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2014年11月28日 (金)

紅葉の平林寺

 2014年11月26日(水)、小雨の中、紅葉の美しさで知られる「平林寺(へいりんじ)」に行く。

 

 「平林寺」は、埼玉県新座市野火止にある臨済宗の禅寺。山号は「金鳳山」。広大な約13万坪(43万㎡)の境内地の雑木林は、開発されていく武蔵野にあって、いまだにその面影を残す自然として1968年(昭和43)に国の天然記念物に指定。クヌギやコナラ、モミジなどが生い茂り、四季折々に美しさを見せる。

  南北朝時代の1375年(永和元年)に現在のさいたま市岩槻区に創建。1663年(寛文3年)に川越藩主松平信綱の遺言によって、子の輝綱が菩提寺としてこの野火止の地に移した。

 

 東武東上線の志木駅南口からひばりヶ丘駅行き西武バスで約15分、平林寺バス停下車。

 13:40頃入門、拝観料500円。

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 本堂まで一直線に配置された総門、山門、仏殿、中門は県指定の有形文化財。残念ながら、山門、仏殿はちょうど改修工事中だった。

●総門

  正面には「金凰山」の扁額が掛けられている。境内から総門を振り返る。右手の建物が、拝観受付。

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 ●山門 

 工事中の山門。ネットで覆われている。左右には金剛力士像を配し、楼上に十六羅漢像を安置されているそうだ。正面には「凌霄閣」の扁額が見える。

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●経蔵(きょうぞう)

  経蔵は、教典を収蔵してある建物。

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●仏殿

  フェンスで囲われて工事中の仏殿。中央の仏壇には釈迦、阿難、迦葉の三尊像が安置されているという。

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●鐘楼

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●中門とその先の本堂 

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  本堂に安置されている本尊は、松平信輝寄進の釈迦如来坐像。

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●本堂周辺の建物

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 遊歩道に沿って歩く。

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●大河内松平家歴代の墓

 源氏の流れを引く三河国の大河内氏は、大河内信貞のとき徳川家康に仕えた。孫の正綱の代に徳川氏一族の長沢松平家の養子となって松平姓を与えられ、以後は大河内松平家となった。大河内松平家歴代の廟所は、約3,000坪もある。

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 その大河内松平家の廟所の中に、松平信綱夫妻の墓(埼玉県指定史跡)がある。

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 「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守信綱(1596~1662)は、武蔵国の忍(おし)藩主、川越藩主で、三代将軍家光の老中を務め、島原の乱の鎮圧、幕藩体制の確立など多くの功績を残した。川越藩政においては、城下町の整備、武蔵野の新田開発、川越街道の整備、新河岸川の舟運整備、野火用水(別名:伊豆殿堀)開削などの基礎固めを行った。

●島原の乱戦没者供養塔

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 松平信綱は、1637年(寛永14年)にキリシタン天草四郎らが大反乱を起こした「島原の乱」を、幕府軍の総大将となって平定した。反乱した3万数千人の老若男女を死に至らしめたが、鎮圧する幕府側の死者は数千人だったといわれている。

 この塔は、「島原の乱」から200年が経過した1863年(文久3年)に、犠牲になった鎮圧側死者のため、松平家が遠忌供養を行った際、三河国吉田藩の家臣大嶋佐源太が建立したもの。信綱の墓からほど近いところにある。ただし、この供養塔は死者の供養のためだけではなく、大河内松平家・信綱の功績を後世に残す記念碑的な意味もあったらしい。

●野火止用水(のびどめようすい)の平林寺堀。

 新座市内の史跡公園で野火止用水は、平林寺堀として右へと分流、本流の東を通って平林寺内を貫き、新河岸川へと流れ込む。平林寺堀は、1728年(享保13年)に分水されたとされる。水は流れていなかった。

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 幕府老中で上水道工事を取り仕切っていた松平信綱は、江戸の飲料水不足を解消するため、多摩川の水を羽村から武蔵野台地を通し四谷までの全長43Kmの「玉川上水」を難工事の末に完成させた。その後、玉川上水から領内の野火止(新座市)への分水が許され、1655年(承応4年)に家臣に命じ、「野火止用水」(全長25Km)を作らせた。主に飲料水のほか、雑用水や灌漑用として利用された。

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●野火止塚(九十九塚、つくもつか)

 小さい小山の「野火止塚」は、火を放って獲物を追い出す狩猟か、焼畑の場合に利用しあたのかはっきりしないが、野火の監視台であったらしい。この種の塚は、古くからこの平野のあちこちにあって、その名残りを留めている。「野火止」という地名の由来を今に伝える貴重な遺構である。

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●業平塚(なりひらつか)

 説明板によると、 次のように書かれている。

 在原業平が京より東国へ東くだりの折、武蔵野が原に駒を止めて休んだという伝えがある。江戸名所図会によると、野火止塚(九十九塚)と同じく、古へ野火を遮り止むるために築きたりしものなるべきを後世好事の人、伊勢物語によりて名付けしなるべし。塚上石碑を建てて和歌の一首をちりばめたり。その詠にいはく『むさし野にかたり伝へし在原のその名を忍ぶ露の小塚』とあるが、この歌碑は今はない。

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●歴代塔所(れきだいたっしょ)

 平林寺を開山した石室善玖(せきしつぜんきゅう、1294-1389)禅師のほか、歴代住職の墓が並ぶ。

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 16:00頃、平林寺を退場。雨は止まない。

 以前から平林寺の紅葉に行く機会を逸していた。この日は終日雨だったが、やっと実現。紅葉の素晴らしさに圧倒された。気温は10℃前後で、師走並みの寒さ。それでも、観光客やアマチュア写真家が三々五々と来場していた。

 2009年11月、天皇皇后両陛下がこの寺を訪問し、紅葉の境内を散策されている。

 

 ★ ★ ★

  関東の名刹といわれる「平林寺」には、老中であり幕府軍の総大将として島原の乱を鎮圧した松平信綱の墓があること、「島原の乱供養塔」があることは、4年前に初めて知った。

 「島原の乱」の悲劇には大変興味があって、以前いろいろ調べているうちに、この乱が複雑な要因で起きていて、昔教科書で習ったようなイメージとは違っている。この反乱は、宗教戦争や宗教弾圧だけでない側面がある。

 島原藩主でキリシタン大名だった有馬晴信が幕府のとがめを受けて転封され、その代わりに来た藩主松永氏に対する反乱ともなっている。飢饉と過重な年貢に対する農民一揆に、武士から農民になっていた有馬氏の家来たち、昔キリシタン大名小西行長に仕えていた遺臣の浪人たち、元来の島原・天草に土着していた豪族などが加わっている。総大将の天草四郎は「神の子」と祭り上げられているが、ローマ教会が認めた正式な指導者ではないので、ローマ教会はキリシタンを装った農民一揆だとしている。

 カトリックでは、殉教者を「福者」とか「聖人」と呼んでいるが、反乱軍に参戦したキリシタンは現在に至るまで殉教者としては認められていない。反乱軍は、ポルトガルやイスパニアからの援軍を待って篭城したが、松平信綱はプロテスタントのオランダと手を組み、艦砲射撃をさせたという。

 後世に建てられた「島原の乱供養塔」は、近代の博愛の精神が江戸時代にあったのかと一瞬驚いた。しかし実際には、幕府軍側の死者を供養するもので、しかも信綱の鎮圧の功績を讃えるものであったことは、残念ながら納得できる。

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コメント

雨の日の紅葉いいですね。いい写真がたくさんありますが、「遊歩道に沿って歩く。」の2枚目と「●野火止用水(のびどめようすい)の平林寺堀。」の3枚目、6枚目が好きです。以前、子供が三芳町に住んでいたのでよく行ったのですが、すぐ近くにこんな良いところがあったのですね。

>sam様
コメントありがとうございます。
雨でしっとりした紅葉も良かったです。また機会を見て、晴れの日に行ってみたいと思います。

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