネットで論文の不正疑惑が多数指摘され、若山教授は論文撤回を呼びかけた。理研もSTAP細胞論文に捏造や改ざんなどの不正があったことを認めたが、論文共著者で理研の発生・再生科学総合研究センター(CDB)副センター長・笹井芳樹氏は、釈明を繰り返し小保方氏をかばっていた。

 STAP細胞論文について理研は不正を認定し検証実験を開始したが、4月の記者会見で小保方氏は、なおもSTAP細胞は存在すると反論。しかし7月、ついにSTAP細胞論文は撤回された。様々な責任が追及される中、8月には笹井副センター長は首吊り自殺してしまう。笹井氏の死とCDB解体の話、過去の海外捏造事件の事例で本書は終わる。

 

 12月、理研の調査委員会が記者会見で、小保方氏も参加した検証実験の結果では、STAP細胞は再現できなかったことが発表された。そして、故意にES細胞を混入した疑いが否定出来ないとした。誰がどのように混入したかは解明されず、理研は調査を終了。小保方氏は理研を退職した。(11月中旬に脱稿している為、12月の内容は本書に盛り込まれていない。)

 このSTAP細胞事件について、関係者とのメールや電話、面会など精力的に取材を進めた須田記者は、研究や論文のずさんさや、理研の対応のまずさを指摘し、STAP細胞作成においてES細胞が混入した可能性は、当初から十分に予想できたとしている。

 

 ★ ★ ★

 世界中を騒がせたこのSTAP細胞事件は、「世界三大研究不正事件」の一つとなってしまった。一つは米ベル研究所の若手研究者の高温超電導事件、もう一つは、ソウル大学教授のクーロン胚ES細胞事件で、10年ほど前のことでまだ記憶に新しい。

 著者の須田氏(写真)は、早稲田大学大学院卒業で、小保方氏の先輩になる。リケジョ(理科系女子)で物理専攻だったが、生命科学の専門知識の深さに驚く。こうでなければ、新聞社の科学記者としての取材は務まらないのだろう。

Book_img187

 
 STAP細胞研究を主宰した小保方晴子氏の評価は、聡明で研究熱心な努力家、初々しいリケジョだが、おしゃれ好きの普通の女の子だという。パッシングを受け始めると、一人責任を押し付けられた、かわいそうな女性研究者のイメージ。

 
 一言でいえば彼女は「ユニークな研究者」だろうが、それにしても単純ミスや倫理観のなさはあまりにもひどい。実験ノートの不備やアバウトさ、写真やデータの単純な取り違え、他文献の無断コピー等、同じような不正は学生時代の博士論文にも見られる。理科系の人間とは、到底思えない。

 研究者としての基礎的なトレーニングを受ける機会がなかったという弁解もあるが、STAP論文発表当時の小保方氏は30歳で、理研の研究ユニットリーダー。国立大学でいうと准教授にあたるそうだ。著者は、ある科学者の取材で「小保方さんは相当、何でもやってしまう人ですよ」との一言にドキリして、いつまでも頭に残ったという。故意だとすればなおさらだが、未熟さや過失だとしても、研究者としての資質が欠けているのではないだろうか。こんな人がよくぞ組織の中で評価され、周囲の人はその資質の問題に気がつかなかったのだろうか。共同研究者の若山教授、笹井氏、丹羽氏らは、どうして彼女の不正を見抜けなかったのだろうか、疑問が残る。

 STAP細胞事件は、研究の秘密保持を優先し、外部からの批判や評価を遮断した閉鎖的プロジェクトであった。朝日新聞の福島原発吉田調書の誤報問題のように、よくある極秘プロジェクトの弊害で、それと状況がよく似ている。

2015年1月20日 (火)

もう一つの維新史

 昨年11月にやっと思いついて、単行本『もう一つの維新史~長崎・大村藩の場合』 (新潮選書、1993/11発売) の中古品を購入。先日2015年1月15日に読み終えた。

 

 以前から読もうと思って気になっていた本だが、発売されて20年以上も経ち絶版になっていたようだ。著者の元長崎大学教授・外山幹夫氏は、一昨年の2013年(平成25)に80歳で亡くなっている。

Book_img169

 幕末、幕府直轄の長崎に近い大村藩の第12代藩主・大村純熈(すみひろ)は、蘭学に通じ、文武や学問を奨励した。また外国船の来航に備えて台場を築き、洋式軍備を導入したり、軍船を改良したりした。 

 当時、藩論は倒幕に傾きつつあった。しかし1863年(文久3)幕府は、外様の小大名・大村純熈を長崎奉行に任命するという異例の人事を行った。何度となく辞退を申し出たが、幕府から嫌疑をかけられないよう、その職に就く。しかし藩主の奉行就任により、家老を中心とした佐幕派が、台頭するようになる。

 翌年、純熈は病気を口実に長崎奉行を辞任、また「大村藩勤皇三十七士」の中心人物で藩学者の松林飯山らが暗殺されたのを機に、犯人探しが始まる。藩内の数十人にも及ぶ佐幕派を獄門、斬首、切腹させて一掃し、勤王派を重用する。

 そして他藩に先駆け、藩論を「尊皇攘夷」と決定し、藩主先導の倒幕運動を薩摩藩や長州藩と力を合わせて行動を起こしていく。戊辰戦争では会津、秋田にも出兵した。

 この功績を買われ、禄高2万7千石の小藩ながら、新政府より賞典禄3万石を与えられた。これは薩摩藩・長州藩の10万石、土佐藩の4万石に次ぐものであり、佐賀藩の2万石を上回っている。

 

 ★ ★ ★

 この本は、大村藩で起きた勤皇派による佐幕派の大粛清である「大村騒動」を中心に描いている。ただ、勤皇派による佐幕派の粛清というのは表向きの見方で、佐幕派というのは、藩内の旧来秩序を守ろうとした保守派であったり、軍事などの藩改革に消極的な人達であったりした。また藩主の跡継ぎ問題や藩内での特定個人の私怨が絡み合い、「佐幕派」というレッテルを貼って、排除していったと著者は言う。

 藩主の覚えがめでたく、尊王派の中心となったのは若手藩士の渡辺昇。剣客としても有名で、京都での活躍は一説では鞍馬天狗のモデルともされる。その藩主の意向を背に、その発言力、行動力、また反対派に対する剛腕ぶりはすごい。昇は、長州藩の桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文と親交を結び、薩長同盟のために尽力する。理由は病気だというが、戊辰戦争には参加してない。その兄の渡辺清は、薩摩藩の大久保利通、西郷隆盛らの信頼を得て、大村藩の討幕軍を率いて京都へ行き、新政府軍の参謀となっている。

 この勤皇派と佐幕派というレッテルが、粛清を実行した側「勤皇派」の者たちは、明治維新後の薩長派閥の政界で活躍する。渡辺昇は、やがて大阪府知事になる。兄の清は、福島県知事、福岡県知事を歴任。また勤王派の一人の楠本正隆は、東京府知事、衆議院議長を務めている。大村純熈は明治15年に死去したが、その後大村家は子爵を賜り、明治24年倒幕の功が認められて破格の伯爵に昇爵している。 

 

 ★ ★ ★

 別の資料によると、大村藩が尊王攘夷に早くから目覚めた一つは、ペリー来航より45年も前の1808年(文化5年)、長崎港にイギリス軍艦フェートン号が入り、オランダ人を人質にとるという「フェートン号事件」とも言われている。長崎奉行・松平康英は、これを追い払えなかったため切腹。この事件の警備を任された大村藩は衝撃を受け、外国に負けない近代化を図る必要性を感じたのだという。

 著者は史料に基づき、「もう一つの維新史」として、維新の裏側を暴き出した。どこかの国で、反対派を「反革命」として粛清した歴史と似ている。維新が必ずしも教科書のようなきれいごとではなかった。歴史とはこんなものか。またいつかどこかで繰り返すだろう。

 読んでいるうちに、大村藩は他藩に比べて長崎に近い地理的条件と、外様の2万7千石(実質は6万石ともいわれる)の小藩であったことから、藩主が革新的で藩論がまとまり易く、早い時期に藩主自らが尊王攘夷を唱えたこと。他藩では有能な下級武士たちが中心となったが、大村藩は家老を筆頭に有能な上級武士が勤王派を形成した。藩主の理解があったので、大村藩では脱藩をする者がいなかったこと、などの特徴が見えてきて面白い。ただ小藩ゆえに、薩長に並ぶほどの人材や、教科書に掲載されるほどの評価を受けなかったのは残念だ。

2015年1月13日 (火)

国立西洋美術館「ホドラー展」

 2015年1月11日(日)、上野の国立西洋美術館に行く。

 

 11:15、JR上野駅着。駅構内にある美術館チケット売り場で、「フェルディナント・ホドラー展」の当日券を購入。当日券、一般1,600円。

Hodlertichet

 駅構内ショッピングモール「エキュート上野」のレストラン「洋食や三代目たいめんけん」に少し早いが11:30頃入り、混まないうちに昼食。1,000円以上の食事会計で、チケットを見せれば1枚当たり100円引き。

 改札を出る前の駅構内に、こんなにいろいろと商業施設があったのか。上野駅にはたびたび来ているが、あまり気にしなかった。「エキュート」は、株式会社JR東日本ステーションリテイリングが、JR駅構内に開発・運営しているショッピングモール。そういえば、品川駅や大宮駅、東京駅の駅構内も、似たような施設になっている。

 

 国立西洋美術館「企画展」では、日本・スイス国交樹立150周年記念「フェルディナント・ホドラー展」が、昨年の10月7日(火)から開催中。

Img_2196

 12:10頃、国立西洋美術館「企画展」に入館。

Img_2170

 翌日の1月12日(月・祝)が「企画展」の最終日。館内整備のため、1月13日(火)~3月2日(月)の期間は全館休館するそうだ。正月休み明け1週間後の3連休とあって、大勢が並んでいるかと思ったが、それほどでもなかった。

Img_2195

 

 日本国内ではあまり有名な画家とは言えないフェルディナント・ホドラー(1853-1918年)は、スイスの首都ベルンで生まれで、象徴派を代表するスイスの国民的な画家。ホドラー展が日本で開催されるのは40年振りだそうだ。

 ベルン美術館をはじめスイスの主要美術館と個人所蔵の油彩・素描など、ホドラーの画家人生を追いながら、順次105点の作品を鑑賞。

 「バラのある自画像」1914年

Ferdinand_hodler_self_portrait2

 ホドラー自身の表現技法として、類似した形態の繰り返しによって絵画構成する「パラレリズム」(平行主義)や、身体の躍動や自然が織りなす生命感を生きた「リズム」として構成したという解説を読むと、作品からなんとなくそのイメージが伝わってくる。

 「オイリュトミー」1895年

Ferdinand_hodler_005

 「昼 I」1900年

Ferdinand_hodler_004

 「悦ばしき女」1910年頃、「木を伐る人」1910年 

Ferdinand_hodler_003 Ferdinand_hodler_010_2

 スイスアルプスの山々や湖など描いた風景画も多い。「ミューレンから見たユングフラウ山」1911年。

Ferdinand_hodler_002

 「シェーブルから見たレマン湖」1905年頃。

Ferdinand_hodler_001

 

 日本・スイス国交樹立150年記念催事として、国立新美術館(六本木)で「チューリヒ美術館展」も昨年12月15日(月)まで開催された。昨年の暮れに、そちらも観覧を計画していたが、残念ながら行きそびれてしまった。「フェルディナント・ホドラー展」との相互割引というのがあって、一方の観覧券(半券可)を提示すると他方の当日券が値引きとなった。

 

 ★ ★ ★

 「企画展」の後、「常設展」に入る。観覧料は、一般430円。但し、 企画展の観覧券で常設展も観覧できた。

 

 国立西洋美術館は、実業家・松方幸次郎氏(1865-1950)の「松方コレクション」の一部を保存・公開するため、1959年(昭和34)に開館した。

 中世末期から20世紀初頭にかけての西洋絵画と、ロダンを中心とするフランス近代彫刻を約4,500点が所蔵されている。特に、モネ(1840-1926)、ルノワール(1841-1919)、ゴッホ(1853-1890)らの印象派の作品が充実。

 これらの作品が、本館、新館、前庭で年間を通じて常設展示されている。

 特にモネの「睡蓮(すいれん)」1916年は有名。

Monet_water_lilies_1916

 なお晩年モネは「睡蓮」の連作を重ね、作品自体200点以上もあるため、世界各国の美術館に所蔵されている。

 ルノワール「アルジェリア風のパリの女たち」1872年。

Renoir_parisiennes_in_algerian_cost

 

 
 「世界遺産登録へ」の大きな看板を見つけた。「国立西洋美術館の本館は、ユネスコ世界遺産の候補に推薦されています。」という。

Img_2198

 フランス政府に押収されていた「松方コレクション」が、戦後日本に返還されるにあたり、その受け入れ先となる美術館の建設が必要となった。国立西洋美術館本館は、フランスを代表する建築家ル・コルビュジエが基本設計した。ただし現在の美術館は、その後改修・増築が加えられているので、建築当時のままではない。

 
 フランス政府は、世界遺産登録の前提となる暫定リストに、20世紀の近代建築運動に多大な影響を及ぼしたとして、「ル・コルビュジエの建築と都市計画」の建築作品群を記載した。世界各地に残るル・コルビュジエの建築作品のうち、フランスを中心とする6か国に残る物件(日本の国立西洋美術館本館を含む)が対象となっている。
 

 

 屋外(前庭)には、「松方コレクション」のロダン(1840-1917年)作品が展示されている。

 ロダンの「考える人」1880年と「弓を引くヘラクレス」1909年。

Img_2153_2 Img_2173

 ロダン「カレーの市民」1884-1888年。

Img_2167

 ロダン「地獄の門」1880-1917年と「アダム」1880年。

Img_2180 Img_2186

 企画展示館から本館、新館、前庭展示と、14:40頃に見終わる。2時間半くらいかかったことになるが、さすがに人混みの中の立ちっぱなしは疲れた。

 

 ★ ★ ★

 帰りに、良い天気なので上野公園の不忍池を30分ほど散策。日曜とあって相変わらず人出が多い。

 不忍池のボート場。杭の上には、海鳥のユリカモメもいる。

Img_2254

Img_2199

Img_2216

Img_2214 

 あちこちに、「エサやり禁止」の看板が立っているにかかわらず、相変わらず餌付けする心無い人をあちこちで見かける。

 
Img_2224

 自然のカモは太り過ぎて飛べなくなり、ハト、スズメ、ユリカモメや野良猫が増えたり、池の水質が汚染する・・・などの弊害があるそうだ。

 16:00頃JR上野駅に戻り、帰路へ。

 

 

 
 本ブログの関連ブログ「上野・谷中界隈」

 
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3a2a.html

« 2014年12月 | トップページ | 2015年2月 »

2023年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        

最近のトラックバック