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2014年12月10日 (水)

晩秋の甲州路-その2

 2014年11月30日(日)~12月1日(月)、1泊2日の甲州路の旅。

 甲府市とその周辺、笛吹市・甲州市・甲斐市の名所旧跡を巡る。 「晩秋の甲州路-その1」の続き。

 

 12月1日(月)、6:00起床。朝から小雨。7:55~朝食バイキング。

 9:10、石和温泉「ホテル新光」を出発。

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 国道140号線を北東へ向かい、9:35「恵林寺」に到着。

 

●ころ(枯露)柿の里

 甲州市のボランティアガイドを待つ間、恵林寺周辺の柿畑を見て回る。

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 9:50~ボランティアガイドの案内で、すぐ近くの「ころ(枯露)柿」の岩波農園の庭先に入る。

 一般の農家の軒先に干している柿は、無断で立ち入りできないが、ここ岩波農園は観光客を受け入れていて、吊るした柿やころ柿つくりの作業の様子を自由に見学、写真撮影できる。

 干し柿は全国各地で作られているが、甲州市の「ころ柿」は柔らかく上品な甘さがあり、最高級品とされているそうだ。

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 岩波農園の入り口には、「ころ柿の里ウオーキング 信玄の里コース」と書かれた以下のような説明板があった。

 「ころ柿という名は、柿を乾かす時まんべんなく陽が当たるようにころころ位置を変える作業をすることによるといわれています。
 武田信玄公の時代に奨励され、美濃の国から蜂屋(はちや)柿を移植して増産をはかったそうです。
 松里(まつさと)地区では、気象条件が適していることから、甲州百目(ひゃくめ、百匁)柿を中心にころ柿つくりが盛んで、十一月から十二月にかけて民家の軒先に吊るされた「ころ柿のすだれ」は、甲州を代表する風物詩です。」

 

●恵林(えりん)寺

 「恵林寺」は、山梨県甲州市塩山にある寺院で、山号は「乾徳山(けんとくさん)」。臨済宗妙心寺派の古刹。武田信玄公、柳沢吉保公の菩提寺として知られる。

 山号の乾徳山は、山梨県山梨市にある標高2,031mの奥秩父山塊の山。鎌倉時代1330年に「恵林寺」を開いた国師・夢窓疎石(むそうそせき)が修行したという。山には師が座禅をしたといわれる座禅石や髪剃岩、天狗岩などの奇石がある。

 

 恵林寺正面の総門(黒門)。大きく「雑華世界」と書かれた扁額は、先は静寂なる世界、外は喧騒なる世界という意。

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 参道から総門を振り返る。

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 参道を上がると「四脚門(通称赤門)」が現れる。この赤門は織田信長により全山焼かれた後、将軍・徳川家康によって再建されたもので、1606年の棟札が掲げられおり、国の重要文化財に指定。

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 赤門をくぐると、立派な庭園が広がる。

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 次の門を「三門」と称するのは、空門・無相門・無願門の三境地を経て仏国土に至る門、三解脱門を表すとされる。県の文化財に指定。

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  快川(かいせん)和尚が、中国の漢詩から引用した最期に残した言葉が、門の左右に掛けられている。

 「安禅不必須山水」 「減却心頭火自涼」

 安禅必ずしも山水をもちいず、心頭滅却すれば火もおのずから涼し

 座禅をして修業に励むには、必ずしも山や川を必要としない。暑いと思う心を消し去れば、火でさえ自然と涼しく感じられるものであるという意味。

 武田氏を滅ぼした織田軍は恵林寺に押し寄せ、かくまった者達を引き渡すよう快川和尚に命じた。しかし拒否されて怒った信長が、1582年(天正10年)三門に快川和尚はじめ約百人の僧侶らを封じ込め火を放った。

 三門のそばには、「天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場」の碑があり、快川和尚ら焼死した僧侶の遺骨が埋葬されている。

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 三つの門をくぐると、正面に「開山堂」がある。堂内には、夢窓国師、快川和尚、末宗和尚の三像が安置。

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 「開山堂」の庇(ひさし)の裏には、風神、雷神の彫刻がある。(堂に向かって立ち、見上げると逆さに見える。)

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 大庫裡(だいくり、僧侶の居住する場所・台所)。ここから拝観料300円支払って入館。

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 下の写真が本堂。本堂と大庫裡は明治38年に失火により焼失しており、築100年あまり。

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 本堂の中に入り、「うぐいす廊下」を抜けると、明王殿に「武田不動尊」が安置。

 信玄が、比叡山より大僧正の位を受けた際、京都より仏師の齊藤康清(こうせい)を招き、対面で本人の姿を模刻させたという等身大の不動明王。

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 1573年、53歳で亡くなった信玄公が眠っている「武田信玄公墓所」。以後、命日の4月12日には毎年供養が行われており、武田家臣の墓約七十基も墓所の後陣に並んでいる。

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 本堂から見る庭園(夢窓国師築庭)。国の名勝指定を受けている。

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 徳川幕府老中の柳沢吉保公と正室・定子の墓所もあるそうだが、確認できず。

 

 11:10、ボランティアガイド終了。休憩後、11:35恵林寺を出発。

 

 国道140号でもと来た道を戻り、国道411号を経て、国道20号(勝沼バイパス)沿いの笛吹市にある「権六」と「桔梗屋」へ向かう。

 

●権六と桔梗屋

 12:05、笛吹市石和町にある、ほうとう・そば処の「長寿村 権六」に到着。十割そば(天ざるそば) 1,200円、 辛み大根とおろしがね付。お惣菜がバイキング方式でいただける。

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 「桔梗屋」は、信玄餅で有名なお菓子の製造・販売会社。「長寿村 権六」のすぐそば(車で2~3分)、笛吹市一宮町にある。

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 工場見学ができ、敷地内にお菓子の美術館、お土産や、食事処、アウトレットの店がある。 アウトレットは、工場での規格外品や輸送中の破損品、賞味期限の近い品などが破格値で購入できる他、袋詰め放題がある。

 「長寿村 権六」は、桔梗屋グループの店。

 

 国道20号を北西に進み、県道616号を北上。雨が降ったり止んだりの変な天気だ。

 

●サントリーワイナリー

 14:40、甲斐市大垈(おおぬた)にある「サントリー登美(とみ)の丘ワイナリー」に到着。

 14:45~20分ほどゲストルームでワインについてのビデオ鑑賞のあと、ガイドツアー。

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 ぶどう畑の見学。すでに収穫が終わっている。遠くに甲府盆地を見下ろす。

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 半地下の貯蔵庫に入る。

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 樽に入ったワインと瓶のまま熟成させるラック。かすかにワインの香りがする。

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 この後、ワインのテイスティング、ショッピング。

 登美の丘からは、天気が良ければ富士山、甲斐駒ヶ岳、八ヶ岳、茅ヶ岳などが展望できる。

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 甲府の市街を見下ろす。

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 16:05、ワイナリーを出発。

 県道616号を経て、16:20韮崎ICから中央道を走る。自宅着18:45

 なお、「権六」と「桔梗屋」については、今年4月の本ブログ記事「甲州桜の名木と桃源郷」にも記述がある。

  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-27af.html

 

 

 ★ ★ ★

 戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名の武田信玄は、1521年(大永元年)に生まれ、俗名を晴信。幼少より禅僧に学び、後に快川(かいせん)和尚を恵林寺に招く。また好んで兵法を学んだ。16才の時元服。甲斐源氏の嫡流にあたる武田家第19代当主。

 先代・信虎の時代に武田氏は甲斐国内を統一、信玄もそれを継承して隣国の信濃に侵攻する。越後の上杉謙信と五次にわたる「川中島の戦い」を争いつつ、信濃をほぼ平定。甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領有し、北条と和し、越前の朝倉、近江の浅井や本願寺と結ぶ。将軍・足利義昭の意を受け1572年(元亀3年)、3万の大軍を率いて上洛の途につく。
 遠江国の三方ヶ原(現在の浜松市)に織田・徳川の連合軍を破り、更に三河の野田城を落とした時に病を発し、帰国途中の1573年(元亀4年)、信州駒場(現在の下伊那郡阿智村)で死去した。享年53歳。

 信玄の死により、勝頼が家督を相続。領国を更に拡大するが、1575年(天正3年)長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗したことを契機に衰退、やがて平安時代から続く甲斐武田氏は滅亡した。

 

 信玄は、稀有の軍略家、智略家であり、民政家でもあった。仏教に深く帰依、大僧正の位を受けた。

 

 
 信玄は、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」

 疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如し、侵掠(しんりょう)すること火の如く、動かざること山の如し

の句を旗指物(軍旗)して掲げた。中国の兵法書『孫子』を部分的に引用したものだそうだ。また「風林火山」という通称は、現代の創作で井上靖の歴史小説『風林火山』が最初とされる。

 武田氏の戦略・戦術を記した軍学書で、江戸時代に書かれた『甲陽軍鑑』には、

 「人は城、人は石垣、人は掘、なさけは見方、あだは敵なり」

が信玄の言葉として紹介されている。後世の創作なのか、本当に信玄のものなのかどうかは定かではないが、信玄の軍事・政治の哲学を如実に表現している。

 

 「恵林寺」本堂で見た「武田不動尊」が造られたのは、信玄が30歳前半の頃と伝わっている。京都の仏師・康清を招いて、自分の姿を対面して模刻させたという。坐像の高さ92cmは信玄の等身大といわれる。自分の仏像を作ることは、その仏像と自分を同化させることである。仏像を彫っている最中、信玄は剃髪して、その毛髪を漆に混ぜて、仏像の胸に塗りこめて、彩色したと言われている。

 
 最初は、不動明王を造るつもりはなくて、本人が存命中に肖像彫刻として残すつもりだったようだ。ところが、仏師が彫っていくと、不動明王になったという言い伝えがある。その時の信玄の気迫を仏師が感じ取って、不動明王にしたのではないかと想像されている。

 

 もし信玄が病死しなかったら、天下は信玄と信長の全面対決になったであろう。そして、どちらが勝っても、その前に家康は信玄に滅ぼされていたであろうから、徳川時代は存在しなっかったはずだ。

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