尾島ねぷたまつり
2014年8月15日(金)、群馬県太田市の「尾島ねぷたまつり」に行く。
太田市は、「ねぷたまつり」で有名な青森県弘前市と姉妹都市。
第36回「尾島ねぷたまつり」は、8月14日(木)、15日(金)に開催された。会場は、国道354号線の尾島商店街大通り、尾島交差点を中心に約1km。
尾島町は、群馬県南東部の新田郡にあった町。2005年(平成17)、旧太田市、新田郡新田町、藪塚本町(やぶつかほんまち)との合併により新しい太田市となった。旧太田市は中島飛行機、その後身の富士重工業の企業城下町として発展してきた。
かつて尾島の地は、弘前藩の初代藩主・津軽為信が関ヶ原の戦いの功績によって加増を受けた飛び地であった。尾島町は、弘前市と1985年(昭和60)に交流を始め、翌年から弘前市にならって「ねぷたまつり」が始まった。1991年(平成3)に弘前市と友好都市提携を締結、現在も太田市に受け継がれている。今年のまつりは、合併10周年記念として銘打っている。
午後5:10頃現地に着くと、消防音楽隊の演奏が始まっていた。
まつりには、ねぷたまつり実行委員会、太田市民ねぷた会、上州ねぷた会などの団体や、地元企業の三菱電機群馬製作所、大澤建設、群馬銀行、ぐんまみらい信用組合などが参加。「弘前ねぷたまつり」の約80台には及ばないが、大通りには、10数台の「扇ねぷた」と「ねぷた太鼓」がスタンバイしている。
午後5:30~出陣セレモニーの後、津軽三味線の全国大会覇者・渋谷和生氏(弘前市)らの演奏。
ねぷたの運行は、午後6時30分から始まった。参加団体ごとに、扇ねぷた、ねぷた太鼓、ねぷた囃子の隊列が行く。
会場には数多くの露店が並び、「津軽大物産市」のテントにも大勢の客でにぎわっている。ねぷたの運行の合間に、生ビール400円、焼きそば400円で腹こしらえ。
盛り上がるにつれ次第に見物客も混み合って、自由に身動きができなくなる。例年、2日間で10数万人の人出だそうだ。まつりは午後10時迄だが、8時頃になって帰ることにする。
なお、毎年8月1日~7日に開催される「弘前ねぷたまつり」は、今年8月5日に参加者がねぷたの昇降機に頭を挟まれる死亡事故が発生、翌日以降の開催は中止となった。
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平安時代の末期、武家の棟梁と称された源義家(八幡太郎)の孫・義重は、この尾島の地を中心とした「新田の荘」を開き、 新田氏を興した。義重の子・義季(よしすえ)が、尾島の一部(新田郡・世良田庄・得川郷)を領有し、世良田または得川を名乗った。
鎌倉幕府の源頼朝の曽祖父・義親(よしちか)と、義国とは兄弟。その義国の長男・義重が新田源氏の始祖となり、次男の義康が足利源氏の始祖となった。いずれも八幡太郎義家の血筋を引く、清和源氏の名門。その新田氏は、上野国(こうずけのくに、群馬県)、足利氏は下野国(しもつけのくに、栃木県)を本拠とした。鎌倉後期から活躍した新田義貞や足利尊氏は、彼らの一族。
鎌倉幕府滅亡後、義季の末裔・親氏(ちかうじ)は、南北朝の抗争で足利幕府の迫害を受けて出家し、流浪の旅の後、三河国(愛知県)加茂郡松平郷に流れ着いた。領主の在原信重の婿養子となって、松平姓を名乗ったと伝えられる。
松平親氏の後裔である家康は、1566(永禄9)年に松平姓から、徳川姓に改姓した。その後、尾島の世良田・徳川は「徳川氏発祥の地」として、江戸幕府の庇護を受けるようになった。
なお、新田義季の末裔・親氏の話は、源氏の血筋とするため、家康や祖父・清康によって家系図ねつ造のため作られたというのが通説となっている。
笹沢左保の小説「木枯し紋次郎」は、1972年よりフジテレビでドラマが放映され、人気を博した。渡世人となった紋次郎の故郷である上州新田郷三日月村は架空の地名だが、現在の太田市藪塚町(旧新田郡藪塚本町)の辺りとされている。この三日月村を再現したテーマパークが1998年(平成10)にオープン、笹沢左保の資料を展示した「木枯し紋次郎記念館」などがある。
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