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2014年3月の2件の投稿

2014年3月28日 (金)

渡良瀬遊水地

 2014年3月25日早朝、栃木県の「渡良瀬遊水地」に行く。

 

 まだ真っ暗い深夜自宅を車で出て、5時15分ころ渡良瀬遊水地(わたらせゆうすいち)に着く。午前中の天気予報は曇り、日の出は5時40分ごろ。水平線近くは厚い雲に覆われていて、日の出を見れそうにない。

 5:35、水路の前で下車。東の空は明るくなっているが、まだ日の出前。

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 小舟や網は、コイ、フナ、ナマズなどの漁に使われているらしい。

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 5:40、日の出の時刻。太陽は厚い雲に隠れている。

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 6:00頃、雲から太陽が出始めて、東の空は朝焼けとなる。

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 雲がなければ、太陽の出る真東の方向に、筑波山が見えるはずだが。

 

 渡良瀬遊水地は、埼玉・栃木・群馬・茨城の4県にまたがる面積3,300ha、周囲約30kmの日本最大の遊水地。遊水地の大半が、栃木県栃木市の旧藤岡町に属している。

 広大な草原は、足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿、無害化することを目的に、渡良瀬川下流で思川(おもいがわ)と巴波川(うずまがわ)の2つの川が合流する地点の湿地帯全体を堤によって囲んでいる。

 遊水地には、一部にゴルフ場が造成されている場所(下の写真、6:50頃撮影)もあるが、緑豊かな広大なヨシ原が広がっている。そこには多数の動植物が生息しており、2012年(平成24)にラムサール条約に登録された。

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 渡良瀬遊水地のヨシの野焼きは有名。東日本大震災の影響で中止となっていたが、昨年から再開。ヨシ原を焼き尽くす豪快な炎と煙を観ようと、県内外から数千人におよぶ見物客が訪れる。堤防の上には、カメラの三脚が林立するという。今年は、3月15日に行われたばかりで、ヨシ原は一面が黒く焼け焦げている。

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 遠くに朝霧が漂っている。

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 6:16、水蒸気が沸き立つ湖面に、朝焼けが映える幻想的な風景。

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 6:21、陽が昇りあたりはすっかり明るくなってきた。この辺りのヨシは野焼きされてない。

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 ★ ★ ★

  日本初の公害・足尾鉱毒事件に対しては、小中(こなか)村(現在の栃木県佐野市小中町)出身の自由民権家で衆議院議員・田中正造の農民運動が有名。鉱毒問題を繰り返し国会で告発し、渡良瀬川沿いの人々を救うため努力するが、ついに議員を辞して1901年(明治34)明治天皇に直訴した。

 明治末期の谷中(やなか)村は、現在の遊水地の3分の1程度を占め、多いときで約2,500人が暮らしていた。政府は、発生元の根本的解決なしに、鉱毒が渡良瀬川-利根川-江戸川-東京へと及ばないように、鉱毒で荒廃した土地の遊水地計画を決定。正造は谷中村に移り住み、廃村に追い込まれる谷中村を救おうと、農民とともに村の遊水地化に反対し、村の再建に取り組む。

 村民の移転が進められ、1906年(明治39)に谷中村は強制廃村となる。最後まで抵抗した家屋16戸は、強制執行で破壊されたという。闘い続けた正造は、1913年(大正2)71歳で世を去った。

 

 ★ ★ ★

 今年の1月18日と25日、二夜に渡って放送されたNHK土曜ドラマ『足尾から来た女』を視聴した。谷中村で生まれ育った女性を主人公にしたドラマだが、渡良瀬川上流の足尾と下流の谷中村は、直線でも50Kmほど離れている。テーマがわかりやすいように、NHKでは「足尾から来た・・・」というタイトルにしたそうだ。

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    (写真は、NHK土曜ドラマ『足尾から来た女』のホームページより)

  鉱毒被害を受ける谷中村の農民の娘・新田サチ(尾野真千子、写真左)は、田中正造(柄本明、写真中)の紹介で、故郷を捨てて東京の社会運動家・福田英子(鈴木保奈美、写真右)の家政婦に雇われる。読み書きもできないサチは、見知らぬ土地で、英子を通じて石川三四郎、幸徳秋水ら社会主義者たち、石川啄木、与謝野晶子らの作家たちと知り合い、歴史の渦に翻弄される。

 史実を基にドラマ化されているが、主人公が英子や正造に助けられながら、挫折を乗り越え成長し、たくましく生きていく姿を描かれていた。足尾鉱毒事件の明治末期の時代背景が、よくわかって勉強になった。故郷の谷中村に帰って来たサチに、権力と闘う田中正造が、未来に向かって生きて行けと励ますラストシーンは、胸が熱くなる。

 

 ★ ★ ★

  北西方向の山並みは、大坊山(だいぼうさん、標高285m)や大小山(だいしょうやま、282m)など足利、佐野の低山だろうか。その奥には赤城山、右手(北)の方には日光連山もあるようだが、曇っていて見えない。

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 堤防の上から同じ方向を望む。

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 6:34、バルーンが上がり始めた。

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 こんな並木道もある。

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 スピーカーらしき物を備えた構造物は何だ?

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 渡良瀬遊水地は、広大なヨシ原と南端には大きなハート型をした「谷中湖」、別名「渡良瀬貯水池」がある。谷中湖は、コンクリート張りの人造湖で、洪水調整や渇水に備え水を貯めていて、生活用水・農業用水などに利用されているが、ウォータースポーツやサイクリング、釣りなども楽しめる。谷中湖周辺は、野鳥観察の展望台、バーベキューガーデンなどもあり、花火大会やバルーンフェスティバルなどの各種イベントやスポーツ大会も開催されている。

 また、谷中湖北側の史跡保全ゾーンには、廃村させられた谷中村の水塚や役場跡、雷電神社跡、延命院跡、谷中墓地など史跡が残されている。

 今回は、早朝の風景を見るため、1時間半~2時間程度の滞在で、渡良瀬遊水地のほんの一部を垣間見(かいまみ)た。ほかに興味深いエリアがたくさんあって、機会があればまたゆっくり来てみたい。

Photo

2014年3月12日 (水)

奥武蔵・大霧山

 2014年3月8日(土)、奥武蔵の大霧山(標高767m)に登る。

 

  「奥武蔵」とは、武蔵野の奥、または武蔵の国の奥地という意味。奥多摩の北側、奥秩父の東側の地域をいう。

 埼玉県の西側にある秩父盆地は、北側に上武山地、南・西側に奥秩父山地、東側に外秩父山地という3つの山地が取り囲んでいる。この「外秩父山地」は、標高1,000m以下の低山の山地で、関東平野の西縁である南北に走る「八王子構造線」(地質学上の構造線、JR八高線と並行に走る)に接する。毎年4月に、約5,000名が参加して開催される「外秩父七峰縦走ハイキング大会」は有名。

 

 「大霧山(おおぎりやま)」は、狭くは外秩父山地に位置し、「外秩父七峰」の一つで、標高は766.6m。笠山837m、堂平山876mと合わせて、比企三山とよばれる。その山容は美しく、山頂から秩父方面が一望、両神山や上越の山々、遠く浅間山も望める。コースは、旧定峰峠、秩父高原牧場、粥仁田(かゆにた)峠を通る。

 山に囲まれた秩父は、養蚕が盛んで生糸や絹織物の運搬、また秩父34か所の霊場巡りのため、秩父往還は秩父地方と江戸や甲州、上州など他国を結ぶ街道で、いくつかのルートがあった。その中の、東秩父村と秩父地方を結ぶ三つの峠越えルートにある二本木峠、粥仁田峠、旧定峰峠を「秩父往還三峠」というそうだ。

 

 ★ ★ ★

 東武鉄道東上線の小川町駅前に集合。9:05発のイーグルバス、白石車庫行(小川-東秩父間の路線バス)に乗車。

 バスは、荒川の支流である槻川(つきかわ)に沿って、上流に向かう。土曜日とあって乗客のほとんどは、ハイカー。東秩父村の「和紙の里」(約1,300年の伝統を有する手漉き和紙の見学・体験施設)を経由して、9:40白石車庫バス終点の3つ手前「経塚バス停」で下車(600円)。ここは、旧定峰峠の登山口で、標高320mくらい。

 

 登山口からいきなり積雪の上を歩く。この道は舗装路だが、除雪してなく車や人が通った形跡もない。先月中旬に降った大雪が融けて固くなってはいるが、深さは20cm以上はある。

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  やがて道は 行き止まりになって間違いに気づき、200~300m戻る。雪道にある分岐の小さい道標を見失っていた。登山道は、杉林の狭い山道となり、雪は深くなる。

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  雪で足を取られながら、登山道を登る。途中で少し林道を歩いた後、登山口から1時間40分後の11:20、「旧定峰峠」に到着する。

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 ここで、5分ほど休憩。この急な狭い峠を昔、牛馬の荷駄も通っていたという。近くに「ダイラボッチの伝説」の説明板あり。

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 ダイダラボッチは、日本各地に残る伝承上の巨人。山や湖沼を作ったという内容が多いことから、元々は国づくりの神であったのではないかとも言われている。

 

 ここからは尾根に沿って、急坂を登る。積雪のため登山道がわからなくなる。杉の木に巻き付けられた赤いテープの目印を目標に進む。目印に従って行くと、急坂を100~200m下っていた。おかしいと気づいて、元の位置に戻り、コンパスで進路を修正。

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 峠から20分後の11:55、地図上にある「檜平」と思われる開けたポイントに出る。

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 やがて、秩父高原牧場の有刺鉄線に沿って、陽当たりの良い緩やかな登りとなる。

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 牧場の向うに、中央の笠山(837m)とその右手に天体観測ドームのある堂平山(876m)が見える。

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 以下は、笠山と堂平山のズームアップ。

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 後方に石灰岩採掘により変容した武甲山(1,304m)の北斜面が見える。

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 一旦急坂を下った後、最後の急坂を登るともうすぐ山頂。

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 12:30、大霧山の山頂に到着。さほど高い山ではないが、山頂は開けている。天気も良く、武甲山、両神山、冠雪の浅間山、赤城山、日光連山など素晴らしい眺望。

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 山頂から南西方向。左手中望に武甲山。中央遠望は、雲取山などの奥多摩方面、右下は秩父市街地。

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 真西側。独特な山容の両神山のズームアップ。右手遠くに北八ヶ岳。眼下は秩父市街。

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 北西方向。左手遠望の真白に目立つ山は、浅間山。その手前近望の残雪のある低い山は、皆野町の美ノ山公園。その右手中望の低い山が宝登山で、更に右に長瀞町の市街地。右手遠望は、榛名山などの上州の山々と高崎・前橋市街。中央近望の小山は、秩父高原牧場の一部。

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 真北方向。左手遠望は赤城山、遠く伊勢崎、本庄の市街地。右手遠望に日光連山。手前の低い山々は、外秩父七峰の登谷山・釜伏山がつながり、右手前に寄居町の市街地が広がる。

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 昼食後、13:05下山開始。下りは、スパッツや軽アイゼンを装着。滑りそうな雪の下り坂を注意しながら下る。

 1時間半後の13:37、舗装された林道にぶつかるところが粥仁田峠。あずまやがある。

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 粥仁田峠は、「粥新田峠」とも書かれていて、「かゆにた」、「かゆにだ」とも読むが、地元の人は「かいにた」と言うらしい。粥仁田の由来は、前述の「ダイダラボッチの伝説」もあったが、別説では平安初期、後に征夷大将軍となった坂上田村麻呂が京から東征の折り、この峠で粥(かゆ)を煮て食べたという由来がある。

 

 ここで、5分ほど小休止。峠から250m先の分岐で、積雪のある登山道を避け、舗装された林道を南へ下る。ここの林道は除雪してあって歩きやすいが、所々凍結しているので、注意。

 この林道が長い。なかなかバス停に着かない。栗和田集落を経て橋場バス停へ下る予定だったが、朝日根集落を経て皆谷方面に遠回りしていた。

 14:50、皆谷バス停に到着。14:44発に間に合わず、次発の路線バスを50分ほど待つ。15:38発のバスに乗車して、16:05小川町駅前に到着(490円)。

 駅前の食事・酒処の「いわた家」で、2時間ほど打ち上げ。小川町駅18:14発の東武東上線の快速急行・池袋行に乗車し、帰路へ。

 
 所要時間は約4時間、登りの標高差は約450m。全歩程(歩数計換算)は約11Kmだった。

 

   
 ★ ★ ★   

 先月15日の記録的な大雪で、登山道はにほとんど残雪が続いていた。雪に足を取られたりして、けっこう足腰を消耗。帰りの林道は除雪してあったが長かった。
 

 この日は、冬型の気圧配置だったが、天気は晴れ。東秩父の最高気温は10℃程度だった。雪が残っていたが、思ったより寒くなくて、汗ばむほど。山頂からの見晴らしも満足。計画してくれた幹事に感謝。

 

 この数年間の奥武蔵の低山ハイキングの計画・実績は、次の通り。

  2010年2月23日 官ノ倉山(344m) 

       3月20日 二子山(883m)

  2011年2月13日 長瀞アルプス~宝登山(497m)

       3月19日 堂平山~笠山 東日本大震災(3.11)により中止。

  2012年3月17日 堂平山~笠山 雨により中止。

  2013年3月30日 雨の中、剣ヶ峰(876m)~堂平山(876m)。笠山(837m)は断念。
             ただし、筆者は所用により不参加。

  2014年3月 8日 大霧山(767m)

 

 関連ブログ記事「奥武蔵・堂平山~笠山」(2012年3月17日)

  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-2d20.html

 

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